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以下の論考を、アロン氏の投稿「信仰的要素」(http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/503.html)に対する応えと致します。悪しからず。
客観を、他人の主観と考えることは正しくない。あたかも茶室で亭主と客とが相対するかのように主観と客観が相対しているのではなく、舞台上の茶室で繰り広げられる主と客のやり取りを客席から見ている観客の目をこそ客観というべきであろう。そして、舞台上の俳優は自身の役を演じつつも常に観客の目を意識している。彼は演じる役柄になりきるだけでなく観客にもなりきっている。彼の中には二つの意識が併存し、互いに刺激し合い助け合うこととなる。彼の中には主観と客観が同居しているのだ。ついでに言えば、彼自身の自己意識はこの場合主観でも客観でもなく、その両者を統合している主体となる。
このように、人間の意識は主観と客観という二重構造を持っていると考えられる。そうでなければ演劇などというものが存在するとは思えない。しかし、そうした二重構造を持っているということは、必ずしもその事を明確に意識し理解しているということを意味しない。むしろ、往々にして人はその二重構造から逃れたがる。それを同じ舞台の喩えで述べればこうなる。
やがて舞台の芝居が真に迫ってくると、客席にいた観客は徐々に舞台に引き込まれ自分が客席にいることを忘れてしまう。舞台上の役柄に心を移し役者以上に役柄になりきって、共に考え感じることとなる。そのとき観客は役柄の主観を自らの主観としそれ以外のことは忘れてしまう。あるいはそこまでいかないとしても、舞台上の様々の役柄に次々と感情移入し物語と一体化して様々の思いに耽ることとなる。いずれにしろ観客の意識からは客観が失われ、主観の海に浸る心地良さに支配される。観客は自分が観客であることをひと時の間忘れる為に劇場へ足を運んでいるのだとも言える。
もちろん、劇場の外で人が観客であるかどうかは議論の起こるところだろう。あたかも芝居を見るように他人事に好奇心を寄せる場合は観客であるとしても、自らの人生の重大事において観客たりうるかどうかははなはだ疑問だ。しかし、人間と動物の違いを考えるとき、自分自身に対する観客のごとき覚めた意識に気付きはしないだろうか。善し悪しの議論はあるとしても、そうしたことを事実として経験し認識した人は少なくないのではないか。
さて、人間意識の二重構造に関するこうした議論に対し直ちに起こる反論はこうだろう。意識が二重であろうとなかろうと、所詮はその人物の頭脳の中に起こる現象に過ぎないではないか。物事への理解の程度に違いがあったとしても、それが主観であることに変わりはないと
果たしてそうだろうか。意識というものが頭脳の中に閉じ込められているものかどうかは措くとして、人間の意識をまるごと主観としてしまうことが妥当だと言えるだろうか。
意識の表現手段、とりわけ思考の表現手段として人間は言葉をもっている。意識が主観に過ぎないとすれば、言葉もまた主観に過ぎないのだろうか。いや、そんなことはあるまい。なるほど言葉を使って表現されるものは主観だとしても、他人の言葉が了解可能であるということは、少なくとも誰かの主観に限定されることのない共通のなにものかが言葉のうちになければなるまい。
いや、それだけでもないはずだ。言葉は単に相互の意思の疎通にのみ使用されるのではなく、主観の外部にある様々の事象を指示し理解する手段でもあって、そのようなものとして相互に了解可能でなければならない。誰彼の主観に共通するものに止まらず、凡そ主観の外部に対して適用可能な内実を備えることなしには、言葉は言葉たり得ないのではないか。
そうした言葉を使って自らの主観を表現し他者との意思の疎通を実現し得るのは、そして言葉による認識をなし得るのは、言葉を手段として駆使する能力が主観とは別に具わっているからだと考えられる。客観とはそうした能力を指して言うのではなかろうか。
客観、すなわち言葉を使う能力と主観が別のものであることの一例として、言葉使いが巧みになるに従ってその言葉から個性が失われがちになるという傾向を指摘できる。もちろんこれは、そういう場合もあるということであって、逆に、文章家の表現に於いてこそ個性を見出し得るのではないかとの見解も頷けるものではある。ただ、そうした高度な専門性ではなく、日常生活レベルでの言葉の技術としてみた場合、上手な表現とは個性のない表現である場合が多い。言葉巧みであることが、なにやら信用できぬことにつながるのもその結果であろう。
ここで、個性と主観とは別の話であろうというヤジも飛んできそうだが、独自性という意味で共通性をもつと考えて勘弁していただきたい。ついでに言えば、この独自性を言葉によって他人に理解してもらうことは至難の事業である。誰やらの表現を借りれば“議論のコア”とでもいうものは、きわめて伝達困難なものと言えよう。それが独自のものであればあるほど、言葉による表現は難しくなる。こうして、より良く表現しようとする者は、そこに工夫を重ねることとなる。いよいよ最後には、言葉の通常の使用を越えたに表現に依らざるを得なくなる。詩というものの存在理由もこの辺りに在ると思われる。
さて、言葉を使う能力が客観だとして、その能力が同時に言葉に騙される能力ともなる事実を指摘しておかねばなるまい。舞台上の芝居に感動する観客は、見方によっては、作り事を真実と勘違いしている愚か者でもある。言葉を使う者が、その言葉の意味するところをそのまま真実、もしくは事実と思い込んだとすれば、それは言葉に騙されたことになる。客観の捉え得たものがそのまま真実ではないということだ。
客観は、そして言葉は、真実に近づく手段に過ぎない。もちろん客観は、主観と主観の外部を認識し得る。だが、それらは全て移ろいゆく現象に過ぎない。その現象の背後にまで客観の目は及ばない。舞台を見つめる観客は、そこに繰り広げられるドラマを認識し得るが、役者の自己意識まで認識することはできない。役者はそれを観客の目から隠しており、隠しているからこそ芝居が成立する。
それだけではない。舞台を照らす明かりなどの装置やそれを操作する裏方の姿も観客の目から隠されている。だが、観客はもともとそんなことに関心はない。そんな事は劇場の責任に於いて観客の気付かぬところで滞りなく行なわれればそれでよいのであって、むしろ、その様に行なわれるに違いないという信頼があればこそ観客はその劇場に赴いたのであり、安心して客席に座って舞台を楽しんでいるのだ。
このような安心、そしてそれを提供してくれる劇場に対する信頼、ここに信仰の意義を見出すことは見当違いであろうか。人生の重大事に直面し進退窮まる時、ふと自らを客観視して永遠の時に思い至る時、心の安らぎや大いなるものの存在を願う時、人は何ものかを信仰するのではないか。そして、何ものかを信仰しつつ、日々の生活においてはそのことを忘れている。
真実に至る道は二つあると言われている。主観の中を、そのコアとなる部分を掘り下げる道と、客観の力で主観の外部を探索する道だ。神秘の道と科学の道だ。しかし、もうひとつの道も考えられる。哲学の道だ。自身の内にありながら普段はその事を忘れている信仰の所在を暴露し、自らの主観と客観とを支配している認識の構造を明らかにすることだ。つまりは認識を支える絶対基準の解明だ。
絶対基準はそれと気づかれることなく、いたるところに存在している。もちろんそれは必要なものなのだ。それ無くして人の心に安らぎは訪れない。しかし、それが信仰と区別されるのは、信仰がその対象を知ろうとしないのに対し、絶対基準は認識された対象に他ならないということだ。もちろん認識には程度というものがあろう。認識の程度が低ければ信仰と変わりない。そして信仰にも程度がある。信仰の程度が低ければ認識と変わりないということでもあろう。