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(回答先: 仮構である自己を作ること 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 11 月 12 日 12:20:31)
俺の先回の投稿の、『また同じ様に「思惟する」以外の記憶や感覚や知覚や感情などの作用も、残像でしかないのでしょう。しかし我々は「思惟する」という対象化作用に関係なく、それらの作用がそこにあったことを確信しています。』における「確信しています」というのは、“我々は〜”と書いているように一般論的な意味あいとして書いたものです。それは時間の継続性の中に存する、記憶に依存した平均的な我々人間にとってという意味です。
その記憶に依存した平均的な我々は、記憶の中にある過去の出来事が、実際に起きたこと(あったこと)であると確信していると思います。例えば今我々がしている掲示板上における議論においても、過去の自分の投稿を引用する時など、自分が書き込んだという作用があったことを前提とすることでしょう。さらに現前にある事物(例えば家とか、パソコンなど)というものさえも、厳密には記憶に依存した過去のものですが、それらをあるものとして扱うのではないでしょうか。そもそも社会とは記憶による確信を前提として成り立っていると思っています。
そして、俺がここで一般論的なことを書いた意図は、天蓬元帥さんが、「思惟する」という作用の主体である「思惟する者」だけを思考と言い換えて、「思考そのものこそが実体であると言えそう」として持ち出したからです。
俺は、その「思惟する」という作用は、対象化されて知り得るものであり、それは過去のものであると書きました。ですからまずは同じ土俵、つまり時間の継続性・連続性の内に立って、論理を構築したに過ぎません。
そして、記憶に依存した平均的な人間である我々は、その「思惟する」という作用だけがあり、それ以外の作用は無いという様には思っていないということです。例えば昨日に、食べて、飲んで、笑って、風呂入って、寝たということが記憶に残っていた時、食べたことだけがあって、笑ったことや風呂に入ったことや寝たことは無いとはならないはずです。または、旅の途中ですれ違ったAさんとBさんとCさんの内、Aさんは存在していたけど、BさんとCさんは疑わしいとはならないはずです。
ですから、過去に起きた「思惟する」という作用があるとするのなら、同じく過去に起きた「記憶」や「感情」「感覚」「欲望」などの他の作用もあるということになるのではないかということであり、そしてそれらの各主体も、自己から外されることはないのではないかということです。
ただ俺の考えとしては、その後の展開として書いたように、それらの作用全て(「思惟する」という作用と、それ以外の作用の全て)及び、その主体全て(「思惟する者」と、それ以外の作用主体の全て)は、本質とは違うのではないかとしたのです。そしてこの段階が、差延の意味するものに繋がっていくのだと思っています。
また俺の投稿の、『しかし疑わしいからと言って、その主体、つまり自己が無いとするのには違和感を感じます。なぜなら、主体(自己)が無ければ、疑わしいことも、自己が無いと言う事すらも、何も起こりえないと思うからです。”』というのは、上記に書いた一般論的意味あいの「確信している」とは直接的には関係はありません。それは成立条件として、主体が無いとすることには違和感を感じ、そしてその本質のようなものがあるのではないかと思っているだけであって、対象化された過去のもの、そのものがある(あった)と確信しているということではありません。
例えるのなら、カントが事物に対して、その成立条件として、認識された現象とは違う本質としての「物自体」があるのではないかと考えたようなものです。
そして俺は違和感を感じる理由として『主体(自己)が無ければ、疑わしいことも、自己が無いと言う事すらも、何も起こりえないと思うからです』と書きました。
これは俺としてはデカルトの「我思う故に我あり(思惟するものであることにおいて我は在る)」に通じるものだと思っております。これついて俺の持っている本に書かれたことをある程度簡略化して説明すると、デカルトはすべてのものを疑わしいと認識した後、ただひとつだけ疑う余地のないものとして、それを疑っているという自分自身だけは確実に存在していると考えたと、つまり考えている(疑っている)限りは、考えている(疑っている)「我」は存在し、そしてそれを唯一の確かな存在として捉えたということです。
俺は「違和感を感じる」と控えめに書いたつもりではありましたが、デカルトはさらに「存在する(在る)」と力強く表記してはおります。そしてそれを俺は「本質の主体」と言い表したに過ぎません。
また、「違和感を感じる」としながらも、俺はそれを「確信している」と言い換えて作り変えてもいいと思っております。なぜなら、現前の世界を成立させている根本原理としての自己という主体の存在は、疑いようのないものだと思っているからです。自己を疑うということ自体が自己の存在を示唆しております。
しかしここでさらに論を進めるのなら、「存在する」ということ自体は、「存在しない」ということで支えられた概念であります。つまり「本質の主体」というのが存在しているとすることも、対象化して把握されたことで本質ではないのでしょう。ですから「本質の主体」は存在・非存在という枠を超えた次元のものであると思っております。
また、「主体」ということも同じ様に主体以外の概念(作用・対象・客体)に支えられたものです。ですからそれは主体・非主体という枠をも超えた次元のものだとも思われます。
こうなると、まさに如往さんが示唆したように、「差延[différance](デリダ)という処に収斂していく」こととなるのでしょう。
>『語りようのないものを提示されたのでは議論になりません。従って、信仰告白と受け止めた次第です。』
「本質の主体」というものが、対象化され得ないものである以上、それそのものを語る事(言い表すこと)は矛盾します。もちろん「本質の主体」と表記することすら矛盾することです。しかし現代の哲学においては、それでも、それを何とかして表現しようとしてきたのだと思っております。
例えばハイデッガーの用いる「存在」は、存在者の世界つまり思惟や行為の対象としては現れないものだとしております。つまり対象化されるものは存在ではあり得ないということで、それについて語ることは対象化することで矛盾します。もちろんデリタが差延という言葉で言い表そうとするもの、そして厳密に捉えた「今」というのも、語りようのないものだと思います。語ることそのものが対象化することで、それは過去を意味するものであるからです。
>『私がその存在を否定した意識主体を“自己の最後の砦”としていらっしゃいます。』
俺は、先回の投稿におけるそこの抜粋個所の後に、こう念を押して付け加えております。
『もちろんここで言う自己は、自己同一化したものであり、対象化して区別されたものの中から自己の所在を探ることだけの話であり、それは自己の本質ではないのでしょう。』と。
つまり、その「自己の最後の砦」と認識したことは、自己同一化したものであり、自己の本質ではないのだと自覚しているということです。
我々平均的な人間は、事物を対象化してしか認識することはできません。つまり主観の作用に依存して、対象化することでしか事物を把握することはできません。そしてその対象化され区別されて把握された作用の中からどれが先立つものかと考えた時に、「意識する」が全てに先立つだろうと考え、その作用主体である「意識する者」「意識の窓」「観る者」が自己なのだろうと自己同一化したということに過ぎません。また、これと言って妥当な論拠もないフィクションや想像により対象化したものまでなんでもかんでも含めていいというのであれば、それこそ取り留めのない議論となることだと思っていますし、それを現前の事物と区別せずに同列に並べて扱うことには違和感を感じたからです。また、それを論拠とするのなら信仰的ということにも通じることなのかもしれないと思ったからです。