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ベルリオーズ 『幻想交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 19 日 22:26:22: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 19 日 20:42:10)

エクトル・ベルリオーズ 『幻想交響曲』


ブルーノ・ワルターの『ベルリオーズ 幻想交響曲』


Bruno Walter: Symphonie fantastique by H. Berlioz 1939


____


Symphonique Fantastique - 4, 5 Mvt. (Berlioz) cond. Bruno Walter 1939


Paris Conservatory Orchestra
Dir: Bruno Walter
Recorded in 1939
Transferred from an original 78s set of the 1st HMV issue (DB 3852/7) pressed in UK.


ブルーノ・ワルター指揮パリ音楽院管弦楽団
GRAMMOFONO。戦前SPの復刻。1939年5月19日録音。
上のNBCへの客演のあと、まだワルターはヨーロッパに戻ってフランスあたりに腰を落ち着けていた。しかし、これが戦前のヨーロッパでの最後の録音となった。
意外にも、ワルターはこの曲が好きだったらしく、晩年になってもこの録音を愛聴していたらしい。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm


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Berlioz: Symphonie Fantastique (Walter) (1948)







Philharmonic Symphony Orchestra
Walter
1948


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Berlioz Fantastica Bruno Walter


Hector Berlioz : Sinfonia Fantastica
New York Philarmonic Orchestra
Bruno Walter
(live rec. 21.11.1954)


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「幻想交響曲」作品14aは、1830年作曲。
同年12月5日、パリ音楽院ホールにて自らの指揮で初演。
その楽章構成は次の通り。


第1楽章:夢想と情熱
第2楽章:舞踏会
第3楽章:田園の風景
第4楽章:断頭台への行進
第5楽章:サバトの夜の夢


 5楽章構成と標題付きというのはベートーヴェン「田園」しか前例がなかった。
また曲の由来を説明する長々とした文を曲頭と各楽章に付けた。
しかも、その内容というのが


「病的な芸術家が苦しい恋に絶望してアヘン自殺を図る。しかし致死量でなかったために死にきれず、奇怪な夢を見る。
恋人は1つのメロディ(イデー・フィクス=固定観念)となって何度も現れ、彼は夢の中で恋人を殺し悪魔の饗宴に参加する」


というものである。


 この話は作曲家自身にまつわる実話であり、恋人はハリエット・スミッソンというイギリスの舞台女優であった。
人気絶大な女優としがない作曲家との恋は結局、失恋というより作曲家の片思いで終わった。しかし、この曲で最初の成功を収めたベルリオーズは、3年後にはスミッソンと結婚することになる。


 なお、この曲には続編として叙情的独白劇「レリオ、生への復帰」作品14bというものがある。
(初演は1832年12月9日、パリ音楽院で「幻想」と「レリオ」のセットで演奏された。この演奏会を上記スミッソンが聴きに来ている。)
全体50分以上のうち半分以上がテキストの朗読に費やされる。
ベルリオーズはスミッソンへの恋が破れ「幻想」を作曲したのと同じ1830年に、マリー・モークという女流ピアニストに恋して婚約するが、結局それも破談になってしまう。
その体験をもとに書いたのがこの曲である。構成が構成なだけにほとんどレコードがない。
ブーレーズの「幻想」の旧録音(SONY)がかろうじて「レリオ」もセットになっているぐらいである。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm


▲△▽▼


幻想交響曲(Symphonie fantastique)作品14(H.48)は、フランスの作曲家エクトル・ベルリオーズが1830年に作曲した最初の交響曲。


原題は『ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲』(Épisode de la vie d'un artiste, symphonie fantastique en cinq parties )。


「恋に深く絶望しアヘンを吸った、豊かな想像力を備えたある芸術家」の物語を音楽で表現したもので、ベルリオーズの代表作であるのみならず、初期ロマン派音楽を代表する楽曲である。現在でもオーケストラの演奏会で頻繁に取り上げられる。


続編として、音楽付きの独白劇という側面の強い“叙情的モノドラマ”『レリオ、あるいは生への復帰』作品14bが書かれており、1832年に『幻想交響曲』の再演と併せて初演されている。


ベルリオーズ自身の失恋体験を告白することを意図した標題音楽である。
各楽章に標題が付けられるとともに、1845年版のスコアでは演奏の際には作曲家自身によって解説されたプログラム・ノートを必ず配るようにと要請している(1855年版では、コンサートでの演奏であれば、各楽章の標題が示されていればプログラムは省略可能としている)。


幻想交響曲では、作曲者の恋愛対象(ベルリオーズが恋に落ち、後に結婚したアイルランドの女優ハリエット・スミスソン)を表す旋律が、楽曲のさまざまな場面において登場する。


ベルリオーズはこの繰り返される旋律を「イデー・フィクス」(idée fixe、固定観念、固定楽想などと訳す場合もある)と呼んだ。
これはワーグナーが後に用いたライトモティーフと根本的に同じ発想といえる[2]。


イデー・フィクスは、曲中で変奏され変化していく。例えば第1楽章では、主人公が彼女を想っている場面で現れ、牧歌的であるのに対して、終楽章では魔女たちの饗宴の場面で現われ、「醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏」になり、E♭管クラリネットで甲高く演奏される。


レナード・バーンスタインはこの曲を、「史上初のサイケデリックな交響曲」だと述べた[3]。これは、この交響曲に幻覚的、幻想的な性質があり、またベルリオーズがアヘンを吸った状態で作曲した(と本人が匂わせている)ことなどによる。


作曲の経緯と初演


1827年、ベルリオーズはパリで、イギリスのシェイクスピア劇団による『ハムレット』を観た。その中でオフィーリアを演じたハリエット・スミスソンに熱烈な恋心を抱き、手紙を出す、面会を頼むなどの行動に出る。しかしながら、彼女への思いは通じず、やがて劇団はパリを離れてしまう。ベルリオーズはスミスソンを引きつけるために、大規模な作品を発表しようという思いを抱いていたが、激しい孤独感のなかで彼女に対する憎しみの念が募っていく。彼は間もなく、ピアニストのマリー・モークと知り合い、恋愛関係に発展する。この曲はそのさなかに作曲された。なお、1829年には作曲者によって、交響曲についての文章が発表されている。


初演は1830年12月5日にパリ音楽院で、ベルリオーズの友人であった指揮者フランソワ・アブネックの指揮により行われた。多くの自作曲が演奏されたが、「幻想交響曲」は最も注目を集め、第4楽章はアンコールに応えてもう一度演奏されたという。


出版は15年後の1845年であった。その後、1855年までの間に幾度か改訂が重ねられ、特に1855年の版ではプログラム・ノートも含めて大きな変更が加えられている。


婚約関係まで進んだベルリオーズとモークは、彼女の母によって1831年に破局させられ、モークはプレイエルの息子カミーユと結婚した。モーク母娘とカミーユを殺害しようとするほどの怒りに駆られたベルリオーズであったが、翌1832年にスミスソンと再会することになる。彼女は「幻想交響曲」の再演を聴きに来ていたのである。


それをきっかけに、ベルリオーズの心に再び火がつき、今度はスミスソンも彼の愛を受け入れた。ベルリオーズの当初の目的は叶い、2人は1833年に結婚する。


曲の構成
以下の引用は、1855年版の作曲家自身のプログラムに基づく翻訳である[5]。


病的な感受性と激しい想像力に富んだ若い音楽家が、恋の悩みによる絶望の発作からアヘンによる服毒自殺を図る。
麻酔薬の量は、死に至らしめるには足りず、彼は重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見、その中で感覚、感情、記憶が、彼の病んだ脳の中に観念となって、そして音楽的な映像となって現われる。
愛する人その人が、一つの旋律となって、そしてあたかも固定観念のように現われ、そこかしこに見出され、聞えてくる[注 2]。


第1楽章「夢、情熱」 (Rêveries, Passions)
彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、そして、彼が愛する彼女を見る。
そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み[注 3]。
形式的には伝統的なソナタ形式をとっている。
ハ短調→ハ長調


第2楽章「舞踏会」 (Un bal)
とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う[注 4]。
「固定観念」の旋律が随所に現れ、最後はテンポの速い流麗なワルツと共に華やかに終わる。複数のハープが華やかな色彩を添える。
イ長調


第3楽章「野の風景」 (Scène aux champs)
ある夏の夕べ、田園地帯で、彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches)を吹き交わしているのを聞く。
牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。
しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。
もしも、彼女に捨てられたら…… 1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。
もう1人は、もはや答えない。日が沈む…… 遠くの雷鳴…… 孤独…… 静寂……[注 5]


羊飼いの吹く Ranz des vaches はアルプス地方の牧歌(牛追い歌。ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲の第3部参照)。コーラングレと舞台裏のオーボエによって演奏される。
この楽章の主要旋律(20小節目からフルートと第1ヴァイオリンとで奏される)は、破棄するつもりだった自作『荘厳ミサ』のGratias agimus tibiでも使用されている。
ヘ長調


第4楽章「断頭台への行進」 (Marche au supplice)
彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。
行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。
ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる[注 6]。
1845年版のプログラムでは、ここでアヘンを飲んで夢を見ることになっている。
ト短調


第5楽章「魔女の夜宴の夢」 (Songe d'une nuit du Sabbat)
彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。
彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。
奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。
愛する旋律が再び現われる。しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。
もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。
彼女がサバトにやってきたのだ…… 彼女の到着にあがる歓喜のわめき声…… 彼女が悪魔の大饗宴に加わる…… 弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。
サバトのロンド。サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに[注 7]。


「ワルプルギスの夜の夢」と訳される事もある。
グレゴリオ聖歌『怒りの日』(Dies Irae)が主題に用いられ、全管弦楽の咆哮のうちに圧倒的なクライマックスを築いて曲が閉じられる。
また曲の終結部近くでは弓の木部で弦を叩くコル・レーニョ奏法が用いられている(弓を傷める可能性があるので高価な弓を使う奏者はそれを嫌い、スペアの安い弓をこの演奏で使うこともある)。
ハ長調→ハ短調→ハ長調


楽器編成


1844年の演奏では、第2楽章でコルネットのオブリガートが追加された。
当時のコルネットの名手であるジャン=バティスト・アルバンのために書かれたと考えられており[8]、現在でもこのパートが演奏されることがある[注 8]。
1855年に全面改訂された際には採用されていない。


幻想交響曲は管弦楽法の面でも、コーラングレ、E♭管クラリネット、コルネット、オフィクレイド[注 9]、複数のハープ、鐘の交響曲への導入、コル・レーニョ奏法の使用、コーラングレと舞台裏のオーボエの対話、4台のティンパニによる雷鳴の表現など、先進的な点が多く、後世に影響を与えた。
これは楽器が改良され、音量面や機構などで大きな向上がなされた結果である。
例えば、ベートーヴェンの最晩年にようやく開発されたバルブ・システムによって、金管楽器でも半音階が容易に演奏可能となった。この進取性こそが、ベルリオーズを「近代管弦楽法の父」たらしめている所以でもある。


奏法についても楽譜に細かい指示が書き込まれている。例えば、ティンパニに関してはマレットについて「木」、「皮張り」、「スポンジ(海綿または綿球)」と固さの指示があり、「拍頭の音だけばち2本で、あとは右手だけで」(第4楽章)など叩き方も指定されている。シンバルでも打ち合わせる通常の奏法の他、頭部をスポンジで覆ったマレットで叩くよう指定された箇所もある(指定が脱落している楽譜もある)。


準備が難しい楽器は演奏の際に他の楽器で代用されたり、省略されたりする場合がある。オフィクレイドは現在は多くチューバで演奏される。2つの鐘はしばしばチューブラーベルのC5音とG4音(国際式階名表記、以下同じ)で代用される[7][注 10]が、ベルリオーズは低く深い音(C4とG3、またはC3とG2、またはC2とG1[6][9]、右図の譜例と試聴用サウンドファイル参照)を要求しており、充分に低い音の鐘が用意できない場合はピアノで演奏するようにと指示している[9][注 11]。スコア上では鐘のパートが2段のピアノ譜で書かれている[6]ことや、求められている音が低いことなどから、むしろ鐘でなくピアノを使うべきだとする見解もある[注 12]。4台以上のハープの指定についても現在では2台で演奏されることが圧倒的に多いが、オリジナル楽器による演奏ではベルリオーズの指示に従うことが多く、なかには6台も使用した演奏もある。


初演の際の楽器の調達について、コーラングレや鐘はオペラ座から、E♭管クラリネットやオフィクレイドは軍楽隊から用意した事実が明らかとなっている。


幻想交響曲で先進的に用いられている楽器とその後世での使用法をみると、コーラングレはドヴォルザークの管弦楽曲など、ワーグナー以降の3管編成によくみられる。また、ワーグナー以降の3管編成は主にバスクラリネットが使われ、E♭管の小クラリネットが本格的に使われるのは、四管編成が用いられるマーラーの交響曲以降、ラヴェルやショスタコーヴィチなどからである。4本のファゴットはヴェルディの「ドン・カルロ」や「オテロ」に見ることができる(フランスでは当時(今日でも一部で)ドイツ式のファゴットではなく、フランス式のバッソンが使用されているが、これは音量が大きくないため、本数が多めに指定されることがしばしばあった)。


2本のコルネットはフランクの管弦楽曲、ドビュッシーの管弦楽曲などで用いられている。ビゼーの「カルメン」でも2本のトランペットかコルネットのどちらかが用いられる。フランス以外でも チャイコフスキーなどのロシア系の作曲家や、ヴェルディの「ドン・カルロ」や「オテロ」などに用例が見られる。オフィクレイドはチューバが発明されるまで使用された金管の低音楽器であるが、2本以上のチューバはリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲に、3本以上はメシアンの管弦楽曲に用例がある。


ティンパニを複数奏者に演奏させるのは、リストのダンテ交響曲やワーグナーの「タンホイザー」、「ローエングリン」、「ニーベルングの指環」、「パルジファル」にみられる。またマーラーやストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、ベルント・アロイス・ツィンマーマン、ノーノまでのティンパニもこの作品の強い影響下にある。また鐘の使用は、イタリアやロシアのオペラにおける教会などの場面や、マーラーやショスタコーヴィチの交響曲にみられる。


さらに、弦楽器の数の指定は、ワーグナーを経てリヒャルト・シュトラウス、メシアンなどに見られる。複数のハープの指定は、ワーグナーの「ニーベルングの指環」で6台の指定がある他、マーラーやリヒャルト・シュトラウスは2声部で書くことが多いが出来るだけ倍にするようにと指定されていることもある。ブルックナー、メシアンやブーレーズの管弦楽曲でも3台のハープが指定されているものがある。


https://ja.wikipedia.org/wiki/幻想交響曲
 

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コメント
1. 中川隆[-13703] koaQ7Jey 2020年2月19日 23:50:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-235] 報告
ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14 2014 JUL 28 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/07/28/ベルリオーズ-「幻想交響曲」-作品%ef%bc%91%ef%bc%94/

ほれた女にふられるならまだいいが、無視されるのは堪え難いというのは男性諸氏は共感できるのではないか。

まだ無名だった24歳のベルリオーズは、パリのオデオン座でイギリスから来たシェイクスピア劇団の舞台に接し、ハムレットのオフィーリアを演じたアイルランド人の女優、ハリエット・スミッソン(左)に夢中になってしまった。熱烈なラブレターを出すがしかし彼女は意に介さず、面会すらもできない。激しい嫉妬にさいなまれた彼はやがて彼女に憎しみを抱いてゆくことになる。

間もなく劇団はパリを去ってしまい、ハリエットをあきらめた彼はマリー・モークというピアニストと婚約した。ところが、踏んだりけったりとはこのことで、ローマ賞の栄冠に輝いてイタリア留学に行くとすぐに、モークの母から娘を別な男に嫁がせることにしたという手紙が届く。怒ったベルリオーズはパリに引き返し女中に変装してモーク母子を殺害して自殺しようと企んだ。婦人服一式、ピストル、自殺用の毒薬を買い馬車にまで乗ったのだから本気だった。幸いにして途中(ニース)で思いとどまったが彼は危ないところだった。

しかし、この事件の前に、彼はすでに殺人を犯し、自殺していた。
それは1830年にできたこの曲の中でのことである(幻想交響曲)。
恋に深く絶望し阿片を吸った芸術家の物語だが、その芸術家は彼自身である。

彼はおそらくハリエットを殺しており死刑になる。ギロチンで切られた彼の首がころがる。化け物になったハリエットが彼の葬儀に現れ奇っ怪な踊りをくりひろげる。
これと同じことがモークの件で現実になる所だったわけだ。

ベルリオーズが本当に阿片を吸ったかどうかはわからない。阿片は17世紀は医薬品とされ、19世紀にはイギリス、フランスなどで医薬用外で大流行し、詩人キーツのように常用した文化人がいた。ピストルと毒薬を買って殺人を企図したベルリオーズが服用したとしてもおかしくない。

そう思ってしまうほど幻想交響曲はぶっ飛んだ曲であり、「幻想」(fantastique、空想、夢幻)とはよく名づけたものだ。これが交響曲という古典的な入れ物に収まっていることが、かろうじてベートーベンの死後2年目にできた曲なのだと信じさせてくれる唯一の手掛かりだ。

逆にその2年間にベルリオーズは入れ物以外をすべて粉々にぶち壊し、それでいてただ新奇なだけでなくスタンダードとして長く聴かれる曲に仕立て上げた。
そういう音楽を探せと言われて、僕は幻想と春の祭典以外に思い浮かぶものはない。高校時代、この2つの音楽は寝ても覚めても頭の中で鳴りまくっていて受験会場で困った。

この曲のスコアを眺めることは喜びの宝庫である。これと春の祭典の相似は多い。
第5楽章の冒頭の怪しげなムードは第2部の冒頭であり、お化けになったハリエットのEsクラリネットは第1部序奏で叫び声をあげる。練習番号68の後打ちの大太鼓のドスンドスンなどそのものだ。

第4楽章のティンパニ・アンサンブル(最高音のファは祭典ではシに上がる)なくして祭典が書かれようか。
第4楽章のファゴットソロ(同50)の最高音はラであり、これが祭典の冒頭ソロではレに上がる。
第3楽章のコールアングレがそれに続くソロを思わせる。「賢者の行進」は「怒りの日と魔女のロンド」(同81)だ。
第5楽章のスコアは一見して春の祭典と見まがうほどで僕にはわくわくの連続だ。

この交響曲の第1楽章と第3楽章は、まことにサイケデリックな音楽である。
第1楽章「夢、情熱」の序奏部ハ短調の第1ヴァイオリンのパートをご覧いただきたい。弱音器をつけpからffへの大きな振幅のある、しかし4回もフェルマータで分断される主題は悩める若者の不安な声である。交響曲の開始としては異例であり、さらにベートーベンの第九のような自問自答が行われる。

感情が赤の部分へ向けてふくらんでfに登りつめると、チェロが5度で心臓の高鳴りのような音を入れる。そこで若者は同じ問いかけを2回する。
青の部分、コントラバスがピッチカートでそれに答える。1度目はppでやさしく、2度目はfで決然と。
まるでオペラであり、ワーグナーにこだまするものの萌芽を見る思いだ。

若者は納得し(弱音器を外す)、音楽は変イの音ただひとつになる。それがト音に自信こめたようにfで半音下がると、ハ長調でPiu mosso.となり若者は束の間の元気を取り戻す。

この、まるで夢から覚めていきなり雑踏ではしゃいでいるような唐突で非現実的な場面転換、そこに至る2小節の混沌とした感じは、まったく筆者の主観であるが、レノン・マッカートニーがドラッグをやって書いた後期アルバムみたいだ。

両者にそういう共通の遠因があったかどうかはともかく、常人の思いつく範疇をはるかに超え去ったぶっ飛んだ楽想である。

この後、弦による冒頭の不安な楽想と木管によるPiu mossoの楽想が混ざり、心臓高鳴りの動機で中断すると、再び第1ヴァイオリンと低弦の問答になる。ここでの木管の後打ちリズムはこの曲全体にわたって出現し、ざわざわした不安定な感情をあおる。やがて弦5部がそのリズムに引っぱられてシンコペートする。これが第2のサイケデリックな混沌だ。ここから長い長い低弦の変イ音にのっかって変ニ長調(4度上、明るい未来)になり、しばし夢の中に遊ぶ。
フルート、クラリネットの和音にpppの第1ヴァイオリンとpのホルン・ソロがからむデリケートなこの部分の管弦楽法の斬新さはものすごい!
これはリムスキー・コルサコフを経てストラヴィンスキーに遺伝し、火の鳥の、そして春の祭典のいくつかのページを強く連想させるものである。

この変イ音のバスが半音上がり、a、f、g、cというモーツァルトが偏愛した古典的進行を経てハ長調が用意される。ここからハリエットのイデー・フィックス(固定楽想)である第1主題がやっと出てきて提示部となる。つまりそこまでの色々は序奏部なのだ。この第1主題、フルートと第1ヴァイオリンが奏でるソードソーミミファーミミレードドーシである。山型をしている。ファが頂上だが、ミミファーと半音ずり上がる情熱と狂気の盛り上げは随所に出てくる。第2主題はフルートとクラリネットで出るがどこか影が薄い。しかしこの気分が第3楽章で支配的になる大事な主題だ。これはすぐに激した弦の上昇で断ち切られffのトゥッティを経て今度は深い谷型のパッセージが現れる。すべてが目まぐるしく、落ち着くという瞬間もない。ここからの数ページは、やはり感情が激して落ち着く間もないチャイコフスキーの悲愴の第1楽章展開部を想起させる。

展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。第381小節から記してみると、

A、B♭m、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Csus4、C、Bsus4、B、B♭sus4、B♭、Bm、B、Cm、C、C#m、C#、Dm、D、D#m・・・・

なんだこれは?何かが狂っている。和声の三半規管がふらふらになり、熱病みたいにうなされる。古典派ではまったくもってありえないコードプログレッションである。

ベルリオーズは正式にピアノを習っておらず、彼の楽器はギターとフルートだった。
この和声連結はピアノよりギター的だ。それが不自然でなく熱病になってしまう。
チャイコフスキーは同じようなものを4番の第1楽章で「ピアノ的」に書いた。
それをバーンスタインがyoung peoples’でピアノを弾いてやっている。

ところで、ハリエットは第4楽章でギロチンに首を乗せると幻影が脳裏に現れてあの世である終楽章でお化けになることになっているが、僕は異説を唱えたい。最初から殺されていて、全部がお化けだ。

第1楽章の熱病部分に続くffのハリエット主題はG7が呼び覚ますが、そこでイヒヒヒヒと魔女の笑いが聞こえ終楽章の空飛ぶ妖怪の姿になっている。そこからもう一度ややしおらしくなって出てくるが、それに興奮して騒いだ彼の首がギロチンで落ちるピッチカートの予告だってもうここに聞こえているではないか。しかしそれはコーダの、この曲で初めてかつ唯一の讃美歌のような宗教的安らぎでいったん浄化される。だからとても印象に残るのだ。本当に天才的な曲だ!

このC→Fm(Fではなく)→Cはワーグナーが長大な楽劇を閉じて聴衆の心に平安をもたらす常套手段となるが、ここにお手本があった。この第1楽章に勝るとも劣らないぶっ飛んだ第3楽章について書き出すとさすがに長くなる。別稿にしよう。

第2楽章「舞踏会」。ここの和声Am、F、D7、F#7、F#、Bm、G・・・も聞き手に胸騒ぎを引き起こす。スコアはハープ4台を要求しているが、この楽器が交響曲に登場してくるのがベートーベンをぶっ壊している。第3楽章のコールアングレ、終楽章の鐘、コルネット、オフィクレイドもそうだ。ティンパニ奏者は2人で4つを叩きコーダで2人のソロで合奏!になる。ラ♭、シ♭、ド、ファという不思議な和音を叩くがこのピッチがちゃんと聴こえた経験はない。同様に第4楽章の冒頭でコントラバスのピッチカートが4パートの分奏(!)でト短調の主和音を弾くが、これもピッチはわからない。これは春の祭典の最後のコントラバス(選ばれた乙女の死を示す暗号?)のレ・ミ・ラ・レ(dead!)の和音を思い出す。

この交響曲の初演指揮を委ねられたのはベルリオーズの友人であったフランソワ・アブネックであった。彼についてはこのブログに書いた。

ベートーベン第9初演の謎を解く
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2013/09/17/ベートーベン交響曲第%ef%bc%99番に寄せて/

幻想交響曲はハリエットという女性への狂おしい思いが誘因となり、シュークスピアに触発されたものだが、音楽的には彼がパリで聴いたアブネック指揮のベートーベンの交響曲演奏に触発されたものである。

ベートーベンの音楽が絶対音楽としてドイツロマン派の始祖となったことは言うまでもないが、もう一方で、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーを経て標題音楽にも子孫を脈々と残し、20世紀に至って春の祭典やトゥーランガリラ交響曲を産んだことは特筆したい。そのビッグバンの起点が交響曲第3番エロイカであり、そこから生まれたアダムとイヴ、5番と6番である。このことは僕の西洋音楽史観の基本であり、ご関心があれば3,5,6番それぞれのブログをお読み下さい
(カテゴリー⇒クラシック音楽⇒ベートーベンと入れば出てきます)。

最後に一言。男にこういう奇跡をおこさせてしまう女性の力というものはすごい。
我がことを考えても男は女に支配されているとつくづく思う。
そういえばモーツァルトもアロイジア・ウェーバーにふられた。彼が本当にブレークするのはそれを乗り越えてからだ。彼はアロイジアの妹コンスタンツェを選んだ。姉の名はマニアしか知らないだろうが天才の妻になった妹は歴史の表舞台に名を残した。

しかしベルリオーズの方は後日談がある。幻想の作曲から2年して再度パリを訪れたハリエットはローマ留学から帰ったベルリオーズ主催の演奏会に行く。そこで幻想交響曲を聞き、そのヒロインが自分であることに気づく。感動した彼女は結局ベルリオーズと結ばれた。彼女の方は大作曲家の妻という名声ばかりか、天下の名曲の主題として永遠に残った。

シャルル・ミュンシュ / パリ管弦楽団
Berlioz Symphonie Fantastique Charles Munch 1967
Orchestre de Paris


僕はEMIのスタジオ録音でこの曲を知ったしそれは嫌いではない。ただし彼の演奏はかなりデフォルメがあり細部はアバウト、良くいえば一筆書きの勢いを魅力とする。それが好きない人にはたまらないだろうということで、どうせならその最たるものでこれを挙げる。

鐘の音がスタジオ盤と同じでどこか安心する。幻想のスコアを眺めていると、書かれた記号にどこまで真実があるのかどうもわからない。そのまま音化して非常につまらなくなったブーレーズ盤がそれを物語る。

これがベストとは思わないが、面白く鳴らすしかないならこれもありということ。
フルトヴェングラーの運命の幻想版という感じだ。EMI盤と両方そろえて悔いはないだろう。


ジェームズ・コンロン/ フランス国立管弦楽団

この曲はフランスのオケで聴きたいという気持ちがいつもある。
マルティノンもいいが、これがなかなか美しい。
LP(右、フランスErato盤)の音のみずみずしさは絶品で愛聴している。
演奏もややソフトフォーカスでどぎつさがないのは好みである(音楽が充分にどぎついのだから)。パリのコンサートで普通にやっている演奏という日常感がたまらなくいい。料亭メシに飽きたらこのお茶漬けさらさらが恋しい。終楽章のハリエットですら妖怪ではなく人間の女性という感じだからこんなの幻想ではないという声もありそうだが。

オットー・クレンペラー / フィルハーモニア管弦楽団
Hector Berlioz: Symphonie fantastique / Otto Klemperer
Philharmonia Orchestra
Otto Klemperer
London, 1963



ロンドン時代にLPで聴き、まず第一に音が良いと思った。音質ではない。音の鳴らし具合である。この曲のハーモニーが尖ることなく「ちゃんと」鳴っている。だからモーツァルトやベートーベンみたいに音楽的に聞こえる。簡単なようだがこんな演奏はざらにはない。第2楽章にコルネットが入る改訂版をなぜ選んだかは不明だが、彼なりに彼の眼力でスコアを見据えていておざなりにスコアをなぞった演奏ではない。ご自身かなりぶっ飛んだ方であられたクレンペラーの波長が音楽と共振している。第4楽章の細部から入念に組み立ててリズムが浮わつかない凄味。終楽章もスコアのからくりを全部見通したうえで音自体に最大の効果をあげさせるアプローチである。こういうプロフェッショナルな指揮は心から敬意を覚える。


(補遺、2月29日)
ダニエル・バレンボイム / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・イエス・キリスト教会の広大な空間を感じる音場で、オーケストラが残響と音のブレンドを自ら楽しむように気持ちよく弾き、良く鳴っていることに関して屈指の録音である。音を聞くだけでも最高の快感が得られる。第1楽章は提示部をくり返し、コーダは加速する。第2楽章はワルツらしくない。第3楽章の雷鳴は超弩級で、どうせ聴こえない音程より音量を採ったのか。第4楽章のティンパニの高いf がきれいに聞こえるのが心地よい。終楽章コーダは最も凄まじい演奏のひとつである。たしかBPOのCBSデビュー録音で、僕は89年にロンドンで中古で安いので買っただけだが、バレンボイムの振幅の大きい表現にBPOが自発性をもって乗っていて感銘を受けたのを昨日のように覚えている。ライブだったら打ちのめされたろう。彼はつまらない演奏も多いが、時にこういうことをやるから面白い。

Berlioz: Symphonie Fantastique conducted by Barenboim (HD)
Daniel Barenboim
Orchestre De Paris



(補遺、2018年8月25日)
ポール・パレー / デトロイト交響楽団
Detroit Symphony Orchestra - Paul Paray


第2楽章の快速で乾燥したアンサンブルはパレーの面目躍如。これだけ内声部が浮き彫りに聞こえるのも珍しい。第3楽章も室内楽で、田園交響曲の末裔の音を感知させる面白さだ。ティンパニの音程が最もよくわかる録音かもしれない。指揮台にマイクを置いたかのようなMercuryのアメリカンなHiFi概念は鑑賞の一形態を作った。終楽章の細密な音響は刺激的でさえある。パレーは木管による妖怪のグリッサンドをせず常時楷書的だが、それをせずともスコアは十分に妖怪的なのであり、僕は彼のザッハリッヒ(sachlich)な解釈の支持者だ。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/07/28/ベルリオーズ-「幻想交響曲」-作品%ef%bc%91%ef%bc%94/
2. 中川隆[-13702] koaQ7Jey 2020年2月20日 00:03:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-234] 報告

クリュイタンス


Berlioz :Symphonie fantastique 1964



Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire
André Cluytens
( Japan, live recording.1964)


アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団
Altus。1964年5月10日、東京文化会館ライヴ、NHKによる録音。

3日前のラヴェル・プログラムの演奏会はモノラルで出ているが、この幻想はうれしいことにステレオである。

私は学生時代にキングからCD化されたのを聴いたことがあった。その後長く廃盤だったが、2000年秋になってようやくAltusから復活した(写真左)。

スタジオ録音とはだいぶ違う、圧倒的な盛り上がりである。(終楽章の鐘の音程が音痴なのが気になるが。)
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm

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Berlioz: Symphonie fantastique, Cluytens & The Phil (1958)



André Cluytens (1905-1967), Conductor
Philharmonia Orchestra

Rec. 4-5 November 1958, at Kingsway Hall, in London


アンドレ・クリュイタンス指揮フィルハーモニア管弦楽団
EMI。1958年録音。セラフィム輸入盤。

フランス国立放送管との録音がモノラルなのにホンワカしているのに対して、こちらは相当締まりのある音である。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm


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Berlioz: Symphonie fantastique, Cluytens & ONRTF (1955)



André Cluytens (1905-1967), Conductor
Orchestre national de la RTF (French National Radio Orchestra; Orchestre National de France)

Rec. October 1955, at Salle de la Mutualité, in Paris


アンドレ・クリュイタンス指揮フランス国立放送管弦楽団
EMI原盤。1955年録音。
いかにもフランスのエスプリといった感じの名演だ。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm



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Berlioz - Symphonie fantastique - Czech Ph / Cluytens



Česká filharmonie
André Cluytens
Live recording, Prague, 30.V.1955
3. 中川隆[-13701] koaQ7Jey 2020年2月20日 00:36:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-233] 報告

ピエール・モントゥー


Berlioz: Symphonie fantastique, Monteux (1930)






Pierre Monteux (1875-1964), Conductor
Orchestre symphonique de Paris

Rec. January 1930, in Paris


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Berlioz “Symphonie Fantastique” (Pierre Monteux ・ Concertgebouw, 20 May 1948)



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Berlioz: Symphonie fantastique, Monteux & SFS (1950)







Pierre Monteux (1875-1964), Conductor
San Francisco Symphony

Rec. 27 February 1950, at War Memorial Opera House, in San Francisco


ピエール・モントゥー指揮サンフランシスコ交響楽団

RCA。1950年2月27日、サンフランシスコのWar Memorial Opera Hauseでの録音。

モントゥーが自分のオケというものを持っていた、といえるのは、17年に及ぶサンフランシスコ時代だけであり、その意味で彼が残した5種類のこの曲の録音の中で最高のもの、という評価がなされている。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm


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Berlioz “Symphonie fantastique” (Pierre Monteux ・San Francisco Symphony, 1952





ベルリオーズ 幻想交響曲 Op 14 ピエール・モントゥー






ピエール・モントゥー
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1958年 録音

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Berlioz “Symphonie Fantastique” (Pierre Monteux ・ NDR, 1964)



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Audiofile:Monteux/Berlioz/Symphonie Fantastique/Hamburg



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Berlioz: Symphonie Fantastique | Pierre Monteux | RAI Milano (10.4.1964)



Orchestra Sinfonica di Milano della Rai diretta da Pierre Monteux
Registrazione del 10 aprile 1964


4. 中川隆[-13700] koaQ7Jey 2020年2月20日 00:40:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-232] 報告
>>3 に追記

ピエール・モントゥー指揮ハンブルク北ドイツ放送交響楽団

コンサートホール原盤。1964年2月、モントゥーの死の4ヵ月前の録音である。
1965年度のACCディスク大賞及びADFディスク大賞を受賞している。

第1・第2ヴァイオリンを左右に分けているため、かけあいになっているのが良くわかる。また、金管のあまり大きくないつぶれた音が古楽器のような雰囲気がある。しかしこれは単に音質が悪いだけかもしれない。リマスター版ももとの音の悪さをカバーできてはいないようだ。

5. 中川隆[-13699] koaQ7Jey 2020年2月20日 01:11:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-231] 報告

シャルル・ミュンシュ


BERLIOZ: Symphonie Fantastique op. 14 / Munch · Orchestre de Paris









Charles Munch (conductor)
Orchestre de Paris
1967/10/23, 26 (ⓟ 1967) Stereo, Salle Wagram, Paris



シャルル・ミュンシュ指揮
パリ管弦楽団
EMI。1967年10月23-26日、サル・ワグラムでの録音。

パリ音楽院管弦楽団を発展的に解消し、フランスの国威をかけて創設されたパリ管が、フランス最高の指揮者を迎えての伝説的デビュー録音である。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm


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BERLIOZ: Symphonie Fantastique op. 14 / Munch · Budapest Symphony Orchestra



Charles Munch (conductor)
Budapest Symphony Orchestra
1966 (ⓟ 1975) Stereo, Hungarian Radio Studio, Budapest

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Berlioz - Symphonie fantastique - ONF / Munch


Orchestre National de France
Charles Munch
Live recording, Lisbon, 23.VI.1963

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BERLIOZ: Symphonie Fantastique op. 14 / Munch · Boston Symphony Orchestra


Charles Munch (conductor)
Boston Symphony Orchestra
1962/04/17 Mono, Sanders Theatre, Harvard University


ボストン交響楽団
RCA。1962年録音。
パリ管のはやや踏み外し的であるが、こちらは、古典的名盤、とも言える。

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Berlioz, Symphonie fantastique Charles Münch, Orchestre Symphonique de Radio Canada



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BERLIOZ: Symphonie Fantastique op. 14 / Munch · Boston Symphony Orchestra





Charles Munch (conductor)
Boston Symphony Orchestra
1954/11/14, 15 Stereo, Symphony Hall, Boston


ボストン交響楽団
RCA。SACD Hybrid。1954年11月14-15日、ステレオ録音。


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Berlioz - Symphonie fantastique - New York / Munch


New York Philharmonic
Charles Munch
Live recording, New York, 1.II.1948
6. 中川隆[-13698] koaQ7Jey 2020年2月20日 01:17:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-230] 報告

ストコフスキー


Leopold Stokowski, Berlioz - Symphonie fantastique, Op.54






New Philharmonia Orchestra
Leopold Stokowski

London, June 1968

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Berlioz: Symphonie fantastique - American Symphony Orchestra/Stokowski (1970)



American Symphony Orchestra
LEOPOLD STOKOWSKI, cond.
Recording: Carnegie Hall, New York City, 26-27 April 1970
7. 中川隆[-13695] koaQ7Jey 2020年2月20日 09:27:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-227] 報告

Berlioz Symphonie Fantastique (Davis / Royal Concertgebouw)

コリン・デイヴィス指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
PHILIPS。1974年録音。96kHz-24bitリマスター輸入盤。

コンセルトヘボウの音色が素晴らしく、魅力的な演奏になっている。
特に前半3つの楽章のヴェールを隔てたような感じが良い。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm

8. 中川隆[-13694] koaQ7Jey 2020年2月20日 09:28:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-226] 報告
コリン・デイヴィス

Berlioz Symphonie Fantastique (Davis / Royal Concertgebouw)

9. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:24:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-215] 報告

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜シャルル・ミュンシュの名盤〜:
ハルくんの音楽日記 2012年9月 6日
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-514d.html


ベルリオーズの作曲した「幻想交響曲」の解説で、必ず登場するのがアイルランド出身の女優ハリエッタ・スミスソンです。彼女は15歳で地元ダブリンの劇場でデビューして、18歳の時にロンドンへ移りますが成功しませんでした。けれども28歳の時にフランス、パリのオデオン座でシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」でヒロイン役を演じると一躍人気女優となりました。

当時25歳のベルリオーズは、その公演を観て彼女に激しい恋心を抱き、劇場に通い詰めては、彼女にせっせと求愛の手紙を送りましたが、既に人気女優となったハリエッタが、まだ無名で3歳年下のベルリオーズに振り向くわけは有りません。
失恋したベルリオーズは徐々に彼女に憎悪の念を抱くようになり(まぁ、よく有る話です)(笑)、アヘンを服用しながら、この「幻想交響曲」を作曲しました。

「恋に深く絶望し、アヘンを吸った、豊かな想像力を持つある芸術家」の物語を音楽で表現したのですが、それが自分自身であったことは言うまでもありません。

その後、徐々に名が知られてきたベルリオーズは女流ピアニストと恋愛して、またも破断の目に遭います。そして、29歳の時にパリで「幻想交響曲」の演奏会を開きますが、ちょうど同じ時に、あのハリエッタ・スミスソンの劇団がパリに滞在していたために、偶然彼女は演奏会に出向きました。彼女はベルリオーズのことなどは、すっかり忘れ去っていましたし、ましてや演奏曲目が自分自身を主題にしたなどとは全く知らなかったのです。ところがプログラムに書かれた解説を呼んでいるうちに、それが自分のことであるのに気が付き、大変な衝撃を受けました。

その演奏会をきっかけに二人の交際が始まり、翌年には結婚しました。いやー、天才芸術家の人生は何ともドラマティックですね。もっとも二人の仲は結婚後に徐々に冷え込んでゆき、結局は離婚してしまいますが・・・。

ここで、曲の物語の概略を記しておきます。

病的な感受性と想像力に富んだ若い音楽家が、恋の悩みに絶望してアヘンによる服毒自殺を図る。彼は重苦しい眠りの中で奇怪な幻想を見て、彼の病んだ脳の中に音楽的な映像となって現れる。


第1楽章「夢・情熱」
彼は情熱の熱病、憂鬱、喜びをわけも無く感じ、愛する彼女を見る。そして彼女が呼び起こす火山のような愛情、胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。

第2楽章「舞踏会」
ある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する彼女にめぐり合う。

第3楽章「野の風景」
ある夏の夕べ、野原で羊飼いが吹く笛を聞く。風にそよぐ木々のざわめきが心に平安をもたらす。しかし彼女が再び現れ、不安で心が締めつけられる。遠くの雷鳴、孤独、静寂。

第4楽章「断頭台への行進」
彼は夢の中で愛する彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へと引かれてゆく。そして行進は、最後の愛の思いのように、死の一撃によって遮られる。

第5楽章「魔女の夜宴の夢」
魔女の饗宴の場に居る自分。周りには亡霊や化け物が、彼の葬儀に集まって大騒ぎをしている。そこへ殺した彼女が娼婦のような姿に変わり果てた姿で現れて悪魔の大饗宴に加わる。弔の鐘が鳴り、もはや饗宴と怒りの日がいっしょくたになってしまう。


交響曲というジャンルに、これほどまでの物語性を込めたのは音楽史上初めてのことであり、シューベルトやウエーバーから始まったロマン派が飛躍的に進化した記念碑的な作品となりました。全5楽章という構成も形にとらわれずにユニークですし、各楽章が全て個性的で魅力にあふれます。燃え上がるほどに情熱的な第1楽章、美しく華やかにもかかわらず翳りを感じる第2楽章、美しく静寂と葛藤が交錯する第3楽章、乱痴気騒ぎの行進曲だがアイロニーに溢れた第4楽章、正に踊り狂う大饗宴の第5楽章と、どの楽章も非常な傑作です。見ようによっては2楽章のワルツはメヌエット楽章の異形、4楽章の行進曲はスケルツォ楽章の異形と考えられなくもないような気がします。

また、管弦楽の色彩感の豊かさも驚くほどです。ティンパニーを倍にしたアイディアと演奏効果は抜群です。第2楽章にはベルリオーズ本人の手で後からオブリガート的に書き加えられたコルネット入りの版が有りますが、パリの社交界の華やかさが強調されているように感じられます。最終稿では再び削除されていますが、このコルネット入り版も多く録音されています。そして、第5楽章で使われる弔いの鐘も極めて印象的です。

この曲こそは、近代管弦楽の元祖だと言えるでしょう。ベートーヴェンの時代から、まだほんの僅かの時間しか経っていないというのに、ベルリオーズは驚くほどの天才でした。

この曲を演奏する場合には、標題音楽である以上、この破天荒な内容に相応しい演奏で無ければなりません。そうなると、昔からこの曲のスペシャリストとして余りに有名なシャルル・ミュンシュを第一に上げるのが、やはり妥当だと思います。他のどんな指揮者と比べてもミュンシュの演奏は情熱的であり、炎の中に飛び込むような切羽詰まった感情を表現し尽しているからです。基本テンポは相当に速いのですが、音を溜めるべきところではグッと溜めて力を込めた音を鳴らします。ですので他の誰よりも聴き応えが有ります。

ミュンシュの「幻想」には多くの録音が残されていますが、その中から僕の愛聴盤をご紹介します。

シャルル・ミュンシュ指揮ボストン響(1962年録音/RCA盤) 

ミュンシュのRCAへのステレオ録音には1954年盤と1962年盤の二種類が有りますが、僕は62年盤で聴いています。RCAの録音が優れているので、最も録音条件の良い演奏を聴きたければこのディスクがお勧めです。但しパリ管盤と比べると整い過ぎていて、ミュンシュにしては少々大人しい印象を受けます(他の指揮者と比べれば充分に熱いですが)。あくまでもパリ管盤の補完的存在と考えるべきです。

シャルル・ミュンシュ指揮フランス国立管(1963年録音/ディスク・モンターニュ盤) リスボンでのライブです。モノラル録音ですが、音のバランスが良いので聴き易いと言えます。後年のパリ管との演奏に比べると、表現の幅では幾らか聴き劣りしますが、終楽章などでは、さすがにミュンシュのライブだけあって、凄まじい熱演となっています。但しパリ管のライブ盤が出てしまった以上は、モノラル録音である当盤の存在意義は非常に薄れてしまったと言えるでしょう。

シャルル・ミュンシュ指揮パリ管(1967年録音/EMI盤) 

ミュンシュの、そしてこの曲の代表盤として昔から定評のある演奏です。パリ音楽院管が発展して、パリ管に新たに生まれ変わりましたが、フランス文化省の肝入りだけあって、名実ともに大成功となりました。とにかくオーケストラが異常なほどに熱く燃え上がった演奏です。破天荒なこの名曲は、やはりこのような破格の演奏でなければいけません。問題は元々の録音が余り明瞭でないために、CDのマスタリングを高音域強調にしてしまい、音が耳に刺激的なことです。僕のアナログ盤は米Angel盤ですが、弦のふわりとした柔らかさが心地良いです。CDは、国内盤も海外盤(写真)も大きな違いは有りません。


シャルル・ミュンシュ指揮パリ管(1967年録音/Altus盤) 

有名なEMI録音から1か月後にシャンゼリゼ劇場でパリ管創設記念演奏会が開かれました。これはその時のライブです。3年前に初めて聴いた時には、残響の少ないデッド気味の音質にやや聴きづらさを感じましたが、耳が慣れると、その生々しい音にむしろ好印象を受けます。スタジオ録音で、あれほどの熱演をしていたミュンシュ/パリ管が実演のそれも記念演奏会となれば、どうなるかは想像出来ますが、果たして予想通りか、それ以上の熱演です。表情の彫は深く、溶解寸前まで熱くなっている演奏を言葉では到底表せません。EMI盤と合わせて座右に置きたい歴史的な名盤です。

この他にも、ボストン響との1954年スタジオ録音や、1962年日本ツアーでのライブ盤があります。変わったところでは1966年のブダペストでのハンガリー放送響とのライブ録音もありました。けれども究極的には、やはりパリ管とのEMI盤とライブ盤の二つに尽きると思います。

「幻想交響曲の演奏はミュンシュに限る」と言っても過言では無いと思いますし、それで少しも困りはしないのですが、これほどの名曲がそれではやはり勿体無いので、次回はミュンシュ以外の愛聴盤についてご紹介する予定です。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-514d.html

10. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:27:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-214] 報告

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜ミュンシュ以外の名盤〜: ハルくんの音楽日記| 日本の領土を守れ その4 »
2012年9月13日 (木)

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜ミュンシュ以外の名盤〜

フランス人は本当に洒脱です。ベルリオーズは失恋が原因で精神異常とも言えるほどに憔悴し切って作曲したというのに、この曲には「悲しみ」というよりは「情熱」と「美しさ」と「狂騒」がふんだんに詰まっています。服用したアヘンの影響も大きいのでしょうが、たとえば第4楽章「断頭台の行進」を聴いて下さい。冒頭こそ重々しい足取りで開始されますが、徐々に高揚してゆき、なんだかまるで「阿波踊り」のようなお祭り騒ぎです(そういえばリズムも似ています)。ギロチン台に連れて行かれる自分自身をこれほどおチャラかすのは、フランス人でなければ出来ない芸当でしょう。別の視点からは、ギロチン処刑の見物に集まった聴衆たちの楽しみと興奮ぶりという見方もあるのかもしれません。

そんなこの曲を聴くには、やはり総じてフランス人の指揮者が洒脱さを良く表現していて望ましいように思います。あるいはフランスのオーケストラによる音には華やかさと軽味が有って曲に相応しいと思います。

ただ、そうは言ってもフランス以外の演奏家にも好きな演奏は有りますし、フランス人でもピエール・ブーレーズの遅く荘重な、まるで司祭様が指揮したような演奏も有りますので、一概には言えません。

さて、「幻想交響曲」と言えばミュンシュ、ミュンシュと言えば「幻想」ですので、前回はシャルル・ミュンシュ演奏の名盤をまとめてご紹介しました。そこで今回は、ミュンシュ以外の愛聴盤のご紹介です。

ポール・パレ―指揮デトロイト響(1959年録音/マーキュリー盤) 

パレーの出す音は、フランス語の鼻に抜けるような発音では無く、ずっと明確な音です。基本テンポも速く、強固に引き締まった造形は、「フランスのムラヴィンスキー」と呼びたいところです。この曲でも、1楽章と5楽章の速さはミュンシュ以上に常軌を逸していて、大炎上する恋の炎の中に一直線に飛び込んでゆくかのようです。この曲はやはりこのような演奏でなければいけません。年代の割には録音も明瞭なので、演奏の真価を損なうことなく味わえます。ミュンシュ盤と聴き比べてみると楽しいです。

イーゴリ・マルケヴィチ指揮パリ・ラムルー管(1961年録音/グラモフォン盤) 

鬼才マルケヴィチは、ミュンシュやパレーが速いテンポで燃え上がるのとは反対に、テンポを大きく伸縮させており、遅い部分では心の底に深く沈滞するような演奏です。それでいて高揚感にも不足は感じません。やはり曲の本質に近づいた良い演奏だと思います。但し、不満が残るとすれば、オケの響きと性能が極上とは僅かに言い難いことです。


アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管(1964年録音/Altus盤) 

東京文化会館での歴史的な名演奏です。ドラマティックな白熱度ではミュンシュに僅かに及ばないとしても、相当な熱気を帯びています。それでいて至る所に気品が漂うあたりはさすがにクリュイタンスです。好みで、こちらを取る人も多いと思います。NHKによる録音は当時としては優秀で、ミュンシュのライブ盤よりも音質もバランスもずっと上です。

小澤征爾指揮ボストン響(1973年録音/グラモフォン盤) 

小澤がボストン響の監督になって初めて来日したのが1978年ですが、僕はその時に東京文化会館で「幻想交響曲」を聴きました。それは若き小澤の情熱と熱気がほとばしるような素晴らしい演奏でした。それに比べると、5年前のボストン響とのデビュー録音は、若々しく新鮮な演奏には違いありませんが、少々軽過ぎるように感じます。健康的な印象も、この曲にはどうかなと思ってしまいます。ただ、そうは言いつつも、若き小澤征爾の想い出深い演奏ですので忘れられません。

ジャン・マルティノン指揮フランス国立放送管(1973年録音/EMI盤) 

ある意味では最もフランス的な演奏かもしれません。鼻に抜けるような軽味がいかにも生粋のパリジャンを想わせます。ドイツ系の血が流れるミュンシュやベルギー生れのクリュイタンスの力のこもった音とは明らかに異なります。沈み込むような深刻さは余り感じません。2楽章は録音当時としては少数派のコルネット入り版を使用しています。その洒脱な演奏が、いかにもパリの社交界の雰囲気です。

小林研一朗指揮/チェコ・フィル(1996年録音/CANYON盤) 

コバケンはこの曲を得意にしていますが、実演で聴いたのは何年か前に東京文化会館でN響を指揮した演奏会です。それは非常にドラマティックな演奏で大いに楽しめました。このCDは相性の良いチェコ・フィルとの演奏ですが、弦も管も音が非常に美しく聞こえます。ただ、コバケンが本領を発揮するのは、やはりライブです。この曲にしては幾らか大人しく感じますが、CANYONの録音も優秀ですし、じっくりと聴くのには良い演奏です。

クリストフ・エッシェンバッハ指揮パリ管(2002年録音/NAIVE盤) 

パリ管の音を新しい録音で聴けるのは魅力です。1楽章冒頭を思い入れたっぷりに開始するのはエッシェンバッハ調ですが、この曲にはピッタリです。主部の盛り上がりについても上々です。2楽章は綺麗ですが、やや淡白。3楽章は重く聴き応えが有ります。4〜5楽章の狂気さはミュンシュには及びませんが、パリ管は流石に手の内に入った演奏ぶりで安心して聴いていられます。録音が良いのでティンパニーの迫力には圧倒されます。但し4楽章のリピートは、一度断頭台に向かった死刑囚が再び刑務所に戻るみたいで好みません。

というわけで、どれもが個性的な演奏なので気に入っていますが、現在いちばん聴きたくなるのはエッシェンバッハ指揮パリ管盤です。

http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-5305.html

11. 中川隆[-13681] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:47:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-213] 報告

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、『幻想交響曲』でよく知られているフランスのロマン派音楽の作曲家である。

この他に『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。

ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。


生涯

幼年期

フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(La Côte-Saint-André)に生まれる。ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。

1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学するが、間もなくして1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。家庭ではラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)を習う。


青年期

1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。その後15歳になってからはギターも習い始めている。

作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。

1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学する。しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになる。それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。

1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶ[1]。

また早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。後にテオフィル・ゴーチエはこのように述べている。

「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユーゴーやドラクロワとともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」


音楽院時代とローマ賞

ジャン=フランソワ・ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲。1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されたが、未熟であるがために失敗する。この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収める。またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てている。

1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。しかし選外に終わる。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受ける。このことが2人の運命的な出会いであった。

1828年の3月、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回のパリ音楽院管弦楽団定期演奏会でベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を、また同年に第5番『運命』を聴いて、大きな啓示を受ける[2]。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。

1829年、ゲーテの『ファウスト』(ジェラル・ド・ネドヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「作品1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『クレオパトラの死』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わる。

1830年2月に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。

1831年、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユ・プレイエル(英語版)と結婚するという報告であった。この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。『回想録』には、マリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発したのだった。しかしイタリア(サルデーニャ王国)とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻したのであった。

この出来事の後、ベルリオーズはニース(当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1ヶ月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。そして正式にモークとの婚約は解消された。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成している。


帰国後と中期の活動

1832年に上記の事情によってイタリア留学を切り上げる形でパリへ帰国すると、同地で再び音楽活動を始める。またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っている。

1833年、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至る。ベルリオーズの両親は反対したが、それを押し通してのことであった。パリ郊外のモンマルトルに新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始める。

同年に演奏会に来ていたショパンとパガニーニと出会い、親交を結ぶ。

1834年の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラと管弦楽のための作品である交響曲『イタリアのハロルド』を作曲する。初演の成功によって金銭的な援助も得られた。またこの年に長男のルイが誕生する。

この年にオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の作曲に取りかかり、1836年の夏に大半が完成する。同時にフランス政府から『レクイエム』の作曲を委嘱され、速いペースで翌1837年に完成する。初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりした。

1838年の9月に、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われる。しかし序曲を除いて散々な不評に終わる。原因として全体の総練習が4回であったことや、聴衆の趣向に合わなかったことなどが挙げられる。友人たちは失敗の原因を台本の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「脚本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っている。また初演が失敗した直後に母親が没する。

1839年に、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させる。初演の後、作品をパガニーニに献呈する。この時期のベルリオーズは莫大な借金を背負っていたため、生活が苦しく、収入が得られなかったが、音楽院側からの助けで、2月頃にパリ音楽院の図書館員となり、僅かな額ではあったがある程度の収入を得る。1852年には館長に任命されている。

1840年に再びフランス政府から依頼を受けて、『葬送と勝利の大交響曲』を作曲・完成。7月28日に200名の軍楽隊を率いて初演を行う。しかしこの時期、ベルリオーズはパリの各劇場から締め出された状態にあった。『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗に拠るものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行った。


演奏旅行と指揮活動

人気が遠ざかっていたため、1842年に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収める。しかし一部からは急進的過ぎるという批評も受けた。

1843年5月末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『ローマの謝肉祭』を作曲する。

一方で妻スミッソンとの仲違いが決定的となり、別居へと至る。
スミッソンはモンマルトルの小さな家で(ひきこもる形で)生活する。
ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、これまで以上に窮地に瀕していた。

1844年にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。8月1日に産業館で行われた演奏会は、新作『フランス讃歌』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的には僅かなものでしかもたらすことができなかった。

1845年の10月から翌年の1846年の4月にかけて、2回目の演奏旅行としてウィーンやプラハ、ブダペストなどへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。ブダペストでの演奏会は、『ラコッツィ行進曲』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれる。同じ頃にゲーテの『ファウスト』による劇的物語『ファウストの劫罰』の作曲を着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れている。

『ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って1845年から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成する。12月6日にオペラ・コミック座で初演されたが、20日に行われた再演とともに結果は芳しくなく、成功しなかったという。初演の失敗によって多額の負債が降りかかり、破産の危機に直面したものの、友人たちの尽力によって難なく免れる。だがこれを機にベルリオーズは再び演奏旅行に行くことを決意し、次なる場所はロシアであった。


ロシアへの演奏旅行

1847年の2月14日、パリを離れ一人でロシアへ向かった。ベルリンまで汽車で乗り、滞在中にロシア大公妃エレナ・パヴロヴナ宛ての紹介状を書いて欲しいと当時のプロイセン王に懇願する。出発後ようやくロシアに到着するのであった。3月15日と25日にサンクトペテルブルクで、4月にモスクワでそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど、大歓迎を受けるのであった。この演奏会で4万フランの大金を手にし、ベルリオーズにとって、この大金を得たことはこれが生まれて初めてのことである。


パリへの帰還から再度ベルリンへ

パリへ向かって帰還する折に、再度ベルリンに立ち寄って、ここでも演奏会を催している。プロイセン王の求めで『ファウストの劫罰』を演奏し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から赤い鷲印の十字勲章を授けられる。またこの夜サン=スーシー宮殿での晩餐会にも招待されている。著書『近代楽器法と管弦楽法』をヴィルヘルム4世に献呈している。


ロンドンでの指揮活動

7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーのジュリアンと出会い、彼の申し出に応じる形でロンドンのドルーリー・レーン劇場の指揮者として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かう。しかしジュリアンと交わした契約は途中で破棄される。ロンドンに到着して4か月後にジュリアンは破産の危機に直面したためであった。


パリ帰国と相次ぐ不運の連続

イギリスでの生活が安定する矢先に、1848年2月にパリで勃発した2月革命によって、急遽パリへと舞い戻る。理由として名誉職という名の地位であるパリ音楽院の図書館主事補の職を確保するためであった。

この時期、ベルリオーズの周りに相次いで不幸が襲う。パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが脳卒中の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態であった。このため、作曲活動は一旦中断して評論と執筆活動に集中することに限られる。

しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、1849年に3群の合唱と大管弦楽のための『テ・デウム』(H.118,Op.22)を完成させる。だが演奏の機会が得られず、1855年4月にパリ万国博覧会でサン・トゥスタッシュ教会での初演まで待たなければならなかった。

この時期の作品は合唱とピアノ伴奏のための『トリスティア』(H.119)と、2重合唱と管弦楽のための『民の声』(H.120)ぐらいしか作曲していない。また自身の『回想録』も執筆をし始め、そのうちの第1部を書き上げている。

1850年、ロンドン・フィルハーモニック協会を真似する形で「パリ・フィルハーモニック協会」を結成する。パリではこのような協会は無く、これが初めてのことであった。ベルリオーズはこの組織の会長と指揮者に就任して演奏活動を活発に行う。しかし程なくして資金難に陥り、加えて聴衆からの受けがあまり良くなかったため、協会は結局1年後にそのまま解散してしまうのだった。

解散後、1851年から1855年にかけてロンドンに赴き、同地で定期的に指揮活動を行う。


スミッソンの死とマリー・レシオとの結婚

1854年の3月3日、別居中の妻スミッソンがモンマルトルで世を去った。
4年前から容体は一層悪くなり、加えて身体は不随になっていた。
別居中であったが、彼女を見捨てることができなかったベルリオーズは、深い悲しみを味わい、『回想録』と友人フランツ・リストに宛てた手紙には悲痛な言葉がつづられている。

スミッソンを埋葬後、10月19日にマリー・レシオと正式に結婚する。
息子ルイに宛てた手紙にはこのように書いている。

「私は一人で生きることもできないし、また14年来一緒に暮らしてきた女性を見捨てることもできなかった」(1854年にルイに宛てた手紙)


成熟期

1854年3月末にドイツへ旅行に行き、4月1日にハノーファーを再訪する。ハノーファーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『キリストの幼時』(H.130,Op.25)を5年がかりで完成させた。12月10日に初演されると聴衆から拍手を受け、大成功に終わる。

1855年の4月、長らく初演の機会を得られなかった『テ・デウム』がパリ万博において、ベルリオーズの指揮によって初演された。

1856年、5月3日に没したアドルフ・アダンの後任として、フランス学士院会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定する。またこの頃にヴァイマルを訪問しており、同地で滞在していた際、フランツ・リストと同棲していたその伴侶ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と面会する。ヴィトゲンシュタインから『アエネーイス』を題材としたグランドオペラ『トロイアの人々』の作曲を勧め、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年5月5日に台本を自ら執筆し、僅か2か月足らずで完成させる。腸神経痛に悩まされつつも作曲を続け、一気呵成に1858年の4月12日に2年かけて完成させる。しかし全5幕というあまり長大なオペラ『トロイアの人々』は、初演の機会が得られないままであった。

1860年の夏にバーデン=バーデンで開催される音楽祭に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナツェから委嘱を受け、2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』(H.138)を作曲する。シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』に基づくが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆している。一時中断もあったが、1862年2月に完成させ、同年8月9日にバーデン=バーデンの新劇場で初演が行われている。

『ベアトリスとベネディクト』が初演される2か月前の1862年6月14日、後妻マリー・レシオが心臓麻痺のためこの世を去る。彼の目の前でのことだった。遺体はモンマルトル墓地に埋葬される。ベルリオーズに残された家族は船員となった息子ルイだけとなった。

1863年、苦労の末『トロイアの人々』がオペラ座で第2部のみが初演されたが、生前に第1部と全曲が上演されることはなかった。全曲上演は1890年まで待たなければならなかった。そして長らく続けていた評論活動を止めてしまう。
60歳を迎えた1864年、作曲の筆を折り長い作曲活動を終えるのであった。以降は一人でアパートに住み続けることとなる。また『回想録』を1865年1月1日付で終え、印刷にまわした(ただし、没後出版される)。


晩年とその死

後妻マリーに1862年に先立たれ、さらに一人息子のルイ(船員になった)も1867年に失い孤独感を募らせた生活をパリで過ごした。特に息子を失った時は半ば狂乱となった状態で立ち直れなかったと言われる。だが指揮活動を伴う演奏旅行は、1866年にオーストリア、1867年にドイツ、1867年末から1868年にロシアでそれぞれ継続して行われた。

最晩年にロシアのエレナ大公妃から招待されて演奏旅行に赴き、ロシアのサンクトペテルブルクで演奏会を開いている。ベルリオーズにとってこれが最後の旅行となった。だが元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の1868年3月には健康状態はより悪化していた。この間作曲はほとんどできない状態であったが、最後の作品はフランソワ・クープランの作品の編曲であった。

その後、南フランスで保養した後にパリで病床についたが、1869年3月8日の午前0時半に眠るように息を引き取った。65歳没。遺体はモンマルトル墓地において、2人の妻、ハリエット・スミスソン(1854年逝去)とマリー・レシオ(1862年逝去)とともに葬られた。


遺産

ベルリオーズの作品は1960年代から1970年代にかけて復活を遂げたが、これはイギリスの指揮者コリン・デイヴィスの奮闘によるところが大きい。デイヴィスがベルリオーズの全作品を録音したため、従来あまり知られていなかった作品にも光が当てられた。歌劇『トロイアの人々』の録音は、最初の全曲録音であった。本作は、ベルリオーズの生前に完全に舞台上演されたことはなかったが、現在では復活を遂げ、定期的に上演されている。

2003年にベルリオーズ生誕200周年を記念して、ベルリオーズをパンテオンに改葬しようとの提議がなされたが、アンドレ・マルローやジャン・ジョレス、アレクサンドル・デュマに比べて、ベルリオーズがフランスの栄光の象徴に値し得るかどうかをめぐる政治的議論の末に、ジャック・シラク大統領によって審議が中断された。


エピソード

生前のベルリオーズは、作曲家としてより指揮者として有名であった。定期的にドイツやイングランドで演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれている。リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する“練習魔”だったという。

ヴァイオリンのヴィルトゥオーソにして作曲家のニコロ・パガニーニとの出会いからは『イタリアのハロルド』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたがヴィオラの活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)、また金銭的援助も得られた。ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。


ハリエット・スミスソンとの関係

ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている[誰によって?]。これは、ウェルギリウスの数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピア劇の劇団の女優でアイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ1830年にローマ大賞を受賞する。

スミスソンに最初こばまれると、ベルリオーズはマリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家のカミーユ・プレイエル(英語版)に嫁がせた。ベルリオーズはその頃、ローマ大賞の賞金(奨学金)を得てローマに留学中であった。『回想録』によれば、この時パリに引き返し、女中に変装してモーク母子を殺害し、自殺を図ろうと企んだが、ニースにたどり着くまでに女装用の服を紛失したため気が変わった。

ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために、彼女は求愛を断ったのであるが、こうした感情によって引き起こされたといわれる『幻想交響曲』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この標題音楽的な作品の自叙伝的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたであろう。

ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンは『幻想交響曲』の演奏を聴きに来た上、ついには結婚に至った。スミスソンは馬車から落ちて重傷を負ったこともあって、女優として下り坂にあったことも理由であろう。

しかしながら2年もすると、2人の関係はたちまち冷え込んでいった[3]。

さまざまな理由が挙げられているが、中でも言葉の壁が大きかったと推測されている。

また他には、ベルリオーズはスミスソンを一人の女性として彼女の人間性に惚れたのではなく、彼女が演じる役(「ロミオとジュリエット」の「ジュリエット」等)に惚れたために、彼女と結婚して彼女が普通の女性である事に気がつき、失望したのだとする説もある。

2人は1841年頃から別居し、1854年に彼女が亡くなると、すでに同棲していた歌手のマリー・レシオと結婚する。

音楽的影響

ベルリオーズは文学に激しい愛着を寄せており、ベルリオーズの最も優れた楽曲の多くは文学作品に触発されている。『幻想交響曲』は、トマス・ド・クインシーの『或る英国人阿片常習者の告白』に着想を得ており、『ファウストの劫罰』はゲーテの『ファウスト』に依拠している。『イタリアのハロルド』はバイロン卿の『チャイルド・ハロルドの巡礼』が下敷きである。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』は、チェッリーニの自叙伝に由来する。『ロメオとジュリエット』は、シェイクスピアの同名の悲劇に基づいている。記念碑的な大作オペラ『トロイアの人々』は、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に立脚している。ベルリオーズは、最後の歌劇となったコミック・オペラ『ベアトリスとベネディクト』のために、シェイクスピアの『から騒ぎ』に大まかに基づいて台本を作成した。

文学の影響を別にすると、ベルリオーズは当時フランスではさほど有名でなかったベートーヴェンの擁護者でもあった。1828年にフランソワ・アントワーヌ・アブネック(『幻想交響曲』の初演指揮者)指揮パリ音楽院管弦楽団によって行われた『英雄交響曲』のパリ初演はベルリオーズの作曲活動における転回点となり、2年後の1830年に『幻想交響曲』が生み出されるきっかけとなった[4]。ベートーヴェンに次いでベルリオーズが崇拝したのが、グルック、メユール、ウェーバー、そしてスポンティーニであった。

『イタリアのハロルド』においてベルリオーズは、半音階や旋法、変拍子(5拍子)を採用するとともに、従来のドイツの交響曲にみられる形式的な均整感や全体的な統一感から距離を置いた。

サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」から取られている。しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、コントラバス独奏によって演奏される。


音楽作品と著作

『幻想交響曲』に加えて、ベルリオーズのいくつかの作品は現在、標準的なレパートリーにとどまっている。劇的物語『ファウストの劫罰』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』(いずれも混声合唱と管弦楽のための大作)、歌曲集『夏の夜』、ヴィオラ独奏付きの交響曲『イタリアのハロルド』などである。

ベルリオーズの型破りな音楽作品は、既存の演奏界やオペラ界を刺激した。演奏会の段取りを自力でつけるだけでなく、演奏者への俸給も自前で調達しなければならなかった。これはベルリオーズに、経済的にも心情的にも重い負担となってのしかかった。ベルリオーズの演奏会には1,200人の常連客がついていて、入場者数を確保できたが、大掛かりな――数百人もの演奏者を要する――ベルリオーズ作品の性質上、経済的な成功は望めなかった。ジャーナリスティックな才能から、音楽評論がベルリオーズにとって手っ取り早い収入源となり、音楽会においてドラマや表現力の重要性を力説する、機知に富んだ批評文によって飢えをしのぐことができた[5]。


著作

ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって音楽評論を執筆して生計を立てていた。大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な論調で、執筆を続けた。『オーケストラのある夜会』(1852年)は、19世紀フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評したものである。ベルリオーズの『回想録』(1870年)は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出したものである。『音楽のグロテスク』(1859年)はオーケストラ夜話の続編として出版された。

教育的な著作である『管弦楽法』(Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes, 1844年、1855年補訂)によって、ベルリオーズは管弦楽法の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書はマーラーやリヒャルト・シュトラウスによって詳細に研究され、リムスキー=コルサコフによって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮したモスクワやサンクトペテルブルクの音楽会に通い詰めていた。ノーマン・レブレヒトは次のように述べている。

「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の交響曲第3番を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた」[6]
また、18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖歌のみならず世俗曲でも活躍したことで最も有名なロシアの作曲家であるドミトリー・ボルトニャンスキーを高く評価した[7]。


主要作品


「ベルリオーズの楽曲一覧」も参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリオーズの楽曲一覧


幻想交響曲―ある芸術家の生活のエピソード Op.14(Symphonie fantastique; Episode de la vie d'un artiste, 1830年)
全5楽章から構成される最も有名な交響曲。1830年に作曲。

抒情的モノドラマ『レリオ、あるいは生への復帰』 Op.14bis(Lélio, ou Le retour á la vie, 1831年)
『幻想交響曲』の続編として1831年に作曲・完成された独白劇。

交響曲『イタリアのハロルド』 Op.16(Harold en Italie, 1834年)
独奏ヴィオラとオーケストラのための交響曲。1834年に作曲。

劇的交響曲『ロメオとジュリエット』 Op.17(Roméo et Juliette, 1839年)
1839年に作曲された独唱、合唱と管弦楽のための交響曲。

葬送と勝利の大交響曲 Op.15(Grande symphonie funèbre et triomphale, 1840年)
1840年に作曲された大編成の軍楽隊と合唱による作品。

序曲「ローマの謝肉祭」 Op.9(Ouverture 'Le carnaval romain' , 1843年)
オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として作曲された有名な序曲。後に独立して演奏会用序曲となる。

夢とカプリッチョ Op.8 (Rêverie et caprice, 1841年)
ヴァイオリンと管弦楽による。唯一の協奏曲である。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』のアリアからの編曲である。

劇的物語『ファウストの劫罰』 Op.24(La damnation de Faust, légende dramatique, 1845年-1846年)
青年期に作曲された『ファウストからの8つの情景』を基にして1845年から1846年にかけて作曲された大規模な作品。『ハンガリー行進曲』や『妖精の踊り』、『鬼火の踊り』が有名。

死者のための大ミサ曲(レクイエム)Op.5(Grande messe des morts (Requiem), 1837年)
1837年に作曲された巨大な編成を伴う声楽曲である。4組のバンダを必要とする。フランス政府からの委嘱による。

テ・デウム Op.22(Te Deum, 1848年-1849年)
1848年から1849年かけて作曲された宗教音楽。全7曲だが通常省略される「行進曲」も存在する。

宗教的三部作『キリストの幼時』 Op.25(L'enfance du Christ, 1850年-1854年)
1850年から1854年にかけて作曲された全3部から構成される声楽曲。

歌曲集『夏の夜』 Op.7(Les nuits d'été, 1840年-1841年)
1840年から1841年にかけて作曲された全6曲の歌曲集である。友人のテオフィル・ゴーティエの詩集『死の喜劇』による。ピアノ伴奏または管弦楽による伴奏のいずれかで演奏される。

歌劇『ベンヴェヌート・チェッリーニ』 Op.23(Benvenuto Cellini, 1834年-1838年)
イタリアの彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニの自叙伝を基にして、1834年から1838年にかけて作曲されたオペラ。序曲は現在も演奏される有名な楽曲。

歌劇『トロイアの人々』(トロイ人)(Les Troyens, 1856年-1858年)
1856年から1858年にかけて作曲された大作オペラ。古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』による。『アエネーイス』を参照。

歌劇『ベアトリスとベネディクト』(Béatrice et Bénédict, 1860年-1862年)
シェイクスピアの原作『から騒ぎ』を基にして作曲された全2幕のオペラ。

荘厳ミサ(英語版)(ミサ・ソレムニス)(Messe solennelle, 1824年)
1825年の初演後破棄されてきたと伝えられていたが、1991年にアントウェルペンの教会で、ベルリオーズが友人に贈った総譜が発見され、1993年にジョン・エリオット・ガーディナーによって蘇演・初録音がなされた。様々なフレーズが、幻想交響曲など後年の主要作品にたびたび登場する。

序曲『宗教裁判官』 Op.3(Ouverture 'Les fancsjuges' , 1827年)
1827年頃に作曲。『宗教裁判官』は初期に手がけ未完となったオペラの1つ。序曲が残され、単独で演奏されるようになった他、このオペラからはいくつかの曲が他の作品(葬送と勝利の大交響曲の第2楽章など)に転用されている。

「海賊」 Op.21
『イタリアのハロルド』と同様にバイロンの詩に基づく。

序曲『リア王』 Op.4(Ouverture 'Le Roi Lear' , 1831年)
幻想交響曲を作り上げた翌年に書かれた作品。

序曲『ウェイヴァリー』Op.1(Ouverture 'Waverley' , 1826年-1828年)
1826年に作曲された序曲。本来はオペラに含まれていた序曲であるが、オペラ自体は破棄されたため、序曲のみが現存する。

序曲『ロブ・ロイ』(Ouverture 'Rob Roy' , 1831年)
タイトルは『ロブ・ロイ・マクレガー』とも表記される。

歌曲『わな』(Le trébuchet, 1833年)
『ランドの花』の第3曲に含まれる。

叙情的情景『クレオパトラの死』(La mort de Cléopâtre, 1829年)
1829年に作曲されたカンタータ。この作品でローマ賞の応募作として書かれたもの。翌年に受賞する。


日本語訳著作

『ベルリオ自伝と書翰』Katharine F.Boult [訳編] 尾崎喜八訳 叢文閣 1920
『ベートーヴェン交響楽の批判的研究』エクトル・ベルリオ 尾崎喜八訳 仏蘭西書院 1923
『合唱管絃楽指揮法』津川主一訳 新響社 1929 『管絃楽・合唱指揮法』音楽之友社 1948
『作曲家の手記 ベルリオーズ回想録』清水脩訳 河出書房 1939
『ベルリオーズ回想録』音楽之友社 1950
『ベートーヴェンの交響曲』橘西路訳編 角川文庫 1959
『ベルリオーズ回想録』丹治恆次郎訳 白水社 1981
『管弦楽法』リヒャルト・シュトラウス共著 小鍛冶邦隆監修 広瀬大介訳 音楽之友社 2006
『音楽のグロテスク』森佳子訳 青弓社 2007

https://ja.wikipedia.org/wiki/エクトル・ベルリオーズ

12. 中川隆[-13680] koaQ7Jey 2020年2月20日 13:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-212] 報告
アンクルのクラシック夜話     2003/09/01

ベルリオーズの恋1

 1827年、ケンブルなる興行主が率いるイギリスの劇団がパリにやってき
た。この一座のよびものはシェイクスピア劇。そのころまでのフランスではま
だシェイクスピアの作品はほとんど知られなかったという。そのためか知識階
層に熱狂的に迎えられ、劇場は連日活況を呈した。

 ベルリオーズも含め、皆、英語の台詞はわからないものの、舞台の動きから
シェイクスピア劇の偉大さを感じ取り圧倒された。もっともそれ以上に、彼が
とりこになったのは、一座の花形女優ハリエット・スミスソンの美しい舞台姿
だった。


 ハリエット・スミスソンは、ベルリオーズより三歳年上、アイルランド系の
イギリス人、背がスラリと高く、均整のとれた美人で、その声には感情がこも
り、また大きな青い瞳は表情豊かで観客を惹きつけた。彼女の演ずるオフェリ
アやジュリエットなど、当時の人々から絶賛を浴びたという。

 ベルリオーズは、彼女の演ずる「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」
を見てもうすっかり夢中、魂を奪われた。スミスソンの面影は寝ても覚めても
離れることがないという有様。むろん音楽の勉強が手につくわけもなく、高熱
に浮かされたかのようにパリの町や郊外の森や野原をあてどもなくさまよい歩
いた。これは「幻想交響曲」作曲の契機となったエピソードとしてよく知られ
た話である。

 ベルリオーズの行動はもう常軌を逸していた。スミスソンを一目見たその日
から毎日のようにオデオン座に通い詰め、舞台の上の彼女の動きを一部始終熱
っぽく目で追い回した。その内にもう舞台と現実との境がわからなくなり、ジ
ュリエットがたくましいロミオの腕に抱かれる場面になると、猛獣のようなわ
けのわからない叫び声を発し、すっかり有名というか劇場側の要マーク人物に
なったという話も残っている。

 劇場に通うばかりではない、毎日のように熱烈なラブレターを書いて彼女に
送った。むろん直接会って思いをぶつけたかったが、英語も話せなかったので
恋文に思いのたけを託したのである。

 もちろん、ナシのつぶてだった。今をときめく人気スターにファンレターな
らともかく、色気違いまがいの手紙が一瞥だにされないのは当然至極のことだ
った。

 しかし、今、ハリエット・スミスソンの名が歴史の残っているのは、つとに
ベルリオーズのおかげかもしれないのである。運命の不思議、貧乏な一音楽書
生だったベルリオーズと花形女優のスミスソンはなんと6年後、結婚すること
になるのである。(つづく)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa030901.htm


ベルリオーズの恋2
 
 イギリスからやってきた美人女優ハリエット・スミスソンに文字とおり無我
夢中になったベルリオーズは、勉学はそっちのけ、毎日のように劇場に通いつ
め山のようなラブレターを送ったが、彼女の方からは、なんの反応もなかった。
 そこで作戦変更、彼女が自分に冷たいのは一介の貧乏音楽書生だからだ、そ
れならば、自分がフランスでも一流の大作曲家であること見せつけてやれば、
きっと彼女も心を動かすに違いない...こう考えたベルリオーズは、その頃
のフランスではまだ誰も試みたこともない自作の演奏会をパリ音楽院の講堂を
借りきって開催してしまうのである。それにしてもたった一人の女の関心を引
くために演奏会を計画、実施してしまうとは、その妄執ぶりは奇矯を通り越し
て痛快ともいうべきか。

 ともあれ動機がどうであれ、この演奏会によってベルリオーズは、ある程度
の社会的認知を受けるに至ったのである。当のベルリオーズの書いたものによ
れば、この演奏会は観客の入りも良かったし、評判も良かったという。

 だが、本来の目的だったスミスソンに対する効果は全くなかった。ちゃんと
招待状を出した筈なのに、演奏会が大好評だったことも、なにより演奏会が開
かれたことすら彼女は知らなかったのである。

 かくして、なにも知らないまま、演奏会の翌日、ハリエット・スミスソンは
一座の人々と一緒に次の巡業地のアムステルダムへ旅立ってしまったのである。
ベルリオーズの切々たる恋も、哀れアワビの片思いに終わったのである。

 不朽の傑作、「幻想交響曲」は、ハリエット・スミスソンに対する熱烈で激
烈な想いと失恋の痛み・苦しみ・憎しみから書かれたもので、3年後の183
0年の27歳の時完成した。
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa030915.htm


ベルリオーズの恋3
 
 イギリスからやってきた美人女優ハリエット・スミスソンとの別れ、と言っ
ても一方的なものだったが、の3年後、前回書いた通り、その痛みと苦しみを
幻想交響曲に結実させた。ベリオーズ27歳、1830年だった。この183
0年という年はまた、この幻想交響曲の完成・初演をみたほか、彼にとって記
念すべき年になった。フランスの若き音楽家にとって最大の栄誉にして、いわ
ば登竜門だったローマ大賞を4度目のチャレンジで手にしたのである。

 ローマ大賞はナポレオンが制定したフランスの歴史的な芸術コンクール、こ
のコンクールの優勝者には2年間のローマ留学と5年間の生活費が与えられた
とか。ベルリオーズは23歳の時から挑戦していたが、その壁は高く、27歳
4度目にしてようやく念願がかなったのである。

 そして更にこの年、ベルリオーズはめでたく女流ピアニストマリー・モーク
との婚約にもこぎつけたのである。つれなかったハリエット・スミスソンを見
返すことが出来たという思いだったろう、大賞受賞と婚約、彼の前途はまさに
薔薇色というところだった。

 マリー・モークは8歳年下の小柄な女性、その身のこなしが軽かったので、
ベルリオーズは彼女のことをシェイクスピアの『テンペスト』に出てくる妖精
にちなんでエーリエルというあだ名で呼んでいたという。

 ローマ大賞受賞は、もう天にも昇るうれしさだったが、2年間のローマ留学
は気が重たかった。かわいいマリーとの別れがとてもつらかったのである。そ
れでローマ行きを一日延ばししていたが、周囲のこともあり翌年の3月、意を
決してでもしぶしぶパリを立ってローマへ赴いたのである。

 ローマでの留学生活はまさに砂を噛むように味気なく、ベルリオーズはいつ
もマリー・モークのことばかりを思い日を過ごしていた。(つづく)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031001.htm


ベルリオーズの恋4
 
 ローマでの留学生活はまさに砂を噛むように味気なく、ベルリオーズはいつ
もマリー・モークのことばかりを思い日を過ごしていたが、マリーの方からの
便りは待てど暮らせど届かなかった。

 しびれを切らしたベルリオーズはローマを飛び出しフィレンツェへ行ったり
したが、ある日、女文字の手紙が届いた。わくわくする気持ちで開封して見た
ら、それはマリーの母親からのものだった。そこにはなんと、マリーがピアノ
業者の息子のカーミュ・ブレイエルと結婚したこと、更にベルリオーズのこと
を、家庭の平和を乱した色気違いとまで付け加えてあった。

 まさにショック、涙があふれ出たが、次の瞬間、完全に頭に血がのぼった。
 「よーし、こうなったらあのカバ(母親のあだ名)も浮気女も男も三人とも
皆殺しだ。そして自殺すればいい..。そうすれば世間もオレの正当性を認め
るだろう。」

 彼はすぐさまピストル2丁、アヘンとストリキニーネ、女装のための衣装を
そろへパリ行の馬車に飛び乗った。揺れる馬車の中で、その殺しの手順を盛ん
に練るのだった。

 「みながお茶を飲んでいる夜の9時頃、女装して踏み込もう。まず二人を手
早く片付ける。それから3人目のマリーだ。彼女の髪をひっつかんで、自分が
だれか思い知らせてやる。きっと悲鳴を上げるだろうから、ゆっくりそれを楽
しんでから3発目をぶっぱなす。そして4発目はオレの額に..。」

 深夜の冷え冷えとした空気を突きさいて、馬車は疾走する。ところがその途
中で、ベルリオーズは我に返った。

 「どうしてオレが死ななきゃならないんだ。オレがここで死んでしまったら
一体このフランス音楽界はどうなる。この頭の中のすばらしい傑作が、みなフ
イになってしまうではないか。世界人類のための財宝が..、フランスの国宝
が..。」そう思ったとたん、ベルリオーズは言葉にならない大きな叫び声を
発していた。御者は驚いて馬車を止めた。

 感情の起伏の激しい直情径行の見本のようなベルリオーズ、不実な女の面影
も復讐の幻想も、すべてその一声で吹き飛ばされ、霧散してしまったのである。

 彼は再びローマに戻り、退屈な留学生活を続けるのだった。(続く)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031015.htm


ベルリオーズの恋5
 
 結婚を約束した女に裏切られ気も動転、女とその家族、相手の男も一緒に殺
してしまおうと、ピストルを鞄に忍ばせ、パリに向かったベルリオーズだった
が、ひた走る馬車の中、夜の冷気で我に返り、留学先のローマに駆け戻った。
 2年間の留学生活を終え、パリに戻ってみると、またあのハリエット・スミ
スソンのいる一座がやって来ていたのである。運命の巡り合わせ。

 彼はさっそくに自作の演奏会を開き、スミスソンに招待状を送った。今度は
その招待状もホゴにされることなく、スミスソンもやってきた。プログラムは
因縁の「幻想交響曲」。でもベルリオーズはこのとき、ほんとうはどういう気
持ちだったろう。懐かしさと少々の苦々しさとが入り混じった...。

 スミスソンは、この曲の内容や作曲の動機については何も知識がなかったが
、プログラムの解説に目を通し、誇り高きローマ大賞受賞作曲家が、かって山
のようなラブレターを送ってきたあの色家違いの青年で、彼女を熱烈に愛して
くれていたことを知り感激するのだった。

 ”焼けぼっくいに火がつき”のごとく、二人の中は急速に燃え上がって行っ
た。ベルリオーズとスミスソンは翌1833年に結婚式を挙げた。

 ただ、この頃、年齢的なこともあるがハリエット・スミスソンの人気はすで
に峠を越え、容姿も衰えてきていた。それに、その頃、馬車から降りる際に転
倒、足をくじき舞台には立てなくなっていた上、1万4千フランもの借金を負
っていた。ベルリオーズは、それもなにも意に介さなかった。なにより彼女を
ひしと抱きしめたかったのである。

 念願かなって彼女と結ばれたものの、実生活でのハリエットは、彼の思うオ
フェリアやジュリエットとはほど遠かったのである。芸術家の妻としての素養
や理解がなく、浪費癖がある上、大変嫉妬深かった。

 一児が出来たが、二人の間は年を追って険悪なものになり、8年後別居、更
に13年後、ハリエットは夫と息子のルイに看取られながら息を引き取った。
53歳。かっての舞台での華やかなスターには淋しい最後だった。

 ベルリオーズは、ハリエットと別居する前から、マリー・レシオというスペ
イン人の血も引く女性歌手と恋中になり、別居後に同棲をはじめていたが、ハ
リエットが亡くなった後、正式に結婚。ベルリオーズ50歳、マリーは40歳
だった。

 マリーは美人だったが、歌手としての才能にはあまり恵まれていなかったと
いわれる。そして恐らくベルリオーズにとって幸福な結婚とはいえず、良き妻
ではなかったらしい。というのは、彼の回想録の中、このマリーについては、
「わたしは再婚した。それは避けられない結婚であった」としか記述がないと
いう。−−−避けられないというのは、ハリエットの嫉妬がかえって二人をの
っぴきならないものにしてしまったようである。

 このマリーも結婚後わずか8年で死去、寂しい彼は、幼な友達のエステル・
フォルニエ夫人に最後の求愛したりしたが、その愛は受け入れられなかった。

 思うにベルリオーズは、大変女房運の悪い男であった。そして息子にまで先
立たれ、晩年は孤独で不幸であった。1869年65歳で没。(おわり)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031101.htm

13. 2020年8月10日 09:13:03 : qXjuuCamk2 : RkhnTEhqRHRJTG8=[4] 報告
幻想交響曲あれこれ

ベルリオーズの幻想交響曲は、名曲とされていて、CDもたくさんあるが、苦手なままに聴き飽きてしまった。
特に、後半の大騒ぎは俗っぽいというか。

アバドがベルリンフィルに最後に登場したライブが、ベルリンフィルレコーディングスで、WAVファイル24ビット48kで買える。
音はよいし、アバドのベルリンフィル就任は、自分には大きなニュースで覚えているので、最後のコンサートも聴いてみたい。しかし、幻想交響曲というのが気に入らずに長く買っていなかった。

手元にCDがけっこうあるので、リッピングして聴いていたら、すっかり虜になってしまう。これはストーカーの曲だが、恐ろしい固定観念と粘着ぶりが乗り移ってクセになってしまうというか。
ベートーヴェンのすぐ後ぐらいなのがすごいといわれていて、マーラーと遜色ないというか、マーラーの「アルマの主題」とかは、幻想交響曲無しにあったのだろうか。

1楽章は難解だが特に凄い。
これは世界へのラブレターだ。恋とか愛というものが、一方的で理想化されたものであるのは、端的に言って幼いナルシスティックなものかもしれない。しかし、それこそが本質だという考え方もありそうに思う。
とにかくクリスタルで熱く儚く、その心情を音化したオーケストラ音楽では無類の傑作であるし、純化された憧れが絶望に変わり錯乱していく展開もおもしろい。

No quantity of hearth or freshness can assignment what a man will save up in his ghostly coronary heart.
(どれほど暖炉に火をくべても、みずみずしい現実の世界があらわれたとしても、一人の男が、その虚ろな心のうちに積み上げるものにはかなわない。)

Great Gatsbyの好きな一節。
ギャツビーが、執着する憧れのデイジーと、5年ぶりの念願の再会を果たす。語りてのニックは、デイジーがギャツビーの理想に届かない場面だっていくつもあっただろうという。でもそれはデイジーの落ち度じゃないと。ギャツビーの巨大なillusionの力のせいだと。

幻想交響曲の1楽章は、まさにそれを思い出させるのだ。
どうしても届かない、届かないけれど手を伸ばす行為(ギャツビーの手は震えている)は、孤独で滑稽でもあるけれども、この現実を超えて美しいものでもある。
https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1976563572

14. 2020年8月10日 09:15:14 : qXjuuCamk2 : RkhnTEhqRHRJTG8=[5] 報告

2020年08月10日01:5415 view

幻想交響曲の聴き較べ
手元にあったのは、以下のもの

1 ミュンシュ パリ管 EMI
2 ミュンシュ パリ管 ライブ
3 チョン・ミュンフン パリバスティーユ
4 ドホナーニ クリーブランド
5 レヴァイン ベルリンフィル
6 アバド シカゴ
7 デイヴィス コンセルトヘボウ 4楽章のみ
8 デュトワ モントリオール

探せば他にもあるかも。

とにかくミュンシュが有名で、新発見のライブも、特に宇野功芳や平林直哉などの濃い系評論家は神扱いで、小石忠男氏も絶賛。
4・5・8は録音含め優秀そうだが、強烈な印象まではいかない。
3は、レコードアカデミー大賞だったが、それだけのことはあって、録音含め異彩を放っている。評論を読んでると、また腰を据えて聴いてみたくなった。

幻想交響曲は、理想の女性像でもいいし、パッションの個性でもいいが、好みが出そうに思う。

宇野氏は、たまたま読者投票の評担当者で、ミュンシュがダントツ1位で、2位はけっこうな票を集めてアバドだったが「どんな演奏か全く覚えていない」と一蹴。
しかし、私が気になったのは6だった。
とにかく繊細で静か、シカゴ響のシルキーな弦合奏、荒れ狂うところでは当時の有名な金管軍団が暴れ、録音も1983年としては最高。
アバドは上品で破綻しないみたいに言われているが、ヴァイオリンのムローヴァと深い不倫関係にあり、子どももいる。戦争時の記憶もあり、意外と激しい人である。

ベルリンフィルとの最後の演奏は、さすがベルリンフィルレコーディングスで、上回るのは不可能かと思うほどの6の録音より、さらに鮮明でリアル。
やはり幻想交響曲は、できるだけ色彩豊かなオケと録音で聴きたい。
まだ4楽章以降は聴いていない。よい演奏だと思う。

ミュンシュはやはり録音で損しているのと、荒々しい情念という感じだが、狂気の青年というのは伝わるが、絶世の美女という静けさが失われる。
しかし、自在な呼吸は、曲を完全に手中にしている感じがある。評論を読んでいるとまた聴きたくなった。

他に、ゲルギエフとウィーンフィルは、ウィーンフィルサウンドが珍しいし、フィリップスの録音もよいと思うので、また買ってみたい。
2 3

コメント

mixiユーザー2020年08月10日 07:58

隠れ名盤ですが、

https://www.amazon.co.jp/Symphonie-Fantastique-Louis-Fourestier/dp/B000FDFNOA/ 

ルイ・フレスティエ, セント・ソリ管弦楽団の1957年初期ステレオ録音。これがウソみたいに録音がよく超名演です。一時アコールの廉価盤で出ていましたが、今では入手困難。それだけのことはあります。もし適価で入手できるんでしたら是非。

mixiユーザー2020年08月10日 08:03
ミトロプーロスやストコフスキといった古い指揮者は5楽章の鐘にピアノを重ねています。よりおどろおどろしい感じになります。珍しいところではオッテルロー・BPO。鐘は鍋のフタといった趣で、唖然とします。これはモノながら録音優秀。とにかくいつ聴いても新鮮な名曲で、語り出すと熱くなりますね。


mixiユーザー2020年08月10日 08:47

そう言われてみると、ここ数年、CDでもあまり聴いていない曲。実際のコンサートでも意外に目にしない気がします。
昔はミュンシュが定番でしたが、今はロト指揮シェクルという同時代楽器の演奏が好まれるようです。
私は、マゼール・クリ管、ショルティ・シカゴ響などでよく聴いていました。好きな指揮者で聴けばよいかな。

https://open.mixi.jp/user/5343821/diary/1976563746

15. 中川隆[-15840] koaQ7Jey 2021年10月25日 09:58:16 : TB9yu1cbVQ : TGVnMUt0dC5KQXc=[21] 報告
ワインガルトナー

Berlioz: Symphonie Fantastique (1925) Weingartner/LSO


















1. Rêveries – Passions (00:04)
2. Un bal (12:09)
3. Scène aux champs (18:37)
4. Marche au supplice (32:54)
5. Songe d'une nuit du sabbat (37:07)

Felix Weingartner, conductor
London Symphony Orchestra

Recorded on October 29/ November 1, 1925
at The Scala, London
16. 2023年7月14日 22:48:55 : R05V9rG9dw : NDFKY2E1aVNhNGs=[1] 報告
<■85行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2023年 07月 14日
ミュンシュの幻想も
https://tannoy.exblog.jp/33237554/

先日のミュンシュのブラームス1番のオリジナル盤の音がすごかったので、二版で持っている幻想のレコードのオリジナル盤も頼みました。相変わらず送料が高いのですが、こちらはブラームスの半額ぐらいでした。下の写真の左側が初版です。右側の二版もそうですが、フランス盤は材質も硬く、概してハイ上がりで、硬質な音がするのですが、1960年代のオリジナル盤は、柔らかな音がします。セカンドヴァイオリンやヴィオラの音が聞こえると言ったらお解りになられるでしょうか?

ミュンシュの幻想も_f0108399_09225182.jpg

50年前の1967年の盤ですね。下のブラームスの一番は68年です。幻想は、ミンシュ特有のスケールの大きな演奏で、オーケストラ全体が大きく息をするように動きます。聴いているとミンシュの魔界に引き込まれます。

対するブラームス の一番は、正攻法の演奏でオーケストラ全体がエネルギーを集中していきます。冒頭の部分の音が悪いと言われますが、一番低いCの音を出しているコントラバス、コントラバスファゴット、そしてオクターブ上になりますが、ティンパニーのCの音が連続して鳴り、通常のMC型のカートリッジや50Hzから100Hzの通常の低音を持ち上げている装置では、30Hzの大振幅に、カートリッジも、トランスも、イコライザーも飽和してしまい歪だらけの音になるのだと思います。

光カートリッジは、振幅比例型の発電を行います。速度比例型の電磁式のカートリッジのイコライザーとは違い、低域でも高域でも一定の振幅を取り出せます。従来の電磁式の低域では、速度が小さくなってしまう、電磁式の弱点を補うため、RIAAのカーブを低域に向かって持ち上げるのではなく、その余分に持ち上げた低域は、逆に50Hzと30Hzで最低域を6dbでカットしています。加えて、その大振幅を受け止めるリニアトラッキングアームの違いも出てくるからでしょう。

ミュンシュの幻想も_f0108399_10534397.jpg

オリジナル盤は静かな音で始まり、30Hzの最低域の大振幅を受け止めるのです。これは、カートリッジやスピーカーが最低域を出せているかの試金石のようなレコードです。このレコードの差を聞いてしまうと、光カートリッジの定振幅のメリットがはっきりとわかります。加えて、スピーカー側の低域の再生能力も問われます。

オーディオを長くされていればお分かりのようにこれがなかなか再生できないのです。GRFやオートグラフ のようなバックロードホーンでは、40Hz以下の最低域は理論上も出ません。その代わりその倍音の領域の60Hzから80Hzあたりを持ち上げて迫力を出しています。ユニコーンもそうです。ユニコーンは55Hzぐらいがカットオフですから、低音が出ている感じを上手く出しているのでしょう。オーディオテスト盤を使って検証するとその辺りの違いがはっきりとわかります。

TW5の様に最低域の再生を目指したSPでも、50Hz以下の信号音だけでは、振動は感じますが音としては感じません。信号ではほとんど聞こえないSPが、オルガンなどの音楽を流すと、たちまち部屋に音楽が溢れ、その信号は、廊下を挟んだ部屋のドアも揺らすほどです。

ミューザにベルリンフィル やバイエルンを聞きに行くとオーディオでは聞こえない最低域の音が聞こえてきます。東京文化会館や池袋の芸術劇場などのステージの後ろに座席のない箱型のホールでは、低域は音圧としてしか感じられませんが、ミューザの様なワインヤード型のホールでは、その最低域が実像として立体的に聞こえます。そのミューザでの経験を「コントラバスの低い音」として記事にしたことがあります。その時にコメントをいただいたご説明がわかりやすいと思います。

ミュンシュの幻想も_f0108399_04280288.jpg

Commented by たぬき at 2014-03-20 22:39
ベース(コントラバス、エレキベース共に)の4弦解放のE音で大体40〜42ヘルツ。
3弦解放のA音で55〜57ヘルツ。3弦のC音で60ヘルツ辺り。
と言う事はその一オクターブ下のベートーベンの運命交響曲の最低音、コントラC(五弦ないしはCマシーンで延長した4弦)は30ヘルツ辺り。

多くのオーディオスピーカーのウーハーのF0は70〜かなり良くても精々40ヘルツ位。
ベースの3弦4弦、ましてや五弦等の低音域は基音がほとんどが再生不完全。多くは2倍音以上の倍音成分やら諸々の情報から脳内補正 して低音を感じている?

因みに、低音域は周波数特性のイジワルから発音体(楽器やアンプ、オーディオスピーカー)の付近が一番音量が低く、数メートル〜数十メートル離れた場所(周波数により異なる)で最大音量(1.5〜数倍?)になります。
又、コントラバスのエンドピンを介して舞台床を楽器の第二の共鳴板とする事で本体音量比で5割増以上の音量になります。(個々の音のクリアさや音程感は、、、)

ミュンシュの幻想も_f0108399_09444834.jpg

このミュンシュ の録音には、その 32HzのCが入っています。60Hz以上の倍音を持ち上げている装置では、音が飽和してしまうのでしょう。文化会館でもその飽和が感じられます。ブラームスの一番だけではなく幻想もオーケストラのダイナミクスをよく収録してあると感心しました。二版以降の硬い音ではなく、弦や木管のの柔らかさもよく入っていました。やはりレコードはオリジナル版でないと何かが失われています。

それではCDではどうかということですが、60年代の元のマスターではなく、90年代の日本製のCDもレコードのオリジナル版とは違いますし、ましてARTになった2000年代のリマスターは、元の音とは全く異なっています。ART盤で、クレンペラーもありますが、80年代の元のCDマスターとは似ても似つかないので、お蔵入りのままです。

ところで、うちのTW5のウーファーが、このレコードの再生実験中にいろいろと進化をしました。最低域の再生は難しい、そのお話はまたいつか・・・
https://tannoy.exblog.jp/33237554/

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