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武満徹と映画、音と音楽
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/717.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 11 月 16 日 18:52:15: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本人が西洋音楽をやっても物真似しかできない理由 投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 20 日 08:10:29)


武満 徹: 弦楽のためのレクイエム デュトワ 2001



シャルル・デュトワ指揮 NHK交響楽団
Charles Dutoit / NHK Symphony Orchestra violin 16-17 June.2001
Toru Takemitsu : Requiem for Strings 9:41


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Tōru Takemitsu: Nostalghia (1987)



Tōru Takemitsu (1930-1996): Nostalghia, for violin and string orchestra (1987).


Yuri Bashmet, violino
Moscow Soloists diretti da Roman Balashov.


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武満徹と映画、音と音楽
小沼純一が紐解く映画音楽の巨匠とその進歩的アプローチ
By Jun'ichi Konuma
http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/toru-takemitsu


武満徹(1930-1996)が他の映画音楽を手掛ける作曲家と区別されるところはどこだろう。作品の多さだろうか。いや、もっと多く書いている映画専門の作曲家はいくらでもいる。コンサートで演奏される作品を自らの軸にしていながら、映画の音楽を多く手掛けていることだろうか。そうかもしれない。それもほかにいくらも例があるだろう。


武満徹と映画の音楽というつながりにおいて重要なのは、おそらく、映画における音楽、のみならず、映画における音と音楽、あわせてのアプローチということになるのではないか。映像が出来上がり、編集もほぼ終えて、最後にただ音楽をつける作業が残っている。武満徹は、そこでただ課されたしごとを果たすというだけではなく、もっと制作に踏みこんだかたちで、映画全体における音楽と音を扱っていくことが多かった。そして、映画のなかの音、のみならず、人にとっての音、ということもつねに考えていた。視覚性や動きと音、時間ということについてもつねに意識しつづけていた。





こうした映画への音・音楽上のアプローチは武満徹が幼少期から映画に親しみ、馴染み、また愛しつづけてきたこととけっして無縁ではない。自身こんなことを言っているのを想起することができる------「僕は映画音楽をたくさん書いてきましたが、その理由はまず第一に映画が好きなこと。第二は映画というメディアが音楽家にとって面白い場であること。第三はたくさんの人と共同で仕事できることです。」(ひとはいかにして作曲家となるか)



第二次世界大戦が終結し、1950年代に音楽に携わり始めた1930年生まれの武満徹。作曲家が1960年に発表した文章を読んでみよう。



 「ぼくは、一九四八年のある日、混雑した地下鉄の狭い車内で、調律された楽音のなかに騒音をもちこむことを着想した。もう少し正確に書くと、作曲するということは、われわれをとりまく世界を貫いている《音の河》に、いかに意味づける(シニフィエ)か、ということだと気づいた。」(ぼくの方法)



このエッセイの終わりちかくには、この一九四八年、フランスでミュジック・コンクレートが発明されたことを後に知り、偶然を喜んだと記されている。楽器の音のみならず、現実にあるすべての音は音楽の素材になりえ、そうした音素材を録音して音楽作品をつくりだそうとしたのがミュジック・コンクレートだ。





武満徹のいう「音の河」。それはメタフォリックにとらえてみるなら、一本の映画のこと、ひとり人間の生のことともいえるだろう。音楽の河ではなく、音の河と呼ばれていることにも気をつけておきたい。個々の音は生まれて、消える。しかし、その音たちが同時に、また少しずつずれながらそれぞれに生まれ、また、消える。そしてその音たちの生と死がひとまとまとまりになって河となっている。楽音も騒音も、音として、ひとつの河のなかに、いや、河そのものをつくっている。



映画のなかの音は、大雑把に分けると、人の声(によるセリフ)と諸々の現実音と、(いわゆる)音楽と三つからなっている。いわゆる音楽といっても、楽器によるものがあり、声があり、電子音によるものもある。ヨーロッパ由来のもののみならず、日本そして世界のさまざまな伝統楽器、民俗楽器による音だってある。だが、こうしたすべての音は、音楽であろうと雑音であろうと声であろうと、音として事実上ヒエラルキーを持っているわけではない。映画を観ていると、セリフがまず耳にはいり、音楽がその背景でひびき、物音は何かを実証するためにあるように感じられる。日常生活でも同様だ。しかしそれは人の、というか、生きものの心理によっているわけで、物理的には声であろうと物音であろうと、おなじ資格であるはずだ。それらがすべておなじフィルムという媒質に定着され、ひとつの河となって時間のなかを流れる。



武満徹の「音の河」は、この作曲家に言及する際しばしば引かれてきたことばにほかならない。自身も何度もつかっている。このことばを、敢えて映画に結びつけて考えてみると、どうだろう。武満徹という作曲家における音・音楽に対する感受性と思考、ミュジック・コンクレートにおけるテープと映画におけるフィルム、媒質に定着されるイメージと音、そのヒエラルキーのなさとは、重なりあってはいないだろうか。



たとえば『怪談』(監督小林正樹、1965)の第一話「黒髪」。長らく離れていた家に戻って一夜をあかした武士は、朝、廃屋で目覚める。そして、手にした黒髪が髑髏からはえていることに気づき、からみついてくるこの黒髪から逃れようと、七転八倒する。そこでひびくのは木を素材にしたさまざまな音である。大きさや太さの異なる木を叩いたり折ったりし、それをテープ編集する。それが胡弓ののびてゆく音と重なり、映像に、わずかにずれを伴いつつ、衝撃音を加えてゆく。





旧来の音楽の概念からすると、これは音楽とは呼べないかもしれない。テーマ曲とか、ライト・モティーフとかとは異なっていて、音響効果のように、画面にはたらきかける。だが、単なる効果ではない。これはテープ音楽として、映像から切り離されて聴かれる音楽でもある。



映画においては------いや、現実においても、か------たったひとつの音が発されることで、時間と空間が大きく変容することがある。そうした経験は誰もが持っているだろう。だが、それは音であり、音楽ではない。音楽はひとつの音で成りたつわけではない。音楽は、音が複数あり、それらが組みあわされることで生みだされる。文字どおり、com-positionが、複数の音をさまざまに配置し、配置されるものが音楽である。すくなくともそう考えられてきた。



だが、ほんとうにそうか。たったひとつの音は、音楽になりえないのか。たしかに音楽ではないかもしれないけれど、その音にふれるものに、何かが感じられる、伝わる、起こる、ことは確かだろう。0ではなく1。その懸隔は大きい。音楽作品としては、多分にコンセプチュアルなものになってしまうだろうが、映画においては、たったひとつの音、たとえば打楽器の一打ちやオーケストラのトゥッティで空間=時間を引き締め、何かを大きく変化させてしまうことが可能だ。それをはたして音楽と呼んでいいのかどうかはまたべつのことだ。



武満徹にはこういう文章がある。



「音は消える、ということを、本質的な問題として捉え直した作曲家は、John Cageだろう。だが、すべての音楽表現の根底には(消えていく)音を聴き出そうとする、人間の、避け難い、強い欲求が潜んでいるはずだ。」(「消える音」を聴く)





アメリカ合衆国の作曲家、John Cageは、ある一定の時間、演奏家が何も音を発さない「4分33秒」や、ステージ上に楽器やラジオを含めさまざまな音を発する日常的な素材を持ちだしたりして、その音楽についてのラディカルな思考によって世界に賛否両論をまきおこした。武満徹もCageの音楽にふれ、大きく影響を受けたし、そのことについて発言もおこなっている。だが、もしかすると、それは先のミュジック・コンクレートについてと同様、武満徹が多くの映画に接しているなかで感じてきた、考えてきたことどもが、音楽作品において実現されてしまっていることへの驚きであり共感ではなかったか。Cageは、「4分33秒」はもちろんのこと、音楽作品における始まりと終わり、ひとつの時間の枠ということをつねに意識していた。その意味では、映画もまたひとつの時間を持つものにほかならず、音楽があるところもないところも含め、ひとつの持続によって成りたっている。そして、その一定の持続のなかでは、何もないところも、退屈なところも、事件も、生じる。



武満徹の音楽へのミュジック・コンクレートやJohn Cageの影響を、コンサート作品だけではなく、映画のための音楽を含めて考える、あるいは映画のための音楽からみてみると、それはコンサート作品とは異なった相貌があらわれてくる。



こういう文章も読んでおこう。



「相乗する視覚と聴覚の綜合が映画というものであり、映画音楽は、演奏会場(コンサートホール)で純粋に聴覚を通して聴かれるものとは、自ら、その機能を異にする。飽くまでも、映画音楽は演出されるものであり、そこには、常に、自立した音楽作品とは別の、抑制が働いていなければならない。」(映画音楽 音を削る大切さ)





映像には映像のテンポやリズムがある。俳優の動きやカメラの動き、モンタージュなどの編集により生まれるテンポやリズムがある。一方、音楽には音楽のテンポやリズムがある。前者を後者が壊してはならない。いや、故意に衝突させることで生まれるものもあるのだが、いたずらに両者を重ねればいいというものではない。武満徹はそのことをよく理解していた。そして映像に余計な音楽は加えないこと、むしろ音楽は削ってゆくこと、それが自らの方針のひとつであった。



先に、たったひとつの音が空間=時間を変容させるというようなことを記した。また、音が消えるものであることを意識していることについてもふれた。ひとつの音によって、空間=時間が変容するということについては、たとえば尺八による、琵琶や三味線によるたったひとつの音を発することで、ひとつの世界観が生まれる状態を想起することができる。それは、ひとつひとつの音符にはさしたる重要性はなく、ひとつひとつの音符を組みあわせ、構築してゆくことによって音楽となると考える西洋的は発想とは大きく異なっている。ひとつの音がひびくのは一瞬である。だが、その音が消えさってゆく残響の時間があり、その音が届く空間がある。コンサート作品においては、こうして生まれる時間や空間もまた、前後の音の状態、音によるコンテクストと結びつく。一方、映画においては、映像と映像によるストーリーがコンテクストとしてはつよく作用する。



日本には「間」と呼ばれる空間にも時間にも用いられる語がある。それはただの空隙、何もない空間=時間ではなく、そこにべつに「あるもの(存在するもの)」を「不在」によって絶妙なバランスのうえで支えるものだ。あるテンションをつくりだす「不在」と、仮に、言い換えてもいいかもしれない。武満徹のコンサート作品には、しばしば、こうした「間」が訪れる。そして、映画のなかにおいてこの「間」は、映像のなかの人物やモノ、行為といったことどもの相互と時間のながれのなかで生じる。いや、武満徹の音=音楽によって、生じさせられる。それはストーリーのながれを、ときに、断ち切ったり、宙づりにしたりするものとしてある。



映画には具体的なモノが映像としてあらわれる。椅子が、テーブルが、食器が。建物が、道路が、服が、髪型が。それらがストーリーと結びつき、観るものにあの場所、あの時代を想像的に立ちあげる。音楽は、それらと避け難く結びつかざるをえない。そしてそれは、コンサート作品とは異なったスタイルやヴォキャブラリーを要求されることになる。





黒澤明は、『乱』(1985)を制作するにあたり、Mahler(マーラー)の音楽をイメージしていた。そして音楽を担当する武満徹にも、Mahlerの名を挙げながらしごとを依頼した。そうした限定に対して、作曲家はかならずしも同意できないかもしれない。しかし監督の意志を結局は尊重し、自らのセンスと手腕を生かしながらも、あらたなひびきをつくりだすことになる。結果、つぎつぎと武者たちが弓矢に、火縄銃に撃たれ、倒れ、城が落ちてゆくシーンに、はじめこそ現実音を伴いつつも次第に消えてゆき、あとはゆっくりしたテンポの重苦しい音楽のみがひびくという音響上の演出が施されることになるだろう。



武満徹がそのほとんどの映画作品の音楽と関わった映画作家といえば、ほぼ同世代の勅使河原宏(1927-2001)を挙げることができる。華道の家元でもあったため、映画作品は多くはないけれども、武満徹と組み、ともに齢を重ね、時代とともに作品のスタイルも変えてきた。



ジャズの鋭角的で抉るようなリズムを弦楽オーケストラでプエルトリコ人ボクサーのうごきに重ねたドキュメンタリー『ホゼー・トレス』(1959)。John Cageの開発した、ピアノの絃のなかにボルトやゴムなどをはさんで音色を変え、打楽器のようにひびかせるプリペアド・ピアノや、チェンバロをつかった『おとし穴』(1962)。弦楽オーケストラが細分化され、それぞれグリッサンドの上昇と下降が交差する------この弦楽オーケストラの処理は、「地平線のドーリア」へと転用・発展されることになる------『砂の女』(1964)。映画では、この持続的なグリッサンドに、フルートやバス・クラリネットが、金属打楽器のひびきが打ちこまれ、テンションを高める。また、ラストに近いシーンでは和太鼓のいつ終わるともわからない連打がつづき、ストーリーと相俟って、おそらくエクゾティックでありながらも普遍的な不条理さを観るものに印象づける。『他人の顔』(1966)では、冒頭からワルツがひびき、映画内のビアホールのシーンでは、ドイツ語の歌詞がついて歌われる。これに対して、電子的に音響処理をされた楽器音が、不気味なストーリーの進行と映像のあいだにゆがみを施してゆく。



勅使河原宏が時代劇にいどんだ二作品、すなわち安土桃山時代、豊臣秀吉にまつわる人物を描いた『利休』(1989)、『豪姫』(1992)で、武満徹はコンサート作品とつうじる混沌から甘美までのオーケストラ・サウンドを存分にひびかせる。前者では、同時代ヨーロッパにおける初期バロック音楽も用いられる。一方、ドキュメンタリーである『アントニー・ガウディ』(1984)についてもふれておこう。この建築家の姿はあらわれないけれども、その生まれ育ったスペイン、カタルーニャの民謡や古いバロック時代の音楽が素材として用いられて、映像と音楽の調和がはかられている。





武満徹が映画のために書いた音楽は、おなじひとつの映画のなかでも、しばしば、異なったスタイルの音楽が共存する。かならずしも同時にひびくわけではないが、シーンによって、コンテクストによって、音楽が異なったり、変化したりすることは少なくない。いわゆる「現代音楽」風のところもあれば、ポップ・ソングのようなところがあり、民族音楽や伝統音楽のようなものもある。この作曲家は、音楽作品のなかで複数のことを同時に語りたい、と記したりしているのだが、それはたしかにひとつの音楽作品のなかで、異なった声部が異なった時間をもったり、複数のメロディを奏でたりということはあるのだけれども、それだけではなく、これもやはり映画に照らしあわせて考えてみると、映像に映っているさまざまなこととセリフ、そして物音や音楽が、おなじひとつのシーンなり画面なりに共存していることを、この作曲家は意識していたのではないだろうか。



映画のなかで、シーンによって、音楽が変化する。ときにはオリジナルなものだけではなく、何かほかの音楽を模倣したものがあったり、実際に引用・借用したりすることもあったりする。こうしてひとつの映画作品のなかに多くの音楽が共存している。それは、映画としてはごくあたりまえのことだけれども、武満徹は、ときに、コンサート作品において他者の作品からの引用をしたり、あるいは、他者の作品の編曲をおこなったりすることで、確固たる自己、ひとつのかたまった自己だけではない、もっと開かれた存在としての自分、他者とつながった「わたし」を志向していたのではなかったか。それは、また、ただ個のいとなみとして五線紙に音符を書きこんでゆくしごとだけではなしに、映画や演劇のしごとをおこない、コンサートのプログラミングをし、文章を書く、といったことにもつながっていた。



武満徹は、ある講演において、こんなことを述べている。曰く、映画を観て、そこでひびいている音楽について、誰の音楽なのかなどと考える人はあまりいない。西洋文化においては個性尊重がずっと続いてきたけれども自分は懐疑的であり、そうしたことを超えたところに音楽はあるはずだ。そしてこのように結ばれる------「つまり、たくさんの個別のものが、それぞれ触れ合って、それが質的に変化を続けていって、それであるひとつの匿名の世界に行きついた時に、音楽は、社会性をもつのだろうと思うのです」(私の受けた音楽教育)



武満徹は、映画のしごとについて、コンサート用の作品とはべつに、映像と一体になった、他者との共同作業によって生まれた作品ととらえていたのではなかったか。それはかならずしも生身の演奏家によって再演=再解釈されるものではないかもしれないが、ひとつのフィルムというメディアをとおしてのアートとして、テープ音楽の別種のようなものとして、あったのではないか。たしかに映画は「監督」の名が表面的には流通する作品ではある。だが、それはあくまでとりあえずであり、仮の、代表者の名でしかない。むしろその内実は共同=協同作業、コラボレーション、集団創作的なものだ。たとえば、Merce Cunningham(マース・カニングハム)のダンス作品に、しばしば入れ替わるにしても、ジョン・ケージやデヴィッド・テュードア、小杉武久、Robert Rauschenberg(ロバート・ラウシェンバーグ)、Daniel Arsham(ダニエル・アーシャム)といった名が切り離せないように。何人もの人たちと一緒にしごとをすることで、「わたし」が稀薄になること。固有性が作品のなかに融解すること。固有性から匿名性へとむかってゆくこと。





武満徹が映画に携わるようになった1950年代、第二次世界大戦が終結し、映画産業においてもまだまだ手探りの状態がつづき、各人が自分の役割以外にも映画の現場では発言したり手伝ったりすることができた時代である。そうしたなか、武満徹は、何人もでしごとをすることが好きだと語っていたことを想いおこしておくことも必要だろう。



21世紀を10年以上過ぎた現在、ディジタル化が進んだ現在、武満徹がしごとをした1990年代半ばまでの映画や音楽の状況をおもいおこしてみる。もしかしたら、もしかしたら、だ。写真も映画も、ミュジック・コンクレートや電子音楽も、フィルムというおなじ媒質を持っていなかったとしたら、どうだったろうか。映画がときに「コンテンツ」などと呼ばれてしまうような時代に身をおいていたなら、武満徹は、映画に、映画の音楽にあれほど多く携わっただろうか。もし映画のしごとをするのが、それぞれの職制がはっきりと決まった縦割りの組織で運営されているとしたなら、情熱をもって多くのしごとをしただろうか。



映画と音楽、メディアと素材(マティエール)、人と人とのつながりといったところを考慮しながら、あらためて、20世紀の作曲家を再考してみることも無駄ではないにちがいない。
http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/magazine/toru-takemitsu
 

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コメント
1. 中川隆[-14877] koaQ7Jey 2019年11月16日 18:54:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1968] 報告

武満徹
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9


武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、日本の作曲家。

ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた『ノヴェンバー・ステップス』によって、日本を代表する現代音楽家となった。


1930年10月8日に東京本郷区駒込曙町(現 文京区本駒込一丁目)で生まれる。
父は鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めた[1]。

生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学[2]、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる[3][4]。この頃に従兄弟からレコードで聴かされたベートーヴェンやメンデルスゾーンなどのクラシック音楽には興味を示さなかったが[5]、その一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の『ヴァイオリンソナタ第1番』のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる[6]。

1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった[7]。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある[7]。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた[8]リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』(Parlez-moi d'amour)[9]を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の『鳥は星型の庭に降りる』、『遠い呼び声の彼方へ!』など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している[10]。戦争中は予科練を受験[7]。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった[11]。

終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンのプレリュードを選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し[12]、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした[13]。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する[14]。

デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという[15]。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという[15]。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は、武満と面識はなかったにもかかわらず、妻のピアノをプレゼントした[15]。

デビュー、前衛作曲家への道

1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された[16]。傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという[17]。この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、『2つのレント』の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品『妖精の距離』(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとった。同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ『生きる悦び』で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲『遮られない休息I』(1952年)などの作品を発表した。

この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。

「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として、『ヴォーカリズムA.I』(1956年)、『木・空・鳥』(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。

「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、日活映画『狂った果実』の音楽(1956年、佐藤勝との共作)、橘バレエ団のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』(1953年)、劇団文学座のための劇音楽『夏と煙』(1954年)、劇団四季のための『野性の女』(1955年)、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される『さようなら』(1954年)、『うたうだけ』(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっている。また、1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美[18]が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。

この間、私生活においては『2つのレント』を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香と1954年に結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。

1957年、早坂文雄(1955年没)に献呈された[19]『弦楽のためのレクイエム』を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる[20]。

1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための『マスク』(1959年)、オーケストラのための『リング』(1961年)などを発表する。大阪御堂会館で行われた『リング』の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる[21]。この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品『樹の曲』(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品『テクスチュアズ』(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがある。このテクスチュアズで日本人作曲家として初めてユネスコ国際作曲家会議でグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がった。


世界のタケミツ

1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。

武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの映画エル・スールを父親の視点から絶賛しているほか、ロシア(ソ連)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲『ノスタルジア』を作曲している。

1962年にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された筑前琵琶と箏の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と薩摩琵琶が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『暗殺』(監督:篠田正浩)、『怪談』(監督:小林正樹)では琵琶と尺八が、1965年の映画『四谷怪談』(監督:豊田四郎)では竜笛、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では十七弦箏とともに鉦鼓、鞨鼓など、雅楽の楽器も使用された[22]。1966年のNHK大河ドラマ『源義経』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。その最初の作品である『エクリプス』(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。この『エクリプス』はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)である。この作品を契機として武満作品はアメリカ・カナダを中心に海外で多く取り上げられるようになった[23]。

1970年には、日本万国博覧会で鉄鋼館の音楽監督を務め、このための作品として『クロッシング』、『四季』(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽"Years of Ear"を作曲、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲『冬』を作曲した。1973年からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、世界の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。1975年にエフエム東京の委嘱によって作曲された『カトレーン』は同年に文化庁芸術祭大賞、翌年に第24回尾高賞を受賞するなど、日本で高い評価を得た[24]。また『ノヴェンバー・ステップス』以後は、世界からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年にはイェール大学客員教授、1976年と77年にトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。

癌との闘い

1980年に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための『遠い呼び声の彼方へ!』は、前衛的な音響が影を潜め、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった[25]。この時期にショット社へ移籍し、作品の演奏の機会は以前よりも急激に増えることになる。以前、自身の作曲が日本で正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日の音楽・作曲賞」では武満たった一人が審査を務め、武満自身の手で国際作曲賞を授与することに決めた。この作曲賞から多くの日本の若手や世界各国の若手が巣立った。

1980年代はすでに前衛は流行らなくなっており、武満も今日の音楽では積極的に海外の潮流を紹介したが、武満本人の興味はそれとはもう関わりが薄くなっていた。

作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性が良いのでひっきりなしにオーケストラ曲の委嘱に応えていた。全編が調性音楽である「系図」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。

この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めた。ショット社はドイツにあるにもかかわらず、ドイツの新聞で「シェーンベルク以前の音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる。

晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは『マドルガーダ』(邦題は『夜明け前』)となる予定であった[26]。

1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた武満は数ヶ月に亘る長期の入院生活を送ることになる[27]。小康を得ての一時退院中、完成された最後の作品となる『森のなかで』『エア』を作曲[28]。1996年2月20日、虎の門病院にて死去した。享年65[29][30]。墓所は、東京都文京区小日向にある曹洞宗日輪寺の境内墓地。

政治的態度

政治にも関心が深く、1960年代の安保闘争の折には「若い日本の会」や草月で開かれた「民主主義を守る音楽家の集い」などに加わり武満自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい[31])。1970年代には、スト権ストを支持したことがある。また、湾岸戦争(1991年)の際には、報道番組における音楽の使われ方に対して警鐘を鳴らし、報道番組は、音楽を使うべきではないと論じた。一方で音楽による政治参画については否定的であったとされ、1970年代には自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌上で見解を示した[32]。


作風

初期

1960年代前期は、特に管弦楽曲においてクライマックスを目指すヒートアップの方向性が明確に表れる。「アーク」(「テクスチュアズ」含む)「アステリズム」などがこれに当たる。この時期には西欧前衛の動向を手中に収め独自の語法として操る術を獲得しているが、特にヴィトルド・ルトスワフスキのアド・リビトゥム書法からの影響が直接的に現れている。もっともこれは結果としてルトスワフスキとの類似となったもので、直接には1960年代初頭に一柳慧によって日本にその思想が持ち込まれたジョン・ケージの偶然性の音楽の影響が見られる。武満はピアニストのためのコロナなどにおいて、直接的には図形楽譜による記譜の研究、内面的には偶然性がもたらす東洋思想との関連などを探った。そして帰結したのが時間軸の多層化という考え方である。1960年代後期には、それまで映画音楽でのいくつかの試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。この頃から徐々に、上で述べた(1960年代前期までの)西洋音楽的な一次元的時間軸上の集中的指向性を薄め、東洋音楽的な多層的時間軸上の汎的指向性へと変化していく。


中期

中期を過ぎた頃には、前衛語法の使用から次第に調的な作風へと変化していった。具体的には「グリーン(当初の題は「ノヴェンバー・ステップス第2番」)」を発端とし、いくつかの中規模な作品を経て「カトレーン」「鳥は星型の庭に降りる」など1970年代終盤において明確に調性を意識するようになる。「アーク」の書き直しを行うごとに、協和音やオクターブなどの響きやすい音程関係へ傾斜した。モートン・フェルドマンのいう「オーケストラにペダルをつける」アイデアをここまで自家薬籠中の物とした作曲家、それを細川俊夫は「日本で唯一官能的な響きをオーケストラから引き出した」と述べた。

後期

作品は1980年代は武満トーンでどの声部も豊麗に鳴り響いていたものの、1990年代からは健康管理が難しくなったことも含めて、歌われる旋律線が一本に収斂される時間が優勢になっていった。線が例え二本であっても、一本を持続にした上でもう一本を歌わせることで、情報量の制限を試みている。この手法はクラブサンのための「夢見る雨」で効果的に使われていたが、いかなる作品に対しても適用し始めたのは1990年代からになる。この手腕に対してルチアーノ・ベリオは「タケミツは西洋楽器のみを使ったほうが、よりいっそう日本を感じるんだよね」と答えている。佐野光司は「武満は、最晩年も進化し、『第四期』といってもよかった」とこの時代を締め括る。

備考

武満は晩年に「実は数的秩序をハーモニーに導入している」などとも語り、いまだ創作軌跡の全貌は、明らかにされていない点も多い。ヴィトルト・ルトスワフスキから「トオルよ。メロディーについて考えているか」と尋ねられ「はい。考えています」と返答し、「これからの作曲家もメロディーを忘れてはいけない」という呼びかけに、最も早く反応した日本の作曲家であることが、戦後日本音楽史の中で際立っている。今日の音楽では武満の好みが色濃く反映された選曲を行っており、ブライアン・ファーニホウのような作曲家も日本初演を実現させた。

実用音楽

武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇、テレビ番組の音楽も手がけた。

琵琶と尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー・ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いた作品は映画『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映画『暗殺』でプリペアド・ピアノやテープの変調技術と共に用いた。さらに映画『怪談』(監督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調と共に用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス・クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。

2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。

他にテレビの音楽としてはNHKの歴史ドキュメンタリー番組「未来への遺産」においてオンド・マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。

黒澤明とは、『どですかでん』で初めてその音楽を担当して以来の関係であったが、1985年の映画『乱』で黒澤と対立し「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている[33]。

短編ドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。

その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、武満の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律[34]を基に、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子、小室等、沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。

影響

晩年監修を務め、武満の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティのオープニング・コンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために「閉じた眼II」を弾いた[35]。また、「武満徹作曲賞」の演奏会も毎度、このホールにて行われている。

武満の劇音楽の仕事は多忙を極めたこともあり、アシスタントを雇っていたことが知られているが、これは同時にまだデビュー間もない新人の発掘・育成にも繋がっていった。アシスタント経験者には池辺晋一郎や八村義夫、川井学、毛利蔵人、菅野由弘がいる。高橋悠治もデビュー初期に武満の仕事を手伝っており、『おとし穴』(監督:勅使河原宏)などでは演奏にも参加している。また、クラシック出身者以外にもマジカル・パワー・マコや鈴木昭男といった独自の楽器音響を追求する後輩たちとも交流を持ち、劇音楽の仕事を通してコラボレーションを行っている。

武満の著書には彼自身の自筆譜が多く掲載されていることで知られていたが、そのほとんどはフルスコアではなく、コンデンススコアである。コンデンススコアでまず作曲し、思いついた奏法や楽器名をその上に記し、アシスタントがフルスコアに直すことで多くのオーケストラ曲は完成されていた。多忙ではなくなった時期からは、自らフルスコアを書いている。

保守的なことで知られるウィーン・フィルによってもその作品は演奏され、その死は、多くの演奏家から惜しまれた。ショット社の公表では、没後武満の作品の演奏回数は1年で1000回を越えた。(出典:日本の作曲20世紀)映画音楽で有名なジョン・ウィリアムズも、武満を高く評価しており、『ジュラシック・パーク』では尺八を取り入れた。

音楽作品

作品については武満徹の作品一覧をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9%E3%81%AE%E4%BD%9C%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7

全集
『武満徹全集』(全5巻)、小学館、2002−05年
音楽作品の録音全集。管弦楽や室内楽などコンサート作品から、映画音楽やラジオ・テレビ作品のサウンドトラックまで、様々なレコード会社や放送用の音源をまとめ、新録音も含めて全集として発売している。ただし、長木誠司は「監修者不在」を批判している[36][37]。

自筆譜

パウル・ザッハー財団から武満徹の全自筆譜・メモ・スケッチほかを一律管理したい、と申し出がある[38]が武満夫人を含む関係者はこの申し出に2016年現在応じていない。

出版[編集]

楽譜は日本ショット株式会社およびフランスのサラベール(現在はデュランなど他レーベルとともにBMGが版権を所有し発行管理している)により出版されている。かつては一部の楽譜が音楽之友社からも出版されていたが、サラベールに奪われた。

著作(文章)

武満自身、音楽作品以外に文章でも多数の著書を発表、また新聞や雑誌でも音楽評論を盛んに執筆した。

著作集
『武満徹著作集』(全5巻)、新潮社、2000年。編纂委員は友人の谷川俊太郎と船山隆。
さまざまな媒体に発表した文章の大半を、『音、沈黙と測りあえるほどに』などの単著を軸に収録されている。しかし厳密には、武満徹の残した文章のすべてではない。

単著(日本語)
『武満徹←1930……∞』 私家版、1964年
『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社、1971年(著作集第1巻)
『骨月−あるいは a honey moon』私家版、限定200部、1973年12月(『草月 ikebana sogetsu』83号、1972年8月に発表。『遠い呼び声の彼方へ』に所収)、小説
『樹の鏡、草原の鏡』新潮社、1975年(著作集第1巻)
『音楽の余白から』新潮社、1980年(著作集第2巻)
『夢の引用 映画随想』岩波書店、1984年(著作集第5巻)
『音楽を呼びさますもの』新潮社、1985年(著作集第2巻)
『夢と数』リブロポート、1987年(著作集第5巻)、自らの音楽語法について直接述べた著作
『遠い呼び声の彼方へ』新潮社、1992年(著作集第3巻)
『時間の園丁』新潮社、1996年(著作集第3巻)、1996年に点字資料版が日本点字図書館で刊行

単著(再編本、英語版)
『サイレント・ガーデン』新潮社、1999年(闘病日記、病床で描いた絵入り料理レシピ)
『私たちの耳は聞こえているか』「人生のエッセイ9」日本図書センター、2000年(既刊書に収録された回想エッセイを再編した著作)
『武満徹|Visions in Time』エスクァイアマガジン・ジャパン、2006年
『武満徹エッセイ選 言葉の海へ』小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年
Confronting Silence: Selected Writings. trans. and ed. by Yoshiko Kakudo and Glenn Glasow. Berkeley, Calif: Fallen Leaf Press, 1995.
『映像から音を削る 武満徹映画エッセイ集』清流出版、2011年

共著

『ひとつの音に世界を聴く――武満徹対談集』晶文社、1975年、新装版1996年
『武満徹対談集――創造の周辺』芸術現代社(上・下)、1976年→新版(芸術現代選書・全1巻)、1997年
『音・ことば・人間』川田順造との往復書簡、岩波書店、1980年→岩波同時代ライブラリー(改訂版)、1992年→(著作集第4巻)
『音楽』小澤征爾との対話、新潮社、1981年→新潮文庫、1984年
『音楽の庭――武満徹対談集』新潮社、1981年
『シネマの快楽』蓮實重彦との対話、リブロポート、1986年→河出文庫、2001年
『すべての因襲から逃れるために――武満徹対談集』 音楽之友社、1987年
『オペラをつくる』大江健三郎との対話、岩波新書、1990年→(著作集第4巻)
『歌の翼、言葉の杖――武満徹対談集』 TBSブリタニカ、1993年→(著作集第5巻)
『シネ・ミュージック講座/映画音楽の100年を聴く』 秋山邦晴と、フィルムアート社、1998年
『武満徹対談選 仕事の夢・夢の仕事』 小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年
『武満徹 自らを語る』 聞き手安芸光男、青土社、2010年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9

2. 中川隆[-14876] koaQ7Jey 2019年11月16日 19:08:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1966] 報告

ついこの前出たポリフォーン「総特集・武満 徹」の中に、ブラームスのクラリネット・ソナタの譜面を見てピアノで弾いてみた武満が

「こんないい音楽があったら、もう他に音楽はいらないんじゃないかというような、譜面を全部見終わったときに、自分が感じた印象というのは、完璧だ、ということでした」

と講演でしゃべった速記が載っていました。さらにシンポジウムで秋山邦晴がその「ブラームス発言」に現代作曲家としては安易な発言だという疑義が発せられてそれに答える形で、詳しくは原文を当たって頂くとしていくつかの弁明をされたあと、

 ・・あの人が書いた旋律などを見ていると、今までなんとなく聴き流してし  まっていたけれど、その音をよく確かめてみると、そんなに単純な甘ったるい旋律というようなもんじゃないんですね。そこには確固たる、知的な構造がある。僕なんかがいちばん持ってないものを持っている。

と述べ、ソナタ1番アンダンテ冒頭のE♭とD♭が曲全体の構造に深く密接に関わってる点とリズムのセルがわずか4小節のなかで2小節ずつ生と死とも言える極端な対比を作っていることでその構造の卓抜さの説明をしました。

こんなブラームス解説はいままで読んだことはなく、もっと第1線の作曲家の方々に名曲解説をして頂き愛好家の蒙を啓いてもらいたいと思わせるとともに、1番の当方の印象もまんざらまちがっていなかったのがわかり、腑におちた、という気分になりました。

 しかしあのアンダンテの冒頭に生と死の対比を嗅ぎつけるこの武満の感性の鋭さにはとてもついて行けないものがあります。ブラームスの深い知性、芸の細かさにあらためて目を開かされました。
http://homepage3.nifty.com/fm-classic-live/023K.html


その美術館で、私は3冊ほど本を買い求めました。その中の1冊に、

『カメラの前のモノローグ 埴谷雄高・猪熊弦一郎・武満徹』(マリオ・A 著/集英社新書)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0-%E5%9F%B4%E8%B0%B7%E9%9B%84%E9%AB%98%E3%83%BB%E7%8C%AA%E7%86%8A%E5%BC%A6%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%83%BB%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BBA/dp/4087200310

があります。これは外国人写真家がこの3人に試みたロング・インタビュー集です。

 そして武満徹さんはこんなことを言っていました。
このインタビューは’92年9月に行われていますから、武満さんが亡くなる’96年の約3年半くらい前ということになります。

 「最近、ブラームスに夢中になっちゃってて、皆に笑われてますけれども。
今頃、ブラームスがいい、って言うのか、って言われて。」

 「なんていうんだろう、あれだけの音楽としての骨格というか、構築力っていうの、作り上げる力、論理っていうのかな、とてもわれわれにはないもんだし。
それは、もしかしたらなくてもしょうがないことなんだけど。

でも今頃になって、僕はベートーヴェンとかバッハとかブラームスとか、そういう人たちの音楽の力っていうか、芸術としての力、決して古くなくって・・・それこそ、ブラームスは同時代人だ(笑)、とつくづくとそう思っていますね。」

 それを読んだ私は、私の周りがぱあっと明るく開けたような気持ちになりました。これは別にとても有名な人が言っていることを引用して、自分がやっていることを偉そうに正当化する気になったなどという愚鈍な話ではありません。私はこの言葉からとても勇気をもらった気がしたのです。自分は間違ったことはしていなかったのかもしれない、というほのかな希望のようなものを感じたのです。

 実は、練習を積んでいくうちに、私はこのブラームスの曲がとても好きになっていました。この「ピアノ三重奏曲 第一番」は1854年、ブラームスがなんと21歳の若さで作曲しています。その後、亡くなる6年前にあたる1891年、58歳の時に改訂され、現在ではこの改訂されたものが演奏されることがほとんどになっています。

 私が持っている譜面にはその両方が掲載されていますが、時をへだてて改訂されたものは、最初のものよりぐんと複雑で、大きな曲になっています。37年の間にコンチェルト、交響曲など数多くの作品を書いてきたブラームスの筆の力が集積されているようにも思われます。

 だからでしょうか、例えばここはピッコロが聞こえてくるとか、弦楽器が束になって響いているところだとか、金管楽器が高らかに歌っているところだとか、ピアノを弾きながら、私にはそんな風に感じられるところがたくさんあります。そしてつくづくピアノはオーケストラのようだと思わずにはいられませんでした。

 また、ブラームスは20歳の時に、リストやロベルト&クララ・シューマン夫妻に出会っています。そしてその年にシューマンは論説「新しい道」を書いて、ブラームスを新世界の巨匠として世の中に紹介しています。その翌年、シューマンはライン川に身を投じて一命はとりとめたものの精神病院に送り込まれますが、この頃からブラームスのクララ・シューマンへの想いは恋の情熱へと高まっていきます。

 そんなことを思い浮かべると、この曲の各楽章の流れ、全体を通して見た時の流れは、なんだかもう溢れ出るロマンティシズムと、期待、不安、喜び、失望などが交錯する色彩をにわかにおびてくるように感じます。揺れ動いている気持ちがそのまま音になっているような気さえしてきます。

そしてその時の自分自身を、37年後のブラームスが力強い筆で再構築している姿が見えてきます。作品全体を通した曲の流れ、揺るがない骨組み・構造力の強さ。メロディーの美しさ。ヴァイオリン、チェロ、ピアノの拍がずれながら屹立し、交錯する緊張感。ここのところでグッときちゃうのよと感じざるを得ないような持っていき方など、感嘆するところがたくさんあります。

それは細かく譜面をなめるように見ていけば見ていくほど感じたことでもあります。そういう意味では、私はまだ満足に弾けない箇所を残しながらも、音を拾う作業から、やっと少しずつ本当の譜読みの段階に入っていたのだと思います。なんとかここまできたぞ〜。って、遅過ぎる、か。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~kkyoko/tsukimiso/brahms.html

▲△▽▼

「武満徹 音楽創造への旅」を読んで
                     

とても分厚い本で(2016年2月刊)、頁の方も上下二段に分かれて細かい字がいっぱい詰まっており、つい読書意欲が萎えてしまうが、いざ読み始めてみるとこれがとても面白くて興味深い内容。

読み進むにつれて段々と武満氏の天賦の才が露わになってくるように感じてきて思わず慄きを覚えてしまった。この人は稀に見る天才だ!


名前だけはよく聞くものの、武満氏(1996年没)の音楽はまだ聴いたことがないので、ここはひとつ腰を据えて聴かねばなるまいという気にさせられた。

もっとも映画音楽の方はそうとう作曲しているようで、たとえば黒沢明監督の代表作「七人の侍」の音楽担当は周知のとおり「早坂文雄」氏だが、仲良しだった武満氏も参画しており木村功と津島恵子の絡みのシーンなどを部分的に担当しているそうだし、石原裕次郎の最初の主演作「狂った果実」の音楽も担当しているというので二度ビックリ。

クラシック音楽との関連では、メシアン、ウェーベルンなどの近代の作曲家の影響を多大に受けており、いわゆる古典ロマン派の音楽家たちとは無縁のようだが珍しくブラームスとモーツァルトの音楽に言及する箇所があったので紹介してみよう。


☆ ブラームスの「クラリネット・ソナタ」(604頁)

「最近ブラームスの音楽に急に目覚めましてこの人は凄いと思うようになった。〜中略〜。

晩年の室内楽、たとえば作品120のクラリネット・ソナタなんか聴くと旋律一つの中に本当に大きな世界がある。人生そのものがそこにあるという感じになってくるんです。実に見事な構造をしています。

真ん中のゆっくりした楽章にアダージョですけど非常に長い旋律がある。その最初の二小節と次の二小節が完全なコントラストになっている。

はじめの二小節はこうで(口ずさむ)、次の二小節はこうなんです(口ずさむ)。初めの方は生命感に満ち溢れているのにあとのほうは明らかに死を思わせる。

ひとつの旋律の中に生と死が見事に構造化されている。生の後ろにいつも死があるのが見える。生と死の二つが弁証法的にからんでいって、最後の方になってくると、生も死もない途方もないところに突き抜けるんですね。生死を超越した宗教的といってもいいような非常に高いところに抜け出ている。

素晴らしい音楽です。ある意味では実に単純な構造だけど、同時に実に複雑でもある。聴いていてすごく心が励まされる曲です。やはり音楽はここまでいかなきゃダメなんじゃないかと思いました。」


☆ モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364」(741頁)

「最近生まれてはじめてモーツァルトのヴァイオリン・・・を聴いてビックリしました。素晴らしいですね。典型的なあの時代の様式の曲だけど時代の古さなんてまったく感じさせない。新鮮でした。ちょっとショックを受けました。

長い間音楽をやってきて自分ではオーケストラのことがかなり分かったつもりになっていて“オレのオーケストレーションもなかなかうまくなったな”なんて思いはじめていたんだけど、とんでもない。あれを聴いたら、自分はまだまだオーケストレーションが何もわかっていなかったじゃないかと思って2、3日ショックでした。〜中略〜

モーツァルトの音楽は表面的な外観とかロジックではとらえきれないものを持っている。ブラームスなんかにしてもそうですが、ああいう人たちは長い音楽生活の中で濾過されて出来上がった直感力というか西洋音楽の伝統に鍛え抜かれた信じられないような直感力を持っていて、それでもってああいう美しいフォームを作れるんですね。ただ一本の旋律だけ見ても実に単純にして、しかし同時に複雑な内容をもった見事に美しい曲を書いてます。

モーツァルトというのは音楽が頭から流れるままにスラスラ書いて作曲の苦労なんかまるでなかったみたいにいう人がいるけど、この間、モーツァルト学者の海老沢敏さんにちょっと話を聞いたら、そうじゃなくて非常に緻密にスケッチをとったりしているというんですね。やっぱり単純なものの背景に鍛え抜かれたものがあるんですね。」
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0c544a7135c52c1b154be5de51f1dc83


武満徹・音楽創造への旅 – 2016/2/20 立花 隆 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9%E3%83%BB%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E5%89%B5%E9%80%A0%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85-%E7%AB%8B%E8%8A%B1-%E9%9A%86/dp/4163904093

▲△▽▼

brahms Clarinet Sonata No. 1, Wlach & Demus (1953) ブラームス クラリネットソナタ第1番 ウラッハ&デムス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=84vFArQzQHM

brahms Clarinet Sonata No. 2, Wlach & Demus (1953) ブラームス クラリネットソナタ第2番 ウラッハ&デムス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JrhqxXdjI6w

Brahms: Clarinet Sonata in F minor, op 120
cl: Reginald Kell pf: Mieczyslaw Horszowski
http://www.youtube.com/watch?v=c-wYtDLhvkE


brahms Clarinet Trio, Wlach & Kwarda & Holetschek (1952)
ブラームス クラリネット三重奏曲 ウラッハ&クヴァルダ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uY1KOvnNicI

Reginald Kell, Louis Kentner, Anthony Pini play Brahms Trio (R.1941) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1G79z6SGaFc

brahms Clarinet Quintet, Wlach & Vienna Konzerthaus Quartet (1952)
ブラームス クラリネット五重奏曲 ウラッハ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5rKJCFg3yn4

brahms Clarinet Quintet in bm-Op115-Lener Quartet & Charles Draper - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=K570sk82hNc


Brahms - Clarinet quintet - Kell - Busch live - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QnDjbisYdoM

3. 中川隆[-17444] koaQ7Jey 2021年8月05日 07:38:40 : 5PljG584Gg : SEhNSzdHLmh0YTI=[5] 報告
武満 徹『弦楽のためのレクイエム 』


Performance of Takemitsu's Requiem, March 17, 2011







Alan Gilbert · New York Philharmonic Orchestra
Released on: 2011-03-22



[NYCP] Takemitsu - Requiem




New York Classical Players
Dongmin Kim, music director/conductor
Nov 10, 2019
Broadway Presbyterian Church, New York City, NY




弦楽のためのレクイエムRequiem for Strings Orchestra(1957)




VHSビデオ『武満徹作品集』1991年製作(推定)より
製作/カジマビジョン《非売品》
「武満徹還暦記念演奏会」(推定)

ライブ収録:1990年(平成2)11月6日/東京文化会館
演出:実相寺昭雄

管弦楽
指揮:小澤征爾/新日本フィルハーモニー

○独奏者
琵琶:鶴田錦史 尺八:横山勝也
ヴィオラ:今井信子
4. 中川隆[-17443] koaQ7Jey 2021年8月05日 07:39:34 : 5PljG584Gg : SEhNSzdHLmh0YTI=[6] 報告
日本 - クラシック音楽 一口感想メモ
武満 徹(たけみつ とおる、1930 - 1996)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC

日本人作曲家の中ではダントツに有名。
現代音楽だが、聴きやすいため普通のクラシックファンでも良さはすぐに分かると思う。
海外の現代音楽よりも日本人の感性によく合っていて、音からイメージされるものが明確というのもあり、すぐに入り込めると思う。

管弦楽曲

弦楽のためのレクイエム 1957 弦楽


黒い絵画 レオノーレ・フィニによせて 1958 Orch


樹の曲 1961 Orch


環礁 1962 S,Orch


弦楽器のためのコロナII 1962 弦楽


地平線のドーリア 1964 Orch


グリーン 1967 Orch


冬 1971 Orch


マージナリア 1976 Orch


鳥は星形の庭に降りる 1977 Orch


ア・ウェイ・ア・ローンII 1981 弦楽


夢の時 1981 Orch


雨ぞふる 1982 Orch


星・島(スター・アイル) 1982 Orch


夢窓 1985 Orch


トゥイル・バイ・トワイライト ―モートン・フェルドマンの追憶に― 1988 Orch


トゥリー・ライン 1988 Orch


ヴィジョンズ(I神秘 II閉じた眼) 1990 Orch


マイ・ウェイ・オブ・ライフ ―マイケル・ヴァイナーの追憶に― 1990 Br,cho,Orch


ハウ・スロー・ザ・ウィンド 1991 Orch


系図 ―若い人たちのための音楽詩― 1992 ナレーター,Orch


群島S. 1993 Orch


精霊の庭 1994 Orch

協奏的作品

シーン 1959 vc,弦楽


弧(アーク) 1963-76 pf,Orch


テクスチュアズ 1964 pf,Orch


ノヴェンバー・ステップス 1967 琵琶,尺八,Orch


アステリズム 1968 pf,Orch


クロッシング 1969 cho,gt,hp,vib,pf,Orch


ユーカリプスI 1970 fl,ob,hp,弦楽


カシオペア 1971 perc,Orch


ジェモー 1971-86 ob,tbe,Orch


秋 1973 琵琶,尺八,Orch


ジティマルヤ 1974 mar,Orch


カトレーン 1975 cl,vn,vc,pf,Orch


遠い呼び声の彼方へ! 1980 vn,Orch


海へII 1981 fl,hp,弦楽


夢の縁へ 1983 gt,Orch


虹へ向かって、パルマ 1984 ob-d'amore,gt,Orch


オリオンとプレアデス(犂と昴) 1984 vc,Orch


リヴァラン 1984 pf,Orch


ウォーター・ドリーミング 1987 fl,Orch


ノスタルジア ―アンドレイ・タルコフスキーの追憶に― 1987 vn,弦楽


ア・ストリング・アラウンド・オータム 1989 va,Orch


フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム 1990 perc,Orch


ファンタズマ/カントス 1991 cl,Orch


夢の引用 ―Say sea,take me!― 1991 2pf,Orch


セレモニアル ―An Autumn Ode― 1992 笙,Orch


ファンタズマ/カントスII 1994 tbe,Orch


スペクトラル・カンティクル 1995 vn,gt,Orch

邦楽曲

蝕(エクリプス) 琵琶,尺八 1966


室内楽曲

弦楽四重奏のための作品

ランドスケープ 1960 SQ


ア・ウェイ・ア・ローン 1980 SQ

その他

オリオン(犂) 1984 vc,pf


そして、それが風であることを知った 1992 fl,hp,va

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC

5. 2021年8月07日 12:33:47 : oruFDODoH6 : Y1lMd2NVTDB1MjI=[16] 報告
「宇宙の音階」とは 2021年08月07日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0d549141c33f3d92b5278e6d2350c9b0

一昨日(5日)のNHK・BSプレミアムの天文関係の番組「コズミック・フロント」(午後10時〜)では「宇宙に響く不思議な歌」というタイトルで特集を組んでいた。

「地球は空気があるので多様な音(空気の振動)に満ちているが、誕生から138億年になる宇宙にも独特の響きを持つ星がある。その音とは・・」を探求したスケールの大きな番組だった。

そういえば、ずっと以前のブログに「宇宙の音階」というタイトルで投稿したことを思い出した。

ちまちました家庭オーディオの世界からいっきに宇宙へと視野を広げるのも悪くはないと思うので(笑)、以下、今風に手直しして再掲してみよう。

音楽ってなんだろう? 音っていったいなんだろう?と、思うことがときどきある。

こういう根源的な問いに対して「武満徹 音楽創造への旅」は手がかりらしきものを与えてくれる。著者はつい先日亡くなられた「立花隆」さん。

とはいえ、内容を一括りにして述べるのはちょっと凡才の手に余るので、(武満氏の)音に対する考え方が一番如実に表れていると思う「海童道祖と“すき焼き”の音」(467頁)の箇所から引用しよう。

海童道祖(わたづみどうそ:1911〜1992)は単なる尺八演奏家に留まらず宗教家にして哲学者だが、武満氏と小さな座敷で同席して名曲「虚空」を聴かせるシーンの叙述である。

「目の前にはスキヤキの鍋があってグツグツ煮えており、外はダンプカーなどがバンバンと走ってうるさいことこの上ない。そういう環境のもとで、尺八の演奏を聴くうちに、僕はいい気持になってきて、音楽を聴いているのか、スキヤキの音を聴いているのかダンプカーの音を聴いているのか分からないような状態になってきた。

それらの雑音が一種の響きとして伝わってくると同時に尺八の音色が前よりもくっきりと自分の耳に入って来る。演奏が終わって海童氏が“武満君、いま君はきっとスキヤキの鍋の音を聴いただろう”と言われたので“たしかにそうでした”と答えると、“君が聴いたそのスキヤキの音がわたしの音楽です”と言われる。

ぼくは仏教とか禅とかは苦手で禅問答的な言い方はあまり好きじゃないのですが、そのときは実感として納得しました。」

つまり、音楽の音の世界と自然音(ノイズ)の音の世界が一体となっている、そこに武満氏は日本の音楽の特質を見出す。

海童同祖は次のように言う。

「法竹(修行用の尺八)とする竹にどんな節があろうが、なにがあろうがいっこうに差支えない。物干しざおでも構わない。ほんとうの味わいというのは、こういうごく当たり前のものに味があるのです。

ちょうど、竹藪があって、そこの竹が腐って孔が開き、風が吹き抜けるというのに相等しい音、それは鳴ろうとも鳴らそうとも思わないで、鳴る音であって、それが自然の音です。」

さらに続く。

「宇宙間には人間の考えた音階だけでなく、けだもの、鳥類、山川草木たちの音階があります。宇宙はありとあらゆるものを包含した一大音響体なのです。

どんなノイズも、クルマの音も、私たちが喋っている声も我々には同じ価値を持っている。それぞれに美しさがあります。

いわゆる調律された音だけではない音たち、それから音のもっと内部の音、そういうものに関心があります。つまり音楽の最初に帰ろうとしているわけです。」

以上のことを念頭におきながら2枚のCDを聴いてみた。

         

いきなりこういう音楽を聴くと、これまでの西洋の音楽、つまり「旋律とリズムとハーモニー」にすっかり麻痺してしまった耳にとって違和感を覚えるのは当たり前だが、これから繰り返し繰り返し聴くことによってどのように耳に馴染んでくるのか興味深いことではある。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0d549141c33f3d92b5278e6d2350c9b0

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