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20世紀の音楽を切り開いたストラヴィンスキー「春の祭典」の衝撃
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 20 日 23:25:11: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 19 日 08:01:40)

20世紀の音楽を切り開いたストラヴィンスキー「春の祭典」の衝撃


Stravinsky- Rite of Spring
Coreografie di Pina Bausch al Wuppertal Dance Theater


ディズニー 『ファンタジア』(原題: Fantasia)
1940年のアメリカ映画。アニメーション映画。
全編にわたっての音楽演奏は、レオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団が担当した。


「春の祭典」- ストラヴィンスキー(22:28)
舞台を人類時代の原始時代から、地球創世期〜恐竜の時代に変更している。また、原曲の一部がカットされた上、順番が一部入れ替えられている。


The Rite of Spring · Igor Stravinsky · Leopold Stokowski · The Philadelphia Orchestra


The first part of Igor Stravinsky's "The Rite of Spring" performed by the Cleveland Orchestra conducted by Pierre Boulez


The second part of Igor Stravinsky's "The Rite of Spring" performed by the Cleveland Orchestra conducted by Pierre Boulez.


___________


『春の祭典』(ロシア語: Весна священная、フランス語: Le Sacre du printemps、英語: The Rite of Spring )は、ロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーが、セルゲイ・ディアギレフが率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために作曲したバレエ音楽。1913年に完成し、同年5月29日に初演された。20世紀の近代音楽の傑作に挙げられる作品であり、複雑なリズムのクラスター、ポリフォニー、不協和音に満ちていて、初演当時怪我人も出る大騒動となったことで知られる。


題名
フランス語とロシア語の題名はかなり異なっている。フランス語の題名は1912年3月にレオン・バクストによってつけられたもので、「春の戴冠式」を意味する(後にストラヴィンスキーは「The Coronation of Spring」の方が本来の意味に近いと言っている[1])。ストラヴィンスキーは生涯にわたってフランス語の題名を使い続けた[2]。ロシア語の題名は文字通りには「聖なる春」を意味し、少し遅れて1912年9月のストラヴィンスキーのインタビューの中に現れる[3]。英語の題はフランス語を翻訳したものであり、日本語の題名は英語にもとづく。


作曲中の『春の祭典』について伝える初期の記事では『大いなる犠牲』(Великая жертва)と呼ばれていた[4]。


作曲の経緯


1910年、ストラヴィンスキーは、ペテルブルクで『火の鳥』の仕上げを行っていた際に見た幻影(“輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”)から新しいバレエを着想し、美術家ニコライ・レーリヒに協力を求めた[5]。


『火の鳥』の成功後、バレエ・リュスのための新しい音楽を注文されたストラヴィンスキーがこのアイデアを披露したところ、ディアギレフやレオン・バクストもこのテーマに興味を示し[6]、ディアギレフの手帳には、1911年度の上演予定作品として『牧神の午後』と『生贄(『春の祭典』)』が併記された[7][8]。


ところが、同年9月末にローザンヌのストラヴィンスキーを訪問したディアギレフは、そこで聞いた作曲途中の『ペトルーシュカ』を気に入り、これを発展させてバレエにすることにしたため[9]、『春の祭典』は一時棚上げとなった。


1911年6月に『ペトルーシュカ』が上演された後、『春の祭典』の創作が本格的に開始された。ロシアに帰国していたストラヴィンスキーはレーリヒを訪ねて具体的な筋書きを決定し[10]、レーリヒはロシア美術のパトロンであったテーニシェヴァ公爵夫人のコレクションから古い衣裳を借り受けてデザインの参考にした[11]。同じ頃に「春のきざし」から始められた作曲は[12]、同年冬、スイスのクレーランスで集中的に作曲が進められた結果、1912年1月にはオーケストレーションを除き曲が完成した。ストラヴィンスキーはこの年の春に演目として上演されることを希望したが、ディアギレフはこれを翌年に延期するとともに、大規模な管弦楽のための作品にするよう要望した。その後、モントルーでオーケストレーションが進められ、1913年に完成した。


初演までの経緯


1912年春頃、ディアギレフはそれまでのバレエ・リュスの振付を担当していたミハイル・フォーキンにかわり、天才ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーをメインの振付師にする決意を固めた。すでにニジンスキーは『牧神の午後』の振付を担当していたが、作品が公開されていない段階であり、その能力は未知数であった。

ニジンスキーのダンサーとしての才能は賞賛しながらも、振付師としての能力には不安を抱いていたストラヴィンスキーは、実はニジンスキーが音楽に関して全く知識を持ち合わせていないことに愕然とし、リズム、小節、音符の長さといった、ごく初歩的な音楽の基礎を教えることから始め[13]、毎回音楽と振付を同調させるのに苦労した。


不安になったディアギレフはダルクローズの弟子ミリアム・ランベルク(マリー・ランベール)を振付助手として雇い入れ、ダルクローズのリトミックを『春の祭典』の振付に活かそうとしたが、ダンサーは疲労困憊しており、彼女のレッスンに参加するものはほとんどいなかった[14]。


ニジンスキーは1913年の公演でドビュッシーの『遊戯』と『春の祭典』の2作品の振付を担当したが、ストラヴィンスキーによれば、それはニジンスキーにとって「能力以上の重荷」[15]であった。振付及び指導の経験がほとんど無く、自分の意図を伝えることが不得手なニジンスキーはしょっちゅう癇癪を起こし、稽古は120回にも及んだ。しかも、主役である生贄の乙女に予定されていたニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツ(Maria Piltz)が代役となった[16]。ランベルクによれば、ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の見本は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかったという[17]。


このような苦難の結果できあがった舞台は、レーリヒによる地味な衣装のダンサーの一群が、ニジンスキーの振付によって舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がるという、従来のバレエとは全く違うものであった。


初演
1913年、ディアギレフと付き合いのあった興行師ガブリエル・アストゥリュクのシャンゼリゼ劇場が完成し、『遊戯』、『春の祭典』初演を含むバレエ・リュスの公演は、その杮落としの目玉とされた。この時、ディアギレフはアストゥリュクの足元を見てオペラ座の2倍、2万5000フランもの出演料を要求した[18][19]。

『遊戯』初演の2週間後、1913年5月29日にパリのシャンゼリゼ劇場でピエール・モントゥーの指揮により『春の祭典』の初演が行われた。客席にはサン=サーンス、ドビュッシー、ラヴェルなどの錚々たる顔ぶれが揃っていた。初演に先立って行われた公開のゲネプロは平穏無事に終わったが[20]、本番は大混乱となった。


曲が始まると、嘲笑の声が上がり始めた。野次がひどくなるにつれ、賛成派と反対派の観客達がお互いを罵り合い、殴り合い、野次や足踏みなどで音楽がほとんど聞こえなくなり、ついにはニジンスキー自らが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならないほどであった。ディアギレフは照明の点滅を指示し、劇場オーナーのアストゥリュクが観客に対して「とにかく最後まで聴いて下さい」と叫んだほどだった。サン=サーンスは冒頭のファゴットのフレーズを聴いた段階で「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」[要出典]といって席を立ったと伝えられる[21]。ストラヴィンスキーは自伝の中で「不愉快極まる示威は次第に高くなり、やがて恐るべき喧騒に発展した」と回顧している。『春の祭典』初演の混乱は、1830年の『エルナーニ』(ヴィクトル・ユーゴー)や1896年の『ユビュ王』(アルフレッド・ジャリ)の初演時に匹敵する大スキャンダルとなり、当時の新聞には《Le "massacre" du Printemps》(春の"災"典)という見出しまでが躍った。

有名なこの初演時のエピソードだが、西洋クラシック音楽において、初演時に騒動が起きたのは特にこの作品に限ったことではない。他に近代ではシェーンベルクの弦楽四重奏曲2番以降やウェーベルンの無調作品、作曲者も音楽では無いと告白したラヴェルのボレロ、バルトークの『マンダリン』、ジョン・ケージの音楽でも、初演時に大騒動になった記録が残っている。こう言う騒動の発端は元々ワーグナーの『さまよえるオランダ人』・パリの『タンホイザー』やR・シュトラウスの『サロメ』にも見られる。指揮者の岩城宏之は、ヨーロッパで聴きにいった現代音楽の演奏会で何度か、聴衆間で怒声が飛び交う事態になったことがあるとエッセイに記している。現在でもドナウエッシンゲン音楽祭やダルムシュタット夏季現代音楽講習会などに行けばこういう騒ぎに巻き込まれることがある。またこの『春の祭典』初演時の騒動は、主にバレエの衣装と振り付けが革新的だったことによるとの説もある。


演奏史・上演史


1913年には、前述の初演を含めパリで4回、ロンドンで4回上演されたが、大混乱となったのは最初の1回のみで、2回目の公演以降は大きな騒乱が起こることはなかった[22]。翌1914年4月にシャンゼリゼ劇場で行われた演奏会形式での再演(指揮:モントゥー)の大成功により、『春の祭典』は楽曲としての評価を確立した[23]。その後、ロンドンやニューヨークでも高い評価を得てオーケストラのレパートリーとして定着した。


一方、初演の4ヶ月後に南米で電撃結婚をしたニジンスキーがディアギレフから解雇されたため、『春の祭典』は8回(ゲネプロを含めれば9回)上演されただけでバレエ・リュスのレパートリーから外された。その後、バレエ・リュスでは1920年に『春の祭典』の再演が行われることになったが[24]、誰一人としてニジンスキーの複雑な振付を覚えている者がいなかったため、新たにレオニード・マシーンが振付を担当した。マシーンは古いイコンや木版画を研究し、ストラヴィンスキーによるアドヴァイスを受け、単純な農民の輪舞をもとにして振付けた[25]。エルネスト・アンセルメの指揮によるバレエ再演は、生贄の乙女を当時24歳のリディヤ・ソコローヴァ(英語版)が演じ、大喝采を浴びた[26]。この頃のディアギレフは財政難に苦しんでおり、オーケストラに莫大な人件費がかかる『春の祭典』の再演が可能だったのは、この年の夏に知り合ったばかりのココ・シャネルから30万フランもの援助を受けたおかげであった。


この「マシーン版」は1930年にフィラデルフィアでマーサ・グレアム主演によって上演されたほか、ミラノ・スカラ座(1948年)、スウェーデン・ロイヤル・バレエ(1956年)などで再演が繰り返された[27]。


ニジンスキー、マシーンの後、『春の祭典』は多くの振付師によって取り上げられ、ボリス・ロマノフ(Boris Romanov)版(1932年)、レスター・ホートン(lester horton)版(1937年)、マリー・ヴィグマン版(1957年)、モーリス・ベジャール版(1959年)、ケネス・マクミラン版(1962年)、ピナ・バウシュ版(1975年)、マーサ・グレアム版(1984年)など、多くの版が作られて現在に至っている[28]。中でもベジャールによるものは傑作として知られている[29]。


一方、完全に忘れられたニジンスキーによる初演の振付は、1979年から8年かけて舞踏史学者のミリセント・ホドソン(Millicent Hodson)と美術史家ケネス・アーチャー(Kenneth Archer)の夫妻によって、現存していた資料(特にヴァランティーヌ・グロス(英語版)によるスケッチ)やランベールなど関係者の証言などから復元され、1987年にジョフリー・バレエ団(英語版)によって復活上演された。現在ではオペラ座の定番となっている[30]。


1953年にピエール・ブーレーズは、論文『ストラヴィンスキーは生きている』[31]において、この作品の斬新な作曲技法を解明するとともに、自ら演奏・録音を行い、この曲の解釈に一石を投じた。


ただオーケストラ付きのバレエ版の上演は5管編成の版しかないので、非常に予算がかかりオーケストラピットもそんなに入れないのでめったに生で上演されることはない。日本ではほとんどが録音による上演である。


改訂
『火の鳥』や『ペトルーシュカ』のように大規模ではないが、この作品でも何度もヴァージョン・アップを図り改訂が行われ、次のものが存在する[32]。


1913年版
自筆譜。初演に用いられた。
1913年版(4手ピアノ版)
1913年5月、初演に先立ちロシア音楽出版社より出版。1952年にブージー・アンド・ホークス社よりリプリントが出版された。
1921年版
管弦楽版初の出版譜。初演版から一部改訂されている。1922年2月にロシア音楽出版社より出版。
1929年版
1921年版の誤りを修正したほか、『祖先の召還』と『生贄の踊り』を大きく変更。ロシア音楽出版社より出版。
1943年版
『生贄の踊り』をさらに大きく改訂。『生贄の踊り』の部分のみを1945年にAMP社より出版。
1947年版
1929年版の誤りを修正。1943年版での変更は戻されている。1948年にブージー・アンド・ホークス社より出版。
1965年版
1947年版の誤りを修正。ブージー・アンド・ホークス社より出版。
1967年版
一部修正したうえで新たに印刷版を作成。ブージー・アンド・ホークス社より出版。
1968年版(4手ピアノ版)
主に『祖先の召還』と『生贄の踊り』を改訂。ブージー・アンド・ホークス社より出版。


現在主に使用されるのは1967年版であるが、指揮者によって好みが分かれる。また複数の版を折衷することもあり、例えばロバート・クラフトは1967年版に対して1913年版に基づく変更を加えて演奏している[33]。


「リハーサル中でさえ直す」というストラヴィンスキーの改訂癖は有名だが、初演指揮者のモントゥーはこの改訂癖について「最初の版が一番良い」と苦言を呈した。ゲオルク・ショルティが何故改訂したのか=どの版を使えば良いのかロバート・クラフトに質問した際「(終曲に代表される)変拍子をストラヴィンスキー自身が指揮出来なかったため」という返答があった。事実、ストラヴィンスキーが振り間違えている録音も初期に存在する。また最後の生贄の場面は作曲者が振れなかったのでめんどくさくて全部4分の4拍子で振ったと言う指揮者の間の逸話が今でも残っている。


小澤征爾によれば、彼が1968年7月にシカゴ交響楽団を指揮してこの曲をレコーディングする直前、ストラヴィンスキーがこの曲特有の複雑な変拍子を、ごく簡明な、単純な拍子構造に書き変えたヴァージョンを作り、小澤はストラヴィンスキーの要請に応じて、それをコンサートで指揮したのち、小澤がレコーディングにあたって準備していた旧来のヴァージョンとともに、並行して録音したという。しかし小澤はオーケストラのプレイヤーたちともども、その芸術的価値を疑問視し、結果この新ヴァージョンはレコードとして発売されず、ヴァージョン自体も陽の目をみることなく今日に至っているとのことである。このヴァージョンが作られた理由としては、すでに触れた「ストラヴィンスキーが変拍子を上手に振れなかったから」ということのほかに、経験の浅い学生のオーケストラなどでも演奏できるように、ということがあったらしいが、小澤とともにこれに触れたレナード・バーンスタインは、楽曲の著作権保護期間を延長したいがための行為だと、不快感をあらわにしていたという[34]。


ストラヴィンスキーは、『火の鳥』と『ペトルーシュカ』では楽器編成を縮小して改訂したが、『春の祭典』だけはそれがない。なお、頻繁にピアノデュオのレパートリーとして演奏されるピアノ連弾版[35]の春の祭典はもっとも自筆稿に近く、書き直しはほとんど無かった。


編成


5管編成で、ワグナーチューバやバストランペットなどの金管楽器で増強した超大編成の管弦楽ではあるものの、ストラヴィンスキーの三大バレエの中では唯一、ハープ、チェレスタ、ピアノといった楽器が含まれていない点は特筆に値する。打楽器に関しても、他の二作では活用されていたグロッケンシュピールやシロフォンといった鍵盤打楽器が含まれていない。


1967年版の楽器編成
木管楽器
フルート3(3番はピッコロ2番に持ち替え)
ピッコロ1
アルトフルート1
オーボエ4(4番はコーラングレ2番に持ち替え)
コーラングレ1
クラリネット3(A管とB♭管を持ち替える。3番はバスクラリネット2番に持ち替え)
小クラリネット1(D管とE♭管を持ち替える)
バスクラリネット1
ファゴット4(4番はコントラファゴット2番に持ち替え)
コントラファゴット1
金管楽器
ホルン8(7番・8番はワグナーチューバ持ち替え)
ピッコロトランペット(D管)1
トランペット(C管)4(4番はバストランペット持ち替え[36])
トロンボーン3
チューバ2
打楽器
ティンパニ7個(ハイBが出るピッコロ・ティンパニ1と普通のティンパニ6):奏者2人が必要
大太鼓
トライアングル
タンブリン
タムタム
シンバル
ギロ
アンティークシンバル2 : 変イ(A♭)と変ロ(B♭)
弦五部(普通は16型を当てるが、バレエのピットの上演は12型が精一杯である)
第1ヴァイオリン
第2ヴァイオリン
ヴィオラ
チェロ
コントラバス


構成


2部構成で、演奏時間は約34分(各16、18分)。
春を迎えたある2つの村同士の対立とその終息、大地の礼賛と太陽神イアリロの怒り、そしてイアリロへの生贄として一人の乙女が選ばれて生贄の踊りを踊った末に息絶え、長老たちによって捧げられる、という筋である。場所などの具体的な設定は無く、名前があるのは太陽神イアリロのみである。キリスト教化される以前のロシアの原始宗教の世界が根底にあるといわれる。


この筋は友人の画家ニコライ・リョーリフ(レーリッヒ)が1910年4月28日付(ユリウス暦)の『ペテルブルク新聞』に発表したバレエの草案が元になっており、彼は台本と共に美術を担当した。この曲はリョーリフに献呈されている。ちなみに、ストラヴィンスキーの自伝には、彼自身が原案を思いついたと書かれているが、このことからわかる通り事実ではない。


各部の表題は1967年版スコアでは英語とフランス語のみ記載されているが、古い版にはロシア語でも記載がある。それぞれ意味は同じではないので注意が必要である。下記の表題は英語版に従っている。


第1部 大地の礼賛


序奏
リトアニア民謡 "Tu mano seserėle(私の妹よ)" をベースにしたファゴットの非常に高音域のイ調独奏で始まる(C2)。古典的な楽器法に精通したサン=サーンスが酷評したこの部分は演奏が大変困難であり、田村和紀夫はドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』冒頭のフルート独奏と共に、楽器の得意でない音域を敢えて使用するという作曲家の意思を読み取っている[37]。既に変拍子の幕開けとなり、様々な管楽器が異なる調性で全く違うニュアンスのメロディーを激しく演奏する。高潮しきった所で曲は途絶え、ファゴットが再び最初の旋律を嬰ト調で演奏する。ブーレーズは論文『ストラヴィンスキーは生きている』において「最も異様、かつ興味深い語法」と評した。


春のきざし(乙女達の踊り)
ホ長調主和音(E, G♯, B)と変イ長調属和音第1転回形(G, B♭, D♭, E♭)が複調で弦楽器を中心に同時に力強く鳴らされる同じ和音の連続とアクセントの変化による音楽。この和音構成は平均律上の異名同音で捉えると変イ短調和声短音階(A♭, B♭, C♭, D♭, E♭, F♭, G)と同じであるが、初めて聴くものには強烈な不協和音の印象を与える。また木管楽器によって対旋律として現れる(E, G, C, E, G, E, C, G)というスタッカートのアルペジオはハ長調を示し、これによって五度圏上で正三角形を成し長三度ずつの移調関係にあるハ長調、ホ長調、変イ長調が結ばれる。これはベートーヴェンの後期三大ピアノソナタ(あるいはもっと前の『ヴァルトシュタイン・ソナタ』や『ハンマークラヴィーアソナタ』なども)においても転調の過程で順次提示されるように既に援用が見られる調関係だが、同時に鳴らすのは音楽史上この曲が初めてであろう。


誘拐
春の輪舞
敵の部族の遊戯
長老の行進
長老の大地への口づけ
極めて短い。激しい不協和音が弦楽器のフラジオレットで奏される。
大地の踊り
音楽は絶頂の中、終結句を伴わず突然終止する。
第2部 生贄の儀式[編集]
序奏
乙女の神秘的な踊り
選ばれし生贄への賛美
祖先の召還
祖先の儀式
生贄の踊り(選ばれし生贄の乙女)


最も難曲かつ作曲学上システマティックに書かれた部分。5/8, 7/8などの変拍子が組み合わされて徹底的に複雑なリズムのポリフォニーを作り上げる。オリヴィエ・メシアンはこの部分を「ペルソナージュ・リトミック(リズムの登場人物)」[38]、ピエール・ブーレーズは「リズムの細胞」と、クラウス・フーバーは「リズムのクラスター」と呼んでそれぞれ分析結果を発表している。メシアンによればこの曲は、複雑な変拍子の中でそれぞれ提示されたリズム動機について、拡大する動機、縮小する動機、発展せず静的な動機の3つの類型のリズムから成り立つという。


引用曲


『ペトルーシュカ』と同様、ストラヴィンスキーは多くの民謡を引用しているが、大部分は原型をとどめないほど変形されているため、実際にどの曲が引用されているかを知るのは難しい[39]。ローレンス・モートンの研究によると、第1部のいくつかの旋律はポーランドのアントン・ユシケヴィチによって集められたリトアニア民謡集の中の曲に由来するという[40]。また、イストミン(Ф. М. Истомин)とリャプノフによる民謡集やリムスキー=コルサコフの集めたロシア民謡などからもいくつかの素材を借りているらしい[41]。


エピソード
ウォルト・ディズニー制作のアニメ映画『ファンタジア』(1940年11月13日アメリカ公開)中の1エピソードにも使われ、地球の誕生から生命の発生、恐竜とその絶滅までのドラマがこの曲に合わせて繰り広げられる。なお、『ファンタジア』の音楽で作曲家が生存していたのはストラヴィンスキーのみであり、彼は後に映画本編を見た際、内容が自分のイメージと大きく異なっていたことに衝撃を受けたと言われている。


ボイジャーのゴールデンレコードにはストラヴィンスキー本人の指揮、コロンビア交響楽団による「生贄の踊り」が含まれる[42]。


また演奏困難な曲に数えられ、数々の逸話が残っている。日本初演(1950年9月21,22日の日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)第319回定期演奏会、指揮は山田一雄(当時は和男))の際にも指揮者が曲の進行を見失い、もう少しで終わらなくなりそうだったと言う。また、岩城宏之もこの曲の暗譜指揮に挑戦して失敗し、オーストラリアのTVの生中継で中断したことがあり、その顚末について著書『楽譜の風景』に記述している。別の著書では、カラヤンが現代曲を得意にしていた岩城に対して、「どのように『春の祭典』の変拍子を振ればいいのだろうか?」と相談しに来たことがあったと述べている。この曲を完全に暗譜で楽々と指揮したのはロリン・マゼールで、バイエルン放送交響楽団とのビデオが残されている。


映画
初演の騒動を描いた様子は、以下の映画で描写されている。
『ニジンスキー』(ハーバート・ロス監督、1980年、アメリカ)
『シャネル&ストラヴィンスキー』(ヤン・クーネン監督、2009年、フランス)


https://ja.wikipedia.org/wiki/春の祭典
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-14305] koaQ7Jey 2020年1月20日 23:26:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1203] 報告



ストラヴィンスキー バレエ音楽 「春の祭典」2012 SEP 29 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2012/09/29/ストラヴィンスキー%E3%80%80春の祭典/

高1のとき、これに出会った。

Igor Stravinky - Rite Of Spring - Part I - Introduction
Performed By Pierre Boulez & The Cleveland Orchestra (1969)


Igor Stravinky - Rite Of Spring - Part I - Harbingers Of Spring
Performed By Pierre Boulez & The Cleveland Orchestra (1969)


ピエール・ブーレーズ指揮クリーブランド管弦楽団のLPレコードである。1969年録音。この曲だけにかかわらず、クラシック音楽の演奏史に永遠に名を刻まれる名盤中の名盤である。
この曲は1913年パリのシャンゼリゼ劇場で初演のおり、その前衛性に反対派などから怒号や口笛が飛びかって会場が大騒ぎとなり、20世紀音楽史上のスキャンダルとして記録されている。

この演奏はそういう人間界の俗臭さとは完璧に無縁である。不細工かつ膨大な計算量を伴う解き方しかなかった数学の難問を、わずか数行で美しく解いてしまった答案用紙を見る気分だ。E=mc²のように。ブーレーズ自身、本当に数学を学んでいたが。この美しいジャケットも見事に曲の雰囲気を描写している。

ブージー・アンド・ホークスのスコア(右)は表紙がボロボロになってしまった。 アルトフルート、ピッコロクラリネット、ピッコロトランペット、バストランペット、ピッコロティンパ二など耳慣れない楽器が出てくる。僕はそれらを耳を凝らしてマニアックに聴いていたが、この演奏はそれがちゃんと聴こえる。聴こえるように演奏され、録音されている感じだ。そんなニッチな所に焦点を当てて商売になるだろうかなどという下世話な頭は微塵もない指揮者にオケも録音技師も全身全霊で奉仕している奇跡的な録音なのである。

「いけにえの踊り」のティンパニでこんなに短3度音程が明確にわかる演奏はない。ティンパニと大太鼓の音色をこれほど差別化した例もない。第1部冒頭部分での木管楽器の倍音までとらえた録音センスの良さは本当に本当にすごい。第2部冒頭(序奏)練習番号80でp(ピアノ)で入る大太鼓(皮はゆるめに張られている感じ)の意味深さは筆舌に尽くしがたい。音楽的にどうでもいいと言われそうだが、このスコアにストラヴィンスキーが封じ込めた信じがたい美の一部であることは誰も否定できまい。

テンポはやや遅めであり、すべての音は完璧に磨かれた、正確極まりないピッチの楽器音でじっくりと丹念に刻み込まれていく。スコアが30段ある室内楽と言って過言ではない(1か所だけトランペットがミスしているが)。では生気に欠けるかというとそうではない。第2部の最後に向けて鉄の塊が徐々に熱していくようにじわじわと過熱してくる。そう演奏しているのではなく、スコアがそう書かれており、それを忠実に抉り出してそうなっているという絶対の説得力を感じる唯一の演奏である。

リズムに関しては鉄槌を打ち込むかのような強靭な理性によるコントロールを知覚する。音や和音の鳴り始めと終結(つまり音価)が厳格な意志で統率され、いい加減に放置された音は最初から最後まで皆無といっていい。練習番号139、pで22発打ち鳴らされるシンバルの最後から4発目がやや野放図に鳴りすぎたのが玉に傷で耳に残ってしまうほど全曲にわたって精密なのであって驚くばかりだ。だからこそ「生贄の踊り」同144の直前の16分の3拍子が16分の2に近いのが昔から気になっていて、生前にお尋ねしたかったことの一つだった。

録音は楽器に近接したマイクの多重録音と思われ練習番号38のドとシのティンパニは位置が左と中央に離れて聞こえる。同22−23ではイングリッシュホルンの裏でティンパニストがシ♭の音合わせをしているのが聞こえる。それをマイクが拾っているのを放置しておりミキシングが徹底した精度であるとはいえない。ティンパニの音程と皮の質感をここまで拾う録音が木管の倍音までも拾うのは納得であり、こういうことは指揮者と録音技師のセンスが合致した幸福な結果だろう。最後の方でブーレーズのオケを追い込むような声が聞こえる部分がありびっくりするが、そこはリハーサルの方を採用したかもしれない。

発売当時「スコアにレントゲンをかけたような」という形容があった。実演では聴こえない音まで聴こえることの比喩だ。そう、これはレコード芸術そのものだ。全音符をこれで刷り込まれた僕には、実演はすべて「いい加減」な演奏に聴こえるので困る。必ず欲求不満になる。だからなるべく聴かない。聴くならティンパニの後ろの席で「ピッコロTim」の高いB(シ)が聴き分けられるかどうか実験の目的だ。何故かこれだけはブーレーズ盤でもわからない。他盤もだめだ。入りにくいのか僕の耳の問題なのか。だから近くで実物を聴きたいのだ。

これは1970年に買った、まさに僕にとって神であるLPから録音したもの。そのあとに出たフォーマットもすべて聴いてみたが、この初出のヴィニールレコードが最も倍音が豊富でありベストで、再発を重ねるほどそれが消えて行っている。SACDになれば音がいいという単純なものでは全くない。第1部の春のロンドまでの木管合奏など、この倍音が演奏の特性を決しているのである。

ブーレーズの春の祭典は実演を2度聴いた。最初は1974年9月5日にNHKホールでニューヨーク・フィルハーモニーと。次は1993年にフランクフルトのアルテ・オーパーでロンドン交響楽団と。当たり前だがレコードと同じ音楽、同じフレージングだったが情報量はプア。前者はベートーベンの2番が前半プロだったが意外に普通だった。面白かったのはむしろエーリヒ・ラインスドルフが1984年にファイラデルフィア管弦楽団を振ったもの。ぎくしゃくした棒でいがらっぽかったが、骨太の演奏で説得力があった。香港で聴いたフェドセーエフ/モスクワ放送交響楽団はティンパニが間違えて一瞬オケがバラバラになりこっちも心臓に悪かったが香港の聴衆は気がついてない感じだった。

この曲は一般にハルサイと呼ばれる。春祭だ。夏祭りみたいなので僕は絶対に使わない。ブーレーズの前衛性などどこ吹く風で、最近は若手指揮者が暗譜で振るとカッコいい「のだめ」流ミーハー曲に堕落してしまった観がある。若い子はラプソディ・イン・ブルーの姉妹曲ぐらいに思っているのだろうか。オジサンたちは若い頃こういうのを大真面目にピリピリ緊張してやっていたんだ。

当時クラスメートと「ブーレーズがブルックナーなんかやったら世も末だね」とジョークを言っていた。そしたら10年ぐらい前に本当にやられてしまった。DGの商売にのせられたのか。ともあれ、これはカラヤンが越後獅子を振ったのと同じぐらいのマグニチュードがある事件だ。センセイどうしちゃったんですか?いや、これも堕落と言ったら失礼だ。世も末ということにしておこう。

最後に、僕の69種類ある春の祭典音源集から:
マイケル・ティルソン・トーマス/ボストン交響楽団

Stravinsky 'Rite of Spring' - Tilson Thomas conducts



とにかく音がいい。僕はオーディオチェックに使っている。ボストン・シンフォニーホールのいい席はまさにこの音と残響のブレンドである。演奏も凛々しい。若々しい。管楽器がうまい。ティンパニも健闘している。MTトーマスはピアノ連弾でも録音している(これも悪くない)。好きなんだろう。新録音もあるが断然これ。見つけたら即買いです。

Stravinsky The Rite of Spring - Bernstein and Tilson Thomas, piano four hands (1981)




小沢征爾/シカゴ交響楽団

Seiji Ozawa Conductor /Le Sacre du Printemps



リズム感の良さとオケのやる気満々なノリが素晴らしい。ロック、ジャズの感覚。若造の分際で大シカゴSOをここまでドライブしたオザワの青春譜。やっぱり只者じゃなかったんだ。ただし第2部は定番のブージー67年版ではなくアンセルメ盤と同じ部分があり、初めてこれを覚える人には薦められない。通におススメ。

アンタール・ドラティ/ミネアポリス交響楽団


The rite of spring; Antal Doráti & Detroit Symphony Orchestra; 1981


速い。とにかく速い。疾風のごとし。軽い。とにかく軽い。このお茶漬け風味は捨て難い。ハイドン風ストラヴィンスキーの逸品である。買い。デトロイト交響楽団との新盤はフツーのテンポになっている。初めての人はこっちのほうがいい。

イーゴル・マルケヴィッチ/フィルハーモニア管弦楽団


セラフィム盤。一つのスタンダードを作った演奏。もしブーレーズ盤がなければ似たような位置づけに鎮座しただろう。おっかない切れ者指揮者のドライブ力は圧倒的。聴くと疲れるが曲の本質をワシづかみにしている。音もまあまあ。おススメできる。

コリン・デービス/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団


コンセルトヘボウの正面特等席の音響がする。うれしい。そのまま理想的なベートーベンができる音による春の祭典というバリューは絶大。オケは非常にうまい。デービスにしては意外なほど燃えてもいる。出た時に「いけにえの踊りで」妙な繰り返しがありのけぞったが修正された。誰でも安心して聴ける。


クラウディオ・アバド/ロンドン交響楽団
76年大学時代にLP新譜発表プロモーション会場で抽選に当たりもらった。懐かしい。しかし演奏も録音も平板で実につまらない。アバドの名前にだまされて買わないこと。

ゲオルグ・ショルティ/シカゴ交響楽団
ウサイン・ボルトが予選でテキトーに流して10秒09という感じのお仕事。大味で細部はええ加減である。ショルティの名前にだまされて買わないこと。

ズビン・メータ/ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団


インドの星だった若きメータ。春の兆しのスピード感に「ほほう、これは速い」と柴田南雄さんがラジオでつぶやいたのを覚えている。最期まで勢いがありオケがのっている。打楽器のリズム感、とてもいい。おじさんも若返る快感あり。おススメ。

ピエール・ブーレーズ/フランス国立放送管弦楽団


63年録音。音が古い。 オケの精度は高くない。勢いで押す部分があり熱さもあるのはまだ若い感じ。69年盤があれば不要。

ピエール・ブーレーズ/クリーブランド管弦楽団


DGの91年録音盤。これだけ聴けば名演。音は69年盤よりまったりして角が取れている。しかしあれを知ってしまうと指揮は好々爺にしか聞こえない。ブルックナー路線はこの辺から引かれていたかもしれない。69年盤があれば不要。

エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団


ストラビンスキーの1歳下だったアンセルメは1883年生まれ。ローザンヌ大学数学科の教授から転身した。彼らが生まれた頃に亡くなったボロディンは有機窒素の定量法を発見した化学者で、作曲は余技だった。この時代の音楽家は音大卒の専門家ではない。そういう時代の息吹を感じるオケ。とても下手である。アンセルメの録音は2種類あるが、どちらもトモダチだった作曲家に意見してスコアを直させたものが聴ける。作曲家はそれをまた直して現行版になった。火の鳥組曲1919年版のように著作権料狙いだったかどうかは知らない。これはフォロ・ロマーノだ。遺跡として訪問価値がある。

ストラヴィンスキー / コロンビア交響楽団


60年録音。先ほどじっくり聴いて、ブーレーズ69年盤はこれを下敷きにしたと聴こえた。ほぼ間違いないと思う。当たり前だが秀でたスコアリーディングであり、このスコアを音にすればこうなり、ブーレーズのようになるのだ(練習番号144の直前の16分の3拍子が16分の2に近い!)。違いはオケの運動神経ということになるが、アマチュアの指揮なのだから仕方ない。大変耳をそばだてるものを含む演奏であり、なるほどそうなのかと目から鱗の部分が続出するが、それらを圧倒的高みで洗練させ厚みを増しストリームラインしたのがブーレーズ/ クリーブランド盤の実体であるといっていい。これをつまらないと思う人は要するにこの曲がよくわかっていないのであり、よりわかりやすいブーレーズ盤をじっくり聴くことをお薦めする。

ヴァレリー・ゲルギエフ / ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

Valery Gergiev conducts Stravinsky Rite of Spring – video 1992


96年録音。この曲がポップ化し始めた頃を象徴する演奏で、指揮者は人口に膾炙する部分の誇張、拡大解釈につとめ、それがあたかも何か新時代の息吹を革新的な感性で表現したかのようにふるまう。その感性がじっとりとロマン的なものだから曲の神秘的な本質を逸脱していくばかりなのは悲劇的ですらある。聴きとおすのに苦労した。

エヴゲニ・スヴェトラーノフ/ ソビエト国立交響楽団


66年録音。録音はクラリティが高く木管の色気は好感が持てる。「ブーレーズ以前」にしてこのスコアリーディングはレベルが高く、オケの運動能力もすぐれている。ただ金管の咆哮があまりにうるさい。ロシアを去りパリで初演を目論んだ時点で作曲家の頭にこのロシアの下品極まる金管があったとは思わない。練習番号84のミュート・トランペットはまるでジャズの音色で笑ってしまう。第2部前半の神秘感はまるでないが生贄の踊りのリズムは録音当時としては見事である。

ユージン・オーマンディ / フィラデルフィア管弦楽団
55年モノラル録音。最も早い時期であり、オーマンディーの読譜力の凄さを見る。作曲家は貶したらしいがディズニーが使ったストコフスキー盤の印税はどうだったのだろう。彼は火の鳥1919年盤をそれで作ったくらいカネにうるさかった。まあ「春のロンド」はなんぼなんでも速すぎるし純粋に解釈が気に食わなかった可能性もある。味もそっけもないがこの演奏能力は文句なし。こんな国と戦争してはいけない。

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団


77年録音(2回目)。冒頭のファゴットとホルンのリズムからいい加減。バスが効き木管は歌いまくり、総じて和声的、歌謡的要素に感応度が高い。速い部分のメカニックは高度ながらBPOのホルンが音を外す珍しい場面も。第2部序奏は異様にロマン的だ。87−88は和音が異質に聞こえ気持ちが悪く、11連打の減速はマゼールに近い。生贄の踊りの固めのティンパニはなかなか良い。174以降でピッコロ・ティンパニのパートをこれほど強く叩くのも珍しい。僕の耳にはレア物として面白いが一般には色モノの部類だろう。

(補遺)
シェーンベルク: 5つの管弦楽曲 作品16 (1912年版) ラトル, バーミンガム 1987, 88


この音楽は1909年に作曲され1912年9月3日(春の祭典の初演前年)にロンドンで初演された。アーノルド・シェーンベルクの「管弦楽のための5つの小品」(作品16)である。ストラヴィンスキーがこれを聴いていた可能性はないだろうか。

第3曲「色彩」を特徴づける要素を祭典のスコアから引き出したのがブーレーズだ。

(演奏・補遺 2月15日〜)
ウィリアム・ファン・オッテルロー / シドニー交響楽団
youtubeで一聴して惹きつけられた。オケの性能はA+クラスだが何よりオッテルローのスコアリーディングが深い。指揮者の耳の良さは音楽に聴き捨てならぬオーラを与えるのである。この曲の野性的側面を充足する運動神経の良さと多彩な楽器の倍音を含むカラリングがうまく調合された魅力的な演奏だ。ティンパニひとつとってもそれが明確。78年録音。彼は同年にメルボルンで事故死したが、シドニーオペラで振った最後の作品が春の祭典だった。

ハンス・シュミット・イッセルシュテット / 北ドイツ放送交響楽団
69年ハンブルグでのライブ(ステレオ)。ブーレーズ前の演奏だが、ティンパニ11連打が遅いぐらいでほとんど全曲違和感がない。ドイツもののイメージのイッセルシュテットだがストラヴィンスキーとは友人で得意としていたらしい。生贄の踊りで一ヵ所バスドラにミスか覚え違いがあるが、これだけできれば当時としては立派としかいえない。彼の手によると三楽章の交響曲(名演だ)が春の祭典と同質の音楽に聞こえるのが面白い。

ネーメ・ヤルヴィ / スイス・ロマンド管弦楽団

Stravinsky , The rite of spring (Le sacre du printemps) Conductor : Paavo Järvi


SROの管による第1部序奏の木管の協奏は良し。春の兆し、なんぼなんでも遅すぎ減点。ロンドのクラの装飾音符が全音低い。バスドラは全然聞こえず減点。第2部の序奏は速めであっさり進行、クラリネットの上昇アルペジオにフルート和音が乗る部分は印象派風で美しい。11連打になんとアッチェレランドがかかり唖然とすると選ばれた乙女は快速でぶっ飛ばす。いけにえはティンパニがいきなり妙な所に鳴り驚くが、大いに暴れまくり大迫力だ。バスドラが欠落したりするが追い込みは盛り上がる。このCDはこれより次のカンティクム・サクルムがききものだ。第2曲はストラヴィンスキーが初めて音列作法で作った楽章で抜群に面白い。ヤルヴィの強烈なオケの統率力がわかる。

ズデニェック・コシュラー / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団


これは僕の知る音源でトップ5入に入る名演である。まずCPOがCPOの音で鳴っている。冒頭のファゴットをはじめ歌う木管、金管は強力だがブラッシーにすぎず節度があり弦はくすんで木質であり、プラハの芸術家の家であたかもベートーベンをやるかのような美しいマストーンと残響で録音されている。そうかと思えば、細部に耳を凝らすとティンパニの音程にこんなに神経を使ったのはブーレーズCBSと双璧であり、春のロンドと第2部序奏のグランカッサの扱いもブーレーズCBSのコンセプトに似る。演奏は概して速めでドラティ旧盤に近く、慣れてない金管がやや危ない(第1部終結)が、この胃にもたれないアレグロの軽さは好ましい。練習番号114のティンパニがこんなに聞こえるのはなく、生贄の踊りの明瞭な短3度などもはや感涙ものだ。繰り返しで半音下がるが、明らかに違う太鼓を叩いておりもちろん音質も違うわけで、eの太鼓の皮の質感が微妙にやわらかいところなどマニア垂涎のご馳走である。この演奏の唯一のリザベーションは練習番号121が遅いことだが良しとしたい。生贄の踊りのリズムが最近の物に比べると弦楽器奏者一人ひとりレベルでまだぎこちないが、1979年時点のチェコ・フィルでここまでの整然としたアンサンブルを構築したコシュラーの指揮技術は高い。これをヘッドホンでじっと聴くのは最高の楽しみだ。

(補遺、10 June17)
エーリヒ・ラインスドルフ / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団


ラインスドルフがフィラデルフィア管弦楽団を振ったのは1983年だった。音楽よりも彼の両肘を張ったぎくしゃくしたロボットのような指揮姿の方が印象に残っている。LPOとのレコードは「20chマルチ録音を4トラックに収録するフェイズ4ステレオ録音」というふれこみであり、期待して買ったが音としては別に大したことはなかった。それがこれだ。


ルドルフ・アルベルト / チェント・ソリ管弦楽団
この1956年、パリのサレ・ワグラムで行われた録音を聴きなおして、やはりブーレーズCBS盤のコンセプトに非常に近似していることに気づいた。全曲の演奏時間は50秒しか違わない。アルベルトはフランクフルト生まれのドイツ人だがイヴォンヌ・ロリオ、ドメーヌ・ムジークと録音を多くしておりメシアン、ブーレーズのフレンチ・スクールと近かった。チェント・ソリ管はパリ管などパリの首席級の録音用オケであり、バレエ・ルッスの本拠地でストラヴィンスキーも交えて直伝の解釈をベースに共有された当曲の楽曲解釈が1956年には既に整えられており、そこから現れたのが上掲のレイボヴィッツ盤であり、集大成としてのブーレーズCBS盤であったと推測する。当曲のフランスの管による色彩は異色で興味深く、演奏のインパクトも強烈だ。アルベルトは古典派、ロマン派と録音を残したがどれも一聴に値する解釈であり、当盤も春の祭典マニアたる者必携であろう。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2012/09/29/ストラヴィンスキー%E3%80%80春の祭典/



2. 中川隆[-14310] koaQ7Jey 2020年1月21日 09:23:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1187] 報告

ストラヴィンスキーはカメレオンといわれる。長年そう思っていましたが、あの3大バレエ流儀の曲がもう出てこなかった聴き手の欲求不満がこもった揶揄とすればもっともです。それほどあの3曲は劇的に素晴らしい。いや、路線変更なかりせば10大バレエができたかもしれないが、どんな形式にせよあれは彼の才能が20代でスパークした瞬間を記録したブロマイドのようなもので残りの7つは30代の顔を映したもの、つまり結婚、プルチネルラ、きつね、兵士、ミューズ風のものが続いたに違いない。我々はそれを手にしているのだからそれがストラヴィンスキーなのであって、最近はむしろ変転できたことが彼の才能だったと信じるようになりました。

彼の家系はポーランドの貴族でリトアニアに領地がありましたが没落しています。マリインスキー劇場で歌う高名なバス歌手の3男としてペテルブルグ近郊で生まれ、サンクトペテルブルク大学法学部の学友の父リムスキー=コルサコフの個人授業を受けたことが音楽的基盤となりましたが、火の鳥に師の残照はあっても春の祭典に至るともう見えません。その20代の10年間の音楽のプログレスは驚異的で、並行して法学部で学位も得ているように、創造力ばかりが強調して伝わりますがそれ以前に格別の学習能力があったと思われます。彼の父の蔵書は図書館並みの20万冊であり、その血をひいてその家に育ったわけです。

作風変化の”カメレオン”には2つの世界大戦の影響を看過できません。バレエ・リュスの公演は第1次大戦で妨げられて収入が途切れ、終戦後はフランスを転々としますが1945年にアメリカに移住して市民権を得ます。ナチズムゆえ居所をアメリカに移した音楽家は多いですが、彼は土地も作品の版権も失いフランスでの人気も失せた経済的動機が大きく伝記を読む限りあまり悲愴感がない。宗教もカソリックに改宗したし、蜜月だったディアギレフは不仲になったがお墓は一緒でベニスのサン・ミケーレ島にあるという、まさに変転の人生であったわけで作風だけのという話ではありません。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2018/09/20/ストラヴィンスキー「%EF%BC%93楽章の交響曲」/

3. 中川隆[-14309] koaQ7Jey 2020年1月21日 09:32:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1186] 報告
ニジンスキー復元版バレエ《春の祭典》


5/23(月)、NHK-BS〈プレミアムシアター〉で「サンクトペテルブルク白夜祭2008」公演の収録が放送された。

この公演はイゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)作曲のバレエ《火の鳥》《春の祭典》と《結婚》で構成されている。

特に《春の祭典》が、幻であったニジンスキー振付の復元によっている事、その映像記録の価値から、NHKでは幾度か放送している。再放送を希望する視聴者の声も多かったのだろう。

調べた範囲では、今回以前に、2009年3月と12月、2011年7月の3回放送されている。前者は白夜祭の公演日と近い事から、これが日本で紹介された初の機会だったのではないか、と推測する。

《春の祭典》バレエ初演時(1913)の騒動については、今や音楽史の重要な1ページとして誰もが知るところとなった。
その騒動に迄触れようとすると、紙面が際限なく膨れてしまうので、それは割愛。週刊誌的な記述も多いので、静岡文化芸術大学〈文化と芸術C〉(2015.10/上山典子)の聴講記録を参照するに留める。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947395692&owner_id=3341406

ともかく、その振付をしたのがヴァーツラフ・ニジンスキー(1890-1950)で、公演はディアギレフ率いるバレエ・リュスだった。

時代が時代だけに、彼が振付をした《春の祭典》の映像も記譜も残されていない。ニジンスキーはダンサー,コレオグラファーとしてはともかく、指導者としての資質を問う人もいて、しっかりした記譜など起こさなかったのだろう。

時代の波の中で完全に忘れ去られてしまったそれの復元に尽力したのは、舞踏史学者のミリセント・ホドソンと、その妻で美術史学者のケネス・アーチャ―である。
2人は、1979年から8年の歳月をかけて、この作業を行い、復活させた。

その間、多くのコレオグラファーが《春の祭典》の振付を行った。
レオニード・マシーン(1920)、モーリス・ベジャール(1959)、ピナ・パウシュ(1975)等々。

残念ながら、ニジンスキー〜ホドソン/アーチャ―版を観る機会はあまりない。
私は、ベジャールとパウシュはハイライト版ながら観た事があるが、これは観ていない。

前掲の聴講授業で復元版の映像を紹介され、驚くと共に震えた記憶がある。

今回の放送はその時紹介してもらったもので、2009年も11年も見逃している私には、大変にラッキーな賜物であった。

映像も極めてクリアーなもので、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮の演奏も、これ迄何度も聴いた他の指揮者達によるものと全く違っていた。

それはパリのシャンゼリゼ劇場で初演されたという性格よりも、太古のロシアをより強く感じさせる土俗的で呪術的な迫力に富むものだった。

ちなみに「サンクトぺテルブルク白夜祭」はゲルギエフが創設した芸術祭である。
ストラヴィンスキーもサンクトペテルブルク近郊で生まれ、同大学で学んでいる。父親は同地マリインスキー劇場のバス歌手だった。

ニジンスキーも、バリエリュスに呼ばれる前は同劇場のダンサーだった。
サンクトペテルブルクとマリインスキー劇場は、このバレエを演ずる上では、根源的な縁のある場所である。

さて、今回の公演のデータである。重複もあるが、整理しておこう。
人名の表記はTVのクレジットに合わせた。

作曲・台本 イーゴリ・ストラヴィンスキー
台本・美術 ニコライ・レーリヒ
原振付 ワツラフ・ニジンスキー
振付復元 ミリセント・ホドソン

指揮 ワレリー・ゲルギエフ
演奏 マリインスキー劇場管弦楽団

〈出演〉
生贄の処女 アレクサンドラ・イオシフィディ
長老 エレナ・バジェーノワ
賢人 ウラディーミル・ポノマレフ
マリインスキー劇場バレエ団

2008年6月/サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場公演ライヴ収録

伝統的なヨーロッパスタイルのバレエとこれは、求める世界が全然違う。洗練や典雅とは縁がない。

トウシューズもチュチュも着けない。着ているのは、ロシアの古い民俗衣装。
全員の顔に派手な原色の刺青が施され、上で出演者の名前を記したものの、見た目ではそれが誰か判らない。

ダンサー達の身振りには、アラベスクもピルエットも型名を付ける事は不可能。
バレエの基本中の基本である両足の外側への開き(アン・ドゥオール)は一切なく、内股で立ち首を傾げ、奇妙なぎこちない動きが続くと、思いも寄らぬストップモーション。

曲は2部構成で、序奏の後、第1部「大地礼賛」、第2部「いけにえ」。

物語は到って簡単。
春の訪れに歓び沸き立つ村。
人々は、大地の恵みに感謝して踊る。
しかし、賢人は、大地への祝福が太陽神の怒りに触れるのではないかと怖れる。

太陽神に花嫁を捧げる為、処女を1人選び出す事とする。
生贄に決まった娘は、一心不乱に踊る。
それは次第に激しさを増し、狂ったように踊り続けると、遂に息絶えてしまう。
村人は彼女の亡骸を太陽に向け高く掲げる。

今回の鑑賞に沿ってもう少し詳しく話すと、
・・・・・・
春の訪れを感知する一部の若者達は、大地への感謝として、ポリリズムの外れた強拍に合わせ足の踊りを始める。

長老は腰と指の曲がった皺深い老婆だが、まだ目覚めぬ男女の間を走り回り、早く起きて踊れと喚き、飛び跳ねる。

踊りの輪は次第に拡がり、盛り上がり、不協和音が雷のように落ちると、男達の中には木偶のように争う者もいる。

日本の地方に残る古い民俗的なそれを想わせるような踊りも、時にある。

踊りの人数が増え、激しくなると、奥から、若者達を杖代わりにした白髪白髭の賢人が天を仰ぎつつ、硬直した棒のような足取りで現れる。
彼の開き切って瞬きひとつせぬ目には、太陽神の大地への嫉妬が見えるらしい。
村人の踊りはたずなを失い乱れていく。
賢人は怖れ、地面にひれ伏す。
村は遂に混乱の極み。

若い乙女達が輪になり静かに哀しげな舞を舞う。
恐らくはこの中から1人、太陽神に捧げる花嫁が選ばれるのだろう。
それが長く続くうちに、輪からこけ転び出る者が1人現れる。
彼女は、他の娘達から押し出され押し出され、遂に輪の真ん中に呆然と立つ。
大太鼓とティンパニの両手4手が強く連打される。
決まったのだ。

他の娘達は狂喜し、金管と打楽器群の喚きの中で、トーテムポールのように硬直して動かない花嫁候補の周囲を乱れ踊る。
シンクロナイズを必須とする伝統的バレエの群舞からは、全くかけ離れている。
凶暴なファンファーレ。
有無を言わさぬ集団の暴力。

1913年、まさに第1次世界大戦前夜、ヨーロッパ帝国主義の弱肉強食と一触即発の危機的感覚が、ストラヴィンスキーの胸中にも潜んでいたとして何らおかしくない。
または原始宗教の死と再生。再生の為には破壊が必要だ。

急に静かになり、獣のなりをした村人が不安な音楽と伴に処女の回りを足を引き摺って歩く。
泣き喚くグループもいるが、輪は次第に大きく膨らんでいく。

とうとう乙女が覚醒する。
激しく乱れたリズムと不協和音の連続、彼女は飛び跳ね全身で踊る。
村人たちは顔を隠し(名もない衆愚となって)、背中を丸め、生贄の周囲を金管のくさびのようなリズムで1列に歩く。
乙女は動揺し、震え、自らの体を打ち、輪を打ち破ろうとするが、獣をまとった男達に押し留められる。
輪は緊縛の度を増す。

乙女は痙攣のように乱暴に腕と脚を振り回し、首と上半身旋回させ今や狂気に至る。
怖ろしい踊りだ。
村人は地面に坐し、静けさの中に彼女の聖なる踊りを見上げている。
乙女は踊りに踊り、遂には大地に倒れ込み、息絶える。
獣皮を着た男達が、彼女の亡骸を太陽に向けて高々と持ち上げると、打楽器の強打1つで異教の長い祭典はばっさりと終わる。

初演の客席では、このバレエの早々から、許容する者達と許容できない者達との言い争いが起き、乱闘騒ぎに迄発展した。公演を続けるのは大変な様相だった。
その原因の半分以上は、ストラヴィンスキーの音楽にも益して、ニジンスキーの振付にあった。

ニジンスキーは、騒ぎで音楽が聞こえなくなったダンサー達に、舞台袖からポリリズムを数えて合図を送っていたそうだ。
生贄の処女はニジンスキーであったのかもしれない。
現代でこそ舞踊は何でもありで観客も慣れているが、20世紀初頭の西欧の一般的な人々には、《春の祭典》は全く異様な世界の展開であった事だろう。

イオシフィディとマリインスキー劇場バレエ団のダンサー達も凄いが、ゲルギエフの音楽も凄い。
この日、マリインスキー劇場に居合わせた観客は、心底から突き上げるバレエと音楽に対する震えで歓声を上げた。


同じ時間に放送された《火の鳥》はミハイル・フォーキンの、《結婚》はニジンスキーの妹ブロニスラワ・ニジンスカの振付によるものだった。
これらについては、またの日に。
 
https://open.mixi.jp/user/3341406/diary/1953260396


▲△▽▼


文芸大聴講〈文化と芸術C〉第5回〜リズムの解放
10/29(木)、静岡文化芸術大学の授業〈文化と芸術C〉の聴講第5回。

テーマ;リズムの解放、または打楽器の解放
講師;上山典子

1908年、シェーンベルクによって無調音楽作品が発表され、これを「不協和音の解放」と呼んだ。
それに対し、数年の後、「リズムの解放」と呼ばれる改革があった。
それはバレエ音楽として作られた。公演の主体はバレエ・リュスである。

◆バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)

・ロシアの興行師セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)が率いたバレエ団。…彼の仕事は、現代で言えばプロモーターというより、コンサートプロデューサーと呼ぶべきもの。
・パリを拠点にして活動。20世紀に最も影響力のあったバレエ団と言ってよい。
・1909〜29の20年間に70のバレエ演目を上演した。終了年1929年は、つまりディアギレフの没年。彼の死によってバレエ・リュスは実質終焉を迎えた。
・ディアギレフは、当時最も高い評価を得ていた前衛芸術家達を終結させた。またはそうなるであろう新人を発掘した。

◆イゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)

・リズムの解放と呼ばれる革命的バレエ曲『春の祭典』を作曲した。
・長生きした為、現在も著作権問題が尾を引く。
・おしゃれで、いつも正装していた。

1907年 サンクト・ペテルブルクで初めての作品発表。
1908年 ディアギレフにより新作バレエ『火の鳥』の作曲を委嘱される。…ディアギレフは全く新進の作曲家のストラヴィンスキーに目を付けた。新しい逸材を見出す力があった。
1910年 『火の鳥』初演の為、パリへ。結果、ヨーロッパに長く定住する事になる。

1913年 『春の祭典』初演。
…伝統的音楽とバレエを大胆に破壊し、初演は大きなスキャンダルとなった。
ニジンスキーによる革新的振付の為、バレエ・リュスのダンサーには120回もの稽古を強いた。

初演は5/29、完成したばかりのパリ・シャンゼリゼ劇場にて。
客席には、超保守派のサン=サーンスや、新しい時代の印象派(または象徴主義)作曲家ラヴェル,ドビュッシーもいた。

この公演は同劇場の杮落し公演の第2回の位置付け。ちなみに第1回はドビュッシーだった。

音楽とバレエ両面の前衛的性格に反撥した客からは、ヤジや罵倒の声が上がり、劇場は大混乱となった。

1914年 スイス(仏語圏)に定住。
1934年 フランス市民権を獲得、帰化。しかし、その前年にナチスが政権奪取している。
1940年 米カリフォルニアに定住。戦後シェーンベルクもカリフォルニアに。…但し、ストラヴィンスキーはユダヤ人ではない、音楽創作の自由を求めて移住を繰り返した。
1945年 米市民権を取得、帰化。
1969年 ニューヨークに定住。


◆『春の祭典』の特徴

・物語;

キリスト教以前の太古のロシアが舞台。スラブ民族の信仰に基く春の祭。(仏語タイトル「ル・サクレ・デュ・プランタン」は祭の意味だが、ロシア語タイトルには聖なる儀式的な意味が濃厚だった。)
春を迎えて、人々は愛に、争いに、活発になる。
神への生贄として、1人の乙女が選ばれる事となる。
彼女が踊りながら息絶えると、長老達によって太陽神に捧げられる。

・曲は2部構成。更にシーンに分かれる。下記参。演奏時間は約35分。
・超巨大な5管編成オーケストラ。特に金管の増強。スコアは30段にもなる。
・変拍子(5拍子,7拍子,11拍子etc.)を多用。
・可変拍子;数小節で拍子が変化する。
・原始的、根源的迫力を生み出す多様なリズム。
・複調;異なる調を同時に使用する。

    ex.2部序奏、嬰ニ長調とハ短調、同「生贄の踊り」、ト長調と変イ長調。当然不協和音が発生する。


・構成;

第1部「大地への礼賛」

 序奏…初演ではここで聴衆が既に騒ぎ始める。バレエでなく音楽に対しての非難だった事が判る。
 春の兆し(乙女達の踊り)…内股の女達の脚。バレエ伝統の否定。
 誘拐の儀式…男女の群集。対の衣装。
 春の輪舞…民謡旋律。
 敵対する部族の儀式…2つの旋律の対立。
 長老の入場…白髪の老人。クライマックス。
 長老の大地への礼拝
 大地の踊り…地鳴りのような大太鼓。打楽器フルに活躍。

第2部「生贄の儀式」

 序奏…背景も衣装担当が描いた。不吉な空。
 乙女達の神秘な集い…珍しいva6重奏。13人の乙女。1人はみ出す事になる→生贄決定。ホルン強奏。1人中央で動かない乙女。
 生贄の賛美…11回の大太鼓連打。変拍子は生贄の鼓動の乱れ。
 祖先達ま呼び出し…秘儀的な低音楽器。
 先祖達の儀式…静寂。
 生贄の踊り…1人中央で踊る乙女。変拍子のアクセント。斜めにジャンプの繰り返し。疲労していき、痙攣、ついに息絶える。

◆ヴァレリー・ゲルギエフ

2008年、モントゥー/ニジンスキーの初演(1913)を再現したマリインスキーバレエ公演を実現。→同DVD視聴。
原始主義的性格のバレエ、大地をとどろかす音楽を見事に再現した名演。

指揮 ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏 マリインスキー劇場管弦楽団指揮。
バレエ マリインスキー・バレエ団
生贄ソロ アレクサンドラ・イオシフィデー
振付 ヴァーツラフ・ニジンスキー(ミリセント・ホドソンによる再構築)
舞台・衣装 ニコラ・レーリヒ(ケネス・アーチャ―監修)
 


コメント

mixiユーザー2015年10月30日 15:48

聴講後、個人的に比較試聴した、手持ちCD。

指揮 シャルル・デュトワ
演奏 モントリオール・交響楽団
録音 1984年

デュトワ版は、複雑な音楽をしっかり整理し、洗練され、色彩豊かなものに仕上げている。
ゲルギエフ版は、土俗的で、呪術的な迫力に富む。
両者は行き方が全く反対。これはどちらが良い悪いというものではない。

https://open.mixi.jp/user/3341406/diary/1947395692

4. 中川隆[-14308] koaQ7Jey 2020年1月21日 09:35:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1185] 報告
2014年5月 6日
バレエ「春の祭典」 マリインスキー劇場 ニジンスキー振付(ホドソン復元)版
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-72c2.html


バレエ「春の祭典」が20世紀の初頭にパリで初演されて大事件となったことは多くのクラシックファン、バレエ・ファンの知るところだと思います。ストラヴィンスキーの作曲による革新的であった音楽も、現在ではすっかり”古典”となり、コンサートで頻繁に取り上げられています。

但し、バレエ上演に関しては、海外では定番ですが、日本では上演されることがほとんど有りません。原因として考えられるのは、我が国のバレエ・ファンがまだまだ保守的な嗜好で、バレエ団がどうしても興業収益を考えるあまり、一定の人気作品にばかり演目が偏ってしまうからではないでしょうか。

助成金の少ない我が国では、それを批判するのは酷というものですが、手堅い保守路線を守るだけでは発展は有りませんし、逆に将来衰退の道をたどることにもなりかねません。せっかく日本人の若手ダンサーが国際コンクールで多く入賞しても、日本のバレエが芸術として進化、発展しなければ意味が有りません。もちろん頑張って挑戦している団体も存在しているのですが。

演目だけをとっても、ストラヴィンスキーの「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」「マ・メール・ロワ」、ファリャの「恋は魔術師」「三角帽子」、プーランクの「牝鹿」、プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」「シンデレラ」、グラズノフの「四季」「ライモンダ」などの演目がもっと多く取り上げられると良いのになぁと思います。

それはそれとして、話を「春の祭典」に戻しますが、GW中に或るお宅でニジンスキーの初演振り付けを再現したブルーレイ・ディスクを見せて頂く機会が有りました。2008年にマリインスキー劇場でワレリー・ゲルギエフが指揮をして行われた公演の収録盤です。それをとても大きな画面と優れた音響装置でじっくりと鑑賞出来たので、非常に良い体験が出来ました。

バレエ「春の祭典」の振り付けについて、一応経緯をまとめてみますと、20世紀初頭、ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)を引き連れてパリで興行していたディアギレフは、それまで振付を担当していたミハイル・フォーキンに代えて、天才ダンサーのニジンスキーを振付師にすることを決めます。但し、ニジンスキーは振付の経験はほとんど無く、その能力は未知数でした。

ニジンスキーの振付師としての能力に不安を抱えていたストラヴィンスキーは、ニジンスキーが音楽の知識を全く持っていないことに驚き、リズム、小節、音符の長さといった音楽の初歩的な知識を教えることから始めなければならず、毎回音楽と振付を合わせるのに苦労をしました。

ニジンスキーは「春の祭典」とドビュッシーの「遊戯」の2作品の振付を担当しましたが、他のダンサーを指導した経験がほとんど無く、自分の意図を伝えることが出来ずに、しょっちゅう癇癪を起こしてしまい、稽古は120回にも及びました。
しかも運悪く、主役である生贄の乙女に予定されていたニジンスキーの妹が妊娠してしまったために、急遽代役が踊ることになり、この重要な役をこなすにはかなり能力不足だったようです。

こうしてパリに完成したシャンゼリゼ劇場のこけら落としの一つとして、1913年5月29日に「春の祭典」の初演がピエール・モントゥーの指揮で行われました。

苦労の末に出来上がった舞台は、曲が始まると、地味な衣装のダンサーの一群が舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がるという、従来のバレエとは全く違うものでした。

嘲笑の声が上がり、野次が酷くなるにつれて、賛成派と反対派の観客達がお互いを罵り合い、あげくに乱闘となってしまい、音楽がほとんど聞こえなくなり、ついにはニジンスキーが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならなくなりました。劇場主は観客に対して「とにかく最後まで聴いて下さい」と必死に呼びかけました。

この日の観客の一人だったサン=サーンスは途中で「楽器の使い方を知らない者の曲は聴きたくない」といって席を立ったと伝えられます。
翌日のフランス中の新聞の一面には、この事件が大きく取り上げられたそうです。
もっとも、この年に初演を含めパリで4回、ロンドンで4回上演されましたが、大混乱となったのは最初の1回だけで、2回目以降は大きな騒乱が起こることは有りませんでした。

一方、初演の4ヶ月後に南米で電撃結婚をしたニジンスキーがディアギレフから解雇されたため、「春の祭典」はロシア・バレエ団のレパートリーから外されました。

その後、1920年に再演が行われることになりましたが、ニジンスキーの複雑な振付を覚えている者がいなかったため、新たにマシーンという振付師が、ストラヴィンスキーによるアドヴァイスを受けながら、単純な農民の輪舞を元にして振付けをしました。この「マシーン版」以降は、多くの振付師によって様々な振り付け版が作られました。

こうして、完全に忘れ去られてしまったニジンスキーの振付でしたが、1987年に舞踏史学者のホドソンと美術史家アーチャー夫妻によって、残された舞台スケッチの資料や関係者の証言などから復元が行われて、シカゴのジョフリー・バレエ団によって上演されました。

このマリインスキー劇場の舞台演出は、そのジョフリー・バレエ団の振り付けが元になっています。

なるほど、古代民族のような衣装を着たダンサーが内股で腰を曲げて、首をかしげたまま回ったり飛び上るという、伝えられている通りの初演時の特徴的な踊りです。舞台背景も極めてシンプルで、”銭湯の大きな富士山の絵”でも連想してしまいそうです(自分だけ??)。

現代の演出家の手による、革新的で刺激的な舞台を観てしまった後だと、踊りそのものも舞台デザインもとても地味に感じます。けれども、これを初演時の舞台を想像しながら観ていると、当時としては非常に斬新な舞台だったのだろうなぁと、とても感慨深いものが有ります。衝撃的な舞台も、100年経った現代では既に”古典”です。もしも、これから「春の祭典」の舞台を観ようと思う方は、先にこの映像を見てから、現代的な演出版を観るのが良いと思います、もちろん既に現代的な演出版を観た方が、改めて原点を知るのも非常に有意義なことです。

この映像は撮影カットが多少細切れに過ぎたり、舞台真上から撮ったカットが余計なように感じないことも有りませんが、映像は鮮明ですし、なにしろオーケストラ演奏が素晴らしいです。ゲルギエフの指揮するキーロフ管弦楽団の上手さと迫力は既存のCD盤以上ではないかと思えます。音質もレンジが広く大迫力で素晴らしいです。「春の祭典」ファンは一度はご覧になるべきです。

なお、このディスクには「火の鳥」も収録されていますが、そちらはミハイル・フォーキンによる振り付け版で、ずっとオーソドックスなクラシカル・バレエです。それでも舞台演出が非常に面白く愉しめるのは間違いありません。

http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-72c2.html

5. 中川隆[-14307] koaQ7Jey 2020年1月21日 09:42:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1184] 報告
2013年4月28日
アンジュラン・プレルジョカージュ振付によるバレエ「春の祭典」


Stravinskij 1 3 La Sagra della Primavera Angelin Preljocaj



Stravinskij 2 3 La Sagra della Primavera Angelin Preljocaj



Stravinskij 3 3 La Sagra della Primavera Angelin Preljocaj YouTube





自分はクラシック・バレエは結構好きなのですが、残念ながらコンテンポラリー・ダンスには詳しくありません。ですので恥ずかしながら、アンジュラン・プレルジョカージュさんという、フランスのコンテンポラリー・ダンス振付家が居るのも最近知りました。この人は自ら創設したバレエ・カンパニー「バレエ・プレルジョカージュ」として活動をしていますが、パリ・オペラ座バレエ団にも作品を提供していて、クラシック・バレエの伝統を踏まえつつも様々な分野のコンテンポラリー・アーティストと共同制作を行って、独自の様式を追求した作品を生み出しています。

YouTubeに2001年にパリ・オペラ座で公演された「春の祭典」の映像が有りましたが、この公演はヨーロッパで活躍する日本人のダンサー白井渚さんがいけにえの乙女を踊って絶賛されたそうです。演出が過激なので驚かされますが、クライマックス・シーンの舞踏が余りに鬼気迫る内容で圧倒されてしまいました。いけにえにされる恐怖の表情や演技が見事なのですが、これは正に全身全霊を舞踏の神様に捧げ尽くしたダンス・パフォーマンスだと思います。

彼女は舞台で裸になってしまうので、裸を喜ぶエロじじいと誤解されかねませんが(いや、実際はそれも好きですけど)(苦笑)、この舞踏をもしもご覧になっていなければ、絶対に一見の価値が有ります。

但し、閲覧には年齢確認が求められるかもしれませんので、その場合にはユーザー登録を済ませてからご覧ください。

あー未成年の人は・・・成人してから見て下さいね。




コメント

すごい動画をありがとうございます。youtubeニコ動どちらも観ました。ニコ動の冒頭の振り付けはちょっとよくわからなかっですけど(笑)、突っ込み入れながら見てました。

白井さん、体力的にも精神的にも超人です(驚)。
投稿: いぞるで | 2013年5月 5日 (日) 16時19分



いぞるでさん、こんにちは。お元気そうで何よりです。
冒頭の演出には中年オヤジとしては、一体どうなることやらとドキドキでした。(笑)

でも、この曲の演出でも有名なベジャールは、鹿の交尾からインスピレーションを受けたそうですし、「自然の営み」「生命の誕生」という、このバレエの元々のテーマを突きつめて行くと、動物のオスとメス、人類の男と女の生殖行為の表現を避けては通れないのでしょうね。プレルジョカージュさんの演出はそれを大胆に表現しているのだと思います。
投稿: ハルくん | 2013年5月 6日 (月) 10時53分



ハルさん
動画情報ありがとうございました。
芸術は全裸でもいいんですね。(当然とおもいますが)
さて春の祭典初演100周年で私もハルさん情報でバーンスタインの旧盤を購入しました。

昔の録音だけど音はいいし。(リマスター盤)
ド迫力でいいですね。バチの聞いたティンパニーが最高ですね。金管も大響奏で若いバーンスタインが飛び跳ねてる様が想像できます。
ハルさんのおかげでCDを聞く機会が増えました。ありがとうございました。それではまた。。
投稿: DICK | 2013年5月11日 (土) 00時00分



DICKさん、こんにちは。
全裸が猥褻さと際どいのも事実でしょうが、芸術性の有るものに制限を加えるのは時代遅れですよね。そもそも人間の肉体そのものが古代ギリシアの時代から芸術ですから。

バーンスタインの旧盤が嬉しいことにリマスターされたのですね。本当に若々しい生命力に溢れた良い演奏だと思います。お気に入られて良かったです。
投稿: ハルくん | 2013年5月11日 (土) 11時01分



ハルくん、真夜中にお邪魔します。
今しがた、NHK Eテレで「バレエの饗宴2013」を見終わったところです。
春の祭典はやはり刺激的です! タイツを身に付けているとは言え、一瞬全裸に見える男女が絡む場面にはドキドキしましたよ(汗)
他にも素敵な演目で、その中でも特にプリマドンナの吉田都さんが素晴らしい踊りを見せてくださいました。

何故、あんなに体重を感じさせないふわりとした跳躍がダンサーの皆さんは出来るのかしらん?
投稿: from Seiko | 2013年12月29日 (日) 02時56分



Seikoさん、こんばんは。
NHKの「バレエの饗宴2013」は観そこなってしまたのですが、「春の祭典」はベジャール版だったでしょうか?それなら東京バレエ団の公演を観たことが有ります。

元々生きものの交尾を表現しているので、どうしてもエロティックにはなりますよね。キライではありません。(笑)
>何故、あんなに体重を感じさせないふわりとした跳躍がダンサーの皆さんは出来るのかしらん

バレエダンサーは細いですよ〜。「感じさせない」のではなくて、本当に体重が無いのですよ。そのためには食生活を随分と犠牲にしているのでしょうね。僕には出来ないなぁ。今更ダンサーも無いですけどね。パパイヤ鈴木の親父なんとか、あれでもムリそうです。(笑)
投稿: ハルくん | 2013年12月29日 (日) 09時48分



白井さんの全裸でバレエ素晴らしいです。
裸のように見える薄いスーツを着ているのでは無く、
本当に素っ裸で、足は裸足、文字通り一糸纏わぬ姿での
バレエは美しく、勇気と潔さを感じました
最後に寝転んでしまうところは、本当に全力を尽くした
という様子で感動ものです。
投稿: パリコレ | 2014年3月29日 (土) 20時28分



パリコレさん
コメントを頂きまして誠にありがとうございます。
「春の祭典」が現代の舞踏演出家にとってもどれほど重要な題材なのかよく理解できます。新しい演出が次々と登場しますからね。やはり一度は自らの手で挑戦したくなるのでしょう。

この生贄の役は、ダンサーにとっても挑戦するに相応しい最高の役だと思います。裸体をさらけだすことも少しも気に成らないのではないでしょうか。全身全霊をかけて踊る白井さん、本当に素晴らしいですね。
投稿: ハルくん | 2014年3月30日 (日) 09時47分

http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-2024.html
6. 中川隆[-14306] koaQ7Jey 2020年1月21日 09:52:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1183] 報告
2012年10月 4日
ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」 名盤 〜ハルの採点〜
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-f5e6.html


ストラヴィンスキーの書いた三大バレエ音楽は、各曲それぞれの個性的な書法や性格の違いが楽しめるので大好きです。複雑な管弦楽法の面白さだけではなく、音楽の内容が真に素晴らしいです。そのうちの「火の鳥」「ペトルーシュカ」も大変な傑作ですが、やはり頂点に位置するのは「春の祭典」ですね。ストラヴィンスキーの最高傑作、そして20世紀の屈指の名曲、それが「春の祭典」です。

この曲は、作曲者本人の空想が基に成りました。それは「一人の乙女をいけにえとして、ハルの神(じゃなかった”春の神”)に捧げる、異教徒の儀式」です。この話をパリでロシアバレエ団のディアギレフにしたところ、彼はすっかり夢中になり、ストラヴィンスキーにバレエ音楽の作曲を頼んだそうです。

曲は第1部と第2部に分かれていて、第1部「大地への賛歌」では、若い男女や、春の祭りのために競う諸部族の踊りが大地への祈りのために捧げられます。第2部「いけにえ」では、若者たちによっていけにえになる乙女が選ばれ、長老たちが円座になって見守る中で踊り狂い、ついには息絶えたその乙女を長老たちが神様に捧げます。

三大バレエに共通しているのは、非常に革新的、斬新な書法で書かれているにもかかわらず、聴いていて少しも難しい気がしないことです。特に「春の祭典」は粗暴なまでのリズムと迫力を持つ一方で、大地の神秘的な美しさと抒情を曲一杯に湛えています。この曲はよく、変拍子のリズムの複雑さや音楽の持つ迫力が語られますが、決してそれだけではありません。それが真の名曲たる所以です。ですので、演奏を鑑賞する場合も、それらをどれだけ表現出来ているかという点を評価のポイントとしたいです。

この曲は、以前ライプチッヒ・バレエ団のDVDをご紹介した時に、CDの愛聴盤についても一部を紹介しましたが、なにしろこの曲には名盤が目白押しです。そこで、今回は改めて愛聴盤をご紹介し直したいと思います。前回ご紹介のディスクについては、おおよそ同じ内容ですが、採点は改めて付け直しました。
それでは順にご紹介してゆきます。推薦CD「ハルの採点」です。

レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル(1958年録音/SONY盤) 
ヤング・レニーのかつてのベストセラーですが、何故かCDは後年のロンドン響との再録音のほうばかりが販売されていてニューヨーク盤は廃盤状態が続いています(僕のはレニーのエッセンシャル盤です)。なんでやろね?NYP音楽監督就任直後の演奏は荒削りではあっても、若々しい情熱に溢れていて実に魅力的です。彼こそは本物の「青春の巨匠」ですよ。この演奏も始めのうちは安全運転ですが、「春のロンド」あたりから突然アクセルがかかってノッてきます。そういえば、このあたりは曲が「ウエストサイドストーリー」みたいですものね。いや、影響を受けたのは作曲家レニーのほうなのでした。これはやっぱり時々聴きたくなる演奏です。75点。

ズービン・メータ指揮ロサンゼルス・フィル(1967年録音/DECCA盤) 
当時30歳そこそこのメータの才能が光り輝いています。「春のきざし」は超快速で飛ばして爽快この上ありません。速い部分が際立つので、遅い部分が実際以上に遅く感じます。ロス・フィルの音はキレが有りますが、フォルテでも音の柔らかさを失わず、騒々しく刺激的にならないのは素晴らしいです。第2部も非常に美しい響きですが、神秘感と終結部の迫力はいま一つかもしれません。全体を通して、楽しいことこの上なく非常に素晴らしい演奏です。90点。

ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管(1969年録音/Sony盤) 
セルがまだ現役時代の名器クリーヴランド管を使って録音を行った、一世を風靡した歴史的名盤です。よく言われる、各楽器の音がレントゲン写真のように聞こえる演奏は、録音技術の功績も大であって、生のステージではちょっと有り得ないでしょう。切れ味の鋭い演奏ですが、それだけでは無いある種の「落ち着き」や「風格」を感じさせます。

ブーレーズはずっと後にベルリン・フィルと再録音をしていますが、聴いていて面白いのは断然このクリーヴランド盤のほうです。前半は文句無しですが、後半の迫力がいま一つなので85点。

レナード・バーンスタイン指揮ロンドン響(1972年録音/SONY盤) 
旧盤から14年後の再録音盤ですが、旧盤の若々しさに比べて、ずっと大人の印象に変わりました。テンポは遅めでスケールが大きく重量感が増しています。その分、旧盤の切れの良さは失われた感じです。前半よりも後半が良く、深みが有ります。管楽器のソロはNYPのほうが上に思いますが、全体のまとまりは新盤のほうが上です。どちらを好むかは人によって分れそうです。75点。

コリン・ディヴィス指揮アムステルダム・コンセルトへボウ管(1976年録音/Philips盤) 
このCDはアナログ録音でありながら非常に音が良いです。というか逆に優秀なアナログ録音だからこそコンセルトへボウの分厚い音の響きを充分に捉えられたのかもしれません。まさに圧倒されるようなパワーなのですが少しもうるささを感じません。これはデイヴィスの指揮と楽団の優秀さのせいでしょう。弦楽や管楽の各パートの上手なことはまさに特筆ものです。ただし前半はややおとなしめ。「春のロンド」あたりから音の厚味を増して本領発揮は後半です。100点。


リッカルド・シャイー指揮クリーヴランド管(1985年録音/DECCA盤) 
当然オケは優秀ですし、リズムの切れも良く、現代的な演奏と言えます。迫力は充分に有りますが、非常に健康的でスタイリッシュ、オケの響きは明るく、土俗感や神秘感を余り感じさせません。そのあたりが聴き手の好みの分かれるところではないでしょうか。評論家筋には評価の高い演奏なのですが、自分としては、この曲にしては楽天的過ぎるので、もっと原始的な荒々しさや神秘感が欲しいと思えてしまいます。80点

ズービン・メータ指揮ウイーン・フィル(1985年録音/ORFEO盤) 
ザルツブルク音楽祭のライブ録音で、一夜の演奏会でのシューベルトの「グレート」と共に2枚組に収められています。それだけでも興味の湧くところですが、80年代に入ってのウイーン・フィルには既にヴィルトゥオーゾ・オケの片鱗が伺えます。この曲を得意とするメータの棒に熱く反応していて手に汗を握ります。弦楽が非常に表情艶やかなのもユニークです。録音は細部の明瞭さはともかくも重心のしっかりした迫力ある音質で楽しめます。これは単に記録としてでなく、非常に素晴らしい演奏だと思います。90点

マイケル・ティルソン・トーマス指揮サンフランシスコ響(1996年録音/RCA盤) 
トーマスはロシア系の血筋を持ちます。また若いころにストラヴィンスキー本人からこの作品について詳しく伝授されました。ですので曲への思い入れは相当強いと思います。この曲の二度目の録音であり完成度が非常に高いです。第一部から集中力の高いアンサンブルを聴かせますが、第二部に入ると更に集中力と熱気を増してゆきます。非常にダイナミックですが雑な部分が無く各楽器のソロもアンサンブルも非常に優秀です。録音も優秀で分離の良さが見事ですが、演奏そのものが熱いので分析的には聞こえません。100点。


ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管(1999年録音/Philips盤)
 もう10年近く前ですがこのコンビの「春の祭典」は東京で生演奏を聴いています。その時はどちらかいうとスマートな印象(席が遠かったせいかも)だったのですが、その頃に録音されたCDでは随分と荒々しさを加えて素晴らしい出来栄えです。精緻さとバーバリズムの共存というこの曲の理想的な演奏となりました。いたるところでロシアの大地の雰囲気を感じさせるのもやはり自国の楽団ならではです。現在も非常に気に入った演奏です。100点

ロバート・クラフト指揮フィルハーモニア管(2007年録音/NAXOS盤) 
ストラヴィンスキーと親交が深く、長くアシスタント指揮者を務めてロシアツアーなどにも同行したロバート・クラフトは、作曲者の意図を恐らく最も理解した指揮者だと思います。この前にもロンドン響との録音を残していますが、僕は新盤のほうで聴いています。複雑な楽譜を目の前に示されるような演奏ですが、最近の指揮者のように、曲を無理やり味付けて料理してやろうというようには感じません。ハッタリや演出が無いので一聴すると面白みに欠けるようですが、実は非常に風格の有る演奏です。ストラヴィンスキーの生誕125周年を記念したこの録音は、やはり聴いておきたいと思います。85点


リッカルド・シャイー指揮ルツェルン祝祭管(2017年録音/DECCA盤) 
シャイーの新盤は何とライヴ録音でした。この曲をライブでリリースするのは勇気が要るでしょうが、そこは言わずと知れたヴィルトゥオーゾ集団のオケで難なくこなします。旧盤に比べてシャープさでは幾らか劣でるものの、緩急の幅がとても広く、各楽器の表情付けがかなり濃密です。シャイーが基本的に健康的なことは変わりませんが、これだけドラマティックに演奏されると非常に聴きごたえが有ります。DECCAの最新盤だけありライブでも録音は極めて優秀です。総合的にもトップグループに堂々と割って入る新しい名盤だと言えます。100点

これ以外の演奏では、ストラヴィンスキー本人の指揮でコロムビア響盤を聴きましたが、正直面白く無かったです。作曲者の演奏ということで過剰な期待は禁物です。イーゴリ・マルケヴィチ/フィルハーモニア管も古くから評判が良かったですが、さほど気に入りませんでした。アンタール・ドラティ/デトロイト響は一時期よく聴いたのですが、オケの響きがドライでキンキンすることもあって現在は余り好んでいません。

というわけで、以前はゲルギエフ盤を一番に上げましたが、現在はコリン・ディヴィス盤、ティルソン・トーマス盤、ゲルギエフ盤、そして新たにシャイー/ルツェルン盤が加わりトップ集団となりました。

二位グループとしてはメータのロス・フィル盤およびウイーン・フィル盤、ブーレーズ/クリーヴランド盤、ロバート・クラフト盤が追いかけます。



コメント

ハルくん様
morokomanです。
おお〜今回は『春の祭典』ですね。
(^o^)
いつもいつもブログを拝見していて思うのですが、ハルくん様は今までの生涯で、何万枚のレコードやCDをお聴きになったのでしょうか? 取り上げる演奏の種類の多さに、いつも圧倒されています。
また、これほどのCDを所有できるとは、きっと大変なお金持ちなのだと推察致します。

貧乏なmorokomanは、入手できるCDなど限られているので、シベリウスに集中せざるを得ません。

なので、ハルくん様が挙げられた演奏の中で、所有しているのはドラティ盤のみです。
しかし、そんなmorokomanが「ぜひお聴きになってください」と紹介したいCDが……。
それは

シクスティン・エーリンク指揮スウェーデン放送交響楽団(BIS)

によるもの。

世界初のシベリウス交響曲全集を出した、あのエーリンクです。
だいぶ年齢をお召しになった時の演奏ですが、北欧のオーケストラを使っての演奏で、音楽がものすごく冴えざえとしています。

冷たい音色と全体的に音の切れ込みが鋭いのが特徴で、いわゆるスタンダードな演奏ではありません。まさに「北欧の祭典」。ちょっとない演奏です。私の大のお気に入りで、私にとってはまさに極北の『春の祭典』で、これで満足しきっています。

一風変わった演奏をお求めの方は、ぜひどうぞ。BISはとても良い仕事をしていますよ〜。(^o^)
投稿: morokoman | 2012年10月 5日 (金) 00時49分

ハルくん様
morokomanです。続きです。大事なことを忘れていました。記事に関するコメントを付けていませんでした。
我ながら何をやってるんだ。(^_^;)A

>アンタール・ドラティ/デトロイト響は一時期よく聴いたのですが、オケの響きがドライでキンキンすることもあって現在は余り好んでいません。(ハルくん様)

これわかります。でもmorokomanは初めて聴いたとき、「おおっなんという乾いた響き!これが現代人が求める演奏なんだろうな」と脳天気に捉えていました。お金がないこともあり、先程のエーリンク盤を買うまで、これで満足していました。
エーリンク盤は、たまたま入手したBISのサンプラーCDにその一部が収録されており、耳にしたとき「ドラティよりも良いのでは……」と思ったのがきっかけです。
購入して大満足でした。ドラティ盤はレコ芸などでさんざん宣伝されていたり、評論家の評価が高かったりするのに煽られて購入したのです。それはそれで良いのですが、こうした「サンプラー」を通じて自分の耳で確認したうえで「購入か否か」を決められたらなお良いでしょうね。エーリンク盤を褒め称えるような評論は、商業誌ではまずありえないでしょうし。morokomanの耳の好みも、一般の愛好家の方とはかなり変わっているかもしれませんので。

ハルくん様が100点をお付けになったディヴィス盤とゲルギエフ盤。いずれ聴いてみないなぁ。地元の図書館にあれば良いのですが。もしなかったなら、いつになったら聴けるのやら……(涙)

でもハルくん様のブログで、「世の中には沢山の名演があるのだなぁ」と思いました。考えて見れば当たり前のことなのですが、いくつも並べられたジャケットの写真など見ると、改めて実感しますね。

それから、クラフトと言う方も初めて知りました。さすがナクソス。morokomanにとっては、メジャーなレーベルよりも、こうした「知られざる名手」を紹介してくれるナクソスやBISの方がありがたい存在です。機会があればこの方の演奏も聴いてみたいです。

>推薦CD「ハルの採点」です。
うまい! 座布団1枚!! (^^)
投稿: morokoman | 2012年10月 5日 (金) 09時34分


morokomanさん、こんばんは。
>これほどのCDを所有できるとは、きっと大変なお金持ちなのだと推察致します


いえいえ、それは間違いです。購入するのはもっぱらディスカウントや中古店のバーゲンです。それにCDの数が多くなると、1枚を聴ける回数が減るという弊害が有りますので良し悪しだと思っています。昔は1枚を擦り減るほど(アナログ盤でしたので)聴き返したものです。

morokomanさんも、乾いた音を好まれなくなったのでしたら、特にお薦めはCディヴィス/ACOです。なんと言ってもオーケストラの響きに潤いが有って美しく、他のオケの音とは一線を画しています。

シクスティン・エーリンクはシベリウス全集が余り気に入らなかったので、興味が有りませんでしたが、「春の祭典」は晩年の録音なのですか。それでしたら印象が変わるかもしれませんね。

商業誌の推薦盤と言うのは往々にして、大手レコード会社に贔屓目の記事が多いので、余り信用はしていません。むしろ熱心な音楽ファンのレヴューのほうが参考に成ることがありますね。
投稿: ハルくん | 2012年10月 5日 (金) 22時18分

私はLPレコードの時代、ドラティ指揮デトロイト響の録音がお気に入りでした。その前はショルティ指揮シカゴ響の録音をよく聴いていましたが、ドラティ盤の方が、力ずくなショルティ盤よりも落ち着いた演奏で好きでした。

そしてCDの時代になって、やはり「火の鳥」と同様、コリン・ディヴィス指揮アムステルダム・コンセルトへボウ管の録音が一番!
やはりオケの底力のある響きが最高です。

ところで昨年、NHK・BSでゲルギエフ指揮でマリインスキー劇場でのバレエの公演の放送があり、今も録画をよく見ています。バレエ公演としての「春の祭典」の映像(「火の鳥」もあり)を見ていると、やはり、この作品はバレエ音楽であるということを実感できるものがあります。
投稿: オペラファン | 2012年10月 5日 (金) 22時49分

オペラファンさん、こんばんは。
ドラティをLPでは聴いていませんが、CDで聴くとどうも乾いた響きでいただけません。アナログ盤の方が良いかもしれないですね。

それにしてもCディヴィス指揮コンセルトへボウの演奏は素晴らしいですね。オケの音楽的な上手さと、潤いのあるヨーロッパサウンドには惚れ惚れします。第二部での底知れない重量感も圧巻です。

ゲルギエフのバレエの公演の映像は観ていませんが、やはりバレエ音楽は舞台の映像つきで観ると一味も二味も変わりますね。
投稿: ハルくん | 2012年10月 5日 (金) 23時03分

おはようございます。ハル採、いいですね!
曲の演奏録音は、最初アンセルメ、次にブーレーズのものを聴いていました。
CDや中古LPが割と安く入手できるので、いろいろ聴けますね。モントゥーやカラヤン等も聴きました。コリン・デイヴィスも、いいですね。ゲルギエフは、TV放送で聴きました。

誰の演奏が特別好き、と言うことではないのですが、最近は、マルケヴィチ/フィルハーモニアのLPを聴くことが多いです。この指揮者のちょっと独特の響きがしますが、リズムやテンポの感じが面白く聴いています。
バーンスタインのを聴いていなかったので、中古LPの入手手配をしました。NPOの方です。
投稿: HABABI | 2012年10月 6日 (土) 11時14分

HABABIさん。こんにちは。
中古LPは(かさ張るので)滅多に買いませんが、ショップには意外に多くの掘り出し物が有って、見ているだけでも楽しいです。
最近の演奏はスマートで洗練されているか、ダイナミズムの明確なものが多いように感じますが、一昔前の演奏が案外と味が有って面白かったりもします。
バーンスタイン旧盤なんかも、そのひとつだと思います。好みの問題なので、新盤とどちらが良いと言うことではありませんが。
投稿: ハルくん | 2012年10月 6日 (土) 16時34分

ハルくんさん、こんばんは。 「春の祭典」は LPで コリン・ディヴィス盤を聴いていましたが、CDになって なかなか ディヴィス盤を越える演奏は出てこなかったのですが、数年前に スヴェトラーノフ/ソヴィエト国立響のCDを聴いて以来、この演奏を聴くようになりました。 素晴らしいです。 やはり この曲は「ロシアの大地」から沸き上がって来るエネルギーを感じたいですからね。これに比べれば ドラティ盤は なんだか コンクリートや アスファルトの上で踊っているように聴こえるのですけど・・・(笑)。いかがでしょうか?
投稿: ヨシツグカ | 2012年10月 8日 (月) 20時51分

ヨシツグカさん、こんばんは。
スヴェトラーノフのロシアものは素晴らしいですからね。正に「ミスターロシア」という雰囲気です。

”ロシアの大地”いいですねぇ。

実は「春の祭典」の演奏は気にはなっていましたが未聴です。次に購入するとすればこのディスクかなと思ってはいます。
ありがとうございました。
投稿: ハルくん | 2012年10月 8日 (月) 23時16分

ハルくん様
morokomanです。
図書館のHPを検索してみたら……な、なんと……ありました!!

ゲルギエフ盤が……。(^0^)

残念なことにディヴィス盤はありませんでしたが、それでも嬉しい奇跡! HPに手配して、家近くの公民館に配送してもらいました。今日CDが公民館に届き、借りる手続きをして持ち帰って聴いて見ました。
感想ですが……

ハルくん様の目は(耳は)実に高い!!!

と言うのが率直なところです。(^^)

本当に素晴らしい! 「ハルの採点」100点がうなずける内容です。どこがどう……と並べると枚挙にいとまがないので端折りますが、ナタや斧で一刀両断するかのようにつんざく強奏。地の底からエネルギーが吹き上げるようなオーケストラ全体の響き……。ちょっと今まで聴いた演奏とは
「次元が違う」
と思わざるを得ませんでした。

特に第二部「いけにえ」の「いけにえの讃美」を告げるティンパニの連打からは鳥肌が立ちっぱなしで、時に息を飲み、時に気が高揚し、静かな緊張と興奮をずっと保ちながら最後まで一気に聴き惚れてしまいました。
素晴らしい演奏を紹介して下さってありがとうございました。お陰様でとても良い演奏に巡り会うことができました。

いずれ、ディヴィス盤を聴きたいものです。「ハルの採点100点」への期待は大きいですね。(^_^)
投稿: morokoman | 2012年10月 9日 (火) 21時54分

morokomanさん、こんばんは。
ゲルギエフ盤聴かれたのですね。
とても気に入られたとのことで嬉しいです。
中々これだけ、荒々しさとデリカシーの両方を絶妙なバランスを保って両立させている演奏は珍しいでしょうね。そこにロシアの民族的な味わいが加わるのが大きな魅力です。

デイヴィス/ACO盤は熟し切ったオーケストラの音の魅力が最高です。オーケストラの音楽的な上手さではキーロフ以上だと思います。
こちらのほうも是非聴かれてみてください。
投稿: ハルくん | 2012年10月 9日 (火) 23時49分

 ハルくんさん、こんばんは。
 数か月前に突然現代音楽の魅力に目覚め、それから主に近代〜現代の音楽を主に勉強しています。以前は徹底的に毛嫌いしていたのに、不思議なものです。
 以前の僕が現代音楽に戸惑っていたように、「春の祭典」を初めて聴いた当時の人々も戸惑いを隠せなかっただろうと思います(初演時のエピソードはあまりにも有名)。それでも、今では20世紀最高の傑作の1つと認められています。新しいものを理解し受け入れようとする当時の聴衆の力は凄いです。僕たちももっと同時代の音楽に目(耳)を向けなければならないな、と最近痛切に思い始めました。

 ただし、「春の祭典」に関しては聴いていると妄想の世界に飲み込まれてしまいそうになるので、自分から進んで聴くことはまずありません。1回聴くと、もう1年くらいは聴かなくてもいいかな、と思ってしまいます(笑)。なのでCDを買う必要性をあまり感じず、そのまま現在に至ります。実は1枚も持っていないんです。それほど強烈かつ優れた書法を駆使できたストラヴィンスキーは、やっぱり天才です。
投稿: ぴあの・ぴあの | 2013年8月14日 (水) 01時51分

 連続で失礼します。
 そういえば、僕が初めて聴いた春の祭典はコリン・ディヴィス&コンセルトヘボウ管だった気がします。あれは衝撃でした。こんな物凄い音楽があったのか、と。それで、ほとんど聴かなくなってしまったんですよね…。
 ブーレーズ&クリ―ヴランド管なら、正気を保ったままでいられるでしょうか…(笑)。
投稿: ぴあの・ぴあの | 2013年8月14日 (水) 02時06分

ぴあの・ぴあのさん、こんにちは。
初演当時の聴衆にすれば「春の祭典」は衝撃だったのでしょうが、いまでは現代音楽というよりは近代音楽といっても良いのではないでしょうか。事実、CDで何度でも聴ける我々には非常にメロディアスな名曲に聞こえます。ただ、確かにコリン・ディヴィス/コンセルトヘボウ管の演奏は衝撃的な名演奏で日常的に聴くのには向かないかもしれません。そういう点ではブーレーズ盤も良いですが、メータ/ロスフィル盤なんかはとても良いのではないでしょうか。爽快、快感この上ありません。
投稿: ハルくん | 2013年8月14日 (水) 08時52分


 ハルくんさん、再び失礼します。
 おっしゃる通り、ストラヴィンスキーや新ウィーン楽派(シェーンベルクなど)は「近代音楽」ですね。現代と当時とのスタイルの違いは、今を生きる作曲家の作品をいくつか聴くとよく分かります。以前はケージ以降(厳密には「4分33秒」以降)の音楽は大まかに「現代音楽」と言っても良いと考えていたのですが、今となってはケージも古典の仲間入りを果たしています。

 メータ&ロス・フィルは爽快ですか。この曲の魅力は何と言ってもリズムなので、あまりさらさらと進まれるのも困るのですが、和声や音進行に潜む異常性を排除して上手くリズムの面白さのみを抽出してくれていたら、僕にも聴くことができそうです(この聴き方のほうが異常と言われそう?)。図書館にあるかどうか、探してみたいと思います。
投稿: ぴあの・ぴあの | 2013年8月17日 (土) 00時02分


ぴあの・ぴあのさん、こんにちは。
ひと頃の「現代音楽」は、単に聴衆を驚かせるだけのようないわば冗談のようなものが多かったように思います。いかに「普通でないもの」に仕立て上げるかに注力して、「音を楽しませる」という音楽の原点を捨て去っていたようにしか思えません。もちろんそうでないものも多く有るとは思いますが、大半のものがそういう印象だったので、どうしても近代までの音楽を聴くのがほとんどになってしまいます。近代までの音楽を聴き飽きたら、新しいものに向かうかもしれませんが、いつのことになるやら、ならないやら、予測がつきません。

メータの演奏は、さらさらということもありませんが、ドロドロでは無いのは確かです。実際に聴いていただくしかないですね。
投稿: ハルくん | 2013年8月17日 (土) 09時28分

ハルくんさん、こんばんは。
私はこの曲が大好きで何種も聴いています。

録音でいえば、テラーク・レーベルの
マゼール&クリーヴランド管がベストではないでしょうか?
ただ、演奏は「フツー」ですが…
バーンスタイン(ニューヨーク)
メータ、デイヴィス…
いずれも大好きです。

作曲家バーンスタインは確かにストラヴィンスキーの影響を受けていますね。
映画音楽「波止場」あたりは「春の祭典」に似ています。
個人的には、作曲家バーンスタインも好きなので
もっと演奏されてほしいと願っています。
投稿: 影の王子 | 2014年2月27日 (木) 22時54分

影の王子さん、こんにちは。
テラークの録音は非常に優秀ですよね。マゼール/クリーヴランド盤は聴いていませんが、演奏は”普通”ですか。

「波止場」確かに「春の祭典」に似ているところが随所にありますね。
クラシックを聴き出す前に「ウエストサイドストーリー」の映画を観て、なんて素晴らしい音楽だろうと感動したことがありました。あとからバーンスタインの作曲だと知ってまた驚きました。クラシカルな曲も良いですが、ポップな音楽も素晴らしいという正に天才でしたね。

指揮者としてはマーラーなどの演奏で聴かせる凄さは言うまでも有りませんが。
投稿: ハルくん | 2014年2月28日 (金) 17時32分

こんにちは。
バーンスタイン盤は

1958年ニューヨーク・フィル
1972年ロンドン響
1982年イスラエル・フィル

の3種がありますが
ダントツでニューヨーク・フィル盤が素晴らしいです。

あらためて聴きましたが、力ずくではないのに
自然に盛り上がる迫力があります。
録音も拡がりの良さ・分離の良さがあり
演奏の素晴らしさを伝えてくれます。
これは今後も愛聴盤になりそうです。
投稿: 影の王子 | 2015年1月 1日 (木) 15時30分
影の王子さん、こんにちは。
記事にも書いてはいますが、自分は若々しいNYP盤と重厚感のあるLSO盤の両方を好んでいます。中々甲乙は付け難いところです。
ちなみにイスラエルPO盤は聴いていません(確か記憶では)。
投稿: ハルくん | 2015年1月 1日 (木) 23時31分

こんにちは。
メータ&ロス・フィル盤を久しぶりに聴きました。
第1部終結の「大地の踊り」
まさしく大地が揺れているかのようです!
この部分を聴くだけでも価値のある名盤ですね。
しかしDECCAの録音は本当に良いです。
若きメータとオケ、優秀録音の勝利といえ、聴いて幸せになります。
なお、録音は正しくは1969年です。
投稿: 影の王子 | 2017年1月 2日 (月) 10時40分

影の王子さん、こんにちは。
メータ/ロスフィル盤は良いですね。聴いていて本当に楽しいです。録音も優秀ですし、このディスクが世の中から忘れられては非常に勿体ないです。
1969年録音ですね。訂正します。
ペトルーシュカの録音と間違えたようです。ありがとうございました。
投稿: ハルくん | 2017年1月 2日 (月) 18時06分

http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-f5e6.html

7. 中川隆[-14295] koaQ7Jey 2020年1月21日 15:18:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1165] 報告
クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典― 2016 OCT 5 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2016/10/05/クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―/


故ネヴィル・マリナーのバッハ、モーツァルトが「おふくろの味」と書いたが、もっとひろく、クラシック音楽全体のそれはというとやっぱりこれ、ピエール・ブーレーズの春の祭典CBS盤であり、お固く言うならこの曲の「イデア」である。

それがストラヴィンスキーのイデアかどうかは不明なので「完璧」という言葉は使えないが、この1929年の自演を聴くと彼はやりたかったこと(つまりこの演奏)をほぼ正確にスコアに記号として書いている(細かく言えば大太鼓がティンパニだったりはあるが)。






とするとブーレーズCBS盤はそのスコア情報のテンポやダイナミクスをより「彼なりの高次元」にリファインしたものとは言えるように思う。

この「彼なりの高次元にリファイン」するという行為は、すべての解釈者(演奏家)が直面する難題だ。バイエルを弾く子供でも音にする以上は自分のテンポや強弱で「解釈」はしていることになる。かように演奏家は常にフィルターとなっているのである。

ピアニストのホルヘ・ボレが「自己流解釈者」との自分への批判に対して「作曲家の創造行為への敬意を払いつつ、彼の全作品を深く学んだうえで、自分のフィルターを通じて咀嚼し演奏する表現者」を是としているが、僕はこの意見に賛成だ。

問題は「彼の全作品を深く学んだうえで」が欠落するケースが甚だ多いというだけのことだ。彼の交響曲やカルテットをまだ知らないA子ちゃんが発表会で弾いた月光ソナタが至高の名演と評されることは、音楽は好みに過ぎないというリベラルな立場からは別に構わないことだろうが、そう評価する人の音楽的素養の問題としては議論されうるだろう。

音楽を語るという行為に商業的価値があると僕は思わないが、ソムリエや口うるさいグルメの存在がワインや料理人の質を高めるような作用を演奏行為に及ぼすのだという意見には賛成である。そして、ときにワインや料理の方が一歩進んで客の舌にチャレンジしてくることだってある。

ブーレーズの感性でリファインされた春の祭典はその一例であり、驚いた客の方が百万もの言語を費やしてその味の新しさを評価、論考したものだ。その末席に高校生の僕もいたのであり、味を言葉に置換する方法を覚えた。あらゆる文化や芸術はこうして言語によっても伝承される。それを包括した次元で演奏は評価されるが、その言葉は評価する人間の評価として吟味され、言語の伝承のほうのクオリティも担保されていくのである。

ではリファインをストラヴィンスキー自身が強くNOと評価したら、そのことはどう評価されるべきなのだろう?カラヤンの64年盤でそれがおきたのは有名だ。この手慣れた如くに滑らかな展開は現代では違和感がないと感じられる方が多いのではないかと思うが、作曲家は気に入らなかった。それがバイアスとなってこの演奏を評価しない人が多いが、そんなことはないこれはうまく弾けた演奏のひとつだ。生贄の踊りの金管に耳慣れない和音があるが、カラヤンでない人が現代のコンサートホールでこれを聞かせれば大層な名演と喝采されることは想像に難くない。





この曲の創造主に音楽的素養の議論をふっかけるのは粗暴というものだ。版権、印税の問題でもめた影響を指摘する人もいるが、きのうソナーHPに書いた広島カープ球団の内幕みたいに表舞台には見えないものはどんな世界にもある。演奏頻度は高くなかった64年当時(ブーレーズ盤の5年前)に演奏者が手慣れていることは考え難く、カラヤンの譜読み力とベルリンPOの技術がいかに高次元にあったかに驚いた方が妥当な態度だろう。ストラヴィンスキーは想定もしていなかった「手慣れ感」「美しすぎ」に抵抗を覚えたのではなかろうか。いまはこのレベルが当たり前とするなら、演奏解釈というものはそれ自体が「進化」するという命題の勝利と考えるのがいいのだろうか。

ブーレーズの演奏解釈がどこから進化してきたか?CBS盤にはお手本があると書いたら天下のブーレーズを冒涜したことになるだろうか?

僕の憶測にすぎないが、彼の師匠であるルネ・レイボヴィッツが1960年にロンドン・フェスティバル管弦楽団という実態不明のオケを振ってCheskyレーベルに録音したものを聴いて、僕はそう結論せざるを得ない気持ちになった。これは、驚くほど、コンセプトがブーレーズ盤に似ているのである。

以下、CDを聞き直しながら書き取ったメモをそのままのせる(青字、比較対象は記憶にあるブーレーズCBS盤である)。

序奏、ホルンのdがシンクロしてしまっている。心もちブーレーズより遅いが演奏のコンセプトはそっくりである。木管合奏としてミクロに視点を当てながら全体は嵐の前の静かさと緊張があり倍音に富む。

若い娘たちの踊りのテンポはほぼ同じだ。そっくり。

誘拐はやや遅いが管弦のバランスはこれまたそっくりだ。春のロンドは極少し遅いがバスドラの活かし方が同じ。シンバル、銅鑼はかなりおとなしい。

敵対遊戯 ごく少し遅いがティンパニの出し方が似ている。ホルンの和音による旋律的部分もそっくり。大地の踊りはテンポほぼ同じ。

第2部序奏、心もち遅いがシェーンベルグっぽい、似ている。トランペット交差、音が半音高い、アクセントがつくところは全く違う。これはスコアからは変だ。
アルトフルート奏者はいつも遊びが過ぎて気になる。生贄の踊り、ティンパニが違う。オケが乱れる、かなりへた。最後のティンパニが一発余計に鳴る。

ブーレーズより速い部分は一つもない。

祭典フリークの方はじっくりお聴きいただきたい。






この解釈をさらにリファインして高性能のクリーブランド管に教え込んだのがCBS盤だというのが僕の仮説だ。レイボヴィッツはクールで通している生贄の踊りが終結に向けて一糸乱れぬまま加熱するなど、アンサンブルの精度へのこだわりはブーレーズの専売特許ではある。祭典フリークの方しかご関心はわかないかもしれないが・・・。


(追補)1963年6月5日、カナダ放送交響楽団を振ったもの。第2部序奏のあと現れる2本のトランペットによる主題提示で第2トランペットの第2音が半音高いのを除くとCBS盤のテンポ、コンセプトに近い(ほぼ同じ)。ここからそれまで変化がなくレイボヴィッツ盤の3年後に解釈が確立していたことがわかる。


Pierre Boulez dirige l'Orchestre de Radio-Canada dans Le Sacre du Printemps d'Igor Stravinsky, le 5 juin 1963.



https://sonarmc.com/wordpress/site01/2016/10/05/クラシック徒然草―レイボヴィッツの春の祭典―/
8. 中川隆[-14141] koaQ7Jey 2020年1月28日 13:14:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-916] 報告
我が流儀の源はストラヴィンスキー 2020 JAN 27 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/01/27/我が流儀の源はストラヴィンスキー/


ストラヴィンスキーの門をくぐったことで我がクラシック遍歴は始まった。ベートーベンの第九交響曲より詩篇交響曲の方が歌えるという時期が長くあり、頭の中のライブラリーの分量ではモーツァルト作品に並ぶかもしれない。こういう聴き方を音楽の先生はきっと推奨しないのだろうが、これでいいのだということをストラヴィンスキーが語ったある言葉で得心した。音楽に限ったことでなく、人生全般、生き方そのものに関わる言葉としてだ。

それはこの本にある。弟子で指揮者のロバート・クラフトが師匠との日々を日記形式で綴ったドキュメントだ。


質問者「いったい現代音楽とは何でしょうか」

I・S「いわゆる現代音楽は私にはどうでもいいのです。私の様式が現代的かどうかですか。私の様式は私の様式で、ただそれだけです」

これを読んで背筋に電気が走った。何もわかってない子供だから、ストラヴィンスキーは男として格好いいとシンプルに惚れこんでしまった。

高校生あたりから漠然と「格好いい人生を送りたい」という稚気に満ちた願望があった。何になりたいでもなく、自分なりに格好いいと想像する姿、それが、
「あっしにゃあ関りのねえこって・・・」

だった。これは当時流行っていた木枯し紋次郎のニヒルな名セリフである。それとストラヴィンスキーと何の関係があるんだ?それは脳内でこうつながる。


「現代音楽?あっしにゃあ関りのねえこって・・・」

他人が何をしているかなんて俺にゃぜんぜん関係ないぜ。そうだよな、世間体を気にしたり、八方美人で人に関わってたりしたら春の祭典は書けねえ。そう思った。中村敦夫は今風なイケメンではない。泥臭い。そういう顔じゃないとあのハードボイルド、ニヒリズムは出ない。誰が見ても素敵、カッコいいを目指しちゃいけない、そういう顔つきからは格好いいものは出てこないんじゃないか。

ストラヴィンスキーは音楽の渡世人だった。作風が転々としてカメレオンなんて揶揄もされた。しかしどれも彼の様式なのだ。もし三大バレエみたいな曲を一生書いてたら、それはそれで更なる金字塔を打ち建てたには違いない。しかし渡世人は安住しないのだ。誰にも世話にならず面倒かけず、風の向くまま気の向くまま、どうせこの世にゃ俺ひとり・・・。彼の顔もタダものじゃない。

春の祭典は聴衆を暴徒に変え、大騒ぎさせ、警官隊まで出動させた。音だけの力で。これが音で人の心を動かす作曲を商売とする者にどれほどの脅威か。格好いいとはこういうことなのである。それほどの革命的な創造をしながら、しかし、彼は次々と違う響きに関心を寄せていく。成功なんかポイっと捨てちまって、どんなに求められても二度とそこには戻ってこない。うわべだけのカッコよさだけ求めて生きてるような薄っぺらな男にそんなことは逆立ちしてもできない。書く音楽以前に、自身が勇気に満ちたプログレッシブな人間なのだ。渡世の道は花園かもしれないが無間地獄かもしれない。地獄であっても、もがいて這い出せればそれが幸福だ。何が幸いするかわからないから世の中は面白い。こんな格好いい人生があろうかと思う。

僕にとって、一つの成功に安住する人はすべからく、つまらない人だ。
若い時にこうして電気が走ると一生痕跡が残る。

これ以来、僕の生きる流儀はだんだんこういうものに収れんしていった。

・興味ないことはしない
・空気を読まない
・群れない
・人と同じことはしない
・つまらないことに1秒も使わない


この道に言い訳は落ちていない。結果がすべてであって、結果を出すための工夫を死に物狂いでするしかない。こうして僕はスナイパーになれ、結果は出さないが懸命に群れて、周囲の空気を率先して読んで、人と違うことは積極的に避け、興味ないことを忠犬みたいに黙々とする「満員電車のっちまえ族」とは決定的に袂を分かつ人生を送ることになった。

75才のストラヴィンスキーがロバート・クラフトと対談しているビデオがある。
弟子の質問に師匠が答えていく図式だが、テレビのドキュメンタリー番組だからやらせっぽさ満点だ。ロバートはド真面目なインテリ青年で質問は台本通りであるのがバレバレだが、ストラヴィンスキーは母国語でない英語で喜々として答えている。しかし本音を言わず大人の会話に終始しているのはこの録画が後世に残ると知っているからだろう。曲をスタジオ録音する際に安全運転になるのと似て、表面づらはあまり面白くない。

そこで、まことに僭越ではあるが、愚生が時にチラッと垣間見えるストラヴィンスキーの笑み、表情の変化、語彙の選び方などを手掛かりとして、大先生の本音をこっそり盗み取って注釈してみたいと思う(英語が聞き取りにくくひょっとしてヒアリング・ミスがあるかもしれない。そんなアホなという部分は切にご訂正、ご笑納をお願いしたい)。

ではご覧いただきたい。


A Conversation with Igor Stravinsky, 1957


from The Wisdom Series, 1957



TVカメラ用のポーズをつけ、ピアノに向かって作曲中を装う彼は精一杯の演技でカメラの脇に待機していたロバートを呼び入れる。スコアに音符を書き込む姿はエンジニアのように見える。別室に移ってスコアを広げる光景を見ると僕は建築士の事務所を思い浮かべる。色鉛筆まで使って几帳面に書きこまれた彼の巨大なスコアは設計図を髣髴とさせるが、そのイメージにフィットする。

ストラヴィンスキーはこんな事を言ってる。以下、注はすべて筆者による。

8才で始めたピアノで音階練習をしていて、音階というものは誰かが発明したのだと考え、それならばと自分が創ってもいいだろうとオリジナルの音階を作った。14才でピアノを習った19才の女性教師が好きになってしまった(注1)。やがて師匠、友人となるリムスキー・コルサコフの弟子に和声法、対位法を習ったが死ぬほど退屈で(注2)、師匠に君は音楽院には行かずに自習しろと言われた(注3)。


注1・old maidは俗語でセクシャルに意味深。母親にバレた。

注2・この教師は知識はあるが音楽知らずのただの馬鹿と本音はナメ切っている

注3・耐えられなかったのは和声法で、対位法は関心あったと決然と言う。彼は古典を研究し、形式論理を重んじ、論理の進化で作風を転々とした。退屈で済ますわけにはいかず、あえて繕ったコメントと感じる。

初めて会ったディアギレフはオスカー・ワイルド(注4)みたいな男で、とても優雅でシックで敷居がお高く、微笑みながらやさしく肩を叩いてキミの庇護者だよとにおわせるスタイルの人だった(注5)。ディアギレフは火の鳥の契約をする前にショパンのオーケストレーションをしてくれと頼んできた。春の祭典の初演のスキャンダルを彼は(興業としては)喜んだが、それを巻きおこしたのは私の音楽であって彼のバレエではなかったから嫉妬もしていた。

注4・アイルランド出身の作家。ここでは「ホモの性癖が過ぎて投獄され梅毒で死んだあいつ」という意味で引用されていると思われる。ディアギレフもその道で著名。

注5・ディアギレフとの縁で功成り名を遂げたものの、彼のニヤリとした表情には「あの食わせ者にはやられたよ」感が満載で、それ以上の関係を感じないでもない。ディアギレフは貴族で海千山千の起業家だ、10才下の若造をおだてて手玉に取るのはわけなかっただろう。

私が指揮台に登るのは、どの指揮者よりも聴衆をうならせることができるからだ。私の父は当代一流の、あのシャリアピンに比肩される歌手である。私は偉大な解釈者の息子であり、彼の強烈な劇的表現の才能を受け継いで指揮をしている(注6)。

注6・指揮者としての自分を血筋で正当化している。作曲者なのだから解釈の正統性をなぜ謳わないのか不思議だが、彼はスイスに亡命したため1917年の十月革命で財産を没収され、ロシアがベルン条約加盟国でなかったためにパリでのロシア・バレエ団からのギャラ支払も拒否されてディアギレフと争っていた。だから三大バレエは人気を博したものの彼にはあまり印税をもたらさず生活は困窮した。すでにアンセルメ、モントゥーら著名指揮者のレパートリーとなっており、彼はチャレンジャーだったから血筋まで持ち出す心理になったのだろう。このインタビューはコロンビア・レコードが彼の自作自演盤を市場に出し始めたころに行われたから、彼は売上に敏感だったろう。ただ、結果としてレコードは売れて彼は「生きたレジェンド」になり、米国作曲作詞出版家協会(ASCAP)が彼の印税のランクを上げたため収入が3万5千ドルから7桁に近い6桁台に急上昇した。

私が自作を指揮をすると指揮者たちが怒るが、その理由は私の音楽(の解釈)についてではない、収入が減るからだ。競争(を仕掛けられた)と思うのだ。『ショパン』の稼ぎより『ルービンシュタインのショパン』の稼ぎの方が多くなくてはいけないのだよ、わかるだろう?(注7)まあ彼は友人だから悪くは言えないがね(注8)。

注7:俺の曲にただ乗りして稼ぐ奴らは許せんという意味。三大バレエは花のパリで初演から話題を巻き起こして興業的に当たっていたのだから、若くて金のない彼に「チクショー損した」感が大きかったのは当然だ。彼は創作過程について詳しいコメントを残していないが、想像するに三大バレエの時期はロシア革命、亡命、裏切りと重なる彼のトラウマでもあるだろう。

注8:ルービンシュタインに「ペトルーシュカからの三章」を書いて献呈している関係があるための弁解。作曲家は経済的に不毛だったペトルーシュカを金にでき、ピアニストは『ルービンシュタインのストラヴィンスキー』を手に入れられるグッド・ディールだったとにおわせる。

演奏家は、トランペットならその奏者が、私のイマジネーション(注9)のとおりの音を出さなくてはいけない。音のイマジネーションを分かり易くするためにクラフトマンシップについて説明してください(注10)。(クラフトマンは)物を作る人だ。その物は独創的(発明的)でないといけないが(注11)。

注9:ロバートに「アゴン」のスコアの変拍子をひとしきり解説して見せた後、ストラヴィンスキーが創造の核心に触れだした。ロバートには「それはどこからどのように来るのですか?」と質問してほしかった。

注10:ところがロバートは(たぶん台本を消化するため)この一見もっともらしいが実はくだらない質問にすり替えてしまった。

注11:別の場所では、演奏家は作曲家が創った鐘を鳴らす叩く鐘突きだ、鐘は突けばちゃんと鳴るように創られていると述べている。質問の脈絡が不明のためストラヴィンスキーは鐘はそう造られるべきと苦し紛れに答えているわけだが、誠にもったいない機会損失であった。

彼(注12)はその知識を自己流儀で獲得していたが、音楽というものを習得してなかった。とても優れた耳と記憶力を持ってはいたがね、ロバート、君のようにね、でも君は作曲家じゃないが、彼は作曲家だ(注13)。

注12:前述の始めて和声法、対位法を習ったリムスキー・コルサコフの弟子。

注13:これを言うストラヴィンスキーは、自分はパフォーマーではなく創造者だ、作曲家は演奏家より上だという強いプライドを漂わせている。2日後に「アゴン」を指揮するロバートはその言葉に反応を見せない。パフォーマーに徹したことで評価されたのだろうが、世間の評価はピエール・ブーレーズが上だった。

音楽は音を聞くだけではアブストラクト(抽象)であり、振動を感じなくてはわからない。音楽は音のリアライゼーション(具現化)であり、それは人の心の働きである(注14)。哲学者ショーペンハウエルは「音楽はそれ自体が宇宙である」と言っている(注15)。

注14:鉛筆をくわえてその先をピアノにくっつけ、ベートーベンは耳が聞こえないからこうしていたと実演しているが、言いたかったのはこれだろう。アブストラクトでないものが彼にイマジネーションとして心の働きを喚起し、音として “聞こえて” おり、それを書きとるのがリアライゼーションと筆者は理解した。別なインタビューで彼は「最高の作品とはまさに妊娠している母親のように、心と耳で感じられるものだ」と語っている。

注15:ショーペンハウエルの音楽論の部分を書きとっている。彼が全編読んでいたかは不明。8才でオリジナルの音階を創造しようとしたストラヴィンスキーの心の作用は万物の根源に向かうという意味ですぐれて哲学的、科学的であるが、前掲書によると、死生観などは呪術的でもある。

以上。


ここでストラヴィンスキーが本当にやりたかったわけではないであろうパフォーマーの仕事ぶりを見てみよう。1959年にN響を指揮した火の鳥である。選曲も管弦楽法も聞きなれぬバージョンの組曲であり、その差異により、彼が著作権を持って課金できているはずのものだ。終曲のおしまい、ロ長調になる部分のぶつ切れは彼がそりが合わなくなっていたアンセルメ(彼はフル・ノート延ばす)へのプロテストかと感じないでもない。


Stravinsky Conducts The Firebird Suite, Japan 1959



Stravinsky, The Firebird Suite (1945 revised version)
NHK Symphony Orchestra
Igor Stravinsky, conductor
Osaka International Festival, May 1, 1959



ストラヴィンスキー夫妻とロバートはこの年行われた皇太子ご成婚にかけて来日し、兼高かおるが同行して京都、大阪、箱根、鎌倉、日光を旅した行程が詳細にロバートの上掲書に記されているが、ストラヴィンスキーのために2回のリハーサルをつけたこと以外は5月1日のこの演奏会にはまったく言及がない。彼らの意識の中ではその程度のものだったのだろう。

上掲ビデオのNBC番組については、ロバートの上掲書に記述がある。6月12,13日で、その5日あとが巨匠の75才の誕生日だった。

最晩年のロバート・クラフト(October 20, 1923 – November 10, 2015)が1971年にヴェニスで執り行われたストラヴィンスキーの葬儀の思い出を語っている。最後の一言に衝撃を受けた、まさに感動的だ。


Testimony of Robert Craft



Emocionante depoimento de Robert Craft para Jocy de Oliveira descrevendo o funeral de Stravinsky na ilha San Micaelis em Veneza, 1971
Em 2015, o funeral de Robert Craft também se realiza nesta mesma ilha.

Moving testimony of Robert Craft given to Jocy de Oliveira describing Stravinsky’s funeral at the Island San Micaelis in Venice ,1971
2015 , Robert Craft's funeral also takes place at this chosen Island.




https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/01/27/我が流儀の源はストラヴィンスキー/
9. 中川隆[-14003] koaQ7Jey 2020年2月06日 13:21:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-672] 報告

クラシック音楽 一口感想メモ
イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovitch Stravinsky、1882 - 1971)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

バレエ音楽
•『火の鳥』(L'Oiseau de feu, 1910年)◦4.0点


たった1年の違いであるが、ペトルーシュカと比較すると刺激が少なくて、かなりノーマルな曲である。地味で物足りないと初めて聴いたときは思ったが、よく聞くとやはり面白いフレーズがたくさんある。超絶的ではないにしても、かなり刺激的な音楽である。それとともに、音の使い方のセンスの良さに立脚した、かなり発想が斬新ながらもいい音楽がそこかしこで現れており、いい曲だなと純粋に感じられる場面がかなり多い。自由でファンタジー的で、幻想的な映像を見ているかのようである。

•『ペトルーシュカ』(Petrushka, 1911年)◦4.5点

春の祭典の高みの一歩手前とは思うが、この作品も匹敵するくらい非常に素晴らしい。様々なイメージが奔流のように湧き出てくる。刺激的な音が次々に飛び出して、息もつかせない。とにかく面白くてたまらない。圧倒的な面白さという点ではクラシック音楽でも屈指だろう。意外な音が出て愉しい気分になったら、また全然違う音が飛び出す。おもちゃ箱のような曲だ。

•『春の祭典』(Le sacre du printemps, 1913年)◦5.0点

センセーショナルさを現代でも失わず、それでいて古典的な完成度である。鮮やかなリズムと和声、印象的なメロディー、野生の匂いをぷんぷんと漂わす音楽は、強烈な魅力を放っている。音楽の複雑さが絶妙であり、最大級の効果を発揮している。聴く前から心躍るし、聴きながらもずっと楽しく音楽に酔うことが出来る。

•『プルチネルラ』(Pulcinella, 1920年)◦3.0点

組曲版で聴いた。不協和音がなく平明ながらも現代性のある音楽というのは斬新なものだとは思う。この独特な世界はなぜか印象と記憶に強く残る。一方で、純粋にいい曲と思うかというと、あまり思わないのが偽らざる感想である。新古典主義に入ったという音楽史的な意義の大きさに匹敵するような感慨は得られないと思う。編成が小さくて、アイデアも豊富ではないように感じる。初期の三部作が圧倒的すぎるせいかもしれないが。


•『結婚』(Les Noces, 1923年)◦3.3点

野蛮で原始的な響きに支配された、声楽主体のバレエ音楽。聴いた感じのインパクトはかなり強い。しかし、声楽主体で声楽の使い方は似たものが続くため、音の多様性が少なくなっており、よく理解できない。リズムやピアノの使い方などに圧倒される楽しさと、ストラヴィンスキーらしい音のセンスの良さを愉しむことは出来る。

•『ミューズを率いるアポロ』(Apollon Musagète, 1928年;改訂1947年)◦3.3点

弦楽器だけの合奏のため、どうしても刺激が少なくて地味になっている。ただ、芳醇な弦の響きと音の動きの滑らかさ柔らかさが魅力になっていて、これはストラヴィンスキーのバレエ音楽の中で特徴的な魅力になっている。新古典主義ということで、この曲も不協和音や前衛性はないが飽きにくいものになっている。ただ、弦楽合奏の機動力の低さのためか、聴いていてだんだん物足りなくなっていく。新古典主義の表現の限界も感じる。

•『妖精の接吻』(Le Baiser de la fée, 1928年;改訂1950年)◦3.5点

まさにチャイコフスキーの音楽にインスピレーションを得たバレエ音楽である。音の取り扱いにおける、華やかさとダイナミックさ、動きの舞台的で、心を踊らせて、人の身体をも踊らせようとするような内在的なパワーを、そして時に愛らしい愛嬌や幻想的で魅惑的な魅力をこの曲も持っている。しかし勿論、深いレベルのインスピレーションの結晶であり、全然表面的な真似ではない。高く評価してよいか迷うがなかなか楽しめるのは間違いない。

•『カルタ遊び』(Jeu de Cartes, 1936年)◦3.5点

新古典主義らしい不協和音はないが、19世紀らしい制約のない自由な新しい響きの楽しさを存分に味わえる。バレエ音楽らしい音の活力と物理的にフワフワとした感じも良く出ている。圧倒的な何かこそないが、プルチネルラよりはずっと良い。エンターテイメント的な楽しみで、音楽に浸れる。

•『バレエの情景』(仏:Scènes de ballet, 1944年)◦3.3点

新古典主義の滑らかで穏やかな音楽が心地よい。情景というタイトルはかなり適切かもしれない。少しチャイコフスキーのような饒舌で音が踊り躍動する感じがあるが、冷静にみていつものストラヴィンスキーという気もする。練達の音の魔術を発揮した曲で、さすがと唸ってしまう。

•『オルフェウス』(Orpheus, 1947年)◦3.3点

密度が薄い。映画のバックミュージックのように雰囲気を一定のまま少しずつ変遷させていくだけの音楽である。とはいえ、単体で聴くぶんにも、個別部分のセンスは感じるためエンターテイメントとしては楽しめる。新古典主義的だが平明すぎず、ある意味で円熟した技術と精神の熟成感ともいうべき良さがあると思う。

•『アゴン』(Agon, 1957年)◦2.8点

晩年の音が薄く枯れた感じが印象的。老人になったストラヴィンスキーはさすがにインスピレーションが衰えているのを感じる。場面は刻々と移っていき、バラエティは豊かだが内容があまり豊富という印象がない。新しい音世界を75歳になっても作り続けたことはすごい。しかし、音や楽想のつながりの有機性が足りない。


バレエ以外の舞台作品

•『兵士の物語』(L'Histoire du soldat, 1918年)◦3.0点

基本的には特殊編成による軽妙な新古典主義作品に聴こえる。かなりコミカルなところが面白い。また、まだ純数に単純化された新古典主義音楽になりきっていないところが魅力か。土臭いところが残っていて、親しみやすさを感じた。全曲盤は語りの時間が半分以上を占めていたからあまりお勧めできない。


交響曲

•交響曲第1番変ホ長調 Op.1◦2.5点


これをストラヴィンスキー作曲と当てられる人は少ないだろう。驚くほどロマン派の先達の模範に則った音楽であり、新奇性が少ない。それどころか、ストラヴィンスキーらしさすら私には見つけ難かった。開放的であり、機能的な近代管弦楽法が使われている。19世紀の様々な作曲家の要素が現れているのが分かるのが面白い。華やかさはあるものの平凡でオリジナリティーが少ない、のちの天才を感じにくい曲だと思う。

•詩篇交響曲(Symphonie de psaumes)◦3.5点


全3楽章。合唱付きでヴァイオリンとヴィオラなし。1楽章は前奏曲ということで、最初の盛り上がりを作る単純な曲。2楽章は神秘的な管楽器の合奏で始まり、合唱も神秘性と荘厳な宗教性を帯びている。3楽章は一番長い。辛気くさい宗教性を感じさせてから、場面転換をしながらじわじわと盛り上げていく。どちらかというと宗教曲にいが、本格的な精神性や、構成が透徹していて作り込みを感じるので、交響曲としてもあまり不満はない。響きに明快さと複雑さがあり、よくまとめられておりバランスがよい。ヴァイオリンが無いことでオケがくすんだ響きになり合唱を浮かびあがらせ、奥の深さを演出している。良くできた作品である。

•交響曲ハ調◦2.3点


全4楽章30分。正直なところ新古典主義らしい明確でシンプルな音の構成であり、ハ長調らしい素朴さがあるなあ、くらいの感想しか持てず、鳴っている音の意味を感じ取ることが出来なかった。耳をそれなりに楽しませるストラヴィンスキー独特の管弦楽の扱いと内部の複雑さがあることで、辛うじて聴き通せる。交響曲らしさも希薄。

•3楽章の交響曲(Symphony in 3 Movements)◦3.0点


1楽章は二次大戦の事件を連想させる強烈さもあるが、映画音楽のような軽さとジャズの要素もある多彩な曲。ピアノ独奏の活躍はかなり控え目。

2楽章はハープが活躍し、多少社会的な深刻さを醸し出しながらも、流麗な多彩さがある。3楽章も多彩な楽しい曲。全体に、交響曲を名乗るだけの普遍性と構成感は一応あり、ストラヴィンスキーにしては重さもあるのだが、とはいえバレエ音楽に近い雰囲気であり一般的な交響曲とは違う異色の作品。


協奏曲

•ピアノと管楽器のための協奏曲◦3.5点


管楽器だけだが、吹奏楽のようではなく、オーケストラ風である。弦がないため音のキレが良く乾いており、湿っぽさがない。1楽章は複雑で前衛的な切れ味鋭い系統のピアノソロが続く。音が絨毯爆撃のようにガンガンと演奏されるとともに、リズムの複雑さで楽しませる。なかなかの迫力である。2楽章は一転してラヴェルの協奏曲のような叙情性だが、そのあとは期待通りに捻りの入った展開をみせる。3楽章は押せ押せで気持ちいいし面白い。とても聴き映えのする曲で内容豊富。名作というほどではないが、なかなか楽しめる。

•カプリッチョ(Capriccio) - ピアノと管弦楽のための◦3.0点


全3楽章17分。ピアノのテクニックはあまり超絶技巧という感じはしないが、音数が多く十分に派手である。新古典主義時代の音楽とピアノ協奏曲の相性がよく、スリリングで新しい事が次々と起こるような作品となっていて耳を楽しませる。初期の原始主義的な音楽の雰囲気が出ている感あり、冷静で客観的すぎる新古典主義の曲の中では聞きやすい。

•ヴァイオリン協奏曲ニ調◦2.8点

1楽章はトッカータの名の通りの曲調。多くの楽器が軽快に刺激的に活躍する楽しい曲。2楽章はアリアといいつつ、前半は割と活動的で、管楽器が活躍したりする。後半は泣きの入ったフレーズも登場し、アリアらしくなる。3楽章は軽快なフレーズを執拗に積み重ねる曲。全体に軽快で楽器が多彩に音を重ねながら扱われて耳を楽しませるし、独特の音使いによる独奏も面白い。しかし、構成や雰囲気が軽すぎるし即興的に感じて、腹に落ちる感じがない。

•協奏曲『ダンバートン・オークス』(Dumbarton Oaks Concerto)◦3.0点

全3楽章14分。小編成の合奏協奏曲。この時代にしては割と親しみやすい。メロディーは断片的で分かりにくいが、くつろいだ落ち着いた雰囲気で、楽器数も15人と少なく音の複雑さを楽しみやすい。


•エボニー協奏曲(Ebony Concerto)◦2.5点

クラリネットとジャズバンドの曲。3楽章11分。ストラビンスキーのジャズの影響を端的に味わえる曲として面白いのだが、曲自体は評価やコメントが困難だと感じた。

•弦楽のための協奏曲ニ調(バーゼル協奏曲)(Concerto in D for String Orchestra (Basle Concerto))◦2.8点


全3楽章12分。バーゼル協奏曲とも呼ばれる。弦楽だけなので音のバラエティーが少ないが、その代わりにまったり感が強くて、2楽章の優美さなどの目新しさが出ているし、声部が少ないので、良くも悪くも難解さが少ない。


室内楽曲

•エレジー◦2.8点

無伴奏ヴィオラ用の曲。ルネサンスの宗教曲のような雰囲気のコラールであり、人の声に近いヴィオラの特徴が活かされている。面白い。


•八重奏曲◦3.5点

様々な管楽器の軽快な扱いと新古典主義の作風が非常にうまく合致していて、よく出来た作品に聴こえる。夢に出てきた編成で書いた曲とのことだが、編成として成功している。おもちゃが跳ねて踊って遊ぶようなイメージであり、諧謔的で可愛らしくて軽くて愉しい。楽章に分かれているわりには雰囲気は変わらないが愉しさに浸れるため気にならない。


•七重奏曲◦3.3点

12音技法らしいが調性感がある。編成はピアノが入っているのがよい。ピアノの使い方がうるさくなくてセンスがいい。1楽章はセンスがよくて、明るい旋律もよくてなかなかの名曲と思う。しかし2楽章以降はあまり面白くない。レベルが落ちてしまう。


•弦楽四重奏のための3つの小品◦3.0点

バグパイプ風だったり、特殊な現代音楽風だったり。3曲目は魔法のような神秘性がある。断片的ともいえる曲が3つ並んだ合計7分の小品で、好奇心のような刺激を受ける。


ピアノ曲

•『ペトルーシュカ』からの3楽章◦3.5点

超難しいことでコアなピアノ曲ファンには有名。ペトルーシュカのエッセンスが詰まっていて楽しいし、無茶なフレーズをあっさり弾きこなすプロの技も楽しめる。


•ピアノ・ソナタ(1924年)◦3.8点

1楽章は硬く前衛的で、即物主義的でもある。かなりのセンスを感じる。2楽章は不協和音を使ったやはり前衛的な曲で、音のセンスがかなり良いと思う。3楽章は無窮動ではじまり両手の2声が蠢めく。全般にプロコフィエフを連想するのだが、非常にセンスが良く、彼の一連のソナタ勝るとも劣らない名作だと思う。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

10. 中川隆[-16115] koaQ7Jey 2021年10月06日 09:21:13 : ysUaxmWtj8 : SXFLbnFMU3E1ZGc=[18] 報告
ストラヴィンスキー『バレエ音楽 春の祭典』


Stravinsky "Rite of spring" - Pierre Boulez (1969, from LP)




Pierre Boules / Cleveland Orchestra

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