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NUEさんの「Re: 「援助交際は美しくないなぁ」という直観」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/287.html )へのレスです。
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NUEさん、どうもです。
「行為の美醜は外見の美醜を超える」は貴重で示唆に富む命題だと思っています。
【NUEさん】
「・援助交際は美しくない
と言う場合の「美しくない」は「行為」に対する評価です。「外見」に対するものでは
ありません。僕もうっかり乗せられてしまいましたが(笑)、だから「見た目がどんな
に絶世の美少女であっても、援助交際をすることは美しくない行為である」と抗弁しな
くてはいけなかったんです(反省)。
というのは話を外見の美醜に持ち込むとエライ面倒なことになります。だって、顔に限
らず生まれつきの身体的な造作(あるいはセンスとか頭の良さ)というのは本人の責任
ではありません。それについてとやかく言い出したらそこであらゆる議論も努力も吹っ
飛んでしまうような気がします。これを個人的に「スーパーモデルのアポリア」あるい
は「神様の考えることはわからん理論」と呼んでますが(笑)。
早い話「外見の美醜はなんともならんが行為の美醜はなんとでもなる」ということです。
で、「おまえそれは美しくないぞ」と言い続けるほかに美意識を変える(転換させる)
手だてはないようにも思いますが。「行為の美醜は外見の美醜を超える」と。」
最近どうも、「あいつは屁理屈ばかり書いている」と思われているのじゃないかと妄想しがちなのですが(笑)...くじけずに..
● 「見た目がどんなに絶世の美少女であっても、援助交際をすることは美しくない行為である」
これを読んで、「外見」のない「行為」は存在するのか、逆方向で言えば、「行為」のない「外見」は存在するのかという問いが浮かびました。
「外見」のない「行為」は、思考(想像)のなかには存在するが、感覚的世界には存在しない、と思っています。
やや端折りますが、「外見」のない「行為」は、「善悪」の対象にはなりえても、「美醜」の対象にはなりえないだろうと。(悪なるものは醜であるといった物言いは比喩的形容表現として了解)
次の「行為」のない「外見」は、人という存在に関してはありえないとは言わないけれど、ないと考えてもいいと思っています。(黙るのも眠るのも「行為」だとして)
ならば、人に関する「外見」の美的評価とは、“行為している外見”を対象にしたものではなかろうかと。
これをストレートに代入すると、“なるほど”と思う「見た目がどんなに絶世の美少女であっても、援助交際をすることは美しくない行為である」という見方も、実のところ観念のまやかしかもしれません。
援助交際している女性を見て絶世の美少女と思ったらとにかく美しいのであり、一見絶世の美少女に思える女性が援助交際しているのを見てゲッと思ったらとにかく醜いになると...。
ぶっちゃけて言えば、援助交際している女性を見て絶世の美少女と思ったのに、「美しくない行為」という善悪判断がシフトした美醜表現で心底ケチを付けるのは欺瞞ではないかという疑念です。
(そう言って相手に諭すことは、「高貴な嘘」ですから無問題です(笑))
その一方で、一見絶世の美少女に思える女性が援助交際しているのを見てゲッと思う美意識があるのなら、「スーパーモデルのアポリア」あるいは「神様の考えることはわからん理論」のある部分を吹き飛ばしている可能性もあります。(ブスが美しく思える行為は?という問題は残る)
「行為している外見」が美意識の対象ならば、判断する主体が静態的(写真的とイメージ)外見に囚われない限り、そして、判断される人が「行為している外見」が美の判断対象であることを失念しない限り、外見の美醜を持ち込でもエライ面倒なことにはならないはず(笑)です。
「スーパーモデルのアポリア」は、美意識の“未熟”がもたらすものであり、それは未熟と言うより、枠に入れられた美意識においてしか意味がない可能性があります。
「美人は三日で飽きる」とも言われていますが、飽きたら美ではなくなったとも言えるわけですが、たぶん、美人の誉れが消えるわけではないでしょう。
美意識は、飾り物(固定化した死んだ)を対象にしたときと生きた人に対するときとでは異なるはずなのに、今風の美意識は、生きた人に対するときにも、飾り物を対象にした美の基準が忍び込んでいるような気がします。
明るいオチになるのかどうかわかりませんが、それでも、ほとんどの人は、生きた人に対する美意識基準でちゃんと人を見ているとも思っています。
(自分の美意識で見かけたほぼ止まった“美人”が誰かと話した瞬間に興ざめすることがあります。逆に、“ブス”と言えなくもない女性が見せたある表情に美を感じたこともあります)
早い話(笑)、「外見の美醜は“行為している外見”の美醜に劣るもの」だと思っています。
そして、「行為の美醜は外見の美醜を超える」に強く同意したい気持ちを持ちつつ、外見と行為が分離できないものであることから、「“行為している外見”の美醜は外見の美醜を超える」にさせていただきます。
グダグダつまらないことを書いたのは、善悪(比喩としての美醜)判断が同じ「行為」であっても、「外見」が結びつくことでその判断が揺らいだり転倒することがあると思っていたり、惚れたとか好きといった“美意識”は、けっこう奥深いものがあると思っているからです。
惚れたとか好きといった“美意識”の話に発展すれば、と思っています。