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(回答先: NUEさんの「行為の美醜は外見の美醜を超える」を受けて 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 19 日 04:03:43)
あっしらさん、どうもです。
なんだかこんな上の場所は緊張してしまいます。
おまけに「貴重で示唆に富む」とか言われて、もー、冷や汗もんです。
しかも遅レスですいません。なんか、考え始めると止まらなくなって(笑)。
で
> 「外見」のない「行為」は存在するのか、
> 逆方向で言えば、「行為」のない「外見」は存在するのか
> という問いが浮かびました。
なんですが、御意。っつうか、そうなのです。僕が書いた「外見」というのは、あっしらさんの言う「飾り物(固定化した死んだもの)としての美」です。イメージとしてはミロのヴィーナスのような彫像的な美、平たく言うと「造作」でしょうか。鼻筋が通っているとか眼が大きいとか、口元が色っぽいとか、男性であればイケメンだとか、そういうことを指しています。
なので「行為の美醜は外見の美醜を超える」ではなく、外見と行為が分離できないものであることから、「“行為している外見”の美醜は外見の美醜を超える」に言い換えることに同意します。あっしらさんの詳細な論理展開も含めて反論なしです(笑)。すこし縮めるなら「行為の美醜は造作の美醜を超える」でしょうか(表現に拘泥するわけではありません)。
で、これで終わりすると、じゃ「援助交際は善か悪か」という問題はどこに行ったんだ、と怒られそうです。もちろん、ごく一般的な日本人で「援助交際は善である」と一点の曇りもなく言い切れる人はどうやら少ないようなので「援助交際は悪である」という答えは出ているとも言えるのですが、あっしらさんの意図は元々「善をやっつける(笑)」ですし、何のためにここでわざわざ議論したのかもわからなくなりますね。
「援助交際は善か悪か」論議には、いくつかの問題を含んでいると思います。僕なりに腑分けしてみます。
▼1.誰もが援助交際を快くは思ってはいない(美しい行為だとは感じない、善い行為であると積極的に称揚しない)のに、かといってそれに真っ向から戦わない、あるいはバッシングの対象にしないのはなぜか?
[補足]もちろん、援交そのものは、法的に一定の規制が可能になったはずですが、だからといって男女ともに援交を消極的ではあれ是認する心性がなくなったと考えることは難しいですね。いずれまた別の形で現れてくるでしょう。そして、同じ議論が繰り返されると思います。だとするならば、法的に云々ではなく、もうちょっと深いレベルで「なぜそれが善い行為である、美しい行為であると感じられないのか」を考えておくこと、腑に落ちる答えを獲得できるまでゆっくり(まったり?)議論するのは無意味なことではないと思います。現実的に、援交的な行動に走る近親者に対していまから理論武装(「高貴な嘘」が付けるように準備)しておくという意味でも。あるいは、我々自身の内部にある援交的心性(あるいは不倫的心性)の根っこを捕まえておくためにも。
▼2.「スーパーモデルのアポリア」とは、煎じ詰めれば「なぜ我々は神から公平に扱われないのか」という問題です。僕が舌足らずで誤解されてしまいました。また、援交問題とは直接関係のない問題ですね。
[補足]誤解の原因になったのは「現実のスーパーモデルは神から授かったものをきちんとお金に変える努力をしている」からです。それを僕が、他で話題になっている金利生活者あるいは地代生活者、ようするに、自分の努力無しに働かずに裕福に暮らせる権利を享受するものの代名詞に使ったために誤解を生んだわけです。スーパーモデル諸氏にもお詫びします(阿修羅を読んでるスーパーモデルが居るとは思えませんが)。以前に鼻曲りさん(縄文ビトさん)が、利潤を得る権利云々とおっしゃっていましたが、この問題とも相通ずる問題だと思っています。それが頭の片隅にあったのでつい出てきてしまったのでした。
▼3.善悪と美醜に限らず、言葉にすると全く同じ行為であるのに、Aさんがやるとバッシング対象になり、Bさんがやると賞賛されるということはよくあることです。なぜこういう事態が起こるのか。
▼4,あっしらさん> 善悪(比喩としての美醜)判断が同じ「行為」であっても、「外見」が結びつくことでその判断が揺らいだり転倒することがあると思っていたり、惚れたとか好きといった“美意識”は、けっこう奥深いものがあると思っているからです。惚れたとか好きといった“美意識”の話に発展すれば、と思っています。
惚れたはれた……より事態をわかりやすくするなら「一目惚れ」だと思いますが、こういうのは哲学的には「現象学的還元」、「我思う、故に我有り」問題と関連するように思います。「感じてしまうこと」に理由はありません。いや、正しくはあるはずなのですが、それが「××だから○○だ」がすっとばされてしまう瞬間があるということですね。経営者でいうと直感的な意志決定というヤツです。こういう恋愛はおおげさにいうと「世界観の崩壊、カタストロフの訪れ」のはずです。より一般化するなら「感動」というのも内部的には同じ心の働きのように思います。これもこれで非常に興味深いテーマです。
が、しかし、なんだか「それでいいのか?」という視線も感じないではありません。阿修羅は陰謀論的世界観でものごとを見るためのサイトですから。まあ「見えないものを見ようとする」という意味では通じますが、政治的に見れば大変なこの時期に何をのんきな話を……と思わなくもありません。
ひとまずこんなところでいかがでしょうか。