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(回答先: 主観=感覚的受容体としての我 投稿者 如往 日時 2006 年 10 月 25 日 03:04:38)
如往さん、こんにちわ。学識ある如往さんのレスによって、私の議論も一人前のものであるかのような体裁となりました。有難うございます。
お話の内容は、まさしく生徒のレポートに加筆し批評して下さる先生のもので、勉強になります。とりわけヘーゲル、カント、デカルトについての解説はそうしたものとして拝読いたしました。
その中で、思考する我についての私の議論がデカルトのそれと異なる旨の示唆を頂いたと理解いたしました。もちろん仰るとおりであろうと思っております。私の意図しますところは、デカルトにおける神を如何にして乗り越えるかという方向で、思考する我を吟味したいということです。つまり、デカルトへの正統なる理解としてでなく、あくまで私による読み込みとして述べた次第です。
そのことは当然、思考そのものとは何かということでもあり、言葉に先立つ思考という仮定によって、悟性の概念作用以前の領域を考えられないかと密かに思っております。したがって、如往さんの以下のご指摘は当然とは言え、あえて、アロンさんとの違いを強調している次第です。
“上記は感性で捉えたものに基づいて対象を構成する“悟性”(カント)の概念作用を叙述したものと受けとめています。そして、それがアロンさんが述べられている、主観すなわち“感覚受容体としての我”が有する諸相の一つである“思考”の様態を表象していると云えるのではないかと考えています。”
また、アロンさんの議論について以下の指摘がございました。
“果たしてアロンさんが上記のところまでの論及を志向されているかどうかは疑問ですし、それよりも心理学的視点により近接したところで、特に意識に関する分析や考察に限局されているようにも見受けられます。”
私も同感です。ただ、アロンさんの探求のフィールドは主観の内部にあると見受けられ、それはそれで、やむを得ないのかなと思っております。
今後も、ご指導よろしくお願い致します。