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(回答先: 思考の段階 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 23 日 14:59:11)
ここに一つのフィクションを提示してみましょう。お楽しみ下さい。
直観が捉えた世界は時々刻々生成流転して取り留めがない。そうした世界を前に意識は自己を限定することで安定を作り出す。そうした限定を主観と呼び、同時に、主観の外部なるものを想定する。主観と主観の外部は身体によって区切られ、身体は主観に感覚を提供し、その感覚によって主観は外部を捉える。しかし、そこで捉えられた外部とは身体に接する限りでの外部であり、主観の外部たる世界そのものではない。かくして、主観の及ばぬ世界を捉える為、主観の外部に客観が作り出される。客観は言葉というフィクションによって外部世界を仮構し、外部世界に対する主観による身体的探索を可能にする。探索は経験をもたらし、客観によって世界認識へと加工される。
こうした営みの全ては、思考によって形成される。しかし、ここに言う思考とは言葉による思考ではなく、逆に、言葉をもたらす思考、言葉を生み出す思考でなければなるまい。そのような思考が存在するのだろうか。言葉によってこそ思考は形を成し姿を表わす。言葉以前に存在する思考とは何か?自ら生成し創造する思考が存在するのか?今は分からない。とりあえず、そうした思考を仮想してみるだけだ。
さて、ここに一つの問題が生じる。主観は自己限定した意識だが、思考そのものとしての「我」には自己限定がない。「我」とは無限定の自己だと言い換えることも出来る。この区別をせずに、意識や思考をまるごと主観として一括りにすることは様々の混乱を生じる原因となる。自己限定しているはずの主観が、いつのまにか無限定の「我」にすりかわる。無限定の「我」は、無限定であるが故に主観に紛れ込み主観の肥大化をもたらすのだ。さらに、客観に紛れ込めば身体を欠いた透明な自己を生み出し、直観と一体化すれば自身が世界そのものとなる。
こうした事態を避ける一つの道が、生成し創造する思考を神と名付けることだったのかも知れない。しかし、そうした道を取らないとすれば、主観と峻別される「我」を見出さねばなるまい。