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(回答先: ご指摘、有難うございます。 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 25 日 10:14:39)
天蓬元帥さん、レスを有り難うございます。
先ず、ラテン語の[cogito, ergo sum]は、厳密には『[cogito](思惟するもの)であることにおいて[ergo](我)は[sum] (在る)』という意味だったと記憶しています。これを哲学の出発点となるべき第一原理としたデカルトには思惟する主体の確実性と思惟(力)の延長性(可能性)にたいする揺ぎ無い信念があったと想われます。
そこで、 “感覚受容体”も“思惟するもの”も主体の諸相及び主観の諸相を表象しているものと謂えるのではないでしょうか。つまり、感覚受容体であるかぎりにおいての“我”であることや、思惟するものであるかぎりにおいての“我”であることを認識の起点にすることに関して、アロンさんと天蓬元帥さんとを別つのはどちらに確信を持っているかという点に集約されると推察しています。
>その中で、思考する我についての私の議論がデカルトのそれと異なる旨の示唆を頂いたと理解いたしました。もちろん仰るとおりであろうと思っております。私の意図しますところは、デカルトにおける神を如何にして乗り越えるかという方向で、思考する我を吟味したいということです。つまり、デカルトへの正統なる理解としてでなく、あくまで私による読み込みとして述べた次第です。
不明なる部分はありますが、思惟(力)の可能性を展望されている点では天蓬元帥さんの見解がデカルトの真意と異なっているとは考えてはいません。何故なら『こうした事態を避ける一つの道が、生成し創造する思考を神と名付けることだったのかも知れない。しかし、そうした道を取らないとすれば、主観と峻別される「我」を見出さねばなるまい。』と述べられていますように、「我」を何らかの普遍性もしくは摂理と言い換えれば、その探求を志向して飽くことのない人間の“悟性”にたいする信頼めいたものが少なからず見て取れるからです。(“悟性”は感性で捉えたものに基づいて対象を構成する概念作用を含む論理的思惟能力の総称です。)
>そのことは当然、思考そのものとは何かということでもあり、言葉に先立つ思考という仮定によって、悟性の概念作用以前の領域を考えられないかと密かに思っております。したがって、如往さんの以下のご指摘は当然とは言え、あえて、アロンさんとの違いを強調している次第です。
言葉(ロゴス)では捉えられない何かがある、あるいは言葉以外の感受媒体が我々生物には備わっていて、ただしそれが十分に開発されていないだけだとする主張のあることは承知しています。天蓬元帥さんの場合その志向性が表出したのが件の『第三の眼』なのかも知れませんし、アロンさんの場合はご自身を出発点及び素材として何か<私にはドーナッツの中心を探しているようにも映るのですが>を見出すべく苦闘されているのだと想われます。無神論者の私の場合は『主観と峻別される「我」を見出せる』のかどうかは分りませんが、絶対基準とは謂えないまでも少なくとも“公準”のようなものを探し当てることができればと願いつつ、人間の“悟性”を信じて歩んでゆく他はないだろうと考えている昨今です。
何やら強引に纏めてしまったようなレスになり、申し訳なく思っています。どうかご容赦のほどをよろしくお願い申し上げます。
また、会いましょう。