http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html
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(回答先: ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 19 日 08:01:40)
ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」_ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽なのか?
Pierre Boulez conducts Anton Webern - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Anton+Webern+Pierre+Boulez++
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松浦晋也 @ShinyaMatsuura
ピエール・ブーレーズがけちょんけちょん。でも説得力はある。
[野々村禎彦氏寄稿「ブーレーズとは何だったのか」] http://ooipiano.exblog.jp/17114030/
かつてブーレーズ自身が怒れる若者として「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」とアジっていたことを考えると時の流れを感じる。
https://twitter.com/shinyamatsuura/status/138564932429029376
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2011年 11月 20日
ブーレーズとは何だったのか ――― 野々村 禎彦
https://ooipiano.exblog.jp/17114030/
c0050810_6173838.jpg 音楽史から切り離された独自の道を歩んできた(それこそ「前衛」の名にふさわしいという見方もあろうが)クセナキスと、音楽史に翻弄されてきた(後半生で開き直ったことも含めて)リゲティ。ふたりの作曲家の歩みを振り返るのは、作品を十分に聴いていればさほど難しくはない。だが、ブーレーズの場合はそうはいかない。どの戦後音楽史のテキストにも彼が作曲活動を旺盛に行っていた時期のことは詳しく書かれており、彼の歩みがそのまま「音楽史」の一部になっているように見える。それをまとめ直すだけの作業には殆ど意味はない。それが、彼は「現代音楽の保守本流」だったということである。
作曲家=指揮者=音楽教育者=音楽行政官。まず、この肩書きから検討しよう。各々の仕事の高い水準は日本でも十分実感できる。指揮者としての録音は言うまでもなく、作曲作品の録音や譜面も手に入りやすい方で、論文集や講義録も邦訳されている。Ircam所長としての仕事は、専属団体アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)が80年代から90年代半ばにかけて(ロンドン・シンフォニエッタの活動が飽和してからアンサンブル・モデルンが台頭するまで)20世紀音楽演奏を支え、ブーレーズ時代に開発された音響合成ソフトMAXが今日でもジャンルによらず標準的であることを挙げれば十分だろう。
教育者及び指揮者としての区切りは1963年。この年に最初の論文集『現代音楽を考える』を出版し、コレージュ・ド・フランスで講義を始め、フランス国立放送管との《春の祭典》の録音が高く評価され、《ヴォツェック》のフランス初演を指揮した。他方、作曲家としての主要作品は、1961年に《構造II》を完成させ、翌1962年に《プリ・スロン・プリ》全曲が最初に出揃った時点でほぼ出尽くした。これ以降の作品は、ブーレーズ特集のような企画公演以外ではあまり取り上げられない。またこれ以前は、バロー劇団やドメーヌ・ミュジカルで指揮者修行に励んでおり、作曲に加えて音楽教育にまで時間を割く余裕はなかった。作曲家=指揮者見習いから指揮者=音楽教育者への転身。
すなわち彼は、才能に任せて片っ端から引き受けるタイプではなく、能力の限界を見極めて優先順位を付けてゆくタイプ。世界の一流オーケストラの指揮を始めたら、作曲活動は副業になった。Ircam所長就任時も同様で、実際に仕事を始める前までにBBC交響楽団とニューヨークフィル(NYP)の音楽監督を辞している。Ircam所長職自体は役人仕事だとしても、彼の場合はEIC音楽監督を兼任し、研究所のために作曲することも求められていた。大型コンピュータを用いたリアルタイム音響合成システム4Xの一般公開のために書かれた《レポン》は、所長就任以前の《リチュエル》以来の大作で、この作業に刺激されて《デリーヴ》などの派生作品が生まれ、《ドメーヌ》のアンサンブル版を4Xシステムのために全面改稿した《二重の影の対話》も完成させ、《プリ・スロン・プリ》《カミングスは詩人である》の管理された偶然性部分を確定させ、補筆も行った。
c0050810_6193479.jpg 本気で作曲に取り組むと(《レポン》がそれだけの作品かどうかは別にして)創作意欲が湧いてくるのはいかにもだが、若かりし頃の彼がそうだったように、どんなに忙しくても湧いてしまうのが本来の創作意欲ではないか? 例えばアイヴズの代表作は、保険会社の創業者=副社長として事業を拡大する激務のさなかの週末に書かれている。《レポン》に取り組む直前のブーレーズの作曲活動は《ノタシオン》のオーケストレーションという明らかに不毛な作業だった。《レポン》祭り後は再び作曲頻度が落ち、Ircam所長を退職してからも、力を割いたのは指揮活動だった。もっとも、今回のオファーは音楽監督ではなく、ベルリンフィル、ウィーンフィル、シカゴ響、クリーブランド管など世界の超一流オーケストラを作品に応じて使い分け、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、バルトーク、マーラー、新ウィーン楽派という得意レパートリーを網羅的に録音する巨匠待遇であり、NYP時代には団員のサボタージュの結果としか思えない録音も散見されたことを思い出すと、そちらを優先してしまうのは音楽家として当然かもしれない。
とはいえ、Ircam所長退職後にブーレーズは晴れて指揮者=作曲家になり、そうして書かれた作品が《内挿節》や《日めくりの一頁》ということになるわけだが…どうしてこうなった? まず、作曲家のピークは思いの外短く、10年続けば一流、15年続けば超一流と言ってよい。シェーンベルクですら開店休業状態が長く、霊感にあふれていたのは1906〜13年(室内交響曲第1番〜幸福な手)、1927〜32年(弦楽四重奏曲第3番〜モーゼとアロン)、1946〜50年(弦楽三重奏曲〜現代詩篇)の計約15年にすぎない。それがブーレーズの場合は1946〜62年だったとしても恥じることはない。また、ブーレーズ絶頂期の数少ない汚点はミュジック・コンクレートを用いた作品であり、彼のアキレス腱が電子音楽にあることは明らかだ。器楽的発想から逃れられないのだ。《レポン》以降にデジタル電子音響と関わるようになっても、何も変わっていない。4Xシステムも器楽的な発想で設計されているが、そこで自動生成される装飾音型を「未来の音楽」だと誤認し、作曲にフィードバックさせてしまった結果が彼らしからぬ近作なのだろう。
残る問題は、ブーレーズは果たして「現代音楽」の人なのか? 指揮者として見ると、極めて疑わしい。先に挙げたように、彼が得意レパートリーとする作曲家はことごとく19世紀末〜20世紀前半のモダニズムを代表する人々であって、現代の作曲家ではない。作曲家=指揮者は自作を振っていれば良いという考え方もあろうが、ベリオ、シュトックハウゼン、アルフテル、ペンデレツキをはじめ、多少なりとも指揮の心得のある作曲家はみな自作は振るもの。作曲家でもあるギーレンがB.A.ツィンマーマンを絶対的なレパートリーにしていたように、自作以外にも現代レパートリーを持っていなければ「現代音楽の指揮者」とは呼べない。ブーレーズは、ドメーヌ・ミュジカルやEICの音楽監督時代には多くの作品を初演しているが、それは仕事として処理していただけで、音楽史に残る作品で初演したのはクセナキス《エオンタ》とリゲティのヴァイオリン協奏曲程度。いわゆる一流オーケストラが取り上げるのは現代音楽でも評価が確立した作品であり、委嘱するのも序曲代わりの小品になりがち。音楽史に残る作品を初演するのは現代音楽祭のレジデントオーケストラを務めるヨーロッパの放送オーケストラの役割、という構造はもちろんあるが、シェルヘンがクセナキスを発掘したような役割を果たす余地はあったはずだ。
そもそも彼は現代音楽の作曲家なのか? これも定義しだいかもしれない。20世紀に生まれ、戦後に活躍した作曲家という定義ならもちろんそうだし、総音列技法や管理された偶然性を主導したのだから言うまでもない、という見方も妥当ではある。だが、このような前衛技法の導入は、果たして20世紀前半のモダニズムと質的に異なるのだろうか。ケージ流の偶然性ならばさすがに違うが、管理された偶然性はルバートのようなものだと彼自身述べており、大編成作品ではデメリットの方が大きいとして、後年に選択の余地がない形に改訂している。結局、その程度のものだったということだ。リゲティが示唆していたように、総音列技法は後期ヴェーベルンの亜流に過ぎないという見切り方も可能だ。少なくともブーレーズが指揮活動中心に乗り換えた60年代初頭は、それまでモダニズム一筋で歩んできた作曲家たちが岐路に立った時期である。例えばシュトックハウゼンの場合は、総音列技法は《クラヴィア曲第10番》、電子音楽は《コンタクテ》でピークを迎えた。そこで彼は引き返さず、即興的要素を含むライヴエレクトロニクスの制御にまで「音列」概念を拡大し、20世紀後半最大の音楽的達成のひとつである自由即興音楽との境界領域に近づいてゆく。ミュジック・コンクレートを探求してきたフェラーリの場合は、具体音を抽象的に構成するシェフェールの理論をひっくり返し、具体音の意味性を全面的に利用する、孤独だが豊穣な道をこの時期に歩み始めた。彼らに限らず、この時期にモダニズムの彼方を独力で見出した作曲家たちは、前衛の時代が過ぎても探求を止めなかった。
「現代◯◯」の定義に関しては、現代美術を参照するのが示唆的だろう。20世紀前半のモダニズムは、カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチ、クレーらの抽象絵画を生んだが、彼らの作品が現代美術にカウントされることはない。現代美術は、あくまで戦後米国の抽象表現主義から始まる。『クレーの絵と音楽』という幸福な本の中で閉じたブーレーズの美学がどちら側に属するのかは明らかである。
https://ooipiano.exblog.jp/17114030/
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ヴェーベルン:作品番号付き作品全集 ブーレーズ、他(3CD)
https://www.hmv.co.jp/news/article/1308040003/
ブーレーズが成し遂げた最上の成果が刻まれたアナログ時代の超名盤『ヴェーベルン作品全集』が、マスターズ・ボックスに登場します。1967年から1972年にかけて録音され、1979年に4枚組LPで発売されて以来ウェーベルン作品の鑑賞には不可欠とされている精緻な名演ぞろいのボックスです。
すべての作品番号付き作品が番号順に収録され、後期ロマン派風様式から、無調を経て12音技法へと変遷してゆく過程を音として体験することができます。ヴェーベルン自身が指揮するシューベルト『ドイツ舞曲』の歴史的録音も収められています。
ベルリンのb-sharpスタジオでリマスタリングをおこない、マスターテープに忠実で伸びやかなサウンドを実現。なお、このセットにはブックレットは付いておりません。(SONY)
【収録情報】ヴェーベルン
Disc1
・管弦楽のためのパッサカリア Op.1
・軽やかな小舟に乗って逃れよOp.2
・『第7の環』による5つの歌曲 Op.3
・5つの歌曲 Op.4
・弦楽四重奏のための5つの楽章Op.5
・管弦楽のための6つの小品 Op.6
・ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 Op.7
・2つの歌曲 Op.8
・弦楽四重奏のための6つのバガテル Op.9
・管弦楽のための5つの小品 Op.10
・チェロとピアノのための3つの小品 Op.11
・4つの歌曲 Op.12
Disc2
・4つの歌曲 Op.13
・6つの歌曲 Op.14
・5つの宗教的な歌 Op.15
・ラテン語のテキストによる5つのカノン Op.16
・3つの宗教的民謡 Op.17
・3つの歌曲 Op.18
・2つの歌曲 Op.19
・弦楽三重奏曲 Op.20
・室内オーケストラのための交響曲 Op.21
・四重奏曲 Op.22
・3つの歌曲 Op.23
・9つの楽器のための協奏曲 Op.24
・3つの歌曲 Op.25
Disc3
・眼の光 Op.26
・ピアノのための変奏曲Op.27
・弦楽四重奏曲 Op.28
・カンタータ第1番 Op.29
・管弦楽のための変奏曲 Op.30
・カンタータ第2番 Op.31
・弦楽四重奏のための5つの楽章Op.5(弦楽合奏版)
・バッハ:音楽の捧げものより6声のリチェルカーレのオーケストレーション
ヘザー・ハーパー(S)
チャールズ・ローゼン(P)
アイザック・スターン(Vn)
グレゴール・ピアティゴルスキー(Vc)
ジョン・ウィリアムス(G), 他
ジュリアード弦楽四重奏団
ジョン・オールディス合唱団
ロンドン交響楽団
ピエール・ブーレーズ(指揮:監修)
録音時期:1967〜1972年
録音方式:ステレオ(アナログ/セッション)
・シューベルト:ドイツ舞曲集(ウェーベルン編)*
アントン・ヴェーベルン(指揮)
フランクフルト放送管弦楽団*
録音時期:1932年
録音方式:モノラル(アナログ/ライヴ)*
https://www.hmv.co.jp/news/article/1308040003/
HMV ウェーベルン全集 ユーザーレビュー
poo さん | 東京都 投稿日:2013/10/28
かつての20bitマスタリングのCDBOXに比べて格段に美しく瑞々しい音質に向上しています。やや大らかなグラモフォンの新録音に比べて、このSONYの旧盤は集中力・緊張感の高さ、音色の多彩さで優れています。もちろん歴史的名盤。
カズニン さん | 東京都 投稿日:2013/10/20
非常に新鮮な音質です。演奏は見事です。ウェーベルンが面白く鑑賞できます。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%EF%BC%881883-1945%EF%BC%89_000000000020730/item_%E4%BD%9C%E5%93%81%E7%95%AA%E5%8F%B7%E4%BB%98%E3%81%8D%E4%BD%9C%E5%93%81%E5%85%A8%E9%9B%86-%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%80%81%E4%BB%96%EF%BC%88%EF%BC%93%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89_5510634
アマゾン ウェーベルン全集 カスタマーレビュー
鹹 2015年3月20日 5つ星のうち4.0
気力・体力ともに充実していた時期のピエール・ブーレーズが録音・監修したウェーベルンの出版作品全集。
出版されていない発掘作品まで含めるとなると、ブーレーズがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団等と作った新盤を買うほうがいいのだが、ウェーベルンが納得した作品の全集となれば、こっちのほうがすっきりとした選曲で潔い。
また、ブーレーズの演奏も、こちらの全集のほうはロンドン交響楽団との共演だから、天下のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏に及ばないと予想されるが、さにあらず。演奏自体はこちらのほうが端麗辛口の味わいがある。
室内楽ではジュリアード弦楽四重奏団、チャールズ・ローゼン、グレゴール・ピアティゴルスキー等、懐かしい名手が多数参加し、歌曲でも往年のヘザー・ハーパーや、ポーランドの近現代音楽の歌姫として知られたハリーナ・ウコムスカ(ルコムスカというのは、実は正しくない)等が名を連ねる。CBSが集められる限りのドリーム・チームで、彼らの威信にかけて録音されたものなので、未だに古さを感じさせない。ブーレーズとしても会心の仕事だったに違いない。
余白に、ウェーベルン自身が指揮したシューベルトの舞曲集のアレンジが付録として収められているのが心憎い。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E5%85%A8%E9%9B%86-%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3/dp/B00MQSBCWO
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アントン・(フォン・)ヴェーベルン(Anton (von) Webern, 1883年12月3日 - 1945年9月15日)は、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。ウェーベルンとも書かれる。
シェーンベルクやベルクと並んで新ウィーン楽派の中核メンバーであり、なおかつ20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開した。このため、生前は顧られる機会がほとんどなかったが、戦後の前衛音楽勃興の中で再評価され、世界的に多くの作曲家に影響を与えた。
オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれる。ヴェーベルン家はクロアチアなどに領地を所有する貴族の家庭で、正式の名はアントン・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーベルン(Anton Friedrich Ernst von Webern)であるが、作曲者自身はミドルネームを公式には使わず、1918年には(おそらく厭戦的な気分やオーストリア帝国崩壊を受けて)、貴族のみに許された"von"を姓から外した。
父親は成功した鉱山技師として、オーストリア帝国各地を転々としており、このためヴェーベルンは少年時代をグラーツやクラーゲンフルトなどに過ごす。音楽を愛好する家庭環境に育ち、1902年よりウィーン大学でグイード・アドラーに音楽学を師事し、ハインリヒ・イザークの《コラリス・コンスタンティヌス》に関する論文を提出して学位を得た。古楽のポリフォニー様式への関心が、後のヴェーベルン自身の作風に大きな影響を与えていよう。
1904年からシェーンベルクに師事して作曲修行を続け、1908年に《パッサカリア ニ短調》作品1によって独立を許された。シェーンベルク門下のベルクは、その後のヴェーベルンの音楽活動において影響を及ぼしている。音楽家として独立してからは、イシュルやテプリツ、ダンツィヒ、シュテッティーン、プラハなどで指揮者として活動し、それからウィーンに戻った。第一次世界大戦後は、シェーンベルクを輔佐して私的演奏協会を設立。1922年から1934年までウィーン労働者交響楽団の指揮者を務め、BBC交響楽団にも定期的に客演を続けた。盟友ベルクが1935年に急逝すると、遺された《ヴァイオリン協奏曲》のイギリス初演で指揮を執った。その模様は、初演のヴァイオリニストルイス・クラスナーにより録音され、2度にわたってCDに復刻されている。
1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると、ヴェーベルンの音楽は「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押され、演奏活動で生計を立てることは困難になった。このため、契約先であるウニヴェルザール出版社の編集人や校閲係を引き受けざるを得なかった。1945年に、終戦後に作曲活動を再開する思惑から、ウィーンを去ってザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難。しかし、娘婿が元ナチ親衛隊で、当時は闇取引に関与していたのが落とし穴となる。同年9月15日、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解され、その場で射殺されたのである。
作風
ヴェーベルンは寡作家であり、生前に出版された作品は、わずか31曲しかない。ピエール・ブーレーズが監修・指揮したヴェーベルン全集のCDは、作品番号のない作品を含めてさえ、ディスク6枚分で間に合っている[1]。しかしながらヴェーベルンの後進への影響は大きく、とりわけ戦後の前衛音楽への影響は濃厚であった。後期作品は十二音技法が使われ、密度の薄い音響体と冷たい情感が特徴的だが、緻密に構成され、凝縮され、それでいて明晰な構造を持ち、音高以外の要素も組織的に扱おうとする傾向が見られるなど、トータル・セリエリズムの前兆とみなすこともできる。これがブーレーズやシュトックハウゼンなどに影響を与えている。一方、ケージは、ヴェーベルンの独自な時間感覚やリズム構成をとらえて、「音楽の神髄とは間合いと呼吸にあることを教えた作曲家である」という趣旨の発言をしている。ストラヴィンスキーは、シェーンベルクと互いの作曲姿勢に反発し合ったにもかかわらず、秘書で指揮者のロバート・クラフトの手引きで十二音技法に精通するようになってからは、ヴェーベルンへの傾倒のもとに自らの晩年様式を開花させていった。
ある程度の長い経歴を持つ作曲家がそうであるように、ヴェーベルンは時期ごとに音楽を変化させていった。それでもなお、次のような特徴を挙げることができる。
あらゆる音符が明晰に聞き分けられるほど、非常に簡素な響きのテクスチュア
念入りに選び出された音色
実に事細かな演奏者への指示
特殊奏法の頻繁な利用(管楽器のフラッタータンギングや弦楽器のコル・レーニョ奏法など)
しばしば長7度音程を越える旋律の跳躍
楽曲の極度の短さ(《弦楽四重奏のための6つのバガテル》(1913年)は全体を通して演奏しても3分しかかからない)
シェーンベルクに入門してから完成させた最初の作品が、管弦楽のための《パッサカリア ニ短調》作品1(1908年)である。構成的には、ブラームスの《交響曲第4番》フィナーレの前例に倣っているが、和声的に見ると進歩的で、オーケストレーションは尊敬していたブルックナーやマーラーの影響が認められるものの、個性的になっている。また、変奏される主題には、お互いに逆行形の反行形を成している部分があり、この主題が弦のピツィカートによって途切れ途切れに提示されるなど、後期作品を彷彿とさせるものがある。パッサカリアは古い音楽形式のひとつであり、後にヴェーベルンが見せた古い音楽形式への関心(たとえば《交響曲》や《弦楽三重奏曲》にみられるカノンの利用)の萌芽が見出される。
作品3の《5つの歌曲》(1909年)以降の作品でヴェーベルンは無調を用いている。無調期の作品では、《弦楽四重奏のための5つの楽章》作品5(1909年)や、《管弦楽曲のための6つの小品》作品6(1910年)などが比較的よく演奏される。《管弦楽のための5つの小品》作品10(1913年)などによって極限にまで短く凝縮された音楽は、《4つの管弦楽歌曲》作品13(1918年)あたりからさらに複雑さを極めてゆくようになる。十二音技法を用いた最初の例は、《3つの宗教的民謡Drei geistliche Volkslieder 》作品17(1925年)で、これ以降の作品はすべて十二音技法で作曲された。器楽曲でその最初の例は、《弦楽三重奏曲》作品20(1927年)である。つまり《弦楽三重奏曲》は、12音技法に伝統的な楽式を融和させようとした最初の試みといってよい。《交響曲》作品21(1928年)に至って作風に変化が現れ、《弦楽三重奏曲》までの極度の複雑さに変わり、簡素な明瞭さが現れるようになる。
ヴェーベルンの音列技法は、しばしば非常に手が込んでおり、12の音列のうち4音ずつのグループが形作られ、3つのグループが互いに互いの変形であるかのように関連づけられている。ヴェーベルン作品の統一感はそこにあるが、しばしば音列の旋律線は、より細かく分断されて、一つ一つの音が別々の楽器の音色をまとわされている。
ヴェーベルンの最後の作品群は、作曲様式における新たな発展の可能性を暗示している。たとえば、親交を結んでいた女性詩人ヒルデガルト・ヨーネ(ドイツ語版)の詞による2つのカンタータは、以前の作品よりも大きなアンサンブルを採用しており、所要時間が長くなり(第1番は9分、第2番は16分)、響きの密度はいくぶん濃密である(ヴェーベルンの晩年の声楽作品は全て彼女の詞による(他には作品23、25、26がある))。音列作法はより単純で、盛期作品に認められる音列の内的な動機的連関は見いだされない。突然の不幸な事故死により、ヴェーベルンが《カンタータ第2番》作品31(1943年)の後に、新しい方向に沿ってどこに辿り着こうしていたのかを見定めることは、誰にもできなくなった。図形による作曲も考案していたと伝えられるが、証拠は残っていない。
エピソード
フィラデルフィアでの《交響曲》作品21の初演で演奏が終わった後、聴衆は反応に困って笑い出して作曲者の泣き声を覆い隠してしまった[2]。
ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》では、バルセロナにおける世界初演を指揮することになっていたが、リハーサルの最中に神経が高ぶって逐電し、ヘルマン・シェルヘンと交代を望むと言ってスペインを後にした。亡き友のことを思い出し、練習できるような状態ではなかったのであった[3]。
新ウィーン楽派の中心3人のうちで、唯一のカトリック[4]。しかも熱心な信仰者で神秘主義者でもあり、作品のいくつかは霊的な動機や霊感から作曲されている。
ナチス政権への親近感から、弾圧されながらも亡命の道を選ばなかった。「自分ならば、ヒトラーに十二音音楽の意義を納得させることができる」とすら考えていたらしい。晩年は親しい神父に、「子供がコンパスと定規を使って作曲する日が来るのも、決して遠いことではない」と語って驚かれた。
作品一覧
詳細は「ヴェーベルンの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7
シェーンベルクに入門する前後に独力で書かれた初期作品は、後期ロマン主義音楽の様式を採っている。これらは生前には出版されず、そのため作品番号さえ付けられなかった。それにもかかわらず、研究者ハンス・モルデンハウアー(1906年 - 1987年)によって公開され、出版されると、現在しばしば演奏・録音されるヴェーベルン作品となった。大管弦楽のための牧歌《夏の風の中で Im Sommerwind 》(1904年)や《弦楽四重奏のための緩徐楽章》(1905年)がその代表であり、後者にはブラームスの影響が見られる。
作品番号つきの作品
管弦楽のための《パッサカリア》作品1 (1908年)
無伴奏合唱曲《軽やかなる小舟にて逃れよ》作品2 (1908年、詩:シュテファン・ゲオルゲ)
Der Siebente Ringによる《5つの歌曲》作品3 (1907-08年)
シュテファン・ゲオルゲによる《5つの歌曲》作品4 (1908-09年、ピアノ伴奏独唱曲)
弦楽四重奏のための《5つの断章》作品5 (1909年)
管弦楽のための《6つの小品》作品6 (初版:1909-10年、改訂版:1928年)
ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 作品7 (1910年)
リルケの詩による《2つの歌曲》作品8 (1910年)
弦楽四重奏のための6つのバガテル 作品9 (1913年)
管弦楽のための《5つの小品》 作品10 (1911-13年)
ピアノとチェロのための3つの小品, 作品11 (1914年)
4つの歌曲 作品12 (1915-17年)
4つの管弦楽歌曲 作品13 (1914-18年)
6つの歌曲 作品14 (1917-21年、編成:歌手、クラリネット、バスクラリネット、ヴァイオリン、チェロ)
5つの宗教的歌曲 作品15 (1917-22年、室内楽伴奏)
ラテン語詩による5つのカノン 作品16 (1923-24年、編成:ソプラノ、クラリネット、バスクラリネット)
3つの宗教的民謡 作品17 (1924-25年、編成:歌手、ヴァイオリン、ヴィオラ、クラリネット、バスクラリネット)
3つの歌曲 作品18 (1925年、編成:歌手、E♭管クラリネット、ギター)
2つの歌曲 作品19 (1926年、編成:混声合唱、チェレスタ、ギター、ヴァイオリン、クラリネット、バスクラリネット)
弦楽三重奏曲 作品20 (1927)
交響曲 作品21 (1928年)
四重奏曲 作品22 (1930年、編成:ヴァイオリン、クラリネット、テナー・サクソフォーン、ピアノ)
ヒルデガルト・ヨーネの詩集による3つの歌 作品23 (1934年)
協奏曲 作品24 (1934年、編成:フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、トランペット、ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノ)
ヒルデガルト・ヨーネの詩による3つの歌 作品25 (1934-35年)
混声合唱と管弦楽のための《眼の光Das Augenlicht 》作品26 (1935年、詩:ヨーネ)
ピアノのための変奏曲 作品27 (1936年)
弦楽四重奏曲作品28 (1937-38年、BACH主題による作品)
ソプラノ独唱、混声合唱と管弦楽のための《カンタータ第1番》作品29 (1938-39年)
管弦楽のための変奏曲 作品30 (1940年)
ソプラノ独唱、バス独唱、合唱と管弦楽のための《カンタータ第2番》作品31 (1941-43年)
作品番号なしの作品
チェロとピアノのための2つの小品(1899)
声とピアノのための3つの詩(1899?1902)
声とピアノのための8つの初期歌曲集(1901?1903)
Ferdinand Avenariusによる3つの歌(1903?1904)
《管弦楽のための牧歌『夏風の中で』》 Bruno Willeの詩による大オーケストラのための作品(1904)
弦楽四重奏のための《緩徐楽章(Langsamer Satz)》(1905)
弦楽四重奏曲(1905)
ピアノのための小品(1906)
ピアノのためのロンド(1906)
弦楽四重奏のためのロンド(1906)
Richar Dehmelによる5つの歌(1906?1908)
ピアノ五重奏曲(1907)
Stefan Georgeによる4つの歌(1908-1909)
オーケストラのための5つの小品(1913) Op.10に関連したFriedrich Cerha校訂版、1971年出版
声とオーケストラのための3つの歌(1913?1914)
チェロソナタ(1914)
ピアノのための《子供のための小品》(1924)
ピアノのための小品(メヌエットのテンポで)(1925)
弦楽三重奏のための小品(1925)
編曲作品
バッハ:『音楽の捧げもの』BWV1079から「6声のリチェルカーレ」(オーケストラ編曲)
F.シューベルト『ドイツ舞曲』(1932):1824年作曲の同名のシューベルトの作品のオーケストラ編曲[5]
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