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パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 21 日 20:04:25: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因 投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 20 日 13:31:53)

パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』


Pau Casals - El cant dels ocells (at the White House)


Pau Casals - Cello,
Mieczysław Horszowski - Piano


from the album "A Concert at the White Houe" (Columbia KL 5726) recorded live on November 13, 1961 at the White House and released in 1962.


2006/03/01
ホワイト・ハウスのカザルスと「鳥の歌」


米コロムビア KL5726
『コンサート・アット・ザ・ホワイト・ハウス』
フェリックス・メンデルスゾーン「ピアノ3重奏曲第1番ニ短調 作品49」
フランソワ・クープラン「チェロとピアノのための演奏会用小品集
ロベルト・シューマン「アダージョとアレグロ 作品70」
カザルス編「鳥の歌」


アレクサンダー・シュナイダー(vn), パブロ・カザルス(vc), ミエチスラフ・ホルショフスキー(p)
(録音:1961年11月13日 ホワイト・ハウスでのライブ)


 1961年11月13日、月曜日の夜、かなり盛大なアフターディナー・コンサートが、アメリカ合衆国大統領官邸、ホワイト・ハウスのイースト・ルームで開催された。


 ホストは、時のアメリカ大統領、35代目に就任したばかりのジョン・F・ケネディ、演奏するアーテイストは世界的チェリスト、パブロ・カザルス、当時84歳だった。


この会場には、当時のアメリカを代表する錚々(そうそう)たる音楽家、サミュエル・バーバー、アーロン・コープランド、ハワード・ハンソン、カルロ・メノッテイ、ウオルター・ピストン、ウイリアム・シューマン、ヴァージル・トムソン、レナート・バーンスタイン、ユージン・オーマンデイ、そしてレオポルド・ストコフスキーら多数が列席した。


 カザルスがこのホワイト・ハウスのイースト・ルームで演奏するのは、この時が最初ではない。ケネディが、開演前、わざわざ紹介したように、ウイリアム・マッキンリー大統領の1898年と、テオドール・ルーズベルトの1904年に、それぞれ1回づつ演奏しているので、これが3回目であった。


 実はその間、スペインの内乱によりフランコ独裁政権が樹立され、カザルスは、この新政権には終始断固反対すると共に、各国政府が次々に新政権を容認する態度に抗議すべく、一般公開演奏の停止宣言をしていた。


 しかし、就任早々の若きアメリカ大統領ケネディの強い要請に対し、同大統領の世界平和に対する強いコミットに期待しつつ、この申し出を受入れ、老骨に鞭打ってホワイトハウスに出かけることにしたのである。(ちなみに、この同じ年の4月、カザルスは、愛弟子 平井丈一朗の帰国演奏会をサポートするため、フランコ容認を理由に一切の演奏を拒絶していた日本への初来日を果たし、平井のために東京と京都で指揮をしている。その後、2度と日本を訪れることはなかったが。)


 ホワイト・ハウスでのコンサートのためにカザルスが相方に選んだのは、古くからの盟友、ピアノのホルショフスキーと彼を通して知り合ったブダペスト四重奏団のメンバー、ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダーで、この3人は、1950年、カザルスが主催していたプラドでの音楽祭以来の頗る気心の合った仲間でもあった。


 演奏会に先立って、ケネディは極く短い挨拶の中で、音楽の国際社会に対する役割の重要性とともに、カザルスの世界平和と自由に対する大いなる貢献を強調した。


 このレコードは、このホワイト・ハウスでの演奏会を収録したものである。演奏会は、メンデルスゾーンのピアノ・トリオ第1番で始まった。 この作品は、20世紀前半に、コルトー、テイボーと組んだ黄金トリオでも録音を残しているが、カザルスの得意とするレパートリーであり、このコンサートのメイン・ピースでもあった。


 メンデルスゾーンの室内楽の中でも筆者の最も好きな曲であり、しなやかで楽しさにあふれた名曲である。ここでのカザルスも、のびのびとした気分で弾いていて、いかにも気心の合った3人がこの曲の気分に寄り添うように演奏している雰囲気が伝わってくるようだ。演奏会は、クープラン、シューマンと続いて最後が、有名な「鳥の歌」で締めくくられる。


 この曲は、カザルスとは切っても切れない愛奏曲となっていたが、元々彼の生地カタロニア地方の民謡をカザルスが編曲したもの。自身の説明によれば、


「私は、カタロニアの古いキャロル“鳥の歌”のメロデイでコンサートをしめくくることにしています。その歌詞はキリスト降誕を歌っています。生命と人間にたいする敬虔な思いにみちた、じつに美しく心優しいことばで、生命をこよなく気高く表現しています。」


と述べ、また故郷カタロニアについて


「この歳になるまで いくつもの国を訪れ、たくさんの美しい土地に出会った。でも私の心に刻まれたもっとも純粋に美しいところはカタロニアだ。目を閉じれば、(1つ1つの特定場所を列記する)カタロニアは私の生まれ故郷だ。カタロニアは母のように慕わしい・・・」。
(何れも、ちくま文庫版 パブロ・カザルス「鳥の歌」池田香代子訳)


 生涯を通して決して戻ることはなかった望郷の思いと平和への強い願いをこめて、わずか3分そこそこの短い小品ながら、彼が大統領に一番聴いて貰いたかったのは、この曲ではなかったのか。この録音からはカザルス渾身のボーイングの響きと共に、彼自身の物凄いうなり声まで聞き取ることが出来る。


 1971年10月、94歳のとき、ニューヨークの国連本部での演奏会でも、「鳥の歌」を取り上げ、「自分の故郷カタロニアでは、鳥はピース、ピースと鳴くのです」と語って演奏したのが、語りぐさとなっている。このときの模様は全世界にテレビ中継された。


 表紙の写真は、マーク・ショウによるもの。多分、最後の「鳥の歌」の演奏前の情景であろうか。正面席には、ケネディと1人おいてジャックリーヌが、ケネディの左、1人おいてちょっと横向きに座っているのは、多分ストコフスキーであろう。


 それにしても深々と頭を下げて挨拶をする老雄カザルスのがっしりとしたまるで農夫のような背中が印象的である。


 周知の通り、大統領ケネディは、この演奏会のほぼ2年後の1963年11月22日、凶弾に倒れ、カザルスの抱いた期待も露と消えてしまったが、実は、ケネディが亡くなる直前、63年の夏、大統領がプエルトリコを訪れたとき2人は再会している。
ケネディは、カザルスに“自由のメダル”を授与すべく、もう一度ホワイトハウスへ招待したが、その機会は大統領の死によって永遠に実現されることはなかった。カザルスの自伝「ジョイズ・アンド・ソロウズ」のほぼ最後に、このケネディに対する哀悼の意とともに深い無念の情が述べられている。


 しかし、カザルスの平和への運動は以降も決して途絶えることなく、それから10年後の1973年、心臓発作で96歳の大往生を遂げるまで続けられた。


 1950年代以降、アルベルト・シュヴァイツアー博士とともに、米ソ両国に対して始められた核実験廃絶運動にも、終始徹底して注力した生涯であった。


 そのカザルスが逝って早や30年以上、死して漸くカタロニアに戻り今や故郷ベンドレルの墓地に埋葬されているが、今年12月には巨匠の生誕125周年がやってくる。
http://www.cec-web.co.jp/column/disc100/disc100_12.html


▲△▽▼


Pablo Casals receives the U.N. Peace Medal


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カタルーニャ(カタロニア)民謡:鳥の歌 El Cant dels Ocells
http://pacem.web.fc2.com/youtube_folksong/catalunya/song-birds_casals_wh-un.htm


チェロ: パブロ・カザルス (85歳)
ピアノ: ミェチスワフ・ホルショフスキ
Recorded live on November 13, 1961 at the White House (当時の大統領:ジョン・F・ケネディ)

  
カザルスがカタルーニャ民謡『鳥の歌』を演奏し始めたのは、第二次世界大戦が終結した1945年といわれる。この曲には、故郷への思慕と、平和の願いが結びついており、以後カザルスの愛奏曲となった。


1971年10月24日、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において


「私の生まれ故郷カタロニアの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」


と語り、『鳥の歌』 (El Cant dels Ocells) をチェロ演奏したエピソードは伝説的で、録音が残されている。



I have to play today.
カタロニアの短い民謡を一曲演奏します。


This piece is called "The Song of the Birds"
この曲は「鳥の歌」と呼ばれています。


The birds in the sky, in the space,
空の鳥、宇宙の鳥は、


sing "Peace! Peace! Peace!".
ピース ピース ピースとさえずります。


The music is a music that Bach and Beethven
この曲はバッハやベートヴェンなどの


and greats would have loved and admired.
大作曲家もきっと愛したでしょう。


It is so beatiful and
美しい曲です。 それに


it is also the soul of my country. Catalonia.
私の祖国カタロニアの魂なのです。
http://pacem.web.fc2.com/youtube_folksong/catalunya/song-birds_casals_wh-un.htm


▲△▽▼


パブロ・カザルス(Pablo Casals、カタルーニャ語:Pau Casals, 1876年12月29日 - 1973年10月22日)は、スペインのカタルーニャ地方に生まれたチェロ奏者、指揮者、作曲家。


カタルーニャ語によるフルネームはパウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・ダフィリョー(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)。


チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる[1]。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる。


早くから世界的名声を築き、ヨーロッパ、南北アメリカ、ロシアなどを演奏旅行して回った。指揮者フルトヴェングラーはチェロ奏者としてのカザルスへ次のような賛辞を残している。「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」。


カザルスは平和活動家としても有名で、音楽を通じて世界平和のため積極的に行動した。


略歴


1876年、スペイン・カタルーニャ地方タラゴナ県アル・バンドレイに生まれる。4歳でピアノを始め、6歳で「マズルカ」を作曲。9歳になると、ペダルに足が届くようになったことでオルガンを始める。11歳でチェロを弾き始める。


1888年、第1回バルセロナ万博の時、バルセロナに移り住む。
1888年から1893年まで、母の勧めでバルセロナ市立音楽院に入学し、チェロ、ピアノ、音楽理論、作曲などを学ぶ。チェロはホセ・ガルシアに、作曲は当時の音楽院長であったホセ・ロドレダに師事する。入学から半年ぐらいして、町はずれのカフェ・トストで働くようになった。カザルスはまだ少年であったが、チェロの名手として評判になり、遠方からも客が聞きに来るようになった。


1890年、バルセロナの楽器店でバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会う。母の勧めでマドリードに居を移す。スペイン王室の庇護を受けるようになる。
1896年、母とブリュッセル、パリと渡り歩いた後、20歳の時バルセロナの音楽学校で教え始める。以後はバルセロナを拠点に、パリやニューヨークにも住みながら、世界を演奏旅行した。


1899年、パリでデビュー。
1904年、バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏する。
1905年、アルフレッド・コルトー(ピアノ)、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)との三重奏団(カザルス三重奏団)を結成。
1908年、コンセール・ラムルー管弦楽団の演奏会に指揮者兼ソリストとして登場。このときが指揮者活動の始まりとみられる。
1919年、第一次世界大戦の影響により、カタルーニャに戻る。
1931年、53歳、カタルーニャ自治政府誕生を祝う記念式典(ムンジュイック宮殿、現カタルーニャ美術館)には、自らのオーケストラと地元の合唱団とともに、ベートーベンの第九を指揮した。それまでどの選挙でも投票しなかったカザルスは、この時には自治政府首班フランセスク・マシア(1859年 - 1933年)に一票を投じた。
1939年、スペイン内戦のため、フランスへ亡命。スペインとの国境に近いプラード(プラド)に隠棲。
1945年、6月から演奏活動を再開。しかし、各国政府がフランコ政権を容認したことに抗議して11月から演奏活動を停止。
1950年、ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュナイダーの説得によってカザルスを音楽監督とするプラド音楽祭が開催される。
1955年、本拠地をプエルトリコに移す。プエルトリコは、カザルスの母、また妻マルタの故郷である。
1960年、自作カンタータ『まぐさ桶』を初演。
1961年、弟子の平井丈一朗[2]のために来日。東京交響楽団、京都市交響楽団を指揮。文京公会堂でスズキ・メソードで学ぶ児童400人の演奏を聴き「世界は音楽で救われるだろう」と述べる。[3]
1971年10月24日(国連の日)、ニューヨーク国連本部にて演奏会、国連平和賞が授与される。
1973年、心臓発作によりプエルトリコで死去。遺言によって、遺体は生地ベンドレイの墓地に埋葬された。


チェロ奏法の改革


カザルスは12歳でバルセロナの市立音楽院でチェロを学ぶことになるが、ホセ・ガルシアから教授されたチェロ奏法に当初から違和感を抱き、独自の奏法の追究を始めた。当時のチェロ奏法は、両ひじを両脇につけるという窮屈なものであった。この状態で、右手は手首を持ち上げ加減にして前腕だけで弓を扱い、左手は指の間隔を広げずにすべらせて音程移動させていた。このような奏法は、ヨーゼフ・ヨアヒム一門によるヴァイオリン奏法を機械的に模倣したものと考えられている。

カザルスは、右手を脇から自由にして弓による表現性を広げ、左手も脇から離し、指の間隔を拡張させて同じポジションで半音広く弾くことができるように改良した。このとき、カザルスは、アンリ・ヴュータンやウジェーヌ・イザイなどフランコ・ベルギー派のヴァイオリン奏法を参考にしたともいわれる。これらの奏法の確立には11年から12年を要した。カザルスは、自身では奏法革命とか改革という表現は使っていない。名技性ではなく、あくまで音楽的な完全性をめざすために必要だったと述べている。


この奏法の改革がなければ、20世紀のチェロ無伴奏作品のほとんどが作曲されることはなかっただろうと言われる。


「表現する音程」


カザルスの演奏は、シャープ記号(半音高く)の音が半音より高く、フラット記号(半音低く)の音がより低い傾向があると指摘されたり、音程が不正確で現代と比べれば技巧的には前時代的などと批判的に指摘する者もいる。しかしカザルスは、音程も表現の手段であり、同じ音階でも上昇するときと下降するときでは異なる音程をとる必要があると語っている。したがって、カザルス自身はそのことを十分承知の上で、表現上あえて音程をずらしていたのである[4]。


カザルスの政治姿勢


カザルスは、スペイン内戦が勃発するとフランスに亡命し、終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫いた。このことは、ナチス・ドイツに迎合する姿勢を示していたコルトーとの決別[5]、カザルス三重奏団の解散へとつながった。


また、スペイン内戦を避けて1939年にプラドへ移り、第二次世界大戦後の1945年に演奏活動を一時的に再開するが、各国政府がフランコ政権を容認する姿勢に失望し、公開演奏停止を宣言する。この間、多くのチェリストがカザルスのレッスンを受けるためにプラドを訪れた。この時期カザルスに師事したチェリストに、モーリス・ジャンドロン、アンドレ・ナヴァラら、日本人では岩崎洸、佐藤良雄、平井丈一朗、上田真二らがいる。


1950年代後半からはアルベルト・シュヴァイツァーとともに核実験禁止の運動に参加した。


プラド音楽祭の誕生


1947年、ヴァイオリニストのアレクサンダー・シュナイダー[6]がカザルスを訪ね、アメリカでの演奏を申し出たがカザルスはこれを断った。手ぶらで戻ってきたシュナイダーはカザルスと親交があるミェチスラフ・ホルショフスキと相談した。カザルスを引っ張り出すのは無理でも、音楽家がカザルスのところへ集まれば演奏会は可能だと判断し、1950年、シュナイダーはアメリカ・コロンビア社の資金協力を得て、プラドでカザルスを音楽監督としたバッハ音楽祭を開くことを提案し、カザルスの説得に成功した。プラド音楽祭の誕生であった。


音楽祭の模様は、コロンビア社によってLP録音された。プラド音楽祭は1950年から毎年開かれたが、コロンビア社の資金難や意向、カザルスたち演奏家同士の意向が衝突するなど、次第に運営が困難になっていく[7]。1957年にカザルスがプエルトリコに本拠を移して以降は、この地でカザルス自身が音楽祭を開催した。1960年からは、カザルスはルドルフ・ゼルキンが主宰するマールボロ音楽祭に参加し、演奏家・指導者としてオーケストラを指揮・録音するようになる。このときのマールボロ音楽祭には、日本人ヴィオリストの今井信子やオーボエの鈴木清三も参加している。


鳥の歌


カザルスがカタルーニャ民謡『鳥の歌』(El Cant dels Ocells)を演奏し始めたのは、第二次世界大戦が終結した1945年といわれる。この曲には、故郷への思慕と、平和の願いが結びついており、以後カザルスの愛奏曲となった。


1971年10月24日、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」と語り、『鳥の歌』をチェロ演奏したエピソードは伝説的で、録音が残されている[8]。


カザルスの楽器


弦楽器の名器といえば筆頭に挙げられるストラディヴァリウスだが、カザルスは「自分にはもったいない」「(音色が)自分には合わない」といって使わず、マッテオ・ゴフリラーが晩年の1733年に製作した楽器を愛用した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/パブロ・カザルス
 

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