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(回答先: 主観と峻別される「我」 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 24 日 14:27:37)
天蓬元帥さん、こんにちは、横レスをご容赦ください。
アロンさんと少し前に遣り取りをしたとき、氏の言説には少なからず哲学的Termの概念把握の混同と論理が飛躍する傾向が観られ、私自身はそれを逐次照合・確認していく作業にもどかしさを覚えて、遺憾ながら中断の止む無きに到りました。けれども、天蓬元帥さんとアロンさんの間で交わされている哲学的論議を拝聴していましたところ、直前のレスで一区切りとされる由、慌てて所感めいたものをアップしたような次第です。
>直観が捉えた世界は時々刻々生成流転して取り留めがない。そうした世界を前に意識は自己を限定することで安定を作り出す。そうした限定を主観と呼び、同時に、主観の外部なるものを想定する。主観と主観の外部は身体によって区切られ、身体は主観に感覚を提供し、その感覚によって主観は外部を捉える。しかし、そこで捉えられた外部とは身体に接する限りでの外部であり、主観の外部たる世界そのものではない。かくして、主観の及ばぬ世界を捉える為、主観の外部に客観が作り出される。客観は言葉というフィクションによって外部世界を仮構し、外部世界に対する主観による身体的探索を可能にする。探索は経験をもたらし、客観によって世界認識へと加工される。
上記は感性で捉えたものに基づいて対象を構成する“悟性”(カント)の概念作用を叙述したものと受けとめています。そして、それがアロンさんが述べられている、主観すなわち“感覚受容体としての我”が有する諸相の一つである“思考”の様態を表象していると云えるのではないかと考えています。
>さて、ここに一つの問題が生じる。主観は自己限定した意識だが、思考そのものとしての「我」には自己限定がない。「我」とは無限定の自己だと言い換えることも出来る。この区別をせずに、意識や思考をまるごと主観として一括りにすることは様々の混乱を生じる原因となる。自己限定しているはずの主観が、いつのまにか無限定の「我」にすりかわる。無限定の「我」は、無限定であるが故に主観に紛れ込み主観の肥大化をもたらすのだ。さらに、客観に紛れ込めば身体を欠いた透明な自己を生み出し、直観と一体化すれば自身が世界そのものとなる。
果たしてアロンさんが上記のところまでの論及を志向されているかどうかは疑問ですし、それよりも心理学的視点により近接したところで、特に意識に関する分析や考察に限局されているようにも見受けられます。
>こうした事態を避ける一つの道が、生成し創造する思考を神と名付けることだったのかも知れない。しかし、そうした道を取らないとすれば、主観と峻別される「我」を見出さねばなるまい。
前者を表象するものとして、近代におけるその代表格は思考の理性的作用の権化でもある世界精神(ヘーゲル)が当てはまるかも知れません。また、後者にはデカルトを嚆矢にしてカントに至る“悟性”による認識の可能性にたいする確信のようなものが表出していると感じます。
[cogito, ergo sum](我思うゆえに我あり)は、当初は[cogito](思考する我)=「認識の主体」の確実性と延長性を説いたものだと謂われています。また、近代合理主義の始祖とも称されるデカルトは人間が持つ思考能力の可能性を確信していたと想われますが、その一方で思考する我による考察の明証性を担保する存在としての神を措定し、その存在論的証明を試みたことなどは、結局は教会(スコラ哲学)の圧力に屈した一面があることは否定できないと考えます。
そして、カントが企図したように主観と峻別される「我」を見出すためには、現在の人間は様々なContext(文脈)やFormula(定式)に時には自らの全存在をParameter(媒介項)にして仮説・検証を繰り返していかなければならないでしょう。その結果を基材にして“悟性”によって対象(物事)を(再)構成するとき、主観による認識の限界を克服すべき普遍的な「我」が見出されると想われるのですが、そこに到るのには路遥かです。兎角、このことに耐えきれずに人は信仰へと回帰してしまうのでしょう。
また、会いましょう。