★阿修羅♪ > 近代史3 > 823.html
 ★阿修羅♪
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
ストラヴィンスキー バレエ音楽『オルフェウス』・3楽章の交響曲
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/823.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 21 日 12:31:59: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 20世紀の音楽を切り開いたストラヴィンスキー「春の祭典」の衝撃 投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 20 日 23:25:11)

ストラヴィンスキー バレエ音楽『オルフェウス』・3楽章の交響曲


Balanchine's "Orpheus"


Stravinsky: Orpheus - Szegedi Kortárs Balett


Igor Stravinsky - Orpheus
Performed by the Deutsches Symphonie Orchester, conducted by Vladimir Ashkenazy



Igor Stravinsky (1882-1971): Orpheus, balletto (1948) -- Moscow State Philharmonic diretta da Igor Stravinsky (dal vivo: Mosca 1962)


_____


『オルフェウス』(Orpheus)は、イーゴリ・ストラヴィンスキーが1947年に作曲した3場からなるバレエ音楽。


作曲の経緯


リンカーン・カースティンの依頼により、ニューヨーク・シティ・バレエ団の前身であるバレエ協会のために作曲され、1947年9月23日に完成した[1]。ストラヴィンスキーは振付のジョージ・バランシンと緊密に連絡しながら作曲した[2]。



初演


1948年4月28日、ニューヨークの音楽・演劇センターにおいて、バレエ協会によって初演された。


振付:ジョージ・バランシン
美術・衣裳:イサム・ノグチ
オルフェウス:ニコラス・マガリャネス(英語版)
エウリュディケー:マリア・トールチーフ


初演はセルゲイ・ディアギレフの没後ではまれな成功をおさめ、振付や美術も高く評価された[3]。


このバレエの成功をきっかけにして、バレエ協会は常設のバレエ団に変わり、名前をニューヨーク・シティ・バレエ団に改めた。新生ニューヨーク・シティ・バレエ団の第1回公演は1948年11月11日に行われ、その出し物は『オルフェウス』、『交響曲ハ長調』(ビゼー)、『コンチェルト・バロッコ』(バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲BWV1043)であった[4]。その後もバランシンとストラヴィンスキーは生涯にわたって協力を続けた。



編成


フルート2、ピッコロ、オーボエ2(コーラングレ持ち替え)、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン2、ティンパニ、ハープ、弦5部[5]。



曲の構成


第1場
Lento sostenuto
エール・ド・ダンス(Air de Danse)
死の天使の踊り(Dance of the Angel of Death)
間奏曲


第2場
復讐の女神たちのパ(Pas des Furies)
エール・ド・ダンス(Air de Danse)
パ・ダクシオン(Pas d'Action)
パ・ド・ドゥ(Pas de deux)
間奏曲
パ・ダクシオン(Pas d'Action)


第3場
オルフェウスのアポテオーズ(Orpheus's Apotheosis)



内容


第1場冒頭、弦楽器によるコラールの上をハープがフリギア旋法の下降音階を奏で、エウリュディケーを失ったオルフェウスの嘆きを表す。ヴァイオリン独奏による軽快なエール・ド・ダンスについで、金管の旋律が聞こえ、死の天使がオルフェウスを地下世界へと導く。無気味な間奏曲が続く。


第2場、グルック『オルフェオとエウリディーチェ』にも登場する復讐の女神たちの踊りにはじまり、2台のオーボエとハープによるオルフェウスのエール・ド・ダンスが続く。地下世界はオルフェウスの音楽に感じいり、復讐の女神たちはオルフェウスに目隠しをした後にエウリュディケーを返す。


パ・ド・ドゥは弦楽を主体とするもっとも長い曲で、目隠しをしたオルフェウスがエウリュディケーと踊るが、結局目隠しを取ってしまい、エウリュディケーは再び倒れる。
金管による重苦しい間奏曲が流れた後、暴力的なリズムを持つパ・ダクシオンに入り、バッカンテス(マイナデス)によってオルフェウスは八つ裂きにされる。


第3場、ふたたび冒頭のハープが戻ってくるが、今度はドーリア旋法の上昇音階を奏で、それに2台のホルンによるフーガが加わる。ホルンの主題は冒頭の弦楽器の主題の逆行形になっている[6]。アポローン神はオルフェウスの竪琴と音楽を天にあげる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/オルフェウス_(ストラヴィンスキー)



▲△▽▼


Symphony in Three Movements


ストラヴィンスキー: 3楽章の交響曲 (1945) ブーレーズ 1996
ピエール・ブーレーズ指揮 Pierre Boulez 1996年2月
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 Berliner Philharmoniker



_______


3楽章の交響曲(Symphony in Three Movements )は、イーゴリ・ストラヴィンスキーが作曲した交響曲。


3つの楽章からなる交響曲は古今に数多く存在するが、楽曲の題名としてはもっぱらこのストラヴィンスキーの作品を指す。


ストラヴィンスキーが1945年12月にアメリカ合衆国の国籍と市民権を得て以降最初に演奏された作品であり、その後に書かれた『オルフェウス』や『ミサ曲』とともに、新古典主義時代を締めくくる作品のひとつでもある。


本作はニューヨーク・フィルハーモニック・シンフォニー協会との親交20年を記念して作曲されたもので、1942年に着手、1945年に完成された。初演は翌1946年1月24日にストラヴィンスキー自身の指揮とニューヨーク・フィルハーモニックによって行われた。


当初ストラヴィンスキーはピアノを独奏楽器とする一種の「管弦楽のための協奏曲」として構想しており、これが現在の第1楽章のもとになっている[1]。一方第2楽章は別の由来を持ち、フランツ・ヴェルフェル『ベルナデットの歌』を元にした1943年の映画『聖処女』のための音楽として作曲したが採用されなかった曲を再利用している[1](ストラヴィンスキーはこの時期にハリウッド映画のための音楽をいくつか作曲しているが、実際の映画に使われたものはなかった)。この曲ではハープが独奏楽器として活躍する。このため、最後の第3楽章ではピアノとハープの双方に活躍の場を与えている。

音楽の表す内容について、初演時のプログラムでストラヴィンスキーは本作を(特定の標題を表現したものでない)「絶対音楽」であるが、その一方で第二次世界大戦の真っ只中の世界で起こった様々な事件を扱ったドキュメンタリー映画で観て、それらの要素が作品に投影しているとも言っている[2]。


楽器編成


木管楽器:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット3(3番はバス・クラリネット持ち替え)、ファゴット2、コントラファゴット
金管楽器:ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ
その他:ティンパニ(4台)、大太鼓、ハープ、ピアノ、弦5部。


構成


第1楽章 4分音符=160
一種のロンド形式で、管弦楽とピアノによる強烈なトゥッティで始まる。多様なリズムが駆使され、オスティナート、保続音、音の跳躍などが見られる。またジャズの影響をうかがわせる部分もある。


第2楽章 アンダンテ - インターリュード(Andante - Interlude (L'istesso tempo) )
8分音符=76。弦楽とハープ、そしてフルートを中心に演奏される緩徐楽章。7小節の短いインターリュードは次の楽章への橋渡し的な部分であり、切れ目なく続けて突入する。


第3楽章 コン・モート(Con moto)
4分音符=108。スケルツォとフィナーレの性格を併せ持ち、力強いトゥッティで始まる5つの部分で構成されている。印象主義的、原始主義時代を思わせるリズムを経て、アラ・ブレーヴェのフーガとなり、次第に盛り上がって全管弦楽の咆哮を響かせて終わる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/3楽章の交響曲
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-14300] koaQ7Jey 2020年1月21日 12:57:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1175] 報告
ストラヴィンスキー「3楽章の交響曲」2018 SEP 20 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2018/09/20/ストラヴィンスキー「%EF%BC%93楽章の交響曲」/


ストラヴィンスキーはカメレオンといわれる。長年そう思っていましたが、あの3大バレエ流儀の曲がもう出てこなかった聴き手の欲求不満がこもった揶揄とすればもっともです。それほどあの3曲は劇的に素晴らしい。いや、路線変更なかりせば10大バレエができたかもしれないが、どんな形式にせよあれは彼の才能が20代でスパークした瞬間を記録したブロマイドのようなもので残りの7つは30代の顔を映したもの、つまり結婚、プルチネルラ、きつね、兵士、ミューズ風のものが続いたに違いない。我々はそれを手にしているのだからそれがストラヴィンスキーなのであって、最近はむしろ変転できたことが彼の才能だったと信じるようになりました。

彼の家系はポーランドの貴族でリトアニアに領地がありましたが没落しています。マリインスキー劇場で歌う高名なバス歌手の3男としてペテルブルグ近郊で生まれ、サンクトペテルブルク大学法学部の学友の父リムスキー=コルサコフの個人授業を受けたことが音楽的基盤となりましたが、火の鳥に師の残照はあっても春の祭典に至るともう見えません。その20代の10年間の音楽のプログレスは驚異的で、並行して法学部で学位も得ているように、創造力ばかりが強調して伝わりますがそれ以前に格別の学習能力があったと思われます。彼の父の蔵書は図書館並みの20万冊であり、その血をひいてその家に育ったわけです。

作風変化の”カメレオン”には2つの世界大戦の影響を看過できません。バレエ・リュスの公演は第1次大戦で妨げられて収入が途切れ、終戦後はフランスを転々としますが1945年にアメリカに移住して市民権を得ます。ナチズムゆえ居所をアメリカに移した音楽家は多いですが、彼は土地も作品の版権も失いフランスでの人気も失せた経済的動機が大きく伝記を読む限りあまり悲愴感がない。宗教もカソリックに改宗したし、蜜月だったディアギレフは不仲になったがお墓は一緒でベニスのサン・ミケーレ島にあるという、まさに変転の人生であったわけで作風だけのという話ではありません。

米国人になって書いた最初の作品が『3楽章の交響曲』でした。新天地を賛美するわけでも希望に燃えて見せたわけでもなく、まず書いたのが戦争交響曲だったことは作風変化にそれがもたらした影響を物語ります。第1楽章は日本軍の中国での焦土作戦、第3楽章はドイツ軍のガチョウ足行進と連合軍の破竹の成功というドキュメンタリー・フィルムを見たことにインスピレーションを得たとストラヴィンスキーが語っており、第2楽章は映画音楽として構想された(実現せず)楽想が使われています。戦争と映画。時代の影を色濃く宿している作品ということで彼自身がこれを「戦争交響曲」と呼んだのです。

冒頭、ト長調音階を駆け上りますがオクターヴを半音通り越した短9度(a♭)で着地します。音程としてはブルックナー9番の終楽章冒頭の短9度跳躍を想起させますが、急速な主題のいきなりのパンチはモーツァルトのパリ交響曲冒頭ばりでもあり不安定な印象は倍加しています。非常に面白いスコアで作曲時が63才。いま僕がその年です。30才の作品を思い出せとなっても難しいと思うのですが、彼はここで有難くも春の祭典ばりの短3度ティンパニ、複調、変拍子を復活させてくれています。

新古典主義と評される枠内に留まり、祭典にはないピアノとハープが主役にはなりますが、この作品は僕にとってそのDNAを継いだ曲として稀有の価値を持っており、記憶してしまってからはその代用品としてワークしております。外を歩いていると時に歩調に合わせて不意に元祖の「生贄の踊り」のコーダのティンパニの変拍子が頭に響いてきて、それが始まってしまうと終わりの強烈な一発まで心中でエア演奏しないと気が済まないのですが、それが『3楽章の交響曲』第1楽章のこの部分であることもままあります。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2018/09/20/ストラヴィンスキー「%ef%bc%93楽章の交響曲」/sym-3mov/


ここのカッコよさ!ピアノの閃光がまるで弦チェレ第2楽章中間部ですが、ピッチカートとアルコ応対する弦セクションは4分音符を3223、3223、322、3223、3322・・・と分割する変拍子で祭典と同様リズム細胞の組み合わせになっていきます。このリズムはストラヴィンスキー以外の何物でもない。リズム、リズム!彼の本質はリズムです。「生贄の踊り」の悪辣な興奮はあの極限までエロティックな変拍子にこれしかないという短3度音程がまるで神が配剤した麻薬のようにふりかけてあるからに違いなく、それと同じものがこの曲のスコアの随所に潜んでいます。

短3度、複調、変拍子(変アクセント)への偏愛。彼は89才まで生きましたが、たしかに古典に帰ったと思うと12音にはまったり、僕も一時そう思っていたように節操なく見えるのです。しかし今はこう感じます。彼の根幹(本能的音楽嗜好)は揺ぎ無く一定であった。ただし常人離れした好奇心、猜疑心そして学習能力が常にその場の行動を駆り立ててしまう。ココ・シャネルら複数の女性にふらふらしたようにですね。しかしその性向こそが、お互いに似ていない3大バレエを同時に着想させた。彼自身が「複調」的な人物であり変拍子のように人生を歩んだと。それを後世の我々がどう評価しようと書いたスコアの前には微塵もなく吹き飛んでしまうのです。

このビデオはエーリヒ・ラインスドルフがクリーヴランド管弦楽団に客演した際の1984年のライブ録音で、フィラデルフィアの自宅でFM放送をカセットテープに録音したものです。



Stravinsky "Symphony in Three Movements" - Erich Leinsdorf (Live, from my tape)




ラインスドルフはフィラデルフィア管弦楽団で春の祭典をやりましたが非常に面白かった。楽譜の読み方、パーセプションがオンリーワンのラインスドルフ節であり、ぎくしゃくした腕の振りで明確に振り分ける。リズムに明敏。凄いプロです。彼は火の鳥でもペトルーシュカでもなく、祭典と3楽章です。ここでもそれが目に浮かびます。

(ついでながら、これが彼の春の祭典)






これはyoutubeから。

Stravinsky Symphony In Three Movements -Victoria Symphony -Tania Miller, conductor



この演奏は支持できますね、指揮者オケも存じませんが女性が戦争交響曲を振ろうという心意気がいいですね。奏者も良くついて行ってます。



ハンス・ウエルナー・ヘンツェ / ローマ放送交響楽団



これもyoutubeで拾いました。作曲家ヘンツェの指揮によるライブであり、イタリアの放送オケはへたくそな演奏が多いものだから何ら期待せず聴きましたが、意に反し、なんだこれは?という素晴らしい演奏です。完全にヘンツェの手の内に入っておりリズムへの反応が見事なうえに音色は非常にカラフル。これだけピアノが聞こえる録音はなくスコアリーディングに最適で何度でも聴きたい。これは入手したいですねえ。


ピエール・ブーレーズ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団



BPOの技量に拠るところ大とはいえ、これだけ整ったアンサンブルを他に求めるのは難しいというレベルの演奏。このコンビのダフニスと管楽器のための交響曲を94年にベルリンで聴きましたが、ライブであれほどの完璧な音響というものは経験がなく、この演奏にもそれを思い出します。

ただDGの春の祭典にも言えますが、隙のない絶世の美女の肖像画という印象で悪辣さや危なさに欠け、ニューヨークフィルとCBSでやっておいて欲しかった。野球のたとえで申しわけありませんが、これは単にスピードが160kmでる投手という感じであって、140kmなのにもっと凄みある球を放ってぜんぜん打てない投手はいるよということです。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2018/09/20/ストラヴィンスキー「%EF%BC%93楽章の交響曲」/
2. 中川隆[-14299] koaQ7Jey 2020年1月21日 13:06:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1174] 報告

イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(ロシア語: И́горь Фёдорович Страви́нский[1]、1882年6月17日 - 1971年4月6日)は、ロシアの作曲家。

同じくロシアの芸術プロデューサーであるディアギレフから委嘱を受け作曲した初期の3作品(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)で知られるほか、指揮者、ピアニストとしても活動した。20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人である。


人物・来歴

第一次世界大戦まで

1882年6月17日(当時ロシアで使用されていたユリウス暦では6月5日)[2]、サンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)に生まれ、首都のサンクトペテルブルクで育った[3]。

ストラヴィンスキー家は16世紀末にさかのぼるポーランド系小貴族で、伝統的にその領地はリトアニア大公国の中にあったが、徐々に没落していった[4]。父のフョードルは三男だったために財産を受け継ぐことはなかったが[5]、マリインスキー劇場づきの、当時のロシアを代表するバス歌手として有名だった[6]。

1901年、イーゴリは現在のサンクトペテルブルク大学法学部に入学したが[7]、その一方で週に一度音楽理論を学んだ[8]。法学部で知りあったリムスキー=コルサコフの末子であるウラディーミルの勧めによって、1902年夏にリムスキー=コルサコフと会い、個人授業が受けられることになった[9]。同年11月に父が没した。

リムスキー=コルサコフの授業は最初は不定期だったようだが、1905年秋ごろから定期的なレッスンを受けるようになった[10]。大学は1906年4月に学位を取得した(1905年に卒業したが、血の日曜日事件以降の大学の混乱で学位取得が1年遅れた[11])。

初期の管弦楽作品としては『幻想的スケルツォ』(1908)と『花火』(1909)が優れているが、リムスキー=コルサコフは1908年6月に没し、これらの曲の初演を聞くことはできなかった。自伝によればバレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフはこの2曲を聞いてからストラヴィンスキーと親密な関係を持つようになったというが[12]、実際のところはよくわからない[13]。ディアギレフから最初に頼まれた仕事はバレエ『レ・シルフィード』のためにショパンのピアノ曲を管弦楽用に編曲することだった。

1910年にはバレエ・リュスのために作曲した『火の鳥』がパリのオペラ座で初演され、大成功を収める。翌1911年には、第2作『ペトルーシュカ』が初演され、これも成功を収める。さらに1913年、第3作『春の祭典』がパリで初演された。この上演は楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込み、初演においては観客の怒号が演奏をかき消すほどであったと伝えられているが、その後すぐに評価は急上昇し、これも大成功を収めることとなった[14]。これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になった。

ストラヴィンスキーはそれまでも夏をウスティルーフ(現ウクライナ)、冬をスイスで過ごしていたが、1914年、第一次世界大戦が勃発するとウスティルーフには帰れなくなり、スイスに居を定めた[15]。1917年に起きたロシア十月革命により故国の土地は革命政府に没収され、ロシアからの収入も得られなくなり、またバレエ・リュスの公演も戦争に妨げられて思うにまかせず、ストラヴィンスキーの生活は苦境に陥った[16]。このころ作曲された曲はロシアの民衆詩や寓話による土俗的な『きつね』、『結婚』、『兵士の物語』などがあり、ストラヴィンスキーの新しい局面を示すが、ほとんどの曲は戦時中には上演する機会がなかった。

両大戦間

戦後の1920年にパリで初演された『プルチネルラ』はまだスイスに住んでいた時に作曲された曲だが、18世紀の音楽の旋律と形式をそのまま使いながら、新しい管弦楽法で音楽に新しい命を吹き込んだもので、1921年以降フランスに落ち着いてから作られるようになる新古典主義音楽のはしりだった。ストラヴィンスキーの新古典主義時代は1951年のオペラ『放蕩者のなりゆき』まで続く。

1920年からフランスに住んだが、住所はカランテック(ブルターニュ地方)、ギャルシュ(パリ近郊)、アングレットおよびビアリッツ(南西フランス、1921-1924)、ニース(1924-1931)、ヴォレップ(英語版)(グルノーブル近郊、1931-1934)と、一定しなかった。

ディアギレフとの関係は続いたが、戦前よりも疎遠になり、1923年に初演された『結婚』がバレエ・リュスのために書いた最後の曲になった。ストラヴィンスキーはまたキリスト教に傾倒するようになり、1926年にはロシア正教会に回帰した。1920年代に作曲された主要な曲には『八重奏曲』『エディプス王』『ミューズを率いるアポロ』などがある。この時代、ストラヴィンスキーはピアニストとしてもデビューし、ピアノ用に『ピアノと管楽器のための協奏曲』『カプリッチョ』『ピアノソナタ』『イ調のセレナーデ』などを作曲している。

1929年にディアギレフが没した後は、ヴァイオリニストのサミュエル・ドゥシュキンのために書いた曲や、アメリカ合衆国からの注文で書いた曲が主になる。『詩篇交響曲』『カルタ遊び』『ダンバートン・オークス協奏曲』はいずれもアメリカからの依頼で書いたものである。

1934年にフランス市民権を得て[17]パリに住むが、1938年に長女を結核で失い、翌年には妻と母を失う[18]。当時ナチス政府は前衛的なストラヴィンスキーを快く思っておらず、1938年には退廃音楽として誹謗された。またフランス人はストラヴィンスキーの新作に興味を持たなくなっていた。

アメリカ時代

ストラヴィンスキーは1925年にはじめてアメリカ合衆国を訪れ、1935年と1937年にも渡米している。第二次世界大戦開戦直後の1939年9月にハーバード大学からの依頼によって渡米して音楽に関する6回の講義(のちに『音楽の詩学』の題で出版)を行うが、そのまま米国にとどまり、ハリウッドに住んだ[19]。フランスで書きはじめられた『交響曲ハ調』はアメリカで完成することになった。1945年にはアメリカ合衆国の市民権を得た[20]。『3楽章の交響曲』、バレエ『オルフェウス』、『ミサ曲』、オペラ『放蕩者のなりゆき』などがこの時代の代表作である。

アルノルト・シェーンベルクが没した1951年頃より、これまで否定的だった十二音技法を少しずつ採用して新たな創作の可能性を開く。70歳近くになってからの作風の変貌は世間を驚かせた[21]。その後も1966年までの約15年に20曲ほどを作曲している。この時代の作品には『七重奏曲』、『カンティクム・サクルム』『アゴン』『トレニ』『アブラハムとイサク』『J.F.ケネディへの哀歌』などがある。

1959年、来日し、日比谷公会堂、フェスティバルホールで演奏会を行う。また日本の若手作曲家の武満徹を見出して世界に紹介する。これはのちにバーンスタインが、ニューヨーク・フィル125周年記念の曲を武満に委嘱するきっかけになった。

1962年、キューバ危機のさなかに80歳のストラヴィンスキーはソ連を訪問する[22]。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷であった。

長期にわたって作曲を続けてきたストラヴィンスキーも、やがて健康上の理由によって音楽活動の中止を余儀なくされるようになった。1966年、84歳を最後として新しい曲は作曲されず[23]、1967年以降は指揮も行わなくなった[24]。1968年には最後の編曲を完成させたが、それ以後も完成こそしなかったもののいくつかの曲の編曲には手を付けていた[25]。1967年後半は胃潰瘍と血栓症で長期間入院した。最晩年はロバート・クラフトの勧めでレコードを聞いて過ごした。作曲家から鑑賞者への立場の変化に不満を持ちつつも、とくにベートーヴェンを好んだ[26]。


1969年、ニューヨークのエセックスハウスに転居し、1971年4月6日に88歳で没した[27]。ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬された。のちに、妻ヴェラもイーゴリの隣に埋葬されている。

死後、革命により失われたと思われていた『ピアノソナタ嬰ヘ短調』などの初期作品がレニングラード州立図書館から発見され、刊行された。2015年にはリムスキー=コルサコフ追悼のために書いた『葬送の歌』作品5が発見されている[28] 。本作はストラヴィンスキーが生前に『火の鳥』以前に書かれた作品では最高の作品だと述べており、紛失を悔やんでいたものだった[29]。

妻子と女性関係

ストラヴィンスキーは大学を卒業した翌年の1906年に、幼なじみで従姉のエカテリーナ・ノセンコ(カーチャ)と結婚した。翌年には息子テオドール、翌々年に娘リュドミラを授かった。1910年には後に作曲家・ピアニストになったスリマが生まれた。1914年には娘のマリア・ミレナが生まれている[30]。しかし夫人は長く結核を患い、1938年に長女リュドミラが感染して死亡、翌1939年はじめに夫人自身も死亡した[31]。

一方、ストラヴィンスキーはしばしば他の女性と不倫関係を持ったことが知られている。1916年にアメリカ公演から帰ったバレエ・リュスがマドリードにいる時、バレエ・リュスの踊り手であるリディア・ロポコワと恋愛関係を結んだのが知られるかぎり最初の浮気である[32]。

ココ・シャネルとも一時恋愛関係にあったことが知られている。1920年にパリで家を探すのに困っていたストラヴィンスキーにココ・シャネルは自分の家を提供したり、マシーンによる『春の祭典』復活上演のために莫大な資金を提供したりしているが、恋愛関係にあったのは短い間に過ぎなかったようだ[33]。2009年の映画『シャネル&ストラヴィンスキー』は『春の祭典』初演後から再演前までにおける両者の不倫を題材にしているが、これはあくまで創作である。

1921年には蝙蝠劇場というロシア系のキャバレーでジェーナ・ニキティナと一時的に恋愛関係を持った。ほかにも不倫の対象はいたかもしれない[34]。

セルゲイ・スデイキンとその妻のヴェラにはじめて会ったのはおそらく1920年にパリでプルチネルラを公演したときで[35]、おそらく翌年夏にストラヴィンスキーはヴェラと恋仲になり、バレエ・リュスではふたりの関係は公然と語られた。スデイキンとストラヴィンスキーは険悪な関係になり、1922年にヴェラはスデイキンと離婚している[36]。その後ストラヴィンスキーは南フランスで家族と、パリでヴェラとの二重生活を送った。夫人の没後、1939年にアメリカに移ると、ヴェラを呼び寄せて1940年に再婚している[37]。

作風

生涯に、原始主義、新古典主義、セリー主義と、作風を次々に変え続けたことで知られ、「カメレオン」[38]と形容されたこともあった。さまざまな分野で多くの作品を残しているが、その中でも初期に作曲された3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)は知名度が高く、特に原始主義時代の代表作『春の祭典』は、しばしば20世紀音楽の最高傑作と言われることもある[39]。 また、オーケストラ作品ではリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法が遺憾なく発揮され、さらにそこから一歩踏み込んだ表現力を実現することに成功している。これらの作品によって、ベルリオーズやラヴェル、師のリムスキー=コルサコフなどと並び称される色彩派のオーケストレーションの巨匠としても知られる。

松平頼暁は著書『現代音楽のパサージュ』の中で「20世紀音楽のほとんどのイディオムはすべて彼の発案」と述べている。

原始主義時代

ストラヴィンスキーはデビュー当初は原始主義を標榜していないが、有名な作品を残し始めた頃から原始主義の傾向が見られる。主な作品として、3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が挙げられる[40]。複調、変拍子、リズム主題の援用などが特徴である。『結婚』を最後にこの傾向は終息する。


新古典主義時代

バレエ音楽『プルチネルラ』の発表は新古典主義音楽の開幕を告げるものであり[41]、これ以降はストラヴィンスキーの新古典主義の時代とよばれる。この時期はバロック音楽や古典派のような簡素な作風に傾倒した。和声の響きは初期に比べてかなり簡明になった。1939年から1940年に行われた講義の内容を基にした著作『音楽の詩学』がこの時代の音楽観をよく表している。その一方で、新古典主義時代ながら『詩篇交響曲』ではセリー的操作を用いていることが後の研究で明らかにされた。ストラヴィンスキーが他の楽派の音楽語法も常に見張っていたことが良くわかる。

セリー主義(十二音技法)時代

第二次世界大戦後は、それまで敵対関係であったシェーンベルクらの十二音技法を取り入れ、またヴェーベルンの音楽を「音楽における真正なるもの」などと賞賛するようになった。これには同じくアメリカに亡命していたクシェネクの教科書からの影響もある。ストラヴィンスキー自身は、「私のセリーの音程は調性によって導かれており、ある意味、調性的に作曲している」と語っている。各楽器をソロイスティックに用いる傾向が一段と強まり、室内楽的な響きが多くのセクションで優先されている。


主要作品

詳細は「ストラヴィンスキーの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7


バレエ音楽

『火の鳥』(1910年; 初演 1910年6月末 オペラ座)
『ペトルーシュカ』(1911年; 初演1911年オペラ座)
『春の祭典』(1913年; 初演 1913年5月29日 シャンゼリゼ劇場)
『プルチネルラ』(1920年; 初演 1920年)
『結婚』(1923年; 初演1923年)
『ミューズを率いるアポロ』(1928年; 初演1928年、改訂1947年)
『妖精の接吻』(1928年; 初演1928年、改訂1950年)
『カルタ遊び』(1936年; 初演1937年)
『オルフェウス』(1947年; 初演1948年)
『アゴン』(1957年; 初演1957年)

バレエ以外の舞台作品

『夜鳴きうぐいす』(1907年-1914年; 初演1914年オペラ座) - 後の1917年に同作の主題を用いた交響詩が書かれている。
『兵士の物語』(1918年; 初演1918年)
『エディプス王』(1927年; 初演1927年、改訂1948年) - ジャン・コクトーの台本によるオペラ・オラトリオ。
『放蕩者のなりゆき』(1951年; 初演1951年)

交響曲

交響曲第1番変ホ長調 Op.1(1905年-1907年)
詩篇交響曲(1930年)
交響曲ハ調(1938年-1940年)
3楽章の交響曲(1942年-1945年)

協奏曲

ピアノと管楽器のための協奏曲(1923年-1924年)
カプリッチョ - ピアノと管弦楽のための (1928年-1929年)
ヴァイオリン協奏曲ニ調
協奏曲『ダンバートン・オークス』(1937年-1938年)
エボニー協奏曲(1945年)
弦楽のための協奏曲ニ調(バーゼル協奏曲)(1946年)
ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ(1958年-1959年)

管弦楽曲

幻想的スケルツォ Op.3(1907年-1908年)
交響的幻想曲『花火』Op.4(1908年)
交響詩『ナイチンゲールの歌』(初演1919年) - オペラ「夜鳴きうぐいす」の交響詩への編曲
管楽器のための交響曲(1920年)
サーカス・ポルカ(1942年)
ロシア風スケルツォ(1944年)
バレエの情景(1944年)
4つのノルウェーの情緒(1942年)

ピアノ曲

ピアノソナタ 嬰ヘ短調(1903年-1904年)
『ペトルーシュカ』からの3楽章
ピアノ・ラグ・ミュージック(1919年)
5本の指で(1920年-1921年)
ピアノソナタ ハ調(1924年)
イ調のセレナーデ(1925年)
タンゴ(1940年)

室内楽曲

11楽器のためのラグタイム(1918年)
八重奏曲(1922年-1923年)
七重奏曲(1952年-1953年)
弦楽四重奏のための3つの小品(1914年)
弦楽四重奏のためのコンチェルティーノ(1920年)
弦楽四重奏のための二重カノン (ラウル・デュフィ追悼のための)(1959年)
ヴァイオリンとピアノのための協奏的二重奏曲(1931年-1932年)


合唱曲

カンタータ『星の王』(1911年-1912年)
4つのロシア農民の歌(1914年-1917年)
ミサ曲(1944年-1947年)
トレニ−預言者エレミアの哀歌(1957年-1958年)
説教、説話、祈り(1960年-1961年)
イントロイトゥス

歌曲

パストラール(1907年)
日本の3つの抒情詩(1912年-1913年)
プリバウトキ(1914年)
猫の子守唄(1915年-1916年)
ふくろうと猫(1965年-1966年)

著作

ストラヴィンスキー 『音楽とは何か』(佐藤浩訳、ダヴィッド社、1955年)  『音楽の詩学』(笠羽映子訳、転換期を読む:未來社、2012年8月刊)
※大学での講義をまとめたもので、原題はPoétique musicale(音楽の詩学)。

『ストラヴィンスキー自伝』(塚谷晃弘訳、全音楽譜出版社、1981年) 『私の人生の年代記 ストラヴィンスキー自伝』(笠羽映子訳、転換期を読む:未來社、2013年3月刊)

ストラヴィンスキー談 『118の質問に答える』(ロバート・クラフト編、吉田秀和訳、音楽之友社、1960年)

演奏家としてのストラヴィンスキー

ストラヴィンスキーは作曲家であるとともに、指揮者、ピアニストとしても知られていた。彼が初めて指揮者として舞台に立ったのは、1915年のジュネーブとパリにおける公演とされている[42]。また、ピアニストとして初めて舞台に立ったのは1924年のピアノと管楽器のための協奏曲である[43]。特に、1950年代から60年代にかけて、コロンビア交響楽団やカナダのCBC交響楽団を指揮して主要な自作のほとんどを録音している(CDにして22枚分)。こうした演奏旅行は、1967年に彼が病に倒れるまで続いた[44]。「自作自演」の録音を、彼ほど大量に残した作曲家は絶無である。彼の自作自演盤は、指揮の精度やオーケストラの技術については専門の指揮者による録音に一歩譲るものの、作者自身が想定していた自作のイメージを伝える貴重な遺産となっている。

ストラヴィンスキーは、かつてのドイツやロシアの管弦楽に見られるような不明瞭なアーティキュレーションによる残響を毛嫌いした。『火の鳥』1945年版組曲の最終部の自身の演奏に、その特徴が顕著に現れている。


日本訪問

ストラヴィンスキー夫妻は、ロバート・クラフトとともに、1959年の4月から翌月にかけて日本を訪問した。本来は文化自由会議(CIAがひそかに後援する反共音楽団体)のニコラス・ナボコフの立案による東京世界音楽祭に参加するのが目的だったが、音楽祭は1961年に延期された[45]。

4月5日:来日(同行:ロバート・クラフト他)
4月6日:鎌倉で大仏を見物
4月8日:歌舞伎座で「勧進帳」を鑑賞
4月9日:箱根へ
4月10日:ホテルのテレビにて皇太子御成婚パレードを見る
4月12日:京都に移動
4月13日:三十三間堂見学。ついで大阪国際フェスティバルでの「ドン・ジョヴァンニ」上演(出演:ウィーン国立歌劇場メンバー他)鑑賞
4月14日:龍安寺と石山寺へ
4月15日:修学院離宮と高山寺へ
4月16日:桂離宮、三宝院、平等院へ
4月17日:二条城と南禅寺へ
4月19日:大阪で能を鑑賞
4月20日:大阪で文楽を鑑賞
4月21日:神戸へ
4月22日:奈良へ
4月23日:東京に戻り、N響とリハーサル開始
5月1日:大阪国際フェスティバル公演。演奏曲目は『夜鶯の歌』・『ペトルーシュカ』抜粋、(休憩を挟んで)『花火』・『火の鳥』(1945年版)
5月3日:東京公演(於・日比谷公会堂)
5月4日:皇居で雅楽を鑑賞
5月7日:東京公演
5月8日:離日


この来日の際、NHKで武満徹の「弦楽のためのレクイエム」(武満の作品は、過去に評論家の山根銀二らに「音楽以前」などと酷評されていた)のテープを聴き、武満を絶賛する。

ストラヴィンスキーに認められたことで、武満の評価は国内外で上昇の一途を辿る。

一方、日本の様々な伝統芸術に触れると同時に、特に興味を示したのが、様々な大衆音楽の猥雑な混合である「チンドン屋」であったと伝えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史3掲示板 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 近代史3掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
近代史3掲示板  
次へ