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(回答先: モーツァルトで本当にいいのは 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だけ 投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 20 日 20:07:04)
クールな音楽家モーツァルト
---モーツァルト:ピアノ協奏曲 Nos. 11 & 14 坂崎 紀
https://www.seitoku.ac.jp/daigaku/music/mozart06/writings/sakazaki.html
Mozart, Piano Concerto No 11 , Uchida
Mitsuko Uchida - Mozart: Piano Concerto No.14 in E flat, K.449 (Rec. 1987)
ヒットする曲の条件は何だろう。必ずしも音楽の質だけで決まるとはいえないが、誰でもわかりやすく、多くの人が共感できる曲はヒットするといえるだろう。逆に一部の専門家しかわからないような凝った音楽、聴き手に一定水準の音楽的能力や音楽経験を要求するような曲はヒットしにくいといえる。
この問題について、モーツァルトが1782年12月28日付の手紙の中で興味深いことを書いている。
「予約演奏会用の協奏曲が2曲必要です。これらの協奏曲は、非常に易しいものと非常に難しいものとの中間を正確に狙ったもので、とても華やかで聴いて楽しく、シンプルで自然ですが無内容に響くことはありません。専門家のみが真に楽しめる個所もここかしこにありますが、素人でも満足を感じるはずです、たとえその理由がわからなくても。」
ここには作曲家の職業上の秘密、あるいはモーツァルトのプロ作曲家としてのドライな面が感じられる。予約演奏会というのは前売り券を売り、演奏会を行う方式。およそ18世紀頃から公開演奏会が一般化するにつれて採用されるようになった。不特定多数の人が安価にチケットを入手できるようにするかわりに聴衆の数が多くなるように演奏会を企画して利益を上げようというものだ。いわば薄利多売。これは現在の各種演奏会の方式と本質的には同じだ。
チケットが売れなければ話にならないから、幅広い層にアピールしなければならない。しかしモーツァルトは決して「わかりやすければいい」とか「素人にはわかりやすいものを」といってはいないし、もちろん「理解できる人だけが聴けばいい」ともいっていない。その中間を正確に狙う、というところがミソ。
「華やかで楽しく、シンプルで自然」というはこの時代の古典主義の理念で、技巧を凝らしたり複雑さを追求した難解な音楽は好まれなかった。これはひとつには啓蒙思想による人間の自然な感覚を尊重する風潮に由来し、社会的には音楽を享受する階層がそれまでの王侯貴族から中産市民階級に拡大したためだ。
晩年のバッハは、当時の音楽評論家から「技巧が過度、もっと自然であるべきだ」と批判されているが、これは古典主義的な音楽観からなされたものと解釈できる。「一部の音楽通の貴族にしかわからないような音楽はこれからは時代遅れ」ということなのだ。だからハイドンやモーツァルトの音楽は、ある意味ではバッハよりも単純素朴といえるが、これは音楽がより広い層に受け入れられることにつながる。
さてウィーンといえども、音楽通の数は限られるだろう。チケット金額が同じなら、演奏会に音楽通がひとり来てくれるよりも、平均的一般人(素人)が3人来てくれた方が営業面では有利なのだ。しかしモーツァルトはもっと計算して「音楽通も満足するし、一般人も楽しめる」と書いている。つまり4人来ることを狙っているのだ。これは作るテクニックとしてはむずかしい。凝った和声や繊細な表現といったものは音楽通には受けるが、一般人にはわからない。逆に派手で明快な音楽は一般人にはわかりやすいが、そればかりだと、音楽通には内容空疎な印象を与える。
ただ音楽というのは時間経過の中で変化していくものなので、わかりやすい部分と、やや凝った部分をうまく混ぜ合わせれば、音楽通も一般人もある程度まで満足させることは可能だろう。モーツァルトはそういう曲を書こうとしていたのだ。
ではモーツァルトはこの手紙を書いた後、どんな協奏曲を書いたのだろうか。この手紙の直後に書かれたのはピアノ協奏曲第11番ヘ長調 K.413(387a)と第14番ハ長調 K. 415(387b)だったと考えられている。インマゼールがフォルテピアノで演奏したCDを聴いてみよう*。
これらの曲は大局的にはウィーン古典派の音楽で、現在の基準からすると明快でわかりやすい音楽。しかし作曲された18世紀末の時点では斬新で新しい面もあったと思われる。特に第1楽章ではさまざまな音楽的要素が出てきて、感傷的なフレーズもあれば、大げさな身振りでハデなところもあるが、これらの要素のうちのいくつかは当時としては新しくユニークで音楽通向けであり、いくつかはより一般的で大衆的だったのだろう。
モーツァルトはしばしば「神童」、「天才」といわれるから、人によってはインスピレーションに駆られて神がかり状態で一気に曲を書き上げる「ゲイジュツカ」というイメージを抱くかもしれない。しかしそれはいささかロマン主義的な幻想というべきだ。
前掲の手紙からすると、彼は自分の音楽に対してかなりメタ認識ができており、ある意味では冷静かつ客観的に「どうすればウケるか」を考えながら作曲し、演奏していた。そう、モーツァルトは「冷静」、「カッコいい」、という2つの意味でクール cool なミュージシャンだったのだ。
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*W. A. Mozart: Clavier-Concerte 11, 13 & 14.
Orchestra Anima Erterna/ J. v. Immerseel
(Channel Classics CCS 0990)
https://www.seitoku.ac.jp/daigaku/music/mozart06/writings/sakazaki.html
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モーツァルト(1756−1791)
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP017.html
モーツァルトは、かつては「神童」と呼ばれ、どちらかと言えば神に祝福された、幸福な幼児のイメージで語られていた。「モーツァルトはそんな幼稚な音楽じゃない」と反論しても、かえって「何をこいつは。そういうお前自身が幼稚なんだ」という目で見られてしまう傾向があった。ベートーヴェン風の苦悩と闘争、それを経て達する歓喜の歌、あるいはブラームス流の諦観、そうしたものが「高度な音楽」であり、すばらしいものだ。ベートーヴェン以前には、真に偉大な作曲家はいない。そう思っている人が少なくなかった。
だが苦悩と闘争というのは、いわば文学的イメージである。ホッブスは原始状態を「万人の万人に対する闘争」と考えた。その闘争を緩和するのが法による秩序であり、国家という存在なのだ。
しかし、原始人も群れて暮らしていた。群れから離れると、生存していく上での脅威は高いものになった。誰かが大きな獲物を仕留めると、それを巡って殺し合い奪い合うのではなく、群れで分かち合うのがむしろ普通だったらしい。群れの安定性を保つために、分かち合いが義務とされ、人に分けない者は群れの成員としての資格がないとされる。また殺し合いは、群れを不安定にし、成員の生存を脅かすものとして、排除された。またその頃にはリーダーという存在も現れた。多分リーダーがまず現れ、そのリーダーが群れを統率する上で「殺すな」「分かち合え」といったことを説いたのだと思う。もちろん、そうした群れでは、獲物を最初に食べるのはリーダーだっただろう。しかし比較的に公平な分配が行われていたようだ。
闘争がわれわれの日常の現実になるのは、「競争社会」といったものが成立したからである。闘い勝つことが美徳であり、だめなヤツは敗れ去る。そのだめなヤツの悲哀を歌うのもいい。だが単にだめで終わらず、あくまで積極的に挑戦する。それが正しい道だと誰もが思っている。「夢を追う」という言い方もある。「夢」とは、要するに他人に勝つことである。
もちろん、勝つことだけが目的で、他人の失敗を願うといったことは卑怯だとされるが、戦争や格闘競技で相手のミスを誘うことは、正当な戦術である。相手を実力が出し切れない状況に追い込む、あるいは相手のミスに乗じて勝ちを取る、といったことが賞賛されるのだ。
皆さんも「宋襄の仁」という言葉を聞いたことがおありだろう。宋の国の襄公は、敵軍が川を渡るのを見て、自軍の参謀が「今こそ攻撃のチャンスです」と言うのを聞かず、「今攻撃するのは卑怯である」と、そのまま見ていた。また川を渡り終えた敵軍がへとへとに疲れて、陣形を立て直すこともできないのを見て、また参謀が「今が最後のチャンスです」と言ったのに、やはり「今攻撃するのは卑怯である」と見逃し、敵軍が十分に戦闘準備するまで待っていた。
それからやっと攻撃しかけたのだが、宋はあっけなく敗れてしまった。そこでこのように「敵に無用の情けをかける」ことを「宋襄の仁」と呼んで、中国では笑いものにする(ただし宋の国では「襄公は正々堂々としていた」というので、賞賛されたそうだ)。
他にも井戸に落ちて「助けてくれ」と叫んでいる敵兵を憐れんで助けた兵士が、その敵兵にいきなり殺されてしまった、という話もある。このように、戦争は情け無用であって、卑怯と言われようと何と言われようと、勝つことが最大の目的だとされている。多くのスポーツは、そういう考え方で行われているだろう。
しかし、たとえばフィギュアスケートの場合を考えてもらいたい。ある時、トップ争いをしていた女子選手がジャンプの失敗で転倒した。次に荒川静香が完璧な演技を披露して優勝した。彼女が前の選手の演技の時に「転んでくれますように」と思っていたり、転倒の瞬間に「やった、これで私のもの」と喜んでいたとすると、その後完璧な演技ができただろうか。そういうマイナスの演技イメージを思い浮かべたのでは、自分の演技にも乱れが出たことだろう。やはり「相手は完璧だった」と仮定して、全力を尽くしたのだと思う。
芸術で「競争する」というのは、フィギュアスケート・タイプの競争である。モーツァルトは自分が完璧な作品を書けると確信していた。他人のまずい作品を嘲笑したが、それによって勝とうとしたわけではない。他の選手の転倒という事実を許せなかったのだ。相手も完璧な演技をしてもらいたい、それでこそ競技全体のレベルが高くなる。
モーツァルトは、今日で言うADHDだったと思われる。ヒルデスハイマーの皮肉に満ちた評伝で、モーツァルトの落ち着きのない性格について、ある人が「いつもピアノに向かったときのように落ち着いていてくれればいいのに」とぼやいたという話が出てくる。音楽についてだけ、驚くべき集中力を発揮したということである。
しかしまた、彼はバッハと並ぶ完璧な耳を持っていた。よくモーツァルトの天才を証明する逸話として、システィナ礼拝堂で歌われていた門外不出の秘曲、アレグリの『ミゼレーレ』を一度聴いただけで、その夜、宿で完全な楽譜に書いたという話が取り上げられる。だが絶対音感を持つ人は、聴いた音に対する記憶力が優れているのが普通らしい。『ミゼレーレ』は、主要声部がいささか単調な繰り返しであり、高音部に即興的なメロディを付け加えて演奏された。モーツァルトには容易に聞き取れただろうし、繰り返しも多いので、記憶することも簡単だったのだろう。
<モーツァルトの耳>
モーツァルトの耳には軽微な奇形があった。耳殻に襞が全くなく、皿のように平板だったのだ。このページにはWikipediaからもらった肖像を掲げたが、それは生前の画像であると伝えられること、耳を髪で覆ってその現在では「モーツァルト耳」と呼ばれる奇形を隠していることに、信憑性を感じたからである。
この『ミゼレーレ』は、タリス・スコラーズの非常に美しい演奏のCDが出ている。2005年の再録音盤は、まだ日本語解説付きで手に入るだろう。ト短調で始まり、ハ短調の装飾旋律がからむ。ここで聴くノン・ビブラートのハイCは、実に美しい。装飾音型を変えた二種類の演奏が入っていて興味深いし、解説も大いに参考になる。
モーツァルトの天才性は、そうした『曲技団的』能力にあるのではない。そういう能力では、グラズノフの方が優っている。彼は、一度聴いた曲なら、どんな駄作でも憶えていたそうだ。だがその中で、人類史上最高の作品を書いたかというと、そうでもない。私には、むしろ絶対音感がなかったといわれるチャイコフスキーの方が、はるかに面白いと感じる。
ロビンズ・ランドンの「モーツァルト」に次のような話が紹介されている。まだモーツァルトがさほど有名でなかった頃、ある人がアマチュアの弦楽四重奏団を作っていたが、知人からモーツァルトの楽譜を見せられ、「一度これを演奏して見給え」と言われた。しかし、彼らの技量では難しくて弾けなかった。そこで、知り合いの老作曲家にその楽譜を見せに行った。どの程度の作品か、判断してもらおうというわけである。老作曲家は、ぱらぱらとページをめくって、「かなり熟達した作曲家だな、40歳代だろう」と言った(実は20歳代の作品)。それから譜面を読み始めた。ところがそのまま黙ってしまったので、「先生、どうなんですか?」と尋ねたところ、老先生は顔を上げたが、その目はうっとりと夢見るような眼差しだった。「なんてすばらしい音楽なんだ!」と老大家は叫んだ。
天才とは、ナニカの技術において人より優れているだけのものではない。楽譜を読むだけで頭の中に音として響くとか、逆に音を聴いただけで楽譜になるという人は多いのである。ベートーヴェンも、聴覚を失ってからでも作曲していたし、シューベルトの歌曲の楽譜を読んで感心したという。
要するに、モーツァルトの天才性とは「なんてすばらしい音楽なんだ!」という一言に尽きる。彼はこの世で最美の音楽を書いた。ある時、イタリアの大作曲家が死んだ。人から「後継者は誰がいいでしょう?」と尋ねられたパイジェルロは、言下に「それはモーツァルトだ」と答えたそうである。「彼の音楽には少し難しいところがあるが、非常に優れている」(ランドン「モーツァルト」より)。
モーツァルトが難しいと思う人は、今日では一人もいないだろう。だが実際、当時の人には難しく聞こえた。テンポが速く、次から次へと新しい楽想が湧いて出るので(多動性)、当時はすべてを味わい尽くすことができなかったらしい。
<モーツァルトのテンポ>
ヒルデスハイマーの著書に、次のようなエピソードが出ている。ある裕福な市民(ブルジョア)が、娘を連れて評判の歌劇「フィガロの結婚」を見に行った。ところが、第一幕が終わっても、一つもアリアが出て来ない。「どういうことだろうね」と娘に言うと、彼女は「何を言ってるの、お父さん、もういくつもきれいなアリアが出て来たじゃないの!」と返事した。父親は、どれもレシタティーヴォだと思い込んでいたのである。なぜか。テンポが速過ぎたのだ。当時の音楽愛好家の心に染みついていたのは、グルックのオペラであった。そのテンポは、現代では当時よりやや速く演奏されているが、実はかなり遅く、変化も少ない。要するにメロディは聴き取りやすい。
話し相手より少し遅いテンポで話せば、相手をリラックスさせ、説得力が増すという実験結果があるそうだ。最近は、私には聞き取れないほど早口にしゃべる人がいて、就職面接で「頭の回転が速い、雄弁だ」と思わせることがあるらしい。ところが、そういう人に営業を担当させたらさっぱりだったということが多い。顧客から見ると、相手の思惑に関係なく、言いたいことをぺらぺらとしゃべりまくっただけで、営業になっていない。組織のリーダーや営業マンは、しゃべる能力より聴く能力の方が重要なものらしい。
アメリカン・ジョークの一つに、こういう話がある。鉄鋼王カーネギーのところに、一人の客が尋ねてきた。秘書が部屋の外で聴いていると、その客はのべつ幕なしに何かをしゃべり続けている。カーネギーは時折「ふむふむ」、「ほう」と相槌を打つだけである。やがて用件が終わって部屋から出て来た客は、感嘆して叫んだ。「なんて話し上手な人なんだ!」
よく「話し上手は聞き上手」と言うが、上記のエピソードは、本当にあった話かも知れない。「王者」たるものは、聞き上手でなければならないのである。たとえば戦国を制した徳川家康は、家臣の意見をよく聞いたそうだ。時には疑問があっても家臣の言う通りに動く。結局彼が覇者になった一番の理由が、そこにあると言う人もある。
モーツァルトの音楽は、当時の人々にとっては早口で一方的にしゃべりまくる営業マンのようだっただろう。だが、すでに次の世代(娘の世代)は、モーツァルトのテンポを聞き取ることができるようになっていた。モーツァルトが死んでから、ウィーンは空前のモーツァルト・ブームに沸いたが、それは偶然ではないのだ。
音楽のテンポは、ある程度社会性を帯びている。江戸時代の日本は、すべてのテンポが緩やかだった。オランダ人が江戸の町を歩いていたら、向こうから誰かが歩いて来る。「いずれは道を譲り合うことになる」と思いながら歩いて行くと、薄ら笑いを浮かべながら、どこまでもまっすぐ進んでくる。ぶつかる寸前になって「あぶない」と、とっさに身をかわしたが、見ていると日本人は何事もなかったかのように、なおもそのまままっすぐ歩いて行く。
実際、町人同士がぶつかり合うまでまっすぐ歩き、ぶつかった後に初めて「これはどうも失礼しました」と互いにペコペコお辞儀する場面がよく見られたという。かといって歩くのが速いわけではない。むしろオランダ人が世界のどこで見たよりも遅い。そのため、彼らは「日本人はおそろしく動作の鈍い人種である」と報告した。だが逆に日本人は、オランダ人の素早い動きが信じられなかったそうだ。普通ならぶつかり合うところなのに、突然目の前から消えてしまったのである。「オランダ人はおそろしく素早いぞ」「バテレンの妖術か?」というのが当時の印象だったらしい。
昭和30年代の日本は、新しい建築が相次ぎ、都市の景観はめまぐるしく変化した。日本人は忙しく動くようになった。後年、日本人(特に大阪人)は、世界一速く歩いているという測定結果が出た。だからぶつかることが多くなったわけではない。通行量が多く、しかも非常に速く歩いているなら、ぶつかり合いは江戸時代より多くても不思議はないのだが、事実は逆だった。みんながすばしこく、ちょこまか動いているのであって、おそらく江戸時代人から見ると、全員忍者のように見えるだろう。
江戸時代は変化の少ない社会だった。あまり歴史を知ることのない庶民は、宇宙が始まって以来、江戸は徳川が治めていたと思いこんでいることも少なくなかった。「変化が激しい」「人口密度が高い」というのは、動作を敏捷にさせる要因なのである。絶えず周囲の状況に注意を払い、危険には機敏に反応する必要があるからだ。
その意味で、モーツァルトのテンポを見直すのも悪くない。現在はせかせかした演奏が多いが、本当に昔はそうだったろうか。ある時テレビを見ていると、戦後復興期に登場した美空ひばりの「りんご追分(52年)」が出て来たのだが、桂三枝がそのオリジナル録音に付いて歌おうとすると、あまりにも遅いテンポなので、全く間が持たない。私もこの歌は記憶にあり、美空ひばりの声で流れてくると。「ああ、この歌はこうこうで、次の音符はこう」と、すぐ分かるのだが、それは桂三枝の憶えているテンポと同じだった。2割ないし3割も速いタイミングだ。
52年(昭和27年)と言えば、朝鮮戦争の特需でやっと一息ついた日本が独立を果たした年だ。敗戦後の日本は、アメリカ領土になっていた。その間、日本という国家は、名目上、世界地図から消滅していたことになる。もちろん49年には国旗(日の丸)の掲揚が許されるなど、徐々に国家としての体面が回復しつつあったらしいが、戦争の傷跡は随所に見られた。たとえば私の生まれた家の近くには、空襲で破壊された大阪砲兵工廠の焼け跡が57年頃まで存在していた。
記憶の中のテンポと、実際のテンポの違い。それは社会状況の違いである。昭和27年はまだほとんどの日本人がやせ細っていて、物産も貧しく、夏にはラジオの高校野球中継でも聴きながら昼寝をし、夕涼みに屋外の縁台に腰をかけることができれば最高だった時代だ。すだれが風にそよぎ、風鈴がチリンと鳴って、時には「さおーだけー」という声が聞こえてくる。当時はみんなが貧しかったというのは大げさだが、敢えて言えばみんながホームレスだった。欲を持つと言っても、せいぜい毎日白米のご飯を食べたい、という程度のことだった。ちなみに、私は白米1:麦2のご飯を食べて育った。冷えると臭いニオイがあるが、それに醤油をかけ、お湯で薄めて食べた。おかずなど何もない時代である。味噌汁をかけて食べることができれば、贅沢な方であった。卵かけご飯など、夢のようなごちそうだったが、それさえも冷えた麦ご飯の臭いニオイを覆い隠すものではなかった。
<モーツァルト晩年の困窮>
モーツァルトは、死んだときほとんど破産状態だった。未亡人(コンスタンツェ)が皇帝に謁見すると、皇帝は破産報道を知っていて、彼女に厳しい目を向けた。当時は、破産というのは犯罪のようなものだったからだ。その時、コンスタンツェは夫の遺作演奏会、楽譜出版など、2,3の試みを提示して、破産を免れることが可能だと弁術した。事実、彼女はすべての負債を完済したばかりか、亡夫の遺した作品で大もうけしたという。
だが晩年の収入が少なかったわけではないらしい。それどころか、当時としては相当な高収入だったようだ。彼はハイドンやサリエリのような高い地位にはなれなかったが、一応宮廷作曲家の称号を得て、給与ももらっていたし、ピアノ教師と楽譜出版、オペラでの収入もあった。夫婦共に浪費癖があったことが、困窮の理由かも知れないが、それだけでは説明できない。人気にかげりが見えた死の年だけでも、現在の日本円にして5000万円以上の収入があったのである。
浪費癖は、「神童」時代に王侯貴族の生活を垣間見たこと、ザルツブルグに戻ってからは召使い同然に扱われて、憤懣のあまり大司教の下を飛び出したことを考え合わせれば、つまりは貴族のように暮らしたかったということだ。ある意味では父親にも責任があったと言える。
またある人によると、フリーメーソンの支部を作ろうとしていたのではないかという。そのための費用が必要だったというのである。
そういう可能性もあるだろうが、秘密結社だというので、フリーメーソンの影響を過度に考えるのも正しくないそうだ。当時の知識階級には、フリーメーソンの会員だった人物が多い。ハイドン、サリエリもフリーメーソンの会員だったと言われ、皇帝ヨーゼフ2世も寛容であり、実際はかなりオープンなものだったらしいのである。
結局、モーツァルト晩年の経済的困窮の理由は分からない。ただ死の年には、収入が全盛期の半分ぐらいに減ってしまっており、実際以上に困窮した感じがあっただろう。現代でも莫大な収入のあった人気アーティストが、人気にかげりが見えて収入が減ると詐欺を働いたり、かつては高額の年棒をもらっていたプロ野球選手が、退団後に落ちぶれて強盗になった例がある。「あの金はどこに消えたの?」と聞いても、本人にも分からない。
<モーツァルトが愛した女性>
モーツァルトが生涯愛したのはコンスタンツェの姉、アロイージアであった。美人だというだけでなく、音楽的才能がすばらしかったらしい。彼が結局コンスタンツェと結婚したのも、そうすればアロイージアの側にいられると思ったからだろう。だが、コンスタンツェを愛していなかったとは思えない。
しかし彼がADHDだったとすると、コンスタンツェにとってもかなり扱いにくい夫だった可能性がある。
彼が死んだとき、コンスタンツェにしてみれば、「バカな男と結婚して、まだ芽が出ないうちに死なれてしまった」と、嘆かわしいことおびただしい。ところが、ある弔問客が「あなたの夫は天才だった」と言ったので、「あのバカが天才?」と、彼女は心底驚いたという。それまで、夫の作品などただのクズだと思っていたのだ。しかしその後、散逸していた夫の作品をかき集めて演奏や出版を行い、事業家としての能力を発揮している。
コンスタンツェは、しかし、やはりモーツァルトを愛していたのだろう。彼らの結婚生活はひどいものだったが、それなりに楽しい一面もあった。われわれは現在、モーツァルトのほぼすべての作品を耳にすることができる。それはコンスタンツェが、散逸していた楽譜を精力的に集めたことが大きく寄与している。それは、作品によほどの愛情を注いでいなければできないことだ。
彼女自身はヘンデルなどの古い音楽を好み、夫が在世中は、全く彼の音楽を理解しなかった。しかしニッセンと再婚して共同で伝記を執筆したりするうち、やはり音楽への理解や、前夫への愛が甦る瞬間はあったに違いないと思う。「私より姉を愛していた」と思い知ることもあっただろうが、姉に劣らず彼女自身を愛していたことも分かったと思う。
<モーツァルトの死>
あまりにも急な死だったので、モーツァルトの死は、音楽史上のミステリーとされることが多い。死後に訪れたモーツァルト・ブームの中で、サリエリが突然「私がモーツァルトを殺した」と叫んで自殺を図ったという史実もある(映画『アマデウス』の冒頭場面である)。オーストリア官憲が彼を精神病院に閉じ込めたので、真相は分からなくなってしまったが、モーツァルト自身も「誰かに毒を盛られた」と思い込んでいたらしい。
「サリエリがモーツァルトに一服盛った」という噂は、モーツァルトが死んだ直後からあった。サリエリ自身は、モーツァルトが死んだと聞くと「死んだって?それは助かった。あんな天才にいつまでも生きていられたんじゃ、われわれ凡才は仕事を失ってしまうからね」と語ったそうだ。後にサリエリが「私が殺した」と言って自殺しかけたとき、ベートーヴェンは「やっぱりあいつか。初めからそうだと思っていたよ」と言った。実はベートーヴェンもシューベルトもサリエリに学び、そのタチの悪い妨害や陰謀に悩まされた経験があるそうである。
ただし、サリエリが築いていた宮廷作曲家という地位は、有力な競争相手が出現したら突然失ってしまうような不安定なものではなかったらしい。たとえ解任されても、年金を受け取ることができたのではないだろうか。モーツァルトも晩年には宮廷作曲家に任命されたが、特に妨害は受けていないようだ。サリエリが地位を守るためにモーツァルトを殺すという可能性は小さい。
単純な病死だったという説がある。モーツァルトは幼い頃から病弱で、その病歴からリューマチ熱だったのではないかというのである。モーツァルトの遺骨が出れば検証できるかも知れないが、現在のところ、モーツァルトの墓は見つかっていない。当時の医師の診断は「粟粒熱(ぞくりゅうねつ)」という訳の分からない病名で、現代の医学では「そのような病気は存在しない」とされる。
食中毒説もある。ディスカバリー・チャンネルで紹介された、豚肉の寄生虫による中毒で、1860年頃、彼とよく似た症状で死んだ農家の娘は、遺体の検証で、食中毒だったことが確認されたそうだ。
一番有力なのが毒殺説で、当時は毒と言えばヒ素と決まっていた。モーツァルト最後の病状は、ヒ素中毒によく似ているという。トファナ水というのはヒ素の溶液で、濃度を注意深く調整すれば、飲ませてから何日後に死ぬかを正確に決定できるという話まであった。ただこれは、人によって致死量が違うことも分かっているので、かなり誇張されたおとぎ話である。
『元素の百科事典』に出ているエムズレー博士の説は、アンチモン中毒である。モーツァルトの頃はアンチモンが発見されて間もない時代で、あまり正体がよく分からないまま、胃腸薬などとして処方されていたそうだ。だがアンチモンは毒性があり、飲み過ぎるとヒ素中毒に似通った症状が出る(周期表でもヒ素と同族である)。モーツァルトにもアンチモン製剤が処方されていたので、誤って飲み過ぎたのではないかという。なお現在では、医薬として用いられることはない。
<モーツァルトの姉>
もう一つ、モーツァルトの生涯で特徴的なのは、姉ナンネルとの関係である。それはメンデルスゾーンの姉ファニーとの関係にも似ている。この姉たちは、弟たちの先生でもあった。たとえばモーツァルトは当時ヨーロッパ一のピアノの名手と言われたが、クレメンティとの競争演奏では、客観的に見ると引き分けだった。そのクレメンティを、モーツァルトは「達者な腕前だが機械的で情感に欠ける」として否定している。また、何人かいた弟子について、「それにしても女の子の方が音楽的に弾くのはどうしたことでしょう」と言っている。彼の感想では、女性のピアノの方が情感があり、音楽的なのだった。男が弾くと、無機的になりがちだ。それは音楽ではない。
この話は、彼の幼児期のピアノの先生が、実はナンネルだったということを明かしているのだろう。ナンネルの作品は残っていないが、作曲を行っていたことは分かっている。だがヴォルフガングが「お姉ちゃん」の真似をして作曲し始めると、父レオポルトは、もうそれ以上姉には教えず、弟を神童として売り出すことに熱中した。
ナンネルも神童だったらしいことは、当時の人たちの記録に残っている。あるとき、宿に足止めを食らった客の中に、まだ幼かったモーツァルト姉弟がいた。彼らは退屈しのぎに連弾だったか二重奏だったかを披露したそうだ。「この二人の神童のピアノは、われわれを大いに愉しませた」という。
父親レオポルトが、弟の方を特に熱心に育てたのは、当時の男女差別的な社会情勢が原因であっただろう。女性はピアノの名手であっても、それは身持ちのいいお嬢様の趣味の芸事を時たま披露するだけであって、職業的音楽家の道などはどこにもなかった。貴族の奥様になる、といった目標の方が、はるかに重視された。ましてや作曲家などとんでもない。
実際のナンネルの才能は、現在知られているよりはるかに優れていたと思われる。彼女はしばしば弟の協奏曲のソロを努めた。彼女のピアノこそモーツァルトの音楽の原点にあったのではないだろうか。
それはさておき、私の好きな作品について述べたい。
『グラン・パルティータ』〜第3楽章「アダージョ」
モーツァルトには傑作が多いが、「グラン・パルティータ(大組曲)」は、その中でも最高の一つである。正式な名称は「13管楽器のためのセレナード」といい、木管のアンサンブル曲だ。セレナードとしては第10番(変ロ長調)とされる。
Mozart: Serenade In B Flat, K.361 "Gran partita" - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Bohm+Mozart%3A+Serenade+In+B+Flat%2C+K.361+%22Gran+partita%22+
モーツァルトの時代、まだ現在のように「交響曲が最高のジャンル」といった考え方はなかった。交響曲、セレナード、ディヴェルティメントの区別は「演奏機会」の区別なのだろう。内容で分けられているわけではない。もちろん演奏機会は内容に結びついている。たとえばベートーヴェンの七重奏曲などは同じ性格を持ち、やはりリラックスした気分の曲である。ここに「苦悩と闘争」のベートーヴェン像を見出すのは、深読みに過ぎる。こういった作品は、リラックスした気分を作り出すためのものであり、食事時のBGMとして演奏されたりしていたのだ。
本題の「グラン・パルティータ」について言うと、私は80年頃、エド・デ・ワールト指揮のオランダ管楽合奏団(?)のLPをオーディオ的な興味で買って聴いた。最初は「まあ、いい音はするがモーツァルトらしい能天気な曲だなあ」と思っただけだった。
グラン・パルティータの本当の良さが分かったのは、父の死の直後だった。長い間、寝たきりの父の存在は重荷だったし、愛情の薄い人だったので、「早く死んでくれればいい」とさえ思っていた。だが、死んだとき、重荷だろうと厄介だろうと、父と母と私しかいなかったその年月、良くも悪くも、父が家族の中心にいた。いささか子供っぽいが、「ボクたちは明日からどう生きていけばいいの」というのが、当時の心境だった。
それは暑い8月のことで、当時は父の家の屋根裏部屋に住んでいたのだが、夏には50度以上にもなり、30分もいれば半狂乱になるような部屋だった。そこに私のオーディオ・システムを置いていた。葬儀まではレコードを聴くこともなく、屋根裏部屋には立ち入らずにいたのである。だが葬儀の後、世間が「盆休み」に入り、親戚一同も去って、静かになった。母と仲が良かった伯母だけがしばらく家に留まっていたが、その日は二人でどこかに出かけ、私は一人で家にいた。
久しぶりに音楽を聴こうと屋根裏部屋にこもったが、哀しかった。なぜもっと父に優しくできなかったのだろう。父がまた歩けるようになり、一緒に笑うことができるようになる。それが父と私の共通の夢だったではないか。なのに何もできないまま死なせてしまう。後追い自殺したいほど、非常な罪悪感があった。自殺の動機の中には、肉親が死んで、遺族が後追い自殺したケースが多いそうだ。当時の私もそういう状態だったのだ。
だが私は、音楽を聴けば多少は慰めになるかも知れないと思った。
最初にかけたレコードは、ハイティンク指揮のブラームス『ドイツ・レクィエム』である。名曲・名演で、録音もいいのだが、その時の私には、むしろブラームスの傲慢さが耳障りだった。「どうせお前らの悲しみというのは、この程度だろう」と下品に口を歪めて笑っているようだった。要するに嫌みな訳知り顔をした、人生などてんで分かってないオッサンがでっち上げた曲なのだ。
レコードを代えて、ベーム指揮のベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」にした。ブラームスほど嫌な感じはないが、「お前らの個人的な悲しみは関係ないよ」というような音楽だった。
次はリヒターの「マタイ受難曲」。史上最高の名曲と思う「憐れみたまえ、わが神」のくだりを聴いたが、やはりどこか客観的な音楽だった。ベートーヴェンほど突き放した感じではなく、戸口に立っている友人のようである。「分かる。分かるよ。大丈夫か。しっかりしたまえ」と言っているようだが、それ以上気持ちの側にやってくることはない。
他にもいくつか聴いたと思うが、あまり記憶にない。とにかく最後に聴いたのは、『グラン・パルティータ』である。なぜそんなものを取り出して聴いたのかも分からないが、私にとっては最高の救いの音楽だった。年若い友人が耳元で一生懸命慰めてくれているような、「世界は美しいし、人生はもっともっと生きる価値があるんだよ」と話してくれているような音楽なのだ。
よく晴れた日で、陽がやや夕暮れの色彩を帯び、青空の下に黄金の光が満ちた。隣家の壁や屋根が、すべて美しい光に照らされた。第3楽章のアダージョに差し掛かったときのことだ。いつもは貧しく汚らしく感じていた風景なのだが、柔らかい木管の響きの中で、突然この上なく美しい風景に変容した。それはまるで魔法の眼鏡を通して見ているようだった。
モーツァルトは魔法の眼鏡である。その眼鏡をかければ、この世のことはすべてが美しく見える。
その日から、モーツァルトの大ファンになった。実を言うと、その時までモーツァルトと言えば、交響曲第40番やピアノ協奏曲第20番といった短調作品以外は、退屈な曲が多いと思っていた。一部の曲はいろいろな機会に耳にタコができるほど聴いていたし、知らない曲でも、どれも同じようなワンパターンの節回しで、聞き慣れた響きがする。だから「ああ、またあのパターンか」と最初から飽きてしまい、しっかり聴くことがほとんどなかった。
しかしそれ以後、彼の作品を注意して聴くようになった。楽器の音色を活かした音響の美しさ、ありきたりなようだが情感あふれるメロディ。「フルートとハープのための協奏曲」などは、依頼があったので、やむを得ずこの取り合わせで作曲した(彼はフルートが好きではなかった)のだが、後の作曲家にはもうこの他の組み合わせを考えられなくなったほどの調和がある。もっとも、ドビュッシー晩年の美しい「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ」やラヴェルの「序奏とアレグロ」では、それぞれヴィオラ、クラリネットを加えることで、新たな音響美を模索している。
なお「十三管楽器」という編成をユニークだと思う人は多いだろうが、当時は木管アンサンブルが流行していたので、そんなに珍しいわけではないようだ。セレナード第11番変ホ長調、同第12番ハ短調も管楽アンサンブルである。ちなみに、木管をウィンド(Wind=風?)と呼び、金管はブラス(Brass=真鍮)と呼ぶ。他にリード楽器(Reed=舌、簧)という分類もある。
CDでは、ベーム指揮ベルリン・フィル管楽アンサンブルの演奏が一番納得できる。やや古い録音なので、音響面では最上とは言い難い。少し艶が不足しているようである。だが、第3楽章はやはり美しい。私の耳には、北に大きな窓がある部屋で、その窓から見える緑が室内に照り映えている中で演奏しているように聞こえる。
小学館版のモーツァルト全集に採られたマリナー=アカデミーの演奏はディジタル録音でもあり、音質は万全である。第1楽章の開始部分は、ばら色の光が差すような美しい音である。第3楽章はトリラーがやや耳障りに聞こえるのが残念だ。他の楽章は優れたアンサンブルが展開されている。
コレギウム・アウレウムの2回目の録音(ディジタル)は、音も表情も美しく、楽しめる。全体に青白い音が立ち並ぶ。アンサンブルに清潔感があり、他の演奏に比べるとこぢんまりして、いかにも室内楽風である。この曲の交響楽的壮麗さを愛する人には、物足りないかも知れない。
『ピアノ協奏曲第9番変ホ長調「ジュノーム」』
Mitsuko Uchida - W.A. Mozart Piano Concerto No.9 in E flat Major K. 271 "Jeunehomme"
モーツァルトが21才で書いた大傑作で、当時ウィーンに滞在したジュノームという未婚の女性ピアニストのために書いたと伝えられる。第1楽章の開始はあまりスケール感がなく、むしろ「可愛い」と言いたいようなシンプルな始まりだが、音楽が進行するにつれて実は壮大な曲であることが分かってくる。第2楽章はハ短調の透明な悲しみに満ちた音楽。ロマンティックな味わいと、バラード風の展開が魅力である。第3楽章もユニークだ。ロンドなのだが、中間部で大きくテンポを落とし、突然別の楽章が始まったかのような変化を見せる。
なおジュノームというピアニストは記録に残っていないので、どんな女性だったかはよく分かっていない。最近の研究では、モーツァルトの知人の娘でジュナミという女性が(既婚婦人?)がその正体だと言われる。だが「ジュノーム」というニックネームがいかにも若きモーツァルトの憧れを表したロマンティックな響きを持っているので、今後もそう呼ばれ続けるだろう。
この曲を初めて知ったのは、ルドルフ・ゼルキンのピアノ、アバド=ロンドン響のCDである。第2楽章で、ゼルキンは心の打ち震えるようなみずみずしい表情を聴かせていて、すばらしい演奏だ。オーケストラも透明感と色彩感があり、万全と言える。
シフのピアノ、ヴェーグ指揮ザルツブルグ・モーツァルテウム。ゼルキン盤よりさっそうとした切れ味の良さがあり、なかなかの名演である。ただ私の耳には、音が全体に青みがかって単色に近いように聞こえる。
内田のピアノ、テイト=イギリス室内管のオケ。2006年に発売されたポリドール版『モーツァルト全集』の中の1枚で、内田光子のピアノには濃やかな表情があり、オケの響きも悪くない。日本では、実力の割に内田の人気が低いような気がするのは、私だけだろうか。
ピリス/グシュルバウアー盤は、録音のせいか、オケが少し透明感を欠く。ハスキル盤もモノラルなので、ここでは番外とする。
なお、ゼルキン盤など、多くのCDでなぜか『ピアノ協奏曲第17番』ト長調と組み合わされていることが多い。これもしっとりした味わいのある傑作で、モーツァルト自身、大いに気に入っていたそうだ。未聴の人にはお奨めする。
『交響曲第36番ハ長調「リンツ」』
私の偏愛する曲だが、実は第1楽章の短い序奏が気に入っていて、その遅いテンポに引きずられたかのように、主部も遅く演奏されるのが面白いのである。雨は止んだが、まだすっかり晴れ上がったわけでなく、道端の木々には薄暗い蔭が残っている。しかし、息を潜めていた虫たちがやっと鳴き始めた、という雨上がりの気分である。もし序奏がなく、いきなり主部が始まっていたとすれば、現代の演奏家なら、もっと速く演奏するだろう。
このことが、モーツァルト演奏の正しいテンポを疑わせるのである。この主部は、現代の常識的なテンポから見れば、半分近くも遅く演奏されているのが普通なのだ。だからといってモーツァルトの味がしないわけではなく、むしろかえって面白い。彼の在世当時は、こういうテンポだったのかなと思わせるのである。
CDでは、ベーム指揮ベルリン・フィルが一番いい。いかにも壮大な曲のように響き、序奏部分も単なる序奏に終わっていない。
レヴァイン=ウィーン・フィル盤やバーンスタイン=ウィーン・フィル盤も、序奏は単に主部を導入する経過句のように演奏していて、やや不満である。
昔コンサートホール・ソサエティで出ていたシューリヒトのLPは、すばらしかったように記憶する(現在手元にはない)が、CDへの復刻は、発売が予告されながら実現しなかった。
『フィガロの結婚』
モーツァルトの典型ともいうべき美しいメロディが続々と現れる、すばらしいオペラである。私はバッハの『マタイ』とこの『フィガロ』を西洋音楽が到達した二大高峰と思う。もちろん彼はこの後にも『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』といった名作を書き、人によっては『フィガロ』より上だと言う。たとえばキエルケゴールは、『ドン・ジョヴァンニ』こそ最高傑作だと思っていた。なるほど音楽は美しいが、私には、『フィガロ』ほどの緊密なドラマにならず、少し弛緩が見られるような気がする。モーツァルトは、やや落ち目に差し掛かっていたのではなかろうか。上り調子だった時期の『イドメネオ』、『後宮からの誘拐』などの張り詰めた清冽感に比べて、少し物足りないものを感じるのである。
『フィガロ』を頂点と考えるなら、彼が落ち目になったのは、やはりこの作品が思うほどの成功を収めなかったことにあるだろう。初演は大成功で、「アンコール、アンコール」が続き、上演は深夜に及んだ。あまり極端なので、政府は過度のアンコールを禁止する政令まで出したという。ところが、それほどの大成功なのに、劇場では早々と演目からおろしてしまった。当時は、まだモーツァルトは前座扱いで、興業主はソレールというスペインの作曲家のオペラで大もうけを企んでいた。そのため、「駆け出し作曲家」、モーツァルトのスペインを舞台とした『フィガロ』がアペリティフとして用いられたというのである。事実ソレールのオペラ『椿事(珍事)』は、『フィガロ』以上の大当たりだったそうだ。
当時はフランス革命騒ぎの最中であり、ヨーロッパではいわゆる「革命の輸出」に神経を尖らせていた。ところが台本の原作となったボーマルシェの戯曲は革命思想に親近感のあるものだったので、ウィーンでは上演が禁止されていた。こうした事情があるので、政治的な理由から葬り去られたという説もある。
今となっては真相は分からないが、その頃からモーツァルトの予約演奏会のチケットが売れなくなり、かつて彼をもてはやした知人たちが、何となく距離を置くようになったのは事実らしい。彼の収入は少ないものではなかった(事実は相当な高収入だった)が、しきりに困窮を訴えるようになったのもこの頃からだ。
それはそうと、私が一番いいと思うのは、やはりベーム指揮、プライ他のDVD(ポネル演出のオペラ映画)である。F=ディースカウ演ずる伯爵が、夫人の部屋にやって来る。ちょうどケルビーノを匿おうとしていたところなので、夫人とスザンナは大慌て。この場面が手に汗握る緊迫感で描かれる。このDVDでは、伯爵夫人をキリ・テ・カナワが演じているが、同じベームのCDでは、伯爵夫人をヤノヴィッツが歌っており、彼女の透き通るような美声を好む人には、CDの方がいいかも知れない。あの美しい『手紙の二重唱』では、ヤノヴィッツの声がうっとりするようなハーモニーを形作る。
世界文化社から出ている「オペラ名作鑑賞」の第四巻にはバレンボイム=ベルリン国立歌劇場の上演と、コンピエーニュ帝国劇場の上演が収められ、かなり興味深い。コンピエーニュ版は歌劇のエロス的な側面を強調したというが、ケルビーノはテノールが演じており、普通の演出の性倒錯的な魅力はかなり減じている。第四幕の女たちの演技は、なるほどやや官能性を表に出しているが、驚くほどでもない。ここでスザンナは不倫の予感に身を震わせ、イケナイ感覚に酔っているように見える。台本にはそういう要素が内在しており、変わった演出というには当たらない。
バレンボイムは、日本ではジャクリーヌ・デュ・プレとの不幸ないきさつがあってあまり人気が出ないが、実力はやはり大したものである。欲を言うと、このDVDではケルビーノの『恋とはどんなものかしら』が、大人の女性が歌っているように聞こえてしまう。
メータ指揮=フィレンツェ歌劇場の公演。伯爵夫人のグヴァザーヴァがとても美人で愛らしく、魅力的だ。『恋とはどんなものかしら』は少年っぽくストレートに歌われている。スザンナは実力の高い歌手らしく、悪くはないが、いささか魔女風の顔立ちであり、色気では伯爵夫人に負けている。
このように見ると、歌手という存在は生まれついての容貌や体つき、声質に多くを負っているのであって、努力だけではどうにもならない部分があると思う。バレエやフィギュアスケートもそうだろう。浅田真央のビールマン・スピンは世界一美しいと思うが、もっと短足に生まれついた人が同じことをやっても、感銘を与えることは難しい。かなり難易度の高い(つまり難しい)技らしいが、彼女はあまりにも楽々とやってのけるので、素人目には普通の技のように見える。結局、ああきれいだなと思うのは、彼女の肉体を賞賛しているのだ。
そう言えば、私は映画が好きだが、特定の俳優のファンではなく、どちらかと言えば映画を監督で選ぶ方である。一番好きな映画監督はフェデリコ・フェリーニであり、中でも『魂のジュリエッタ』は最高に美しい映画だと思っている。私小説的な『8・1/2』や『アマルコルド』はイマイチである。もちろん他にもいる。詩的イメージに満ちたウッディ・アレンは、映画というジャンルに限定されない天才だと思う。少々古いが、巧妙な映画造りのヒチコック、ゲーム的映画というべき一つの典型を作り上げた黒澤明、フェリーニの衣鉢を継いだような寺山修司(ただし「田園に死す」以外はそれほどでもない)、一時期熱心に見ていたタルコフスキーなど数多い。
しかし、絶対的に好きな俳優もいる。それはオードリー・ヘプバーンで、「マイ・フェア・レディ」や「シャレード」など、物語そっちのけで彼女の映像に見入ってしまう。ちょっと見ただけでは大して美人にも見えないし、特別私好みのタイプとも思わないのだが、なぜあれほど魅力を感じるのか、自分でも分からない。彼女が出演した映画なら、すべて見たいと思うのは、「着せ替え人形」のイメージだろう。いろいろな衣装を着せて、そのあらゆる美質を味わいたい。それは好きな曲をいろいろな演奏で聴いてみたいのに少し似ている。いわば彼女自身が芸術品で、彼女を見ることが喜びだというわけだ。彼女自身は容姿に劣等感を持っていたそうだが、「ローマの休日」を見たマリア・カラスは彼女のようになろうと、猛烈な減量をした。その結果、歌手生命を縮めることになったようだが、少なくとも当時のカラスは美人だった。
話は逸れるが、カラスはもちろん天才的なプリマ・ドンナで、オペラの歴史を変えたと言われるほどのすばらしい歌手である。そのカラスのエピソードには、興味深い話がいくつもある。
カラスがまだある教室でレッスンを受けていた頃、普通の生徒は、自分のレッスンが済むとさっさと帰ってしまうのに、カラスはいつまでも残っていて、全然関係ないはずのバス歌手のレッスンなどを興味津々で聴いていたというのである。後年、彼女が配役に加わるとなぜかアンサンブルが引き締まり、「みんなが上手になった」という。彼女が何か指示したわけではない。他の配役の分まで知っていて、みんなが上手に歌えるような演技、そういう刺激を与える演技をしたということである。
また彼女が端役しかもらえなっかた駆け出しの頃、フィデリオ役を歌うことになっていたある歌手が、急な病気で出られなくなった。「誰か代役のできる者はいるか?」と聞くと、カラスが手を挙げた。「フィデリオなら以前からスコアを研究していたし、デビューするなら最高の役で、と決めていたの」というのだ。この志の高さと研究心は、やはり最高の芸術家にのみ見出されるものであろう。
もちろん歌手には恵まれた天分が必要なわけだが、それだけでは間に合わないものがある。「志が高い」と言うと「野心的だ」と思う人もいるだろうが、それは違うと思うのである。目の前に願ってもない大役のチャンスがあるのに、首をすくめてやり過ごすのでは、プリマ・ドンナになれるはずがないし、「彼女がメンバーに加わると、全体のレベルが上がった」というのは、音楽全体を見通す力があったからだ。
われわれの日常の仕事でもそういう面がある。向上心を出世欲と見なして嫌う人はいるが、少しでも会社を伸ばそうと思うなら、同僚に遠慮して力を発揮しないのは、間違っている。私はいつももう一歩上をと考えてきた。同僚には上昇志向に見えただろうが、私には反対に、同僚が適当なところで手を打って、力を出し尽くさないのがもどかしく思えた。出世などは関係ない。全体のレベルが上がれば、自然に自分の収入も増えるはずだと思っていたからである。現に会社は成長した。私の功績だけとは言わないが、少しずつ周囲の人たちの考え方もそういう方向に変わってきたと思う。
とにかく、モーツァルトにはそうした意味での「天才」もあった。時には突飛な言動に見えても、音楽に関する限り、彼は正しかっただろうと思うのである。
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP017.html
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