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セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 19 日 20:42:10: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ガブリエル・フォーレ 『夢の中に』 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 18 日 21:15:30)

セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』


コルトーの 『フランク 前奏曲・コラールとフーガ 』


Cortot plays Franck Prelude, Chorale and Fugue (1929)





French 78 rpm records.
His Master's Voice (6 and 19 March 1929, Small Queen's Hall, London)
Alfred Cortot, piano
Prelude, Chorale and Fugue (Franck)
DB-1299/1300


▲△▽▼
▲△▽▼


奏曲、コラールとフーガ ロ短調(仏:Prélude, Choral et Fugue)は、セザール・フランクが作曲したピアノ独奏曲である。『プレリュード、コラールとフーガ』とも呼ばれる。


1884年作曲。1885年1月24日に国民音楽協会において、マリー・ポアトヴァン(Marie Poitevin)の演奏で初演され[1]、同年にエノック(Enoch)社より出版されポアトヴァンに献呈されている。ガブリエル・ピエルネによるオーケストラ編曲版も存在する。


1845年以降ほとんどピアノ曲を作曲していなかった[3]フランクにとって約40年ぶりの本格的なピアノ独奏曲で、ヴァンサン・ダンディによると、国民音楽協会への出品作にピアノのための大曲が少ないことが作曲の背景にあったという[4]。


フランクのピアノ曲のうちもっとも知られている作品であり[5]、矢代秋雄は、数年後に作曲された「前奏曲、アリアと終曲」とこの作品を、どちらもピアノ音楽における第一級の作品であるとともに「姉と妹のような関係」と述べたうえで、純音楽的な完成度では譲るもののピアニスティックな効果ではこの作品が勝っているとする。


コルトーは


「天才の表現力が本来は峻厳なものである形式を人間的なものにし、柔軟にし(...)これによって、フランクの作品はわれわれにたいし、悲壮でかつ抵抗しがたい支配力をふるうのである」


と評しており、またダンディはこの作品が「前奏曲とフーガ」の形式の刷新に大きな役割を果たしたと述べる。


対して、カミーユ・サン=サーンスはダンディの著書『作曲法講義』を扱った文章[7]の中でこの作品に触れ、「不体裁で弾きにくい曲だ。この曲では、『コラール』はコラールではなく、『フーガ』はフーガではない。なぜなら、『フーガ』は主題の提示が終わるや否や元気を失い(...)際限のない脱線によって続けられるのだから」[6]と評している。


構成
前奏曲、コラール、フーガの3曲からなるが、主題は連関しておりそれぞれは切れ目なく演奏される。


ダンディの証言によれば、はじめフランクはヨハン・ゼバスティアン・バッハに倣った「前奏曲とフーガ」の形式で作品を構想していたが、のちにコラールを挿入することを思いついたという。


フランクは多くの作品で三部分(楽章)構成を採用しており、自分にいちばん向いていると感じている形式だった[8]。


前奏曲
Moderato、ロ短調、4分の4拍子。
二つの主題が交互に現れるA-B-A'-B'-A"の形式。


バロック時代の組曲の「前奏曲」を下敷きに、アルペジオに乗ってBACH主題と類似した主題(譜例1)が現れる。続いて、フーガの主題(譜例4)を想起させる旋律(譜例2)が提示され、冒頭の主題が二度目は嬰ヘ短調、三度目はロ短調で現れて、静かにコラール部へと続く。
譜例1
譜例2

コラール
Poco più lentoに速度を落とし、これもフーガ主題を暗示する変ホ長調の穏やかな導入句が始まる。続いてハ短調で静かに提示されるコラール旋律(譜例3)は、その後ヘ短調、変ホ短調で現れ、音量を増してゆく。コラールの前後に導入句や挿入句を持っているため、矢代秋雄はこの部分を「コラールそのものではなく(...)コラール変奏曲、またはコラール幻想曲」と形容している。


コラール旋律は十字型の音型により[2]、ダンディはリヒャルト・ワーグナーの「パルジファル」に現れる「鐘の動機」との類似を、アルフレード・カゼッラは平均律クラヴィーア曲集第1巻第13番前奏曲(嬰ヘ長調)の一部との類似を指摘している。
譜例3

フーガ
Poco Allegroに速度を速める移行部がおかれ、フーガの主題を予示しながら変ホ短調からロ短調への転調が行なわれる。ロ短調に戻るとフーガが開始される。半音階的に下降する主題(譜例4)は、バッハのカンタータ第12番「泣き、嘆き、悲しみ、おののき(英語版)」、あるいはロ短調ミサの「十字架につけられ(Crucifixus)」の低音[9](ラメントバス)との類似が指摘されている。


まずはテノールに主唱が現れ、アルト、ソプラノ、バスの順で主題が提示される。推移を経て、ニ長調でもう一度主題が提示される。ここまではほぼフーガの定型通りであるが、これ以降はフーガの定型を大きく外れ、自由に変奏を行なう。クライマックスに達するとカデンツァ風のアルペジオが現れ、ロ短調でコラール主題(譜例3)が復帰、やがてフーガ主題と対位法的に組み合わされる。コーダはロ長調となったコラール主題で高らかに曲を締めくくる。
譜例4


https://ja.wikipedia.org/wiki/前奏曲、コラールとフーガ
 

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コメント
1. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月19日 20:50:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-240] 報告

ヴィスコンティ 熊座の淡き星影 Vaghe stelle dell'orsa








制作 65年 イタリア

キャスト クライディア・カルディナーレ,ジャン・ソレル,マリー・ベル 等々

使われた音楽 セザール・フランク作曲「前奏曲・コラールとフーガ」

使われた意図 ヨーロッパの精神世界の迷宮


かなり昔・・・もう10年以上前になるかな?それとも5年くらい前かな?
あのギリシャで大きな地震がありました。それを伝えた民放のニュース番組でこのように言っていました。

「あの有名な観光地のパルテノン神殿も被害を受けました!!」
私もその番組の正確な言葉は忘れてしまいましたが・・・
実際のところはパルテノン神殿の被害はそれほどなかったはずだし・・・
ダテに大昔から建っているわけではありませんよね?

しかし、地震そのものよりも私の心を揺さぶったのは、「観光地のパルテノン神殿」という言葉です。
これは驚きでしょ?
本来ならギリシャ政府からクレームが来てもおかしくないくらいですよ!
あの「パルテノン神殿」を「東京ディズニーランド」と同じ観光地扱いとは?!

ただ遊ぶだけだったら、「ディズニーランド」の方が楽しいでしょう。
パルテノン神殿は遊ぶというより、過去と対話する場所ですよね?
より的確な言葉だと、文化遺産という言葉になるでしょう。

しかし、パルテノン神殿だって、残された遺物から、その当時の人間の営みを連想できないような人には、単なるオブジェであり、まさに観光地なんですね。

過去を持たない人間や過去を考えることのない人間はつまらない。
しかし、過去を振り返らない姿勢は、別の言い方をすると、未来志向とも言えるのかも?
そのように肯定的に捉えることもできるでしょう。

しかし、すべての人間がそんなに簡単に過去を捨て去ってしまっていいの?
ウィーンの作家のフーゴ・フォン・ホフマンスタールは手紙の中で書いています。

「人間は生きるためには、過去を忘れ、過去を捨てないといけない。
しかし、人間の尊厳は、過去を忘れないこと、過去を捨てないことにかかっている。」

前向きに生きるというと、印象はいいのですが、人間の尊厳から外れることにもなりかねないわけ。
だから、過去にこだわる人間は、過去を簡単に捨ててしまうような人間を軽蔑し、敵意を持ったりする。

この「過去にこだわるもの」と「過去を捨て去ってしまうもの」・・・その間に横たわる無理解と対立が、描かれている作品、それがヴィスコンティ監督の「熊座の淡き星影」という作品です。

映画のあらすじは以下のようなもの。

イタリア人女性とアメリカ人男性の夫婦がアメリカに住んでいる。ちなみに、イタリア人女性には弟がいて、ロンドンに住んでいる。その姉弟の父親はユダヤ人。第2次大戦中に非業の死を遂げた父親の記念のための記念碑の除幕式のために、夫婦は妻のイタリアの故郷に戻ってくる。

実家に戻った妻は弟に再会し、かつての日々の思い出に囚われ、そこから逃れられなくなってくる。
そんな妻の姿をアメリカ人の夫は理解できない。
やがて・・・

さてさて、ここで「映画の中のクラシック音楽」を考えてみましょう。
使われている音楽はセザール・フランク作曲の「前奏曲・コラールとフーガ」というもったいぶったタイトルのピアノ曲です。その曲が最初に演奏されるのはジュネーヴでのサロンでのこと。女性ピアニストが演奏いたします。

しかし、これはヘンな選曲だ!
お酒が伴うようなサロンでピアニストが弾く曲が何故にセザール・フランクなの?
これをヘンと思わない人は、あの作品を理解したことにはならないでしょう。
だって、サロンでピアニストが弾く曲だったら、常識的にはショパンでしょ?
次に考えられるのはリストとか・・

この映画は第2次大戦が終わってかなり経った時代を舞台としています。いわば、当時の現代ものといえるでしょう。つまり舞台は1960年頃のこと。だから当時のサロンで弾かれる曲としては、ドビュッシーでもラヴェルでもいい。またモーツァルトでもいいわけです。エスプリがある人だったらフォーレの初期作品とか、すごく「粋」な人だったらクープランをもってくるとか・・・

あるいは、ヴィスコンティの最後の作品「イノセント」では、ショパンとモーツァルトとリストという選曲でした。まあ、これがサロンにおける「普通」の選曲。

いずれにせよ、フランクの曲をサロンで演奏するのは場違いなんですね。
だからサロンに集まっている人は、ピアノの演奏を聞いていないわけ。

大体、フランクの曲は華やかな響きもないし、甘いメロディーもない・・・いわば晦渋な音楽です。それにその曲のタイトルや、音楽のオルガン的な響きでわかるように宗教的な音楽。

私は、「山猫」という作品でのヴィスコンティの音楽の使い方・・・つまり、あえてミスマッチな「椿姫」の音楽を使用することによって、演奏者の知性の欠落を表現した例・・・について書いていますが、ここでも、敢えて映像の流れとは「合わない」音楽を演奏させていることになるんです。

そう!
ヴィスコンティはショパンの音楽が鳴らされるのにふさわしい場所で、晦渋で迷宮に満ちたセザール・フランクの音楽を演奏させることによって、これから展開されるストーリーの「前奏曲」としているわけですね。

「さあ!これから、晦渋で、精神的なお話が始まりますよ!!」というわけです。
映像から簡単に推測されるショパンと、実際に演奏されているフランクの対比・・・これはこの作品を理解するのに重要になるわけです。

大体、フランクのピアノ・ソロの曲なんて、生演奏で聴いたことがある人は何人いるでしょうか?

いや!プロのピアニストだって一生フランクのソロ・ピアノ曲なんて演奏せずにキャリアを終わる人の方が多いんじゃないですか?

フランクの曲は、例の「交響曲」と「ヴァイオリン・ソナタ」くらいしか、一般的には演奏されませんし・・・

演奏する側にとってもあまり面白くない・・・演奏家としての技量が発揮させにくい音楽といえるわけです。そのくせ音楽性の欠落は聞き手にわかってしまう。損な音楽なんですね。

聞き手にとっても、そう。
聞いていて面白くはない。目立つフレーズが出てくるわけではない。
聞きながら色々と考えなくてはならない音楽と言えるわけです。気軽に聞くことができない。

ショパンを演奏しておけば、ピアニストの音楽性が多少欠落していても、目立つフレーズでごまかすこともできるし、聞き手も楽しい。

フランクを演奏することは、芸術的に難しいことであると同時に、興行的にみてもリスクを伴うものと言えるわけです。

ですからサロンでショパンが演奏されていたら、「ごく一般的」のサロンであると言えますし、その場所がヨーロッパなくても成立いたしますが、フランクが演奏されるサロンはヨーロッパ以外にありえない。ヨーロッパ世界の晦渋さと迷宮が、このフランクの曲で象徴されているわけです。

ちなみに、このフランクの曲は、ジュネーヴのサロンで演奏されるだけではありません。一種の映画音楽としてピアノの演奏シーンのないところでも流されています。

例えば、妻の実家に向けてヨーロッパをドライブしているシーンで、このフランクの曲が流されるわけ。

オイオイ?!
これはムチャクチャですよ!

太陽の光を浴びながらオープンカーでドライブしているシーンに、どうしてフランクの重苦しい晦渋な曲が流れるの?

もっと「軽い」音楽の方がいいに決まっていますよね?
別にクラシック音楽でなくてもいいわけだし。だって、たかがドライブの時の伴奏音楽でしょ?

フランクの曲なんて、一番「場違い」の曲ですよ!
まだ、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の方が景気いいというもの。

しかし、このような「場違い」によって、これから起こり行く「重苦しく」「晦渋」なドラマを予感させているわけ。
ヨーロッパの精神世界の迷宮に向かって、「堕ちていく」メタファーといえるわけです。

ここで、ちょっとクラシック音楽から離れてみましょう。

この作品を理解するためのチェックポイントのひとつとして、アメリカ人の男性はいつも「8mmカメラ」を持っているというのがあります。まあ、この作品は、65年の古い作品(モノクロ)なので、今のように「8mmヴィデオ」というわけにはいかない。またこの夫婦はたいそうブルジョワなので、写真を撮るだけの「ただのカメラ」でもないわけ。「65年当時の8mmカメラ」なんですね。

ご主人はイタリアの珍しい「観光地」を、その「8mmカメラ」で一生懸命撮っている。

おお!まさに一時代前の典型的アメリカ人観光客ですね。今日の映画制作において、このカメラを手放さない観光客の役回りが、アメリカ人から別の国の人に変更されているのは、皆さんもご存知のとおり。

しかし、さすがに、妻のイタリア人はそんなことはしない。もともと自分の故郷なんだし・・・名家の育ちだし、今更ね。

エトルリア時代の遺跡を見ても、それを「観光地」と捉えて、「フィルムに収めて満足する」アメリカ人と、「過去の世界」に思いをはせるイタリア人。

アメリカ人の必須アイテムの「8mmカメラ」によって、この対比が明確に表現されているわけです。

また別のチェックポイントとして、そのイタリア人の妻が部屋のドアを開けるシーンがあります。そのシチュエーションが実に多いわけ。そんなことを書くと、
「今更、人間が『部屋のドアを開けるシーン』が映画的に見て意味があるのか?」
と疑問を持たれる方も多いでしょう?

ヴィスコンティ監督の「熊座の淡き星影」では、「部屋のドアを開ける」という行為は、過去を解き明かす・・・あるいは、「心の迷宮に分け入る」・・ということのメタファーになっているわけです。

だから、「部屋のドア」を開けるのは、常にイタリア人の妻の方で、アメリカ人の夫ではないわけ。アメリカ人は「積み重なる過去の問題」や「心の迷宮」などに分け入る気持ちはさらさらないというわけです。

イタリア人は・・・いやヨーロッパ人は、「過去の迷宮」に入らざるを得ない。まさに妄執に執りつかれたように、部屋へ部屋へと入り込んでいきます。さながら「青ひげ公」におけるユーディットのように・・・

ドアを開け、部屋に入っていくとそこから立ち上る毒に「魅了され」次々と、他の部屋に入っていくことになる。いわば「毒が毒を呼ぶ」状態。

こうして、イタリア人の妻は多くの部屋のドアを次々開けていき、その迷宮から逃れられなくなっていくわけです。

このようにヨーロッパ人は過去にとらわれている。しかし、ヨーロッパ人すべてが過去にとらわれているわけではありません。
やっぱり過去などにこだわらない人も多くいる。

この作品で、ジラルディーノというオヤジが登場しています。この姉弟は、そのオヤジさんをやたら嫌っている。映画の中では、自分たちの父親の非業の死に関係があると思っていることになっています。

しかし、本当かな?

このジラルディーノはそんなに悪い人なの?
そうでもないんですね。このジラルディーノのキャラクターについては、実に上手に描かれています。

アメリカ人の夫が主催した晩餐の席でのこと。

ジラルディーノは料理に手をつけ、その後で料理に粉チーズをかけ、ソースのような調味料もかけている。

今の日本では、このような食べ方を的確に表現する言葉があります。
「汁だく」という言葉。

そんな食べ方は、お世辞にも上品な食べ方とはいえないでしょ?

しかし、「汁だく」愛好家が権謀術数をめぐらす悪人である例はないでしょう。
このあたりのキャラクター描写は、それこそ「山猫」において、わざわざ「場違い」な、「椿姫」の音楽を演奏した農民出身のオルガン奏者と、描写の雰囲気が共通しています。

そんな人たちは、つまらない人かもしれませんが、決して「悪い人」ではないでしょ?

そんなこと、その姉弟くらいの知性があれば、スグにわかることです。
つまりこの姉弟が抱いているジラルディーノへの反感は、「過去を軽んじる」ものへの反感なんですね。

ジラルディーノは良くも悪くも「前向きに生きる人」。だからアメリカ人の夫とも話があう。

しかし、「過去にこだわる」キャラクターを持つ人間、たとえば、この映画における姉弟にしてみれば、軽蔑すべき存在に写る。

いわば、ソフォクレスの「エレクトラ」におけるクリテムネストラの役回りは、このジラルディーノが担っているといえるでしょう。「本来は自分たちの過去にこだわり、その遺産を受け継ぐべきイタリア人のクセに、どうしてそんなに過去を捨ててしまっているのか?」そのような近親憎悪的な反感があるわけ。

ご存知のように、ソフォクレスの「エレクトラ」を、ホフマンスタールが翻案した戯曲もあります。ホフマンスタール版の方は、エレクトラが過去にこだわる女性で、クリテムネストラが過去を忘れる女性というキャラクターの対比の作品でした。「本来は、あの人も、自分と同じように過去に拘るべきなのに・・・」そう思うからこそ、エレクトラがクリテムネストラへ寄せる憎悪は深まるわけです。

姉弟は過去にこだわるがゆえに、結びつく。過去を忘れないという尊厳ゆえに結びつくわけ。その姉弟をイタリア人女優と、フランス人俳優が演じているのは、全くの偶然とはいえないでしょう。

フランスという国もイタリアという国も、同じ祖先を持つものですからね。

ヴィスコンティのような「迷宮に満ちたヨーロッパ」という考えは、今現存している映画作家ですと、ラース・フォン・トリアーが一番です。ラース・「フォン」・トリアーとルキノ・「ヴィスコンティ」。まさに迷宮に満ちた宮廷政治の後継者というわけですね。

彼らは、アメリカのすがすがしい清潔さの価値を認めながら、毒に満ち満ちたヨーロッパを愛しているわけです。フォン・トリアーもヴィスコンティもアメリカ人の単純さを軽蔑している・・・ヴィスコンティが見つめる「過去を持たぬもの」と「芳醇な過去」を持つものの対比の構図は、63年の「山猫」や、この「熊座の淡き星影」以降に顕著に現れてきます。

ちなみに、この「熊座の淡き星影」はヴィスコンティ唯一のミステリーなんだそうな・・・

この作品で、この「姉弟の過去に何があったか?」とか「姉弟の父親の殺害したものは誰か?」ということについて真実は最後まで明らかにされません。だってそんなことはどうでもいいことなんですからね。
過去に何か事件があって、謎が謎を呼ぶ、それで十分なんです。事件の内容が重要なのではない・・・解決されていない謎が存在する・・・そのことが重要なんですね。

つまり最大のミステリーはヨーロッパの精神世界そのものと言えるわけです。
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-09/03-9-23.htm
2. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月19日 20:58:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-239] 報告

クラシック音楽 一口感想メモ
セザール・フランク(Césart Franck, 1822 - 1890)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/フランク


ドイツ的な構築性を持ち、フランス的な美的な感覚や感性もあるいい作曲家。
音楽に温かみと繊細さと深さがある。


管弦楽作品

交響曲 ニ短調(1888年)
3.0点
この曲はフランスを代表する交響曲と評価が高い。しかし正直いって、音色が鈍くて展開もはっきりせず、耳につくメロディーも無いし雰囲気は陰鬱で、はっとさせられる場面もなく、フランクの室内楽の明快な素晴らしさと比べて非常に分かりにくい。1楽章が特に分かりにくく2、3楽章はまだそれなりに理解しやすい。ブルックナーと同様に聴く側に修行が必要で、名演奏であることが必要な曲なのだろう。私はまだ修行が足りない。


交響的間奏曲「贖罪(改訂版)」(1874年)
3.3点
ワーグナーに似すぎだろう。豊かさのあるネチネチとした耽美に威勢のよいファンファーレを合わせる中間など、そのままである。たっぷりとした弦の歌わせ方もそのままだ。そのコピーぶりはオリジナリティ重視の観点ではあまり評価できないが、曲としてはなかなか良い。それなりに感動できる。

交響詩「アイオリスの人々」(1876年)
3.0点
かなりワーグナー色が強い。しかしながら地味だし、それこそワーグナーの楽劇の中のとある一場面程度の重さしかないような、軽くて一つの作品としての独立した価値に欠ける。つまらなくはないが、あまり良い作品と思わない。

交響詩「呪われた狩人」(1883年)
3.5点
驚いたことに、ワーグナー的な描写性と音の躍動感がかなり優れている、活発で劇的な曲である。偏見と知識不足だったのかもしれないが、これほど活発な音楽を書く人とは思っていなかったためかなり驚いた。ワクワクさせられる楽しい曲で、渋さの要素はほとんどない。音のセンスは充分で、軽薄すぎない大作曲家らしい曲になっていると思う。ドイツ風であり、フランス風味が少ないからそう感じるのかもしれない。

交響詩「プシュケ」(1888年)

管弦楽とピアノのための作品

ピアノ協奏曲第2番ロ短調作品11
2.0点
ショパンの協奏曲を強く連想する。単純素朴で十分に機能していないオケの伴奏が特に似ている。ピアノ独奏がこなれていないところも似ている。どちらも書法の質はショパン以下だと思うし、ショパンと違い曲としての聞き所や魅力も特にない。若き日の作品だが、これだけ聴くと後年の大成を予想するのは難しいだろう。そのような歴史的価値しかない曲だと思う。

交響的変奏曲(ピアノと管弦楽のための)(1885年)
3.3点
晦渋な主題を少しずつ変奏していく前半は地味であり、出来はよい曲だが繊細な微妙なニュアンスを感じとるのは大変である。後半はピアノ協奏曲らしい華やかな曲になって終わる。

交響詩「鬼神(ジン)」(1884年)
3.0点
独特のピアノ独奏付きの交響詩。ピアノは華やかに活躍するが、しかしそれが主目的の曲という感じでもない。フランスとドイツの混ざった独特の中立的な音楽とは思う。しかし、聴き方が良く分からないのも確か。

ピアノ曲

前奏曲、フーガと変奏曲(1873年)
3.0点
3つの部分の雰囲気があまり大きく変わらない。悲劇性を帯びた渋い曲想は分かりやすくかっこいい。しかし、オリジナルがオルガン曲であるためピアノ曲にしては鈍重すぎるきらいがある。

前奏曲、コラールとフーガ(1884年)
2.8点
ベートーヴェン的な精神的な深みはあるが、鈍く音を重ねて雰囲気が作られており、ピアノ的でないので聞きやすくない。最後にフーガが入る事で曲の見通しが良くなる点が次作より聞きやすいところ。しかしまとまっな完成度では一歩劣るか。

前奏曲、アリアと終曲(1887年)
2.8点
3楽章のソナタのような規模である。前半の2つの曲はコラールのような静かな曲で、最後の楽章は活発になる。オルガニストだからか、ピアノ曲らしい軽やかさが無い。メロディーや雰囲気はフランクらしい精神的な深みと高みがあるのだが、書法の問題か印象に残りにくいので分かりにくい。

室内楽曲

ピアノ五重奏曲 ヘ短調(1879年)
4.0点
1楽章や2楽章は夜の雨の中を歩くような雰囲気での、情熱や憂鬱や高潔さが混じった雰囲気が素晴らしい。3楽章の内面的な情熱と感動も良い。ピアノが全般に静かで、ピアノ五重奏ではこれがバランスとしていいのかもしれない。分かりやすい曲ではないが、ピアノ五重奏の代表作の一つ。


ヴァイオリンソナタ イ長調(1886年)
5.0点
曲の人気からも明白なように、ロマン派以降のヴァイオリンソナタの中でずば抜けた魅力がある。美しいメロディー、精妙な和声、透明感、堅固な構築性、艶めかしい美しさと胸の内から湧き出す情熱など、魅力が一杯である。全ての楽章の全ての場面が傑作で緩みがなく、しかも全体のバランスが良い。空想的な3つの楽章の後に奏される、4楽章のカノン風に掛け合いされる純粋な美しさの主題が特に印象的で、一度聴くと頭から離れなくなる。

弦楽四重奏曲 ニ長調(1890年)
3.3点
フランクの奥ゆかしい繊細な音楽性は弦楽四重奏の響きと相性がよいと予想して聴いた。聴いてみてその予想はある程度は当たった。残念ながら1楽章は響きが重くて厚ぼったく心地よさが足りず、15分もあるので嫌になってくる。2楽章は響きが軽くなりいい感じ。3楽章は繊細な織物のような曲で奥ゆかしくて、期待通りの素晴らしさ。ただし冗長。4楽章は活発な曲でシューマン的な高揚感を出しながらも奥ゆかしさがあり良い感じ。

オルガン曲

6つの作品(幻想曲ハ長調、交響的大曲、前奏曲、フーガと変奏曲、パストラール、祈り、終曲)(1862年)

幻想曲ハ長調
3.0点
瞑想的似た薄い音を動かす場面が多い。和声がシンプルで、少し古い時代の曲のようだ。次々と新しい場面に移り変わっていく幻想性は好きなのだが、やはり単純すぎて凡庸な曲に聞こえてしまうので、残念な気分で聞いてしまう。

交響的大曲
3.5点
基本的に大曲好きな自分だからかもしれないが、この曲はなかなか気に入った。交響曲ほどではないにしても、かなりの内容ボリュームであり、がっつり聴かせる。感動あり、怖れあり、反省あり、いろいろな感情が渦巻いている。それを、ある意味でオーケストラよりも大きなオルガンでひと続きに聴かせるのは圧巻だ。曲の長さでいえばリストのピアノソナタと同程度。さすがに密度や完成度は差があるにしても、スケール感などは似たものを感じる。

前奏曲、フーガと変奏曲
3.0点
とても物悲しい雰囲気で悪くはないのだが、分かりやすいすぎて、まるでロールプレイングゲームの悲しい場面の音楽のようだ。オルガンの使い方があまりに陳腐である。嫌いではないが、これを人に勧めるのははばかられる。

パストラール
3.0点
最初と最後は穏やかで柔らかい曲であり、パストラールの標題も分からなくはない。しかし、中間は瞑想的であまりそぐわない。パイプオルガンの音が少し軽く聞こえてしまうし、全体にやや平凡な感があり、曲集の一つとしてはよいが全体としてはいまいち物足りない。

祈り
3.0点
孤独の中で祈りを捧げる精神と身体をうまく表現されている曲であると思う。名作とは思わないが、独特な表現に成功している面白い曲としては評価できる。

終曲
3.0点
壮大な終局をみせる終曲である。予想できる範囲内の出来ではあるが、それなりのスケールで締めくくってくれる。

3つの作品(幻想曲イ長調、カンタービレ、英雄的作品)(1878年)

幻想曲イ長調
3.3点
モーツァルトの幻想曲のような瞑想的な雰囲気であり、展開のされ方にもどことなく似たものを感じる曲。雰囲気も展開もなかなか楽しめるものであり聞き入ってしまう。

カンタービレ
3.3点
まさに歌うようなしみじみとしたメロディーを聞かせる曲。ベタなようでもけっこう心にぐっとくるものがある。オルガンの素敵さの一端を感じさせてくれる。

英雄的作品
3.0点
がっつりと英雄的な強靭さを聞かせる曲。しかし、フランクらしい半音階的な中で聞かせるので、単純ではない。生で聴いたらさぞかっこいいことだろう。

3つのコラール(1890年)

コラール1番
3.5点
最晩年の3つの大作コラールの1曲目。半音階的な複雑な和声進行が印象に強く残り、ブルックナーの交響曲9番の3楽章のような神に捧げる祈りの音楽になっている。最初ずっと同じ雰囲気で十分に満足できるだけの時間を祈りに使ったあと、中間からは強烈な和音に始まり不安をかきたてる。これも平凡さがない独創性があり、非常に効果的。最後は感動的にしめくくる。作曲技術の高さとたどり着いた境地の高さに驚く曲。

コラール2番
3.8点
短調でドロドロとした暗黒の世界が最初は続く。オルガンしか出来ない不思議な世界観であり、かなり前衛的にも感じる。突然の悲劇的な悲鳴に続いて、かなり焦燥的ともいえるような不思議な切迫感のある部分に移る。ここはかなり聞き入った。秀逸だと思う。オルガンならではの独特な表現と半音階的なフランクの音楽が非常に独創的な世界を築いていて、未来的ともいえるほど。オルガンはすごい楽器だ。かなり驚いた。

コラール3番
3.0点
感傷的な甘さのある前半部分。前の2曲ほど超越的でなく人間的なのが分かりやすい。しかし、圧倒感のある魅力がない。後半部分がかなり平凡なのはもっと残念で、聴き終わったあとに残念感がかなりある。前の2曲が凄かっただけに残念である。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/フランク

3. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2020年2月20日 13:54:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-214] 報告

セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク(César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck、1822年12月10日 - 1890年11月8日)は、ベルギー出身、フランスで活躍した作曲家、オルガニスト。


ネーデルラント連合王国のリエージュに生まれ、この町で1834年には最初のコンサートを開いている。弟のジョゼフ(1825年 - 1891年)とともに幼くしてピアノの才能を示し、父は彼らをリストのような大ピアニストにすべく英才教育を行った。1834年にリエージュ王立音楽院を卒業し、1835年に一家でパリに移住するとアントニーン・レイハなどに教えを受けた。1837年にパリ音楽院に入学し作曲、ピアノ、オルガンなどを学んだ。

1842年に退学し帰郷したが、1844年には再びパリに戻って活動した。その後作曲家志望を固め、また父の意に沿わぬ結婚をしたことなどから父とは決別した。リストやショパンにも才能を注目されたが、ピアノ教師として、またその後は教会オルガニストとしてつましい生活を送った。この間作曲家としてはオラトリオなど宗教音楽を中心に手がけている。また、フランス国内を広く旅してオルガン製造者のアリスティド・カヴァイエ=コルが設置したオルガンを紹介して回った。

1858年に就任したサント・クロチルド聖堂のオルガニストの職には、その後生涯にわたってとどまった。1871年にはサン=サーンス、フォーレらとともにフランス国民音楽協会の設立に加わり、1872年にパリ音楽院の教授に迎えられた。最晩年の1885年ごろからヴァイオリン・ソナタ イ長調、交響曲ニ短調など、現在よく知られる代表作を次々に作曲し、にわかに注目された。

彼の弟子のヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ガブリエル・ピエルネ、アンリ・デュパルク、ギー・ロパルツや、その影響を受けたアルベリク・マニャールらは“フランキスト”と呼ばれ、のちにドビュッシーらの印象主義音楽と対抗することになる。


生涯

幼少期と学生期 (1822年–1842年)

フランクはネーデルラント連合王国(現ベルギー、1830年からワロン語圏ベルギーとなっていた)のリエージュで生まれた。

元来ドイツ系の家系で、父のニコラ=ジョゼフ・フランク(Nicolas-Joseph)は銀行家でベルギー国境付近の出身、母のマリー=カテリーヌ=バルブ・フランク(Marie-Catherine-Barbe 旧姓フリンクス Frings)はアーヘンの出身であった。

セザールは幼い頃から絵画と音楽の才能を示しており、父のニコラ=ジョゼフは息子がフランツ・リストやジギスモント・タールベルクのような若き神童ピアニスト兼作曲家となって、一家に富と名声をもたらすことを夢見ていた[1]。

父によってリエージュ王立音楽院に送られたフランクはソルフェージュ、ピアノ、オルガン、和声学をジョゼフ・ドーソワーニュ=メユールら他の下で学んだ。

フランクの演奏会デビューは1834年のことで、建国間もないベルギー王国の国王レオポルド1世も臨席していた[2]。

1835年、息子をより広い聴衆の前に出す時が来たと決意した父ニコラ=ジョゼフは、彼と弟のジョゼフを引き連れてパリへと赴き、彼らにアントニーン・レイハによる対位法の、またピエール・ジメルマンによるピアノの個人的なレッスンを受けさせた。レイハとジメルマンはパリ音楽院の教授も務めていた。

10か月後にレイハがこの世を去ると、ニコラ=ジョゼフは2人の息子の音楽院入学の方策を模索するようになった。しかしながら音楽院は国外の学生を受け入れていなかったため、ニコラ=ジョゼフはフランス国籍の取得に向けて動くことになり、1837年には帰化が認められた[3]。

この間ニコラ=ジョゼフはパリで息子らが単独で、もしくは2人が同時に出演するような演奏会やリサイタルを企画した。こうした場で彼らは主に当時の流行音楽を演奏し、おおむね好評を得ていた。

セザールとジョゼフは1837年10月にパリ音楽院に入学を果たした。セザールはジメルマンの下で引き続きピアノの修行を積むと同時に、エメ・ルボルン(Aimé Leborn)に作曲を師事するようになった[4]。彼は1838年、初年度の終わりにピアノの1等賞を獲得し、以降も高い水準の演奏を維持していった。一方で対位法の成績はそこまで目覚ましいものではなく、1838年から1840年まで1年ごとに3等賞、2等賞、1等賞と順位を伸ばしていった。

フランクはフランソワ・ブノワのオルガンの指導も受けるようになり、演奏と即興演奏を学んで1841年には2等賞を獲得した。その翌年には作曲でローマ大賞への出品を目指していたものの、理由は不確かながら1842年4月22日に音楽院を「自主」退学してしまう[5]。

父ニコラ=ジョゼフがフランクに音楽院を去るよう命じたのではないかと考えられる。フランクは学問の習得に励む傍ら、父の要請により個人的な音楽指導を行い演奏会もこなしていた。

「それは彼にとっては辛い日々で(中略)気性が荒く執念深くさえあった彼の父の振る舞いにより、毎日が楽になるようなことはなかった(略)[6]」

若いフランクが時にヴァイオリンを演奏する弟を伴って、自作曲を交えながら披露する演奏会は最初こそ好意的に受け入れられたものの、次第にニコラ=ジョゼフの商業的な息子の売り出し方がパリの音楽雑誌や批評家の反感を買うようになった。フランクのピアニストとしての技量は認められていたが、この時点では公正に判断するならば彼の作曲家としての腕前は未熟なものだった。

状況は、ニコラ=ジョゼフとRevue et Gazette musicale誌で首席評論家を務めるアンリ・ブランシャール(Henri Blanchard)の間で確執が生じたことでさらに悪化した。ブランシャールはニコラ=ジョゼフがひどく気取っていることを酷評し、上の息子の「荘厳な」名前を嘲った。こうした敵意は「疑いなく個人的なもの[7]」であったが、ニコラ=ジョゼフにベルギー帰国が必要だと思わせるには十分だったようで、1842年に「有無を言わせぬ命令[5]」が下されたフランクは音楽院を後にして父に付き従がわざるを得なかったのである。

教師、オルガニスト時代 (1842年–1858年)

ベルギーへ帰国したフランクだったが、祖国には2年と留まらなかった。収入源となるような演奏会を開くことは出来ず、批評家達は無関心か軽蔑的かのいずれかであり、ベルギーの宮廷からの援助は得られそうになかった(もっとも、国王は後になってフランクにゴールドメダルを授与することになる)[8]。資金を得る術はなかったのである。ニコラ=ジョゼフに関する限りは、帰郷が失敗に終わったため息子をパリでの音楽指導と家庭向け演奏会の生活に引き戻そうとしていた。この演奏会についてローレンス・デイヴィス(Laurence Davies)は、過酷で実入りの少ないものだったとしている[9]。しかし、長い目で見ると若きフランクにとってこの経験は有益な側面も持ち合わせていた。なぜならこの時期にパリへ戻れたことで、彼は音楽院に復学して最後の数年及びその後の時間を過ごすことが出来たからである。また、彼の最初の成熟した楽曲となるピアノ三重奏曲集が完成したことにもこの期間の役割が大きい。これらの作品はフランク自身が初めて自作と認め得たものであり、作品を見たリストは激励と建設的批判を与えた上で自らも数年後にヴァイマルで演奏している[10]。

1843年、フランクは室内楽作品以外では初の挑戦となるオラトリオ『ルツ』の作曲に取り掛かった。この作品はリスト、マイアベーアをはじめ他の有名音楽家を招いて1845年に私的に初演され、ほどほどの賛辞と前向きな提案を得た[11]。しかしながら、1846年初頭に行われた公開初演においては聴衆が関心を示さず、オラトリオの芸術性の欠落と単純さには冷たい批判が浴びせられた[12]。この作品が次に上演されたのは1872年、大改訂を加えた後のことであった。

これにともない、フランクは公の活動からは実質的に身を引き、教師と伴奏者として陽の当たらない生活をするようになった。彼の父もしぶしぶこれを認めた。フランクはパリとオルレアンの両方で、こうした仕事や歌曲や小規模な作品の作曲の依頼を受けていた。彼の元には1848年の第二共和政の成立を祝し、これを強固にするような作品の依頼が舞い込んでおり、そうした作品には聴衆が関心を示すようなものもあったが、ルイ・ナポレオンの下で第二帝政が立ち上げられたことで演奏の機会を失ってしまった。1851年にはオペラ『頑固な召使い』に取り組んだものの、リブレットは「最低の文学的出来[13]」であり、曲は慌てて書きつけられたようなものだった。フランク自身も終生「印刷する価値のないものだった[14]。」と言い続けることになる。しかし、概していえばこうした隠遁生活はそれまで脚光を浴び続けてきたフランクには休息となったと考えられる。「フランクは神の思召しに従い、いまだ全くの闇の中にいた[15]。」そして、この期間に生じた2つの大きな変化が、彼のその後の人生を形作ることになっていく。

まず1点目は、フランクが両親とほぼ完全に縁を切ってしまったことである。直接の原因となったのは、彼がピアノの教え子であったウジェニー=フェリシテ=カロリーヌ・セイヨ(Eugénie-Félicité-Caroline Saillot; 1824年-1918年)と親密となり後に恋人関係となったことであった。

彼女の両親はデムソー(Desmousseaux)という芸名で活動するコメディ・フランセーズ会社の一員であった。フランクは彼女と音楽院時代からの知り合いであり、若いフランクにとってフェリシテ・デムソーの家庭は威圧的な実の父からの避難所のような存在となっていた。1846年にニコラ=ジョゼフは息子の書類の中から「喜ばしい記憶の中のF.デムソー嬢」への献辞が付された楽曲を発見し、本人の目の前でそれを破り捨てたこともあった。フランクはそのままデムソー家へと向かい、記憶を頼りに曲を書き起こして献辞と共にフェリシテへと贈った。

ニコラ=ジョゼフとの関係は、彼が息子の婚約や結婚の意志を一切認めようとしなかったことでさらに悪化した[注 1]。ニコラ=ジョゼフはさらに母を苦痛に陥れたとしてフランクを非難し[注 2]、フランクのいかなる縁談も夫婦間の毒殺事件という醜聞に繋がるに違いないと怒鳴りつけたのである[16]。7月のある日曜日、フランクは持てるものだけを持って両親の家を後にすると、そのまま歩いてデムソー家に向かって移り住んだ。デムソー家で歓迎を受けた彼は二度と実家には戻らなかった。この時以来、若いフランクは名乗る際や書類や作品への署名を「César Franck」もしくは単に「C. Franck」とするようになった。「これは彼が父ときっぱり決別し、かつ周囲にそれを知らせようとする意志の現れであった。(中略)彼は元の自分とは出来るだけ違った、新しい人間になろうと決意したのである[17]。」

フェリシテの両親の注意深くも友好的な眼差しの中、フランクは彼女へ求婚し続けた。1847年に彼が25歳となるや否や、彼は父にフェリシテとの結婚の意志を伝え、実際に二月革命が勃発したのと同月の1848年2月22日に念願を成就させた。教会にたどり着くまでに一向は革命群が築いたバリケードを乗り越えなければならなかったが、ダンディが伝えるところでは「この仮設の要塞の後方に集まっていた大勢の蜂起民が進んで手助けをした[18]。」結婚にあたってはフランクの両親も和解の上、式典に出席するとともに登記簿への署名を行った。この時のノートル=ダム=ド=ロレット教会(Notre-Dame-de-Lorette)がフランクの教区教会となった。

2点目は上記のように、ノートル=ダム=ド=ロレット教会がフランクの教区教会となったことであった。1847年にこの教会のオルガニスト補佐となったフランクであったが、これを契機として次々とより重要で影響力の高いオルガニストの職を歴任していくことになる。

フランクは音楽院時代にピアニストとして異彩を放ったのと同じようにオルガニストとして輝きを見せたわけではなかったが、彼はオルガニストの職を嘱望しており、そこには安定した収入が望めるという理由が少なからずあった。

こうして彼は人々の礼拝に必要な技術を学ぶという形でローマ・カトリックへと帰依する機会を得て、時おり上司にあたるアルフォンス・ギルバ(Alphonse Gilbat)の代役をこなすこともあった。この教会におけるフランクの働きが、1851年に新しく建立されたサン=ジャン=サン=フランソワゾー=マレ教会(Saint-Jean-Saint-François-au-Marais)に牧師(curé)として移ってきたダンセル牧師(Abbé Dancel)の目に留まった。

2年後、牧師はフランクを「titulaire」の地位、すなわち第1オルガニストへと誘う。フランクの新しい教会にはアリスティド・カヴァイエ=コルが設置した優れた新式のオルガン(1846年製)が備えられていた。カヴァイエ=コルは芸術性に恵まれ、機能的には革新的な大オルガンの制作で名を馳せていた。フランクは「私の新しいオルガンはまるでオーケストラのようだ![19]」と述べていた。

フランクの即興演奏の能力は非常に必要とされるようになっていた。というのも、当時の礼拝の慣習においてはミサや礼拝で歌われる単旋律聖歌の伴奏を行った上で、そこから楽想を派生させて聖歌隊による歌唱や神父の説教との間を繋がねばならなかったからである。さらにフランクの演奏能力とカヴァイエ=コルの楽器への愛情が合わさったことで、彼はカヴァイエ=コルと協力関係を結ぶことになる。フランクはフランス中を訪ねて回って古い楽器を引き立てるとともに、新しい楽器の除幕式で演奏する役割を担った。


期を同じくして、フランスにおけるオルガン演奏には革命が起こっていた。バッハの伝記作家として知られるヨハン・ニコラウス・フォルケル[20]門下でドイツのオルガニストであるアドルフ・フリードリヒ・ヘッセは、1844年のパリにおいて、バッハ作品の演奏が可能となるような足鍵盤の技巧とドイツ式の足鍵盤を披露した。これはフランクがブノワから音楽院で学んだ奏法の範疇からは全く外れたものだった。大抵のフランスのオルガンにはそうした作品に用いられている足鍵盤の音がなく、クープランの時代から続くフランスの由緒ある古典的なオルガンの伝統も、その当時は即興演奏を重視するあまりないがしろにされていたのである。

ヘッセの演奏もまばゆい超絶技巧によって一過性の騒ぎになったに過ぎないと思われる。続いて1852年から1854年にかけては、当時ブリュッセル王立音楽院のオルガン科で教授を務めていたジャック=ニコラ・レメンスがパリを訪れた。レメンスは技巧的なバッハ演奏家であるにとどまらず、全てのオルガニストが正確に、音を濁らせず、レガートのフレージングをもって演奏できるようになるオルガン指導法を開発した人物だった。フランクは1854年にレメンスが出演したのと同じ就任記念演奏会に出席しており[21]、レメンスの古典的なバッハの解釈を高く評価するのみならず、その素早くかつ均質な足鍵盤さばきにも称賛を惜しまなかった。ヴァラ(Vallas)によればオルガニストになる前にピアニストであったフランクは「生涯自分自身でレガートの様式を確立するには至らなかった[22]」ものの、そのような技術を取り入れることでオルガン演奏の幅を広げることが出来るということは認識しており、技術の習得に向けた取り組みを開始していたという[23]。


サン=クロチルド教会の正オルガニスト期 (1858年–1872年)

フランクは彼の3つ目かつ最後となるオルガニスト職に刺激され、活気づいていた。1858年1月22日、彼は奉献間もないサント・クロチルド聖堂のメートル・ド・シャペル(maître de chapelle)のオルガニストに就任した。この職は彼がその後生涯にわたって留まるものである。

7か月後、この教会に新設されたカヴァイエ=コルのオルガンは3段の手鍵盤を備えるもので[24]、フランクがこの楽器の正奏者になるとともにテオドール・デュボワが合唱指揮者と副オルガニストを務めることになった。

このオルガンがフランクの演奏と作曲に与えた影響は最初期のピアニストとしての経験同様に、彼のその後の作曲活動を考えるにあたって無視することはできない。ノルベール・デュフォルク(Norbert Dufourcq)はこの楽器について「疑いなく制作者のこの時期までの傑作として位置付けられる」と記している[25]。フランク自身はサント・クロチルド教会の司祭にこう述べている。

「私がどれほどこの楽器を愛しているのか、あなたがご存知だったなら(中略)指の下でのしなやかさ、そして私の思いに従順なことといったら![26]」

フランク自身も30鍵の足鍵盤を持つこのオルガンの性能に負けじとプレイエル社から購入した練習用の足鍵盤を自宅に置き、教会のオルガンの前で何時間も過ごすのに加えて足鍵盤の技術向上に勤しんだ。このオルガンが持つ響きの美しさと注がれた優れた技術により、彼は即興演奏家として、またオルガンはもちろん他のジャンルの作曲家としても名声を得るようになっていった。

オルガン曲、声楽曲、そしてハーモニウム曲が順繰りに作曲されるようになり、そうした中で生まれた楽曲では『3声のミサ曲』(1859年)が最もよく知られる。

この作品は何年もかけて作曲されたために楽章間で出来が不揃いであるが、ここからフランクの作品中でも最も長く愛される曲の1つである『天使の糧』が生まれている。

これ以上に注目されるのが、1860年から1862年にかけて書かれた[注 3]オルガンのための『6曲集』である。この曲集は今日でも演奏機会の多いオルガンであり、ローリン・スミス(Rollin Smith)によれば100年以上にわたるフランスのオルガン芸術史における初めての傑作、そして「メンデルスゾーン以降に書かれた最も重要なオルガン音楽」である[27]。

フランクは各曲をサン=サーンスなどの同僚のピアニストやオルガニスト、師であるブノワ、そしてカヴァイエ=コルに献呈している。

曲集中の『前奏曲、フーガと変奏曲』Op.18と『交響的大曲』Op.17はフランクのオルガン作品の中でも最もよく知られるものである。

オルガニスト、即興演奏家としての名声が高まるにつれ、フランクはますますカヴァイエ=コルが新設または改修したオルガンの除幕式や奉献式での演奏を任されるようになっていった。彼はルイ・ルフェビュール=ヴェリーがオルガニストとなったサン=シュルピス教会の新しいオルガン(1862年)をはじめ、以降ノートル=ダム教会、サンテチエンヌ・デュ・モン聖堂(英語版)、サントトリニテ教会などで演奏した。

これらの楽器の中には彼が単独、もしくはサン=サーンスと共に助言を行ったものもある。フランクが担当するサント・クロチルド聖堂では、彼の即興演奏を聴くために人々がミサや礼拝に訪れ始めていた。さらに、フランクは自作や他の作曲家の作品を取り上げて聖堂でのオルガン演奏会を開催するようになっていた。そうした中でおそらく最も知られる演奏会は1866年4月にリストが出席した日曜ミサだろう。聖歌隊席に腰かけてフランクの即興演奏を聴いたリストはこう述べた。

「あの時のピアノ三重奏曲集を書いた人物のことを、これまでに私が忘れてしまうことなどあり得るだろうか。」これに対してフランクはこう不平をもらしたのではないかと思われる。「あれ以降、もっといい仕事をしてきたと思うのだが[28]。」そのひと月後にリストはサント・クロチルド聖堂においてフランクのオルガン作品を紹介する演奏会を企画し、聴衆から好評を得るとともに音楽雑誌にも好意的に報じられた。

フランクはリストだけでなく、活動の主軸をドイツに置くハンス・フォン・ビューローの演奏が聴けることを喜んだ。また、フランクは1869年にノートル=ダム聖堂でアントン・ブルックナーの演奏を耳にし、ドイツのオルガン音楽とそれらをいかに演奏すべきかという点について理解を深めている。彼は定期的に門下生の集まりを催すようになり、オルガンには建前から関わっていたに過ぎなかった弟子たちもフランクの作曲技法に関心を示すようになっていった。

フランクはこの時期にも合唱を用いた作品を作曲し続けたが、大半は出版されないままとなった。当時は音楽院を修了した音楽家でも皆がそうであったように、フランクは過去の多声音楽に詳しくなかった。フランクは礼拝音楽をその当時の様式に沿って作曲し、デイヴィスはこれを「宗教的な偏りを持つ世俗音楽」と表現した[29]。

そうした状況ではあったがフランクは1869年から主要な合唱作品となるオラトリオ『至福』の作曲にとりかかり、普仏戦争の勃発による中断等を経て10年余りをかけて完成させた。1848年の革命の際と同様に、この戦争によって彼の弟子の多くがパリを離れ、もしくは戦闘で落命するか障害を負うなどして彼の元から去っていった。彼は再び愛国的な楽曲をいくつか作曲したが、当時は時代の厳しい状況の下では演奏されることはなかった。収入が減少するとともに食料品や燃料の価格が高騰し、フランクとその一家は経済的な苦境に陥った。音楽院も1870年から1871年の年度は開校しなかった[30]。こうした中、フランスの音楽家の間には自らの音楽に対する認識の変化が生じていた。とりわけ戦後からは確固たるフランスの音楽として「ガリアの芸術 Ars Gallica[31]」を追い求めるようになったのである。この言葉は新たに結成された国民音楽協会の標語として掲げられた。フランクは協会の最古参の会員となり、1871年11月に開かれた最初の演奏会のプログラムにはフランク作品が取り上げられた。


「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期 (1872年–1888年)

フランクの名声は今や演奏家として、国民音楽協会の会員として、そして少ないながらも忠実な弟子たちの存在によって広く知れ渡っていた。1872年に授業を再開したパリ音楽院でブノワがオルガン科の教授から退官すると、フランクが後任として推されることになる。

誰が推薦人であったのかについては不確かな点がある。サン=サーンスとテオドール・デュボワはそれぞれ異なる時期に自らの関与を認めており、それはカヴァイエ=コルも同様である[32]。確実なのはフランクの名前が候補者一覧の一番上に記載されていたということ、そしてこの推薦によってフランクが任用に必要なフランス国籍を有していないことが公になってしまったという、きまりの悪い事実であった。

フランクの父のニコラ=ジョゼフは息子を音楽院へ入学させるべくフランスへと帰化させていたが、これはフランス政府に成人として忠誠を宣言しなければならない21歳までの期限付きだったということをフランクは知らなかったのである。フランク自身は父による国籍変更の手続き以後、ずっと自分がフランス国民であると考えていたにもかかわらず、実際は知らぬ間に元の国籍であるベルギーへと戻されて人生の大半を過ごしていた。すぐさまフランクは再度帰化申請の手続きに入り、1872年2月1日に予定されていた任用は1873年へと変更になった。

フランクの下に集った弟子の多くは音楽院で学んでいた者か、在籍中の学生であった。中でもヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ルイ・ヴィエルヌ、アンリ・デュパルクらはとりわけ有名である。この集団は徐々に師弟間で相通ずる尊敬と愛情によって固く結ばれるようになっていった。ダンディはこれを新たな門弟が個々に、しかし誰もが師のことを「ペール・フランク Père Franck」すなわち「父フランク」と呼ぶようになったことと関連付けている[33]。

一方、フランクは教員生活において緊張を強いられる場面も経験していた。彼はオルガンによる演奏や即興の技術と同等に作曲の指導を行う傾向があった。また、音楽院が認可した公式の教科書や参考書を軽視する姿勢により、彼の指導方法は合理的でないとみなされていた[注 4]。さらに彼の一部学生からの人気に嫉妬を感じる教員も現れ、ローマ大賞など各種の賞の選考においてフランクの教え子はそうした教授陣から偏見交じりの審査を受けることもあった[35]。ヴァラはフランクが

「彼の信じる単純な本質は理解されなかった(中略)彼自身が常に親切な雰囲気を向けられていると感じていた音楽院の中でさえ、彼はいかほどの不快な類の指摘を受けたことだろうか。」

と記している[36]。


フランクの立場は長年温めていた楽曲の構想を楽譜に起こせるようなものとなっていた。

彼は『至福』の作曲を中断してオラトリオ『贖罪』(1871年作曲、1874年改訂)、交響詩『アイオリスの人々』(1876年)、オルガンのための『3つの小品』(1878年)、『ピアノ五重奏曲』(1879年)などや他の多くの小規模作品に取り組んだ。

『至福』は最終的に1879年に初演を迎えることとなったが、これはフランクの他の多くの合唱曲や管弦楽曲の場合と同じく成功しなかった。作品は全体としてではなく細分化された上での抜粋だった上、適当なオーケストラがなかったためにピアノ伴奏で演奏された。さらにダンディでさえ指摘しているのは、フランクがゴスペルの至福の中に表現される美徳と対比される罪悪を、音楽的に表現出来ていなかったらしいということである。

「この《理想の罪悪》(もしこのような表現が可能であればの話であるが)の擬人化はフランクの本性とあまりにかけ離れており、彼はそうしたものを適切に表現することができなかった[37]。」

その結果生じたヴァラが述べるところの「単調な印象」は[38]、フランクの忠実な門下生にすら『至福』の一つの作品としての存続可能性について推測させるに及んだ。

1880年代になり、フランクは気づくと様式的に主張の異なる2群の板挟みとなっていた。一方は最初に慣れ親しんだスタイルからの変化を好まなかった妻のフェリシテであり、他方はおそらく彼が影響を与えるのと同じように彼自身にも驚くべき影響を与えていた弟子たちである。ダンディの次のような言葉が引用されている。

「(フランクは)どの調性的関係を選択するのか、展開部をどう進行させるべきか考えあぐねた際、いつも弟子たちに相談して彼らと疑問点を共有し、彼らの意見を聞くことを好んだ[39]。」その一方、フランクの弟子のひとりはフランク夫人が次のように(一部的を射た)発言をしたと物語っている。「彼に向けられる敵意を生んでいるのは全部あなたたち弟子なのよ[40]。」加えて、サン=サーンスとフランク及びその一派との反りが合わなくなってきており、国民音楽協会においてもいくらか軋轢が生じていた。

これらのいざこざがフランクの心をどれだけ疲弊させたのか、確かなことはわからない。しかし、彼のより「卓越した」楽曲がこうした時期に生み出されたことは確かである。

交響詩の『呪われた狩人』(1882年)と『鬼神(ジン)』(1883年-1884年)、ピアノのための『前奏曲、コラールとフーガ』(1884年)と『交響的変奏曲』(1885年)、そしてオペラ『ユルダ』(1886年)である。

これらの作品の多くは少なくともフランクの生前に行われた初演時には、並みの成功となるか否かといった程度であった。しかし、1879年の『ピアノ五重奏曲』は注目を集めるとともに思考を喚起する作品であるとされた。批評家はこの作品には「不穏な生気」が宿り、「劇場的といってよい程の不気味さ」を湛えていると評した[41]。ただし、サン=サーンスはこの作品を特に嫌悪していた。


1886年の『ヴァイオリンソナタ』は、ベルギーのヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイの結婚祝いとして作曲されたものだった。この作品の成功は轟きわたることになる。イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏し、さらに演奏旅行に組み込んでしばしば弟のテオ・イザイのピアノ伴奏で演奏した。彼がこの作品を最後に演奏したのは1926年のパリで、イヴ・ナットが伴奏を受け持った[42]。20世紀半ばにヴァラはこのソナタについて次のように記している。

「少なくともフランスではフランクの最も人気の作品となり、室内楽曲のレパートリー全体から見ても最も一般的に受容される楽曲である[43]。」

フランクへの評価がはっきり定まらなかったことは、フランク一派が遅すぎると考えたフランクの受章にも表れているかもしれない。1885年8月4日、フランクはフランスのレジオン・ドヌール勲章のシェヴァリエに叙された。彼の支持者らは憤った。ダンディはこう記している。

「この勲章が音楽家、フランスの芸術に名誉をもたらす優れた作品の作曲者に与えられたと考えることは間違っているのか。少しもそんなことはない![44]」

表彰が、単に10年以上勤めた「オルガンの教授」へとなされたものだったからである。ヴァラは

「世論はこの点について同じような過ちを犯すまい」

と続けて、普段はフランクに批判的だった雑誌の記述を引用した。

それはこの表彰が「少し遅きに失したのだとしても、『贖罪』や『至福』を書いた傑出した作曲家に対して正当にもたらされた敬意のしるし」だというものだった[45]。

フランクが1886年から1888年にギリシャ神話を基に手がけた交響詩『プシュケ』を発表すると、フランクの家庭と取り巻きの弟子たちの間の衝突は新たな局面に突入した。本人のあずかり知らぬ場所でも繰り広げられたいさかいの内容は音楽だけに留まらず、題材の哲学的、宗教的側面にまで及んだ[注 5]。

この作品があまりに官能的であると考えたフランクの妻と息子は彼により広範な、もっと大衆への訴求力を持つ、そして「全体としてより商業的な」音楽に専念するよう希望した[46]。

一方のダンディはこの楽曲の神話的重要性に触れ、こう述べている。

「多神教徒の精神は何も持ち合わせていないが(中略)それどころか、キリスト教徒の恩寵と感受性を吹き込まれている(略)[47]」

このダンディの解釈は後になって

「日曜教室の新任教師が悪童に雅歌を教えるように突然指示された場合に感じるような、ある種の当惑であった。」

と解説されている[48]。


フランク唯一の交響曲となる『交響曲 ニ短調』が出版されると、議論はますます勢いを増した。曲の評判は芳しくなかった。音楽院のオーケストラは非協力的で[49]、聴衆は冷淡、批評家は態度を決められず[注 6]、仲間の作曲家の多くは

「全体の形式をはじめ細部においても[注 7]形式主義者の規則や厳格な玄人及び素人の慣習を破壊した。」

として取り乱した[50]。

フランク自身は弟子のルイ・ド・スーレ(-Serres)にこの曲には基となる私的な着想があったのかと問われ

「いや、ただの音楽だ。純粋な音楽以外には何もない。」

と答えている[51]。ヴァラによれば交響曲で用いられた様式と技法は良いものもそうでないものも皆、フランクの思考と芸術家人生の中心を占めたオルガンに帰することが出来るという。また、彼はフランクがこの経験から学んだとも指摘している。

「彼は弟子たちに向かって、その時以降同じような作品は2度と書くまいと述べた[52]。」


晩年 (1888年-1890年)

1888年、フランクは次なるオペラ『ジゼル』に取り掛かった。しかし、この作品は作曲というに至らぬ草稿の段階までで終わり、完成されることはなかった。

対照的に大規模な『弦楽四重奏曲』は完成され、1890年4月の初演は聴衆と評論家から好評をもって迎えられた。

これ以外にも同じ時期には、フランクはパリ及び近隣都市でコンサートピアニストとして活動し、2年前には『プシュケ』の再演が熱狂的に終わっており、さらに弟子たちによる数多くの演奏によってフランクは成功を手にしていた。加えて、彼はサント・クロチルド聖堂で定例の大きな日曜集会には即興演奏を披露し続けていた。彼はオルガンのための大きな作品、またチェロソナタの構想も温めていた可能性がある。

1890年7月[注 8][53]、フランクが乗車していた辻馬車が馬引きの列車と衝突事故を起こす。頭に損傷を受けた彼は一時意識を喪失した。ただちに後遺症が見られなかったため彼はそのまま移動を再開し、本人も事故を重要視しなかった。しかしながら次第に歩行が苦痛になり始め、気が付くと彼は演奏会やリハーサルを休む事を余儀なくされ、続いて音楽院での講義も断念せざるを得なくなった。できるだけ急いで休暇を取ってヌムールに赴いた彼は、同地で約束していたオルガン作品やハーモニウムのための委嘱作品を書けることを願った。休暇中に彼は両プロジェクトに着手することができた。

ハーモニウムの作品集よりも早く、オルガン作品が1890年の8月と9月に書き上げられた。この作品はオルガン音楽史における珠玉の逸品である『3つのコラール』であり、今日でも頻繁に演奏されている。

ヴァラはこの作品について次のように述べている。

「その美しさと重要さは、この曲集を音楽による遺書もしくは遺言と考えてまったく差し支えないほどである[54]。」

ヴァラよりも後の時代の伝記作家も同様の表現を用いている。

「全体を通してフランクの意識が大きな別れの言葉となっているのは明らかである(中略)『コラール』を作曲したフランクが、自らの身体が完全に回復する希望を持ち続けていたと考えるのは難しい、いや、ほとんど不可能に近い[55]。」


10月から音楽院の新学期に入ったフランクであったが、月の半ばに風邪を引いてしまう。この風邪をこじらせたことによって胸膜炎[注 9]にかかった彼は、みるみるうちに病状を悪化させて11月8日に帰らぬ人となった。

1970年にある病理学者が示した所見では、従来フランクの死は交通事故が原因とされるか何かしらの関連があるものとされていたが、呼吸器感染自体が死の病となることもあり得たという。抗生物質がまだ知られぬ当時においては、この病状は「70代男性の肺炎の状態として珍しいものとは言えない[56]。」しかしこの判断にはその後疑問を呈する者が現れた。

「最もよく知っているだろうと思われる2人の人物、すなわちフランク本人と彼の妻が述べた《直接の原因》には疑いがない。同様に直近の1890年の7月から11月まで家政婦として彼の身の回りの世話をしていた外部の人間の言葉も確からしい(中略)フランクの数十年にわたる《蝋燭を両側から燃やすような》過酷な労働そのものによって、彼が軽度の怪我から回復するのに必要な体力さえもが損なわれていた可能性も十分にある[57]。」


フランクの葬送ミサはサント・クロチルド聖堂で執り行われ、音楽院の公式代表だったレオ・ドリーブをはじめ、サン=サーンス、ウジェーヌ・ジグー、ガブリエル・フォーレ、アレクサンドル・ギルマン、シャルル=マリー・ヴィドール(フランクの後任として音楽院のオルガン科教授となった)、エドゥアール・ラロなどの多数の参列者があった[58]。エマニュエル・シャブリエがモントルージュ(Montrouge)にあった元の墓地の側でスピーチを行った[59]。フランクの亡骸はその後パリのモンパルナス墓地に移され、友人で建築家のガストン・ルドン(英語版)が設計した墓に納められた。

オーギュスタ・オルメス率いるフランクの弟子たちはオーギュスト・ロダンに銅板への浮き彫りを委嘱し、完成した3/4サイズのフランクの胸像は1893年に墓の脇に掲げられた[60]。1904年、彫刻家のアルフレド=シャルル・ルノワール(フランス語版)が製作した記念碑「オルガンに向かうセザール・フランク」が、サント・クロチルド聖堂から通りを挟んで向かい側のサミュエル=ルソー広場に設置された[61]。フランクは現在もモンパルナス墓地に眠っている。



作風

フランクはベートーヴェン以降のドイツロマン派音楽、特に同時代のリストやワーグナーから強い影響を受けた。その結果彼の音楽の特徴として、半音階的和声進行が目立つこと、形式的には循環形式を多用することが挙げられる。前半の楽章で登場した主題の一部や全体が後半の楽章で再現されることで曲全体の統一が図られる。また、フランクは更に進んで独自の様式を創り上げており、各楽章で主要な役割を演じる主題が単一のモチーフから生成される場合もある。1888年の『交響曲 ニ短調』ではこの手法が顕著に示されている。また、彼の作品では巧みな転調が頻繁に行われる。

フランクはJ.S.バッハを研究し対位法を巧みに用いている。作曲に際して比較的簡明な音価を用いる為、単一の旋律で提示される場合はいささか空疎であるが、循環形式内で複数の旋律で提示された場合は非常に高潔な印象を与えるのが特徴である。多くのフランクの門下生もこの手法にほぼ倣っているが、フランクの高みに触れたものはいない。

フランクは12度を掴むことが出来る大きな手を持っていた[62]。これによってフランクのフーガ作品における声部連結は通常にない自由度を有しており、彼の鍵盤楽器作品では和音の幅の広さが特徴の一つとなっている。『ヴァイオリンソナタ』の書法について、次のような指摘がある。

「音楽家の手が皆自分のように大きくないということを幸せにも忘れがちなフランクは、ピアノパート(特に第4楽章)に長10度の和音を散りばめている。(中略)以来、ピアニストはこれを演奏するために手を大きく開くことを強いられてきたのである[63]。」


フランク作品を読み解く鍵は彼の性格に求められるのかもしれない。彼の友人たちは彼について

「これ以上ないほど謙遜し、気取りなく、尊敬の情に溢れ、勤勉であった。」

と評した。弟子の1人で後にノートル=ダム聖堂の正オルガニストに就いたルイ・ヴィエルヌは、フランクに関する記憶を書き留めている。

「(彼は)芸術の気品に対する、役割の高貴さに対する、そして音に対して語る際の熱い真摯さに対する絶え間ない配慮(を見せた)。(中略)歓喜と陰鬱、荘厳と神秘、力強さと天衣無縫さ。サント・クロチルド聖堂でのフランクはこれら全てを兼ね備えていた[64]。」

このフランク自身への賛美は彼の作品すべてに敷衍できるだろう。


代表的作品

詳細は「セザール・フランクの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/セザール・フランクの楽曲一覧


管弦楽作品

交響的間奏曲「贖罪(改訂版)」(1874年)
交響詩「アイオリスの人々」(1876年)
交響詩「呪われた狩人」(1883年)
交響曲 ニ短調(1888年)
交響詩「プシュケ(フランス語版)」(1888年)
ピアノと管弦楽のための作品
ピアノ協奏曲第2番ロ短調作品11
交響詩「鬼神(ジン)」(1884年)
交響的変奏曲(1885年)

ピアノ曲

前奏曲、フーガと変奏曲(1873年)
前奏曲、コラールとフーガ(1884年)
前奏曲、アリアと終曲(1887年)


室内楽曲

ピアノ五重奏曲 ヘ短調(1879年)
ヴァイオリンソナタ イ長調(1886年)
弦楽四重奏曲 ニ長調(1890年)


オルガン曲

「アンダンティーノ ト短調」(1858年)
44の小品(1858年 - 1863年)
6つの作品(幻想曲ハ長調、交響的大曲、前奏曲、フーガと変奏曲、パストラール、祈り、終曲)(1862年)
3つの作品(幻想曲イ長調、カンタービレ、英雄的作品)(1878年)
3つのコラール(1890年)

オラトリオ

『ルツ』(1845年)
『贖罪』(1872年)
『至福』(1869年 - 1879年)
『レベッカ』(1880年 - 1881年)


歌曲

ばらの結婚(1871年)
天使の糧(天使のパン)(1872年) - 「3声のミサ曲 イ長調」(1860年)に後から追加された楽章
夜想曲(1884年)
聖行列(1888年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/セザール・フランク

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