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グスタフ・マーラー 『アダージェット』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/882.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 02 日 16:14:24: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 02 日 00:59:54)

グスタフ・マーラー 『アダージェット』


GUSTAV MAHLER-Film -"DEATH IN VENICE"-Luchino VISCONTI-(1971)


"Death in Venice" - Luchino Visconti. Final Scene.



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MAHLER - ADAGIETTO SYMPHONY 5 - BRUNO WALTER 1938.flv






Bruno Walter
Wiener Philharmoniker


____



G. Mahler, Symphony No. 5, IV Adagietto - B. Walter (Conduct) - New York Philharmonic Orch (1947)



Recording: Feb. 10, 1947
Conduct: Bruno Walter (1876 - 1962)
New York Philharmonic Orchestra


______


Bruno Walter speaks about Gustav Mahler (1950)




▲△▽▼


Mengelberg Mahler : Symphony No. 5 W - Adagietto





Willem Mengelberg, conductor
The Concertgebouw Orchestra


Recorded 1926



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Mahler: Symphony No. 5, Walter & NYP (1947)




Gustav Mahler (1860-1911)
Symphony No. 5 in C-sharp minor


(00:05) 1. In gemessenem Schritt. Streng. Wie ein Kondukt.
(11:44) 2. Stürmisch bewegt. Mit grösster Vehemenz.
(24:18) 3. Kräftig, nicht zu schnell.
(39:26) 4. Adagietto. Sehr langsam.
(47:04) 5. Rondo-Finale. Allegro giocoso


Bruno Walter (1876-1962), Conductor
New York Philharmonic Orchestra (New York Philharmonic)
Rec. 10 February 1947, at Carnegie Hall, in New York




▲△▽▼
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交響曲第5番のハープと弦楽器による第4楽章アダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画『ベニスに死す』(トーマス・マン原作)で使われ、ブームの火付け役を果たしただけでなく、マーラーの音楽の代名詞的存在ともなっている。


交響曲第5番 嬰ハ短調は、グスタフ・マーラーが1902年に完成した5番目の交響曲。5楽章からなる。マーラーの作曲活動の中期を代表する作品に位置づけられるとともに、作曲された時期は、ウィーン時代の「絶頂期」とも見られる期間に当たっている。


1970年代後半から起こったマーラー・ブーム以降、マーラーの交響曲のなかで人気が高い作品となっている。その理由としては、大編成の管弦楽が充実した書法で効果的に扱われ、非常に聴き映えがすること、音楽の進行が「暗→明」というベートーヴェン以来の伝統的図式によっており曲想もメロディアスで、マーラーの音楽としては比較的明快で親しみやすいことが挙げられる。


第2番から第4番までの3作が「角笛交響曲」と呼ばれ、声楽入りであるのに対し、第5番、第6番、第7番の3作は声楽を含まない純器楽のための交響曲群となっている。第5番で声楽を廃し、純器楽による音楽展開を追求するなかで、一連の音型を異なる楽器で受け継いで音色を変化させたり、対位法を駆使した多声的な書法が顕著に表れている。このような書法は、音楽の重層的な展開を助長し、多義性を強める要素ともなっており、以降につづく交響曲を含めたマーラーの音楽の特徴となっていく。


また、第5番には同時期に作曲された「少年鼓手」(『少年の魔法の角笛』に基づく)や、リュッケルトの詩に基づく『亡き子をしのぶ歌』、『リュッケルトの詩による5つの歌曲』と相互に共通した動機や曲調が認められ、声楽を含まないとはいえ、マーラーの歌曲との関連は失われていない。さらに第4番以降しばしば指摘される「古典回帰」の傾向についても、後述するようにそれほど単純ではなく、書法同様の多義性をはらんでいる。


作曲の経緯


ウィーン・フィル辞任
1901年2月17日に自作『嘆きの歌』を初演したマーラーは、その一週間後、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を終えた直後に痔による出血を起こした。4月にはウィーン・フィルを辞任する。


この辞任は、マーラーがベートーヴェンやシューマンの交響曲などを編曲して上演したり、自作やリヒャルト・シュトラウス、ブルックナーの作品をプログラムに組んだりしたことが、ウィーンの保守的な批評家・聴衆から非難されたことによる。


批評家からは「音楽の狂人」、「ユダヤの猿」など耐え難い批判を浴び、移り気な聴衆は代役指揮者を支持することなどがあったとされる。同時に、マーラーが専制君主的に接した楽団員ともトラブルが発生した。


しかし、ウィーン宮廷歌劇場の職は維持しており、ブルーノ・ワルターやレオ・スレザークらを同歌劇場に登用、自身の理想とする舞台づくりに邁進する。ウィーン・フィルとの関係自体も継続され、1902年3月にマーラーの妹ユスティーネはウィーン・フィルのコンサートマスター、アルノルト・ロゼと結婚している。


作曲と指揮


1901年夏、マーラーはヴェルター湖畔のマイアーニック(Maiernigg)で休暇を過ごし、作曲小屋で、『リュッケルトの詩による5つの歌曲』の第1曲から第4曲まで、『亡き子をしのぶ歌』の第1曲、第3曲、第4曲、『少年の魔法の角笛』から「少年鼓手」を完成させ、続いて交響曲第5番の作曲をスケッチする。


休暇を終えたマーラーは、11月25日に自作の交響曲第4番をミュンヘンで初演。これは不評だったが、翌1902年6月、クレーフェルトで第3番の全曲初演を指揮して大成功を収めた。クレーフェルトでは、ウィレム・メンゲルベルクと知り合う。前後して、オッフェンバック『ホフマン物語』(1901年11月11日)やリヒャルト・シュトラウス『火の欠乏』(1902年1月29日)などのオペラ作品をウィーン初演している。


第5交響曲は、スケッチから1年後の1902年夏に同じマイアーニックの地で完成。同時期に『リュッケルトの詩による5つの歌曲』の第5曲も完成している。


アルマとの結婚


この間、1901年11月に解剖学者ツッカーカンドル家のサロンに招待され、当時22歳のアルマ・シントラーと出会い、12月には婚約を発表、翌1902年3月9日に結婚した。この年の11月3日には、2人の間に長女マリア・アンナが誕生している。


アルマの実父はウィーンの風景画家エミール・シントラー(この時点で故人)、養父(母親の再婚相手)がウィーン分離派の画家カール・モル、母親は芸術家サロンの主宰者という家庭環境のもとで、アルマは詩人マックス・ブルクハルトや画家グスタフ・クリムトらとも交流があった。アルマ自身は作曲家志望で、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーの音楽の弟子であり、マーラーと出会うまではツェムリンスキーと恋愛関係にあったという。


アルマとの交際、結婚によって、マーラーの交友関係は飛躍的に広がった。1902年4月、第15回分離派展でのオープニングに、宮廷歌劇場の管楽器奏者を連れて参加、ベートーヴェンの交響曲第9番の終楽章を編曲して演奏した。この際分離派の画家アルフレート・ロラーと意気投合し、翌1903年からロラーを舞台装置家兼演出家として起用することになる。


一方でアルマとの結婚をきっかけに、ナターリエ・バウアー=レヒナーなど古くからの友人は、マーラーから離れていった。



初演と出版・録音


初演
1904年10月19日(18日とも)、ケルンにて、マーラー自身の指揮、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団による[1]。この年の夏、マーラーは交響曲第6番を完成させ、交響曲第7番の二つの「夜曲」(第2楽章と第4楽章)を作曲済みだった。


録音


第4楽章のみ、1926年にマーラーと親しかったウィレム・メンゲルベルクが録音しており、これが世界初の録音である[2]。


また全曲版の世界初録音は、1947年2月10日にブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団によって録音されたコロムビア・レコードによるSPレコードである[1]。



楽器編成


フルート 4(3,4はピッコロへの持ち替えあり)、オーボエ 3(3番はコーラングレ持替え)、クラリネット 3(3番はバスクラリネット及び小クラリネット(但しニ調のものを指定)持ち替え)、ファゴット 3(3番はコントラファゴット持ち替え)
ホルン 6(第3楽章のみホルン 4 +独奏ホルン(Corno Obbligato) 1)、トランペット 4、トロンボーン 3、チューバ
ティンパニ、グロッケンシュピール、シンバル、大太鼓、小太鼓、タムタム、トライアングル、ホルツクラッパー(スラップスティック)
ハープ
弦五部 計88


楽曲構成
全5楽章からなるが、第1楽章と第2楽章を「第一部」とし、第3楽章を「第二部」、第4楽章とつづく第5楽章を「第三部」とする三部構成が楽譜に表示されている。


第1楽章


葬送行進曲 In gemessenem Schritt. Streng. Wie ein Kondukt.(正確な速さで。厳粛に。葬列のように) 嬰ハ短調 2分の2拍子 二つの中間部を持つABACAの形式(小ロンド形式) 最後のAは断片的で、主旋律が明確に回帰しないため、これをコーダと見て、ABAC+コーダとする見方もある。


交響曲第4番第1楽章で姿を見せたトランペットの不吉なファンファーレ(譜例1)が、重々しい葬送行進曲の開始を告げる。主要主題(譜例2)は弦楽器で「いくらかテンポを抑えて」奏され、付点リズムが特徴。この主題は繰り返されるたびに変奏され、オーケストレーションも変化する。葬送行進曲の曲想は『少年の魔法の角笛』の「少年鼓手」との関連が指摘される。一つの旋律が異なる楽器に受け継がれて音色変化するという、マーラーが得意とする手法が見られる。再びファンファーレの導入句がきて、主要主題が変奏される。


さらにファンファーレが顔を出すと、「突然、より速く、情熱的に荒々しく」第1トリオが始まる。第1トリオ(B)(変ロ短調)は激しいもので、やがてトランペットがファンファーレを出して、主部が回帰する。主要主題は今度は木管に出る。終わりには、『亡き子をしのぶ歌』の第1曲「いま太陽は晴れやかに昇る」からの引用があり、ティンパニのきざむリズムが残る。第2トリオ(C)(イ短調)は弦によって始まる陰鬱なもの。重苦しい頂点を築くと、トランペットのファンファーレが三度現れるが、そのまま静まってゆき、最後にトランペットと大太鼓が残って、曲は、静かに結ばれる。


演奏時間は11〜15分程度。本楽章はマーラー自身による演奏がピアノロールに残されており、その演奏時間は約14分である。


第2楽章
Stürmisch bewegt. Mit grösster Vehemenz. (嵐のような荒々しい動きをもって。最大の激烈さをもって)イ短調 2分の2拍子 ソナタ形式


第1楽章の素材が随所に使われ、関連づけられている。 短い序奏につづいて、ヴァイオリンが激しい動きで第1主題(譜例3)を出す。曲はうねるように進み、テンポを落とすとチェロがヘ短調で第2主題(譜例4)を大きく歌う。この旋律は第1楽章、第二の中間部の動機に基づいている。


展開部では初めに序奏の動機を扱い、第1主題が出るがすぐに静まり、ティンパニの弱いトリル保持の上に、チェロが途切れがちの音型を奏するうちに第2主題につながっていく。明るい行進曲調になるが、第1主題が戻ってきて再現部となる。すぐに第2主題がつづく。第2主題に基づいて悲壮さを増し、引きずるような頂点となる。楽章の終わり近く、金管の輝かしいコラール(譜例5)がニ長調で現れるが、束の間の幻のように消え去って、煙たなびく戦場のような雰囲気で終わる。


第3楽章
スケルツォ Kräftig, nicht zu schnell.(力強く、速すぎずに)、ニ長調 4分の3拍子、自由なソナタ形式


拡大されたソナタ形式のスケルツォで全曲の中でも最長の楽章。この楽章単独で第2部となっている。第1、2楽章から一転して楽しげな楽想で、4本のホルンの特徴的な信号音の導入に促されて木管が第1主題(スケルツォ主題)を出す(譜例6)。第1主題が変奏されながらひとしきり発展した後、レントラー風の旋律を持つ第2主題(第1トリオ)が「いくぶん落ち着いて」ヴァイオリンで提示される(譜例7)。これは長く続かず、すぐに第1主題が回帰する。


まもなく、展開的な楽想になり「より遅く、落ち着いて」と記された長い第3主題部(第2トリオ)へ入ってゆく(譜例8)。主題を変奏しながら進行し、最後はピッツィカートで扱われる。
そこから第2主題が顔を出して展開部へ入る。展開部は短いが、ホルツクラッパーが骨の鳴るような音を出すなど効果的に主題を扱う。提示部と同様に再現部も開始する。第1主題の再現後、第2主題、第3主題も混ざり合わさって劇的に展開し、展開部が短いのを補っている。その後、第2主題が穏やかに残り、提示部と同様に第3主題による静止部分がきて、やはり最後はピッツィカートで扱う。コーダは華やかなもので最後にホルンの信号音が出て曲を閉める。


全曲の構成は、この長大なスケルツォ楽章を中心として各楽章が対称的に配置されており、マーラーは、この手法を第7番でも使用することになる。


第4楽章
Adagietto. Sehr langsam. アダージェット 非常に遅く ヘ長調 4分の4拍子、三部形式


ハープと弦楽器のみで演奏される(譜例9)、静謐感に満ちた美しい楽章であることから、別名「愛の楽章」とも呼ばれる。


『亡き子をしのぶ歌』第2曲「なぜそんな暗い眼差しで」及び『リュッケルトの詩による5つの歌曲』第3曲「私はこの世に忘れられ」との関連が指摘される。


中間部ではやや表情が明るくなり、ハープは沈黙、弦楽器のみで憧憬を湛えた旋律(譜例10)を出す。この旋律は、終曲でも使用される。休みなく第5楽章へ繋がる。


ルキノ・ヴィスコンティ監督による映画『ベニスに死す』で使用されたことで有名となり、しばしば単独で演奏される。


なお、楽章の表題は「アダージェット」であるが、演奏指示は Sehr langsam (非常に遅く)となっている(意味的にAdagiettoとSehr langsamの指示は対立するものではない)。一般に10分前後の演奏時間であるが、マーラーとメンゲルベルグは約7分で演奏した。


第5楽章
Rondo-Finale. Allegro giocoso ロンド - フィナーレ。アレグロ・楽しげに ニ長調 2分の2拍子。自由なソナタ形式。


第4楽章の余韻が残る中、ホルン、ファゴット、クラリネットが牧歌的に掛け合う。このファゴットの音型(譜例11)は、『少年の魔法の角笛』内の一曲「高邁なる知性への賛美」からの引用である。

短い序奏が終わると、ホルンによるなだらかな下降音型が特徴の第1主題(譜例12)、低弦によるせわしない第2主題(譜例13)が呈示され、これらに対位旋律が組み合わされて次第に華々しくフーガ的に展開する。再び第1主題が戻り、提示部が変奏的に反復される。第2主題も現れ、すぐ後に第4楽章の中間主題がコデッタとして現れるが、軽快に舞うような曲調となっている。


この部分が終わると展開部に入り、引き続きフーガ的楽想が展開される。コデッタ主題が現れ、次第に力を増してクライマックスの後、再現部に入るが、第1主題はかなり変形されていて明確ではない。第2主題、コデッタ主題も再現され、ふたたび展開部最後に現れたクライマックスとなりそのまま壮大なコーダに入る。第2楽章で幻のように現れて消えた金管のコラールが、今度は確信的に再現され、最後は速度を上げて華々しく終わる。



第5交響曲とアルマ
マーラーがアルマと出会ったのは、交響曲第5番の作曲中である。
メンゲルベルクによると、第5番の第4楽章アダージェットはアルマへの愛の調べとして書かれたという。
アルマがメンゲルベルクに宛てた書簡によると、マーラーは次の詩を残した。


「Wie ich dich liebe, Du meine Sonne, ich kann mit Worten Dir's nicht sagen. Nur meine Sehnsucht kann ich Dir klagen und meine Liebe.
(私がどれほどあなたを愛しているか、我が太陽よ、それは言葉では表せない。ただ我が願いと、そして愛を告げることができるだけだ。)」


アルマの回想によれば、アルマは第5交響曲を初めて聞いた際、よい点を褒めつつも、フィナーレのコラールについて「聖歌風で退屈」と評した。マーラーが「ブルックナーも同じことをやっている。」と反論すると、アルマは「あなたとブルックナーは違うわ。」と答えた。マーラーはこのときカトリックに改宗し、その神秘性に過剰に惹かれていたとアルマは述べている。


アルマはこの曲のパート譜の写譜を一部手伝っている。


初演は1904年10月にケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団によってなされたが、アルマの回想によると同年はじめにウィーンフィルによるリハーサルがなされたという。アルマはその様子を天井桟敷で聴いていた。アルマはこの曲を細部までを暗記していたが、ある箇所が打楽器の増強により改変されてしまったことに気付き、声を上げて泣きながら帰宅してしまう。それを追って帰宅したマーラーに対しアルマは「あなたはあれを打楽器のためだけに書いたのね」と訴えると、マーラーはスコアを取り出し赤チョークで該当箇所の打楽器パートの多くを削除したという。


マーラーは1905年から第5番の改訂に取りかかるが、これには、アルマの意見もとり入れられたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC)
 

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コメント
1. 中川隆[-14093] koaQ7Jey 2020年2月02日 16:15:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-775] 報告




映画「ヴェニスに死す 」 オリジナル・サウンドトラック
The Original Motion Picture Soundtrack From The Film Death In Venice








収録曲 : 

  1. Main Title: Theme From 'Death in Venice'
    マーラー:交響曲第5番〜第4楽章 アダージェット(09:28 )
  2. Deserted Beach
    ムソルグスキー:子守唄(02:18 )
  3. Evening On The Veranda
    カンツォーネ Chi Con le Donne Vuole aver Fortuna (02:50 ) 
  4. The Salon & The Bordello
    ベートーヴェン:エリーゼのために (03:57 )
  5. Return To Venice
    マーラー:交響曲第3番〜第4楽章 (11:16 ) 
  6. Death & End Title: Theme From 'Death in Venice' Reprise
    マーラー:交響曲第5番〜第4楽章 アダージェット 抜粋 (02:15 )



   フランコ・マンニーノ 指揮 Franco Mannino
   ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団 Accademia di Santa Cecilia Orchestra
   マーシャ・プレディット (メゾ・ソプラノ ) Mascia Predit ・・・ 2
   クラウディオ・ギッツィ (ピアノ ) Claudio Gizzi ・・・ 4
   ルクレツィア・ウェスト (コントラルト ) Lucretia West ・・・ 5  他



▲△▽▼



反省文 : 1976年、発起人(当時14歳 )は 映画「ヴェニスに死す 」を いかに誤解したか。
http://scherzo111.blog122.fc2.com/blog-entry-389.html

 何を隠そう 私は、1962年(昭和37年 ) 7月生まれなので、そうすると もう 2か月も経てば53歳になろうという年齢(とし )です。
 それは、気づいてみれば すでにグスタフ・マーラーの寿命 (50歳 + 10か月 + 2週間 ) を追い越して 生き長らえているということに ふと思い至り、われながら驚いています。



▲ 映画 「ヴェニスに死す 」 ニュープリント予告編

 ルキノ・ヴィスコンティ監督の名画「ヴェニスに死す 」 Death in Venice (1971年公開 )を 私が初めて観た記憶は、映画館でではなく、公開から5年経って テレビ朝日「日曜洋画劇場 」(日本語吹替 )でTV初放送された時でした。 それは1976年 6月 − 私 “スケルツォ倶楽部”発起人 が14歳の頃 − のこと。
 この映画が放送される約 3か月前(76年 3月17日 )に、ヴィスコンティはローマで死去していました。映画「ヴェニスに死す 」のTV放送は、イタリアの偉大な映画監督の追悼的な特別企画でもある という解説者の口上もおぼろげに記憶しています。

 ご存知のとおり、トーマス・マンの原作では 主人公 「グスタフ・フォン・アッシェンバッハ 」 は 「作家 」 でしたが、ヴィスコンティ はこれを映画化するにあたって 視聴覚効果を考慮し、その職業を「音楽家 」に設定しています。

トーマス・マン ルキノ・ヴィスコンティ グスタフ・マーラー
▲ (左から ) トーマス・マン、ルキノ・ヴィスコンティ、グスタフ・マーラー

 しかし、原作者トーマス・マンは もともと同時代の著名な音楽家だったグスタフ・マーラーをモデルに「アッシェンバッハ 」を創作していたことから、結果的にヴィスコンティが加えた変更は 事実上の「修正 」に他ならず、奇しくも 当初マンが想定していた地点に着地することとなったわけです。

 クラヲタになりたてだった中学生の発起人にとって、その頃のあらゆる関心事でも中心に位置していたグスタフ・マーラーをモデルに作られた映画であるということ、さらにサウンド・トラックにもマーラーの音楽が使われていること − などという情報を読んで、わあ 一体どんな映画なんだろう、というわけで、放送日の夜には、もうわくわくの期待感もいっぱいで TVのブラウン管の前に座ったものでした。
映画「ヴェニスに死す」 (2)

 ・・・しかし、恥ずかしながら告白しますと、私( この時14歳ということは、原作のタッジオと同い年の少年だった = )発起人は、予習もせずに観た映画の意味をまったく理解できず、ひたすら退屈を堪(こら )えて 何とか最後まで我慢しましたが、「これはマーラーじゃない 」という反感でいっぱいでした。
14歳だった頃 “スケルツォ倶楽部”発起人
▲ 当時 14歳 (タッジオ君と 同級生だった頃の )“スケルツォ倶楽部”発起人(笑 )

 なにしろ その時にはヴィスコンティがいかにもセンチメンタルな外面的効果を狙って、機能的に 「アダージェット 」を使っているようにさえ聞こえたほどでしたから、その「誤解 」も重症でした。 「理解 」どころか、トーマス・マンやヴィスコンティ監督の真意からは 最も離れた 「浅瀬に立っていた 」ように思います。
映画「ヴェニスに死す」Original Soundtrack  映画「ヴェニスに死す」 (4)

 「大地の歌 」・第9番・未完の第10番 という最後の傑作三大交響曲のいずれもが 「死 」 をテーマにしているという事実や、ベートーヴェン以来の「第9 の壁 」のジンクスを怖れるあまり 意図的にそれら晩年の交響曲に番号を振らなかったなどという信憑性も低い伝承、また若妻アルマとの不幸なエピソードやジークムント・フロイトとの接触など、あたかも 「悲劇と死に憑りつかれた 病的で内向的な作曲家 」 (アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ:『失われた無限を求めて 』 より ) である − という誤ったイメージが、昔から グスタフ・マーラー にはつきまとっていますが、ここへきて さらに トーマス・マンとヴィスコンティの共犯 ( ? ) で作られた映画「ヴェニスに死す 」が、そんなマーラーの病的な面を過剰に拡大し、チャイコフスキー的同性愛者であったかのような 間違った偏見まで 一般世間に付加しかねない危険なフィクションとなり得るのではないか − などという勝手な思い込みが − 繰り返しますが、この映画を初めて観た当時 まだ14歳だった 私 − “スケルツォ倶楽部”発起人の、今にして思えば、浅い理解でした。

映画「ヴェニスに死す」 (3)
 当時の私が 最も「誤解 」してしまった部分とは、映画の中で 初老の主人公アッシェンバッハが 外国の美少年を「恋してしまう 」(ように見えた )同性愛者であると思われる描写でした。
 そのように観ることは、当時 タッジオ とは 同級生(笑 ) だった 私には 生理的に受け容れることができませんでした。 率直に 「もう二度と観たくない 」 という目を背けたくなる嫌悪感に満たされ、それきり自分から望んで この映画を見なおす気にはなれず、勝手に封印することになりました、それは 今から40年近くも(うひゃ、ホント? ) 昔の話になるわけですが − 。

映画「ヴェニスに死す」 (14)
 この文章は序章に過ぎず、続きの本編があります。
http://scherzo111.blog122.fc2.com/blog-entry-389.html

▲△▽▼

2015年、発起人53歳、「ヴェニスに死す 」 再観
 映画 「ヴェニスに死す 」 の意味 〜 39年ぶりの謎解き と マーラー 「アダージェット 」。
s 2015 05.30 | ☆ 映画のスクリーンに貼りつけられた音楽
http://scherzo111.blog122.fc2.com/blog-entry-390.html



 今回の文章は、短い 「反省文 : 1976年、発起人(当時14歳 ) は 『ヴェニスに死す 』 を いかに誤解したか 」の 続きとなります。
 
 私 “スケルツォ倶楽部”発起人、53歳を迎える誕生日を 翌々月に控えた、5月のとある休日の午後、ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す 」 Death in Venice (1971年公開 )のDVDを買ってきて 自宅で鑑賞する機会を持ちました。これで生涯二度見です。
映画「ヴェニスに死す」 (13)

 初めて観た若い時には理解できず、拒否反応さえ感じた「ヴェニスに死す 」を ふと観なおしてみようと思った動機は、なぜでしょう、自分でもわかりません。

 ・・・で、先に結論から申し上げると、この映画が 「名作である 」 といわれる真実を 50を過ぎて 「初めて 」 私は 理解しました − 「理解した 」 などという言葉が 今さらおこがましいので 率直に 「感動しました 」 と言い直しましょう。
 中学生だった 私 発起人の目は、その当時 まったくの 「節穴 」 に過ぎなかったことを痛感しました。 かつてTV放送で 映画を 初見した子どもの頃には 不謹慎にもアクビを噛み殺していた、そんな態度で眺めていたエンディング − 逆光に輝き渡る砂浜の映像 − が、今では 逆に 魂が揺さぶられるほど美しい慟哭のあまり、ホント誇張抜きで、滝のように涙が溢れるシーン となりました。
映画「ヴェニスに死す」 (8)

 主人公が苦しい探究の末、生命(いのち )と引き換えに垣間見た真実の美を表現する壮大なフィナーレと、その果てに得た ( 同時に失った ) ものが わかった、という 感銘がいかほどだったかを、さあ 何にたとえたらよいでしょう。 モグリのゴンドラ漕ぎに 「リドまで上手くお連れしますぜ、旦那 」 と言われるなり 油断して後ろ向きに座っていた私 発起人の後頭部を 振り上げたオールで殴りつけられるくらいの衝撃だった − と言っても大袈裟に感じぬほど 私は 美と感動に「打ちのめ 」されました。

 ・・・ と 言っても、もともと この映画は「大人向け 」 だったのです。
 鑑賞者が若ければ若いほど、ましてや子どもなんかには 本来 容易に理解出来るような内容では なかったのです。ヴィスコンティ自身も 記者に答えた 何かのインタヴューで 「このテーマに取り組むためには、自分自身も成熟する時間が必要だった 」と述べているほど。
ルキノ・ヴィスコンティ スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す

 映画「ヴェニスに死す 」とは、ある程度の年齢(とし )を経て 自身の人生から 美しい大事なもの を失ったり、諦めたり、手放したり、あるいは 愛着のある土地や住まいを 離れたり、両親や 心から愛する人と 別れたり ・・・ そういった 挫折 や 人生経験を 豊富に重ねた人だけが、初めてその本質に深く共感できる映画だったのです。 お子様には もう最初から無理です。
 ・・・ さあ、それからが もう大変です。 図書館から トーマス・マンの原作 ( 高橋義孝 / 訳、 新潮文庫 )を借りてくるは、DVDを 連夜 午前 3時まで繰り返し 50回以上は観るは・・・ (笑 )
ダーク・ボガードとヴィスコンティ(ベニスに死す)


■ いくつかの重要なシーンの 意味を考える
ヴェニスに死す オーケストラのシーン
 ものがたりは、1911年 ( 音楽史的にも グスタフ・マーラーが亡くなる年 ) の夏、ミュンヘンの歌劇場で オーケストラのリハーサル中、持病の心臓発作を起こして倒れた多忙な作曲家グスタフ・フォン・アッシェンバッハは、かかりつけ医から 「過労で心臓に負担がかかっている。 当分は仕事を離れて休養をとることが必要 」 と勧められ、静養の旅に 水の都ヴェニスの海浜ホテルを訪れることになります。

映画「ヴェニスに死す」 (5) 映画「ヴェニスに死す」 (7)
▲ さて、アッシェンバッハが 運命の美少年タッジオを ホテルのウェイティング・サロンで初めて見かけるシーンを、原作の文章から引用させて頂きましょう。
 〜 十四歳ぐらいかと思われる少年がひとり、この少年は髪を長くのばしていた。この少年のすばらしい美しさにアシェンバハは唖然とした。
 蒼白く優雅に静かな面持は、蜂蜜色の髪の毛にとりかこまれ、鼻筋はすんなりとして口元は愛らしく、やさしい神々しい真面目さがあって、ギリシャ芸術最盛期の彫刻作品を想わせたし、しかも形式の完璧さにもかかわらず、そこには強い個性的な魅力もあって、アシェンバハは自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはないと思ったほどである。 ( 中略 )
 鋏(はさみ )を加えることを差控えたらしい美しい髪の毛は、「とげを抜く少年 」像そのままに額へ垂れ、耳を覆い、さらにうなじに伸びていた。 たっぷりとした袖が下へ行くに従って狭く細くなって、まだ子供々々した、しかし花車(きゃしゃ )な手の手首にぴったりとついている英国風の水兵服は、その紐やネクタイや刺繍などで、この少年のなよやかな姿にどことなく豊かで豪奢な趣を添えている。
 少年はアシェンバハに横顔を見せて、黒いエナメル靴をはいた一方の足を他方の足の前に置いて、籐椅子の腕の一方の肘を突いて、握った片方の手に頬を寄せ、ゆったりと、しかも不作法でなく坐っている (以下略 )
(トーマス・マン / 原作、 高橋義孝 / 訳  新潮文庫より )

 原作の中で言及されている 興味深い「とげを抜く少年 」像とは、ローマのカピトリーニ美術館に収蔵されている古代ブロンズ像(紀元前1世紀 )を指します。
カピトリーニ美術館蔵(ブロンズ)とげを抜く少年の像 カピトリーニ美術館蔵(ブロンズ)とげを抜く少年像
▲ 「とげを抜く少年 」像 カピトリーニ美術館 蔵 (ブロンズ )

■ ポールを くるんくるん
ヴェニスに死す ポールをくるんくるん-1ヴェニスに死す ポールをくるんくるん-2ヴェニスに死す ポールをくるんくるん-3ヴェニスに死す ポールをくるんくるん-4
▲ 後年、ケン・ラッセルの 映画「マーラー 」でも パロディとして引用された 有名なシーン − アッシェンバッハの目の前で 赤い水着のタッジオが 砂浜に続く回廊に並んだ複数のポールを くるくる回ってみせる 子どもっぽい仕草・・・
 赤い水着の美少年が 自分のことを見つめながら 屹立する柱 ( フロイト流に眺めると、これらが 何を象徴しているものか、おわかりでしょう ) の周りを回ってみせる意味深な動作、これは 実は現実のものではなく、内心の衝動を無意識に抑えるアッシェンバッハの心象風景だったのではないでしょうか。 それは、疫病が蔓延するヴェニスから避難するようタッジオの母に警告して感謝され、そのドサクサに紛れて 少年のきれいな髪を なでなでしてしまう「夢想 」のシーンと同様に・・・
スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す (4) ◀ 何故 (なで ) 
 
 人の無意識の世界が 夢の中で活発に活動する「真夜中 」をテーマにした、同じくマーラーの作品 第3交響曲 ニ短調 から第4楽章 が画面のオフから流れてきます。 その歌詞は ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき 」の 「真夜中の歌 」( 第4部第19章「酔歌 」から )・・・。

インスピレーション_0007 ニーチェ Nietzsche
「人間よ、注意して聴け。深い真夜中が何を語るか…。
眠っていた私は 深い夢から目覚めた。
世界の苦悩は深い・・・快楽は 心の苦悩より深い
そして すべての快楽は永遠を欲する、深い永遠を欲する… 」
 
 この楽曲に指定したマーラーの表示は「きわめてゆるやかに Sehr langsam、神秘的に Misterioso 一貫してピアニッシシモで Durchaus ppp … 」 
 たいへん不思議な雰囲気を持った歌曲(アルト独唱 )で、言葉少なげに物語を紡ぐ独唱アルトの隙間(ま )を 埋めるかのように 緩やかな深呼吸を繰り返す 宵闇のホルン・アンサンブルの響き のほうに 私は魅かれます。 うーん、それにしても この音楽を映画のサウンド・トラックに使う感性って・・・。

映画「ヴェニスに死す」 (2)
▲ また唐突に 場面転換、タッジオが ホテル内の無人のサロンに置かれたピアノに腰掛け、退屈そうに「エリーゼのために 」を ぽろんぽろんとつま弾くシーンと、これに続く 謎に満ちた 娼館の回想場面 − この意味について、考えました。

 ヴィスコンティ監督にとっては、ここで少年が弾く楽曲は 必ずしもベートーヴェンでなければ、というほどのものではなく、雰囲気さえ壊さなければ はっきり言って「何でもよかった 」ようです。 実際、このシーンの撮影時、「何かピアノで弾いてごらん 」とタッジオを演じた ビョルン・アンドレセン に要請したところ、しばらく考えた末に少年が音を探(さぐ )るように弾きはじめた無難な曲が この「エリーゼのために 」でした。 しかし実に当意即妙ではありませんか。多少でもピアノに心得のある人が楽器を前にして手慰み程度に奏でる楽曲として、これ以上 適切なピアノ曲は 思いつけないほどです。

ヴェニスに死す 娼館のシーン
▲ ・・・で、ここからまたも この映画特有の唐突な回想シーンへの転換となります。
それは、お忍びで娼館を訪れ、順番を「待たされて 」いるアッシェンバッハ。彼にあてがわれるべき若い娼婦に、しわ枯れ声のマダムが声を掛けます。
「エスメラルダ、空いてるかい ? 」
たどたどしく「エリーゼのために 」を弾くピアノの音が どこからともなく聞こえています。アッシェンバッハの記憶の中、サロンでタッジオが奏でる同じメロディが、この時の思い出につながったようです。
 その同じ「エリーゼ 〜 」が場面転換と同時に 調律の狂った安っぽい楽器の音へと変化していたことにお気づきでしょう。 それは、売春宿に置かれているほうのピアノの音です。

■  エスメラルダの 「衣装 」 と 「演技 」
 低いアップライト・ピアノの陰から ひとりの若い娘が小首を傾け、あら 次はどんな男の人が来たのかしら と覗いてみせる 可憐な仕草、一瞬 愛らしいと錯覚してしまいそうですが、これは「演技 」です。 娼婦エスメラルダの本性は、部屋のドアを 平気で足で蹴って閉めやがる、そんな下賤な態度にも表れています。
映画「ヴェニスに死す」 (4)
 言うまでもなく、彼女が身にまとっている美しいドレスも 「衣装 」 です。彼女は 自分の体を買った客に このドレスを脱いで見せるために着ているに過ぎません、包装紙みたいなものです。

 このエロティックなシーンは、トーマス・マンの原作にはありません。
 ヴィスコンティ監督は、主人公アッシェンバッハのことを 健全な欲望を持つ一人の男性である( × 同性愛者などではなく ) という 重要な情報 を 私たち観客に伝えておくため、わざわざ 彼が買春に娼館を訪れる場面を 追加してみせたのではないか、というのが 私 発起人の ようやく辿り着いた、ひとつの仮説です。

ヴェニスに死す アルフリートとの激論のシーン
▲ 潜在的には、芸術上の激論の相手である友人の作曲家アルフリートが ミュンヘンで主張していたことに影響を受け、すなわち 自分自身を 「凡庸な芸術から脱却 」 させるため、ちょうど 「タンホイザー 」 のハインリヒがヴェーヌスブルクに その身を投じたように、芸術家として 「個人の道徳とは無関係に 」、「官能に打ち負かされ、あらゆる汚れに身を晒(さら ) 」 したい − という衝動が、 すでに娘も妻も失った 孤独な身(だったと思われる )の アッシェンバッハをして 娼館へ 向かわせたものかもしれません。 
 友人の音楽家 アルフリートは シェーンベルクが モデルである、と書かれている資料が多いようですが、もし アッシェンバッハがマーラーだとすれば、その年齢や互いの人間関係から 考察すると この人物は むしろ リヒャルト・シュトラウス の存在に近いような気が、私にはしました。

幸福だった時代のアッシェンバッハ 
▲ そして、このフラッシュバックから 時系列的に考えてみると、アッシェンバッハが 愛妻と愛娘と 北イタリアの山荘で 幸せに過ごしていた頃の 家族の回想シーン および ・・・ 
亡き娘を偲ぶ歌
▲ その後 夭折した愛娘の小さな棺を 夫婦で涙ながらに見送る悲しいシーン  ・・・ いずれも若いアッシェンバッハには口髭がありませんでしたが、この娼館を 訪れるシーンでは 鼻の下に薄く髭が生え揃って いますから、 少なくとも エスメラルダとのシーンは、彼が 愛娘を亡くして以降のエピソードで 間違いないでしょう。

■ 切られたフィルムの間に、何があったか ? 
 ヴィスコンティにとっては 残念なことに、次のシーンの真意は 結局 観客に伝わりにくかったように思えます。娼婦エスメラルダが ドアを蹴って閉めてから、モンタージュ手法によって 次は 同じ部屋の数十分後へ場面が切り変わってしまうわけですが、その「間 」に 一体何が起きたのかが 謎 だからです。

 髪をとき、ベッド上で両足を開いている 下着姿の若い娼婦の肢体が鏡に映っています。
 支払うべき 紙幣 をテーブルに置こうとするアッシェンバッハの手元をチラ見したエスメラルダ、一瞬 何かに驚いたような表情を浮かべ ・・・
ヴェニスに死す 娼館のシーン-3
 次の瞬間、男に微笑んでみせると その細い指を伸ばし、部屋を退出しようとするアッシェンバッハの手を堅く握りしめます。 その様子は まるで情事を終えた男女が、別れの名残を惜しんでいるように錯覚されそうですが、しかし よくご覧ください。そんな彼女の指を振りほどいてしまうアッシェンバッハの表情はと見ると苦悩に満ちています。何があったのでしょう、これは一体どういう意味でしょうか。
ヴェニスに死す 娼館のシーン-5.

 アッシェンバッハは、若い娼婦を 抱かなかったのではなく、「抱けなかった 」 − いえ、はっきり言ってしまうと 「勃(た )たなかった 」 =「できなかった 」 と いうことではないでしょうか。 ・・・ そうです。女の若い肉体に触れなかった理由とは、彼が「高潔だった 」からではなく「高血圧だった 」から(笑 ) − すなわち、何らかのストレスか 血管の老化に起因する男性特有のED(勃起障害 ) だったのでしょう。 
 そう考えれば、若い娼婦 エスメラルダが 最後に浮かべた表情も 「よくあることよ。気にされないで・・・また来てね 」 と、払いのよい上客の再来を気にするベテラン娼婦のようにさえ見えませんか。 
ヴェニスに死す また来てね
 しかし相手の女から そんなふうに慰められることが、不本意ながら こういう立場に置かれた男性の感情を最も傷つけるものだっていうこと・・・ でも こんなことも きっと お若い「元気な 」 男性諸君は まだ ご経験ないことではないでしょうか、想像もできないことではないでしょうか。 ゆえに この場面の意味も 解らなかったのではありませんか、それは かつての私と同じように。
ヴェニスに死す 娼館のシーン-6
 このときアッシェンバッハは、「ああ、もう俺も若くはないのだな 」 と、自身の肉体の老いを痛感し、さらにその先に待つ 「死 」 さえも おぼろげに 想ったのではないでしょうか。そんな苦い記憶の場面に 紐づけられていた音楽こそ エスメラルダが弾いていた 「エリーゼのために 」 − そして 今や老いを迎えたアッシェンバッハは、タッジオの指先から流れてくる 同じピアノ曲の断片が、彼のいまわしい過去の記憶の情景と一緒に 現在の自分まで 流れついたことに、気づいたのでしょう。


2019年秋 補筆(以下青字 )
 さて、2019年 9月のこと、私 “スケルツォ倶楽部”発起人と同世代女性のある会員様から 非公開コメントで お便りを いただきました。
 そこには、この謎めいたシェーナ Scena を理解するために 必要な示唆を含む、ひとつの論文が紹介されていました。九州大の独文学 助教授(当時 )福元圭太先生による「映画のイコノロジー : 『ヴェニスに死す 』の映像メデイアへの転換 」(2000年 5月発表 ) ― そこには、「エスメラルダとタッジョーとをオーバーラップさせるというヴィスコンティの演出は,トーマス・マン晩年の大作『ファウスト博士』を眺望する視点がないと不可能 」、「アッシェンバハにとってのタッジョーが,晩年にレーヴァーキューン(『ファウスト博士 』の主人公である作曲家 )にとってのエスメラルダという図式で反復されることを,ヴィスコンティは映画で マンの先回りをして示した 」という文章があり、私は 思わず括目しました。恥ずかしながら、私 発起人は これまでマン晩年の名作とされる「ファウスト博士 」は未読で、この主人公が「作曲家」であるという重要な設定を 知らなかったのでした。はー、無知にもほどがあるってもんでしょうw
トーマス・マン Mann Thomas ヴェニスに死す 娼館のシーン-2

 マンの「ファウスト博士 」の主人公である「作曲家 」アドリアン・レーヴァーキューンは、彼の「頬を腕で撫でる」娼婦からの病毒感染の代わりに 「悪魔との契約 」によって優れた霊感を獲得し、非凡な創造力で作曲活動をおこないます。しかし、その代償は大きく、悪魔との契約ゆえ 破滅へと至るストーリーです。
 これこそ 映画「ヴェニスに死す」娼館の場面に ヴィスコンティが隠しておいた、私たちが解くべき「心」だったのです。娼婦エスメラルダを抱かなかったアッシェンバッハは、病毒感染もなく = 悪魔とのファウスト的な契約を交わすこともなく、友人の作曲家アルフリートが貶すところの「凡庸なる才能 」のまま、彼の終焉の地 ヴェニスで死を迎えることになるものの、それゆえ 死の間際に 真の「美」を垣間見ることを一瞬 許されたのだ − あの不思議な娼館の場面(シェーナ )は、マンの読者であれば、ある意味 知っていて当然、気づいて当たり前の、そんな意味も含まれていたのでした。
 考察のきっかけを与えてくださった 会員様には 重ねて御礼を申し上げます。ありがとうございました。(2019補筆ここまで )


■ 今日のアッシェンバッハの姿は、明日のタッジオの姿
 そう解釈すると、他にも重要なことが さらにいくつか見えてくる気がします。
 ここまでお読みくださったかたには もう重ねて申し上げるまでもありませんが、まず アッシェンバッハに 同性愛的な嗜好などはありません。 この映画の宣伝や解説などで 今でもたまに見かける、明らかに不適な解釈 「 老人が 少年に恋した 」 云々という言葉が誤解を拡散します。 
 アッシェンバッハは たしかに映画中で 「I Love You お前を愛している 」 と呟いていますが、これは タッジオ 個人 に対して 告白 などを したわけではなく、 タッジオに宿った 「美しさ 」 に対して、そして 自身がすでに失った 「若さ 」 に対して、あるいはそれら「美しさ 」、「若さ 」 の輝きを 賛美する気持ちで いっぱいになった心から溢れ、思わず 独白となって こぼれ落ちてしまった台詞であるに違いないのです。

映画「ヴェニスに死す」 (21)

 逆説的ですが、トーマス・マンが タッジオという 美しい存在 を 敢えて 「男性 」 に設定したことからも、それは明らかではありませんか。
 ご想像ください − 誰でも構わないのですが − アッシェンバッハが もしタッジオの姉のほう( を、もっと美しい少女をキャスティングし直す必要はあるでしょうが )に目を移してしまったと想像したら、ヴィスコンティ本来の真意は伝わらず、全然別の・・・ たとえば「ロリータ 」のような、そのまんまなドラマになってしまうだけでしょう。彼は 少年タッジオの肉体など 欲していたわけではないのです。

 彼が、タッジオの姿の裡(うち )に 「見たもの 」 とは、少年の肉体の上に かりそめに宿った、いわば天から降臨した 今だけ限定の「美しさ 」そのもの でした。グスタフ・フォン・アッシェンバッハが 芸術家として 長らく追い求めてきたもの、それこそ 人生を賭けて 追い求めてきた解答への重要なヒントを、彼は生涯の最期になって、静養先のヴェニスで出会った一人の少年の輝くような 「美しさ 」 の上に 見出したのでしょう。
 そう、「美 」とは 決して手に触れるところにはなく、ましてや 抱けるものでも、征服できるものでも、味わったりできるものでも ありません。私たちに許されることは、ただ少し離れ 称賛のまなざしで 「見つめる 」だけなのです。
映画「ヴェニスに死す」 (12)
 そんな 「美 」 も、時が経てばタッジオの肉体から 飛び去ることが約束されていました。今は光り輝くタッジオ自身の肉体に宿っている 「美 」も 鮮度に賞味期間があり、その期限が過ぎれば 手放さなければならぬことを、実は 彼自身も まだ知らないでしょう。今日のアッシェンバッハの姿は、明日のタッジオの姿でもあるのです。

 そんな究極の美を 垣間見てしまったアッシェンバッハには さらに色濃く死の影が忍び寄ります。
 流行性の疫病コレラによって死の都と化したヴェニスは、アッシェンバッハ自身の滅びゆく肉体のメタファーでもあります。
スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す (2)
▲ 観光業で成り立っているヴェニスの保健局は 疫病の蔓延をひたすら隠し、「腐敗 」を「取り繕う 」ように 異臭を放つ白い消毒液を 街中に散布させます。 

映画「ヴェニスに死す」
▲ 一方、進行する 「老い 」 を 「取り繕う 」 ように 死化粧のような あり得ない メイクを施されてしまう アッシェンバッハの 白塗りの顔と、同じくらい真っ白な消毒液に浸されるヴェニスの街とが 視覚的にも 重なってくる ではありませんか。 けれど 「老い 」 も 「死 」も 止めることは、決して誰にもできません。
 アッシェンバッハの死因は、持病の心臓病、血管症、過度のストレスに加え、直接は ヴェニスに流行していた 急性コレラに感染したものと思われます。
ヴェニスに死す いちご ヴェニスに死す いちごは危ない
▲ 「だから いちごは危ない、と 言ったじゃろ 」

 ・・・ ですが、実は 死因などは さして重要なことではなく、もともと アッシェンバッハは 療養先である このヴェニスの地で 死すべき運命にあって、彼が自分の「人生 」と訣別する最後の一瞬を迎えたとき、その掌からすべり落ちる間際の 生命(いのち ) − その輝くばかりの「美しさ 」 ( = まさに これを擬人化した存在が「タッジオ 」 ) その本質を 初めて垣間見た、そんな最初で「最期 」の「出会い 」の瞬間を ヴィスコンティが 映像で描いた、これは 一篇の詩であった、といってよいでしょう。


■ 砂時計の砂は みるみる 落ちてゆく − 
 さて、前後して申し訳ありませんが、この映画の最初のほうの ある場面を思い出してください。
 健康問題を抱え、静養を目的にヴェニスへ到着したアッシェンバッハが 最初にホテルの部屋へ案内された後、ミュンヘンで倒れたときのことを回想するシーンで、実は このドラマを理解する鍵ともなる重要な台詞が提示されていたことを ご記憶ですか。

ヴェニスに死す 砂時計のシーン
▲ 「・・・わたしの父の家にも砂時計があった。砂の落ちる通路(みち )は非常に狭いので、最初のうちは いつまでも上の砂の量が減らないようにみえたものだ。砂が残り少なくなったことに気づくのは いつも終わりの間際だった。それまでは誰も殆んど気にしない。最後まで時間が過ぎて 気づいたときには、既に全部の砂が落ち切っていた・・・ 」

 この回想場面の背景では、アッシェンバッハの友人の音楽家アルフリートが、マーラーの「アダージェット 」を 邸のピアノで巧みに奏でています。 砂時計の中を上下に流れる砂は、一瞬の儚(はかな )さと 停時の永遠とを対比させる相対的な小道具として 映画に登場しています。

 たとえば、主人公アッシェンバッハが ビーチの長椅子の上で最期の時を迎えるラスト・シーンが、まさしく砂の上であることは言うまでもなく、また 同じビーチ・サイドで戯れるタッジオの顔は 粗暴な男友達によって何度も砂まみれにされますが、スクリーンに映る泥だらけの顔は、お節介な母親や家庭教師に わざわざ拭いてもらわなくても 不思議なほど「キタナイ 」という印象を観る者に与えません。それは、あたかもダイアモンドに傷がつかぬように、いくら濡れた砂が泥になってタッジオの顔を汚しても 少年自身の美しさを損なうことは決してないからです。
 これは「美しさ 」が人間に宿る時間は ごく瞬時( すでに何度も書いているように、タッジオもまた年老いる )でありながら、「美しさ 」自体は 永劫不滅であるということを象徴しているように、私には思えます。

映画「ヴェニスに死す」砂時計
▲ 残り少ない砂時計の砂が下へ下へと落ちゆくのを惜しむように 失われつつあるアッシェンバッハ自身の美しかった人生と引き換えに得られた解答、それは、決して手にすることができないがゆえに美しい、死にゆく宿命を背負った「生命 」の輝き の美しさでした。
スケルツォ倶楽部_ヴェニスに死す (3)
▲ わが生命(いのち ) と引き換えに得る (失う ) ことになる 美なる存在の後ろ姿を追って、ヴェネツィアの街中を 徘徊しまくる 白面のアッシェンバッハの 「美しさ 」 に執着する未練は傷ましいほど・・・  “スケルツォ倶楽部”発起人、50歳を過ぎて このシーンを 観ると、本心から 「ああ、わかる、わかるなー 」 と、もう涙が止まりません。 
 まさに人生を終えようとする 芸術家が 「美 」を追求する この姿、この死に物狂いのもがきを、ただの変態ストーカー オヤジ にしか見えなかった 14歳の時の自分の理解の浅さ に ただただ恥じ入ります。

ダーク・ボガード 幼時 Dirk Bogarde Young ! Dirk Bogarde (3) Young Dirk Bogarde ダーク・ボガード若きポートレート Dirk Bogarde Young ! Dirk Bogarde
▲ 若き日のアッシェンバッハ( ? もちろん 俳優ダーク・ボガードですよ )のポートレートを数葉みつけました。 ご覧ください。(出典 dirkbogarde.co.uk より )

映画「ヴェニスに死す」 (22)
「 時よ止まれ お前は美しい ! 」 ( ゲーテ 「ファウスト 」 )

―  少年は髪を風になぶらせつつ、離れた海の中を、模糊として煙る果てしない海を背景に、ぶらぶらと歩いて行く。ふたたび立ちどまって少年はあたりを眺める。と、突然、ふと何事かを思い出したかのように、ふとある衝動を感じたかのように、一方の手を腰に当てて、美しいからだの線をなよやかに崩し、肩越しに岸辺を振返った。
 岸辺にあって少年を見守っていた男は、最初その砂洲から送られてきた灰色に曇った視線を受けとめたときは、もとの通り椅子に坐ったままであった。椅子の背にもたれていた頭は、ゆっくりと、海の中を歩いて行く少年の動きを追っていた。ところが今、彼は少年の視線に応じ答えるように、頭を起こした。と、頭は胸の上にがくりと垂れた。そこで目は下のほうから外を眺めているような具合だったが、彼の顔は、深い眠りの、ぐったりとした、昏々とわれを忘れている表情を示していた。 
 けれども彼自身は、海の中にいる蒼白い愛らしい魂の導き手が自分にほほ笑みかけ、合図しているような気がした。少年が、腰から手を放しながら遠くのほうを指し示して、希望に溢れた、際限のない世界の中に漂い浮んでいるような気がした。すると、いつもと同じように、アシェンバハは立ち上がって、少年のあとを追おうとした。
映画「ヴェニスに死す」 (9)
 椅子に倚って、わきに突っ伏して息の絶えた男を救いに人々が駆けつけたのは、それから数分後のことであった。そしてもうその日のうちに、アシェンバハの死が広く報道されて、人々は驚きつつも恭しくその死を悼んだ。
( トーマス・マン / 原作、高橋義孝 / 訳 新潮文庫より )


■ グスタフ・マーラー 「アダージェット 」
楽譜 マーラー_アダージェット冒頭(音楽之友社 )
▲ 交響曲第5番 嬰ハ短調 〜 第4楽章 アダージェット Adagietto
(非常に遅く Sehr langsam ) ヘ長調 4 / 4拍子、三部形式
 スケルツォ倶楽部 会員の皆さまには 今さら 説明不要の名曲。
 ハープと弦楽オーケストラのみで演奏される、静謐感に満ちた美しい楽章。
 中間部で 第1ヴァイオリンに現れる旋律が フーガ的な要素を持つ第5楽章の中でも ほぼ同じ姿で再現されますが、これら第4楽章と第5 楽章 二つの関係を、J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集等における「前奏曲とフーガ 」の関係と類似性を述べる人もいます (音楽之友社 ミニチュアスコアの解説を参照 )。



スケルツォ倶楽部オススメの
「アダージェット 」 名盤を、いくつか 聴く。
クラシックプレス 2001年秋号


▲ ウィレム・メンゲルベルク 指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
演奏時間:07:07
録  音:1926年
音  盤:Columbia / 復刻 クラシックプレス(2001年秋号付録CD )
付録CD 併録曲 : 「ルスランとリュドミーラ」序曲(グリンカ )ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 / オデオン大交響楽団 (11.Apr.1933 )、 「幻想交響曲 」第2楽章「舞踏会 」(ベルリオーズ )エウゲニ・ムラヴィンスキー指揮 / ソビエト国立交響楽団 (1949 )、 歌劇「魔笛 」序曲(モーツァルト )ジョージ・セル指揮 / 大交響楽団 (22.Sep.1924 )、 「トルコ行進曲 」(モーツァルト 〜 ヘルベック編 )カール・アルヴィン指揮 / ウィーン・フィル (9.Sep.1929 ) 、 「フィンランディア 」(シベリウス ) ヘルマン・アーベントロート指揮 / ベルリン国立歌劇場管弦楽団 (1936.10.01 )、喜歌劇「こうもり 」序曲(J.シュトラウスU )ブルーノ・ワルター指揮 / ベルリン国立歌劇場管弦楽団 (10-11.Jan.1929 )、 「ユモレスク 」(ドヴォルザーク )ヴァーツラフ・スメターチェク指揮 / FOK交響楽団 (29.Oct.1941 )、 序曲「フィンガルの洞窟 」(メンデルスゾーン )ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 / ベルリン・フィル (1930 ) 、 「コリオラン 」序曲(ベートーヴェン )カール・シューリヒト指揮 / ベルリン市立管弦楽団 (Jun.1942 )
コメント: マーラー自身の評価はワルターより高かったとも伝わる メンゲルベルクによる貴重な 「アダージェット 」 レコーディング。随所にストリングスの 押さえた音を引っ張り上げる濃厚なポルタメントが聴かれます、特に後半になってから弦楽器奏者たちの指が 一斉に弦を擦り上げ 擦り下ろす動きがあまりにも凄まじく、テンポも信じられないくらい速いし、当時のスタイルを今に伝える貴重な録音でしょう。SP盤からの復刻ゆえ 03:16辺りで複数のディスクを 繋げたことが判ります。
マーラー アダージェット ガット弦によるHMD
▲ 尚、参考までに 1995年に ガット弦を歴史的楽器に張ったスミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ ( ケネス・スロウィック指揮 )、100年近い昔のメンゲルベルクの解釈で「アダージェット 」を再現しているレコーディングがあるのですが、一聴をオススメします。 必ずメンゲルベルク録音を事前に聴いてからご鑑賞くださいね。



ワルター_マーラーアダージェット_オーパス蔵
▲ ブルーノ・ワルター 指揮 
ウィーン・フィルハーモニー
演奏時間:07:57
録  音:1938年
音  盤:Columbia / 復刻 OPUS蔵
コメント:凄まじいメンゲルベルク盤を聴いた後だと 誰の演奏を聴いてもホッとしますが、特にワルター / ウィーン・フィルのレコーディングは すでに現代の演奏の基礎を築いた歴史的な記録ですよね。後にCBSでワルターは第5をモノラルで全曲録音しますが、アダージェットの解釈は このウィーン・フィル盤と基本的に同じ。速度は速いですが、決して情感を失わない立派な名演と思います。ああ、それにしてもワルターには ぜひステレオ録音で第5番を残しておいてほしかったものです。




バーンスタイン_マーラー第5交響曲_CBS
▲ レナード・バーンスタイン 指揮 
ニューヨーク・フィルハーモニック
演奏時間:11:00
録  音:1963年
音  盤:CBS-Sony
コメント:ヤング・バーンスタイン最初のマーラー全集からの録音。この旧盤は甘さを排した 険しい弦のアンサンブルが特徴で、特に低音弦の弾力ある刻みがフォルティッシモでは凄まじい効果を上げています。

マーラーの高速 第5交響曲(フランス国立放送管弦楽団 )
▲ ヘルマン・シェルヘン 指揮
フランス国立放送管弦楽団
演奏時間:13:04
録  音:1965年 ライヴ
音  盤:HMF
コメント:あの悪名高いズタズタ・カット版で大ブーイングのライヴ録音。正直 普段は 異形の第3 ・ 5楽章 ばかりを抜き出しては 笑って聴いていましたが (失礼 ! ) 改めてちゃんと聴いたら ノー・カットの 「アダージェット 」は超低速、シェルへンらしからぬ( ? )情感も豊かで弦全体がうねる動きと爆発的な迫力にも事欠かない、意外な佳演でありました。

バーンスタイン_ファースト・パフォーマンス_リンカーン・センター・オープニング・ガラ・コンサート1962
▲ レナード・バーンスタイン 指揮 
ニューヨーク・フィルハーモニック
演奏時間:11:19
録  音:1968年6月、ロバート・ケネディ葬儀における実況
音  盤:CBS-Sony
コメント:特殊な環境下における演奏ゆえに 振幅の大きな、ドラマティックなアダージェット。クライマックスでは弦は一斉に叫ぶよう。逆に教会は静まりかえる、そんな厳粛な雰囲気が 封じ込められたサウンドから想像できます。

バルビローリ_マーラー第5交響曲_EMI
▲ ジョン・バルビローリ 指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
演奏時間:09:52
録  音:1969年
音  盤:EMI
コメント:正直 他の楽章ならバルビローリ以上に好む演奏はいくらもあるのですが、こと「アダージェット 」に限っては 中低音域の豊かな充実度と心のこもった美しい歌が存分に聴ける、この一枚を 外すことはできません。

映画「ヴェニスに死す」Original Soundtrack
▲ フランコ・マンニーノ 指揮
ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団
演奏時間:09:28
録  音:1970年
音  盤:Soundtrack from“Death In Venice”(Varese Sarabande)
コメント:特に期待もせず聴き始めたところ、途中 38小節目(03:59 ) − 第一ヴァイオリンの「G線で 」とマーラー自身が指定した個所(フォルテになる辺り ) − 以降、音楽に急速に熱が通って、あっという間に ホント驚くほど濃い口の表情へ彩られます。そこは mit Wärme(暖かさをもって or 親しみを込めて )、まるで胸を大きく膨らませながら 途切れ途切れ 初めての告白に言葉を選ぶ美しい乙女の呼吸に耳を澄ますようです。
さらに 躊躇(ためら )うような高音弦の響きは、後年の繊細極まるバーンスタイン/ウィーン・フィル(D.G. )盤を先取り。感嘆しますよ。

Solti Mahler No.5 (KING KICC‐8433)
▲ ゲオルク・ショルティ 指揮
シカゴ交響楽団
演奏時間:09:47
録  音:1970年
音  盤:Decca-LONDON
コメント:緩徐楽章にもかかわらず弦の力強いボウイングが良く歌い、気持ちよくメリハリを効かせた演奏、各弦とハープそれぞれの動きをしっかり分離して捕えた録音も耳に心地良い、素晴らしい一枚です。

Karajan_Mahler.jpg
▲ ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮
ベルリン・フィルハーモニー
演奏時間:11:53
録  音;1973年
音  盤:D.G.
コメント:磨き抜かれた高級な調度品を思わせる仕上がり。劇的な起伏にも不足なく 特に最後の係留音を思い切り長く引っ張っておいて低音弦が締める呼吸は比類ない格好良さです。大好きですね、カラヤン。

マーラー_交響曲第5番 ノイマン_チェコ・フィル  
▲ ヴァーツラフ・ノイマン 指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
演奏時間:10:05
録  音:1977年
音  盤:SUPRAPHON
コメント:チェコの古き良き時代のストリングス・アンサンブルによる、弦楽器本来がもつ生(アコースティック )な温もりが伝わってくる好ましいサウンドです。ミキシングのせいでしょうか、第4楽章は 奏者が弦を爪弾くハープの音がやや大きく鮮明に聴こえてくる録音に特徴があります。

マーラー第5番 レヴァイン フィラデルフィア管弦楽団 RCA
▲ ジェイムズ・レヴァイン 指揮
フィラデルフィア管弦楽団
演奏時間:12:02
録  音:1977年
音  盤:RCA
コメント:弦楽オーケストラのダイナミックな起伏が素晴らしいアダージェット。逆に弦の人数を減らす指示のある個所での室内楽的な音響のヴィブラートも美しく心に残ります。第5番は(10番を別格とすれば )レヴァインのマーラーでは最高傑作ではないでしょうか。

テンシュテット_マーラー第5_FM東京
▲ クラウス・テンシュテット 指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
演奏時間:12:05
録  音:1984年
音  盤:東京FM (TFMC0015 )
コメント:夭折したテンシュテットの素晴らしい「第5 」が聴ける音盤はEMIにスタジオ盤(1978年 )とライヴ盤(1988年 )の二種ありますが、いずれもこのカリスマ指揮者のマーラーへの適性の高さを思い知らされる凄演です。おススメの このディスクは、同オケとの来日公演(大阪 )、「アダージェット 」が発散する情念が尋常でなく、そのまま最後まで聴き通したくなってしまいます。

バーンスタイン_ウィーン・フィルマーラー第5
▲ レナード・バーンスタイン 指揮
ウィーン・フィルハーモニー
演奏時間:11:12
録  音:1987年
音  盤::D.G.
コメント:打ち震えるように切なく繊細な弦の響き、フォルティッシモではスケールの大きさが際立ち エモーショナルで もうたいへんなことになっています。フレーズひとつひとつが深く考え抜かれ、時に息苦しくなるほど力の入った演奏。マーラー好き なら どなたも よくご存知ですよね。

小澤征爾_マーラー第5番 ボストン(Philips ) 
▲ 小澤征爾 指揮
ボストン交響楽団
演奏時間:11:56
録  音:1990年
音  盤:PHILIPS
コメント:丁寧に楷書で書かれた筆運びを思わせる名演です。情熱的に波が打ち寄せる中間部でも 小澤さん、決して激することなく 美しく 弦の縦線を揃えながら歩みます。例のため息がグリッサンドで落下した後、静寂の中から再び現れるメイン主題は 今度は著しくテンポを落としており、その姿はどこか神秘的ですらあります。

プレートル_マーラー第5交響曲_
▲ ジョルジュ・プレートル 指揮
ウィーン交響楽団
演奏時間:11:21
録  音:1991年
音  盤:Weitblick
コメント:意外な掘り出し物でした。 ライヴならではのとても情感豊かな内容。厚みのある弦のアンサンブル。その精度は 必ずしも高くないですが、それゆえ どこか草書的な勢いもあって、私は 結構好きです。

ブーレーズ_マーラー第5交響曲_DG
▲ ピエール・ブーレーズ 指揮
ウィーン・フィルハーモニー
演奏時間:10:59
録  音:1996年
音  盤:D.G.
コメント:透徹したウィーン・フィルの弦、それも弱音の美しさが印象深い名演。D.G.ブーレーズのマーラーには不満は全く感じないんですが、不満のないところが不満とでも言いますか・・・  かつて 鋭い氷の剣のようだったCBS時代の 「嘆きの歌 」やバルトーク、ラヴェル、シェーンベルク、ベルク の演奏ほどにはどうしても没入できないです。聴く側である私のほうに 聴き取る能力が足りないんでしょうけど・・・ 。

ブルネロ_ダルキ・イタリアー_フィルム(マーラー アダージェット収録 ) ダルキ・イタリアーナ
▲ マリオ・ブルネロ 指揮 
ダルキ・イタリアーナ (2002年 )
演奏時間:12:39
録  音:2002年
音  盤:Victor アルバム「フィルム 」
収録曲 : 弦楽のためのアダージョop.11 (バーバー )、ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのノスタルジア〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に (武満徹 )、トリスティング・フィールズ (ナイマン )、弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタ 」 (ヤナーチェク )、交響曲第5番 嬰ハ短調〜第4楽章 アダージェット (マーラー )
コメント:1986年にチャイコフスキー・コンクール・チェロ部門優勝以来 世界的に活躍するイタリアの名チェリストが2000年に組織したユース・オーケストラによる演奏。情感も起伏も豊か、美しく均整のとれた堂々たる名演に驚きます。ブルネロには ぜひフルオケで第5番全曲を振ってもらいたいものです。

ノリントン_マーラー第5_Haenssler
▲ ロジャー・ノリントン 指揮
SWRシュトゥットガルト放送交響楽団
演奏時間:08:54
録  音:2006年
音  盤:Hänssler
コメント:  ノリントンらしくノン・ヴィブラート奏法のおかげで 弦の美しい透明度が増した、一聴の価値ありの新しさです。弦とハープの分離も良く、耳に心地良く染み入る音響。今の私なら、まずノリントン盤の個性的な演奏を 心から楽しみに、繰り返し聴きたいですね。

 すみません。 
 実は 他にも 自宅のCD棚に眠っている 所蔵盤についても 一言ずつ コメントを 入れるつもりで準備 ・・・
▼ ラファエル・クーベリックとか、
クーベリック_マーラー第5_DG クーベリック_マーラー第5_Audite

▼ ロリン・マゼール、リッカルド・シャイー ・・・
マゼール_マーラー全集_sony マーラー 交響曲全集 シャイー_コンセルトヘボウ管弦楽団、ベルリン放送交響楽団

▼ それから インバル、ラトル、ファビオ・ルイージ なども 準備していたのですが・・・
インバル_マーラー交響曲第5番 ラトル_マーラー第5交響曲_EMI ルイージ_マーラー第5

 はー、今日は さすがに 発起人 疲れ果ててしまいました。 もういいや、ここまで読んでくださって 感謝です。 また いつか・・・


▲ 駆け足10分で観る 映画「ヴェニスに死す 」



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2. 中川隆[-13891] koaQ7Jey 2020年2月09日 13:58:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-554] 報告

グスタフ・マーラー - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラー

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家・指揮者。
交響曲と歌曲の大家として知られる。

1860年 7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 - 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 - 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国ボヘミア・イーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれた。

夫妻の間には14人の子供が産まれている[注釈 1]。しかし半数の7名は幼少時に様々な病気で死亡し、第一子(長男)のイージドールも早世しており、グスタフはいわば長男として育てられた。そのなか心臓水腫に長期間苦しんだ弟エルンストは、少年期のグスタフにとって悲しい体験となった。グスタフは盲目のエルンストを愛し、彼が死去するまで数ヶ月間ベッドから離れずに世話をしたという[2]。

父ベルンハルトは強く精力的な人物だった。当初は荷馬車での運搬業(行商)を仕事にしており、馬車に乗りながらあらゆる本を読んでいたため、「御者台の学者」というあだ名で呼ばれていた[3]。独力で酒類製造業を開始し、ベルンハルトの蒸留所を家族は冗談で「工場」と呼んでいた。ユダヤ人に転居の自由が許されてから一家はイーグラウに移住し、そこでも同じ商売を始める。

当時のイーグラウにはキリスト教ドイツ人も多く住んでおり、民族的な対立は少なかった。事業を成功させたベルンハルトは「ユダヤ人会」の役員を務めるとともに、イーグラウ・ユダヤ人の「プチ・ブルジョワ」としてドイツ人と広く交流を持った。

グスタフをはじめとする子供たちへも同様に教育を施し、幼いグスタフはドイツ語を話し、地元キリスト教教会の少年合唱団員としてキリスト教の合唱音楽を歌っていた[4]。

息子グスタフの音楽的才能をいち早く信じ、より良い音楽教育を受けられるよう尽力したのもベルンハルトである。彼は強い出世欲を持ち、子供たちにもその夢を託した[5]。

母マリーもユダヤ人で、石鹸製造業者の娘だった。ベルンハルトとは20歳の時に結婚している。家柄はよかったが、心臓が悪く生まれつき片足が不自由であり、自分の望む結婚はできなかったという。アルマ・マーラーは「あきらめの心境でベルンハルトと愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸であった[6]」と書き記している。その結婚自体は理想的な形で実現したとは言えないものの、夫妻の間には前述の通り多くの子供が生まれている。ただし身体の不自由なマリーは、教育熱心な夫ベルンハルトと違い母親としての理想的な教育を子供たちに施すことができなかった。グスタフは生涯この母親に対し「固定観念と言えるほど強い愛情」を持ち続けた[7]。

ベルンハルトの母(グスタフの祖母)も、行商を生業とする剛毅な人間だった。18歳の頃から大きな籠を背に売り歩いていた。晩年には、行商を規制したある法律に触れる事件を起こし、重刑を言い渡されたが、刑に服する気はなく、ただちにウィーンへ赴き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に直訴する。皇帝は彼女の体力と80歳という高齢に感動し、特赦した。グスタフ・マーラーの一徹な性格はこの祖母譲りだとアルマは語っている[8]。

成長と音楽家への歩み
本人の回想によれば、グスタフは4歳の頃、アコーディオンを巧みに演奏したとされる[9]。5歳の頃、母方の祖父母の家を訪問した際、姿を消し長時間捜索されるが、見つかった彼は屋根裏でピアノをいじっていた。その時に父ベルンハルトはグスタフが音楽家に向いていることを確信したという[10]。

1869年(9歳)にイーグラウのギムナジウムに入学。
10歳となった1870年10月13日には、イーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演した。ただし曲目は不明である[11]。

1871年(11歳)にはプラハのギムナジウムに移り[注釈 3]、この時期様々な文学にも親しんだ。

1872年(12歳)、イーグラウに帰郷。ギムナジウムの式典ホールでピアノ演奏を行った[12][注釈 4]。

1875年(15歳)、ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。
ピアノをユリウス・エプシュタインに、和声学をロベルト・フックスに、対位法と作曲をフランツ・クレンに学んだ[13]。この年に弟エルンストが死去する。

1876年(16歳)にはピアノ四重奏曲を作曲。またウィーン楽友協会音楽院でフランツ・シューベルトのピアノ・ソナタ演奏によりピアノ演奏部門一等賞を、ピアノ曲で作曲部門一等賞を受賞した[14]。

1877年(17歳)、ウィーン大学にてアントン・ブルックナーの和声学の講義を受け、2人の間に深い交流が始まる。

1878年(18歳)、作曲賞を受け、7月11日に卒業。
1883年9月(23歳)、カッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)となる。
1884年(23歳)、ハンス・フォン・ビューローに弟子入りを希望したが受け入れられなかった。しかし6月、音楽祭でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第9交響曲』とフェリックス・メンデルスゾーンの『聖パウロ』を指揮して、指揮者として成功を果たす。

1885年1月(24歳)、『さすらう若者の歌』を完成。
プラハのドイツ劇場の楽長に就任。しかしこの年、生活は窮乏を極めた。

1886年8月(26歳)、ライプツィヒ歌劇場で楽長となる。この年『子供の不思議な角笛』作曲。


指揮者・交響曲作曲家としての活躍

1888年(28歳)、『交響曲第1番ニ長調』の第1稿が完成。
10月、ブダペスト王立歌劇場の芸術監督となる。

1889年1月(28歳)、リヒャルト・ワーグナーの『ラインの黄金』と『ワルキューレ』のカットのない初演をして模範的演奏として高い評価を得た。しかしこの年、2月に父を、10月に母と、続けざまに両親を失っている。

1891年4月(30歳)、ハンブルク歌劇場の第一楽長となる。

1892年1月19日(31歳)、ハンブルク市立劇場で行われたピョートル・チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』のドイツ初演を指揮。

1894年12月18日(34歳)、『交響曲第2番ハ短調』が完成。

1895年2月6日(34歳)、弟オットーが21歳で自殺。12月13日(35歳)、『交響曲第2番ハ短調』全曲初演。

1896年(36歳)、シュタインバッハ(ザルツカンマーグートのアッター湖近く)にて『交響曲第3番ニ短調』を書く。

1897年春(36歳)、結婚などのためにユダヤ教からローマ・カトリックに改宗。
5月、ウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)第一楽長に任命され、10月(37歳)に芸術監督となった。
1898年(38歳)にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる。

1899年、南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(ドイツ語版)(Maiernigg)に作曲のための山荘(別荘)を建て『交響曲第4番ト長調』に着手(翌年に完成)。
1901年4月(40歳)、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し、ウィーン・フィルの指揮者を辞任(ウィーン宮廷歌劇場の職は継続)。

12月(41歳)、「私の音楽を君自身の音楽と考えることは不可能でしょうか。二人の作曲家の結婚をどう考えますか[15]」と結婚前のアルマ・シントラーに作曲をやめるように申し出、彼女はその後作曲の筆を折った。
なお、アルマはアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーに作曲を習い14曲の歌曲を残しており、これはウニヴェルザール出版社より出版されている。

1902年3月(41歳)、当時23歳のアルマと結婚。2人とも初婚だった。

夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』が完成。
10月(42歳)、長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)が誕生する。
1903年には、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から第三等鉄十字勲章を授与された。この年、次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)も生まれた。

1904年4月、シェーンベルクとツェムリンスキーはウィーンに「創造的音楽家協会」を設立しマーラーを名誉会長とした。

夏にマイアーニックの山荘で『交響曲第6番イ短調』を書き上げ、『交響曲第7番ホ短調』の2つの「夜曲」を作曲。

1905年夏(45歳)にはマイアーニックの作曲小屋で残りの第1楽章・第3楽章・第5楽章を作曲して7番も完成に至った。


晩年と死

1907年(47歳)、長女マリア・アンナがジフテリアで亡くなり、マーラー自身も心臓病と診断された。
12月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれ渡米し、『交響曲第8番変ホ長調』を完成。しかし翌1908年5月にはウィーンへ戻る。

トーブラッハ(当時オーストリア領・現在のドロミテ・アルプス北ドッビアーコ)にて『大地の歌』を仕上げる。秋に再度渡米。

1909年(49歳)、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となる。
春、ヨーロッパに帰る。
夏にトーブラッハで『交響曲第9番ニ長調』に着手し、約2カ月で完成させた。10月、再び渡米。

1910年4月(49歳)、ヨーロッパに帰る。この際クロード・ドビュッシーやポール・デュカスと会う。
8月(50歳)、自ら精神分析医ジークムント・フロイトの診察を受ける。
18歳年下の妻が自分のそばにいることを一晩中確認せざるを得ない強迫症状と、崇高な旋律を作曲している最中に通俗的な音楽が浮かび、心が掻き乱されるという神経症状に悩まされていたが、フロイトによりそれが幼児体験によるものであるとの診断を受け、劇的な改善をみた。ここへきてようやく、アルマへ彼女の作品出版を勧める。

9月12日にはミュンヘンで『交響曲第8番』を自らの指揮で初演し、成功を収めた。

1911年2月(50歳)、アメリカで感染性心内膜炎と診断され、病躯をおしてウィーンに戻る。

5月18日、51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去。暴風雨の夜だった。
最期の言葉は「モーツァルトル(Mozarterl)![16][注釈 5]」だった。

長女マリア・アンナと同じ、ウィーンのグリンツィング墓地に埋葬された。
「私の墓を訪ねてくれる人なら、私が何者だったのか知っているはずだし、そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」
というマーラー自身の考えを反映し、墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外、生没年を含め何も刻まれていない[17][18]。

人物

出自に関して、後年マーラーは

「私は三重の意味で故郷がない人間だ。
オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」

と語っている[19][注釈 6]。

マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず[注釈 7]、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私はボヘミアンです(Ich bin ein Böhme.)」と答えている[20][21][注釈 8]。

酒造業者の息子として育ったマーラーは、「シュパーテンブロイ」という銘柄の黒ビールが好物だった[22]。しかし本人はあまり酒に強くなかった[23]。

アマチュアリズムを大いに好んだとされ、チャールズ・アイヴズの交響曲第3番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。

マーラーは自身と同じユダヤ系の音楽家であるブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えている。特にワルターはマーラーに心酔し、音楽面だけでなく友人としてもマーラーを積極的に補佐した。

クレンペラーはマーラーの推薦により指揮者としてのキャリアを開始でき[24][25]、そのことについて後年までマーラーに感謝していた[26][注釈 9]。

そのほか、オスカー・フリートやウィレム・メンゲルベルクなど当時の一流指揮者もマーラーと交流し、強い影響を受けている。なかでも非ユダヤ系のメンゲルベルクは、マーラーから「私の作品を安心して任せられるほど信用できる人間は他にいない」との言葉を得るほど高く評価されていた。メンゲルベルクはマーラーの死後、遺された作品の紹介に努めており、1920年の5月には6日から21日にかけてマーラーの管弦楽作品の全曲を演奏した[27]。

一方、マーラーはその一徹な性格から周囲の反発を買うことも多かった。
楽団員からはマーラーの高圧的な態度(リハーサルで我慢できなくなったときに床を足で踏み鳴らす、音程の悪い団員やアインザッツが揃わない時、当人に向かって指揮棒を突き出す、など)が嫌われた。

当時の反ユダヤ主義の隆盛とともにマーラーに対する態度は日々硬化しており、ある日、ヴァイオリン奏者の一人が「マーラーがなぜあんなに怒っているのか全く理解できない。ハンス・リヒターもひどいものだがね」と言ったところ、別の者が「そうだね。だけどリヒターは同じ仲間だ[注釈 10]。マーラーには仕返ししてやるぜ」と言った[28]。

当時のウィーンの音楽ジャーナリズムからも反ユダヤ主義にもとづく不当な攻撃を受けており、これらはマーラーがヨーロッパを脱出した大きな要因である。

なおマーラーの「敵を作りやすい性格」については、クレンペラーがブダペスト放送での談話(1948年11月2日)にて以下の通り擁護している[29]。

“マーラーは大変に活動的な、明るい天性を持っていました。自分の責務を果たさない人間に対してのみ、激怒せざるを得ませんでした。マーラーは暴君ではなく、むしろ非常に親切でした。若く貧しい芸術家やウィーン宮廷歌劇場への様々な寄付がそれを証明しています”

加えてクレンペラーは1951年にも「朗らかでエネルギッシュであったマーラーは、無名の人間には極めて寛大であり助けを惜しまなかったが、思い上がった人間には冷淡だった」「マーラーは真っ暗闇でも、その存在で周囲を明るく照らした」と述べ[30]、マーラーの死後に広まった一面的マーラー観(死の恐れに取り憑かれ、世界の苦を一身に背負い…など)を否定している。

マーラーの死後、評論家たちはマーラーのヨーロッパ脱出を「文化の悲劇」と呼んだ[31]。
しばしば引き合いに出される「やがて私の時代が来る」というマーラーの言葉は、1902年2月のアルマ宛書簡で、リヒャルト・シュトラウスのことに触れた際に登場している。以下がその一文である[32][33]。

“彼の時代は終わり、私の時代が来るのです。それまで私が君のそばで生きていられたらよいが!だが君は、私の光よ!君はきっと生きてその日にめぐりあえるでしょう!”

指揮者として

カリカチュア『超モダンな指揮者』(ハンス・シュリースマン作)
https://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラー#/media/ファイル:Mahler_conducting_caricature.jpg

マーラーは、当時の楽壇の頂点に登り詰めたトップ指揮者だった。
音楽性以上に徹底した完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法は、カリカチュア化されるほどの強い衝撃を当時の人々に与えている。

その代表的なカリカチュアである『超モダンな指揮者』(Ein hypermoderner Dirigent)には、1901年ウィーン初期の頃の、激しい運動を伴ったマーラーの指揮姿が描かれている。
なおその指揮ぶりは次第に穏やかなものとなり、晩年、医師から心臓疾患を宣告されてからは「ほとんど不気味で静かな絵画のようだった」(ワルターによる証言)と変化した[34]。

マーラーの指揮者としての名声は早くから高まっており、1890年12月にブダペストで上演された『ドン・ジョヴァンニ』を聴いたヨハネス・ブラームスは、「本物のドン・ジョヴァンニを聴くにはブダペストに行かねばならない」と語ったという[35]。

マーラーは演奏する曲に対して譜面に手を入れることが多く、アルトゥーロ・トスカニーニはマーラーがメトロポリタン歌劇場を去ったのち、手書き修正が入ったこれら譜面を見て「マーラーの奴、恥を知れ!(Shame on a man like Mahler!)」と、憤慨したという逸話が残っている[36][注釈 11]。

もっとも、ロベルト・シューマンの『交響曲第2番』『交響曲第3番』の演奏では、トスカニーニはマーラーによるオーケストレーションの変更を多く採用している。

オーケストラ演奏の録音は技術が未発達の時代であり残っていないが、交響曲第4番・5番や歌曲を自ら弾いたピアノロール(最近はスコアの強弱の処理も可能で原典に近い形に復刻されている)、および唯一ピアノ曲の録音(信憑性に問題がある)が残されている。

指揮についてマーラーの言葉が、いくつか残されている[37]。

“全ての音の長さが正確に出せるなら、そのテンポは正しい”

“音が前後互いに重なり、フレーズが理解できなくなるとしたら、そのテンポは速過ぎる”

“識別できる極限のところがプレストの正しいテンポである。それを超えたらもはや無意味である”

“聴衆がアダージョについてこられない時は、テンポを速くするのではなく、逆に遅くせよ”

マーラーは指揮者として多くの改革を実行し、それは現代にも引き継がれている。
ブダペスト王立歌劇場時代、マーラーは聴衆の理解のため、ハンガリー語で統一したワーグナーを上演した[38]。当時、オペラ歌手は容貌(舞台映え)がなにより重視されており、上演時にはそれら外部のスター歌手が起用されていた。そのためそれらスターが歌うことの出来る言語が優先され、ひとつのオペラ公演時に複数の言語が混じることすらあった。
マーラーは聴衆の理解と歌手の実力を重視し、既存のスターではなく若い歌手を次々起用し歌劇場を活性化させている。

ウィーン宮廷歌劇場では、マーラーはさくらを廃止し、ワーグナー・オペラを完全な形で上演した[39]。当時は劇場から雇われた人間が客席に陣取り、やらせの拍手やブラヴォーをし、長大なワーグナー作品はカットされることが常だったのである。


ブルックナーとの関係
ウィーンを中心に活動した交響曲作曲家の先輩として36歳年上のアントン・ブルックナーがおり、マーラーはブルックナーとも深く交流を持っている。
17歳でウィーン大学に籍を置いたマーラーは、ブルックナーによる和声学の講義を受けている(前出)。同年マーラーは『ブルックナーの交響曲第3番』(第2稿)の初演を聴き、感動の言葉をブルックナーに伝えた(なお演奏会自体は失敗だった)。その言葉に感激したブルックナーは、この曲の4手ピアノ版への編曲をわずか17歳のマーラーに依頼した。これはのちに出版されている[40]。

ブルックナーとマーラーは、その作曲哲学や思想、また年齢にも大きな隔たりがあり、マーラー自身も「私はブルックナーの弟子だったことはない」と述懐しているが[41]、その友好関係は途絶えていない。アルマは「マーラーのブルックナーに対する敬愛の念は、生涯変わらなかった」と記している[42]。ブルックナーの死後でありマーラー自身の最晩年でもある1910年には、ブルックナーの交響曲を出版しようとしたウニヴェルザール出版社のためにマーラーがその費用を肩代わりし、自身に支払われるはずだった多額の印税を放棄している[43]。

シェーンベルクとの関係
マーラーは14歳年下であるアルノルト・シェーンベルクの才能を高く評価し、また深い友好関係を築いた。
彼の『弦楽四重奏曲第1番』と『室内交響曲第1番ホ長調』の初演にマーラーは共に出向いている。

前者の演奏会では最前列で野次を飛ばすひとりの男に向かい「野次っている奴のツラを拝ませてもらうぞ!」と言った。この際は相手から殴りつけられそうになったものの、マーラーに同行していたカール・モル(英語版)が男を押さえ込んだ[注釈 12]。
男は「マーラーの時にも野次ってやるからな!」と捨て台詞を吐いた[44][45]。後者の演奏会では、演奏中これ見よがしに音を立てながら席を立つ聴衆を「静かにしろ!」と一喝し、演奏が終わってのブーイングの中、ほかの聴衆がいなくなるまで決然と拍手をし続けた。この演奏会から帰宅したマーラーは、アルマに対しこう語った[46][47][48]。

「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう。私は老いぼれで、彼の音楽についていけないのだろう」

シェーンベルクの側でも、当初はマーラーの音楽を嫌っていたものの、のちに意見を変え「マーラーの徒」と自らを称している[49]。1910年8月には、かつて反発していたことを謝罪し、マーラーのウィーン楽壇復帰を熱望する内容の書簡を連続して送っている[50]。

ある夜、マーラーがシェーンベルクとツェムリンスキーを自宅に招いたとき、音楽論を戦わせているうち口論となった。反発するシェーンベルクに怒ったマーラーは「こんな生意気な小僧は二度と呼ぶな!」とアルマに言い、シェーンベルクとツェムリンスキーはマーラー宅を「もうこんな家に来るものか!」と出て行った。だが、数週間後にマーラーは「あのアイゼレとバイゼレ(二人のあだ名)は、なぜ顔を見せないのだろう?」とアルマに尋ねるのだった[51]。

作品

マーラーは、ポリフォニーについて独自の考えを持っていた。以下は、マーラー自身による結論である[52]。

“諸主題というものは、全く異なる方向から出現しなければならない。そしてこれらの主題は、リズムの性格も旋律の性格も全く違ったものでなければならない。音楽のポリフォニーと自然のポリフォニーとの唯一の違いは、芸術家がそれらに秩序と統一を与えて、ひとつの調和に満ちた全体を造り上げることだ”


マーラーの交響曲は大規模なものが多く、声楽パートを伴うことが多い。

第1番には、歌曲集『さすらう若人の歌』と『嘆きの歌』、
第2番は歌曲集『少年の魔法の角笛』と『嘆きの歌』の素材が使用されている。

第3番は『若き日の歌』から、
第4番は歌詞が『少年の魔法の角笛』から音楽の素材は第3番から来ている。
また、『嘆きの歌』は交響的であるが交響曲の記載がなく『大地の歌』は大規模な管弦楽伴奏歌曲だが、作曲者により交響曲と題されていても、出版されたスコアにはその記載がない。

楽器に関し、マーラーはカウベル、鞭、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など、当時としては使用されることが珍しかったものを多く採用した。中でも交響曲第6番で採用した大型のハンマーは、人々の度肝を抜いた[53]。1907年1月に描かれたカリカチュア『悲劇的交響曲(Tragische Sinfonie)』では、奇妙な楽器群の前で頭を抱えたマーラーが描かれている。「しまった、警笛を忘れていた!しかしこれで交響曲をもうひとつ書けるぞ!」(英語版参照)

歌曲も、管弦楽伴奏を伴うものが多いことが特徴となっているが、この作曲家においては交響曲と歌曲の境がはっきりしないのも特徴である。なお現代作曲家のルチアーノ・ベリオは、ピアノ伴奏のままの『若き日の歌』のオーケストレーション化を試みている。

多くの作品において、調性的統一よりも曲の経過と共に調性を変化させて最終的に遠隔調へ至らせる手法(発展的調性または徘徊性調性:5番・7番・9番など)が見られる。
また、晩年になるにつれ次第に多調・無調的要素が大きくなっていった。
作品の演奏が頻繁に行われるようになったのは1970年代からだが、これは現代音楽において「新ロマン主義」とも呼ばれる調性復権の流れが現れた時期であり[54]、前衛の停滞とともに「多層的」な音響構造の先駆者としてマーラーやアイヴズ、ベルクなどが再評価された[55]。

現在、マーラーの交響曲作品はその規模の大きさや複雑さにも関わらず世界中のオーケストラにより頻繁に演奏される。その理由について、ゲオルク・ショルティはこう述べている[56]。
“マーラーが偶像視されるようになったのは偶然ではない。演奏の質に関わらず、マーラーの交響曲ならコンサートホールは必ず満員になる。現代の聴衆をこれほど惹きつけるのは、その音楽に不安、愛、苦悩、恐れ、混沌といった現代社会の特徴が現れているからだろう”


主要作品

自作の交響曲第1番を指揮するマーラーを描いたカリカチュア(テオ・ツァッシェ作)マーラーの勇猛な指揮ぶりと型破りな作品が共に皮肉られている
https://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラー#/media/ファイル:Zasche-Theo_Gustav-Mahler-1906.jpg

オットー・ベーラー(英語版)による影絵
https://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラー#/media/ファイル:Gustav_Mahler_silhouette_Otto_Böhler.jpg

詳細は「グスタフ・マーラーの作品一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラーの作品一覧


交響曲・管弦楽曲

交響曲第1番ニ長調(1884-88) - ジャン・パウルの小説に由来する副題『巨人』は、最終的にマーラー自身により削除されている。

交響曲第2番ハ短調(1888-94) - 独唱(ソプラノ、アルト)と合唱を伴う。広く知られる副題『復活』は、マーラーによって付けられたものではない。

交響曲第3番ニ短調(1893-96) - 独唱(コントラルト)、合唱と少年合唱を伴う。

交響曲第4番ト長調(1899-1900) - 独唱(ソプラノ)付。独唱は終曲である第4楽章で歌われる。

交響曲第5番嬰ハ短調(1901-02) - マーラー絶頂期の作品。

交響曲第6番イ短調(1903-04) - 広く知られる副題『悲劇的』は、マーラーによって付けられたものか不明。中間楽章の配置(演奏順)には、今なお議論がある。

交響曲第7番ホ短調(1904-05) - 第2、第4楽章『夜曲(Nachtmusik)』に由来する『夜の歌(Lied der Nacht)』という通称は、後世のものであり、マーラーおよび作品には無関係である[57]。

交響曲第8番変ホ長調(1906) - 独唱(各8声部)、2群の合唱、少年合唱付と大オーケストラのための。『千人の交響曲』という名でも知られるが、これは初演時の興行主であるエミール・グートマンが話題づくりのために付けたものであり、マーラー自身はこの呼び名を認めていない[58]。

交響曲イ短調『大地の歌』(1908) - 独唱(テノール、コントラルトまたはバリトン)付、最後の歌曲としての分類もある。

交響曲第9番ニ長調(1909)

交響曲第10番嬰ヘ長調(1910) - 未完成。デリック・クックらによる補作(完成版)あり。

声楽曲

カンタータ『嘆きの歌』(Das klagende Lied, 1878-80)
歌曲集『若き日の歌』(Lieder und Gesänge, 1880-91) - 全3集14曲
歌曲集『さすらう若者の歌』(Lieder eines fahrenden Gesellen, 1883-85) - 全4曲
歌曲集『少年の魔法の角笛』(Des Knaben Wunderhorn, 1892-98) - 全12曲
リュッケルトの詩による5つの歌(Rückert-Lieder, 1901-03) - 全5曲
歌曲集『亡き子をしのぶ歌』(Kindertotenlieder, 1901-04) - 全5曲


その他の作品
ピアノ四重奏曲断章 イ短調(1876) - ウィーン音楽院に在籍していた頃の室内楽曲。1973年に再発見されている。
交響的前奏曲ハ短調(1876頃) - 偽作とみなされることが多い。ブルックナーの管弦楽曲・吹奏楽曲も参照のこと。
交響詩『葬礼』(Todtenfeier, 1891) - 本来、交響曲第2番の第1楽章の初稿である。
花の章(Blumine, 1884-88) - 本来、交響曲第1番の第2楽章として作曲されたが、1896年の改訂で削除された。


オペラ
以下の3曲のオペラはいずれも完成されず、そのまま破棄(もしくは紛失)している。

『シュヴァーベン候エルンスト』(Herzog Ernst von Schwaben, 1875-78)
『アルゴー船の人々』(Die Argonauten, 1878-80)
『リューベツァール』(Rübezahl, 1879-83)


編曲作品

ウェーバー:オペラ『3人のピント』の補筆
原曲は1820年から21年にかけて作曲されたが未完成に終わったため、作曲者の孫にあたるカール・フォン・ウェーバーがマーラー(当時26歳)に補筆を依頼し、1887年に完成された。補筆版の初演は1888年にライプツィヒの市立歌劇場でマーラーの指揮により行われている。

ブルックナー:交響曲第3番 ニ短調『ワーグナー』
1878年に原曲を4手ピアノ用に編曲したもの。

ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55『英雄』・第5番 ハ短調 作品67『運命』・第7番 イ長調 作品92・第9番 ニ短調 作品125『合唱付き』
交響曲第9番の第1楽章や第3楽章にトロンボーンを取り入れている。

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番『セリオーソ』
原曲を弦楽合奏版にしたもの。

シューベルト:交響曲第8番ハ長調『ザ・グレート』 D944
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番『死と乙女』
原曲を弦楽合奏版にしたもの。

シューマン:交響曲全曲
近年ではリッカルド・シャイーがこの編曲版を全曲録音している。

J.S.バッハ:管弦楽組曲(1909年)
原曲の第2番と第3番のなかから5曲を選び、新しい組曲の形式へと編曲したもの。
楽団


映画(マーラーを扱った作品)

『マーラー』 - 1974年、ケン・ラッセル監督の映画。
クリムト『ベートーヴェン・フリーズ』 - マーラーをモデルとした人物が描かれているとされる。

トーマス・マンの小説『ヴェニスに死す』 - 主人公(グスタフ・フォン・アッシェンバッハ Gustav von Aschenbach)は、マーラーにインスピレーションを得て創作された人物とされている。
『ベニスに死す』 - 上記小説の映画化。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品。原作での小説家という設定は作曲家に変更されて更にマーラーを思わせるものになっただけでなく、マーラーの交響曲第5番の第4楽章(および交響曲第3番の第4楽章)が映画音楽として使われた。さらに劇中、原作にはない「アルフレッド」という名のシェーンベルクを思わせる人物を登場させ、主人公と音楽論を戦わせるシーンを用意している。

同じくマンの小説『ファウストゥス博士』 - 主人公(アドリアン・レーヴァーキューン Adrian Leverkühn)が作曲家に設定されており、こちらもマーラーを想定しているとされている。

サントリーローヤル テレビCM(1986年)

『Bride of the Wind』 - 2001年、ブルース・ベレスフォード監督の映画(日本未公開)。『Bride of the Wind』(風の花嫁)は、アルマ未亡人の恋人になった画家、オスカー・ココシュカの代表作(1914年)のタイトルでもある。

『グスタフ・マーラー 時を越える旅』(Gustav Mahler - Sterben werd'ich um zu leben) - 1987年、ヴォルフガング・レゾウスキー監督のオーストリア・西ドイツ合作映画(原題は交響曲第2番終楽章の歌詞「私は生きるために死のう」にもとづく)

『マーラー 君に捧げるアダージョ』 - 2010年、パーシー・アドロン、フェリックス・アドロン監督のドイツ・オーストリア合作映画

『Requiem in Vienna』 - 2010年、J・シドニー・ジョーンズ(J. Sydney Jones)作のウィーンを舞台にしたミステリー・シリーズの第2作。- ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督グスタフ・マーラーの命を狙う事件が続発し……。

『The Premiere: A Case of the Ridiculous and the Sublime』- 2012年、スティーヴン・リース(Stephen Lees)作の小説。1910年、交響曲第8番のロンドン初演をめぐる物語。語り手はマーラーの友人のフリードリヒ・レーア。

ジェイソン・スター(en:Jason_Starr_(filmmaker))監督がマーラー作品にまつわる映画(What the Universe Tells Me: Unraveling the Mysteries of Mahler's Third Symphony; Of Love, Death and Beyond – Exploring Mahler's "Resurrection" Symphony; Everywhere and Forever – Mahler's Song of the Earth)、

マーラー研究家のアンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュの伝記映画 (For the Love of Mahler: The Inspired Life of Henry-Louis de la Grange)、

さらにマーラー作品のコンサート映像をいくつか製作している。


https://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラー

3. 中川隆[-13890] koaQ7Jey 2020年2月09日 14:04:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-553] 報告

クラシック音楽 一口感想メモ
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/マーラー

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860 - 1911)

厭世的、世紀末的で、独特の時間感覚を感じる巨大な交響曲と、独特の絹の肌触りのような滑らかな音使いが特徴の歌曲を書いた。あまり品がいい音楽では無いし冗長さや支離滅裂さもあるが、音楽の可能性を遥かに大きく広げた。

交響曲・管弦楽曲

交響曲第1番ニ長調「巨人」
3.5点

1楽章の冒頭のフラジオレットが印象的。自然の描写など、メロディーや楽想に新鮮な魅力がある。2楽章は非常に分かりやすく、個性は発揮しているもののまだ普通の作曲家らしい印象。3楽章は有名な民謡を使い素朴な味を演出する曲。後のマーラーからは聞けない世界。4楽章は後年の多層性を連想する複雑な音の使い方など、多くの要素を盛り込み詰め込んだ野心的な力作。最後のトランペットによる英雄的なフレーズは心踊る。

全体に聞きやすく分かりやすく、メロディーがかなり魅力的。若々しい新鮮さも魅力。曲が短いので聞くのが楽など、いい点が沢山ある。まだ成熟しきっていない音の薄さやまとまりがあるが、むしろそれが青年らしい魅力になっている。冗長な部分はあるが、曲が長くないので苦にならず、集中力をもって聞ける。ただ、この次作からのお腹いっぱいになる感じはこの曲の場合は薄い。

交響曲第2番ハ短調「復活」- 独唱(ソプラノ、コントラルト)、合唱付
4.0点

単純で明快な和声と分かりやすい構成で、後年の複雑な音楽とはかなり異なる。叙情的でスケールの大きな音の絵巻物にゆったりと安心して浸れる。一方で単純ゆえの音楽の刺激の少なさや、4楽章の作り物っぽいわざとらしい大仕掛けには、まだ未熟という印象を持ってしまう面もある。とはいえ、瑞々しく下品でない叙情性と物語性と声楽の優秀さと最後の感動は大きな魅力がある。曲は長いが他の普通のロマン派に近い聞き方が出来る。

交響曲第3番ニ短調 - 独唱(コントラルト)、合唱、少年合唱付
4.0点

1楽章は30分オーバーの大作で、ブルックナー的な壮大さによる自由な自然賛歌。明るくて大らかで夢のように幻想的な、多くの素材がごった返す愉しい曲である。長いが聴きやすい。2楽章は1楽章と雰囲気が似ており、よりメルヘンチックで柔らかい。3楽章は薄暗くなった夜の精が戯れるのを連想させる遅めの曲。曲想は良いが間延びし過ぎ。4楽章はしっとりした歌曲で雰囲気がよい。5楽章はクリスマスみたいな小品。6楽章の前半の弦楽合奏は感動的でかなりの聞き物で非常に素晴らしい。後半はオルガン的な持続音の効果で感動的に盛り上げて締めくくる。非常に長い曲だが気力が充実している時に聴けばかなり楽しめる。全体に2番よりも精神も技術も成熟しており、明るい曲調なので気楽に聴ける。ただ、ここまで長いと1度に集中して聞くのはやはり困難。

交響曲第4番ト長調 - 独唱(ソプラノ)付
3.5点

1楽章は牧歌的でメルヘンチック。簡素な書法でたまに多義性を垣間見せるものの、全般に聞きやすい。2楽章のスケルツォは雰囲気は悪くないがインパクトに欠けるのであまり印象に残らない。3楽章の緩徐楽章は、美しくしなやかで、ゆったりした時間の流れの中で刻々と雰囲気が移り変わっていく様子が楽しい。夕焼けから夜に移っていく大自然のようなゆっくりとした時間である。4楽章は天上的な世界の不思議な雰囲気だが、交響曲の締めくくりとしてはあまり効果的でない気がする。

全体に、楽曲の規模の小ささに比例ではなくそれ以下の小さな世界が構築されており、聞きやすいしインパクトに欠ける。前後の巨大な交響曲群は1つの映画のような規模感だが、この曲は映画をクライマックスを削除して半分位にまとめたイメージ。美しさなどこの曲独特の価値はあるのだが、3楽章以外は真骨頂が現れていると言いにくい。

交響曲第5番嬰ハ短調
4.0点

1楽章はマーラーには珍しい少ない動機の徹底的な展開でかなり分かりやすい。動機の提示もトランペットの独奏で分かりやすくて印象的。2楽章は1楽章をもう少し複雑でカオス的で闘争的な方向に持っていった曲で、複雑過ぎて印象はやや薄まるが、内容はかなり濃い。

3楽章はお得意のメルヘンチックな音楽で始まるが、刻々と雰囲気を変えていき、2楽章同様にやはりかなり内容が濃い。しかし冗長なので後半は聞いていて疲れてくる。

4楽章のアダージェットは有名だが、世界が凍ったようにゆったりした時間と透明な水色のような透き通った世界は非常に素敵。このような世紀末的な破滅をはらんだ美しさをたたえた曲はそれまで無かったのではと思う。

5楽章の牧歌的に始まり、対位法的な活気のある明るい陽のあたるような世界も素晴らしい。喜ばしい気分は心地よいものだが、長さのバランスを取るためか冗長な部分がある。

全体に、チャイコフスキーなどを連想するような、普通の後期ロマン派らしい音による説得方法を見せており、偏りが少なくバランスが良い。また、闘争から勝利へのテーマと流れが分かりやすい。肥大化した音楽ではあるが、まとまりは良い。多層性は、まだここぞという場面のみで出るため、効果的に使われている。聞きやすく内容も濃いので高く評価出来るが、一方で正統派過ぎるゆえに、他の大作曲家と比較して密度や偏りの点である種の物足りなさがある。また、隙間を埋めているだけのような冗長さを感じる場面があるのが残念。


交響曲第6番イ短調「悲劇的」
3.5点

1楽章は長いが緊密である。悲劇的で大仰な激しい起伏を楽しむ曲。2楽章のスケルツォ(3楽章と逆の場合も)は、トリオが聞きやすいのに不安定で、主部は1楽章同様に騒々しい。3楽章は牧歌的であり、中間の夜の世界や最後の盛り上がりは素敵。2楽章までの疲れを癒せる。4楽章は初めは素晴らしいのだが、段々わけの分からないカオスになる。全編の半分以上は混乱したカオスである。とはいえこの楽章が一番優れているだろう。最後はまさに悲劇的。全体に打楽器が活躍し、管楽器の使い方が激しくて、大変に騒々しい。音に説得力があり過ぎで疲れるし、気合いが入りすぎで大人げない。

ただ、豊富な楽器数と大仰な劇的さを大作を通して貫いた創作意欲は敬服する。既存の管弦楽の限界を突き破ってる。間延びした部分は少なく、ギッシリと音を詰め込んでいる。音楽の多義的で多層的な音作りは7番ほどのやり過ぎにはまだ至っていないので、聞きにくくは無い。

交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
3.0点

1楽章はヒステリックな高音の弦楽やドンチャン騒ぎが耳につく。劇的な効果を狙っていると思われるが、不自然であり病的に聞こえる。2楽章も猥雑な音楽であり、マーラーが後期に向かって音楽の複雑性を増していく過渡的な作品との印象。3楽章は落ち着かないグロテスクで悪魔的なスケルツォ。間奏的な価値の曲。4楽章は室内楽的な響きの薄さで愛嬌がある。5楽章は突然の凱歌となり驚く。

ノリが良く分かりやすい曲だが冗長。全体としては、まとまりが悪く気まぐれで猥雑であり、多層的で多義的な世界を突き進み過ぎである。良いメロディーや素晴らしい楽想は少なく、一つの作品としての完成度は低いと思う。

交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」 - 独唱(八声部)、2群の合唱、少年合唱付
3.5点

舞台一杯に並んだ大合唱団と巨大オケによる作品。1楽章は非常に分かりやすい曲。分かりやすいメロディーの大合唱とオーケストラで圧倒する曲。2楽章は非常に長く構成が複雑で、耳につくような分かりやすいメロディーがなく、1楽章との関連も分かりにくい難解な音楽となっている。

交響曲第9番ニ長調
5点

1楽章は冒頭から大変魅力的で素晴らしい。マーラーの管弦楽法や作曲技法の粋を尽くしている。多くの素材を交錯させて、繊細な織物のように作り上げたよる世にも美しい作品。たっぷりと時間を使って切々と別離と人生の邂逅や死を歌う、はかなく悲しく美しい曲。

2楽章は、楽しいレントラーであり、悲しさを裏に秘めつつも、初期のマーラーに戻ったかのような素朴な美しさが良い。

3楽章は多声的な落ち着かないスケルツォ。この名曲の中にあってはあまり完成度も高い感じではなく、ピリッとしたスパイスとなる間奏という印象。中間に突然泣けるフレーズが来るところがよいが。

4楽章は長大なアダージョで、緊密に書かれており無駄は少ない。別離の悲しみに浸りきる事が出来る。

この曲は遅いテンポの1楽章と4楽章は主であり、どちらも別離の感情と死の予感に満ちているので、そのまま曲全体の印象となっている。崇高な特別感がある。

特に1楽章が特別な名作である。6番7番での実験を通過して音楽が昇化し浄化され、シンプルな世界に戻っており無駄も少ないので、代表作らしい完成度に至ったと思う。初演されないままとなり、推敲を経なかったのが非常に残念である。

交響曲第10番嬰ヘ長調(未完成。デリック・クックらによる補作あり)
3.3点

長い1楽章は音が薄く、音楽の密度もあまり濃い印象が無い。退廃的で刹那的な雰囲気は好きだし美しさもあるが、1楽章についても演奏できるレベルに達しているというだけで完成作とは言えないと思う。

交響曲「大地の歌」イ短調 - 独唱(テノール、コントラルトまたはバリトン)
5.5点

1楽章は冒頭から激しく、かっこよくてノックアウトされる。ボーカルの激しさに心を揺さぶられる。

2楽章のはかなさもよいが、3楽章がメルヘンチックでありながらアンニュイさがある絶妙さ。

そして、なによりも最後の第6楽章の「告別」が大変素晴らしい。30分間という独唱曲としては大変な長編だが、別れの気分をゆったりと存分に歌を堪能してお腹一杯になれるという点では、クラシック音楽全体でも屈指だろう。

この楽章はバーンスタイン指揮のフィッシャー・ディースカウが好きだ。何回聴いたことか。

1時間の大作だが、交響曲の中では唯一、全体を通して無駄が全く無い曲であり、完成度はもっとも高いと思う。

歌曲

カンタータ『嘆きの歌』 (Das klagende Lied,1878-80)
3.0点

マーラーの原点ともいえる作品だが、のちに何度も改作されている。あまり強く耳を捉えるような魅力は無いと思った。交響曲や歌曲の作品と比べると、編曲こそ立派だが、メロディーや楽想に個性が確立されていないし薄味で面白くない。40分とそこそこ長いわりには、内容が盛り沢山という感がない。ところどころにマーラーらしさの萌芽はあり、コアなファンならそれを楽しむことが出来るかもしれない。

歌曲集『若き日の歌』 (Lieder und Gesänge,1880-91) - 全3集14曲

歌曲集『さすらう若者の歌』 (Lieder eines fahrenden Gesellen,1883-85) - 全4曲
4.0点

4曲全てが描写力に優れた名曲である。マーラーの歌曲では大地の歌に並ぶのではと思われる。心を強く打つ旋律の良さと分かりやすさがあり、管弦楽の上に乗って独特の旋律で歌うマーラーの魅力が発揮されている。

曲が短いため自由すぎない聴きやすさがある。一曲目の最初の切な旋律の場面がまず魅力的でそれが最後まで魅力を保ち続ける。何度でも聴きたくなる曲。

歌曲集『少年の魔法の角笛』 (Des Knaben Wunderhorn,1892-98) - 全12曲
3.0点

この曲集はマーラー独特の魔法がかかっていない。バラエティには飛んでいるし、オケはゴージャスではあるが、曲の魅力としてはごく普通である。

耳は楽しませるが、心が動かない。安っぽくて下品という自分の苦手なマーラーになっている場面が大半の場面を占めている。このボリュームで期待させるものがあったのに残念だ。マーラーとしてはこちらも本線の一つなのかもしれないが。

リュッケルトの詩による5つの歌 (Rückert-Lieder,1901-03) - 全5曲
3.8点

3曲は短く小品レベルである。とはいえマーラーの世界が全開でとても楽しい。どの曲も魅力的でどっぷり浸かれるマーラー歌曲の世界。

私はマーラーが得意ではないが、歌曲は文句なしによい。壮大さと、感情的な揺れ動きの揺さぶられる感じと、何か大きなものに包み込まれている感じがとにかく心地よい。心を曲に任せていられる。そして聴き終わったら、感動にまた聴きたくなってしまう。小品も中程度の長さの曲も変わらずそれぞれに魅力的。

歌曲集『亡き子をしのぶ歌』 (Kindertotenlieder,1901-04) - 全5曲
3.8点

濃密で爛熟感の強いロマン的曲集。悲しみの感情が大規模のオーケストラによる包み込むような伴奏と、たゆたうような歌唱が存分に表現している。

5曲目までもなかなか高いレベルだが、最後の曲はかなり感動的である。不安に心を揺さぶったあとに、大交響曲の終わりに匹敵するするじわっとした感動とその余韻に包まれて終わり、もう一度聴きたくなる。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/マーラー

4. 中川隆[-12991] koaQ7Jey 2020年3月06日 11:48:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[543] 報告

マーラー論

マーラーは確かに後期ロマン派屈指の交響曲作曲家である。そして、クラシック史上の大作曲家の一人である。

しかし、世の中の多くのマーラーファンが、マーラーのどこに強烈な魅力を感じて熱心なファンになっているのか、自分には掴みきれていないところがある。

ファンの書いている評論を読んでも、自分の心に十分に響いてこないのである。

それどころか、ファンが本当に心の奥深いところで共感しているようにすら、文章から感じ取れないのである。

そもそも、深い共感を得ることを求めること自体が、マーラーの聴き方として的外れなのかもしれない。


マーラーの交響曲には、お下品なところがある。

ヒステリックな高音の多用、金管の多用、激しさと静けさの強烈すぎでかつ突発的すぎる対比などである。

構築性の脱却によるカオスのような統制の無さも、その印象を強くしている。

ベートーヴェンやシューマンに感じられる音楽的品格には、マーラーはほとんど興味が無かったのだろうと思われる。


とはいえ、一方で特に緩徐楽章では、純化し昇華した精神の独特の高貴さが感じられる瞬間も多い。

したがってお下品なだけではないし、そのような多様性が魅力なのであろう。


どんちゃん騒ぎで騒々しく、底の浅さや無駄さが散見される。

統一感がなく、構成において突発的なものや、癇癪をおこしたかのような不安定さがある。

聞く側には、多様性を清濁併せ呑むような寛容さが必要であり、すべてを受け入れるのは相当な精神的な強靭さを要求されると思う。

マーラーファンは、どうやら強靭な精神を発揮しているわけではなく、多様性や多面性をそのまま楽しんでいるようだ。


マーラーの作品は、ほぼ交響曲と管弦楽伴奏の歌曲であるが、歌曲作曲家として、ロマン派を代表する作曲家である。

自分以外も多くの人が認めるところと思うが、トップレベルの作曲家ということに文句はない。

これは、旋律美の才能、独特の節回しが管弦楽伴奏にマッチしていること、管弦楽の表現の巧みさや表現の幅広さとの融合が理由である。

それに加えて、交響曲に見られるお下品さが、歌曲ではあまり発揮されないことがかなり重要である。

また冗長さもかなり少ない。

余計なものがなく、否定的要素が少ないからこそ、素直に才能あふれる音楽として楽しめる。


マーラーの音楽で面白いなといつも思うのは、時間感覚がそれまでの他の作曲家と違う点である。

音楽には永遠の世界に近いようなゆったりとした時間が流れている。

ときとして時間は止まりそうになることすらある。


音楽表現におけるマーラーの開拓精神は素晴らしい。

新しい音楽表現を追及し、それまでには存在していなかった新しい音楽を作り上げた功績自体は否定できない。

20世紀にも、その遺産はある程度受け継がれている。


交響曲のバラエティーの豊かさは、素晴らしい。新しいことにチャレンジし続けたマーラーは、初期と中期と後期ではそれぞれかなり違う作風となっている。また、個別の作品に与える個性も非常に強いものとなっている。

このため、初期の2番から4番には若干似た雰囲気はあるももの、基本的にすべての交響曲が別世界であることで、全曲聴くことのモチベーションや、語ることの多さにつながっている。


マーラーのメロディーメーカーとしての才能はかなりのものだ。特に、夢の中の世界のような童話的な世界においては他に類をみないような個性をもっている。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6%E8%AB%96

5. 中川隆[-6847] koaQ7Jey 2021年3月08日 03:20:24 : tSqicI5Edc : U3czV0FueHVQeEk=[6] 報告
アムステルダムでのマーラー作品演奏記録

メンゲルベルクが第4番を録音した1930年代は驚く数の上演をしており
第8番や第7番のようなものでも定期的に演奏会に載せていた。
ワルターも1933〜38年に客演しておりその中には3番の演奏も含まれている。


Amsterdam Royal Concertgebouw Orchestra (RCO) Mahler performances (1903-2017)
https://mahlerfoundation.org/mahler/locations/netherlands/amsterdam/amsterdam-royal-concertgebouw-orchestra-rco-mahler-performances/

メンゲルベルクのコメントは、彼の作品への感謝と賞賛からだけでなく、
彼の音楽との完全な一体性から生じたものであるため、
彼が非常に真剣に受け止めたものでした。
マーラーの作曲方法を理解していたため、メンゲルベルクはわずかな欠落や
欠陥を指摘することができました。
多くの場合、いくつかの小さな調整で解決できる問題。
さらに、マーラーの作業方法には、実際に音に不満がある場合に
スコアを変更することが含まれていました。彼はリハーサルのたびに変更を加え、
メンゲルベルクに直接渡しました。これらは偶発的な変更ではありません。

マーラーは、彼が指揮するスコアに何百もの音符と楽譜を書きました?
4番目には、1000以上ありました!

メンゲルベルクは、新しい提案で各改訂に対応します。
彼はマーラーの友達以上のものになりました。
彼は信頼できる相談役に成長しました。
(その他、第7番の自筆譜の贈呈などの記事あり)

https://mahlerfoundation.org/mahler/locations/netherlands/amsterdam/gustav-mahler-himself-in-amsterdam/
https://mahlerfoundation.org/wp-content/uploads/2015/01/mov1remarksmahlerandmengelberg500.jpg


210名無しの笛の踊り2021/03/07(日) 17:53:27.59ID:ddVbadUn

ワルターのアムステルダムでの巨人(1947)に微妙な食い違いに感じるのは
引退してまもないメンゲルベルクが託した奏法の書き込みを
必死に掻き消そうとあれこれテンポを動かそうとしてるとこだろうと思う。

というのも、マーラーは5〜8番について楽譜に書いていないアイディアを
手紙でメンゲルベルクに託すほど、緊密な仲にあったと言われ
ACOのパート譜には、メンゲルベルクの独自の見解も含め
多くの書き込みがしてあり、団員がそれを血肉のように消化していたからだ。

2楽章も中間を過ぎる頃になって、ワルターも諦めがついたのか
オケの自由に任せるようになって、歌い回しがこなれてきている。
最終楽章では、それが災いして統率を取らずに響きが乱れる。
(バイエルンではこうしたひねくれた態度を取らずキッチリ決めている)

クレンペラーも1951年に復活のアムステルダム客演を果たしているが
その堂々とした振舞いとは全く逆の態度のようにみえる。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1613632372/l50

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