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ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/680.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 19 日 08:01:40: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか?


これは本来 女性が弾く曲なんでしょうね


Maria Grinberg - Beethoven - Piano Sonata No 18 in E flat major, Op 31, The Hunt - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=dolbE98BhgE
https://www.youtube.com/watch?v=UfwKinLAfas


Ludwig van Beethoven
Piano sonata n°18 op.31 n°3

I. Allegro 0:00
II. Scherzo. Allegretto vivace
III. Menuetto, moderato e grazioso
IV. Presto con fuoco

Maria Grinberg
Studio recording, Moscow, 1966

▲△▽▼


Clara Haskil plays Beethoven Sonata No. 18 in E flat Op. 31 No. 3 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=9pc29IeStnw

I. Allegro 0:00
II. Scherzo. Allegretto vivace 8:25
III. Menuetto, moderato e grazioso 13:15
IV. Presto con fuoco 17:28

rec. 1955


▲△▽▼
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しかし何故かマエストロはみんなこの曲がベートーヴェンで一番好きなんですね:


ヴィルヘルム・バックハウスは1969年のリサイタルでこのピアノソナタの第3楽章を演奏中に心臓発作を起こし、それが彼の最後の演奏会となった。


Wilhelm Backhaus plays Beethoven Sonata No. 18 in E flat Op. 31 No. 3 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=EuU8eRbcICU

1. Allegro
2. Scherzo - Allegretto vivace (8:08)
3. Menuetto - Moderato e grazioso (13:08)
4. Presto con fuoco (16:57)

live, 1969

___


Wilhelm Backhaus - The Last Recital - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=F1jjB7TrS1E&list=PLHnKbipAC6Q06WxBT4eONnTr9KxaF_cC5&index=2

Wilhelm Backhaus - The Last Recital (Live Recording) (Complete)

Stiftskirche - Ossiach (Carinthia, Austria) - June 28, 1969

Mozart, Beethoven, Schumann, Schubert

W. A. Mozart : Piano Sonata in A Major, K331
- 01. Tema. Andante Grazioso con Variazioni
- 02. Menuetto
- 03. Rondo alla Turca : Allegretto

Ludwig van Beethoven : Piano Sonata No. 21 in C major, Op. 53 “Waldstein”
- 04. Allegro con brio
- 05. Introduzione : Adagio molto
- 06. Rondo : Allegretto moderato - Prestissimo

Franz Schubert
- 07. Impromptu in A-flat major, Op. 142 No. 2 (Allegretto - Trio)

Ludwig van Beethoven : Piano Sonata No. 18 in E-flat, Op. 31 No. 3
- 08. Allegro
- 09. Scherzo (Allegretto vivace)
- 10. Menuetto : Trio (Moderato e Grazioso)

Robert Schumann
- 11. Fantasiestucke Op. 12 No. 1 (Des Abends sehr innig zu spielen …
- 12. Fantasiestucke Op. 12 No. 3 (Warum? Langsam und zart)

Franz Schubert
- 13. Impromptu in A-flat major, Op. 142 No. 2 (Allegretto - Trio)

▲△▽▼


Beethoven Piano Sonata No. 18 in E-flat major, Op. 31 No.3 - Artur Schnabel - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ryGsfqUIDtI

0:00 Allegro
8:24 Scherzo. Allegretto Vivace
13:11 Menuetto. Moderato e grazioso
17:23 Presto con fuoco

Played by Artur Schnabel


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Arthur Rubinstein Beethoven Piano Sonata No.18 op.31 No.3 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Vei50dsvlDA

Ludwig van Beethoven 1770-1827
Piano Sonata No.18 in E flat major op.31 No.3 "The Hunt"
00:00 I. Allegro
09:36 II. Scherzo. Allegretto vivace
14:45 III. Menuetto. Moderato e grazioso
19:50 IV. Presto con fuoco
Arthur Rubinstein


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beethoven Piano Sonata No. 18, Nat (1955) ベートーヴェン ピアノソナタ第18番 ナット - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ImSo5YSQuIQ


Ludwig van Beethoven (1770-1827)
Piano Sonata No. 18 in E-flat major, Op. 31, No. 3 (The Hunt)

(00:05) 1. Allegro
(08:03) 2. Scherzo: Allegretto vivace
(13:00) 3. Menuetto: Moderato e grazioso
(16:25) 4. Presto con fuoco

Yves Nat (1890-1956), Piano
Rec. October 1955, at Salle Adyar, in Paris


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Beethoven - Piano sonata n°18 op.31 n°3 - Richter Prague 1965 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kQTqGSYqQLQ

Ludwig van Beethoven
Piano sonata n°18 op.31 n°3

I. Allegro 0:00
II. Scherzo. Allegretto vivace 9:00
III. Menuetto, moderato e grazioso 13:28
IV. Presto con fuoco 17:56

Sviatoslav Richter
Live recording, Prague, 6.II.1965

___


Beethoven - Piano sonata n°18 op 31 n°3 - Richter Moscow 1965 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=bx8qYijU_X4

Ludwig van Beethoven
Piano sonata n°18 op.31 n°3

I. Allegro 0:00
II. Scherzo. Allegretto vivace 9:11
III. Menuetto, moderato e grazioso 13:48
IV. Presto con fuoco 18:22

Sviatoslav Richter
Live recording, Moscow, 10.X.1965

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Beethoven - Piano sonata n°17 op.31 n°2 - Richter studio - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=qeL3tAb7yV4

Ludwig van Beethoven

Piano sonata n°17 op.31 n°2
I. Largo - Allegro 0:00
II. Adagio 9:27
III. Allegretto 16:45

Sviatoslav Richter
Studio recording, London VIII.1961


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ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3
2014 AUG 24 22:22:14 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/08/24/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%98%E7%95%AA%E5%A4%89%E3%83%9B%E9%95%B7%E8%AA%BF-%E4%BD%9C/


バッハの平均律をピアノの旧約聖書、ベートーベンの32曲を新約聖書という人がいます。ベートーベンが「キリストは単に磔(はりつけ)にされたユダヤ人」と言い放ったからではありませんが、僕は彼の音楽に宗教的な辛気臭さを感じません。第九の歌詞からも彼は天上の神を信じていたと思いますが、自分の生の声を天上ではなく地上の民へ向けて書きました。聖書に関係のない我々にも、なん百年たっても色褪せることなく開かれた音楽と思います。

この変ホ長調ソナタが大好きな僕は9曲の交響曲の第8番に当たるものという感じで聴いています。ビールのCMではないですが「深刻度ゼロ%」。ベートーベンの書いた音楽でこんなに明るい、全曲にわたってノリまくってはしゃいでいるものはひとつもありません。いったい彼に何起きたんだと心配になるほど。どうしてといって、陽性の交響曲第7番の後に書かれた8番と違い、この18番はハイリゲンシュタットの遺書を書いたころに出来ているのです。謎めいています。

18番は04年に完成しました。エロイカの初演が1804年12月、ワルトシュタインも1803−4年に書かれており、18番もそのグループである可能性があると思います。第1楽章でF3、F2、F1と2オクターヴをフォルテでの下降。これはまるで低くてよく響くF1を書きたかったかのようです。速い音型を軽々と弾きまくる第2楽章、第4楽章の左手。冒頭の精妙な和音。まったくの私見ですが、これはワルトシュタインと同じくフランスのエラール社のピアノを得た嬉しさで作った曲ではないでしょうか?

だとすると18番はワルトシュタインに献呈されなかったワルトシュタイン・ソナタだったかもしれません。16番と17番(通称テンペスト)と一緒に作品31、1−3とくくられたのは何か出版等に関わる事情があったのではないでしょうか。また、あの遺書が本当に遺書なのかどうかは議論がありますが、躁状態で書いたということは少なくともなかったでしょう。うつ状態から苦難の道を経てエロイカが生まれた。これなら納得がいくのです。ところが同じあたりでポツンと躁状態の極みみたいな18番ソナタが出てきた。

これは交響曲でいうと第4番がワルトシュタイン・ソナタと近親性があってということをここに書きました( ベートーベン交響曲第4番の名演)。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2013/07/21/%e3%83%99%e3%83%bc%e3%83%88%e3%83%bc%e3%83%99%e3%83%b3%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%94%e7%95%aa%e3%81%ae%e5%90%8d%e6%bc%94/


遺書を書くまでの重たいことは全部エロイカにぶちこんで、その「重たいこと」は純化して第5番運命に結晶化していく。そうじゃない脇道の部分、もっと人間的なものは別な入れ物に盛っていく。空想ですが、彼を聴覚を失うという恐怖のどん底から救ったのは女性かもしれませんね。それは上記のブログに書いた。そうでもなく彼がひとり部屋に閉じこもってこんなソナタを書くに至ったとは僕にはどうしても思えないのです。

17番(テンペスト)第3楽章が一貫して「運命リズム」(タタタターン)で出来ているのは有名ですが、18番第1楽章にもそれが出てきます。第3−6小節です。最初の2小節、同じ音型を2度繰り返して幕を開けるのは運命と同じ、しかしリズムは第9交響曲の第2楽章のはじめを思い出しませんか?このソナタ、猫と思ったらライオンの子だったという存在と思います。

beeth18いきなり遭遇するサブドミナントの五六の和音。これが序奏ならともかく、第1主題なのに肝心のトニックは第6小節まで現れません。それも開始のバスはド(a♭)なのにこっちのバスはド(e♭)でなくソ(b♭)。どうも煮え切らない主役の登場です。交響曲でいきなりトニック(あるいはその根音)が鳴らないのは1番だけです。剛球を封じてまず初球は変化球。18番は1800年ごろ書いた1番の実験精神も継いでいる、いろいろな側面で初期と中期のブリッジとなった興味深い曲です。

ターンタターン、ターンタターン、この5度下がる頭出し、僕にはルートヴィッヒ、ルートヴィッヒと聞こえてなりません。彼はまだベッドでまどろんでいて、誰かが起こしてくれる(交響曲第4番の稿に書いたあの人か)?第3小節、うーん、まだ眠い、彼は不機嫌。第6小節のトニックでやっと目が開くとまぶしい朝日が。いい天気だ!起きろ!変ホ音の連打に乗った軽快なアレグロは朝の浮き浮きです。

変ホ・変ロ・二の長7度のワサビの効いた和音を作る左手の動き。これは17番までのソナタからこの曲が突然変異的にエロイカよりの存在になった印。よし今日もやるぞという活力がこんこんと湧き出ている音楽ですが、そういうひそやかな和音の色合いが誰かの深い愛情にも包まれているという感じも添えています。これが大好きなんです。こんなに幸福なベートーベンが他のどこにいるでしょう?

この曲、全編にわたって会話が聞こえてきます。居間のおしゃべりの声があちこちから飛び交い、笑い、皮肉、冗談のオンパレード。第2楽章のおどけたスケルツォ。タターンタターンタターン、単音が中断してシーンとする、それが意味深に半音上がるとまた同じどたばたが始まる。爆笑。どこに聖書が出てきます?3拍子でなく2拍子のスケルツォ、それもソナタ形式でトリオを持つ三部形式でないというのも珍しいです。

一転してたおやかに始まる第3楽章は Menuetto, Moderato e grazioso と記されています。スケルツォというのは彼がメヌエットをやめて置き換えたものですから、第2楽章がスケルツォ、第3楽章にメヌエットというのは実は変なんです。その変なことを後でもう1回やっている。それこそが交響曲第8番です。8番もメトロノームをからかってみたり、歌って踊って笑ってに満ちあふれた突然変異的なシンフォニーでした。

beeth18.2

そして、どちらのメヌエットも名品です。18番の方、これはやがて第九のアダージョに繋がっていく高貴さです。ここを弾いてみてあれっと思ったのは8小節目です。ここの真ん中の音のc、d♭、dの半音階上昇は交響曲第8番のメヌエット(下)の青枠のf、f#、gを想起させます。ちょっとしたことですが何か血のつながりを感じます。ピアノ・ソナタでさえメヌエットはこれを最後にもう書いていません。それがどうして最後から2番目の交響曲に出てくるのか不思議じゃありませんか?

beeth8

この楽章はモデラートですが、アダージョ楽章がないせいか遅めに弾くピアニストが多いようです。「中ぐらいの速さで」とはアンダンテ(歩くような速さで)より速く、アレグレット(やや快速に)より遅いということですが後者により近い。フリードリヒ・グルダのテンポが適当だと思います。

第4楽章のPresto con fuoco 非常に珍しい。火のように情熱的に急速に弾けということです。ベートーベンではこんな表示は他にないんじゃないでしょうか。

バックハウスは自身最後となった1969年6月28日の演奏会で18番を弾きましたが、心臓発作を起こしました。そのため第3楽章まで弾いたのですがこの第4楽章はシューマンの幻想小曲集より2曲に変更してコンサートを終えました。その7日後に彼は亡くなったのです。彼は26日の第1回目演奏会ではワルトシュタインを弾いていますが、第2回目には18番を選んだということは興味深いものです。

演奏ですが、youtubeで初めて聴いたべラ・ダヴィドヴィッチをお借りしましょう。これをUPしていただいた方には感謝です。


DAVIDOVICH plays BEETHOVEN Piano Sonata No 18 Op.31-3 COMPLETE (1978) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SxYr0AblgnE

第1楽章の出だしの呼吸がいいですね。全体に構えの大きなベートーベンではないですが、とにかくピアノが素晴らしくうまいです。ショパンコンクール優勝者ですからうまいのは当たり前なのですが、それが売り物に感じないところがよろしいです。京料理の名店の懐石という風情で、何もとがったものはないですが良いものをいただいたという手ごたえがじんわり残る。こういう演奏が好きです。彼女の録音が全部欲しくなって探してみましたがほとんど廃盤のようです。もったいない話です。

もうひとつ、リチャード・グードの見事な演奏を。これもうまいです。


Beethoven - Sonata No. 18 in E-flat major, Op. 31, No. 3, 'The Hunt' (Richard Goode) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EHOGuR-qKYU

僕はフランクフルトで彼のベートーベンを聴きましたがこれは興奮ものでした。一緒に行かれた娘のピアノの先生に「いかがでした?」ときかれて「これはマーラーが弾いたベートーベンです」とわけのわからないことを口走ったのをなぜか覚えています。

全曲バックハウスばかり聴いていましたが、今いちばんよく聴く全集はグードです。特にベートーベンが嫌いな人こそぜひ。好きにしてくれる可能性のある全集と思います。

そのバックハウスの晩年のスタジオ録音はこの18番も立派な造形のものですが、ちょっと重たく指もまわっていない感じの部分があります。

クラウディオ・アラウは僕の好きなピアニストですが18番は曲の持ち味とやや合っていない感じがします。

素晴らしいのはアルトゥル・シュナーベルでしょう。テンポもニュアンスも最高ですが、録音がやや古いのが気になる方は同じ路線の名演を聴かせてくれる上記のグードが良いと思います。

ブルーノ・レオナルド・ゲルバーもお薦めです。彼のショパンをスイスで聴きましたが美しいレガートと強い打鍵が印象的でした。この曲ではそれが活きています。

マレイ・ぺライアもいいです。この曲を覚えたのはロンドンで買ったこのCDで、これのおかげですぐ曲が好きになりました。彼のモーツァルトは大変な美演で一世を風靡しましたが、その路線にあるベートーベンであり18番ではプラスに出ています。

リヒテルはこれが簡単な曲に聞こえるほど。腕前でいうならこれが一番でしょうが、曲のニュアンス(特に第1楽章)は今一つ。終楽章は凄い、降参です。

マリア・グリンベルグは大変に素晴らしい。これはお薦め。女性ながら実に豪腕でもありますがちょっとしたトリルなどソプラノ声部のニュアンスなど血が通っています。

アニー・フィッシャーは男勝りでややごつごつしますがその分造形がしっかりしていて僕は嫌いではありません。

ウィルヘルム・ケンプは技術が弱いですね。この曲は満足できません。

ペーター・レーゼルは何一つ不足のない正統派の演奏ですが、もう一味のニュアンスが欲しいという贅沢をいいたくなります。

アルフレート・ブレンデルの冒頭はニュアンスがいっぱいでおっこれはいいぞと名演を期待しましたが、どうも品を作りすぎで後半は飽きました。

ラザール・ベルマンは80年ごろ剛腕で鳴らしたロシア人でここでも技術は冴えていますが、味わいには欠けます。

フリードリッヒ・グルダは時々聴く演奏で興がのった快演ですがAmadeoの録音のせいかタッチが冴えません。惜しいです。

ウラーディーミル・アシュケナージの磨かれた美音は千疋屋の1万円メロンのよう。技術も文句なし。モーツァルトの協奏曲録音の路線にあり、それはそれで魅力的ですが買ってでも聴きたいかというとどうもという困ったもの。曲の破天荒なところが常識化した観があるのが理由かもしれません。

エミール・ギレリスはメヌエットの中間部の強奏や終楽章の低音の強打などこの曲の精神とやや離れている感じがします。

エリー・ナイは第1楽章が遅い、これじゃあ朝の浮き浮きにならない。主張の強い面白い演奏ですが技術の衰えが気になり僕はダメです。

アンドラーシュ・シフは巷の評価の高かったモーツァルト・ソナタ全集を買ったらちっとも面白くなくちょっとイメージが・・・。18番も綺麗ですが、美演なんですが・・・So what?。

ダニエル・バレンボイム(EMI)は若い割にまとまった演奏。第2楽章の左手のスタッカートが甘いなどエッジがないのが不満。

ハンス・リヒター・ハーザーはカラヤンとのブラームスPC2番の打鍵の強さに驚きましたがその路線の18番というレア物です。そういう曲じゃないですがもしもベートーベンがスタインウエイを与えられたらこう弾くかもしれないと思わないでもないです。

クン=ウー・パイクのベートーベン・ソナタ集は非常に素晴らしいです。自信を持ってお薦めします。18番は特筆するほどではなくワルトシュタインがベスト3級の名演です。

ゲルハルト・オピッツはドイツ時代にラインガウでベートーベンを聴きました。残響が多くて遠目の録音ですが現代のドイツ人による演奏としてトップレベルでしょう。

ポール・ルイスは全般にテンポが遅く趣味でありませんがその速度でやるだけの個性は感じます。

ジャン・ベルナール・ポミエは曲想によく感じていていいですね。メヌエットのテンポ、右手のトリルのセンスなど最高です。

H.J.リムは第1楽章が気まぐれでまとまりがないと思ったら第2楽章はもの凄く速くてうまい。よくわからない演奏ですがひょっとして天才的かも。ラヴェルも聴きました。青臭くて荒削りですが、小さくまとまる感じでないのはいいですね。ソナチネの第2楽章などそれが即興的で良い方に出ています。


(こちらをどうぞ)

Beethoven - Jean-Bernard Pommier (1984) Piano Sonata No.18 in E-flat major, Op.31 No.3 (The Hunt) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=pd8CXrPgExE


http://シューベルト ピアノ・ソナタ第18番ト長調 「幻想ソナタ」D.894

ポミエのベートーベン ピアノ・ソナタ全集
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/13/%e3%83%9d%e3%83%9f%e3%82%a8%e3%81%ae%e3%83%99%e3%83%bc%e3%83%88%e3%83%bc%e3%83%99%e3%83%b3%e3%80%80%e3%83%94%e3%82%a2%e3%83%8e%e3%83%bb%e3%82%bd%e3%83%8a%e3%82%bf%e5%85%a8%e9%9b%86/

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/08/24/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%98%E7%95%AA%E5%A4%89%E3%83%9B%E9%95%B7%E8%AA%BF-%E4%BD%9C/
 

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コメント
1. 中川隆[-10729] koaQ7Jey 2019年10月19日 09:33:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2127] 報告

ベートーヴェンの真実 _ ベートーヴェンは何故お金に困る様になったのか?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/569.html

まともな人間は音楽家になれない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/177.html

2. 中川隆[-10725] koaQ7Jey 2019年10月19日 09:58:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2131] 報告

因みに、ベートーヴェンのピアノ曲の最高の名作は不滅の恋人と言われているブレンターノ夫人に献呈されたこの曲だというのが定説です:


Beethoven Piano Sonata No.30 op.109 - Backhaus - (Firenze 1969) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1jROtkvOwDM

beethoven Piano Sonata No. 31, Backhaus (1963) ベートーヴェン ピアノソナタ第31番 バックハウス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FV9B2yk8AxM

ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 Op.111 バックハウス 1961 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uyk6g0wnJQE


この三曲は三つ合わせて一つの曲なんですね。


詳細は


ヨウラ・ギュラーを発見 _ 運命の出会い? それとも… _ Youra Guller plays Beethoven Sonata No. 32 in C minor Op. 111
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/433.html

3. 中川隆[-10710] koaQ7Jey 2019年10月19日 19:33:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2146] 報告

2017-03-05
40代、あるいは1810年代のベートーヴェンが失ったもの@「ベートーヴェン 音楽の恋文〜遙かなる恋人へ」月瀬ホール(2017.2.12)
http://kage-mushi.hatenablog.com/entry/2017/03/05/105736

趣向を凝らしたプログラミングでおなじみのピアニスト・内藤晃さんがこのたびセレクトしたテーマは、ベートーヴェンの「不滅の恋人」。

宛先のわからない全3信の恋文が、ベートーヴェンの部屋から発見されてはや190年。彼の秘書アントン・シンドラーが半ばやけっぱちで公開に踏み切ってしまったばかりに、セイヤーからソロモンに至るまで、名だたる研究者たちが、その宛先の女性をめぐって泥沼の大論争を繰り広げ、もはやベートーヴェン研究の世界において一大ジャンルといっても差し支えないほどに巨大化。10人を超す「恋人候補」が出現したものの、未だ「真の恋人」の発見には至っていない、……

そんな(ある種の)業に満ち満ちた「不滅の恋人」論争。

ベートーヴェンの周辺人物たちを愛でてやまない私ですが、実をいうと、「不滅の恋人」は、できれば避けて通りたい苦手なテーマでした。

あまりに論争が白熱化しすぎていて、触れるのも恐れ多いような、正直ちょっと引いてしまうような、そんな気持ちもありました。また、私自身にとっては、ベートーヴェンまわりの重要な人物といえば、彼の耳の代わりに音を奏でたアーティストたち、ビジネスを共にした出版人やピアノ製作者たち、死後の楽聖像の形成に大きな影響を与えることになる側近たちといった「音楽業界の面々」であり、追求するなら恋人なんかよりそちらの方がずっと面白いのに(もっとリソース割いてくれよ)と思っていた…ということもありました。

何より、そもそもシンドラーが1840年に手紙の公開に踏み切ったのは、明らかにその2年前にフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーとフェルディナント・リースが発表した「覚書」へのマウンティング行為だし、もっとツッコミを入れてしまえば、ベートーヴェンはたぶんこのラブレターをうっかり捨て忘れたわけではなく「わざと」発見されるように残しておいたわけで(←これはまた別の機会に書きます)、もうね、後世のみんな、ベートーヴェンの自意識の手のひらでコロコロ転がされてるだけなんですよ。そんな皮相的な戯れに愚直に付き合ってどーするんですか。かようなゲームはさっさとドロップして、ベートーヴェン本人すらも自覚していないような深層の真実を暴こう。

そのほうが楽しいじゃないですか!!!

と、まあ、あけすけに言ってしまうと、そんな風に思ってました。
このコンサートのお話をいただくまでは。

でも、そういうひねくれた見方は、必ずしも妥当ではなかったかもしれない。
そんな風に意識が変わりました。

2月12日。お客さまの表情を見渡せる贅沢な席に座らせていただき、内藤さんの知的かつ瑞々しいピアノと、鏡貴之さんの情感豊かなテノールに耳を傾けながら。

    *

「不滅の恋人」候補は、現在のところ、アントーニア・ブレンターノとヨゼフィーネ・ダイムの2人にほぼ絞られています。

このたびのプログラムは、前者のアントーニア・ブレンターノ説をベースとし、

•歌曲「恋人へ」 WoO 140
•連作歌曲集「遥かなる恋人へ」Op.98
•交響曲第8番 ヘ長調 Op.93より第3楽章(リスト編曲)
•ピアノソナタ第30番 ホ長調 Op.109
•アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO 57

……など、ベートーヴェンと彼女(あるいはブレンターノ家)との交流を示唆させる曲を中心とした構成。

「楽譜を見ると、意味ありげな音楽的指示がとても多い」とは、内藤さんの談。

とりわけ1816年に書かれた「遥かなる恋人へ」は、“愛するひとの喪失”というテーマを、歌詞の上でも音型の上でも、直情的といってもよいくらいにストレートに綴った作品です。

第1曲と第6曲の最後の部分、つまり

 Denn vor Liedesklang entweichet
 jeder Raum und jede Zeit,
 und ein liebend Herz erreichet
 was ein liebend Herz geweiht!

 なぜなら 歌のしらべは
 私たちを隔てる時空を消し去る
 そして愛する心は届けてくれる
 愛する心が捧げたものに

と、

 Dann vor diesen Liedern weichet
 was geschieden uns so weit,
 und ein liebend Herz erreichet
 was ein liebend Herz geweiht.

 そして これらの歌は
 私たちを引き離すものを消し去る
 そして愛する心は届けてくれる
 愛する心が捧げたものに

は、なんと、ベートーヴェン自身の作詞であるという説もあります。

また、青木やよひ氏の解釈によれば、第6曲のこの箇所のメロディは、4年後に書かれた「ピアノソナタ第30番 ホ長調 Op.109」の第3楽章にも類似した形で現れますが、このソナタは、他ならぬアントーニアの娘に献呈されているのです。

    *

「不滅の恋人」論争に学術的な意味での決着がついていない限り、この作品を、アントーニアへの恋情の産物と断言することはできないでしょう。
けれど、だからといって、この作品から、ベートーヴェンの生の軌跡をそっくり取り去ってしまうこともできません。

なぜなら、「不滅の恋人への手紙」(1812年)から「遥かなる恋人へ」(1816年)に至る、40代の、あるいは1810年代の数年間。

彼が失ったのは、必ずしも「恋人」だけではなかったからです。

    *

たとえば、「不滅の恋人への手紙」が書かれた1812年。

それはナポレオンのロシア遠征の年。彼はこの遠征に失敗し、それは、2年後に迫る彼の敗北と退位の大きな前兆となりました。
ベートーヴェンのナポレオンに対する感情は、非常に複雑なものがありました。当初は熱烈な支持者だったものの、彼が皇帝になったというニュースを聞いて激昂し、交響曲第3番の表紙から献辞を消し去ったというエピソードはあまりに有名です。

それでも、フランス革命の混沌とした渦の中から姿を現し、世界を変革し掌中におさめようとひた走った同世代の政治家の夢が無残に破れたことは、ベートーヴェンにとっても少なからずショックだったのではないでしょうか。

キンスキー(1812年没)、カール・リヒノフスキー(1814年没)、ロプコヴィッツ(1816年没)など、彼を長年にわたって支えてきたパトロンたちが亡くなったのもちょうどこの頃です。彼は収入と活動の場を失い、困窮に陥ってしまいます。
ベートーヴェンの室内楽作品を多数演奏してきた友人のヴァイオリニスト、イグナーツ・シュパンツィヒも、新たな収入源を求めて、ウィーンを離れてしまいます。

弟のカスパル・カールを亡くしたのもこの時期(1815年没)です。

それから、耳疾が勢いを伴って悪化したのもこの頃です。1812年の時点では、まだ道具に頼らずともコミュニケーションを取ることができていましたが、1816年には、すでにメルツェルのラッパ型補聴器を使っています。その2年後には、ほとんど聴覚を失い、筆談に頼らざるを得なくなりました。

ベートーヴェンの人生の根幹を成してきた、ほんとうにたくさんの、かけがえのないものたちが、彼の手を離れ、遥か彼方に永遠に去っていってしまった。

その痛みと哀しみ、そして自らそれを慰めて希望を促そうとする心が、「遙かなる恋人へ」という作品のなかに現れている。

それは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが、40代、あるいは1810年代に失った数々の大切なものたちへの追悼の歌であり、1824年の「交響曲第9番」へと至る、細くあえかな光の道の出発点だった。

「なぜなら 歌のしらべは 私たちを隔てる時空を消し去る」という、その言葉どおりに。

    *

自由が丘の私邸の、白く明るいホールに響く、ピアノとテノールの調べに耳を傾けながら。

あらためて、そのことに気付かされた、そんな忘れがたい1日でした。

補足:「不滅の恋人=アントーニア説」に基づく諸論はこちら。


ベートーヴェン〈上〉
作者: メイナードソロモン,Maynard Solomon,徳丸吉彦,勝村仁子
出版社/メーカー: 岩波書店
発売日: 1992/12/07
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000020471/hatena-blog-22/

アントーニア説の(事実上の)提唱者、ソロモン大先生の大著。


ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究―決定版 (平凡社ライブラリー あ 21-1)
作者: 青木やよひ
出版社/メーカー: 平凡社
発売日: 2007/01
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582765998/hatena-blog-22/


.
「不滅の恋人への手紙」と彼の1810年代の作品群の関係性についても触れられています。


秘密諜報員ベートーヴェン (新潮新書)
作者: 古山和男
出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 2010/05
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106103664/hatena-blog-22/


.
「不滅の恋人への手紙」を政治的な密書であるとみなした斬新な解釈。「1810年代のベートーヴェンのが失ったもの」に対して驚くべき視点を与えてくれます。
http://kage-mushi.hatenablog.com/entry/2017/03/05/105736

4. 中川隆[-10709] koaQ7Jey 2019年10月19日 19:39:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2147] 報告
ベートーヴェン《不滅の恋人》研究の現在
青 木 や よ ひ
http://www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/aoki01.pdf


T《恋人》書簡の文献資料としての特長

ベートーヴェンの死後発見されたいくつかの自筆文書の中で特に注目され、後世の研究者によってい
く世代にもわたって検討され議論されてきたのは、一通の恋文であった。
これは、ベートーヴェンの死の翌日、彼の遺言書に記されていた有価証券を探していたシュテファ
ン・フォン・ブロイニングが、カール・ホルツ、アントン・シントラーと共に発見したものだった。そ
れは有価証券の入っていた人目につきにくい秘密の場所に、女性のミニアチュアの肖像画二点と共に、
しまわれていたのである。当初この手紙はブロイニングにより保管されたが、ほどなく彼も死去したた
めシントラーの手に移り、彼によって1840 年にはじめて公表された。
この手紙が関心を集めたのは、内容が他の書簡には見られない愛の昂揚を表白しているにもかかわら
ず、書簡の三原則ともいうべき、いつ・どこで・誰に書かれたかが特定できなかったことにある。更に
言えば、ベートーヴェン自身がそれらを特定しにくいように、あらかじめ配慮していたかのように思わ
れる節さえある。
また、この手紙が差出人の住居から見つかっていることは、実際には投函されなかったのか、あるい
はいったん相手に渡ったのち返却されたのか、二通りの可能性が考えられる。前者では、書き終わった
あとでベートーヴェンが思い直して投函しなかった、あるいはもっと無難な別の手紙を書いて送った、
とされる。もちろんそれも完全に否定はできないが、筆者としては投函説に立っている。その理由は、
この手紙のモチーフが何か切迫した状況にある相手を慰め励ますことであり、そのために自分の気持ち
を一刻も早く伝えたいという切望が全編にみちているからである。
いずれにしても、この手紙をベートーヴェンが、紛失してはならない彼の唯一の財産である有価証券
と共に、秘密の場所に長年保管していたという事実が、彼にとって相手の女性との思い出がいかに大切
なものであったかを物語っている。その女性は文字通り「不滅の恋人」であったのであり、彼にとって
最後の、そして唯一の相思相愛の相手だったと考えてよいだろう。


U 《恋人》研究の前史

この手紙を目にした人々が最初に考えたのが、誰に宛てられたものかということだったのは当然であ
る。そして、生前ベートーヴェンが親しく交際していたと見られる女性の中に、該当者を探した。その
結果、まずシントラーがジュリエッタ・グイッチャルディを、ついでA・W・セイヤーは1879 年にテレ
ーゼ・ブルンスヴィックを選び出したのである。この二人の女性は共に、ハンガリーのコロンパ(現在
スロヴァキア領)出身のブルンスヴィック伯爵家の一族である。ベートーヴェンと親しかったフラン
ツ・ブルンスヴィックにとって、一方は従妹であり他方は姉だった。1806 年には、ベートーヴェンが彼
らの館を訪れた事実があることから、発表当時はそれぞれの説が信じられていた。
20 世紀になって、ヴォルフガング・トーマス=サン=ガリが、伝記作家の立場からこの問題の徹底究
明にのり出し、ジュリエッタにもテレーゼにも《恋人》たる裏づけ資料がなく、むしろ否定的な事実が
多いことを明らかにした。彼の功績は、ベートーヴェンが《手紙》に記した「7月6日、月曜日、夜」
を手がかりにして、書かれた年代を1812 年、滞在地をボヘミアの温泉地テプリッツと割り出したこと
である。彼はまた、ベートーヴェンの『日記』をはじめ多くの関連資料を駆使して、この問題について
2 冊の本を残している。《恋人》の特定には成功しなかったが、当時の「湯治客名簿」や「警察記録」を
用いて調査したベートーヴェンのボヘミア旅行の行程の解明は、後世の研究者にとって貴重な遺産とな
っている。
つづいて現われた少壮の研究者マックス・ウンガーは、トーマス=サン=ガリの1812 年・テプリッ
ツ説を独特の方法で裏づけると共に、文中の“K”をカールスバートと確定した人物として名を残して
いる。また1812 年だけでなく1811 年のベートーヴェンの旅程を調査し、それぞれの「湯治客名簿」か
ら関係者をリスト・アップして後続の研究に貢献している。とくに、プラハからテプリッツに至る行程
の細部までを明らかにし、《恋人》特定のための大きな手がかりを残した。


その後、ルートヴィヒ・ノール、ロマン・ロラン、ラ・マラ、O・G・ソンネックその他多くの研究者
がこの問題にとり組み、それぞれ成果を発表している。その間《恋人》の候補者として検討された女性
は、以下のように10 人近くにのぼっている。

マグダレーネ・ヴィルマン
ジュリエッタ・グイッチャルディ
テレーゼ・ブルンスヴィック
アマーリエ・ゼーバルト
テレーゼ・マルファッティ
ベッティーナ・ブレンターノ
マリー・エルデーディ
ヨゼフィーネ・ダイム(シュタッケルベルク)
ドロテア・エルトマン

しかしこのいずれの女性にも決め手がなく、20 世紀半ばには、《恋人》の特定はもはや不可能ではな
いかと考えられるまでになった。それは、研究の深化にともなって、《恋人》の条件が細かに規定され
るようになり、それまで漠然と恋人らしく見えた女性が失格していったからである。その主な条件とは
以下のようなものである。


(1)《手紙》の受取人として、7月5日以後の週にカールスバートに滞在している。

(2)7月1日から4日のあいだに、プラハでベートーヴェンに会う可能性があった。

(3)7月4日に共にプラハを出発して、途中まで彼と同道する可能性があった。

(4)旅の途中で別れて、まもなく再会する可能性があった。

(5)当時ウィーンに在住していた。

(6)1812 年の時点で、互いに情熱的に愛しあっていた。

(7)しかし「いっしょに暮らす」には大きすぎる困難があった女性。
(以上《手紙》の分析から)

(8)イニシアルがA の名前を持つ女性。
(ベートーヴェンの『日記』の記述から)

(9)1816 年から逆算して「5年前から」知りあっており、その時点でも彼が当時の夢を捨てきれず
にいた女性。
(ファンニー・ジャンナタジオ・デル・リオの『日記』から)

(10)《手紙》と共に発見された二枚のミニアチュアの一枚に該当する女性:象牙版に描かれたこの
肖像のうち一点は、その後ジュリエッタ・ガルレンベルク伯爵夫人の息子によって、その母親
のものと認定された。しかし残る一枚は、長いあいだ根拠も問われずにエルデーディ伯爵夫人
のものとして紹介されてきた。


以上が、20 世紀前半までの、この研究についての概略である。


V 《恋人》研究の深化によるベートーヴェン像の変化

偉大な人物は死後神話化されることが多いが、ベートーヴェンはその最たる存在だったといえよう。
超人的で悲壮感をただよわせた英雄のイメージを与えられたのだった。それは、19 世紀後半の時代風潮
を反映したものでもあった。しかし、ベートーヴェンの伝記的生涯を追っていた人々、特に《恋人》研
究にとり組んだ人々は、その過程で別のベートーヴェン像に出会わざるをなかったと思われる。
その一つの典型と見られるのが、フランスの作家でベートーヴェン研究に大きな業績を残しているロ
マン・ロランの場合である。彼が1902 年にはじめて発表した『ベートーヴェンの生涯』からは、異性
の愛に恵まれず、孤独で悲惨な生涯を終えた「楽聖」イメージが立ちのぼってくる。だが、1927 年に出
版した『ベートーヴェン研究』連作の第一作『エロイカからアパッショナータまで』に描かれたベート
ーヴェン像は、大きく異なっている。この音楽家がウィーンのサロンで常に美しい女性たちに取りまか
れ、彼自身「彼女たちを魅惑する特別の力を持っていた」のだと表現されている。もちろん女性との関
係だけではない。ここには、かつての「悩みそのもののような」暗い人間像から、自分こそ自分の主人
公であるという、フランス革命後の自負にみちた芸術家像への変貌が見られるのである。
25 年後のこの大転換は、その間にロランが多くの文献資料に目を通したことと共に、《不滅の恋人》
研究にとり組んだ結果と見てよいだろう。ロランはこの問題について二つの論文を、同時期に「ラ・ル
ヴュー・ミュジカル」などの雑誌に発表している。このとき彼はまだマックス・ウンガーの研究を知ら
ず独自の仕方で探求していたが、のちにウンガーのそれを知って全面的に同意している。
20 世紀の最初の10〜20 年の間に、このように1812 年・テプリッツ説が確定したことは、ベートーヴ
ェン研究者にとってけっして小さな出来事ではなかったはずである。なぜならそれは、《手紙》の名宛
人解明に大きく貢献する以上に、それまで個別に検討されてきた《恋人》書簡と、いわゆる『日記』と
の関連づけが可能になったからである。このことは結果的に、中期から後期へのベートーヴェンの作品
の様式的変化を、彼の内面的変貌によって跡づけることをも可能にしたと言えよう。とくにロマン・ロ
ランの場合、それが顕著である。
周知のようにロランは著名なフランスの作家だが、音楽史家として出発し、プロをめざそうとしたほ
どピアノ演奏にもすぐれていた。「ベートーヴェン研究」中の楽曲分析は、すべて自筆の楽譜で行って
いる。しかも後年インド思想に傾倒しており、ベートーヴェンの『日記』を理解するには打ってつけの
人物だった。彼は、12 年の《恋人》が誰か、また彼女との挫折原因が何であるのかは判らないながら、
その後数年間ベートーヴェンが陥っていた内面的危機と、そこから立ち直ってゆく過程を丹念にたどっ
ている。そうして生まれたのが、1937 年の『復活の歌』だった。前作からちょうど10 年経っている。
この本の中でロランは、「ベートーヴェンはこの数年〔1812 年〜16 年〕の間に人柄が変わった」と指
摘しているが、彼自身のベートーヴェン観も当然大きく変化している。「われわれには、もう人間ベー
トーヴェンは、不撓の性格をもった空想的な英雄、不壊の金属で鍛えあげられた英雄といった風」には
思われなくなった、と記している。しかし、ベートーヴェンの人間的弱さや猜疑心の強さを指摘しなが
らも、「彼が自分を偽らなかったこと、みずから自己を裁いていたこと」を認め、その本質的誠実さが、
インド思想やカントの自然観などを経て晩年の作品群の世界へと彼を導いていった経緯を追っている。
そこには、ベートーヴェンの心象風景が共感をもって、より深いレヴェルで読み解かれているのが感じ
られる。

ほかにも、後期への「復活」の先がけともいえる作品101 の『ピアノ・ソナタ』、歌曲『遥かなる恋
人に』、更には作品109、110、111 の『ピアノ・ソナタ』の中にも、ロランはベートーヴェンの音楽的
な内面告白を鋭く指摘している。

特に最後の三つのピアノ作品については、「ブレンターノという主題
の下においてもよいだろう」とまで言っていながら、不思議なことにアントーニアを12 年の《恋人》
と結びつけて考えることはけっしてなかった。

ロランはその後、『第9 交響曲』『後期の四重奏曲』『フ
ィニタ・コメディア』と、亡くなる前年の1943 年まで『ベートーヴェン研究』連作の執筆を続けた。
W 20 世紀後半から現在まで
《手紙》の受信人が特定されぬまま迎えた20 世紀後半になって、この分野の研究に大きな転機が訪
れた。まず1954 年にジークムント・カツネルソンによる『ベートーヴェンの遥かな、そして不滅の恋
人』なる大著が出版されたことだった。ここで著者は、「遥かな恋人」をラーエル・レーヴィン、「不滅
の恋人」をヨゼフィーネ・ダイム(当時シュタッケルベルク)としたのである。
ラーエルについては、1811 年にはじめてテプリッツで彼女に会ったベートーヴェンが、その面立ちが
彼の「大切な人」に似ていると洩らしたことを根拠に、1816 年の連作歌曲『遥かなる恋人に』(作品98)
がラーエルへの追憶であると判断されたものだった。しかしこの説は裏づけ証拠にとぼしく、やがて忘
れられた。(むしろ、ラーエルに面立ちが似ていた彼の「大切な人」は誰か?の方が問題となった。)
恋人《ヨゼフィーネ説》は、かつてラ・マラによっても提示されていたが、カツネルソンの主張が衝
撃的であったのは、1813 年4 月に生れたヨゼフィーネの末子ミノナをベートーヴェンの子どもだ、とし
たことだった。そこでは、再婚後のヨゼフィーネの当時の窮状が述べられているだけでなく、ブルンス
ヴィック家の資料、とくにテレーゼの日記などを自在に用いた論証によって、この説が説得力をもって
展開されていた。
その後ほどなく、ヨゼフィーネ・ダイム宛てのベートーヴェンの恋文13 通がまとまって出現し、1957
年にファクシミリとして公表されたのである。だがこれは、問題の年より数年前に当る、ヨゼフィーネ
がダイム伯爵に死別した未亡人時代の1804 年から07 年頃までのものと判定された。その間ベートーヴ
ェンが、優雅と無垢を合わせ持つ美女といわれたこの女性に対して、真摯な愛情を抱きつづけていたこ
とをうかがわせるものだった。だが、ヨゼフィーネは結局、当時の身分制度や4 人の子どもの母親とし
ての義務に縛られて彼を受け入れられず、ベートーヴェンの方で身を退いたことを示していた。その翌
年ヨゼフィーネは長い旅に出発し、1810 年には、旅先で知り合ったシュタッケルベルク男爵と再婚して
いる。したがってこの恋文と問題の《手紙》を、直接結びつけることはできなかった。
だがヨゼフィーネはこの結婚によって、さらに二人の子どもと借金を負うことになり、1812 年夏には
夫の家出により、貧窮の極にいたという。ここから、ミノナ=ベートーヴェンの子ども説が導き出され
るのだが、当のヨゼフィーネを《恋人》の条件に照らしてみると、該当するのはウィーン在住者である
ことのみとなる。彼女を《不滅の恋人》とするには、客観的証拠があまりにもなさすぎるのだった。
こうした中で、1970 年代に《恋人》をアントーニア・ブレンターノとするメイナード・ソロモンの新
説が登場したのだった。ソロモンはまず1972 年の第一論文で、従来の研究者の業績をフルに活用して、
この女性が1812 年夏に行ったボヘミア旅行の日程が《恋人》の条件をほとんどすべてみたしているこ
とを証明した。ついで五年後の第二論文で、アントーニアのライフ・ヒストリーを詳しく紹介した。
それによれば、オーストリア宮廷の重臣だったビルケンシュトック伯爵家出身のアントーニアは、イ
タリア系の富豪フランツ・ブレンターノにのぞまれて18 歳で結婚した。だが、嫁ぎ先のフランクフル
トになじめず、望郷の念にかられて、やがて重度の心身症を患うまでになる。1809 年に父の看病に事よ
せて実家にもどり、父の死後も遺産の整理を口実に、家族共々3年間ウィーンに止まることに成功した。
この間にベートーヴェンと知りあい、1811 年末に作曲された『恋人に』が翌年にはアントーニアに贈ら
れていることから、この時期には二人の間に恋愛関係が成立していたと、ソロモンは推定している。そ
して、遺産の整理がほぼ終った12 年6 月に、もはやウィーンに止まる口実を失ったアントーニアが、
夫と共にフランクフルトに帰るよりも、ベートーヴェンのいるウィーンに止りたいとして彼に救いを求
めたのが、あの《手紙》の背景だと説明している。
こうしたソロモンの論述は広く支持され、『グローヴ音楽事典』(1980 年版)でも、もっとも有力視さ
れていた。しかし70 年代のハリー・ゴールトシュミットにはじまり、80 年代のマリー=エリザベート・
テレンバッハを経て、90 年代のエルンスト・ピッヒラーにいたるまで、この説に疑問あるいは反論を呈
する研究者がその後も跡を絶たなかった。そのもっとも主要なポイントは、不遇なヨゼフィーネと異な
り、恵まれた主婦だったアントーニアが有能な夫と四人の子どもを捨ててまで、なぜベートーヴェンに
走ったのか、という疑問だった。
こうして20 世紀後半には、この問題の争点は、ヨゼフィーネかアントーニアか、に絞られ、それぞ
れを支持する研究者の間で論争が交わされていた。前出の「グローヴ音楽事典」では、アントーニアが
「時間的・地理的条件をすべてみたしている」とした上で、「彼女の人間的魅力や手紙の内容をどう解
釈するか」の心理的側面の解明が今後の課題だとしていた。
ちなみに筆者は、1950 年代末から《恋人》をアントーニア・ブレンターノと推定し、そのテーマで文
章を発表していたが、当初のものはいずれも一般向きのエッセイであり、その後の著書も日本語であっ
たため、認知されていない。
また2000 年に、新しい《恋人》候補の出現として話題になったチェコの研究者・故ヤロスラフ・チ
ェレダによる《アルメリア・エステルハージ説》は、60 年代までの研究成果であって裏づけ資料がきわ
めて乏しい。アルメリアの場合、「時間的・地理的条件」として適合するものがほとんどなく、一致す
るのは唯一イニシアルだけである。
X アントーニアはなぜ見過されたのか
20 世紀末の時点でアントーニア・ブレンターノは、《恋人》の条件である前記10 項目のすべてを完全
にクリアーしている。このような女性は、他に一人もいない。しかも、そのうちの少なくとも半分の5
項目((1)(4)(5)(7)(8))については、20 世紀初頭から知られていたはずなのである。トーマ
ス=サン=ガリもマックス・ウンガーも、1812 年の「湯治客名簿」その他の資料にブレンターノの名を
認め、それを記録していた。しかし彼らはそれを、単に妻子を連れたブレンターノ氏の動向としか見て
いなかったのだ。その妻の頭文字がA であるということなど、思いうかべさえしなかったのである。し
かもこうした錯覚が、その後も20 世紀の半ばを過ぎるまで、研究者たちに受けつがれていったのであ
る。その原因は何だったのだろうか?
第一にそれは、ブレンターノといえばベートーヴェンにとって最大の恩義ある友人だ、という先入観
にあったと思われる。したがって、そのような友人の妻と倫理感の強い彼が恋愛関係を持つはずがない
という考えが、第二の理由となろう。そこにはまた、恋愛においては男性がつねに積極的にイニシアテ
ィヴをとる、という思いこみが第三の理由として含まれる。
しかしブレンターノ夫妻が彼の「恩義ある友人」となったのはずっと後年のことであって、1811〜12
年の時点で見れば、それは明らかに彼らの関係の読み誤りである。知りあってまだ1〜2 年しか経って
おらず、フランツ・ブレンターノは後述するように不在がちで、ベートーヴェンと顔を合わせることも
稀れといった状態だった。一方ベートーヴェンには当時、経済的支援を受ける必要などなかったのであ
る。また彼は、当時は、病身のアントーニアに同情をよせ、妻を省みない夫という批判の目をフランツ
に向けていた可能性もある。むしろこの場合、相手が人妻であったからこそ、自分の感情を友情の域に
止めておく自信を、ベートーヴェンの方では持っていたものと考えられる。
一般にベートーヴェンは、身分ちがいの若い女性や人妻に思いをよせ、一方的に拒否されてきたとい
うイメージが強かった。しかし同時代人の証言や彼自身のことばを信じれば、彼は多くの女性たちに愛
され、支持されてきたといえる。もちろんそこには、彼の卓越した才能とそれに見合った人間的魅力と
いうものが存在したのはまちがいない。
しかし、その背景をなす当時のヨーロッパ社会における女性の状況をも、視野に入れておく必要があ
る。17 世紀後半に始まり、フランス革命で頂点に達した啓蒙主義は、これに共感する多くの啓蒙貴族を
生み出していた。ベートーヴェンの周りにいた貴族たちのほとんどが、この系列に属していた。彼らは
自由の気風を尊重し、学問や芸術の振興に力をつくした。当然、自家の子弟にもそれらを奨励し、女性
たちもその恩恵に浴していた。ベートーヴェンの人生に登場する女性たちが、高い教養と音楽的才能と、
そして多かれ少なかれ独立自尊の精神を身につけているのはそのせいであった。
もしテレーゼやアントーニアやベッティーナが現代に生きていたら、それほど苦労せずに、それぞれ
の分野でひとかどの業績を残したにちがいない。だが当時は女性にとって、社会的自立の道は遠かった。
結婚に際しては、家柄や家産の有無などが条件となり、女性の適齢期は16〜17 歳と見られていた。結
婚すれば、家父長制の下で夫や子どもへの気配りが第一とされ、独立した人格としての基本的人権を与
えられていなかった。
とくに女性の人生を重くしていたのは、生殖という負荷だった。厳格なカトリックのモラルの下にあ
った上流社会では、避妊も中絶も許されず、多産は家門の繁栄の象徴だった。子ども数は平均6〜7人、
10 人以上もざらであった。また統計によれば、当時の女性の12 人に一人が出産で死亡していた。たと
えば、アントーニアが嫁いだブレンターノ家の先代アントンの場合、最初の妻は6回目の出産時に死亡
し、2度目の妻も12回目の出産時に死亡している。3度目の妻が2回目の出産後生きのびたのは、夫
がその年に死去したためだった。
こうした現実を見ぬいていた女性たちが、自分の才能と力で階級の桎梏を打ち破り、また彼女たちに
対しても打算ぬきの対等な存在として接してくるベートーヴェンに、人間的魅力を感じたということは
考えられる。しかも、女性には先入観が少なく新しい芸術を受け入れやすい上、競争意識がない。ウィ
ーンでデビューした当初、ベートーヴェンにいち早く共感し、彼をサポートしたのはこうした女性たち
だったにちがいない。リヒノフスキー侯爵夫人やエルデーディ伯爵夫人などが、その例ではないだろう
か。またその場合、いささかの恋愛感情が混じっていたとしても、それを友情の枠内に収めておく分別
が、双方に働いていたと見ることができる。これは、ベートーヴェンにとっては好ましい関係だったと
思われるが、しかしこうした微妙な均衡は、状況次第では一挙にくずれる危険もはらんでいるものだ。
ベートーヴェンとアントーニアの関係を考える場合、当然こうした洞察が必要とされたのだが、これ
までは、このような視点からの研究がなかったように思われる。それもアントーニアが見過ごされた要
因の一つと考えられる。
Y アントーニア《恋人》説の決め手
こうして《アントーニア説》に残された課題は、先述したように「彼女の人間的魅力」と彼女がベー
トーヴェンと恋に陥る「心理的必然性」の有無だけとなった。とくにソロモン説では、「幸福な主婦」
というアントーニア像を崩すにいたらなかったことが、大きな問題点として残っていた。1989 年来数回
の現地調査をも試みた筆者の視点で、この課題をここで再検討してみることにしたい。
まず、ソロモン説では、アントーニアがフランクフルトで心身症に陥ったのも、また問題の夏に「ベ
ートーヴェンに走った」のも、故郷ウィーンへの強い愛着が原因だとされていたが、筆者は、もっと現
実的で絶えがたい抑圧感によるものと考えている。
教養豊かで感受性にとんだ伯爵家の一人娘が嫁ぎ先で直面したのは、20 人にものぼる夫の異母弟妹を
含む商家の大家族だった。そこで18 歳の花嫁は好奇の目にさらされながら、家長の妻としての役割を
求められたのだった。15 歳年長でイタリア系の夫とはなじみにくかった上、近くには頼れる人も相談す
る人もいなかった。そんな中でアントーニアは健気に振るまいながら、8 年間に5 人の子どもを産み、
その一人を亡くしている。こうして彼女は、25 歳になる頃から重度の心身症に陥ったのだった。現代の
目で見れば、アントーニアが背負っていたのはまさに女性問題であり、どれほど経済的に豊かであって
も、こうした環境に置かれた女性を「幸福な」あるいは「恵まれた」主婦などとはとうてい呼びがたい。
もう一つ注目すべき事実は、26 歳から33 歳までの7 年間、アントーニアが一度も出産していないこ
とだ。それ以前の出産頻度に照らして、これは夫婦関係の断絶を示すものと、筆者には考えられる。従
って彼女が1809 年に実家にもどったのは、父の看病をきっかけに、その死後は夫と別れてウィーンで
暮す目的だったと思われる。
こうした筆者の推論を裏づける決定的証拠ともいうべきものが、最近出現したのである。それは主に、
1809 年から11 年当時、フランツとアントーニアがそれぞれベッティーナやクレメンス・ブレンターノ
に宛てた未発表の書簡である。「ウィーンにおけるアントーニア・ブレンターノ――《不滅の恋人》問
題に対する新たな資料」と題して、ベルリンの研究者クラウス・マルティン・コピッツによって「ボン
ナー・ベートーヴェン・シュトゥーディエン」誌(2001 年)に公表されたものである。それによると、
夫妻の関係はすでにフランクフルト在住時から危機に瀕しており、ウィーン在住の3 年間にも、夫のフ
ランツはほとんど家にはいなかったことが明らかになった。問題の1812 年になると、彼は2 月と5 月
にウィーンに滞在しながら、2 度とも妻の家ではなく市内のホテルに宿泊していた、という事実まで判
明したのである。
また、アントーニアの手紙や日記の断片からは、彼女がすぐれた芸術的センスと明晰な自己省察力を
併せ持った卓越した女性であることがわかる。そして新しい人生へと踏み出しはじめていた彼女が、こ
の音楽家を、単に作品の魅力からだけではなく、人間の理想像とまで感じて愛していたことがうかがえ
る。一方、1811 年3 月のアントーニアの手紙には、セイヤーなどによって後世に伝えられてきた「慰め
の音楽」の演奏場面が、まさにこの年の1 月から3 月までの出来事であったことがリアルタイムでしる
されている。ベートーヴェンは、フランツ不在のビルケンシュトック邸を毎日のように訪れていたのだ
った。この時点で彼が、恋愛感情とまではいえないにしても、献身的な情愛を彼女に抱いていたことは
疑いない。
このようにこれらの新資料は、従来不分明だったアントーニアの家庭状況と心理的側面を詳細に照ら
し出すと共に、ベートーヴェンとの親交が筆者の予想をはるかに上まわる早い時期から進んでいたこと
を裏づけることになった。つまり、このコピッツ論文の出現によって、《アントーニア説》は決定的証
拠をえた、と言ってよいのではないだろうか。
まとめ
この間の事情を要約すれば、ヨゼフィーネと別れたあと、1810 年にテレーゼへの求婚をマルファッテ
ィ家から拒否されたベートーヴェンが、ベッティーナ・ブレンターとの出会いで立ち直り、それが機縁
でアントーニアと親しくなり、1812 年7 月の《手紙》によって二人の相思相愛の頂点が出現するにいた
る、ということになる。多彩な女性遍歴ののちベートーヴェンは、40 歳にしてはじめて理想の女性とめ
ぐりあったと言ってよいだろう。それは、1816 年5 月のリース宛の手紙で言及されている「たった一人
見つけましたが」という彼自身の言葉でも証明される。
またこの恋愛が、ベートーヴェンの死後、関係者を危惧させた「不倫事件」ではなかったことも、新
資料が証明している。ウィーン時代のアントーニアは、すでに実質的離婚状態にあって自由を行使して
おり、ベートーヴェンとの親交を早くからベッティーナに告げているだけでなく、夫フランツにもかく
していない。フランツもまた、表面的にはこだわりもなく、その事実を受け入れている。その上筆者の
見解では、この大恋愛はけっきょくプラトニックのまま終ったものと思われる。(従って1813 年3 月に
出生したアントーニアの末子の父親は、フランツとするのが現在の筆者の立場である。)
なお、1812 年秋に二人の関係が破綻した経緯と、のちに1816〜17 年に復活しかけて再び諦めにいた
る事情については、はっきり証明できるだけの具体的根拠にとぼしい。筆者は『ベートーヴェン《不滅
の恋人》の謎を解く』(講談社現代新書、2001 年)の中で、ヨゼフィーネ問題も織りこみながら、それ
なりの仮説を立てて考察しているので、関心がおありの向きはそれを参照されたい。
いずれにせよ、ベートーヴェンが最後の病床で、将来自分の伝記が書かれる際には、「躊躇(ちゅう
ちょ)することなく、あらゆる点で事実に忠実であってほしい」と望み、また別の個所で「自分には道
徳的にやましいところはない」と言っているのは、みずからの良心に照らした信実のことばだったこと
は疑いない。
それにしても、こうした体験を経た上で、ベートーヴェンとブレンターノ夫妻の間に、「世界でもっ
ともすばらしい友人」と言いうる関係が成立したとは、なんと感動的なことだろう。三人三様に深く苦
しみながら、それぞれに人間として大きく成長したことがうかがえる。とくにベートーヴェンの場合、
その間の『日記』が残されている。《恋人》問題が解明されたいま、われわれはそこに、苦難にきたえ
られて、中期から後期の巨匠へと変容してゆくこの芸術家の生の軌跡を、逐一たどることができる。
《恋人》研究の意味とは、けっして名宛人を特定することにあるのではなく、絶えず深化しつつ発展
してゆくこの芸術家の内面世界に、別の道から近づくのに役立つことにあるのではないだろうか。

本稿は、2001 年10 月16 日に本校で行われたシンポジウムとコンサート「ベートーヴェン最後の恋」において、
基調講演とシンポジウムに参加するために筆者が用意した覚えがきをもとに、新たに書き下ろしたものである。
なお、インターネット上で公開するにあたり(2002年6月)、若干の手直しを行っていることをおことわりして
おきたい。


【主要参考文献】

・Ludwig van Beethoven, Der Brief an die Unsterbliche Geliebte. Beethoven-Haus, Bonn, 1986.
(邦訳付)
・Beethoven. Dreizehn unbekannte Briefe an Josephine Grafin Deym. Geb. v. Brunsvik, Faksimile,
Einfuhrung und Ubertragung von Schmidt-Gorg. Beethoven-Haus, Bonn, 1957.
(『ベートーヴェンの恋文』属啓成訳 音楽之友社、1962 年)
・Beethoven. Briefwechsel Gesamtausgabe Bd. 1〜7. hrsg.von S. Brandenburg, Henle Verlag, M unchen,
1996〜98.
・The Letters of Beethoven 1 -3. collected, translated and edited,with an introduction, appendixes,
notes and indexes by Emily Anderson. Macmillan & Co. London,1961.
(『ベートーヴェン書簡選集』小松雄一郎訳(抄訳)上下、音楽之友社、1978〜79 年、『ベートーヴェ
ンの手紙』(抄訳)上下、岩波文庫、1982 年)
・Goldschmidt, Harry: Um die unsterbliche Geliebte. Ein Beethoven-Buch, Deutscher Verlag fur Musik,
Leipzig, 1977.
・Kaznelson, Siegmund: Beethovens ferne und unsterbliche Geliebte, Standard-Buch, Zurich, 1954.
・La Mara: Beethovens Unsterbliche Geliebte. Das Geheimnis der Grafin Brunswik und ihre Memoiren.
Breitkopf & Hartel, Leipzig, 1909.
・Ley, Stephan: Wahrheit, Zweifel und Irrtum in der Kunde von Beethovens Leben. Breitkopf & Hartel,
Wiesbaden,1955.
・Pichler, Ernst: Mythos und Wirklichkeit. Amalthea Verlag, 1994.
・Rolland, Romain: Beethoven―les grandes epoques creatrices. Albin Michel, Paris, 1966.
(吉田秀和他訳『ベートーヴェン、偉大な創造の時期』TU、みすず書房、1970 年)
・Schindler, Anton: Ludwig van Beethoven (5.Auflage), Verlag der Eschendorffschen
Verlagsbuchhandlung, Munster in Westfalen, 1927.
・Solomon, Maynard: Beethoven. Schirmer Books, A Division of Macmillan Publishing Co., New York,
1977.
(徳丸吉彦・勝村仁子訳『ベートーヴェン』上下、岩波書店、1992 年)
・Solomon, Maynard: Beethoven. Second revised edition, Simon & Shuster Macmillann, New York, 1998.
・Solomon, Maynard: Beethoven Essays. Harvard University Press, 1988.
・Solomon, Maynard: Beethovens Tagebuch, hrsg.von S.Braundenburg,Hase & Koehler Verlag, Meinz, 1990.
(青木やよひ・久松重光訳『ベートーヴェンの日記』岩波書店、2001 年)
・Sonneck, Oscar Georg: The Riddle of the Immortal Beloved, G. Schirmer Inc., New York, 1927.
・Tellenbach, Marie-Elisabeth: Beethoven und Seine”Uusterbliche Geliebte”Josephine Brunswick,
Atlantis Musikbuch-Verlag-AG,Zurich, 1983.
・Thayer's Life of Beethoven (Revised and Edited by Elliot Forbes)I,II, Princeton University
http://www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/aoki01.pdf

5. 中川隆[-10708] koaQ7Jey 2019年10月19日 19:46:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2148] 報告

要するに、

ベートーベンの子供を産んだ女性はアントーニア・ブレンターノとヨゼフィーネ・ダイムの二人いて


ヨゼフィーネ・ダイムを思い描いて書いたのが

・ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3
・交響曲第四番
・ピアノ協奏曲第四番
・ヴァイオリン協奏曲

アントーニア・ブレンターノを思い描いて書いたのが

•歌曲「恋人へ」 WoO 140
•連作歌曲集「遥かなる恋人へ」Op.98
•交響曲第8番 ヘ長調 Op.93
•ピアノソナタ第30番 ホ長調 Op.109
•ディアベリ変奏曲


という事みたいですね。

6. 中川隆[-10707] koaQ7Jey 2019年10月19日 19:52:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2149] 報告
未練を断ち切るように ― 2010/05/19 23:33:00


ベートーベンのピアノソナタ 作品109、110、111

1820年から22年にかけてつくられたこの曲はロマン・ロランに<ブレンターノのソナタ>と呼ばれている。

とくに110番は、献呈者なしで記録されている。ベートーベンの作品中、献呈者なしというのはほかに第8交響曲しかないのだそうだ。

作品109は1820年11月にマクシミリアーネ・ブレンターノに献呈され、110と111はともにアントーニア・ブレンターノに献呈されるはずだった。

が、110が献呈者なし、111だけがアントーニアとルドルフ大公に献呈されたのだと、ベートーベン研究家の故青木やよひさんは書いておられる
(『ベートーヴェン・不滅の恋人』1995、河出文庫。底本は『遥かなる恋人に――ベートーヴェン・愛の軌跡』1991、筑摩書房)。

青木さんによれば、作品110の第3楽章について

「この哀切きわまりない≪歎きのアダージョ≫ほど魂をゆさぶられるものを、私はほかに知らない。どのような形容詞をもってしても、その美しさを表現することは不可能だ」

「それは、追憶と悲しみと悔悟が入りまじる思いで、力なくうなだれた芸術家の魂からしたたりおちる涙のようだ。だがまもなく思い直し、未練を断ち切ろうとでもするように弔鐘にも似た打鍵を9回くりかえして、この場面を終わらせる」

とある。

朗読でわたしはいろいろな思いを込めて演じる。――昨日もちょっとあった。
ベートーベンほどではないにしても、涙を流しつつ、だがまもなく思い直し、未練を断ち切るように立ち上がり、できるなら魂をゆさぶられるものをつくりたいと思う。
http://todaywesonghands.asablo.jp/blog/2010/05/19/5098132

7. 中川隆[-10706] koaQ7Jey 2019年10月19日 20:11:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2150] 報告

エリーゼのために

Für Elise - Wilhelm Kempff 1964, Deutsche Grammophon (SLPM 138 934) - Beethoven - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=O2iOdo72vR4
https://www.youtube.com/watch?v=R9DSjoHm56Y

Ludwig van Beethoven "Für Elise", Bagatelle for piano in A minor, nº 25 WoO 59 (Molto Grazioso), 1810.
Wilhelm Kempff, Deutsche Grammophon Gesellschaft, 1964.

____


KEMPFF, Beethoven Bagatelle Fur Elise in A minor, WoO59 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CaTUt8MeLSU

Wilhelm Kempff, piano May 1955 London
 


▲△▽▼


エリーゼの正体


ベートーベンの『エリーゼのために』のタイトルは実は『テレーゼのために』か / 楽譜の字が汚すぎて間違って広まった
2013年7月28日



.


IMG_6590
みんな知ってるあたりまえ知識。でも100人いたら1人くらいは知らない人がいるかもしれません。今回は「ベートーベンの『エリーゼのために』のタイトルは実は『テレーゼのために』だったらしい 」という知識です。

そうです、あの名曲のタイトルは『テレーゼのために』だったのに、ベートーベンの字が汚すぎたために『エリーゼ』と伝わったというのです。

・“エリーゼさん” は誰?
『エリーゼのために』が作曲されたのは1810年、ベートーベンが39歳のことです。曲名のとおり、エリーゼさんという女性のために捧げらた曲であると考えられます。しかし、ベートーベンの交友関係を調べても“エリーゼさん”という人は見つからず、長い間謎とされていました。

・ベートーベンの字は汚く “エリーゼ” と “テレーゼ” の区別がつかないことが判明
しかし、1923年、ドイツの音楽学者マックス・ウンガー教授の論文がひとつの可能性を提示しました。ウンガー教授によると、ベートーベンはとても字が汚く、筆跡を鑑定したところ、彼の書く「エリーゼ(Elise)」と読める字は、「テレーゼ(Therese)」の場合もあるというのです

・楽譜をプレゼントされたのは “テレーゼさん”
実は、『エリーゼのために』の楽譜は、1810年にベートーベンにピアノを教わっていたテレーゼ・マルファッティという女性だったそうです。楽譜はベートーベンからプレゼントされたものだと言われています。

当時、39歳のベートーベンは18歳のテレーゼに恋をしていました。ラブレターを送り、プロポーズまでしたといいます。しかし、結果はふられてしまい、テレーゼは別の男性と結婚しました。

・『エリーゼのために』は『テレーゼのために』だった!?
つまり、

1810年に『エリーゼのために』が作曲される

同年、教え子のテレーゼに『エリーゼのために』の楽譜が贈られる

のちに同曲は『エリーゼのために』として世界に広まる

曲完成から100年以上経って、ベートーベンの字は汚すぎて“エリーゼ”と“テレーゼ”の区別がつかないことが判明

『テレーゼのために』だったのでは!?

ということになります。字が汚かったばかりに間違って伝わるとは……しかもこれだけ有名になった曲です、もう訂正はできないでしょう。

・近年、新しい説も浮上

長らく、『エリーゼのために』は『テレーゼのために』の読み間違いであるとされてきました。しかし、近年になり『エリーゼのために』は、エリザベート・レッケルという歌手に捧げられたものではないかという説も浮上したそうです。

しかし、ベートーベン直筆の楽譜はすでに失われており、その真偽を確認することは難しいのかもしれません。
https://rocketnews24.com/2013/07/28/354145/

8. 中川隆[-10704] koaQ7Jey 2019年10月19日 21:07:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2152] 報告

レクチャーコンサート
ベートーヴェンと《不滅の恋人》
−講演−


演奏曲目:
ピアノ・トリオ断章 変ロ長調 WoO39
ピアノ・トリオ《大公》
歌曲《アデライーデ》 Opus 46
歌曲《恋人に寄す》 WoO 140
連作歌曲集《遙かなる恋人に寄す》 Opus 98
スコットランド・アイルランド民謡(ピアノ・トリオの伴奏付き)


みなさん、本日はようこそおいで下さいました。本日のコンサートは3部に分かれております。第1部は「お話」で、30〜40分ぐらいお耳を拝借したいと思います。それから、第2部が演奏の前半、第3部が演奏の後半、という構成になっております。


 「不滅の恋人」という本題にはいる前に、先ず、ベートーヴェンとはどういう人間か、また彼の音楽はどのような音楽か、ということについてお話をしたいと思います。モーツァルトとベートーヴェンは、年齢で言えば、たった14歳しか違わないのに、彼らの音楽作品からは、14年どころではない、もっと大きな違いを感じます。それは、彼らの個性の違いと彼らの生きた時代の違いが、相互に作用し合っているからです。多分、みなさんは、モーツァルトやベートーヴェンの肖像画をご覧になったことがあるでしょうから、ちょっとそれを思い出してみて下さい。何処が一番違うと思いますか? 

もちろん、2人は全く別の人間ですから顔が違うのは当たり前ですけれど、それ以外でまず気が付くことは、着ている洋服の色の違いです。モーツァルトは、ブルーがかったグレー、あるいは黄色、あるいは赤、あるいはワインレッドの洋服を着ていますが、ベートーヴェンの着ている服は、ほとんどが黒っぽい色です。これは、彼らが着ていた洋服の実際の色の違い以上に、肖像画を描いた画家の美意識あるいは美的価値観の違い、また、彼らの生きた時代の趣味の違いを端的に表していると思います。モーツァルトがカラフルで飾りの付いた洋服を着ているのは、彼の活躍したのが、女性のリードする宮廷や貴族のサロンであるからです。モーツァルトはフランス革命の真っ最中に若くして死んでしまいますが、ベートーヴェンが活躍した時代――つまりフランス革命の直後からナポレオン時代にかけて、ヨーロッパ全土は、市民社会――すなわち、男がリーダーシップを握る新しい社会へと急速に傾斜して行きます。

 ベートーヴェンは、音楽史上まれに見る「男性的」なフィギュアで、フランス革命の理念――すなわち、「自由・平等・博愛」を信奉し、それを何とか音楽で表現しようとしました。特に彼が音楽で実現したのは「博愛」の理念です。「博愛」というのはどういうことかと言うと、「人々が兄弟のような繋がりを持つ」ということで、自分の喜びや悲しみを他人の喜びや悲しみとし、他人の苦しみを自分の苦しみとして感じる、ということです。ですから、ベートーヴェンの音楽は、まず彼自身の主観から出発しますが、それが次第に普遍的なものに押し広げられて行く、平たく言えば、時間が進むに連れて、共感や感動の度合いが高まっていくことを最大の特徴としています。

 特に「中期」と呼ばれる、1800年代のベートーヴェンの音楽は、そうした「感情の普遍化」がヒロイックな――つまり、英雄主義的な形式で表現されている。この時代の代表作――すなわち、交響曲の「英雄」とか「運命」、ピアノ・ソナタの「熱情」などはこうした特徴を持っています。彼の「男性的な性格」というのは、たとえば、一昔前の映画のヒーローを思い浮かべていただくとわかりやすいと思います。特に、ゲイリー・クーパーやジョン・ウェインが西部劇で演じた役柄です。彼らの演じた人間像に共通するのは、まず強い、しかし単に肉体的に強いだけではなく、彼らは自分の信ずるもののために命を賭けます。彼らは口下手で「お喋り」は苦手なので、言葉で自分自身を表現することは出来ない。だから、愛する人にも誤解されてしまう。しかし、彼らは「行動」の人だから、そうした誤解を解くのも、行動によってしか出来ない。彼らはとても優しくて寛容な心の持ち主ですが、それをストレートに表現できない。何故なら、彼らはそうした部分では、極端に「照れ屋」だからです。

これは「男社会」の作り出した典型的なヒーローのイメージです。だから、最近の映画でケヴィン・コスナーやトム・ハンクスの演じるヒーローとはだいぶイメージが違う。これが、またベートーヴェンの性格に「ドンピシャッ!」という位、うまくはまっている。こういう人物の創り出したヒロイックな音楽が、1800年代のウィーンで大いにうけて、彼は正に時代の寵児になります。


 ベートーヴェンは大変なロマンティストで、若い頃にはいつも恋をしていた、といいます。「憧れ」の対象になる女性を見つけては、情熱を燃やし、それを自分の創作活動のエネルギー源にしているのです。そうしたベートーヴェンの数少ない「本物の恋」の相手になったのは、ハンガリーの貴族ブルンスウィック家の令嬢で、ヨゼフィーネ・ダイム伯爵未亡人でした。この人との恋愛関係は、1804年から1807年まで続いていますが、恐らく身分の違いが原因で、この恋愛はつぶれてしまいます。ヨゼフィーネ・ダイムは、平民のベートーヴェンに対して、貴族の誇りを捨てることが出来なかったのでしょう。

 ベートーヴェンは1827年に56歳で死にますが、彼の葬式の数日後、遺品を整理していた友人たちは、彼の秘密の小箱を発見します。その中に大事にしまわれていたのは、彼の全財産とも言える有価証券と、2人の女性のミニチュアの肖像画と、そして3通の手紙でした。その手紙を読んだ友人たちは仰天します。何故なら、その手紙は明らかに続けて書かれた、紛れもない熱烈なラヴレターで、その中で彼は相手を「私の天使、私の全て、私の最も愛しい人、わが不滅の恋人」と呼んでいたからです。この手紙をよく読んでみると、まず、相手は貴族で、しかも既婚の家庭をもった女性であることがわかります。何故なら、ベートーヴェンはこの熱烈な手紙の中で、相手の宛名を書かず、イニシャルさえも書いていない、自分についてもフル・ネームでサインしていない、これがスキャンダルをおそれたための配慮であることは明らかで、何故なら、ヨゼフィーネ・ダイム伯爵夫人に宛てた手紙では、彼女が未亡人であったためにこのような配慮はされていないからです。



 次に起こる当然の疑問は、「この手紙は果たして投函されたのだろうか、もし、そうなら何故彼の手元にあったのか」ということです。しかし3通目を読むとその疑問もほとんど解けます。火曜日の朝に書かれたこの手紙を書いている時、途中までは、ベートーヴェンは手紙は木曜にならなければ郵便馬車が出ない、と信じ込んでいるのですが、突然「私の天使よ、いま私は郵便馬車が毎日出ていると知りました」という文章が現れ、とたんに文字が大きくなり、書き方が殴り書きになって、「愛している、愛している」と連呼し、「愛してくれ、愛してくれ」を連呼して、完全に平静さを失って、郵便馬車に手紙を預けに飛び出したに違いない様子が彷彿とする、「手紙は出さない方がよいかも知れない」などと考え直す心の余裕はみじんも感じられない・・・だとすると、これらの手紙は投函した後に返してもらった、多分発覚してスキャンダルになることをおそれたためでしょう、それをベートーヴェンは死ぬまで、自分の一番大事なものを入れる小さな筺にしまっておいた、その理由はたった1つ、彼が死ぬまで彼女のことを愛していたからです。

 しかも、この手紙からわかることは、相手の女性はダイム伯爵夫人のように、貴族の誇りを捨てられない、などということは全然ない。寧ろ、彼女はベートーヴェンに、私は駆け落ちも辞さない、というようなことを言ったに違いない。だから、ベートーヴェンは一生懸命「早まったことはしてくれるな」と、彼女に軽挙妄動を慎むよう説得に努めています。

 こうなると、この女性は誰か、この手紙はいつ書かれたか、この恋の顛末はどうなったのか、を知ることは、ベートーヴェンの人生を知り、それによって彼の音楽を理解するためにはどうしても不可欠、ということになって来ます。ところが、この謎は150年あまり、誰にも解けなかったのです。それを解き明かしたのは、アメリカの音楽学者メイナード・ソロモンでした。彼は、1972年に自説を発表し、77年に著書の中でそれをさらに詳しく論じ、根拠を明らかにしました。その著書が日本語に翻訳されたのは、1992年のことです。


■本日の演奏曲目と「不滅の恋人」との関係

ピアノ・トリオ断章 変ロ長調 WoO39

 この作品は、1812年7月26日、不滅の恋人への手紙が書かれるちょうど10日前に、彼女の娘で当時10歳になるマクシミリアーネ・ブレンターノに捧げられました。「ピアノの上達を願って」という献辞が付けられ、ピアノ・パートには懇切丁寧に指使いが細かく書き込まれています。重要なのは、そうした心遣いと共に、彼がふだんあまり見せたことのないストレートな優しさが、この曲を支配していることです。彼が子供――それも愛人の娘に注ぐ愛情の深さ、というだけではなく、終生独身を通した彼の「家庭」に対する憧れなども入り交じっているのではないでしょうか。

ピアノ・トリオ《大公》

 この作品は、時期的には中期の終わりに属していますが、内容的には明らかに「後期」の特徴を備えています。ベートーヴェンの後期の様式に於いて顕著なのは、「英雄主義的様式」の融解――平たく言えば、中期を特徴づけていたヒロイズムが影を潜めて、もっと穏やかな中に大きな広がりを持ってくる、ということが言えると思います。作品に「諦観」が現れるようになる。「諦観」と言っても、日常的な意味での「あきらめ」というようなネガティヴなものではなく、寧ろ「解脱」の境地といった方がよいかも知れません。

 この作品は、不滅の恋人との恋愛が、順調に軌道に乗ったと思われる1811年の春に作曲されました。「恋愛」がうまくいっているのに、何故音楽に「諦観」が現れるのか、不思議に思う方もいらっしゃるかも知れませんが、それは、これまでもベートーヴェンは人生の諸々の辛酸をなめ尽くして来た――その最大のものが「耳の病気」であったわけですが、様々な人生経験を経たこの大作曲家が、恋愛によって内的に充実し、そのエネルギーによって、創作活動の中でも新たな地平を切り開いた、ということが出来ると思います。特にこのトリオの第3楽章は、穏やかな広がりを持った、まことに美しい緩徐楽章ですが、その美しさの奥に、何か計り知れない「悲しみ」のようなものを感じてしまいます。

 音楽における諦観の表現という点では、連作歌曲集《遙かなる恋人に寄す》では、こうした後期のベートーヴェンの作風が典型的な形で現れてきます。その話は、また後半の始まるときに致しましょう。




■後半の歌曲の説明:

アデライーデ Opus 46

 ベートーヴェンの最も初期の作品の1つ。若々しい情熱がほとばしり出ているような作品で、ベートーヴェンの歌曲の中では最も人気の高いものです。ベートーヴェンのラヴ・ソングの原型と言ってもよいでしょう。

恋人に寄す WoO 140

 これは、1811年の秋に、恐らく、不滅の恋人アントニエ・ブレンターノのために作曲された短い歌曲です。この歌曲の第1項は、ピアノまたはギターの伴奏によるものですが、このような伴奏楽器の指定は、ベートーヴェンの他の歌曲には例のないものです。そして、アントニエ・ブレンターノはギターが上手でした。また、この歌曲のベートーヴェンの自筆譜には、アントニエ・ブレンターノの筆跡による書き込みがあります。この歌曲は短いけれど、ベートーヴェンの優しさがよく現れたもので、そういう点では、前半で演奏したピアノ・トリオの断章と共通しています。

連作歌曲集《遙かなる恋人に寄す》 Opus 98

 この歌曲集は、6つの歌曲を中断なしにつないだもので、1816年春、不滅の恋人と別れてからほぼ3年半後に作曲されました。この時期になると、ベートーヴェンは、もう不滅の恋人と現世で結ばれると言う希望は、ほとんど持っていなかったと、思われます。作詞は、若い医学生アロイス・ヤイテレスという人物ですが、この詩人は、恐らくベートーヴェンの依頼でこの詩を書いたのでしょう。彼は、ベートーヴェンの本音とも思われる内容を若々しい言葉で語っています。

「ぼくたちの幸せも、苦悩も、山と谷が引き離していて、燃え立って貴女に注がれるこの眼差しを、貴女は見ることが出来ない」

という歌詞は、いかにも悲痛な想いを表しているのに、音楽は驚くほど穏やかで聴き手の共感を求めていません。

「何一つ貴女に届かず、何一つこの愛を伝えてくれないなら、ぼくは歌を歌おう」

――自分には音楽しかないんだ、というベートーヴェン自身の悲鳴とも決意とも取れる言葉で――「

お前にとっては、お前自身の中と、お前の芸術の中と以外には幸福はない」

という、1812年の彼の手記を思い出させますが――これも前と同じ穏やかなメロディで素っ気ないほど、淡々と語られてしまう。こんなに、レトリックが簡単に放棄されてしまっていると、かえって聴く側の心が動揺してしまう。作曲者が無作為であればあるほど、音楽が聴き手の心に染みわたってくる、とも言えるでしょう。第5曲の最後で、

「ぼくたちの恋にだけは春は訪れず、涙だけがぼくに送られる全てなのだ」

という言葉がゆっくり悲しく語られると、その沈潜の淵から、穏やかで澄み渡ったメロディが流れ出して、

「さあ、これらの歌を、恋人よ、貴女のために歌った歌を受け取って下さい」

という言葉が続くところ、この作品の最も感動的な瞬間だといえましょう。

 ベートーヴェンがアントニエ・ブレンターノに対して、正式に作品を献呈したのは、1823年、彼のピアノ音楽の最後の大作《ディアベッリ変奏曲》でした。このとき、2人が離ればなれになってから、実に11年の歳月が経過していました。

ピアノ・トリオの伴奏の付いたスコットランド・アイルランド民謡

 ベートーヴェンとアントニエ・ブレンターノは、もし駆け落ちするとしたら、何処で暮らそうと思っていたのでしょうか。その有力な候補地の1つは、多分ロンドンだったと思われます。ロンドンのフィルハーモニー協会は、ベートーヴェンの招聘に非常に熱心でした。

ロンドンで活躍していたベートーヴェンの弟子のフェルディナント・リースは、手紙で何度も、ベートーヴェンとフィルハーモニー協会の仲介をしています。しかし、結局ベートーヴェンの渡英は実現しませんでした。

 ベートーヴェンは、アントニエ・ブレンターノと知り合った頃から、スコットランドのエディンバラの楽譜商ジョージ・トムソンから依頼されて、スコットランドやアイルランド、ウェールズなどの民謡を編曲し、ピアノとヴァイオリン、チェロの伴奏を付けて出版する、という仕事をし始めていました。この民謡編曲の仕事は、ベートーヴェンの後期の作品にも影響を与えました。特に顕著なのは、「遙かなる恋人に寄す」に与えた影響です。

 本日演奏する5曲は、最初の4つがスコットランド民謡、最後の1曲がアイルランド民謡です。内容的には、最初と最後の曲が、乾杯と祭りの賑やかな歌です。

2曲目は、ちょうど、2年前に公開された映画『ブレーブハート』を思わせる内容を持っています。霧の中から亡霊のように、過去の血なまぐさい光景が出現する――インヴァネスの美しい乙女の父親は、叛乱に加わって領主に殺されてしまった――3人の兄も死んだ――谷は虐殺の血で真っ赤に染まった――やがて、そこにはまた草が生い茂り、谷は再び緑に覆われた――というものです。

3曲目は、軽い恋の歌、4曲目は農民の娘と若者の情愛あふれる愛の歌で、収穫が終わって出稼ぎに行かなければならないジョニーに、娘が「忠実なジョニー、あなたはいつ帰ってくるの?」と訊ねると、ジョニーが「とうもろこしの取り入れの終わる頃、冬の風が冷たく吹いて、ハロウィーンがみんなを驚かせる頃、君とまたここで会おう」と答えます。

http://www.cembalo.com/instruments/instruments_music02.htm

9. 中川隆[-10702] koaQ7Jey 2019年10月19日 22:13:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2154] 報告

ベートーヴェンは本当は年増オバサンのブレンターノ夫人より絶世の美女のヨゼフィーヌの方が好きだったんですね:


2010/09/17  No.1
        ベートーヴェン「不滅の恋人」の話


以前も何度かベートーヴェンの不滅の恋人の話には触れたが、最近「秘密諜報員ベートーヴェン」(古山和男著)という本が出たので読んでみた。なかなか面白かったし当時の政治状況が詳しくわかりその点では大変勉強になった。

ただ「不滅の恋人」への手紙が恋文ではないとする著者の意見は、最初はふむふむと読んでいたが途中からかなりの憶測とこじつけで説得力に欠けた。「不滅の恋人」への手紙だけでなく、有名なヨゼフィーヌとの恋文までなんの根拠もなく否定してるのには驚いた。この有名な13通の手紙は手にとるように二人の情感が伝わってくるものだがそれすら否定してしまうのは著者の固まった恋愛観によるものだと思う。

 恋におちた男女はどんなセリフだって言葉にするしどんな行動でもとってしまうものだ。周りの人間には全く予想がつかないから恋の病という。

またベートーヴェンが大好きだったという郵便馬車のホルンの響き(交響曲8番の中でも思い出として使われてる)を著者がベートーヴェンにとって「皮肉で不快な角笛」としてるのもおかしい。

「不滅の恋人」への手紙はベートーヴェンの死後に秘密の引き出しから発見されたもので、相手の女性から返されたその手紙の宛名は「不滅の恋人」とされ誰だかは謎とされている。

もしそれが諜報の暗号の手紙なら、相手がわざわざ保管してベートーヴェンあるいは弟子に返すだろうか?

 恋人同士がお互いにかわした恋文を時がたって相手に返すというのは当時ではよくあったことでブラームスとクララ・シューマンの話も有名だ。

 とはいえベートーヴェンが当時の政治に対してかなり積極的な活動や発言をしてたのは事実だし(お手伝いさんをひんぱんに解雇したのはスパイだと感じたからだといわれる)、最初に書いた通り当時の政治状況がすごくわかりやすく勉強になるし面白いので一読の価値はある。


「不滅の恋人」についてはアントーニア・ブレンターノが恋人とする青木やよひ女史の説が世界的にも有名で、また青木女史による「不滅の恋人」と関連して解析されたベートーヴェンの後期のピアノソナタの解説は説得力があって勉強になる。


ただ僕は以前も書いたが、ベートーヴェンの作品を勉強しながらヨゼフィーネ説を信じたくなるときもある。

結局僕にとっては音楽そのものが大切で本当の不滅の恋人はどちらでもいいのかもしれない。
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio201009.htm#fromsachio20100917-humetsuno

2015/5/22
   「ベートーヴェン〜不滅の恋人〜と楽譜の裏側」の話


よく楽譜の裏側という言葉が使われる。音楽家の中には作品の背景は研究家に任せて我々は目の前にある楽譜をしっかり勉強して演奏するのが仕事と思ってる人が結構多い。僕もデビューしたての頃はその一人だったし、ベートーヴェンの不滅の恋人なんて全然興味がなかった。

ただデビューして数年していくつかの事件が重なった。吉松隆さんのサックス協奏曲サイバーバードでサックスの須川展也さんと共演した時にリハーサルで須川さんと喧嘩したのだけど、須川さんはこの協奏曲を吉松さんがどんな想いで作曲していたか深く理解していて(吉松さんはすごく仲が良かった妹さんが病気で亡くなる悲しみの中で作曲していた)僕は目の前に見えてる音符だけで偉そうに意見していた。須川さんから吉松さんの話を聞かされ曲の聴こえ方が全くかわり僕は大いに反省した。

また同時期に当時僕は英国のBBCフィルの副指揮者をしていて毎月何曲も新作を放送用に録音したりコンサートで指揮していたので多くの作曲家と仕事をしていたが中でもシェフィールド音楽祭で1時間を越える大作のオラトリオを初演する事になった時の話。僕は曲の良さが全く分からず途方に暮れた。ところが作曲者からいろいろな話を聞かされ全く聴こえ方がかわり曲の良さを理解出来るようになったのだ。

以来僕はなるべく曲の背景や作曲家の想いを調べるようにしている。

実際は楽譜の裏側の背景なんて関係ない作品の方が多いかもしれない。例えばブラームスやラヴェルの殆どの作品は作曲当時の個人的感情は無関係だけど、それでもブラームスの交響曲1番(恋人だったシューマン未亡人に誕生日プレゼントに贈った旋律が出てくる)やドイツレクイエム、それにラヴェルのラヴァルスは当時の感情が深く作品に影響を与えている。

反対にシベリウスは全ての交響曲が作曲当時の感情が深く影響していてそれを知らないと作品を深く理解するのは難しいし、ヨハンシュトラウス二世のワルツの多くもその裏側に深い想いが込められてる。ベートーヴェンは自ら「自分の感情を音楽で表現する」と公言した作曲家で、勿論それが全てではないけれど特に後期の作品では不滅の恋人の存在が作品に大きく影響を与えている。

不滅の恋人の話は以前にしているので詳しくは書かないけど簡単に説明する。

ベートーヴェンの死後秘密の引き出しから、ベートーヴェン自身が書いた熱烈なラブレターが発見された。たった2日間の間に3通書かれた手紙に相手の名前はなく手紙に不滅の恋人へと書かれていた。

この不滅の恋人は今ではアントーニア・ブレンターノに間違いないとされていて、アントーニアは既婚していたので秘密が固く守られていた。また当時、お互いに出した手紙を何かのタイミングで相手に返す習慣があって、アントーニアもベートーヴェンと別れた後に手紙を返してベートーヴェンはそれを大切に保管していた。(ブラームスとシューマン未亡人もお互いの手紙を返してブラームスはそれをすべてライン川に放ったのは有名な話)。

ベートーヴェンとアントーニアが出会い恋に落ちたのは1811年で、この時にあの狂喜乱舞する交響曲7番が生まれている。

この有名な不滅の恋人への手紙が書かれたのは1812年の7月6日〜7日で、その内容はアントーニアがベートーヴェンに妊娠を伝えているといわれ(ベートーヴェンが返事した手紙しか残っていない)、それがベートーヴェンの子供なのか夫の子供なのか二つの説がある。

僕は世界的権威の青木やよひ女史の説が一番納得がいく。

この手紙の直後にベートーヴェンはアントーニアとボヘミアで幸せな時間を過ごすが、この手紙ではアントーニアが夫との子供の妊娠を伝え悲しむアントーニアをベートーヴェンがなだめ2人の愛が変わらない事を伝えていると考えられる。また当時ベートーヴェンはアントーニアとその子供達も連れてロンドン移住を真剣に考えていた(アントーニアは夫と別居していて夫婦間は冷めていた)。
この手紙の直後にベートーヴェンはアントーニアの家族と一夏を共にし人生で最も幸福な時間を過ごす。

その後ベートーヴェンはアントーニア達と行動を別にして弟のいるリンツを訪れるが、このリンツ滞在中に突然幸せ絶頂だったベートーヴェンとアントーニアの関係は崩壊してベートーヴェンは絶望のどん底に突き落とされる。当時の日記の幸福から絶望への豹変は生々しい。

実はベートーヴェンが以前愛していたヨゼフィーヌがベートーヴェンの子供を妊娠していた。かつての恋人ヨゼフィーヌがベートーヴェンに悩みを相談しに会いに来たときにできた子供とされ(あらゆる研究からこれは間違い無いとされている)、おそらくベートーヴェンとアントーニアが別れた原因はベートーヴェンがアントーニアにこのヨゼフィーヌが妊娠した事実を報告したからと言われている。

ベートーヴェンの予想に反して、アントーニアはこのヨゼフィーヌの妊娠を理由に2人は別れる運命と決心して、離婚するつもりでいた夫とよりを戻し一緒に暮らすようになる。

1812年の夏はベートーヴェンにとって人生で最も幸せな夏でこの時の想い出が交響曲8番に込められているのは以前も書いた。

喜び溢れる1楽章、まるで恋人と散歩したり馬車で楽しい時間を過ごしているような2楽章、3楽章はボヘミアの優しい風が吹いているようで、トリオでは2人にとって想い出の郵便馬車のポストホルンを想いださせる旋律が出てくる。4楽章はかつてベートーヴェンが夜中に周囲の反対を押し切って恋人のために大雨の後ぬかるみの中急いで馬車を飛ばした風景を連想させられるが、この楽章を作曲しているときにアントーニアとの別れが訪れ、音楽は後半は苛立ち最後はヤケクソのように僕には感じる。

3楽章の郵便馬車のポストホルンから生まれた旋律は以前も書いたが2人にとって想い出のメロディでベートーヴェンは後に歌曲「遥かなる恋人へ」やアントーニアに献呈したディアベッリのワルツ主題による変奏曲でもこの旋律を忍ばせている。不滅の恋人への想いやいかに!だ。

ベートーヴェンはこの交響曲だけは誰にも献呈せず、また驚くべきは全く初演しようとしなかった。また晩年に自分自身一番好きな交響曲はこの8番だと言った記録が残ってる。

この1812年夏に絶望のどん底に落とされ、それに加えてベートーヴェンはパトロンを失ったり体調を崩したり甥っ子カールの問題などで大スランプになるが7年後にベートーヴェンが苦しみの中で初めて神にすがりミサソレムニスを作曲しながら復活する。この頃にはアントーニア夫妻とは友人関係として復活している。

第9やピアノソナタ他後期の作品の多くに不滅の恋人への忘れられない想いが隠されている。
以前も書いた話だけど、第9の歌詞はシラーの言葉を並べかえてベートーヴェンの言いたい言葉に変貌させている個所があるが、それはアントーニアに書いた手紙の言葉と同じだったりしていて興味深い。

尚、ヨゼフィーヌはベートーヴェンがアントーニアと出会う前に愛した女性で、13通の情熱的な手紙が残されている。ヨゼフィーヌは後に精神の病で天国へ逝ってしまうが(この時ベートーヴェンの第9の3楽章がスケッチされている)ベートーヴェンの子供ミノナはヨゼフィーヌの姉に育てられ成人後は生涯独身で長寿を全うした。
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio201505.htm

2008/10/28
 ベートーヴェン 交響曲第8番 の話


 以前 「第九」 の話をしたときに ベートーヴェン の 「不滅の恋人」 について書いたけど、 それは 「第九」 にとってあくまでも一つの要因に過ぎない。
 ※以前のお手紙(2008/10/4)はこちら

しかしこの交響曲8番に関しては 「不滅の恋人」 との思い出が詰まった個人的な曲だ。


「不滅の恋人」 とは ベートーヴェン の死後に発見された熱烈なラブレターの中で ベートーヴェン が書いた相手に対する呼び名で、 今だに誰なのかは確定していないが最近の研究ではアントニーア・ブレンターノ夫人 であるというのが通説になってる (不滅の恋人は夫のいる夫人だったため ベートーヴェン の死後も秘密が徹底して守られたのだ)。


1812年の7月にその恋人と秘密でボヘミアに温泉旅行をするがその時の思い出が詰まってるのが "8番"だ。

その旅行の前後で、恋人が妊娠したことを知らされ、その喜びに溢れて書かれたのが1楽章と言われる。

イギリスに留学して ベートーヴェン に隠し子がいたという話を聞いたときは腰を抜かしそうになったが、ベートーヴェン は恋人とイギリスに移住することまで考えていたらしい。


喜びに溢れる生命力いっぱいの1楽章。ベートーヴェン の人生で最も幸せだったときの音楽だ。

続いて2楽章もまるで恋人と散歩してるようにうきうきしてる。
専門的な話になるが同じ8分音符や16分音符の音の長さを短くしたり長くしたりして、効果的にその気分を表現してる。

3楽章のトリオでは2人にとって思い出のメロディをホルンが奏でる。
そのメロディは ベートーヴェン のスケッチ帳には郵便馬車のぎょ者のポストホルンのメロディと但し書きがつけられている。


ベートーヴェン は彼女とボヘミアでおちあう前に毎日手紙でやりとりをしていたが、このポストホルンのメロディを聞くたびに彼女から手紙が来た! とわくわくしてたのかも知れないし(あたり前だけど、当時は電話もなく手紙が唯一の連絡手段だったのだ!)、 そして2人で散歩してるときに何度も耳にしたメロディかもしれない。


4楽章はまるで何か急いでるようだ。
ボヘミアで恋人とおちあうために急いで馬車を走らせてる様子かも知れない。


ベートーヴェンはこの温泉旅行の直後リンツで"8番"を完成させるが、その間に突然2人は破局する。ベートーヴェンは絶望的な言葉を日記に書き残している。


4楽章の後半で、音楽が不安気に進行した後、強烈な和声進行と苛立ちのように音楽が発展し最後は聞き方によってはやけくそのように終わるのは その破局が原因なのかもしれない。


この"8番"はもちろん純粋に音楽的な素晴らしい要素でいっぱいだが
ベートーヴェンの個人的な想いが最も詰まってる交響曲であるのもまた事実だろう。


「第九」 を書き上げた後も、ベートーヴェンは自分が一番好きなのは"8番"と言っていたし
この"8番"だけは誰にも献呈していない。


また交響曲完成後もベートーヴェンは珍しくまったく初演をしようとしなかった。
それはこの 8番 は人に聞かせるために作曲したのではないということだ。



 「不滅の恋人」? アントニーア・ブレンターノ (1780-1869)

ブレンターノ夫妻とベートーヴェン(39歳)が出会ったのは1810年。
夫フランツはフランクフルトの銀行家でベートーヴェンの経済的後援者となった。ベートーヴェンはブレンターノ家を度々訪れ家族と過ごし、 時には病気がちで伏せる事の多かったアントニーアを隣室からピアノを奏で慰めることも。オーストリア伯爵家の一人娘アントニーアが、 イタリア系豪商の家に嫁ぐも家に馴染めず、また夫は仕事に忙しく家を開けがちで心を病んでいたと言われている。
 ベートーヴェンの晩年の傑作と言われる、ピアノソナタ第30番〜32番はアントニーア献呈するために書かれたとも言われ、30番(1820)は娘マキシミリアーネに献呈されている。
 詳しくは、ベートーベン研究家の

青木やよひさん の論文
http://www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/aoki01.pdf

を御参照下さい。  <管理人>
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio200810.htm#fromsachio20081028-Beethoven-symphonyNo8

「1812年」はベートーヴェンにとって天国から地獄へ突き落されたような年だった。前年に不滅の恋人と呼ばれる女性と恋におち狂喜乱舞するような交響曲7番が生まれ、そして1812年は恋人とチェコに温泉旅行をしておそらくそれはベートーヴェンの人生で最も幸せな夏だった。その想い出が込められたのが8番(冒頭の喜び溢れるメロディは恋人の妊娠を告げられた時にスケッチされたという)だ。

ベートーヴェンは恋人とロンドンに移住することまで真剣に考えてたが突然の破局を迎える。幸せいっぱいのはずの8番も最後やけくそのように終わってしまう・・。

またナポレオンがロシアに敗北することでベートーヴェンにも大きな経済的打撃を与えた。なぜなら当時べートーヴェンを支えていたパトロンの多くはナポレオンの政策で潤ったお金持ちだったからだ。ベートーヴェンはこの1812年に最愛の恋人を失いパトロンも失い、そして医者の誤診のせいで肺結核で命まで失うと信じて作曲する気力を失い長いスランプに入る。このときベートヴェン自身の言葉で死に対する恐怖の言葉が多く残されてる。それは有名なハイリゲンシュタットの遺書とは比較にならないほど深刻で苦しみの底にあることがよくわかる。

結局ベートヴェンは生まれて初めて神にすがりミサ・ソレムニスを作曲しながら復活するが、それまで7年もかかってる。そして第9が生まれるのは8番の12年後の1824年になってからだ。ベートーヴェンにとって最も重要といわれる1812年の事件が起きなかったらミサ・ソレムニスも第9も生まれなかったかもしれないし、不滅の恋人と深く関わる後期ピアノソナタも深淵な後期の弦楽四重奏曲も違った曲になってただろ
う・・・・。

1812年はとっても重要な年なのです・・・。
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio201106.htm#fromsachio20110605-Tschaikowski1812


2008/10/04
   ベートーヴェン 「第九交響曲」 の話・・・その1


 ベートーヴェンの 「第九」 と言えば日本では12月だけど今週の日曜日は山形県天童市の市制50周年で 「第九」 を振る。

昨日新幹線に乗るために上野駅の恐ろしく深くて長いエスカレーターに乗りながら20数年前のことを思い出した。


僕は当時は故渡邉暁雄先生の内弟子で、先生が上野から新幹線で大宮に 「第九」 の合唱団練習行くとき僕はカバン持ちで先生について行った。

発車時間ギリギリで僕は長いエスカレーターをかけ降りて車両を確認しようとすると先生が 「サッチーノ、そんなに慌てなくて大丈夫だよ」 と笑いながら僕に声をかけて下さった先生の笑顔がすごく懐かしい。


暁雄先生は初めて僕に第九のレッスンをしたときに、 「第九はシラーの詩にベートーヴェンが音楽をつけたのだけど、実はこれはシラーの言葉を並べ替えたベートーヴェンの詩なんだよ。」目から鱗だった ・・・ 


実際に勉強してみると、ベートーヴェンはシラーの詩を割愛したり並べ替えをして自分の言いたいことを主張してる。


暁雄先生は最初のレッスンに僕に宿題を残した。 「なんの言葉が一番多く使われてるか調べてごらん?」


「Bruder (兄弟) 」 と言う言葉が多くまた 「Tochter (娘) 」 という言葉が大切に使われていることに気づく。 

当時はそれほど話題になっていなかったが、今では第九はベートーヴェンの 「不滅の恋人」 (ベートーヴェンの死後に発見された熱烈なラブレターからその存在が明らかに。未だに誰なのかは特定されてないが、二人の有力候補がいる) の存在が大きく影響しているといわれてるが、僕も本当にそう思う。


ベートーヴェンは家族愛に恵まれなかったことから第九には 「兄弟よ!」 という言葉を多用することで、彼の家族への憧れを強く感じると同時に、 「不滅の恋人」 を 「娘」 や 「天使」 に置き換えて 「不滅の恋人」 への想いを強く現していると感じる。


第九が作曲されるより11年前、 「不滅の恋人」 との辛い別れをした年とされる1812年のメモの中に 「歓喜、神々の美しい火花、娘の序曲を仕上げること」 というメモが見つかっているが、このメモからもシラーの詩の中の 「娘」 と言う言葉がいかに重要だったかわかる。ちなみにシラーのオリジナルの詩は 「娘」 という言葉はそれほど重要とは言えない。


ベートーヴェンはシラーの言葉を使って 「楽土の娘が魔力でこの世が引き裂いた者を結んでくれる」 と何度も強調するが、 それはシラーのオリジナルの詩が意図するところとは違うのだ。

特に最終楽章の後半で (767小節) 、ソロが 「Freude tochter aus Elysium (歓喜よ、楽土から来た娘よ!) 」 と歌った後にもう一度(777小節) 今度は最初の 「Freude (歓喜) 」 を 「tochter (娘) 」 に置き換えて 「tochter tochter aus Elysium 」 と 「娘」 と言う言葉を2度強調する。 (従来の演奏の多くは、これはスコアの印刷間違いとされて 「娘」 に置き換えないで歌われることが多い)。

いずれにせよ、ここまでくるとシラーの詩はほとんど関係ない。ベートーヴェンがいかにこの 「娘」 という言葉を大切にしていたか分かる。


また最後のクライマックスでも合唱がテンポを落としてこの 「娘よ!」 という言葉を叫ぶ (915小節) 。 


実際この 「不滅の恋人」 が誰だったのかは我々にとってあまり重要ではないが ・・・
やっぱり気になる。


世界的な権威であるベートーヴェン研究者の 青木やよひ 女史の 「アントーニア」 説が最も説得力があるが ・・・

第九を指揮してると 「ヨゼフィーネ」 説を信じてしまう ・・・

何故ならば、第九を作曲していたときにヨゼフィーネは天国にいて、アントーニアは生きていた ・・・


「天上の楽土から来た娘」 という言葉や、 「天使」 と言う言葉が明らかに 「不滅の恋人」 に重ね合わせられてると僕には感じるので、 どうしても生きていた女性より天国にいる女性を想像してしまう・・・・・


またあの第3楽章の美しい旋律は 「ヨゼフィーネ」 が死んだ1821年にスケッチされたとも言われてる ・・・・・

第3楽章の後半はまるで恋人と夢の中で踊っているようだ ・・・・・

50歳頃(1820)
「第九」を作曲
していた頃。

ちなみにどちらの女性とも不倫関係にあり、 (だからベートーヴェンや周りの人たちが秘密を守り未だに恋人が特定できない) ヨゼフィーネとの間に子供がいたことは確証されている。


いずれにせよベートーヴェンの不滅の恋人に対する想いやいかに!! ・・・だ。これは第九だけに限らず、最後の3大ピアノソナタにも大きく影響している。


とにかく第九を語りはじめたらきりがない ・・・。
4楽章にたどりつくまでの1、2、3楽章が本当に大変。凄い曲だ ・・・。

そうそう、今月末(10/29)には 関西フィル と 8番 を演奏するが、ベートーヴェンが個人的に最も大切にしていたと言われる交響曲で 「不滅の恋人」 との幸せな想い出に満ち溢れてる。8番の話はまたします。


PS 今回はこんな文章を書いたけど 「不滅の恋人」 の話は第九にとって大きな要因の一つに過ぎないし、それが誰だろうとあまり我々には関係ない。第九交響曲は他にもたくさんのあらゆる意味の要素が詰まってるすごい作品で、指揮するのがすごく難しい。また指揮するたびに発見がある。 第九をこんなに演奏するのは日本だけだけど、おかげでこの大傑作を何度も指揮することができる。ありがたいことだと思っている。
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio200810.htm#fromsachio20081004-Beethoven-symphonyNo9


2013/9/20
   ベートーヴェンの「第九交響曲」の話…その2


来週はベルリンフィルハーモニーホール50周年記念日独親善演奏会で第九を指揮する。皆さんと共演できるのを今から楽しみにしてます。

以前も書いたけど、第九の4楽章はベートーヴェンがシラーの詞をカットしたり並べかえたり、シラーにとって特別な意味を持たない言葉を強調してベートーヴェンの言いたい事が表現されている。(ミサ・ソレムニスも同じで、教典の言葉を自由に強調、省略して表現してる)。

初演当時のお客さん達は流行したシラーの詞を覚えていて、第九のアレンジされた歌詞に違和感を感じ戸惑ったという。

具体的な話は以前にその1で書いたので詳しくは省くけど、ベートーヴェンはシラーの原詩をカットしてアレンジしたセンテンス「楽土の娘が引き裂かれた人々を魔法で結ぶ」を何度も繰り返し、特に後半ではシラーにとって特別な意味を持たない「娘(Tochter)」という言葉を強調する。

この「娘」と、また他のセンテンスで使われる「天使」という言葉は不滅の恋人と重ねられてるといわれている。

ベートーヴェンが不滅の恋人と呼んだアントーニアに送った手紙で彼女を時に天使と呼び、また彼女と1812年に破局を迎えた後もベートーヴェンは彼女を愛し続け、彼女に「あなたの魂で引き裂かれた人々とまた結びつけてください」といった手紙を送っているからだ。

また以前も書いたが、ベートーヴェンには不滅の恋人と出会う前の恋人でベートーヴェンの子供まで産んだヨゼフィーヌという女性がいた。
ベートーヴェンはヨゼフィーヌと別れた後も事業に失敗した彼女を出版社などから大きな借金をして助けたが(1816〜17年)、結局ヨゼフィーヌは精神の病にかかり、1819年には幻覚の中だけで生きるようになり1821年に天国へ逝ってしまった。
この同じ頃に、第九のあの美しい3楽章がスケッチされてる…。

第九にはシラーの詩への共感だけでなくここでは書き切れないほどいろいろな想いがこめられてる。そして何より純音楽的に凄い作品なのは言うまでもない。

ここからは専門的な話になるが、楽譜の版についてベーレンライター版=古楽器のスタイルというイメージがあるとすればそれは出版社やCD会社の戦略で、決してそうではない。

因みに僕は昔からのブライトコプフ版を使ってるが、それは各ページが目に焼き付いてしまってるからで、他の版を参考に細かい修正はしてる。

ただ第九のベーレンライター版はブライトコプフとの相違点が比較的多い中で、いくつかの疑問が残る。

1楽章81小節めのフルートとオーボエのDは再現部と比較してもおかしいし、4楽章の330小節めの合唱の「Gott(神)」の響きを濁さないためのティンパニの大切なディミニュエンドがベーレンライターでは無くなってる。(新ブライトコプフ版は他のパートにまでディミニュエンドがついていてこれも疑問)。


上の写真が僕が使っている旧ブライト版、
Gottの神聖な響きを濁さないようティンパニだけがdim.


写真右がベーレンライターでdim無し、左は新ブライトで管弦楽全パートにdim. どちらも信じられない。スコア自筆譜は間違いが多く再演を経て修正されて出版されるが、再び自筆譜を参考に校訂されたという新たな版には疑問が多い。


またその後に続くテノールの速さが良く問題になるが(ベーレンライターはブライトコプフの二倍速いメトロノーム指定)、ここはメトロノーム表示より、個人的には行進曲風に(つまり2拍子)という指示と歌詞が大切だと思ってる。

ところで第九の初演時の編成は弦楽器は14 14 10 チェロとベースが合わせて12で、管楽器は2倍(倍管)!だった。ちなみに7番と8番の時の編成は更に大きく1818 14 12 7+コントラファゴット2! で倍管!だった。

今では倍管は良しとされないけれど当時のベートーヴェンは倍管が普通で、4番の初演時のパート譜にはどこで倍にするかの書き込みが残ってるという。

実はベートーヴェンは常に大編成を望んでいたし、管楽器パートは倍管で響くことを想定してスコアが書かれたことになる。とても興味深いし、関西フィルと大編成のベートーヴェンをいずれやりたいと思ってる。


という訳でベートーヴェンの話はきりが無いのでそろそろ終わります。

長い文章読んでくださりありがとうございました!

それでは行ってきます!


追記 不滅の恋人は現在ではアントーニア・ブレンターノ(夫とは別居してた)に間違いないとされる。出会いは1810年で翌年に喜びに狂喜乱舞する7番が生まれる。

有名な不滅の恋人への手紙(ベートーヴェンの死後に発見された)は、1812年の夏のチェコ旅行直前に交わされたもので、アントーニアが妊娠を告げた内容とされる(ベートーヴェンの子供か旦那の子供か2つの説がある)。

この手紙の後にチェコ旅行で2人は幸福な時間を過ごし(この時の想い出が8番に込められてる)、ベートーヴェンはアントーニアとその子供とのロンドン移住を真剣に考えていたが、旅行が終わった直後に破局を迎え、アントーニアは夫の元へ帰る。それ以後もベートーヴェンはアントーニアを愛し続け、最後の3つのピアノソナタにも不滅の恋人への想いがこめられている。

アントーニアにしても、ヨゼフィーヌにしても人妻だったことからベートーヴェン死後も周りの人間が秘密を厳守した。ヨゼフィーヌが亡くなった1921年当時のベートーヴェンの会話帳のページは、ヨゼフィーヌの親族の要望で破棄されてしまったらしく破られて無くなっているという。

またベートーヴェンの子供ミノナはヨゼフィーヌの姉によって育てられた後、生涯独身で長寿をまっとうした。

不滅の恋人の話に興味ある方には沢山の研究書がありますが、まずはベートーヴェン研究で世界的権威の青木やよひ女史の本をお薦めします。
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio201309.htm#fromsachio20130920-Beethoven-symphonyNo9-02


2010/10/26
   ベートーヴェン 「荘厳ミサ曲」 の話 ・・・ その1


 12月に大阪アカデミー合唱団&関西フィルとベートーヴェンのミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)を取り上げる。来月のはじめに初めての合唱のリハーサルをするので楽しみにしている。

 ところで若いころはこの曲の良さが全く分からなかった。スコアを片手にずいぶんといろいろな演奏を聴いたがいまいちピンとこなかった。
 例えば第九なんて何にも知らなくたって感動できる曲だが、このミサ・ソレムニスは作曲された背景を知ることでかなり違うと思うし、この曲の素晴らしさがわかり始めるといかに凄い作品か理解できる。


 1812年はベートーヴェンにとって私生活が絶頂の年であり、また奈落の底に落ちた年でもあった。不滅の恋人との幸せの絶頂であったはずが突然の破局(以前も書いたが、二人の想い出は交響曲8番にこめられてる)を迎える。 恋人と家庭をもって移住をすることすら夢見ていたベートーヴェンは精神的に大打撃をうける。これからベートーヴェンは5年以上の低迷期に入る。

 恋人の破局だけではなく、1812年はナポレオンがロシアに敗れた年で(チャイコフスキーの序曲が有名ですね)、ベートーヴェンを応援していたウィーンに進出してた貴族たち(ナポレオンの政策のおかげで大儲けをしていた)は大打撃をうけてその多くはウィーンを去ってしまう。

 ナポレオンの敗戦後に諸国の重鎮がウィーンに集まってウィーン会議が開かれる。ナポレオンは自由、平等、友愛を掲げたが(ベートーヴェンはナポレオンよりの思想だった)ウィーン会議は時代に逆行するものと知って絶望する。(ウィーンは以前にもまして芸術まで自由が規制され、言論の自由すら許されない密告の社会に逆戻りしてしまった)。

 ベートーヴェンが精神的な大打撃をうけて創作意欲はなくなりインスピレーションもわかなくなると、今度は難聴がひどくなるだけでなく病魔が彼を襲う。肺結核と診断され(これは当時は癌に等しく、弟は1815年に肺結核で亡くなる)、またベートーヴェンの周りの大切な友人やパトロンたちが他界する。ベートーヴェンは死の恐怖に襲われるようになる。(肺結核は後になって誤診とわかるのだが・・)。


 「死病にとりつかれ、これから逃れることができず、日に日に死に近づき・・・・・以下略」

 など死に対する恐怖の言葉を日記やノートに書き留めるようになる・・。


 またかつての恋人でベートーヴェンの子供まで生んだ女性ヨゼフィーヌが事業に失敗して精神の病におかされ始める。ベートーヴェンは1816年から1817年にかけてヨゼフィーヌの相談にいろいろとのっていた。この時期ベートーヴェンは出版社から印税を数年分前借してるがヨゼフィーヌを助けることがその理由の一つだったともいわれてる。それでもヨゼフィーヌの病状は悪くなるばかりで1819年には幻覚の中で生きてるだけで、1821年に41歳の若さで他界する(この時期にあの第九の3楽章の美しいテーマがスケッチされてる)。

(ヨゼフィーヌとベートーヴェンの間に生まれたといわれる子供はヨゼフィーヌの姉が育てていた。今でもヨゼフィーヌが不滅の恋人だったという説も残っている)。

 1812年から復活の年とされる1819年まで、あらゆる精神的打撃をうけたベートーヴェンは最後に神にすがった。
 ベートーヴェンは信仰深くなくキリスト教の熱心な信者でもなかったが、それでも神に救いを求めたのだ。

 ベートーヴェンは自分が興味があるのは宗教的な主題だけと公言するようになり、図書館に通って過去の作曲家のあらゆる宗教曲の研究をはじめるようになる。
 ベートーヴェンはミサ・ソレムニスを構想しスケッチをすることで復活を始め、そして1819年から本格的に始めたミサ・ソレムニスの作曲過程をとおしてベートーヴェン自身がついに生き返るのだ(並行してピアノソナタの作曲をはじめ、こちらが先に完成する)。

 ミサ・ソレムニスは一般の宗教曲とは違う。 ベートーヴェンが一番言いたかった言葉がキリスト教の理念に関係なく強調される。(これは以前も解説したが第九も同じ。シラーの言葉を並べ替えベートーヴェンが強調した言葉はシラーの詩の本来の持つ意味とは違っている)。


 例えば3曲めの「クレド」(全体の中心をなす)では最後の「来世の生命を待ち望む」という詩があらゆる手法で強調されるが、これはベートーヴェンの来世で生まれ変われる(=永遠の命)に対する強い思いがこめられ、本来のクレドの持つ意味と違う。また終曲の「アニュス・デイ」では最後の「われらに平和を与えたまえ」がもっとも強調される。それは人間の内側と外界の平和安らぎを深く求めたもので、途中何度も戦争が暗示されながら平和を願い続けるが、これはもう宗教曲の枠から大きく飛び出してる。最後にあっけなく終わってしまうのは、まだ平和は訪れず何も解決されてないからだ・・・!

 このミサ・ソレムニスの持つ生命力に圧倒され、またその神聖な美しさには思わず息を呑む。神にすがりそして復活するベートーヴェンの姿が楽譜の向こう側に見えてくるようだ。

 このミサ・ソレムニスの素晴らしさがわかってくるとそのスコアに感動するばかりで、後期のピアノソナタや弦楽四重奏と肩を並べるその崇高さに比べ、これは言い過ぎかもしれないが第九が通俗的にすら感じてしまう・・・。
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio201010.html#fromsachio20101026-missa solemnis-01


2010/12/05 (No.2)
    ベートーヴェン 「荘厳ミサ曲」 の話 ・・・ その2


 12月7日に大阪アカデミー合唱団と「荘厳ミサ曲」を取り上げる。(オーケストラはもちろん関西フィル)。この作品に関しては出来上がるまでの経緯を知っていたほうがはるかに理解し易いので以前に書いたその1も参考にしてほしい。


 以前も説明したが、ベートーヴェンは交響曲の8番を作曲した後、約7年にも及ぶどん底の期間が続く(その理由についてはその1を参照してください)。

 失望のどん底でベートーヴェンは初めて神にすがる。そしてこのミサ・ソレムニスの作曲を通してベートーヴェンは復活する。それはベートーヴェンの表現したい言葉がときに経典の理念とは離れて表現されていて、通常の宗教曲とは大きく違う。


簡単に内容を解説をすると・・・

 第1曲 「キリエ」(あわれみの賛歌)

 発想記号に「敬虔に」という指定がある。また総譜の手稿には「心より出ず、願わくば再び心に至らんことを」という書き込みがあるという。(ベートーヴェンは自分の作品について「感情を表現した」と口にしたというが、この書き込みもその表れだろう)

冒頭すぐに重要なモティーフが出てきたりするが話が専門的になりすぎるので省略する。

途中で3拍子になってテンポが少し上がり「Christe」が強調されるがそれは、神にすがっているようでもある。

 第2曲 「グロリア」(栄光の賛歌)

 冒頭から生命力があふれ、ギラギラしてる。合唱団にも強力なパワーが求められる。まさに「天のいと高き所に神の栄光」だ。

その一方で「世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」では自分の罪をさらけだし、なんと「miserere nobis(われらをあわれみたまえ)」のmiserere(あわれみ)の前にベートーヴェンは Ah!(楽譜によってはO !) という感嘆詞をつけてAh ! miserere nobis と強調する!これはまさしく当時としては異例で、感情表現の表れだ。

 僕はここで休憩を入れる。「グロリア」と「クレド」を続けて歌うなんてほとんど不可能なほどこの2曲は合唱団には大変。また次の「クレド」はこの作品の中心になるので後半に歌われるのが好ましい。

 第3曲 「クレド」(信仰宣言)

 このミサ・ソレムニスの中心になる曲。ここではまず信仰が宣言された後に合唱のテノールが「精霊により乙女マリアより御身体を受け・・・」とキリストの誕生をリディア旋法でゆっくり静かに歌われるのが聴きどころ。そのあとキリストが十字架にはりつけられ苦しみを受け葬られる場面が、まるでオペラのように強烈にオーケストラとともに表現される。そして最弱音から突然テノールが「聖書にあるように、3日目によみがえり!」と絶唱するところはもう宗教曲の枠を破ってる。

またこの「クレド」で最も特筆すべきところは、次に出てくる「主なる精霊・生命の与え主・・・」から始まるキリスト教にとってとても大切な典礼文が早口であっという間に歌われて通り過ぎ、最後の「来世の生命を待ち望む」があらゆる手法で強調され最後にはGrave というベートーヴェンにしては珍しい壮大なクライマックスを迎えてこのベートーヴェンの「永遠の命」に対する想いが表現される。それはこの「クレド」の本来持つ理念とは大きく離れたベートーヴェン独自の世界だ。

実際この「クレド」ではベートーヴェンはこの「来世の・・・」の部分から作曲がはじめられ、手稿には「光輝かせる。理想化する」という書き込みがあるという。

ベートーヴェンがこのミサ・ソレムニスを作曲しながら死の恐怖から救われたのがよく理解できると思う。(作曲当時ベートーヴェンは結核と誤診されていて死の恐怖に襲われていた。彼の当時書き残したメモからは有名なハイリゲンシュタットの遺書よりも遥かに深刻で、いかに生きる力を失っていたかがわかる)。

 第4曲 「サンクトゥス」(感謝の賛歌)

 多くの作曲家はこの「サンクトゥス」を華やかで力強い音楽にするがベートーヴェンは正反対だ。神への感謝の言葉がゆったりと静かに美しく歌われる。それは単なる宗教曲ではなく生身の人間が心から神に感謝しているような音楽。途中美しい間奏曲を挟んで(ここでは低弦の和音にのって2声に分かれたヴィオラとフルートが活躍するのもすごく斬新)ヴァイオリンのソロが現れる。この美しいいヴァイオリンのソロも神への感謝と祝福だ。

 第5曲 「アニュス デイ」(神の子羊、平和への賛歌)

 ここでは「世の罪を除きたもう主よ、われらにあわれみを与えたまえ」がバスの独唱と合唱で悲劇的に歌われたあと(ここもすごくオペラ的)、静かに美しく転調されて「われらに平和を与えたまえ」と優しく歌われはじめる・・。

途中その優しい歌は、戦争を暗示する太鼓やラッパに邪魔され、オーケストラは世の中の不安を強調するが(ここはもう歌劇そのものです)、「われらに平和を与えたまえ」が歌われ続け、曲は終わる。この最後はあまりにあっけなくて聴き手を困惑させるが、当時本当に世の中は戦争の暗い影で不安だった。またベートーヴェンは自分の子供まで生んだかつての恋人は精神病で天国へ行ってしまうとわかっていた上にベートーヴェン自身も死の恐怖にさらされていた。

当時のベートーヴェンは社会の平和と心の平安をただ願うことしかなかったのだ。

そしてまだ何も解決してなかったのだ(だから第9が生まれたのです)。


 というわけで、このミサ・ソレムニスはおそらく合唱団にとって最も歌うのが大変な作品でもありベートーヴェンの至高の傑作です。

 
 そしてこのミサ・ソレムニスを理解すると第9の聴こえ方も違ってきます(以前通俗的に第9が思えるなんて書いちゃったけどとんでもない僕の誤り!第9の素晴らしさがより鮮明に感じられるようになった)。
http://www.fujioka-sachio.com/fromsachio/fromsachio201012.htm#fromsachio20101205-missa solemnis-02

10. 中川隆[-10701] koaQ7Jey 2019年10月19日 22:45:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2155] 報告

1806年に書かれた優しさや美しさに満ちた交響曲4番、ヴァイオリン協奏曲、そしてこのピアノ協奏曲や『ラズモフスキー』にはヨゼフィーヌとの恋愛事情が関係している。

ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第4番 ト長調

Beethoven Piano Concert NO.4 G Majar - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=A6leBAPOyuc

ハンス・シュミット=イッセルシュテット 指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1958年録音


______


Beethoven - Piano Concerto No. 4 in G major Op. 58 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=iVaqfFxJG1c

Hans Knappertsbusch at the Wiener Festwochen, 1962
Wilhelm Backhaus, piano, Wiener Philharmoniker conducted by Hans Knappertsbusch

_____



A ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
カール・ベーム(指揮)
RIAS(ベルリン放送)交響楽団
1950年10月9日、ベルリン
audite(キング・インターナショナル) audite 95.610

beethoven Piano Concerto No. 4, Backhaus & Böhm (1950) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=90hFHdPQySU

C ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
カール・ベーム(指揮)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1965年、ザルツブルク(?)
MADRIGAL MADR-202

Wilhelm Backhaus plays Beethoven, Piano Concerto No.4 -
Karl Böhm, Wiener Symphoniker (1967) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=WP3OfvqpgCw

1806年は「傑作の森」の中にあっても、特に粒揃いの作品が生み出された年とされる。交響曲4番、ヴァイオリン協奏曲、歌劇『レオノーレ』(第二版、序曲は『レオノーレ3番』)、弦楽四重奏曲7〜9番『ラズモフスキー1〜3番』等正に錚々たる顔触れといったところだが、このピアノ協奏曲4番も決して忘れる事の出来ない傑作である。

ベートーヴェンというと、交響曲『英雄』や第五の様に、重厚さや激烈さを秘めた作品をイメージする者が少なくない。しかし、彼が尊敬するモーツァルトとはまた別の優しさや美しさに満ちた作品を数多く遺している事も確かである。

1806年に書かれた交響曲4番、ヴァイオリン協奏曲、そしてこのピアノ協奏曲や『ラズモフスキー』等にはそうしたベートーヴェンのもう一つの面が顕著である。これには楽聖の恋愛事情も関係あると見なされる。

ベートーヴェンは旧知の貴族、ブルンスビック家の娘で、未亡人となっていたヨゼフィーヌに当時入れ込んでいたという。嘗てはこの年にベートーヴェンはヨゼフィーヌの姉、テレーゼと婚約した事から作品にその影響が反映されていると言われていたが、今では楽聖がこの時期ヨゼフィーヌに思いを寄せていた事が判明し、婚約説は否定されている。

相手がテレーゼだったにせよ、ヨゼフィーヌだったにせよ、ベートーヴェンが女性美に通じる優しさや美しさを持つ作品を書いた事だけは確かな事である。勿論、ベートーヴェンはベートーヴェンだ。単に優美なだけの作品は書いていない。主題の提示方法、展開手法、表現手法何れも彼ならではの独創性を盛り込んでいる。正に創造力が爆発している。だからこそ、この時期の作品群が「傑作の森」と称されるのである。

ベートーヴェンが他のジャンルに先駆けてピアノ音楽において新たな側面を切り拓いていった事は既に書いた。実際、ソナタにおいては前年の1805年に23番『熱情』が書かれている。このソナタではダイナミックスの表現手法や主題の呈示方法以外にも展開面で注目すべき点が多々ある。2楽章と3楽章を切れ目なく演奏するスタイルもその一つであろう。そして、このアイディアはピアノ協奏曲4番にも生かされているし、『皇帝』やヴァイオリン協奏曲、そして第五や『田園』といった交響曲にも用いられている。

勿論、ピアノ協奏曲4番の魅力はそれだけではない。主題をピアノが軽やかに始め、弦がこれに呼応。この出だしもハイドンやモーツァルトが確立した序奏付きの協奏曲の様式から抜け出すものだし、従来の協奏曲に比べ、よりピアノと管弦楽のハーモニーの融合が図られている。

この発想をより壮麗な表現にしたものが『皇帝』であると見なす事も出来る。美しい緩徐楽章が置かれる事の多かった2楽章の扱いも特徴的だ。ベートーヴェンはこの楽章に1楽章と3楽章を連結する為の間奏曲的役割を持たせた。それ故、例えばモーツァルトの協奏曲の様に、聴き手を魅了する美しさとは別種の、一見渋い、それでいて印象的な音楽になっている。

1楽章や3楽章が軽快さや優美さだけではないベートーヴェンならではの逞しい生命力を感じさせる部分を有している事は言う間でもない。全体的な様式の均衡美も確り踏まえており、正に『皇帝』と共にピアノ協奏曲史上屈指の傑作であり、人気作となっている。

”鍵盤の獅子王”と謳われ、20世紀最大のベートーヴェン弾きと称されるヴィルヘルム・バックハウス。この不世出の巨匠がとりわけ繰り返し演奏し続けた協奏曲はベートーヴェンの4番、ブラームスの2番、そしてモーツァルトの27番であった。

何れも表面的で煌びやかな演奏効果とは縁を切った作品であるという事が出来るが、それが虚飾を嫌い、音楽的本質をひたすら追求せんとする孤高の巨匠の理想に合致しているからだと思われる。事実、バックハウスは演奏効果の大きい『皇帝』は高く評価していない。

この大ピアニストが親友カール・ベームと組んでザルツブルクやウィーンで繰り広げたこれらの協奏曲の演奏は当時の欧州音楽界最高の呼び物であり、伝説と化している。この”黄金コンビ”による4番は21世紀を迎えて漸くDVDが発売され、オールド・ファンに舌鼓を打たせたが、CDでは両巨匠の死後から歳月の経過した外盤によるAとCが存在する。

音質の面においても、巨匠同士の共演がカラー映像で拝めるという点においても、またより演奏が長年の共演で練り上げられているという点においてもDVDが個人的に最高の4番である事は確かだが、Aも流石に”黄金コンビ”というところは見せており、存在意義は充分にある。録音はDVDに比べて劣るとはいえ、録音年代を考えれば充分鑑賞度の高さがあり、バックハウスもベームも揺るぎない確信に満ちた演奏を繰り広げている。互いに虚飾を一切排した真摯な音作りだが、その手応えの充実感は半端ではなく、正に”本物の味”を堪能させてくれる。他にも書いたが、バックハウスとベームはその音楽性に共通点を多々抱えている為、互いに妥協を許さぬ厳しい姿勢を貫きながら、それが自然と一体となっているところが凄い。ライヴならではの情熱の高まりも素晴しい。

バックハウスはクレメンス・クラウスやイッセルシュテットとこの協奏曲の優れたスタジオ録音を遺しているし、DVDではクナッパーツブッシュとの個性的な演奏も遺されている。しかし、これも他にも書いたが、バックハウスとベームが組んだ時、水魚の交わりを思わせる比類なき結合が聴かれる。尚、このA、TAHRA盤とaudite盤が出ており、極端な違いはないが、微妙に音質が良いという事で、ジャケットや商品番号はこちらを掲載しておく。
http://mahdes.cafe.coocan.jp/myckb4b.htm

11. 中川隆[-10700] koaQ7Jey 2019年10月19日 22:54:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2156] 報告

という事で、ベートーヴェンの作品で音楽家に最も愛されている

ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3とピアノ協奏曲第四番

は両方共ヨゼフィーネ・ダイムへの思いを描いたものなのです。

12. 中川隆[-10699] koaQ7Jey 2019年10月19日 23:01:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2157] 報告

ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(Josephine Brunsvik 1779年3月28日 - 1821年3月31日)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生涯でおそらく最も重要と考えられる女性。ベートーヴェンは15通の恋文の中で彼女を「唯一の恋人」と呼び、「永久の献身」と「永遠の忠誠」を伝えている。謎めいた「不滅の恋人書簡」の受取人であった可能性が最も高いのはヨゼフィーネであると考える音楽学者も複数名にのぼる。


生涯

幼少期から初婚まで

ヨゼフィーネ・フォン・ブルンスヴィックはハンガリー王国(現スロバキア)のポジョニに生まれた。父のアントンは1792年に他界、後には妻のアンナ(旧姓ゼーベルク)と4人の幼い子どもが残された。ヨゼフィーネのきょうだいは長女テレーゼ(1775年-1861年)、長男で唯一相続権のあるフランツ(1777年-1849年)、三女シャルロッテ(1782年-1843年)である。一家はブダペストにほど近いマルトンヴァーシャールに居住しており、コロンパ(スロバキア、ドルナー・クルパー(英語版))にも城を所有していた。

子どもたちは家庭教師の下、各国の言葉や古典文学を学んで育ち、4人全員が音楽の才能を示すようになった。フランツは優れたチェリストとなり、娘は皆ピアノに秀でていたが、中でもヨゼフィーネが優れていた。彼らは1790年代のウィーンで気鋭のピアニストとして頭角を現していたベートーヴェンの音楽を特に賞賛していた。

1799年5月、アンナはテレーゼとヨゼフィーネを連れてウィーンに赴き、娘にピアノのレッスンを授けてくれるようベートーヴェンに頼んだ。ベートーヴェンは後年ヨゼフィーネへの愛情を抑えねばならなかったこと認めており、ヨゼフィーネはベートーヴェンに「熱中」した。

しかしながら、母が同等の社会的地位にある裕福な婿を必要としており、ヨゼフィーネが結婚したのはずっと年長のヨーゼフ・デイム伯爵(1752年生)であった。主に経済面での苦労があったがその後デイム夫妻はほどほどに幸福な関係を築き、ヨゼフィーネのピアノ教師を続けていたベートーヴェンは日頃から2人の元を訪れていた。ヨゼフィーネは3人の子どもを次々と出産、4人目を妊娠中の1804年1月に肺炎を患ったデイム伯爵が急死する。


寡婦時代

ベートーヴェンは未亡人となったヨゼフィーネを頻繁に訪ねるが、それはほどなくシャルロッテが頻繁過ぎると感じるほどであった[5]。また、彼女により一層情熱的な手紙を送るようになった[注 2]。

ヨゼフィーネは丁寧に返信しているが恋愛を秘密にしようという意思が明らかである[注 3]。1805年3月/4月にベートーヴェンは長大な文章をしたため、ヨゼフィーネへの献辞を忍ばせた歌曲『希望に寄せて』作品32の草稿を机の上に置いておいたところパトロンのリヒノフスキー公に見つかってしまったが、心配には及ばないと書き送っている[注 4]。この曲のみならず、極めて抒情的なピアノ作品『アンダンテ・ファヴォリ』WoO 57も音楽による愛の告白、とりわけヨゼフィーネに向けられたものである[6][注 5]。

ブルンスヴィック家は関係を清算するよう強く迫るようになった[7]。貴族階級の子どもたちの保護を失ってしまうという単純な理由により、彼女は平民であるベートーヴェンとの結婚を考えることはできなかったのである[8]。

1807年の終わりごろになると、ヨゼフィーネは親族からの圧力に屈するようになりベートーヴェンの前から姿を消した。ベートーヴェンが訪れる際に留守にしたのである。これは後に愛の「冷却期間」であると解釈されたこともあった[9]。

再婚

1808年、テレーゼはヨゼフィーネと合流し、長い旅の末にたどり着いたスイスのイヴェルドン・レ・バンでは教育者として著名なヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチと面会、学童年齢にあるヨゼフィーネの2人の息子の教師を決めようとした。ペスタロッチはエストニアのクリストフ・フォン・シュタッケルベルク男爵(1777年-1841年)を紹介し、一行に加わったシュタッケルベルクはオーストリア、ジェノヴァ、南フランス、イタリアを経由してオーストリアへ至る帰路を共にした。1808年/1809年の冬にアルプス山脈を越える際、ヨゼフィーネは幾度も重い病に苦しんだ。後のテレーゼの日記と1815年のシュタッケルベルクの書簡からは[10][11]、ヨゼフィーネが身体の関係を求められながらの旅に耐える体力を持ち合わせていなかったことがわかる。1809年の夏、2人の姉妹がシュタッケルベルクと共にハンガリーに帰りついた時にはヨゼフィーネは子どもを宿していたのである。

社会的地位に敏感なブルンスヴィック家は階級が低く、カトリック教徒でなく、見知らぬシュタッケルベルクをすぐさま拒絶した。ヨゼフィーネとシュタッケルベルクとの間の最初の子どもであるマリア・ラウラの誕生(1809年12月)は秘密にされた[12]。母のアンナ・フォン・ブルンスヴィックは非常に不本意ながらも婚姻の同意書に署名を行ったが[13]、この裏には生まれた子どもに父親を与えるという目的があったのみならず、さもないとデイム伯の子どもへの教育を中止するというシュタッケルベルクの脅迫もあった。結婚式は1810年2月、ハンガリーのエステルゴムで来賓もなく執り行われた。

ヨゼフィーネの第2の結婚生活は初日から不幸なもので、その後さらに悪化していった。結婚からちょうど9か月目にあたる2人目の娘であるテオフィルの誕生後、再び病に倒れたヨゼフィーネは1811年にシュタッケルベルクとは2度と床を共にしないとの決意を固めた[14]。夫婦の間には教育方法を巡っても深い意見の対立があった[15]。修復不可能な不和に至る決定打となったのは、モラヴィアのWitschappにある高価な地所の購入であった。シュタッケルベルクが資金繰りを付けることができなかったため、一家は財政破綻に陥ったのである。


1812年

数々の法廷闘争に敗れ、精神をすり減らす紛争と諍いの末、ヨゼフィーネは自暴自棄となりシュタッケルベルクは彼女の元を去った。これはおそらく1812年のことと思われ、突然の宗教的衝動により祈りと信仰的思索に慰めを見出そうとしたらしい[16]。これは緊急に資金を必要としていたヨゼフィーネの助けにはならず、彼女は常にもがき苦しんでいた。

1812年6月の日記からは[17]、ヨゼフィーネが明確にプラハへ行こうとしていたことがわかる。ここで彼女とテレーゼの日記は不意に途絶えており、再開するのは2か月後からである。

一方、ベートーヴェンはプラハ経由でテプリツェへ向かっており、プラハでは1812年7月3日に間違いなく「不滅の恋人」と呼ばれる人物と会っている。「不滅の恋人」という呼称は、彼が7月6日、7日に書いたものの投函しなかった手紙の中で用いられている[18]。

ヨゼフィーネの主な心配事はデイム伯との間に生まれた4人の子どもの財産管理を継続する事であったが、1812年8月に疎遠となった夫との間に新たな協定を結ぶことに成功した[19]。この新たな結婚契約の要点はシュタッケルベルクがいつでも彼女を置いて出ていくことが出来ると書かせたことにある - その後、1813年4月8日に娘のミノーナが生まれると彼はそれを実行に移したのであった。ミノーナが自分の子でないと疑っていた可能性もある。

別離

1814年、シュタッケルベルクは「彼の」子どもたち(ミノーナも含まれていた)を連れ出すために再び姿を現した。ヨゼフィーネが拒否したため、彼は警察を呼び3人の幼児を腕ずくで奪い去った。しかし、シュタッケルベルクが子どもたちを故郷のエストニアに連れて行かなかったことが分かっている。彼はボヘミアの助祭の元に子どもを預けると、再び各国を巡る旅に出たのであった[20]。

独りとなったヨゼフィーネはますます苦悩を深め「胡散臭い数学教師のアンドリアン(カール・エドゥアルト・フォン・アンドレーアン=ウェルブルク)を雇い(中略)徐々に彼のカリスマ的な呪文に落ちていき、妊娠するとエミリーを産んで(1815年9月16日)小屋に隠した[21]。」一方、兄の死により相続を受けたシュタッケルベルクは1815年4月にウィーンを訪れ、ヨゼフィーネを呼び戻そうとしていた。妊娠していたこと、そして決定的に関係が破壊されて以来長い時間が経っていたことにより、彼女は興味を示さなかった。シュタッケルベルクはこれに対し長い手紙をしたため、自分がいかにヨゼフィーネを「軽蔑」しているかを書き連ね[22]、さらに警察に赴いて彼女を中傷する。1815年6月30日に警察がヨゼフィーネの「評判」に関する報告を行っているが、これは彼女の子どもたちに近親相姦の事案があると申し立てたシュタッケルベルクの報告に基づいている可能性がある[23]。

アンドリアンはヨゼフィーネに捨てられ、私生児を引き受けて独力で育てるも娘は2年後に麻疹で息を引き取る[24]。しかし、こうした心痛む出来事がまだ十分でないといわんばかりにさらなる苦悩が続く。1815年12月29日にトルトノフ(英語版)のデシャント・フランツ・レイアーがヨゼフィーネに手紙を送り[25]、親権を受けて3人の幼い娘を預かっているものの、シュタッケルベルクからの仕送りが長い間滞っていると伝えてきた。ヨゼフィーネとテレーゼはほぼ2年越しに子どもたちと再会できると大喜びし、あるだけの資金をかき集めてレイアーに送付すると、間もなく彼は父親が行方不明になってしまったのであれば子どもたちを母のいる家庭に連れて行くべきだと提案してきた。しかしヨゼフィーネが再会を果たす直前、シュタッケルベルクの兄弟であるオットーがトルトノフに現れて子どもたちを連れ去ってしまったのである[26]。

ヨゼフィーネとベートーヴェンの2人が1816年の夏にバーデン=バーデンにいたという証拠がある[27]。彼らは同地で会っていたと思われ、しかも示し合わせたものと考えられる。ヨゼフィーネはバート・ピルモントにある保養所へ行くために旅券の申請を行っているが、結局そこへ赴くことはなかった[28]。興味深いことに1816年8月のベートーヴェンの日記には次の記述がある。「Pへではなく - t、Pと。 - 最善策を取り決める[29]。」

最期

ヨゼフィーネの生活はますます苦悶と惨めさを増した。デイム伯の4人の子どもは10代となり、それぞれの道を進んでいた。寝たきりの母の恐れをよそに男子は入隊していった[30]。シュタッケルベルクとの3人の娘はこの世を去っており、テレーゼは隠居、フランツは母のアンナ同様に送金を停止していた。母はヨゼフィーネに対し、全ては自分の過ちだったと書簡で伝えている[31]。

ヨゼフィーネは1821年3月31日にウィーンで42年の生涯を閉じた。この年にベートーヴェンは最後のピアノソナタである第31番と第32番を作曲している。これらの作品には「ヨゼフィーネの主題」である『アンダンテ・ファヴォリ』の回想が認められ[32]、レクイエムのようであると考える音楽学者も多い[33]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF

13. 中川隆[-10698] koaQ7Jey 2019年10月19日 23:10:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2158] 報告
アントニー・ブレンターノ(Antonie Brentano 1780年5月28日 - 1869年5月12日)は、慈善家、美術品収集家、芸術家のパトロン。

生涯

幼少期

アントニーはヨハンナ・アントニー・ヨーゼファ・エドル・フォン・ビルケンシュトックとしてウィーンに生まれ、トニと呼ばれた。父はオーストリアの外交官、教育改革者、美術品収集家であるヨハン・メルヒャー・エドラー・フォン・ビルケンシュトック(1738年 - 1809年)、母はカロリーナ・ヨーゼファ・フォン・ハイ(1755年 フルネク(英語版)/ベーメン - 1788年5月18日 ウィーン)であった。きょうだいは3人いたが、うち2人は幼児期に死亡している。

父はマリア・テレジアやヨーゼフ2世の顧問を務めた人物であり、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンがピアノソナタ第15番 作品28(1802年)を献呈したヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスとは妻を通じた縁により義兄弟の関係であった。

母はフラデツ・クラーロヴェーの改革派司教(Reformbischofs)であったヤン・レオポルト・リッター・フォン・ハイ(1735年-1794年)の妹である。

1782年から1784年頃までビルケンシュトック一家はフランクフルトで暮らしており、ここでアントニーのきょうだいのコンスタンティン・フィクトルとヨハン・エドゥアルトが生まれるも間もなく命を落としている。ヨハン・メルヒャーがブレンターノ家と知り合ったのはこの時期であった可能性もある。ウィーンにおいて一家は40室を有するラントシュトラーセ郊外、エルトベルガッセ98(現在のエルドベルクシュトラーセ19)の邸宅に居住していた。邸宅は大規模な図書館を備え、ビルケンシュトックの多数の美術品コレクションも納められていた。

アントニーが8歳を迎える10日前に母が伝染病により他界し、彼女はプレスブルクのウルズリーネ女子修道院併設の学校に送られることになった。

結婚

1797年9月、作家のクレメンス・ブレンターノ(1778年)やベッティーナ・フォン・アルニム(1785年-1859年)の異母きょうだいにあたるフランクフルトの裕福な商人であったフランツ・ブレンターノ(1765年-1844年)が、腹違いの妹であるゾフィー・ブレンターノ(1776年-1800年)と彼の継母であるフリーデリケ・ブレンターノ(旧姓ロッテンホフ、1771年-1817年)をウィーンに送りアントニーと面会させた[1]。フランツは1796年末もしくは1797年のはじめに軽く顔を合わせていた。アントニーの父との長期の交渉の結果、フランツとアントニーは1798年7月23日にウィーンのシュテファン大聖堂で結婚することになった。結婚から8日経つと2人はウィーンを後にしてフランクフルトへと旅立った。

アントニーとフランツは6人の子を儲ける。


マチルデ (1799年7月3日 フランクフルト - 1800年4月5日)

ゲオルク・フランツ・メルヒャー (1801年1月13日 フランクフルト - 1853年3月1日)

マクシミリアーネ・オイフロジーヌ・クニグンデ(1802年11月8日 フランクフルト - 1861年9月1日ブルンネン/シュヴァイツ)

ヨーゼファ・ルドヴィカ (1804年6月29日 フランクフルト - 1875年2月2日)

フランツィスカ・エリザベート(1806年6月26日 フランクフルト - 1837年10月16日)

カール・ヨーゼフ (1813年3月8日 フランクフルト - 1850年5月18日)

ウィーン時代

1809年8月、アントニーは病に倒れた父の世話のためにウィーンへと戻るが、父は同年10月30日にこの世を去る。父の死後もその美術品コレクションを整理し、売却を管理するためウィーンに3年間留まった。フランツ・ブレンターノは自ら営む事業の拠点をウィーンに設立し、そこで妻と合流する。ベッティーナ・フォン・アルニムは書簡体で記した小説『ゲーテとある子供の往復書簡』においてビルケンシュトックのコレクションについて次のように記している。

「私はプラーターの全景を見渡す古い塔にすこぶる満足している。気持ちの良い緑の芝生の壮大な眺めに連なる木々。ここで私は亡くなったビルケンシュトックの屋敷に暮らしている。2千の彫刻、同じだけの絵画、2百の骨董の瓶、それにエトルリアのランプ、大理石の花瓶、骨董の残骸である手足、中国のドレス、硬貨、鉱物のコレクション、海洋生物、望遠鏡、数えきれない地図、古代の埋もれた王国や都市の設計図、巧みに彫られた杖、貴重な資料、そして最後にカール大帝の剣、私はそうしたもののまっただ中にいるのだ。我らを取り囲むこれらすべては無秩序に輝きを放ちながら目前に迫った仕分けを待っており、従って触れられるものや分かるものは何もない。満開の栗並木、そしてその背に我々を運び急ぐドナウ川よろしく、永久の美術ギャラリーというものは存在しないのである[5]。」

ブレンターノ一家はこの時期の1810年にベートーヴェン、1812年にゲーテとそれぞれ面識を得ている。

慈善事業

一家がウィーンから戻った後の1816年、フランツはフランクフルトの議員に選出される。アントニーは貧困者と公民権を失ったフランクフルト市民のための基金を立ち上げる事業により「貧困者の母」として知られており、複数の慈善団体の創設、運営にも携わった[6]。また、フランクフルト随一の文化人であった彼女は、同市にサロン文化を根付かせることに貢献した。ブレンターノ家はゲーテやグリム兄弟といった著名人をフランクフルトの自宅、またはラインガウ近傍のヴィンケル(Winkel)にあった夏の別荘でもてなしたのである[7]。

メイナード・ソロモンの「不滅の恋人」説

アメリカ合衆国のベートーヴェン学者であるメイナード・ソロモンは1972年発表の「New Light on Beethoven's Letter to an Unknown Woman(氏名未詳女性宛てベートーヴェン書簡への新たな光)」と題した論文上、および補遺となる1977年の評論「Antonie Brentano and Beethoven(アントニー・ブレンターノとベートーヴェン)」において、アントニーがベートーヴェンの「不滅の恋人」であると発表した[9]。

ソロモンの仮説は長く支持を集めたが、ゴルトシュミット、ベアーズ、トーマス=サン=ガリ、アルトマン、テレンバッハらにより広く疑念を突き付けられる。ソロモン自身も根拠がせいぜい状況証拠にとどまることを認識していた。ベートーヴェンはアントニーの夫と親密な友人関係を築いており、これをベートーヴェンの道徳規範に照らすと彼が友人の妻と恋愛関係にあったとは考えにくい。加えて、ブレンターノ夫妻の関係がソロモンの趣旨に合うような不仲ではなかったという確かな証拠がある[10][11]。

「不滅の恋人」として可能性がある他の候補にはテレーゼ・ブルンスヴィック(1775年-1861年)、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック(1779年-1821年)、マリー・フォン・エルデーディ(1779年-1837年)、歌手のアマーリエ・ゼーバルト [12]、ジュリエッタ・グイチャルディ(1782年-1856年)らがいる。

ようやく近年になってソロモンのアントニー仮説が最終的にして徹底的な反論を受けるに至った。この長年の疑問への答えはベートーヴェンの有名な手紙の第2の部分に既に見出すことが出来る。

1.「月曜日 - 木曜日 - これらの日にだけ郵便馬車がここからKに向かいます。」
2.「貴女が私からの最初のメッセージを手にするのはおそらく土曜日以降となるでしょう。」

ベートーヴェンがこれを記したのは7日火曜日のテプリツェであり、アントニー・ブレンターノが同時期に「K」(カルロヴィ・ヴァリ)にて数週間の逗留中であったことをよく知っていた。テプリツェからカルロヴィ・ヴァリの100kmの道のりであれば、郵便馬車はわずか1日しか要しない。従って、もし手紙がアントニーに宛てられたものであれば彼女は最低でも金曜日の午前にこれを受け取ることになる。

しかし、もし宛先の人物がその手紙を「おそらく」土曜日以前に受け取らないとベートーヴェンが考えたのであれば、その人物は西へテプリツェから2日、カルロヴィ・ヴァリからさらに1日の場所にいなくてはならない。

次の大きな都市はエゲルで、カルロヴィ・ヴァリから約50kmの位置にある。その次はさらに10km離れたフランチシュコヴィ・ラーズニェ(英語版)である。今やアントニーが除外されることは確実である。

オーストリアの皇帝が1812年7月5日に一時フランチシュコヴィ・ラーズニェにおり、ヨゼフィーネの最初の夫が皇帝と私的な友人であることを考え合わせると[注 2]、ベートーヴェンと7月3日、4日に会っていたヨゼフィーネが同地で夫に会おうとしていたと考えると辻褄が合う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8E

14. 中川隆[-10697] koaQ7Jey 2019年10月20日 06:55:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2159] 報告
ベートーベン手書きの手紙公開へ、苦しい経済状況など訴え
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1873878&media_id=52

ベートーベン手書きの手紙公開へ、苦しい経済状況など訴え
(ロイター - 01月11日 16:10)


[ベルリン 10日 ロイター] ドイツ北部リューベックで、ベートーベン(1770─1827)が自身の病気や金欠を嘆いている手書きの手紙が出てきた。この手紙を遺産贈与の一部としてもらい受けたリューベック音楽大学ブラームス・インスティチュートによると、手紙は10万ユーロ(約980万円)以上の価値があるという。


6ページに及ぶ署名入りのこの手紙はベートーベンが53歳の時に書いたもので、ハープ奏者で作曲家のフランツ・アントン・シュトックハウゼンに対し、自身が1823年に完成させた有名なミサ曲「ミサ・ソレムニス」の買い手がいないかと尋ねている。


手紙の中でベートーベンは、患っていた目の病気のことや、おいの学費などで経済的に厳しい状況にあることなどを切々と訴えている。手紙は受取人の子孫である音楽教師が所有していた。


西部ボンにあるベートーベンの生家を利用した博物館「ベートーベンハウス」のミハエル・ラーデンブルガー氏はロイターに対し、手書きの手紙は非常に価値があると指摘。昨年、ベートーベンが書いた買い物メモはオークションで7万4000ユーロで落札された。同氏は「ベートーベンの手紙は珍しく、手紙の長さや私生活に関する記述を考えると、今回のものは非常に興味深い」と語った。


ブラームス・インスティチュートは来週、この手紙を一般公開する。


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この記事を読んだ皆さんの多くは、「そうか。ベートーヴェンはやっぱり貧しかったんだ」とお思ひに成るかも知れません。そして、ベートーヴェンの事を、「ベートーヴェンは、矢張り、難聴に加えて、貧困にみ苦しんだ苦悩の英雄だったんだ。」とお思ひに成るのではないでしょうか。


でも、ちょっと待って下さい。ベートーヴェンは、本当に貧しかったのでしょうか?


こう言ふ見方をする人も居るのです。


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(以下引用)


 よくよく考えますと「ベートーヴェンはなんと幸福な人だったのだろう!」と感嘆することさえできます。幸福とは何か、幸福な人生とは何か、これは人によって考え方が違いますから、だれにでも当てはまる答えはありません。ドイツの思想家ヒルティが「幸福論」という有名な大きな本を書いています。そのなかで、「自分の仕事に我を忘れて、完全に没頭できる人はもっとも幸福である。」といっています。ベートーヴェンはピアノ演奏と作曲に没頭して生涯を終えました。ブロイニング夫人が、
「またラプトウスがはじまった。」とよくいったように、ベートーヴェンは熱中型の人でした。他人がどう思おうと関係なく、自分の意志を貫いて「芸術」音楽に一生を捧げたのです。このことから、ヒルティの意味で、本当に幸福な人であったといえると思います。
 彼はさらに続けて、
「自然の休息による中断以外は、絶え間なく有益な活動をしている状態こそ、地上で許された最上の幸福な状態である。」ともいっています。ベートーヴェンはたくさんお恋愛事件や甥の養育問題、年金訴訟など、音楽以外の「雑事」に気を散らしていた間にも、決して音楽のことを忘れず、人々に感動を与える音楽を作り続けていたのですから、ベートーヴェンはヒルティの幸福を絵に描いたような人であったといえるのではないでしょうか。後世の多くの人々がベートーヴェンの伝記を読んで、結果的にそのような判断を下しているだけではありません。ベートーヴェンのピアノの弟子であったチェルニーがすでに、
「ベートーヴェンは、生きている間から幸福であった。」と証言しているのです。
「ベートーヴェンほど幸せな芸術家はいなかったし、今もいない。」
「ベートーヴェンは1800年にはすでに、モーツァルトの芸術的地位とハイドンの社会的地位を併せもったものを手に入れていたのです。」
「ベートーヴェンは青年時代からすでに、貴族や上流階級からあらゆる可能な援助と保護を与えられ、尊敬を受けていました。晩年になって、奇妙な振る舞いが目立った時期でも、物笑いの種にされる、などということはありませんでした。ベートーヴェンはいつでも特別な存在として、賞賛され尊敬され、その偉大さを理解できなかった人たちからでさえ認められていたのです。」

(滝本祐造『偉大なる普通人/ほんとうのベートーヴェン』(KB社・2002年)218〜219ページ)

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滝本祐造(たきもとゆうぞう)

1932年、京都市に生まれる。京都大学大学院美学美術史専攻。大谷大学教授を経て、京都市立芸術大学音楽学部教授。音楽美学、ピアノ教育。1998年定年退官後、京都ベートーヴェン研究所主宰。中国西安音楽学院栄誉教授。主要著書「ドイツ民謡選」(共著、三修社)、世界の名著「近代の芸術論」(共訳、中央公論社)、「西洋文化と音楽」(共訳、音楽之友社)、「ピアノの基礎」「モーツァルトの本質」「ベートーヴェンの本質」「日本音楽と中国音楽」(美学社)、「ベートーヴェンの独創性」(北京世界知識出版社)論文「源氏物語の音楽」「道教音楽」「ハンスリックの音楽美学について」「真宗大谷派の声明」「音楽という術語について」など


(滝本祐造『偉大なる普通人/ほんとうのベートーヴェン』(KB社・2002年)に書かれた著者略歴)

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私は、ベートーヴェンを深く尊敬する人間です。もちろん、この本を書いた滝本先生もそうでしょう。ですが、もし、この記事が、ベートーヴェンについて、皆さんにそう言ふ印象を与えるとしたら、私は、ちょっと待って頂きたいと、思ふのです。


滝本先生は、こう続けます。


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(以下引用)

 人はよく、ベートーヴェンは不幸な音楽家であった、といいます。そして、「生涯貧乏に苦しんだ音楽家だったではないか」。「難聴に苦しんだ音楽家であった」、「失恋ばかりして一生結婚できなかった」、このような人を本当に幸福といえるのか、と反論する人も多いと思います。しかし、この本を読んできた皆さんなら、きっとこのような反論を跳ね返すだけの用意ができたと思います。このような反論は、ベートーヴェンを不幸な人間に仕立て上げ、それでもなお「傑作」を作った音楽家だ、と「楽聖」ベートーヴェンを強調するための舞台装置であったのですね。

(滝本祐造『偉大なる普通人/ほんとうのベートーヴェン』(KB社・2002年)219〜220ページ)

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「そんな筈は無い!」とおっしゃる方の為に、滝本先生は、こう述べます。


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(以下引用)

 つまり、ベートーヴェンは決して、人が考えているほど貧乏ではなかったということを、本書から十分読み取って下さったことと思います。パトロンからたくさんの年金を生涯受け続けていたし、名曲や「パンのための仕事」を出版して、お金が次々と入ってきていたし、音楽会やピアノのレッスンからも臨時に高額の収入がありました。
 病気や引っ越し、甥の養育費や裁判費用など、たくさんの出費があったのに、人にお金を貸したり、甥に遺産を残すだけの余裕があったのです。モーツァルトは借金を残したまま死にました。ベートーヴェンもときには借金をしましたが、全部返してまだあまったのとは、はなはだ対照的です。ベートーヴェンは決して大金持ちではありませんでしたが、反対に、貧乏で生活が困ったというほどではなかったのです。作曲のためとはいえ、同時にいくつもの家を借り、夫婦の召使を雇ったり、気に入った客人にはごちそうしてもてなす人のうおいベートーヴェンだったのですから、本当に貧乏なら、とてもこんなことはできなかったでしょう。
 借金とはいえないかも知れませんが、ベートーヴェンは作曲の依頼と引き替えに高額の「前金」を受け取りながら、約束を果たさないまま死んでしまいました。いくつもありますが、ヴォルフマイヤーが頼んだ「ミサ」や、イギリスのフィルハーモニー協会からの「交響曲」もそのなかに含まれています。これは明らかに約束違反ですが、両者ともベートーヴェンを尊敬していたので抗議はなされず、うやむやにされたままです。逆にベートーヴェンの方は、ガリチン侯爵に約束違反だとして、使者をロシアにまで送り、執拗に作曲料の残額の取り立てを迫りました。その争いは死後にまで持ち越されました。結局、遺族がお金を受け取り、これまたベートーヴェン側の勝利でした。
 あるとき、良識ある友人のブロイニングが、ベートーヴェンに意見したことがありました。それは、ベートーヴェンが物乞いのように、
「自分は貧乏だ、お金がない、何とかして欲しい。」
と、知り合いに手紙を書いているのを見て、
「もし今、金がいるのなら、人に頼らないで、自分の預金を下ろして使えばいいではないか。」
というのです。このとき、ベートーヴェンはが、10,000フローロングもの大金を銀行に預けていることを、ブロイニングは知っていたからです。ベートーヴェンは、友人の忠告に耳を貸しませんでした。ベートーヴェンが貧乏だったと主張する人は、このベートーヴェン自身の手紙や日ごろの言動の忠実な記録を鵜呑みにして、その根拠にしているのです。ベートーヴェンはお金の不足や困っていることをよく友人に訴えていますが、ベートーヴェンは人の同情を得て、お金を手に入れることが上手だったのですね。だから、お金に関しては、ベートーヴェンは決して「聖人」ではありません。こざかしいくらいまったくの普通の人であったのです。

(滝本祐造『偉大なる普通人/ほんとうのベートーヴェン』(KB社・2002年)220〜222ページ)

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滝本先生は、更に、ベートーヴェンの難耳も、実は、後世の人々が思って居る程重度の難聴ではなかったのではないか、と論じておられます。それは、この記事とは直接は関係しないので割愛しますが、話をこのロイターの記事に戻せば、責める積もりは有りませんが、この記事の筆者は、ベートーヴェンの実像について、滝本先生が書いておられる様な研究が有る事を知らずにこの記事を書いて居る様に思はれます。


音楽史に限らず、科学史や数学史においても、或いは軍事史や政治史においても、歴史には、常にこうした落とし穴が存在します。史料へのアプローチにおいては、決して、史料を額面通りに受け取ってはいけないと言ふ事です。


ロイターのこの記事は、その事を、反面教師として教えて居ます。

(なーんて医者ごときが歴史の事柄に口をはさむと、又お叱りを受けるのでこの辺にしておきます。)

平成24年(西暦2012年)1月22日(月)
                   西岡昌紀(内科医)
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/569.html

15. 中川隆[-10696] koaQ7Jey 2019年10月20日 06:57:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2160] 報告

ベートーヴェンが1813年以降 急にお金に困る様になった事情


>>14

>手紙の中でベートーベンは、患っていた目の病気のことや、おいの学費などで経済的に厳しい状況にあることなどを切々と訴えている。

>ベートーヴェンは決して大金持ちではありませんでしたが、反対に、貧乏で生活が困ったというほどではなかったのです。

>ベートーヴェンが貧乏だったと主張する人は、このベートーヴェン自身の手紙や日ごろの言動の忠実な記録を鵜呑みにして、その根拠にしているのです。

>史料へのアプローチにおいては、決して、史料を額面通りに受け取ってはいけないと言ふ事です。

この1813年というのは ベートーヴェンに初めての子供が生まれた年なのです。 もちろん不倫の子なので、周りの人が協力してスキャンダルにならない様に関係文書をすべて抹殺して、記録としては残っていないのですが。

ブルンスヴィック家やブレンターノ家の関係者の日記で、ベートーヴェンのスキャンダルに関係すると思われる箇所だけ全て切り取られて無くなっているのは有名な話ですよね:

1812年といえば、「不滅の恋人」への手紙が書かれた年であり、不滅の愛人とされるアントニーン・ブレンターノとの何かが、この2つの作品、特に第8交響曲の内容に投影されていることは間違いないであろう。

残された日記には、「1812年10月、私はB(ブレンターノだといわれている)のためにリンツにいた」と書かれており、この間に完成された第8交響曲がロマンチックな曲想であるのも納得できる。いかなる思いで、リンツでこの曲を完成したのだろうか。第3楽章のトリオで聞くことができる牧歌的な旋律は、ベートーヴェンが「不滅の恋人」との思い出の場所で得たもの、手紙が書かれたカールスバートで聞いた郵便馬車のポストホルンの旋律から作られたと言われている。

1813年の日記に書かれた、

「服従、おまえの運命への絶対服従、ただそれだけが、おまえに犠牲的行為をさせることができるのだ…奴隷になるまで」

ではじめられる日記から、「不滅の恋人」との関係が、悲劇的な展開に至ったと推測される。弟のカール・カスパールの病状が悪化したのもこの年である。ベートーヴェン自身の健康も優れなかったようだ。


この年、ベートーヴェンが大金を必要としていたことで、当時、金策をして大金を得ていたにもかかわらず、ベートーヴェンは生活に困窮していた。その理由は、青木さんの著書で推測されている。

かつて「あなたの心臓が私のために打つときはいつ来るのか…私の心臓は…死ぬまであなたのために打ち続けるでしょう」と書き送った相手、ヨゼフィーネの経済的な困窮を救うためだと言う。

彼女の子供ミノナの父親はベートーヴェンである可能性があり、ヨゼフィーネのために力を尽くしたとしても不思議ではないとのことである。

http://blogs.yahoo.co.jp/nypky810/folder/1515897.html


生涯独身だったベートーベンは、実は一度「婚約」をした(と、されて)います。その相手が、テレーゼ・ブルンスヴィックという人。この人はとても頭の良い人だったらしく、後に、当時まだ一般的ではなかった幼稚園を開設し、オーストリア・ハンガリーの幼児教育の基礎を作る教育者となりました。

その妹のヨゼフィーネ・ブルンスヴィックという人がいて、この人は姉ほどの知性派ではないにせよ、美人で儚げな人だったようです。……後に資産家のダイム伯爵と結婚しますが、実は! 婚約者の姉テレーゼよりも、こっちの妹ヨゼフィーネの方こそ、ベートーベンの真の恋人だった! とされています。


ここでまた謎が出てくる。ベートーベンは愛する妹ではなく、何故その姉と婚約したのか??

ヨゼフィーネはどうも、家同士の問題とかで「愛のない結婚」をさせられた節がある。本人はベートーベンを憎からず思っていたのでしょうが、耳が悪く強情で不細工、将来性もないベートーベンは、結婚相手とはふさわしくなかった。そのせいもあって別な資産家と結婚したようです。

ところがその結婚が不幸だった。夫ダイム伯爵は三十才も年上で話も合わない。おまけに資産家のはずなのに借金も多かった。

で、結婚五年後この夫が、旅先で急死してしまいます。四人の子供を抱えて当方に暮れるヨゼフィーネを、ベートーベンはなにくれと無く援助したらしい。二人が本格的に恋に落ちたのは、どうもここからのようです。


未亡人とはいえ独身だから、この恋は良いんじゃないか、というのは、現代の尺度ですね。当時はまだ、未亡人がおいそれと再婚すると不貞と言われた時代です。夫が亡くなったとはいえ、伯爵家の母として子供を育てる義務もある。平民のベートーベンとは、所詮「身分違い」なわけですし、好き合っていたとしても「道ならぬ恋」だったのです。

この一種のスキャンダルを隠すために、妹をかばうために、姉テレーゼは、ベートーベンと「偽装婚約」を、したのではないか。

普段から独身主義を公言し、それを周りに認めさせるほどの才女ぶりを発揮してきた姉なら、これも変わり者同士の婚約とは言われても、身分違いもある程度超えられる。スキャンダルではない。妹との一件をもみ消すにはちょうど良い。で、ヨゼフィーネを泣く泣くあきらめたベートーベンに対して、テレーゼの方から事情を言って持ちかけたのではないか。


天使ヨゼフィーネは、その後の再婚にも失敗し、だんだん精神をも犯されていったようです。

ベートーベンも、三たび登場し彼女に支援をします。

ヨゼフィーネは最期、姉テレーゼの見守る中、狂気のウチに死んでいった、とされています。1821年、まだ41歳でした……。

http://d.hatena.ne.jp/terryyokota/20100322

不倫をテーマにしたオペラ「コシ・ファン・テュッテ」を作曲したモーツアルトを「不道徳」と非難したベートーベンですが、二人の人妻との間にそれぞれ一人ずつ、しかもほとんど同時期に生まれた子供がいたと言う話は最近まで一般には知られていませんでした。

 その人妻のひとりはヨゼフィーネといって、1805〜1806年くらいにかけてベートーベンが親しくしていた女性で、末の子のミンナを産んだのが1813年。

女の子ですが成人になったミンナの写真を見ると確かにベートーベンそっくりで、多くの研究者も父親がベートーベンであることに異論がないようです。

ヨゼフィーヌとは1807年以降はしばらく交際はなかったようなのですが、彼女の2度目の夫の失踪(借金が原因で)を機に、1812年頃にはよりを戻したのかもしれません。

かなりの美女だったそうですが、彼女はこの頃には精神的にも、また経済的にも行き詰っていたようです。

 もう一人はアントニエ・ブレンターノといって1810年頃から交際があったようですが、こちらは正真正銘の人妻で裕福な家の夫人でしたが、夫婦関係は形だけだったとも言われています。

アントニエは気高く、教養ある貴婦人で、1812年の段階ではベートーベンの本命だったようで、最近の研究ではベートーベンが亡くなるまで人目に触れないように大事に保管していた宛先不明の熱烈なラブレター、「不滅の恋人へ」の宛先人だということです。

ヨゼフィーネが出産する約1ヶ月前に男の子を産んでいます。

ブレンターノ家とは家族ぐるみの付き合いで、夫のフランツはベートーベンの熱心な支援者の一人です。
特に経済的にはベートーベンに多大な援助していたことで知られ、夫人のアントニエとはあくまでプラトニックな関係とされといましたが、種々の状況からしてアントニエの末の子カールの父親がベートーベンであった可能性はかなり高いようです。

 アントニエとはその後、手紙や楽譜などのやりとりのみで、直接会うことはなく、結果的には確かに「プラトニック」なものになり、夫のフランツもその後も変わりなくベートーベンを支援していたようです。
もっとも前述の「不滅の恋人」の手紙の中で「他の女性が私の心を占めることなどけっしてありえません、けっして、けっして・・・・・」なんて書いておいて、別な女性に子供を産ませたことで疎遠になったのかも知れませんが。

一方、いろいろ困っていたヨゼフィーヌに対しては、ベートーベンのほうから経済的に援助していたようで、自らの責任を感じていたのかも知れません。

http://mitoguitar.blog85.fc2.com/?m&no=5


要するに、1813年以降 ベートーベンは、自分との不倫の子を産んでお金に困っていたヨゼフィーネを援助する為に、財産をすべて使ってしまい、自分の生活費にすら事欠いていたんですね。

>手紙の中でベートーベンは、患っていた目の病気のことや、おいの学費などで経済的に厳しい状況にあることなどを切々と訴えている。


他人には本当の事は言えないので、他の理由をでっち上げただけなんですね。

16. 中川隆[-10695] koaQ7Jey 2019年10月20日 06:59:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2161] 報告

楽聖ベートーヴェンの遺体鑑定
ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770年12月17日洗礼-1827年3月26日没) は神聖ローマ帝国のボンで出生し、幼少の頃より父親から強制的に音楽教育を受けた。その後ハイドンらに師事し、22歳の時にウィーンでピアニストや作曲家として音楽活動を開始した。

20歳代後半から持病の難聴が悪化するが、30歳代で交響曲第3番変ホ長調「英雄」(1805)、交響曲第5番ハ短調 「運命」(1808)、交響曲第6番ヘ長調「田園」(1808) など、中期を代表する名作を次々と発表した。難聴、慢性的な腹痛や下痢などの持病は徐々に悪化しベートーヴェンを苦しめたが、晩年にも大宗教曲ミサ・ソレムニス (1823) や交響曲第9番ニ短調 (1824) などの大作を発表している。

しかし下痢と顕著なるいそう (痩せ) が4か月も続き、1827年に56歳で逝去した。


 死亡前にベートーヴェンは難聴の原因を調べるために自分の解剖を依頼している。そこでヨハン・ワグナー医師により1827年3月26日にベートーヴェンの家で解剖が行われた。ワグナーの記録は概略以下の通りである。

 ベートーヴェンの外耳道、特に鼓膜は厚いかさぶたで覆われ、開頭すると耳管開口部と扁桃腺の周囲には凹んだ瘢痕が見られ、耳管自体は腫れて狭窄していた。顔面の神経は異様に太く、周囲の動脈は拡張し、左の聴神経は細まって3本の細い溝のようになり、右の聴神経は鼓室から伸びる1条の白い溝になっていた。脳回は浮腫が強く白く変色していた。

胸部臓器は正常だったが、腹腔内には4クォート (約4.4リットル) の褐色混濁液が貯溜し、肝臓は緑青色調で半分の大きさに萎縮し、表面や断面は粗大結節状を呈していた (肝硬変の所見)。肝臓内の血管は細く狭窄し、乏血状だった。胆石があり、脾臓は腫れて膵臓のように硬くなっていた。胃腸は空気で大きく膨隆し、左右の腎臓は1インチ (約2.5センチ) の厚さの被膜で覆われ、褐色混濁液が浸潤していた。腎臓の組織は乏血状で、腎杯はエンドウマメ大の石灰質の結石で占められていた。体は極端に痩せていた。


 20世紀末になって科学的鑑定手法が進歩すると、ベートーヴェンの遺髪を用いて4回の鑑定が行われた。鑑定に用いられた遺髪はアメリカ・ベートーヴェン協会のメンバーが1994年12月にサザビーのオークションで3600ポンド (7300ドル) で落札した髪の毛の房 (頭髪582本) である。この房は、ドイツ人指揮者のフェルディナント・ヒラーがベートーヴェンの死亡日の翌日 (1827年3月27日) に遺体から切り取ったものである。その房はヒラー家の子孫に受け継がれたがその後所在不明となり、1943年にナチスから逃亡中のユダヤ人 (氏名不詳) がオランダ人医師ケイ・アレクサンダー・フレミングに治療費代わりに贈与し、オークションで売られるまでフレミング家が所有していた。

 髪の毛の房は灰色、白色、褐色の3色の髪の毛の束を含んでいた。長さは7〜15センチで、髪の毛が1月に0.5インチ伸びることからベートーヴェンの生涯の最後の6〜12か月の間に伸びた部分と考えられた。この房以外にも、国会図書館 (ワシントンD.C.)、ハートフォード大学 (コネティカット)、大英図書館 (ロンドン)、楽友協会 (ウィーン) とベートーヴェンの家 (ボン) に遺髪が保管されている。

 第1の遺髪鑑定 (1996年5月):サイケメディクス・コーポレーションのワーナー・バウムガートナー医師がラジオイムノアッセイ法を用いて20本の遺髪中の麻薬性鎮痛薬の有無を調べた。19世紀のヨーロッパでは鎮痛、鎮静、解熱、下痢止めの目的でモルヒネが頻用されていたが、腹痛の持病があるにもかかわらずベートーヴェンの遺髪からはモルヒネなどの麻薬は検出されなかった。主治医が過量の投薬を行ったため、その医師に対する不信感からベートーヴェンは治療を拒否していた疑いがある。

 第2の遺髪鑑定 (1999年6月):ノース・カロライナ州のラボラトリー・コーポレーション・オブ・アメリカでマーシャ・アイゼンブルグらにより3本の遺髪を用いてミトコンドリアDNA分析 (高度変異領域HV1とHV2を検査) が行われた。結果は下表の通りで、塩基位置263と315.1にアンダーソンらが報告したミトコンドリアDNAの塩基配列 (Nature 290: 457-465, 1981) との相違 (個人差) が確認された (他の試料との比較はされていない)。


試 料\塩基位置 73 263 315.1
アンダーソン配列 A A -
ベートーヴェンの遺髪 AまたはG G C


 第3の遺髪鑑定 (1999年秋):シカゴ・マックローン研究所のウォルター・マックローンが走査電子顕微鏡・エネルギー分散型X線分光分析装置を用いて2本の遺髪中の微量元素を調べた。その結果遺髪中の鉛の濃度が正常人の42倍 (25 ppm) あることが判明し、ベートーヴェンは生前から重症の鉛中毒で、それが持病や死の原因になった可能性が示唆された。一方、1820年当時に梅毒の治療に用いられていた水銀は遺髪からは検出されず、ベートーヴェンが梅毒に罹患していたという風説は否定された。

 第4の遺髪鑑定 (2000年9月):米国エネルギー省の国立アルゴンヌ研究所の研究者が非破壊シンクロトロンX線蛍光分析を行って6本の遺髪中の微量元素を調べた。マックローンの鑑定結果と同じく遺髪からは60 ppmの鉛 (正常人の約100倍) が検出され、鉛中毒であったことが確認された。水銀が遺髪からは検出されないことも確認された。砒素も検出されなかった。


 一方、1994年にカリフォルニア州ダンビルに在住するポール・カウフマンは、ベートーヴェンのものと伝えられてきた頭蓋骨の破片を相続した。この骨片は、カウフマンの先祖でウィーン大学の医史学教授だったロメオ・セリグマン医師が1863年に入手したものである。

 ベートーヴェンの解剖が1827年に行われた際に、側頭骨の一部が行方不明になっていた。死体置き場の掃除夫のアントン・ドッターが入手し、後日外国の医師に売り払い、ロンドン大空襲で粉々になったという噂があるが、いずれにしろその骨片は現存しない。

 ベートーヴェンの死の36年後の1863年10月12日には、ベートーヴェンとシューベルトの墓が学術的目的と遺体の損壊を防ぐ目的で発掘された (2人とも土葬)。骨片が墓から取り出され、汚れを除いて医学的な検査を受けた後に、きれいな棺に入れて再埋葬される予定だった。ところがどういう経緯か、ベートーヴェンの頭蓋骨の2個の大きな骨片 (側頭骨から頭頂骨に及ぶ骨片と後頭骨の一部) は棺に入れられず、頭蓋骨検査に協力していたセリグマン教授が秘かに所有していた。1888年6月21日にベートーヴェンの墓が再発掘されているが、その時に1863年には存在していた頭蓋骨の一部が欠失していることが確認されている。

 頭蓋骨片はセリグマン教授の子孫に受け継がれ、最終的に入手したポール・カウフマンは、サンノゼ大学のベートーヴェン研究センターに研究目的で骨片を長期貸与した。この頭蓋骨片についてもDNA鑑定と微量元素鑑定が行われている。

 頭蓋骨片のミトコンドリアDNA鑑定は、2005年10月にミュンスター大学法医学教室のブリンクマン教授の下で行われた。高度変異領域HV2の塩基配列が調べられ、下表のように毛髪とまったく同じ鑑定結果が出た (他の塩基位置は標準配列と同一)。この結果から頭蓋骨片がベートーヴェンのものであることが確認された。


試 料\塩基位置 73 263 315.1 備 考
アンダーソン配列 A A - 公表されているもの
CRS標準配列* A A -
ベートーヴェンの遺髪 AまたはG G C 1999年の解析結果
ベートーヴェンの頭蓋骨片 未検査 G C 今回の解析結果
*CRS (Cambridge Reference Sequence) はアンダーソン配列を修正した国際標準配列。

 微量元素解析は2005年12月に毛髪と同じ米国エネルギー省の国立アルゴンヌ研究所で行われ、第3世代大型放射光施設であるアドバンスト・フォトン・ソース (APS) を利用してX線蛍光分析を行った。その結果、毛髪を上回る高濃度の鉛が検出された (正確な定量はされていない)。鉛の人体内での半減期は約22年で、その95%は骨に蓄積することから、ベートーヴェンは少なくとも死亡前の20年間にわたり鉛中毒であったことが確認された。


 鉛中毒になると、性格の変化、腹部の疝痛、腎障害、脳症、運動神経麻痺、貧血などの症状が出る。急性中毒では肝障害がみられる。ベートーヴェンの持病の腹痛は鉛中毒の症状であった可能性がある。解剖所見では肝硬変と腎不全 (腎乳頭壊死) が見られ、腎不全が直接死因であると考えられているが、その原因が鉛中毒である可能性は高い。難聴は、鉛中毒の症状としてはまれだが、関連が示唆されている。

 鉛中毒の原因は不明だが、当時のワインに添加されていた酢酸鉛を含む甘味料が中毒源として候補にあがっている。ベートーヴェンはワイン好きで、しかも腹痛を緩和するために過剰飲酒していた。

 2007年にウィーン医科大学法医学教室のクリスチャン・ライター教授は髪の毛を裁断してレーザーアブレーション質量分析装置で毛髪各部位の鉛含有量を測定した。毛根からの距離がその部分の毛が作られてからの日数に相関し、裁断した部分ごとの鉛含有量から死亡前のいつ頃に毛の (=体内の) 鉛含有量が増減したかが推測できる。この研究により、死亡前の111日間にベートーヴェンの毛髪中の鉛含有量が増加していたことが分かった。ベートーヴェンは1827年初頭から肺炎と腹水を起こし、アンドレアス・バフルフ医師が鉛を含む薬を用いて治療していた。鉛の投与量は致死量ではないものの、もともと肝硬変になっていたベートーヴェンの肝機能をさらに悪化させて死を招いた、とライター教授は考察している。
http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/DNA/beethoven.html

17. 中川隆[-10694] koaQ7Jey 2019年10月20日 07:00:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2162] 報告

アル中の女狂いだったベートーヴェン


信じがたい数の「偉大な作曲家」が飲んだくれだった
https://gigazine.net/news/20161225-great-composer-was-drunk/

「Mozart and Liszt(モーツァルトとリスト)」あるいは「Brahms and Liszt(ブラームスとリスト)」という言葉は、英語圏では「酔っぱらい」の意味で使われます。この言葉通り、表だっては語られないものの、現代において「偉大だ」と言われている作曲家の多くが飲んだくれであり、誰がどう飲んだくれていたのかや醜態の様子がThe Spectatorに記されています。

A surprising number of great composers were fond of the bottle – but can you hear it?
http://www.spectator.co.uk/2016/12/a-surprising-number-of-great-composers-were-fond-of-the-bottle-but-can-you-hear-it/

「偉大な作曲家たちは飲んだくれだった」という話はあまり聞きませんが、ある時、ジャーナリストのダミアン・トンプソン氏は作家のオリバー・ヒルムズ氏の書いたリストに関する文書を読んでいたところ、「晩年のフランツ・リストのぞっとするような酔っぱらいエピソード」を目にしたとのこと。このことから作曲家たちの飲酒癖に興味を持ったヒルムズ氏は調査を開始。調べてみたところリストのバイオグラフィーは音楽学者のアラン・ウォーカー氏なども書いているのですが、ウォーカー氏の著作にはリストの飲酒癖について書かれていません。ウォーカー氏はリストが1日1瓶のコニャック、あるいは1日2本のワインを飲んでいたことを認めていますが、リストがアルコール中毒だっとは考えていない様子。一方で、リストの弟子であるフェリックス・ワインガルトナーはリストについて「確実にアル中」と述べていたそうです。

ブラームスは、売春宿やパブでピアノをよく演奏していました。多くの記事ではブラームスが売春宿などで演奏していた理由について「お金のため」と書かれていますが、実際には、売春婦にとって魅力的なブラームスは、サービスを利用することも多々あったようです。そして、あるパーティーにおけるブラームスの素行について、「酔った彼は、全ての女性たちに衝撃的な言葉を浴びせて、場をめちゃくちゃにした」という言葉も残されています。


by Joseph Morris

上記の2つから見るに、「ブラームスとリスト」という言葉は、意味のない比喩ではななく、史実を踏まえて作られたと言えそうです。

酔っぱらいエピソードが残されているのは、リストやブラームスだけに留まりません。シューベルトは若い頃からお酒を好み、「品行方正な家族のプライベートな宴会に招かれた時の嘆かわしく恥ずべき振る舞い」が複数の文書に記録されています。またベートーベンもシューベルトと同じような感じで、街路をふらふらとした足取りで歩いていたことが記録されています。また、シューマンは1830年に行われたドイツ南西部にあるハイデルベルクのカーニバルで「ラムの飲み過ぎで意識が混乱し道ばたで転倒、宿の女主人のスカートの下をまさぐる」という素行が確認されているとのこと。

このほか、モーツァルト、ヘンデル、ムソルグスキー、チャイコフスキー、シベリウスというそうそうたる面々が「酔っぱらいリスト」に入っていますが、バッハについては「飲んだくれていた」という報告がありません。ただ、2週間の旅路で支払ったビール代金がビール8ガロン(30リットル)分に相当するのでは?という指摘がされています。ベルリオーズとワーグナーはアルコールよりもアヘンを好んでいたようです。

作曲家たちの音楽にアルコールの影響を見いだすことができるかどうかは難しいところですが、ムソルグスキーの「死の歌と踊り」はアルコール中毒に苦しむ中で書かれた曲であり、作曲家の置かれた状況が不穏なハーモニーに反映されていると言えるとのこと。また、酔っ払った状態で正確な作曲活動を行うのは難しいため、シベリウスは人生の最後の30年において曲を完成させることがありませんでした。


by Brandon Giesbrecht

しかし一方で、聴覚を失い最悪の二日酔いに悩まされながらも、ベートーベンは言葉では言い表せないほどに荘厳な楽曲を創り上げました。ベートーベンはベッドで死の淵にいながらも、ドイツのラインランド州から送られてくるワインを楽しみにしていたのですが、ワインが到着して来た時にはほとんど意識がなく、ベートーベンは「なんて残念だ。遅すぎた」とささやき意識を失ったそうです。

一方のブラームスは、死の直前までお酒を楽しむことができました。ブラームスは何とかワインの入ったグラスを口元に持っていき、「おいしい」という言葉を残して亡くなったとのことです。
https://gigazine.net/news/20161225-great-composer-was-drunk

18. 中川隆[-14993] koaQ7Jey 2019年11月12日 11:32:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2091] 報告
YouTube からiTunesに音楽をダウンロードする方法
https://www.imobie.jp/support/fix-how-to-download-youtube-to-itunes.htm

HD動画変換、オンライン動画変換 - OnlineVideoConverter.com
https://www.onlinevideoconverter.com/ja


2007/11/58 Yoshii9 へのiPodの接続…iPodは高音質か?
https://web.archive.org/web/20130312141851/http://shyouteikin.seesaa.net/article/63516831.html

12/58 Yoshii9 へはiPodは繋がない…iPodの音質の限界を知った切っ掛け
https://web.archive.org/web/20121004002400/http://shyouteikin.seesaa.net/article/129279700.html

iTunes を入手 - Microsoft Store ja-JP
https://www.microsoft.com/ja-jp/p/itunes/9pb2mz1zmb1s?cid=appledotcom&rtc=1&activetab=pivot:overviewtab

iTunes - アップグレードして今すぐiTunesを手に入れよう - Apple(日本)
https://www.apple.com/jp/itunes/download/

iPodへの曲・音楽の入れ方 iPod Wave
https://www.ipodwave.com/ipod/ipodmusic.htm

19. 中川隆[-14004] koaQ7Jey 2020年2月06日 13:17:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-673] 報告

クラシック音楽 一口感想メモ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン( Ludwig van Beethoven,1770 - 1827)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3

音楽に魂を込めて、ずば抜けた才能と強靱な精神力と高い理想で、ロマン派への道を切り開くとともに、クラシック音楽の金字塔となる大傑作を数多く作曲した。

それまでの作曲家が多作で似たような曲を多数書いたのに比べて、一つひとつの曲を作りこんで際立った個性を与えている。

その結果生み出されたクラシック史上の最高峰の作品群は、後年の多くの作曲家の目標になり、道しるべとなった。そして、生涯に生み出せた全作品を総合的に比較するならば、後の作曲家は誰一人太刀打ちできなかったと言える。

短調の激情的なイメージが強いが、明るい曲の方がずっと多く、明るい曲の1番の魅力は気品の良さであると思う。


管弦楽曲

交響曲

自分のベスト3は5、6、9番である。

•交響曲第1番ハ長調 Op.21(1800年)◦3.3点


初々しさが魅力である。しかし、この時は既に7重奏曲やピアノソナタ8番などの名作を書いており、それらと比較すると、交響曲の形式で自身の代表作を書く、というほどの気合を感じない。初めての大規模な管弦楽曲ということで、チャレンジという気分が強かったのではないだろうか。もちろん、完成度はそれなりに高いものではあるが。

•交響曲第2番ニ長調 Op.36(1803年)◦4.0点


1番からかなり進歩していて、魅力的な部分が多々ある曲になっている。ベートーヴェン中期の芸風が完成形に近づく途上にある曲である。肩肘張りすぎな所はあるが、どの楽章も多くの推敲を重ねられた内容の濃いもので、自身の代表作を目指した気合いがよく分かる。長い序奏からの、胸が膨らむようなスケールと爽快さがある1楽章。穏やかな温かみに包まれるような2楽章。間奏的な3楽章。ノリノリで終結を盛り上げる4楽章。どれもよい。

•交響曲第3番変ホ長調「英雄」 Op.55(1805年)◦4.5点


音楽史におけるエポックメイキングな作品。巨大なスケールで天才的な発想に満ちており素晴らしいが、ベートーヴェンの野心とエネルギーが溢れ過ぎて統制が効いていないので、造形的な収まりが悪く、とっちらかった発散する感じがある。それはそれで聴いていてパワーに圧倒されるし初々しくて魅力的ではあるのだが、この後の作品群と比較すると聞いていて疲れてしまう。そのため、なかなか聞く気にならない。

•交響曲第4番変ロ長調 Op.60(1807年)◦4.5点


巨大な3番と5番にはさまれた4番は、マイナーであるが魅力的な部分が多く、かなり良い曲だと思う。表題性が感じられない絶対音楽的な2番4番8番の中で、最も天才的な霊感に満ちている。全ての楽章のほぼすべての箇所が素晴らしい。生き生きとした音の躍動感と、しなやかな優美さを併せ持っている。

•交響曲第5番ハ短調 Op.67(1808年)◦6.0点


クラシックを代表する1曲。無駄のない緊密さ、内面的なドラマの白熱、演出の巧みさ、構成の完璧さ、内容の斬新さ、天才的なひらめきに満たされており、何度聴いても素晴らしいと感嘆してしまう。すべての楽章が史上最高レベルの出来であり、1楽章は特に完璧である。特筆すべきは2楽章だと思う。あまり類似曲が思いつかない独特な緊張感と透徹した世界感であり、他の楽章だけではドラマ的すぎるこの曲に哲学的深みを与えて大成功させることにつながっている。

•交響曲第6番ヘ長調「田園」 Op.68(1808年)◦6.0点


天才的な旋律美にあふれた超名曲。全編が最高である。分かりやすい表題性、純粋な精神的な高貴さと、内面的なドラマ性、自然美の崇高なものへの昇華など、驚くべき成功をひとつの作品として兼ね備えたことは奇跡である。そして、ベートーヴェンは決して旋律美の作曲家ではないのに、この曲においては全ての場面が天才的な霊感の塊であり誰にも到達できない旋律の美しさに溢れている。圧巻は最終楽章である。自然の美に感謝する精神のドラマが素晴らしすぎる。ちなみに、リスト編曲のピアノ版も好きである。

•交響曲第7番イ長調 Op.92(1813年)◦4.0点


天才的だし華やかだが、一方で聴いていて疲れる曲でもある。ベートーヴェン後期の狂気が現れ始めており、作り物っぽくと自然さに欠けるところがあるので、最高レベルの曲とは思えない。

•交響曲第8番ヘ長調 Op.93(1814年)◦3.8点


本人は自信作であり、人気が無いのが不満だったそうだ。これが彼の交響曲の最高傑作という人もいる。しかし、自分はこの曲は地味だと思うし、思い入れをもてない。純粋な交響曲として、コンパクトで磨きがかけられており、完成度が高いのは確かだ。しかし、努力により作られた感じがして、自然に閃いたものが足りないと思う。それが内的な活力の足りなさという結果なっている。旋律の魅力にあと一歩の物足りなさを感じるし、楽章の有機的な構成感もいまいちである。ただし、もちろん他の作品があまりに天才的であるから、比較してそう感じるというだけで、素晴らしい作品ではある。

•交響曲第9番ニ短調(合唱付き)Op.125(1824年)◦6.0点


何度聴いても飽きない。耳が聞こえなくなった状況で、ここまでの高みに自分の力でたどり着いたベートーヴェンは本当に偉大だと思う。後期に入ってバランス感覚が崩れていたり、狂気を感じる曲が多いなか、この曲はバランスが良いうえに極めて楽曲として完成度が高く充実している。天才中の天才が何10年も積み重ねてきたものを集大成させることによって可能になる仕事としか言いようの無い、人類の宝のような作品となっている。そして崇高であるとともに親しみやすく、人を楽しませるエンターテイメント性も兼ね備えていることがまた素晴らしい。


協奏曲

ピアノ協奏曲

•ピアノ協奏曲第1番 ハ長調Op.15(1795年)◦3点


初期らしい初々しさで、他の古典派のピアノ協奏曲と十分に対抗しうる作品ではある。

•ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調Op.19(1795年 )◦3点


1番と同様。

•ピアノ協奏曲第3番 ハ短調Op.37(1803年)◦3.3点


ベートーヴェンのハ短調らしさをあまり感じない。ベートーヴェンの中期の曲にしてはあまり面白くなく、まあまあであるという程度であり、個人的には思い入れがない。

•ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58(1807年)◦3.8点


5番の皇帝よりいいという人も多い曲であるが、個人的には同意できない。外面的な派手な5番より、気品の高さがあり素敵な雰囲気の4番の方がよいところもある。しかし、メロディーの良さや霊感の強さでは5番がやはり上である。4番はベートーヴェンの中期の中で上位の曲ではないと思う。

•ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調「皇帝」Op.73(1809年)◦5.5点


まさに「皇帝」の異名に相応しい、威厳と高貴さを感じる名曲。冒頭のピアノの豪快さな華やかさからして大変素晴らしい。オーケストラによるトゥッティーが始まるが、力感と威厳をもった天才的なメロディーが積み重なる音楽は、類例を思いつかない。2楽章は間奏的な変奏曲で落ち着く。そして3楽章のロンドのずば抜けた華やかさと高揚感の持続が1楽章と同様に大変に素晴らしい。ロマン派のどの協奏曲よりも高貴さと一貫性がある。協奏曲は得意分野ではないベートーヴェンだが、本気を出すとここまでずば抜けた曲を書けたという才能の高さに畏敬の念を感じる。

その他の協奏曲

•ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第1番 ト長調 Op.40(1802年)◦3.0点


親しみやすい曲だが、特段優れている所はなく普通の曲である。ソロで始まるのが面白い。ベートーヴェンの曲の中ではかなりモーツァルトっぽい。

•ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス第2番 ヘ長調 Op.50(1798年)◦3.5点

どこかでよく耳にする有名な親しみやすいメロディーであり、曲の構成もメロディーの良さを活かしながらうまく適度な変化をつけてまとめられている。


•ピアノ、ヴァイオリンとチェロと管弦楽のための三重協奏曲 ハ長調 Op.56(1805年)◦1.5点


ピアノトリオの協奏曲。ソロ楽器同士の絡み合いは効果を上げておらず、メロディーは魅力が無い。3楽章の活発な雰囲気がやや楽しめるが、1楽章は特に楽しくなく、2楽章は少しましになる。オイストラフ、ロストロポーヴィチ、リヒテルという独奏陣でも面白くないという、ベートーヴェンの大規模な管弦楽曲では飛び抜けた失敗作といえよう。


•ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61(1806年)◦3.5点

自分としては、この曲はベートーヴェンらしい良さはあるものの、マッタリしすぎだしメロディーの魅力も少なく、4大ヴァイオリン協奏曲の中では一番よくないと思っている。


その他管弦楽曲

•『ウェリントンの勝利』(戦争交響曲) Op.91(1813年)◦2.0点


作曲当時は評判だったようだが、ベートーヴェンにしてはかなりの駄作で、やっつけ仕事にしか聞こえない。

序曲

•『コリオラン』 Op.62(1807年)ハ長調◦3.5点


インスピレーションが豊富。序曲らしくすっきりとしていてキレが良く、端的な劇的表現が楽しい。

•『レオノーレ』第2番 Op.72a(1805年、オペラ「フィデリオ」初版の序曲)

•『レオノーレ』第3番 Op.72b(1806年、オペラ「フィデリオ」第2版の序曲)◦3.8点


交響曲にも使えそうな音楽的な密度と、序曲らしい清々しさや予感を感じさせる秀逸な曲。濃密の味わいはワーグナーのようだ。

•『エグモント』序曲(ゲーテの悲劇『エグモント』への音楽の序曲)Op.84(1810年) ◦3.5点


中期ベートーヴェンの管弦楽作品としてコンパクトに楽しめる。かなり有名だが、交響曲ほど充実した内容ではないしはっきりしたテーマも無いように思うので、それほど重要な曲ではないと思う。

•『シュテファン王』序曲(コッツェブーの祝祭劇『シュテファン王、またはハンガリー最初の善政者』への音楽 Op.117(1811年) ◦3.0


ごく普通の序曲。快活で聴きやすく、それなりにいい曲。

•フィデリオ序曲 Op.72c(1814年)◦3.5点


あまり特別なことはしていない序曲らしい序曲だが、胸が膨らむような広がり、優美さ、劇の期待感を高めるなどの手腕が見事で聴いて楽しい。

•『命名祝日』 Op.115(1815年)◦2.3点


祝典的な雰囲気の序曲だが、平凡であり面白くない。

•『献堂式』 Op.124(1822年)(『献堂式』全曲は序曲の他、『アテネの廃墟』Op.113から4曲を転用、WoO.98と合わせ初演)◦3.3点


ベートーヴェンが、純粋管弦楽のために作曲した最後の作品。気力は十分で堂々としており、胸の膨れるような感じや、後期らしい対位法的な書法も楽しめるので序曲の中でそれなりの存在感がある作品。

•『レオノーレ』第1番(遺稿) Op.138(1807年)◦2.5点


序曲らしい活発さや舞台への期待の盛り上げが足らない。駄作だと思う。

バレエ音楽

•『プロメテウスの創造物』 Op.43(1801年)◦2.5点(序曲)


序曲としてあまりにありきたりで、当たり前のフレーズばかりなのであまり面白くない。


室内楽曲

ヴァイオリンソナタ

•ヴァイオリンソナタ第1番 ニ長調 Op.12-1(1798年)◦3.0点


爽やかで明快な曲想のいい曲。自分で演奏したら楽しそうだ。三つの楽章が全部よい。

•ヴァイオリンソナタ第2番 イ長調 Op.12-2(1798年)◦2.5点


1番に比べると、いい曲という感じに欠ける。陽気で諧謔性があったり雰囲気が違うが、メロディーのレベルが落ちることの穴埋めにはなっていない。

•ヴァイオリンソナタ第3番 変ホ長調 Op.12-3(1798年)◦2.5点


2番と同様の印象である。頑張ってはいるが魅力が足りない。二楽章がイマイチだが三楽章は快活で聴きやすい。

•ヴァイオリンソナタ第4番 イ短調 Op.23(1801年)◦3.0点


短調の曲だが、悲劇的な感じではない。小型の形式の中でコンパクトにまとまっており、特別に凄いところはないが、アンサンブルを楽しめるし聴きやすい。

•ヴァイオリンソナタ第5番 ヘ長調「春」 Op.24(1801年)◦4.0点


やはり冒頭の美メロの魅力が最高である。この一楽章一曲でもヴァイオリン曲の歴史に名を残しただろう。他にもいいところが沢山ある名曲。

•ヴァイオリンソナタ第6番 イ長調 Op.30-1(1803年)◦2.5点


穏やかな雰囲気は悪くは無いのだが、美メロのような分かりやすい良さが無いので前後の名曲群と比べると評価は落ちる。

•ヴァイオリンソナタ第7番 ハ短調 Op.30-2(1803年)◦3.0点


ハ短調の本格派だが、普通の曲であり特別光る楽章は無い。

•ヴァイオリンソナタ第8番 ト長調 Op.30-3(1803年)◦3.5点


一楽章はアンサンブルが華やか。二楽章はおだやかないい曲。三楽章も明るく華やか。全体にいい曲。

•ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調「クロイツェル」 Op.47(1803年)◦4.5点


規模が大きく、悪魔的な魅力が強く心をひきつけてやまない。天才的なインスピレーションに溢れた曲。一楽章が特に大変魅力的。三楽章の活き活きした魅力も素晴らしい。ベートーヴェンの二重奏曲の最高傑作と思う。

•ヴァイオリンソナタ第10番 ト長調 Op.96(1812年)◦3.5点


後期の内省的だが人情の温かみを感じる筆致が全体に感じられて、他の曲とは違う魅力がある。


チェロソナタ

•チェロソナタ第1番 ヘ長調 Op.5-1(1796年)◦3.5点


1,2番は同時期に作曲。序奏付きの長いソナタとロンドの二楽章も共通。初期だが書法がしっかりしており、楽しんで聴ける。若者らしい清々しさがある。主題が両方の楽章とも魅力的。心地よく気持ちよく聴けて、とても好感を持てる曲。

•チェロソナタ第2番 ト短調 Op.5-2(1796年)◦3.3点


1番も序奏が長いが2番はあまりにも序奏が長すぎる。とはいえ、本編はしっかり書かれていてアンサンブルを楽しめる。1番と同様にこの時期にしては非常に充実した力作。まだ20代だがこれほど巨匠的な音楽を書けたのだなと驚いた。1番と比較して、異常に長い前奏の試みはやはり失敗と思うのと、メロディーの魅力が1番ほどではない点で、少しだけ落ちると思う。

•チェロソナタ第3番 イ長調 Op.69(1808年)◦3.5点


構成が充実していて、立派な曲。特に三楽章はチェロの魅力を存分に生かしたいい曲。中期の充実したベートーヴェンを楽しめる作品という高い評価を目にするが、自分はこの時期の作品にしては特別感がない並みの曲だと思う。ベートーヴェンの自信の漲っているところには関心するのだが、そこが一番の評価ポイントになってしまう。

•チェロソナタ第4番 ハ長調 Op.102-1(1815年)◦2.0点


後期の音楽になっており、二楽章で長い曲ではないのだが、形式が自由で音楽の輪郭がくっきりせず正直よくわからない。

•チェロソナタ第5番 ニ長調 Op.102-2(1815年)◦2.0点


4番よりは少しだけ解りやすいかもしれないが、やはり同様にはっきりせず深い意味を感じられないフレーズが続き、どうにも理解しにくい。


弦楽四重奏曲

初期の弦楽四重奏曲

•弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調 Op.18-1(1800年)◦3.0点


2楽章の歌心あふれた悲しい出来事を直截に表したような音楽が非常に印象的。しかし他の楽章は、典型的な快活だが面白くない初期ベートーベンの音楽。

•弦楽四重奏曲第2番 ト長調「挨拶する(Komplimentier)」Op.18-2(1800年)◦2.0点


モーツァルトのような均整とハイドンのような端正な快活さを併せ持っている。しかしながら、フレーズに聴いていて愉しいような魅力が足りないと感じる。

•弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 Op.18-3(1800年)◦2.5点


全体的に普通の曲であり、さしたる特徴がない。アダージョや最終楽章など耳を楽しませる音楽ではある。

•弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 Op.18-4(1800年)◦4.0点


悲愴ソナタと同様に同時代の同ジャンルの中でずば抜けた内容である。発想の豊かさ、響きの充実、内容の豊富さはいずれも中期の曲に匹敵する。ただし意外なことに彼のハ短調の曲らしさはあまりない。

•弦楽四重奏曲第5番 イ長調 Op.18-5(1800年)◦2.5点


1、2、3楽章は充実した内容である。二楽章の内容の豊富さや三楽章の若干複雑なリズムなど工夫や創意が楽しめる。四楽章の序奏はいけていない駄作だと思う。

•弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 Op.18-6(1800年)◦3.5点


優雅で古典的な美しさに溢れている。2楽章は特に貴族のような上品な優美さであり印象的だが、他の楽章も同様に上品であり、しかも堂々として充実した内容である。4楽章の冒頭に悲しみに打ちひしがれたような序奏があるのも効果的。


中期の弦楽四重奏曲

•弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調「ラズモフスキー1番」Op.59-1(1806年)◦4.3点


それ以前の弦楽四重奏2〜3曲分の内容はありそうな巨大な曲。チェロのイントロのフレーズの感じさせる広大さからして、胸の膨らむようなワクワクさせる素晴らしさである。三楽章の悲しみ、最後のロシア主題の絡みつく声部の魅力まで、各楽章が実に幅広くて圧倒的に巨大であり、それが4つの楽章もあるのだから、たまらない。画期的な壮大さの点で交響曲3番を連想する。

•弦楽四重奏曲第8番 ホ短調「ラズモフスキー2番」Op.59-2(1806年)◦3.0点


同じラズモフスキーでも二番はサイズも内容も小ぶりな曲。音の充実や絡み合い方は素晴らしいものの、聴後に残る印象は強烈なものではない。

•弦楽四重奏曲第9番 ハ長調「ラズモフスキー3番」Op.59-3(1806年)◦3.5点


一楽章の英雄的な力強さは魅力的。二楽章は静かで淡々としすぎて、明快な良さに欠けると思う。三楽章は小さな曲。四楽章は非常に力強くてスピード感あふれる立派な素晴らしい曲である。

•弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調「ハープ」Op.74(1809年)◦4.0点


ラズモフスキーほどの衝撃的な密度ではないかもしれないが、音楽が力強く構成力も同等の内容と思う。ハープの愛称だが、優美で女性的というわけでなく非常に男性的な曲。三楽章まで素晴らしいが最終楽章がいまいち。

•弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調「セリオーソ」Op.95(1810年)◦4.5点


一切の冗長性を排した凝縮された音楽であるとともに、生真面目で文字通り厳粛な作品。すべての楽章が聴き映えする傑作である。曲の構成のバランスが完全に計算されていることや、圧倒的に劇的で密度の高い点は、交響曲5番を彷彿とさせる。

後期の弦楽四重奏曲

•弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調Op.127(1825年)◦4.0点


二楽章のアダージョは後期らしい変奏曲の大作で大変素晴らしく、長い曲だがずっと聞き入ってしまう。一楽章や四楽章も重厚でなかなかよい。

•弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調Op.130(1825年)◦3.0点


自分の修行が足らないのかもしれないが一楽章から四楽章までは平凡な面白くない音楽だと思う。五楽章は幻想世界の深層世界を彷徨うような美しく素晴らしい曲。その後は大フーガでなければ風呂敷を広げたままになりバランスが悪い平凡な曲になってしまうと思う。新しい方の最終楽章も悪くはないのだが。

•弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調Op.131(1826年)◦4.0点


各楽章のバランスが良く推進力があり、後期によくある停滞しているような楽章がない。間奏曲的な楽章も内容が豊かである。その代わり後期作品によくあるアダージョの決定的な大傑作楽章はない。自由闊達な構成で曲を把握するのに時間がかかる変わった曲だが、構成を覚えて理解出来るようになると、胸に迫るような熱く温かい真情に曲全体が溢れていることが分かり、感銘を受ける。晩年になって到達した世界は、あまりにも画期的で驚く。

•弦楽四重奏曲第15番 イ短調 Op.132(1825年)◦4.0点


クライマックスの3楽章が感動的で泣ける。なんという感謝の心に満ちた音楽だろう。その他の楽章はどれも中期のような緊密さを保持している濃厚な内容であり、聴きやすい。

•大フーガ 変ロ長調 Op.133(1826年)◦3点


単体で聞くと、気が狂ったのかと思ってしまうような狂気に満ちている。聴いていて楽しい曲ではない。

•弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 Op.135(1826年)◦3.5点


爽やかな一楽章、ユーモアがある二楽章は、初期に戻ったかのようなシンプルで快活な音楽でここまでは普通の曲である。三楽章が濃厚で胸に迫りくるものがある、人生を振り返るかのような後期の実力をいかんなく発揮した美しいアダージョ。四楽章の序奏も、人生において闘い問い続けたベートーベンの人生を総括してるかのよう。アレグロもどこか感動的なエモーショナルなものがある。しかし、曲の最後まで勢いを保たず力尽きてきてしまい、なんとか最後の力で曲を締めくくって終わるのがなんとも印象的。


ピアノ三重奏曲

•ピアノ三重奏曲第1番 変ホ長調 Op.1-1(1794年)◦2.0点


娯楽作品の印象が強い。そしてまったりしすぎであまり面白くない。

•ピアノ三重奏曲第2番 ト長調 Op.1-2(1795年)◦2.0点


1番と同様の印象。爽やかではあるが面白くない。

•ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調 Op.1-3(1795年)◦2.5点


1、2番と比較して少し成長している気がする。1楽章に少し充実感があるし、他の楽章も多少見所がある。

•ピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調「街の歌」 Op.11(1797年)◦2.8点


1楽章はメロディーがつまらないため魅力がない。2楽章は楽器に存分に歌わせる楽章で、高い価値があるのはこの楽章のみである。3楽章は1楽章ほどではないがあまり魅力がない。

•ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調「幽霊」Op.70-1(1808年)◦2.8点


1楽章は冒頭のいきなりのユニゾンに驚かされるが、それ以外は面白くない。2楽章は痛切な感情を押し殺しているようなじわじわとした雰囲気で少し面白い。3楽章は活気ある雰囲気でそれなりに楽しめる。

•ピアノ三重奏曲第6番 変ホ長調 Op.70-2(1808年)◦2.3点


1楽章は叙情的ではあるがぱっとしない感じで面白くない。2楽章も3楽章も4楽章もベートーヴェン中期らしからぬ平凡さであり、まるで2流作曲家のようだ。全体にベートーヴェン中期の作品にしては駄作だと思う。同時期ならフンメルのピアノ三重奏曲の方が優れているかもしれない。

•ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調「大公」Op.97(1811年)◦6.0点


古今の室内楽を代表する一曲だろう。親しみやすさ、旋律の豊かさ、しなやかさ、漂う高貴な気品がすばらしい。規模が大きく雄大であり、ゆったりとした時間の流れを楽しめる。爽やかな風のような心地よい気分になれる曲でありながら、しかし濃密な時間が流れる。構成はがっしりとしていて手応え十分である。

弦楽三重奏曲

•弦楽三重奏曲第1番 変ホ長調 Op.3(1794年)◦3.0点


ベートーヴェンらしい高潔さと力強さを感じられる。初期の室内楽の中では単なる娯楽性に終わらない芸術性を感じる作品となっている。

•弦楽三重奏曲第2番 ト長調 Op.9-1(1798年)◦2.0点


後年の成長の萌芽が沢山秘められている曲だが、冗長であるとともに、三重奏の音の薄さが気になってしまう。弦楽四重奏の作曲の練習に書いたという価値しか見いだせないと思ってしまう。二楽章の歌心あふれる音楽はなかなか良いのだが。

•弦楽三重奏曲第3番 ニ長調 Op.9-2(1798年)◦2.5点


感想は2番とほぼ同様だが、短調の2楽章が効果的なのと、ベートーヴェンらしい3楽章のメヌエットや活発な4楽章も悪くないので少し上だと思う。

•弦楽三重奏曲第4番 ハ短調 Op.9-3(1798年)◦3.0点


前半の2楽章はなかなか立派な曲。後半は物足りないのだが、初期らしい爽やかさと、一生懸命頑張っている感じは悪くない。

•弦楽三重奏のためのセレナード ニ長調 Op.8(1797年)◦2.5点


娯楽作品であり、曲はバラエティーに富んでいる。また、弦が3本しか無いが、音が薄いことへの不満は無い。しかし、自分の聴いた演奏のせいなのかもしれないがあと一歩の何かが足らない。

弦楽五重奏曲

•弦楽五重奏曲 変ホ長調(管楽八重奏曲 変ホ長調 Op.103の改作) Op.4(1795年)◦2.0点


作品103の8重奏を編曲したもの。穏やかな雰囲気で落ち着いて聴ける曲だが、初期過ぎて発想も音の使い方も個性が無く、凡庸で面白くない。

•弦楽五重奏曲 ハ長調 Op.29(1801年)◦3.5点


初期の弦楽四重奏曲より優れているのに、聴かれる事が少ないのはもったいない。堂々とした巨匠の香りが漂う作品であり、2楽章のピチカートに乗ったとろけるようなメロディーの部分など魅力的な箇所が多くある。

•弦楽五重奏曲(フーガ)ニ長調 Op.137(1817年)◦2.0点


弦楽五重奏のためのフーガ。2分の短い曲であり内容もありきたりに聞こえた。特に感想を持てるほどの作品ではない。


その他の室内楽曲

•八重奏曲 変ホ長調 Op.103(2本ずつのオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)(1793年)◦2.5点


悪い曲ではなく、くつろいだ気分で管楽器の合奏をまったりと楽しめるのだが、ベートーヴェン作品に求めたい優秀さがほとんど感じ取れない。平凡な作曲家の作品のような印象。

•六重奏曲 変ホ長調 Op.81b(2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、2つのホルン)(1795年)◦3.0点


ホルンの響きと合奏を楽しむことは出来るが、あまり弦楽四重奏との絡みを楽しめないし、ホルンパートの魅力も今一歩で、ベートーヴェンの管楽器入りの合奏曲の中ではいまいちな部類である。

•2本のオーボエとコーラングレのための三重奏曲 ハ長調 Op.87(1795年)◦3.0点


3本の管楽器のアンサンブルの爽やかな美しさを楽しめる。曲は取り立てて優れている訳ではないが、初期ベートーヴェンらしい気品と清々しさとセンスは活かされている。

•ピアノと管楽器のための五重奏曲 変ホ長調 Op.16(1796年)◦3.3点


2楽章が管楽器らしい音の温かさを生かした美しいかんじょ楽章で素晴らしい。1,3楽章は管楽器の合奏を楽しむ娯楽作品であり、優秀ではあるが名作というほどではない。

•六重奏曲 変ホ長調 Op.71(2本ずつのクラリネット、ホルン、ファゴット)(1796年)◦3.3点


まだベートーヴェンらしさがあまり感じられない。娯楽作品だが、管楽器の合奏曲として、耳に優しく優美で温もりのある響きと音色や楽器の絡みを案外楽しむことが出来る。

•6つのドイツ舞曲(アルマンド)WoO.42(ヴァイオリン、ピアノ)(1796年)

•四手のためのソナタ ニ長調 Op.6(1797年)◦3.0点


全2楽章の短い曲。1楽章はコンパクトなソナタでメロディーに魅力ある。2楽章はあまり面白くない。

•七重奏曲 変ホ長調 Op.20(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、クラリネット、ホルン、ファゴット)(1799年)◦4.0点


大編成であり、オーケストラ並みの声部数と重奏の楽しさを味わえる。どの楽章もセンス満点で心から楽しめる名作。娯楽性の高い作品でありながらベートーヴェンの天才を存分に味わえるのが新鮮。

•ホルンソナタ ヘ長調 Op.17(1800年)◦3.8点


1楽章はまさに初期らしい内容で、すっきりとした爽やかで快活なソナタ。2楽章は短くて間奏曲の役割。3楽章は伸びやかなロンド。あまり話題に挙がらない曲だがホルンの魅力とあいまってかなり魅力的。聴後にすがすがしい印象を残す作品である。

•フルート、ヴァイオリン、ヴィオラのためのセレナード ニ長調 Op.25(1801年)◦2.5点


娯楽的なセレナード。特殊構成であり、フルートの明るさを楽しめるものの、低音が無いためフワフワとした音響。作曲者の気合いをあまり感じず面白くないが、長い4楽章と6楽章は割と優れている。

•ピアノとフルートのためのセレナード ニ長調 Op.41(1803年)◦2.5点


作品25を他人が編曲しベートーベンは校訂だけをしたそうだ。こちらの方が楽器構成としては親しみやすいが、編曲がいけてない。ただ、4、6楽章がやはり優れているのは作品25と同様である。

•四手のための3つの行進曲 Op.45(1803年)

•ヴィオラとピアノのためのノットゥルノ ニ長調 Op.42(1803年)◦2.5点


弦楽三重奏曲op8の他人による編曲。編曲はなかなか優秀で、音が薄くてピアニスティックでないものの、十分に曲を楽しめる。

•フルートまたはバイオリンの伴奏を持つピアノのための6つの主題と変奏 Op.105(1817年)◦2.5点


シンプルな変奏曲集。フルート学習者には良さそうだが、一般的な鑑賞にはあまり向かない。民謡が主題なので親しみやすく聴きやすい曲もある。

•フルートまたはバイオリンの伴奏を持つピアノのための10の主題と変奏 Op.107(1820年)◦3.3点


作品105と同様の小さな変奏曲集だが、主題の魅力も変奏の自然さ音楽の美しさは作品105よりかなり上であり、民謡の主題の素朴な楽しさもあって何度も聞いてみたい曲になっている。

•大フーガ(Op.133を四手のために編曲)Op.134(1826年)◦3.0点


大フーガのピアノ用編曲だが、やはりこちらよりも元の弦楽の方が声部の聞き取りが容易でテーマの力強さがいかされるので良いと思う。このピアノ版の方がマイルドで耳に痛くないので最後まで簡単に気楽に聴き通せる利点はある。


ピアノ独奏曲

ピアノソナタ

初期ピアノソナタ

•ピアノソナタ第1番 ヘ短調 Op.2-1(1794年)◦2.8点


既に力強い表現への意志が発露していることには感動する。悲劇的で激情的な音楽。初めての出版作品のソナタとしての、気合いを感じる力作。しかし、音がスカスカであるのは否めず、どうしても未成熟な物足りなさを感じる。

•ピアノソナタ第2番 イ長調 Op.2-2(1795年)◦3.3点


明快で力強くしかも高潔な、後年のベートーヴェンの音が既に鳴っている。特に前半の2つの楽章は素晴らしい曲である。しかし、4楽章がいまいちであり、繰り返し聴いてもピンとこない。1番の音の密度の問題は改善されており、むしろ若々しい躍動感を楽しめるようになった。作品2の3曲は、20番台に匹敵する良い曲である。4楽章制のスケール感やメロディーの良さ、おおらかさ、躍動感、品の良さなど、小さくまとまっていない独自の魅力がある。ただし、曲に開眼するには、作曲技術の未成熟さを補う演奏者の力量と鑑賞者の耳の慣れが必要である。

•ピアノソナタ第3番 ハ長調 Op.2-3(1795年)◦3.3点


1楽章が大作。全体的におおらかで胸がすくような広大さと音の躍動感が楽しい曲。

•ピアノソナタ第4番 変ホ長調 Op.7(1797年)◦3.3点


どの楽章も管弦楽のような交響的な音楽と感じる。メロディーにどの楽章もなかなかの魅力がある。4楽章のおおらかさと中間との対比がドラマチックで良い。

•ピアノソナタ第5番 ハ短調 Op.10-1(1798年)◦2.8点


1楽章は冒頭のみ激情的でバランスが悪く、発想もいまいち。3楽章も性急さの雰囲気が1楽章よりは良いがやはりイマイチである。2楽章は真心に溢れた美しい曲であり、この楽章だけならば価値は高い。全体にハ短調の曲として悲愴ソナタの準備となる曲と思うが、レベルは落ちる。

•ピアノソナタ第6番 ヘ長調 Op.10-2(1798年)◦3.0点


まだ荒削りだが、音に若干の成熟が見られる。コンパクトで、個性的な楽章の集まった曲という印象。作品2のような壮大な野心は感じない。どの楽章もまあまあだが、1楽章は面白みがもの足りないと感じる。

•ピアノソナタ第7番 ニ長調 Op.10-3(1798年)◦3.0点


四楽章で荒削りでイマイチな部分と素敵な部分が混在している。

•ピアノソナタ第8番 ハ短調「悲愴」 Op.13(1799年)◦5.0点


2楽章はベートーヴェン生涯でも屈指の名メロディーだ。何度聴いても本当に素敵だなあと感嘆する。1楽章はこの時期にしては大変な力作である。悲壮感や憂いなど、多くのものが詰め込まれている。3楽章の性急さと多くの詰め込まれた楽想はベートーヴェンの努力を感じる。ピアノ書法や音響の豊かさや構成の緊密さなどの完成度の高さは後年に及ばない。しかし、若い瑞々しい感性と本気度が、持ち前の才気とぶつかり合って融合し、時間をかけて集めたのであろう多くの多彩なアイデアをぎっしり詰め込んだことで、強烈な魅力を放つ作品になっている。

•ピアノソナタ第9番 ホ長調 Op.14-1(1799年)◦3.0点


10番とともにしなやかで優美な印象が強い。活き活きとした感じを残しつつも、初期のような角があり無理のあるピアノ書法がだいぶ無くなり中期に近づいてきた印象

•ピアノソナタ第10番 ト長調 Op.14-2(1799年)◦3.0点


9番同様にしなやかで優美な魅力。コンパクトによくまとまっている。

•ピアノソナタ第11番 変ロ長調 Op.22(1800年)◦3.5点


四楽章の雄大さと優美さを兼ね備えた力作。後半の二つの楽章がキャッチー。

•ピアノソナタ第12番 変イ長調 「葬送行進曲」 Op.26(1801年)◦3.0点


ソナタ形式の楽章がなく画期的な曲ではある。葬送行進曲はいい曲だが、英雄交響曲のそれと比較してしまうとかなり物足りないといわざるをえない。他の楽章も中期に向かう興味深さはあるが観賞曲としての素晴らしさは足りない。


中期ピアノソナタ

•ピアノソナタ第13番 変ホ長調「幻想曲風ソナタ」 Op.27-1(1801年)◦3.5点


全編どこか内面を向いた曲調で、前を向いた明快な快活さに欠ける。まさに幻想風の自由な曲なので落ち着かないのだが、分かってくると実はあの「月光」と一緒に出版されただけのことはある良い曲である。

•ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調「幻想曲風ソナタ」(月光) Op.27-2(1801年)◦5.5点


1楽章は発想が素晴らしい。シンプルだがベートーヴェンの作品の中でも屈指の強烈で天才的な詩情を見せている。暗黒の闇に溶け込んでいく、タッタターというモチーフのかっこよさには痺れる。2楽章は両端の音楽に息をつく暇ががないので、間奏として丁度よい。3楽章は全く隙がなくて、とにかくめちゃくちゃカッコいい曲。切れ味の鋭さはベートーヴェンの中でも屈指の出来である。

•ピアノソナタ第15番 ニ長調「田園」 Op.28(1801年)◦3.3点


1楽章の主題は田園風という愛称がふさわしい曲。しかし、全体は田園交響曲のような標題音楽ではなく他の多くと同様に抽象的なソナタである。内容充実で中期らしさが顕著になってきている。

•ピアノソナタ第16番 ト長調 Op.31-1(1802年)◦2.5点


どの楽章も印象がかなり薄い。

•ピアノソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」 Op.31-2(1802年)◦3.5点


評価しにくい曲。一楽章はかっこいいのだが、やや通俗的な感じがしてしまう。二楽章はベートーヴェンの本気曲で登場する緩徐楽章らしい音楽で素晴らしい瞬間もあるが、密度が薄い。三楽章は無窮動の曲だが、1楽章と同様に通俗的な野暮さが気になる。どうしても自分の中で1楽章や3楽章が熱情ソナタと類似する部分があるために、その縮小版と位置づけて聴いてしまう。

•ピアノソナタ第18番 変ホ長調 Op.31-3(1802年)◦3.5点


明るくて飛び跳ねるような快活さにあふれており、マイナーだが結構いい曲である。

•ピアノソナタ第19番 ト短調(やさしいソナタ)Op.49-1(1798年)◦3.0点


学習者におなじみの2曲の易しいソナタの一曲目。一楽章は並だが二楽章は活き活きとしたいいロンド。

•ピアノソナタ第20番 ト長調(やさしいソナタ)Op.49-2(1796年)◦3.5点


おなじく学習者にはお馴染みの曲。両楽章ともいい曲。よい出来である。

•ピアノソナタ第21番 ハ長調「ワルトシュタイン」Op.53(1803年)◦4.0点


ハ長調で広大なスケール感と運動的な音の動きの感覚が売りの曲。沢山の素材を使った雄大で快活な一楽章。2は間奏曲。胸のすくような広大な三楽章が素晴らしい。

•ピアノソナタ第22番 ヘ長調Op.54(1804年)◦3.0点


まるで巨大な二曲の間奏曲のよう。この曲をシューマンが評価したそうだ。特に2楽章はシューマンに似ている。同じパッセージを使いながらうねって雰囲気を作る感じは、小品集に入っていても違和感が無さそう。1楽章も2つの楽想の対比があまりソナタの楽章ぽくない。ベートーヴェンの曲としては異色。1楽章はたいした曲ではないが、2楽章もはやロマン派のピアノ曲のようで先進的でなかなか良い。

•ピアノソナタ第23番 ヘ短調「熱情」 Op.57(1805年)◦5.5点


1楽章は、武士の居合い抜きのような静寂と一瞬の動きの対比が生む独特の緊張感が面白い。第2主題が渋くてよい。2楽章は幻想的で甘い切なさもある、大変美しい変奏曲。音を細分化していく変奏曲は数多くあるが、音楽が高揚して奔流のようになることで、これほどまでに感動的に心をゆり動かすことは少ない。3楽章は無窮動であり、急かされ走り抜ける緊迫した激情が息をもつかせないものであり、非常にかっこいい。どの楽章も本当に素晴らしいくて、完成度が高い。

•ピアノソナタ第24番 嬰ヘ長調「テレーゼ」 Op.78(1809年)◦4.0点


1楽章の穏やかで優しい気持ちになる曲想で素敵な曲。2楽章は1楽章のような素晴らしさがないのだが、1楽章の素敵さだけで大いに価値がある。1楽章は愛しい人の甘い思い出や人柄を回想するような曲である。

•ピアノソナタ第25番 ト長調「かっこう」 Op.79(1809年)◦3.0点


各楽章が短いこと、主題がシンプルであることから、ソナチネに分類したいような曲。内容は悪くないが、この時期にしては特に優れているわけではない。勢いにまかせたような1楽章と軽快でコミカルな3楽章の間に、童謡のように素朴な2楽章が挟まっているというシンプルながらも面白い構成を楽しむ曲。

•ピアノソナタ第26番 変ホ長調「告別」 Op.81a(1809年)◦3.5点


ルドルフ大公への親愛の情を込めた曲として全体に真心を感じられていい。人気曲のようだが、個人的には上位には属するものの特別にいい曲とは思わない。

•ピアノソナタ第27番 ホ短調 Op.90(1814年)◦4.0点


ピアノの歌わせ方がシューベルトのようだ。心にぐっと迫るくるものがある。特に二楽章は素晴らしい。

後期ピアノソナタ

•ピアノソナタ第28番 イ長調 Op.101(1816年)◦3.5点


後期らしさが顕著になった曲。どの楽章も温かみがあるシンプルながらも柔らかい響きが美しい素敵な曲。全体が綺麗にまとまっている最後の曲。

•ピアノソナタ第29番 変ロ長調「ハンマークラヴィーア」 Op.106(1818年)◦4.0点


圧倒的な巨大建築のような壮観さと交響曲と同等のスケール感は、結局のところロマン派以降の誰も真似をしようとしなかった。オンリーワンの怪曲といえる。交響曲のように堂々として立派な1楽章。ブルックナーのように深淵の底を逍遥するような雰囲気の長大な3楽章は素晴らしい。4楽章の高速なフーガはものすごい迫力であるが、正直なところ普通の音楽として鑑賞するのは困難と感じる。

•ピアノソナタ第30番 ホ長調 Op.109(1822年)◦4.5点


1楽章はシャガールの絵のように幻想的な大伽藍である。少しヘンな曲だが何度も聞いて理解が進み、幻想性に浸れるようになると大変美しいと感じる。2楽章が少し野暮で、現実に一時的に引き戻される。そして、この曲の核心はなんといっても三楽章の変奏曲である。あまりにも美しく、温かみを持って人生の素晴らしさを回想するかのごとく切々と心に訴えかける素敵な主題の魅力は大変なものである。それを何度もかみ締めるように繰り返していきながら、自由に大きく変容して行く変奏もすごい。32番の変奏曲のような究極的に突き詰めた彼岸の世界の凄みはない代わりに、人間的な心温まる現実的な素晴らしさでは上回る。

•ピアノソナタ第31番 変イ長調 Op.110(1822年)◦4.5点


1楽章は非常にまとまりがよく、美しい冒頭から心惹かれる。静謐さとおおらかさと幻想性とまとまりが共存して絶妙なバランスで成り立っているのが素晴らしい。2楽章は現実的であるが、特段の特別性はないと思う。3楽章がなんといっても驚異的な後期ベートーヴェンならではの傑作であり、この曲の価値の多くはこの楽章にある。嵐の中で孤独を耐えるような嘆きの歌や、晴れ晴れとした気持ちや人生の前向きな気持ちを描いたようなフーガ。自由度の高い複数の場面転換が驚異的な効果を産んでおり、あまりにも強烈に心を揺さぶる。曲を聴き混んで全部覚えると、虜になって二度と離れられなくなるような強烈な魅力がある。フーガはバッハが築いた世界を独自に敷衍し、後期らしい自由さとともに人間の心に深く力強く訴えるものを持っており、素晴らしい出来である。最後の歓喜溢れる気分にもっていく場面は素晴らしい。

•ピアノソナタ第32番 ハ短調 Op.111(1822年)◦4.0点


1楽章はハ短調らしい正統派の緊張感があり、なかなかよい。緊張度が高く、鋭く無駄をそぎ落としたような曲であり、対位法の効果が印象的。ただ、若干の無理を通して主題をつなげてソナタを成立させているような印象があり、聴きにくさを感じさせるため、個人的には愛着を感じない。前2曲と違い、とってつけたようなスケルツォが無いのは良いところ。長大な変奏曲である2楽章は、晩年の多くの傑作変奏曲の中でも特に自由であり、魂が身体から分離して宇宙のはるか彼方の遠くに連れて行かれるような感じのする、驚異的な曲である。時代を60年先取りし、肥大化したロマンを極めたかのような境地に達したベートーヴェンの凄みがここにある。


変奏曲

•創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 Op.34(1802年)◦3.3点


優しく穏やかな主題による変奏曲。常に気品にあふれているのが素敵。やや長い曲だが各変奏は変化が大きく、表情豊かで歌心があるので飽きない。

•『プロメテウスの創造物』の主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 Op.35(1802年)◦3.5点


2つの主題が魅力的なので、繰り返し変奏されても飽きない。変奏曲としてのバリエーションの豊富さや展開力はベートーヴェンにしてはやや物足りなく、まだ中期に入ったばかりなのを感じさせる。しかし、最後のフーガからのコーダの素晴らしさなど聴き所はある。

•創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80(1806年)◦2.5点


短い主題の変奏でピアノの教材としてはいいのだけれど、聴くための曲としては主題もややありきたりだし、あまりおもしろくない。

•創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 Op.76(1809年)◦3.0点


有名なトルコ行進曲の主題による変奏曲。明るく勇壮に変奏される。

•ディアベリのワルツの主題による33の変奏曲 ハ長調 Op.120(1823年)◦3.3点


長大で非常に立派な変奏曲。次々と万華鏡のように移り変わる雰囲気を楽しめる。しかし主題に魅力が無いからか、変奏を重ねてもあまり音楽が深まらず、間奏曲が延々と続いているようになっているのが不満。所々にある後期らしい瞑想の雰囲気は魅力。最後の穏やかな変奏は感動する。


その他のピアノ独奏曲

•すべての長調による2つの前奏曲 Op.39(1789年)(またはオルガン)◦2.5点


対位法的な作品。全ての調を一巡しているらしい。1曲目はあまりに教科書的だが2曲目の方は少し楽しめる。

•ロンド・カプリッチョ ト長調(「失われた小銭への怒り」)Op.129(1795年)◦3.0点


技巧的な部分もあるロンド。ややエキゾチックな雰囲気もある。それほど魅力を強く感じる曲ではないが、活発で変化があるのでつまらなくはない。

•アレグレット ハ短調 WoO.53(1797年)◦3.0点


劇的な力強さと柔らかい部分など対比の強さが印象的な小品。ソナタとは違う味がある。

•ロンド ハ長調 Op.51-1(1797年?)◦3.0点


穏やかで柔らかいロンド。初期の瑞々しい感性と、ベートーベンらしいフレーズを多く聴ける。

•ロンド ト長調 Op.51-2(1798年?)◦3.0点


優美で穏やかなロンド。長い序奏がある。ピアノソナタではあまり無いようなシンプルさで、モーツァルトを時々連想してしまうほど。

•ピアノのための7つのバガテル Op.33(1802年)◦2.5点


小品集。特段の印象に残る優れたい曲は1曲も無かったが、人恋しさを歌うような優しさと愛らしさがあり、ソナタとは違う独特の魅力がある。

•幻想曲 ト短調・変ロ長調 Op.77(1809年)◦3.0点


ザ・幻想曲とでも呼びたいような、自由な変化を楽しむための曲。ソナタ等では到底聴けない自由さを楽しめる面白い曲ではある。

•バガテル『エリーゼのために』イ短調 WoO.59(1810年)◦5.0点


非常に有名な作品。冒頭はシンプルだが、切々とうたう感じが心に強く迫る。

•ポロネーズ ハ長調 Op.89(1814年)◦3.0点


竹を割ったようなスカっとする雰囲気など、ベートーヴェンの特質が活かされているポロネーズ。ただの小品ではなく、割と楽想が豊かで場面が展開されていく曲。

•ピアノのための11の新しいバガテル Op.119(1822年)◦2.3点


曲が1曲目以外は2分以下と短い。そのせいで各々の曲に断片的な感が増してしまったせいか、あまり魅力がない。

•ピアノのための6つのバガテル Op.126(1824年)◦3.3点


ベートーヴェンの最後のピアノ作品。最晩年の作品として、弦楽四重奏曲と同様のずっしりとした精神的な重さがあり、夢のような儚さと人生を回想するような曲集になっている。他のバガテル集よりずっと聴き応えがある。

•アンダンテ・マエストーソ(「さらばピアノよ」)ハ長調 WoO.62(原曲は作曲予定の弦楽五重奏冒頭のスケッチ。ディアベッリによりピアノに編曲。ベートーヴェン最後の楽想と見られる。)(1826年)


声楽曲

宗教曲・合唱曲

•オラトリオ「オリーヴ山上のキリスト」(Christus am ?lberge)Op.85(1804年)◦3.3点


中期に入り始めた時期の作品である。劇的で物語的な表現力の巧みさは十分に優秀で聴き映えがする。ベートーヴェンの器用さに驚く。ただし1時間近くてパンチが効いた曲なので、歌詞が分からず聴き通すのは疲れる。

•ミサ曲 ハ長調 Op.86(1807年)◦4.3点


この曲はマイナー作品と認識しており聴く前は期待していなかったのだが、ベートーヴェンの充実していた時期に相応しい大変聴き応えのある傑作で驚いた。ミサ・ソレムニスの普遍性と壮大さには一歩劣るにしても、音楽のドラマの天才的な充実感と高らかに人間の素晴らしさを歌い上げるような精神力と劇的な高揚感は圧倒的に素晴らしい。ただ教会音楽という感じはあまりしない。また、調子が一辺倒であり変化が少ないのは弱点。

•ピアノ、合唱、オーケストラのための幻想曲(合唱幻想曲)Op.80(1808年)◦2.5点


企画倒れと言われるが確かにそうかも。いい曲と言っていいか微妙。

•カンタータ「栄光の瞬間」(Der glorreiche Augenblick)Op.136(1814年)◦2.5点


それなりの長さのカンタータだがあまり面白くない。いつもの強靭な発想力や創造性に溢れた音楽でないと感じた。薄めのオケと、長い独唱の場面が多いせいかもしれない。

•連合君主たちへの合唱 WoO.95(1814年)◦2.5点


2分程度の短い合唱曲。君主を讃えるような雰囲気。

•カンタータ「静かな海と楽しい航海(Meeresstille und gl?ckliche Fahrt)」Op.112(1815年)◦2.8点


ベートーヴェン節が全開すぎる。また7分の短さにしては構想が大きすぎるため、構えて聴かなければ体が曲についていけない。

•「修道士達の歌」(Gesang der M?nche)WoO.104(1817年)◦2.0点

1分程度の断片的な合唱曲。

•ミサ・ソレムニス Op.123(1822年)◦5.0点

ベートーヴェン畢生の対策。第九と違いエンターテイメント性は無いので分かりやすくないが、充実の大作で大変聴き応えがある。


独唱曲

•遥かなる恋人に(An die ferne Geliebte, Liederkreis nach Alois Jeitteles)Op98(1816年)◦3.3点


連作歌曲全6曲。曲に変化をつけて対比させておらず曲が似ており、次の曲になった事に気付かないほどである。ささやかで親愛なる感情を感じる佳作だが、名作というほどだとは思わない。シューベルトに近いようなロマン派の萌芽を感じる曲。


https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3

20. 中川隆[-12998] koaQ7Jey 2020年3月06日 11:40:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[536] 報告
ベートーヴェン論

ベートーヴェンはクラシック音楽の金字塔となる大傑作を数多く作曲した。

彼によって生み出されたクラシック史上の最高峰となる作品群は、後年の多くの作曲家の目標になり、道しるべとなった。

作曲者の生涯の全作品を総合的に比較すると、後の作曲家は誰一人として太刀打ちできていないと思う。

他の作曲家と比較して、ベートーヴェンは何が違ったのだろうか?


まずは、彼にはずば抜けた才能に加えて、厳しい英才教育を施されたおかげで強固に固められた基礎があったことが挙げられる。

若いときの作品は地味で面白くないと感じるところがあるが、よく聞けば既に同時代のトップレベルであると思う。


そして、音楽と芸術に対する徹底的な妥協のない真摯さがあったからこそ、成熟してからさらに異次元の飛躍を遂げることができたのである。

飽くなき高い理想の追求をし続けることができたのは、彼の真摯さと空気を読まない性格の強さゆえだろう。


とはいえ、理想の高さの魅力以上に、ベートーヴェンの音楽は根底的な音の響きや使い方それ自体に尽きない魅力があり、それこそが重要であると私は考えている。

彼の音楽は、シンプルでいくら聴いても飽きない魅力的な要素を多くもっていて、それが強固な骨格と筋肉になっている。

だからこそ、何か画期的な世界を目指したて冒険をしたときにも土台が崩れず、聴いていて楽しめるような音楽としての魅力を保ち続けることができたのである。

•音楽の魅力

彼の音楽の魅力を簡潔に書くというのは無理難題だと思うが、あえて挙げてみよう。


まず、音楽的な品格の高さが重要な要素として挙げられる。

ベートーヴェンの音楽は高貴な精神を宿しており、純度の高い高潔さがある。


伸びやかに音を鳴らして音それ自体の生の魅力が活かされていることも特長である。

特に若い時の音楽は伸びがあり、聞いていて気持ちよくなる。

ベートーヴェンはシンプルな音形を使って、音そのものを高らかに響かせて存分に歌わせ、それにより素敵さを演出することに長けていた。


たとえば、「皇帝」協奏曲の1楽章の伸びの良さと品のよさはどうだろう。

ロマン派の音楽は、何かしらの気分を音楽に含ませており、「感情の支配下」にある。

それが音楽の表現の幅と、聞き手にとっての気分の幅を狭めている。

それと比較して、ベートーヴェンの音楽の音自体のシンプルさの中に魅力をこめて、聞く人を楽器が奏でる音それ自体に魅了させる。

とにかく、聞いている人の気分をよくさせることが得意である。


他にも手もちの芸風は多く持っており、例えば長調の曲でよく見せる竹を割ったようなすっきりとした割り切りの明快さの魅力もある。

胸が膨らむような広がりを持った壮大さもある。


一方で激情性もまた、ベートーヴェンの一面としてやはり重要である。

ベートーヴェンは冷静さを保ったまま、様々な種類の激情を表現し、それをコントロールしながら楽曲の構築を行うことが出来た。

後世のクラシック作曲家はベートーヴェンとしう先例を知っていながら激情を完全にコントロールして表現する音楽を作れなかった。

対抗馬となるのはショパンくらいだろうか。


晩年に至って、ずっしりと精神的な重みや手ごたえのある音楽を書けるように成長したことは、さらに驚異的なことである。

これは、ベートーヴェンの音楽がもともと持っていた親密性の魅力を発展的に肥大化させたものと考える。

中期の傑作の森では外面的な巨大な構築性を見せているが、もともとかなりパーソナルな精神をも表現できる人だった。


また、彼はエンターテイナーでもある。

音楽において、観客を楽しませて気持ちよくさせることに配慮が行き届いている。

盛り上がってほしい時にはちゃんと盛り上げる。聞き手の気持ちをちゃんと汲んで、演奏会というショーが成り立つように曲を書いている。

だから、非常に激情的だったと言われるベートーヴェンだが、決して独りよがりの人ではなかったのだろうなと想像させられる。

激情性すらも、彼の中ではエンターテイメントとしてうまくコントロールされている。


晩年の作品はその色が薄くなった。そのおかげで作り物っぽさが希薄になり、人間精神の中で一人一人の個人が心の奥の方で本当に大事に持っているパーソナル領域を生々しく表現できた。

その代償としてとっつきにくく、曲を理解できるまでに時間がかかるようになってしまったのだが。

•形式性


ベートーヴェンの音楽は古典派の形式性を保っていることも重要である。

ロマン派に入り、時代が下るほど崩れて迷走していった形式性は、ベートーヴェンにおいてはまだ十分に機能していた。

精神的な内面性の表現に音楽の比重が逆転してしまった時代においては存在しえない、音楽の構造性それ自体の価値が楽しさを持っている時代であった。

個別の曲が、自立した個別的に精神的内面とそれに適合する形式の両方を創造しなければならない時代になると、相対的に形式の力が弱まった。


創造性はえてして、まず形式に束縛されて表現の範囲に制約があり、その中での自由を追求する時代にもっとも発揮される。

表現の幅の制約は、創作性の妨げにはならないのである。

テレビゲームにおいてゲーム製作者は、ファミコン時代はまったく貧弱な表現力しか持たなかった。

しかし、その枠内でもプレーヤーを熱狂させる自由さがあり、充実感があった。

時代が下って表現力が高くなると、むしろ無茶な設定が出来なくなり、表現が目的になり、束縛物となってしまった。


また、現代の日本のポピュラー音楽は、Aメロ、Bメロ、サビというワンパターンの形式に枠内にすっぽり収まった曲が多い。

しかし、その制約の中で生み出されたメロディーや楽曲の表現力は、90年代にすばらしい黄金時代を築いた。

それと同じようなことが発生していたのが、ハイドンやモーツァルトからベートーヴェンの時代であると思う。


彼はいろいろな事が出来る器用さがあったが、それを実現する音楽のフォーマットとしての応用性の高さも才能の発揮を後押しした。

その自由度におぼれすぎず、一つひとつの曲を作りこんで、形式的にも技法的にも内面的にも完成度の高い際立った個性のある作品を作成した。

晩年は、やや自由度におぼれてしまい破綻しかけているが、その分の精神性の高みが魅力を高めている。


総合力は、さまざまな事を高いレベルで実施できることから生まれる。

出来ることの幅広さは、天才性の大きな要素である。

ベートーヴェンと比較してしまうと、後世の作曲家は全員、狭い範囲のことしか表現できなかった。

一部の能力では上回っていても、それ以上に多くの点で劣っていた。

だから総合的にはベートーヴェンに勝てなかったのである。


なお、ベートーヴェンの音楽の素晴らしさは、フルトヴェングラーの「音と言葉」に素晴らしい文章で詳細に語られている。

さすがベートーヴェンを振らせたらナンバーワンなだけある。きわめて説得力があり、深いレベルで納得感の高い説明である。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6%E8%AB%96

21. 2020年8月12日 07:11:00 : dyhvxNNwXQ : U1VzSC9pQ01ScUk=[2] 報告
19世紀初頭、次々に画期的な交響曲を生み出していたベートーベンの指揮振りが細かく伝えられている。

「彼は様々な身振りをして間断なく忙しかった。ディミヌエンド(次第に弱くなる)を表わすために段々低くかがみこみ、ピアニッシモ(きわめて弱い)では机の下にほとんど腹這うばかりになった。

音量が大きくなるとあたかも奈落からせり上がるように立ち上がり、オーケストラが力いっぱい奏するところに入ると爪先で立って巨人もかくやとばかり大きくなり、両腕を振り回して空に舞い上がるかのように見えた。」

いささか滑稽な様子だが、ベートーベンならさもありなんと思えそうな記述である。ここから読み取れるのは、ベートーベンが拍子の指示だけではなく音楽の表現力を楽団員に意識させることを実践していたことだ。

バトン・テクニックは問題ではなくて、意識は全て音楽に向けられ身体全体で表現を試みており、練習中にもテンポはもちろん細かい音のニュアンスにも気を配り一人ひとりの楽員達と話し合っていたそうだ。

明らかに近代指揮者への道をベートーベンは踏み出していた。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/15135a913562b68b5efbdd8d316c67c4

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