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(回答先: 自己と主体:「自己とは何か?」の続きとして 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 11 月 05 日 15:00:59)
俺は客体というものを、作用の対象や内容として安易に用いておりましたが、客体は客観と同じ意味で用いられる為、それを客体として用いる事は不適切でありましたので「客体→対象」と訂正させて頂きます。失礼致しました。
>『“ラテン語の[cogito, ergo sum]は、厳密には『[cogito](思惟するもの)であることにおいて[ergo](我)は[sum] (在る)』という意味だったと記憶しています。”』
デカルトのその一文が、「思惟する者」という条件が課せられているのかはわかりませんが、「思惟する者」というものは対象化されたものだと思いますし、また「思惟する」という行為(作用)も、対象化され把握されたものでしかないと思います。
「思惟する」という行為(作用)は、他の作用である感覚や記憶や知覚や感情などと比較されて区別され認識されるものですが、その認識時に於いては、それらは対象化されて把握されるしかないものです。
では何の作用による対象化というと、それも「思惟する」という作用に集約されるのでしょう。つまり作用というものは「思惟する」という作用によって知られるものだとも言えますし、また「思惟する」ことを「思惟する」といったように、「思惟する」という作用そのものも、対象化によってしか把握できません。言い換えるなら「思惟する」というのは、“今”を表した作用ではなく、残像でしかありえなく、また「思惟する」というフィルターによる本質とは違う形で把握されたものだとも言えます。また同じ様に「思惟する」以外の記憶や感覚や知覚や感情などの作用も、残像でしかないのでしょう。しかし我々は「思惟する」という対象化作用に関係なく、それらの作用がそこにあったことを確信しています。
そしてそれぞれは「主体−作用−対象(内容)」の関係にありますが、その主体も対象化によってしか把握され得ません。つまり「思惟する者」ということも同じ様に対象化されたもので、残像であると言えるでしょう。
俺がここで自己という言葉で指し示すものは、その思惟することにより対象化された自己ではなく、対象化される以前にそこにあったものです。そしてそれは「思惟する」という作用だけに限定されたものではなく、全ての作用における主体であると思っております。
「思惟する者」で在る時、そして「知覚する者」で在る時、「感情をする者」で在る時など、それぞれは時間の中で移ろいゆく事であり、それぞれにおいて自己は主体として在るのだと思っています。ただそれを在ると対象化できるのが、「思惟する」という行為だけだということです。
ただ、「思惟する」ことも含め、全ての作用というのは、対象化されたもので本質とは違うと書きました。そうなるとそれらの作用の存在は疑わしいもののように思われます。
また、「思惟する」という作用が疑わしい時、「思惟する者」も疑わしいものとなるのでしょうし、知覚や感情も含む全ての作用における主体というのも疑わしいものです。
しかし疑わしいからと言って、その主体、つまり自己が無いとするのには違和感を感じます。なぜなら、主体(自己)が無ければ、疑わしいことも、自己が無いと言う事すらも、何も起こりえないと思うからです。
ですから、対象化された主体とは別に、「本質の主体」というものがあるのではないかとも推測されます。寧ろ、そもそも主体とは、そうしたものであって、全ての対象化からの離脱があってこそ、純粋な主体と呼べ得るのではないでしょうか。そしてそれは対象化により区別された「思惟する者」とはかけ離れたものだと思います。
もちろんその「本質の主体」というのは想像の範囲内ですし、それは何かと定義することも、知り得ることでもないと思います。しかしそれは言葉によって指し示さなければ議論においては意味を成さないものになってしまいます。「主体」「自己」「真理」「神」・・・等々、色々な言葉を用いて表現されることでしょうが、常にそこには誤解を孕んでいます。
またそれは、主観の作用とは独立して存するものであり、言い換えれば「客観」という言葉でも表現することはできるのでしょう。
ただ、「本質の主体」は全ての主観の作用からの対象化、言語化、思考化、知識化、体験化とは無縁です。そしてそれをより正確に言い表す事ができるとすれば、否定でしかできないものなのでしょう。つまりこれでもなく、あれでもなく、それでもないと全ての概念を否定することで表現されることなのかもしれません。もちろんそれすらも正確ではありません。つまり表現しようとすると、表現することからは遠ざかるものであり、無言でこそ表現することには近くなるのかもしれません。
>『ところで私は先に、意識を意識内容と意識作用とに分けて考えました。それらは一つの意識の二つの側面であって分離することはできません。これは、意識作用の主体というものを考えることができないということでもあります。』
俺は、意識を「意識主体−意識作用−意識内容」と分けて捉えた方が良いのではと前に書きました。それは、「対象から何かを受け取る」という場合においても、「受け取る」という意識作用があり、そしてそれを受け取る者という意識主体があるという意味です。
もちろんこの主体は、対象化することでしか言い表せませんが、ならば作用というものも同じ事が言えるでしょう。
「意識」というのは、実に曖昧に用いられる概念だと思います。例えば酒に酔った時や睡眠中など、記憶が無くなった時を無意識と表現したりもします。つまり記憶の状態を指してのものであったり、また上記状態の時であっても生きている存在がおり、その意識の中で起きたことであり、無意識というものは無いとしている場合もあります。
天蓬元帥さんが、「意識」というものをどのように捉えて表現されているのかが、少し掴みかねておりますが、一般的には「注意を向ける」とか「気が付いている」という意味において捉えられると思います。そして自己を意識するといったような用い方においては、上記意味において用いられたものだと思いますし、それは一つの作用を意味するのだと思います。
上記に、「思惟する」という作用が自己を客体化して把握していると書いておりますが、「思惟する」を細分化してなるべく厳密に表現するのなら、「意識する→記憶する→思惟する」というような段階を踏んでいるものと思います。そして「意識する」が窓口であり、「意識する」無くしては「思惟する」というものは起こりえないとも思えます。ただ「思惟する」が無くても「意識する」は起こりえるかもしれません。それは「感覚→知覚」のような図式にも例えることができるのかもしれません。俺は以前に感覚は事物に対する内的な部分の最初の変化であると書きました。そして「意識する」も「思惟する」に先立つ最初の変化であり、その作用の主体である「意識する者」が「思惟する者」以前に起きているとも言えることでしょう。
ただ、思考が感覚を生み出すことができるように、「思惟する」ことが「意識する」ことに働きかけることもあります。しかしそれは、「意識する」から得られた情報を基に「思惟する」が、それをフィードバックしている状況でしかないように思われます。
「意識する」や「記憶する」に先立つ「思惟する」があるのでしょうか。しかしそれは言葉やフィクションの内では成立できるものの、それを客体化して把握することはできません。それは言語的ではない思考を考えるようなものです。
だから、対象化されて知り得るものの中では、「意識する者」というのが先立つものであり、それは俺が視点とか、観るとか、意識の窓とかいう言葉で言い表したものであり、そして俺がそれを自己の最後の砦だと言い表したことの所以です。もちろんここで言う自己は、自己同一化したものであり、対象化して区別されたものの中から自己の所在を探ることだけの話であり、それは自己の本質ではないのでしょう。
もし上記で書いているように「本質の主体」というものがあるのならば、それは「意識する者」「思惟する者」とはかけ離れたものであり、対象化することとは無縁のものだと思います。また、それを把握する術はありませんし、あくまでも形而上的概念となるのだと思っています。