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(回答先: プッチーニ オペラ 『ラ・ボエーム』 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 18 日 07:40:11)
ジャコモ・プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』
カラヤン指揮 『プッチーニ 蝶々夫人』
『蝶々夫人』(オペラ映画) ポネル演出
カラヤン&ウィーン・フィル、フレーニ、ドミンゴ
蝶々さん(蝶々夫人)/ミレッラ・フレーニ(ソプラノ)
ピンカートン(アメリカ合衆国海軍士官)/プラシド・ドミンゴ(テノール)
スズキ(蝶々さんの召使)/クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
シャープレス(長崎のアメリカ合衆国領事)/ロバート・カーンズ(バリトン)
ゴロー(結婚周旋人)/ミシェル・セネシャル(テノール)
僧侶(蝶々さんの叔父)/マリウス・リンツラー(バリトン)
ケイト・ピンカートン/エルケ・シャリー(メッゾ・ソプラノ)
ヤマドリ/ジョルジョ・ステンドロ(バリトン)
ウィーン国立歌劇場合唱団(合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)
制作時期:1974年1月,9月ウィーン(音声)、1974年11月,12月ベルリン(映像)
演出:ジャン=ピエール・ポネル
装置:オットー・ピッシンガー
映像監督:ヴォルフガング・トレウ
このオペラ映画は、1974年1月にカラヤンがデッカにおこなったセッション録音のピンカートン役を、ドミンゴが1974年9月に録音したテイクに差し替えた音源を使用して映像部分の制作がおこなわれたもので、奇抜なアイデアが盛り込まれたその映像内容は賛否両論でした。
演出家のジャン=ピエール・ポネルは、生き生きとしたドラマ進行とシルエットやポーズの象徴的な表現で人気のあった人物で、ここでも奇抜な視覚要素を散りばめながらも、悲劇に向けての進行を鮮やかに描き出しています。
冒頭、障子を突き破ってあらわれるTシャツ姿のドミンゴにはじまり、異様な様式化を施された日本家屋や、文字通り仰天せざるを得ない神官の登場シーンなど、日本人から見れば奇想天外もはなはだしい描写が連続する演出ではありますが、プッチーニ自身、別に民俗考証万全の台本に取り組んだ訳ではなく、これはこれでメルヘンとして、美しい音楽を活かす演出と言えるのかもしれません。
実際、プッチーニ自身は『蝶々夫人』の音楽を、数ある自作の中でも特に気に入っていたと言いますが、カラヤン指揮する演奏の、ときに陶然とするばかりの耽美的なドラマ構築はそうした話を十分に裏付ける見事なものと言えると思います。(HMV)
https://www.hmv.co.jp/en/news/article/1407270003/
カラヤン指揮ウィーン・フィル、ミレッラ・... 投稿日:2014/09/14
カラヤン指揮ウィーン・フィル、ミレッラ・フレーニ主演の『蝶々夫人』のアルバムは万人に薦めうる名盤なのだが、同時期に撮影された映画版のほうは、なんとも評価に困る、不思議な作品になってしまっている。
演奏はとにかく 素晴らしい。フレーニの可憐で叙情的な蝶々さん、パヴァロッティから交代したプラシド・ドミンゴの明朗で華やかなピンカートン、ルートヴィヒのいぶし銀のようなスズキ、そしてカラヤンによる流麗豪華な伴奏。
ただ、ジャン=ピエール・ポネルの演出がどうにも・・・・・ 時代設定は原作では幕末維新期だがこのポネル版では第一次大戦後ということになっている。
ピンカートンがTシャツでうろうろしているのもそのためなのだが、やや滑稽に写る。そして蝶々さんの顔だけを真っ白に丸く塗ったメイクとか、蝶々さんの住んでる家が日本のような中国のような朝鮮のような(そしてそのどれでもない)、なんちゃって東洋風みたいな意匠になってるのも脱力もの。
そして冒頭でいきなり登場するドミンゴ(ピンカートン)の障子破り脱出!!
これは衝撃的なラストシーンとつながっているのだが、まるでドリフのコントのようだ(笑)。
よくこれでカラヤンはOKしたなぁと思うが、イギリスの批評家リチャード・オズボーンはこのポネル版のことを「すべての感情が納得できる」「フレーニの演技はLP版より深く激しいように思われる」と絶賛していたりするので、日本人と西洋人とでは感じ方が違うのかなぁ。
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衝撃的な演出なので賛否の分かれるところで... 投稿日:2010/10/12 (火)
衝撃的な演出なので賛否の分かれるところでしょうが、この演出を見て、初めてピンカートン側の心情が理解できました。
彼には日本も蝶々さんも龍宮城のように現実感がなく夢のように素敵に思えていたのでしょう。そして、子供の存在によって現実を突き付けられ、逃げ出してしまうのです。
最後蝶々さんがピンカートンの目の前で自刃するという演出も初めてみましたが、これも正解だと思います。そうでなければ、わざわざ交換条件であんなことを言う必要はないのですから。
ポネルはやっぱりすごいです。いつでもそのオペラの本質を伝えてくれます。
https://www.hmv.co.jp/en/artist_プッチーニ-1858-1924_000000000019573/item_『蝶々夫人』全曲%EF%BC%88オペラ映画%EF%BC%89-ポネル演出、カラヤン%EF%BC%86ウィーン・フィル、フレーニ、ドミンゴ、他%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%97%EF%BC%94-ステレオ%EF%BC%89_1501210
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歌劇『蝶々夫人』 カラヤン&ウィーン・フィル フレーニ、パヴァロッティ
Cio-Cio San: Mirella Freni
Pinkerton: Luciano Pavarotti
Sharpless: Robert Kerns
Suzuki: Christa Ludwig
Goro: Michel Senechal
Il Commissario Imperiale :Hans Helm
Il Principe Yamadori: Giorgio Stendoro
Kate Pinkerton: Elke Schary
L'ufficale Del Registro: Siegfried Rudolf Frese
La Cugina: Martha Heigl
La Madre: Evamaria Hurdes
La Zia: Erna Maria Muhlberger
Lo Zio Bonzo: Marius Rintzler
Yakuside: Wolfgang Scheider
Herbert von Karajan: Wiener Philharmoniker 1974
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィル
ミレッラ・フレーニ、ルチアーノ・パヴァロッティ、ロバート・カーンズ、クリスタ・ルートヴィヒ
DECCA。1974年1月、ゾフィエンザールでの録音。
2014年、パヴァロッティのデッカ50周年を記念しての2CD+Bluray Audio。
24bit-96kHzのリマスターの音をそのまま聴くと、ウィーン・フィルのものすごい音色に驚かされる。カラス盤のモノラルとは大違いのオケの雄弁さである。
それにしてもジャケットが十二単とは笑ってしまう。日本的なら時代考証無しでもOKなのか。
http://classic.music.coocan.jp/opera/puccini/butterfly.htm
パルパティーン皇帝 5つ星のうち5.0
決定的名盤 2014年3月11日
カラヤンは『蝶々夫人』を2度録音している(映像収録が1度)。
1度目は1955年のEMI録音で、主役はかのマリア・カラス。
全盛期のカラスの炎のような歌唱と、壮年期のカラヤンのシャープな指揮とが火花を散らすスリリングな内容だった。ただ、残念ながらモノーラル録音であったため、録音にこだわりを持つカラヤンは再録音を考えた。
1974年1月、ウィーンのゾフィエンザールで行われた2度目の録音は主役にカラヤンお気に入りのミレッラ・フレーニ、オケはウィーン・フィル、録音はデッカという万全の体制であった。そしてこの2度目の録音は『蝶々夫人』の決定的名盤として40年後の現在でも不動の地位を保っている。
とにかく歌手陣が豪華。蝶々さんの相手役ピンカートンにルチアーノ・パヴァロッティ、乳母スズキにクリスタ・ルートヴィヒというのだから。フレーニの可憐な蝶々さん、パヴァロッティの能天気だがチャーミングなピンカートン、ルートヴィヒの包容力あるスズキがそれぞれ非常に魅力的。プッチーニに絶対の自信を持つカラヤン指揮ウィーン・フィルの流麗で甘美な伴奏が興趣を盛り上げてゆく。
音質も抜群で、さすが録音自慢で知られたデッカだけのことはある。
大のカラヤン嫌いで知られる評論家の宇野功芳氏ですら絶賛した、名盤中の名盤である。
https://www.amazon.co.jp/プッチーニ-歌劇「蝶々夫人」全曲-カラヤン-ヘルベルト・フォン/product-reviews/B004Q84Y2C/ref=cm_cr_dp_d_show_all_btm?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews
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Puccini - Madama Butterfly / New Mastering + Presentation (Maria Callas - Century’s rec. : Karajan)
Butterfly : Maria Callas
Suzuki : Lucia Danieli
B.F. Pinkerton : Nicolai Gedda
Kate Pinkerton : Luisa Villa
Sharpless : Mario Borriello
Goro : Renato Ercolani
Yamadori : Mario Carlin
Bonzo : Plinio Clabassi
Commissario : Enrico Campi
Orchestra E Coro Del Teatro Alla Scala Di Milano
Chorus Master : Noberto Mola
Herbert Von Karajan
Recorded in 1955
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ミラノ・スカラ座
マリア・カラス、ニコライ・ゲッダ、マリオ・ボリエッロ
EMI。1955年モノラル録音。
カラスの演技力に期待して買ったが、ちょっとあてが外れた感じ。
カラヤンのステレオ録音はパヴァロッティ、LDはドミンゴなので買う気がしない。
http://classic.music.coocan.jp/opera/puccini/butterfly.htm
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ソプラノ歌手「ミレッラ・フレーニ」の訃報 2020年02月18日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/af7bf3f5e1d77f3540001f3e47d5f3c5
つい先日の日経新聞に載っていたソプラノ歌手「ミレッラ・フレーニ」の訃報記事が目に留(と)まった。オペラファンとして残念なことだが84歳なら天寿を全うしたと言えるかもしれない。
ヴェルディ、プッチーニなど主にイタリア歌劇で活躍し「フレーニ抜きではスカラ座は成り立たない」と、専門誌に書かれていたのを見たことがあるほどの一時代を画した名歌手である。
彼女の十八番(おはこ)といえば、オペラ「ラ・ボエーム」(プッチーニ)の中で最も有名な曲として知られる「わたしの名はミミ」。
たしか収録されていたCDを持っていたはずだがと探してみたら、ありました。
第3トラックに収録されていたので、久しぶりにじっくり耳を澄まして聴いてみた。いかにも声量豊かで、大きな歌劇場向きの遠くまで届くような張りのある歌唱力というのが第一印象だった。
オーディオでいけばウェスタンの「555+ホーン」のような音ですかな(笑)。
彼女の声質はやはりドラマティックな場面でここぞとばかり朗々と謳いあげてくる「イタリア歌劇」に合っている気がした。
ちなみに、人生を狂わされてしまったほど大好きな「テバルディ」にも同じ曲があって、この際とばかり聴き比べてみた。
スピーカーは「AXIOM80」の2発入り!
溢れる涙を流さずに聴いてはいられない人生最高の至福の時間である(笑)。
その結果、「力強さ」では前者、「抒情性」では後者に軍配が上がった。
さて、フレーニの歌唱力は分かったが、ときに可憐さが求められるモーツァルトのオペラではどうなんだろう?
彼女がオペラ「魔笛」の王女役(パミーナ姫:ソプラノ)となって録音したCD盤があってもついぞ不思議はないが、これまで一度もお目にかかったことがない。
ほかのCD盤に「フィガロの結婚」第3幕から「スザンナは遠いのね・・・」が収録されていた。
やっぱり、モーツァルトにはちょっと声質が強すぎるかなあ・・・。
「困ったときは、とにかくその対象物を細分化せよ」ということわざがある。
そこで「ソプラノ」(女性の歌う高い方の声域)を細分化してみると、次のとおり。
✰ コロラトゥーラ・ソプラノ → 最も高いソプラノ(夜の女王役)
✰ スーブレット → 最も軽いソプラノ
✰ リリック(抒情的)・ソプラノ → その次に軽いソプラノ(パミーナ役)
✰ リリコ・スピント → その次に軽いソプラノ
✰ ドラマティック・ソプラノ → 最も重量級のソプラノ
(スーブレット以下の区分は、音色と音質の差であり、音域はあまり関係ない)
ひとくちにソプラノといっても、ご覧のとおりいろんな種類があるが結局、フレーニは「ドラマティック・ソプラノ」ということに尽きるようだ。
やはり、家庭のオーディオ・システムでひっそりと聴くにはもったいない、大きな舞台で実演で聴けば聴くほど光り輝く歌手だと思う。
長年、花形役をこなし、沢山の人たちに音楽を聴く喜びを与えたのだから声楽家冥利に尽きるのではあるまいか。
どうか安らかにお眠りください。合掌
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/af7bf3f5e1d77f3540001f3e47d5f3c5
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プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」
私は、はっきり言ってこの曲は駄作だと思う。
ところどころ出てくる日本の陳腐なメロディとアメリカ国歌の安っぽさは、どうにも我慢がならない。よって、「ある晴れた日に」と「さらば愛の家」とフィナーレだけ聴けば、あとはどうでもよい。
http://classic.music.coocan.jp/opera/puccini/butterfly.htm
『蝶々夫人』(Madama Butterfly)とは、プッチーニによって作曲された2幕もののオペラである。いわゆるプッチーニの「ご当地三部作」(あとの2作は「西部の娘」、「トゥーランドット」)の最初の作品である。
長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く。物語は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表した短編小説(Madame Butterfly)」を原作にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した戯曲を歌劇台本化したものである。1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったが、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となっている。
色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあり、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品である。
特に第2幕のアリア「ある晴れた日に」は非常に有名である。
反面蝶々役の歌手にとっては終始出ずっぱり・歌のパートも長く多い(第二主役であるピンカートンの数倍に及ぶ)ため、また若く愛らしい娘の役であるにも拘らず、プッチーニのソプラノ諸役の中でも特にテッシトゥーラが低く、中低音域に重点を置いた歌唱が求められるため「ソプラノ殺し」の作品とも言われる。
原作 - ジョン・ルーサー・ロングの短編小説「蝶々夫人」とこれを戯曲化したデーヴィッド・ベラスコの「蝶々夫人」
台本 - ジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イッリカ
作曲 - ジャコモ・プッチーニ
初演 - 1904年2月17日、イタリア、ミラノのスカラ座
作曲の経緯
蝶々夫人との出会い
プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「マノン・レスコー」で一躍脚光を浴びた。 その後「ラ・ボエーム」(1896年)、「トスカ」(1900年)と次々と傑作を生み出した。彼が「蝶々夫人」を書くのは、そんな音楽家として、正に脂の乗り切った時期であった。
「トスカ」を発表してから、次のオペラの題材をプッチーニは探していた。1900年「トスカ」が英国で初演されるときプッチーニはロンドンに招かれた。その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」を観劇した。英語で上演されていたため、詳しい内容はわからなかったが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだ。
制作の開始
同年にプッチーニはミラノに戻ると、『トスカ』の台本の執筆を手がけたイルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で蝶々さんのオペラの制作が開始された。翌年には難航していた作曲権の問題も片付き、本格的に制作に着手した。プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだ。当時の日本大使大山綱介の妻・久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めた。1902年にはプッチーニはパリ万国博覧会で渡欧していた川上貞奴に会ったとも云われている。オペラ歌手の小嶋健二がイタリアの指揮者セルジオ・ファイローニ(Sergio Failoni)の未亡人から聞いた話では、ファイローニがプッチーニに蝶々夫人をなぜ作ったか聞いたところ「日本女性を愛してみればよくわかる」と答えたという[1]。
自動車事故と結婚
1903年2月にプッチーニは自動車事故に遭って大腿部を骨折し、一時は身動きも出来ない重傷を負った。春になると車椅子生活での作曲を余儀なくされた。しかしプッチーニは制作を精力的に進め、その年の12月27日に脱稿した。その年の内に楽譜は小説「蝶々夫人」も初版と同じセンチュリー出版社からヤーネル・アボットの挿絵入りの単行本として出版された。原作者ロングはこの小説の戯曲化とオペラ化を大いに喜んで序文に「あの子が美しくかつ哀しい歌を歌って帰ってくる」と記している。また翌1904年1月3日にはプッチーニはトッレ・デル・ラーゴで夫人エルヴィラと正式に結婚の儀式を行っている。
初演の失敗と後世の評価
初演で蝶々夫人を演じたロジーナ・ストルキオ。拍手ひとつなく、舞台裏で泣き崩れた[2]。プッチーニは同作の成功を誓い、自らの生存中はスカラ座での再演を禁じた[2]
現在ではイタリアオペラの主要なレパートリーとなっている「蝶々夫人」だが、1904年2月17日ミラノ、スカラ座での初演はプッチーニの熱意にもかかわらず振るわなかった(彼の作品は本作に限らず、初演で不評を買うのが常であった[3])。失敗の理由はいくつか指摘される。初演版では、第2幕に1時間半を要すなど上演時間が長すぎたことや、文化の異なる日本を題材にした作品であったため観客が違和感を覚えたという原因が挙げられている。
ひどく落胆したプッチーニだったが、すぐさま改稿に取りかかった。改訂版の上演は3か月後の同年5月28日、イタリアのブレシアで行われ、大成功を収めた。その後、ロンドン、パリ公演とプッチーニは何度も改訂を重ね、1906年のパリ公演のために用意された第6版が、21世紀の今日まで上演され続けている決定版となっている。
本作は抒情的なテーマを盛り上げる美しいメロディや複雑な和声効果の使用などプッチーニの音楽の特色が現れた作品であり、イタリアオペラを代表する演目の一つとなっている。
プッチーニにとっては、ジュゼッペ・ヴェルディによって完成されたロマン派オペラの後継者としての地位、イタリアオペラのマエストロの地位を確立させることになった代表的作品である。
編成
配役
主な登場人物
蝶々さん(蝶々夫人)(ソプラノ)
ベンジャミン・フランクリン・ピンカートン(テノール)
シャープレス領事(バリトン)
脇役とされる登場人物
ヤマドリ公爵(テノール)
勅使
ゴロー(テノール)
ボンゾ(蝶々さんのおじ。「坊主」か?)(バス)
スズキ(メゾソプラノ)
ケイト・ピンカートン(ピンカートンのアメリカ本国での妻)(メゾソプラノ)
その他の登場人物
登記係
蝶々さんの母
蝶々さんのおば
蝶々さんのいとこ
薬師手(バリトン)
蝶々さんの子
蝶々さんの知り合いと船乗りたち
楽器編成
ピッコロ(第3フルート持ち替え)・フルート2、オーボエ2、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラリネット、バスーン2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、コントラバストロンボーン(多くはチンバッソで代用)、ティンパニ、バスドラム、スネアドラム、シンバル、トライアングル、グロッケンシュピール、銅鑼、鉦、ハープ、弦五部(14型)
舞台裏でヴィオラ・ダモーレ(通常ヴァイオリンで代用される)・銅鑼・梵鐘類・鐘・鳥笛・大砲
あらすじ
時と場所:1904年の長崎。
第1幕
アメリカ海軍の戦艦エイブラハム・リンカーン所属の海軍士官ピンカートン(Pinkerton)は日本人の少女と結婚することになった。
結婚斡旋屋のゴロー(Goro)が、長崎にきたピンカートンに、結婚後に暮らす丘の麓の家や、下女のスズキ(Suzuki)や下男を紹介して機嫌を取っている。
そこへ駐長崎領事のシャープレス(Sharpless)がやってくる。ピンカートンはここでアリア「ヤンキーは世界のどこへ行っても」を歌う。シャープレスは優しい心の男であり、ゴローが紹介した少女がこの結婚が永久の縁と堅く信じていることを思い出し、戸惑う。だがピンカートンは、この結婚も一時の愛だとシャープレスの危惧を一笑に付すのであった。
そこへ蝶々さん(Cio-Cio-San)が芸者仲間とともに現れる。このとき「さあ一足よ」を歌う。シャープレスが可憐なこの15歳の少女に身の上を問うと、実家は大村の没落士族の家であると答え、父から頂いた切腹のための刀の入った箱を披露する。それにより、座は一時しらけてしまうが、ゴローによって結婚式の準備が進められる。蝶々さんは前日にキリスト教に改宗したことを告げる。 三々九度など一連の結婚の儀式が済んだ頃、蝶々さんの叔父のボンゾ(Bonze)が現れる。彼は蝶々さんの改宗を怒って詰問するが、ピンカートンに追い払われる。うろたえる蝶々さんを慰めるピンカートン。2人はここで愛の二重唱「可愛がってくださいね」を歌う。
第2幕
結婚式から3年が過ぎた。ピンカートンは任務が終わり、アメリカ合衆国に帰ってしまっていた。彼は蝶々さんに「コマドリが巣を作る頃には帰ってくる」と約束していた。蝶々さんの忠実な下女スズキは彼は既にそれらを反故にしたのではと疑うが、ピンカートンを信頼する蝶々さんにとがめられる。
きっと夫は帰ってくると信じてやまぬ蝶々さんは、ここでアリア「ある晴れた日に」を歌う。
その頃、シャープレスはピンカートンがアメリカ本国でアメリカ人女性と結婚したことを本人の代わりに蝶々さんに告げることになっていた。しかし蝶々さんの夫への信頼を見た彼は、それを壊すようなことはできなかった。蝶々さんはピンカートンの手紙を見て喜ぶ。そこへゴローが裕福な紳士ヤマドリ公(Prince Yamadori)を連れてやってくる。ヤマドリ公は蝶々さんに結婚を申し出るが、夫からの手紙に喜んでいる蝶々さんはそれを拒否する。ゴローは蝶々さんは離婚された妻であると説明しようとしたが、蝶々さんは激しく断る。「それは日本の習慣に過ぎない。今の私はアメリカ人である」と。ゴローとヤマドリ公がすごすごと帰ってしまうと、シャープレスと蝶々さんは「友よ、見つけて」を歌う。
そして、シャープレスがピンカートンが帰ってこなければどうするのか、と蝶々さんに問うと、芸者に戻るか、自刃するしかないと答え、困惑したシャープレスが「ヤマドリ公の申し出を受けてはどうか」と勧めると、「あなたまでがそんなことを言うのか」と怒り、シャープレスに彼女とピンカートンとの子供を見せ、「わが夫がこの子を忘れようか」と言い放ち、「子供のために芸者に戻って恥を晒すよりは死を選ぶわ」と泣き叫ぶ。シャープレスはいたたまれずに去っていく。
スズキは蝶々さんの悪評を拡げようとするゴローを捕まえる。蝶々さんにとって悪い話が次々と届く中、遠くにピンカートンの所属艦エイブラハム・リンカーンが兵員の到来を礼砲で告げた。それを望遠鏡で見つけた蝶々さんとスズキは喜び、家を花で飾り、二重唱「桜の枝を揺さぶって」を歌う。そして自分達と子供を盛装させ、障子を通して、ピンカートンの帰りを凝視する。夜が過ぎ、長いオーケストラとのハミングコーラスのパッセージが演奏される中、スズキと子供は眠ってしまう。蝶々さんは決して後悔していなかった。
第3幕
夜が明けた蝶々さんの家。蝶々さんは寝ずの番をしていた。スズキは目覚め、子供を蝶々さんのもとへ連れて行く。スズキは憔悴した蝶々さんを休むよう説き伏せる。ピンカートンとシャープレスが登場し、スズキに恐るべき真実を告げる。しかし、ピンカートンは罪悪感によって深く打ちひしがれ、自身を恥じていた。余りに卑劣なことで自分の口から蝶々さんに告げることはできず、彼は義務を放り出して去ってしまう。このときピンカートンはアリア「さらば愛の巣」を歌う。スズキは、はじめは猛烈に怒っていたが、シャープレスから、蝶々さんが子供を渡してくれれば、ピンカートンのアメリカ人妻がその子を養育するということを聞き、説き伏せられてしまう。
蝶々さんはピンカートンと会えると思い、目を輝かせて登場する。しかしピンカートンの代わりに彼のアメリカでの妻ケイト(Kate Pinkerton)と対面させられる。蝶々さんは感傷的な穏やかさをたたえつつ真実を受け止め、礼儀正しくケイトを祝福した。これで平穏が見いだされるであろうと。それから、ケイトやシャープレスにお辞儀をし、子供を渡すことを約束する。そしてスズキに家の障子を全部閉めさせ一人きりになる。障子越しに侍るスズキに対しては、「子供を外で遊ばせるように」と命じて下がらせる。
蝶々さんは仏壇の前に座り、父の遺品の刀を取り出し、「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん(Con onor muore chi non puo serbar vita con onore.)」の銘を読み自刃しようとするが、そこへ子供が走ってくる。蝶々さんは子供を抱きしめアリア「さよなら坊や」を歌い、子供に目隠しをし、日米の国旗を持たせる。そして、刀を喉に突き立てる。今際の際でも子供に手を伸ばす蝶々さん。そこへ異変を聞きつけたピンカートンとシャープレスが戻ってくるが、とき既に遅く、蝶々さんは息絶える。幕。
著名なアリア
「ある晴れた日に」
「蝶々夫人」の中でも特に代表されるアリアであり、単独で歌われることの多いものである。伝説のソプラノ歌手、マリア・カラスもこのアリアを十八番としており、現在出回っている彼女のベスト盤の多くにこのアリアが収められている。
サミー・フェインは、この曲を参考に映画「慕情」の主題曲を作曲した。
「可愛がってくださいね」
第一幕で蝶々さんとピンカートンが歌う二重唱。旋律とハーモニーの美しさで有名。
「さらば愛の巣」
ピンカートンのアリアの中で最も有名。
「さよなら坊や」(かわいい坊や)
最後のアリア。
引用された曲
当時のジャポニスムの流行も反映してかプッチーニは日本の音楽を収集し、使用している。そのため、同時期に作られた「ミカド」などよりは、はるかに日本的情緒のある作品に高めており、今日、日本人に好まれるオペラの一つにしている要因となっている。 この「引用、転用」は後に「トゥーランドット」でも行われる。
「宮さん宮さん」
「さくらさくら」
「お江戸日本橋」
「君が代」
「越後獅子」
「かっぽれ(豊年節)」
「推量節」
「星条旗」
蝶々夫人を演じた日本人
三浦環。1916年
大正から昭和初期にかけて活躍したソプラノ歌手の三浦環は、この蝶々夫人役を得意とし、その生涯において世界各地で数多く蝶々夫人役を演じた。1915年に初の日本人による蝶々夫人役としてロンドンのオペラハウスで演じたのを皮切りに、約20年間暮らした海外だけでも2000回以上公演した[2]。現在でも長崎のグラバー園にはその功績を称える三浦の像がある。
他に、蝶々夫人を得意とした日本人ソプラノ歌手には、戦前のヨーロッパで活躍した原信子・喜波貞子(きわ ていこ)・田中路子(1932年にオーストリア・グラーツでデビュー)、同じくヨーロッパで戦中戦後に渡り活躍した伊藤敦子・長谷川敏子(1944年、イタリアミラノ・スカラ座で日本人初の出演)、20世紀後半以降は東敦子(1972年、蝶々役でメトロポリタン歌劇場デビュー)、林康子(1972年、蝶々役でスカラ座デビュー)、片野坂栄子(1977年、ミュンヘン国立ゲルトナー歌劇場のプレミエで歌った「蝶々夫人」は絶賛を博し“黄金のばら賞”を受賞。この他、ヨーロッパの各歌劇場にて200回以上もこのオペラを主演) らがいる。
映画では、1954年(昭和29年)にカルミネ・ガローネが監督として、東宝とリッツオーリ・フィルム=ガローネ・プロの日伊合作が製作された。『蝶々夫人』のタイトルロールを当時宝塚歌劇団在団中でタカラジェンヌだった八千草薫が演じ(吹き替えはオリエッタ・モスクッチが担当。)、日本だけでなくイタリアでも大評判をとった。
「蝶々さん」は誰か?
揚羽蝶
「蝶々夫人」の舞台となった日本では長らく「『蝶々夫人』のモデルは誰か?」ということが議論されてきた。ロングの実姉サラ・ジェニー・コレルは、1890年代初頭から鎮西学院五代目校長で宣教師でもあった夫とともに長崎の東山手に住んでいた。ロングは、姉のコレル夫人から聞いた話から着想を得て、小説を執筆したとされている。
長年、有力視されていたのは、幕末に活躍したイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻、ツルである。これは彼女が長崎の武士の出身であることや、「蝶」の紋付をこのんで着用し「蝶々さん」と呼ばれたことに由来する。長崎の旧グラバー邸が長崎湾を見下ろす南山手の丘の上にあることも、物語の設定と一致する。しかし、ロングの小説で具体的に記述されている蝶々夫人の経歴に、ツルの生涯と似ている部分があるが、重要部分で異なる点も多いため、モデルと考えるのは不自然との意見もある。一方、グラバーとツルの間に生まれた長男の倉場富三郎がペンシルベニア大学に留学していたこと、ロング本人が、「姉は倉場富三郎に会ったことがある」と語ったと言われることなどは、「蝶々夫人=グラバー・ツル」説を裏付ける要素とされている。ただし、ロングは小説が実話に基づくとは明言しておらず、また、彼自身がアメリカ士官を貶めているともとれる小説の人物設定について多くの批判を受けていたこともあり、真相は曖昧にされたまま現在に至る。
ツルが最初の結婚でもうけた娘・センの子孫の調査によると、ロングの小説『マダム・バタフライ』に登場する家がグラバー邸内と酷似していることと、ロングがのちに書いた戯曲『マダム・バタフライ その20年後』の原稿に「Dam. Too-ri」とメモがあり、ツルと読めることから、ロングはツルを下敷きにしていたと思われるが、内容自体はツルの経歴とは異なり、創作である[4]。
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していた。また19世紀初めに出島に駐在したドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも、日本人妻がいた。下級の軍人が揚屋などの売春宿などに通って欲望を発散する一方、金銭的に余裕がある高級将校などは居宅に女性と暮らしていた。この際の婚姻届は、鎖国から開国にいたる混乱期の日本で、長崎居留の外国人と日本人女性との同居による問題発生を管理したい長崎奉行が公認しており、飽くまでも一時的なものだった。相手の女性も農家から長崎の外国人居留地に出稼ぎに来ていた娘であり、生活のために洋妾になったのである。互いに割り切った関係であり、この物語のように外国人男性との関係が真実の恋愛であった例は稀である。現に、シーボルトの日本人妻だった楠本滝は、シーボルトの帰国後に婚姻・離婚を繰り返している。まして、夫に裏切られて自殺をした女性の記録は皆無であり、蝶々夫人に特別なモデルはいない創作上の人物であると考える説も有力である。
批判
植民地主義時代の偏見に基づいたストーリーを未だに演じることへの批判や反論は国内外問わず根強くあり、2007年には、イギリスの音楽教授でプッチーニの専門家、ロジャー・パーカーが人種差別的であるとして批判した[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/蝶々夫人
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