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(回答先: 決して対象化されない主体(本質の主体)である自己(訂正) 投稿者 アロン 日時 2006 年 11 月 06 日 15:07:49)
アロンさんの議論を、ある種の信仰告白として受け取りました。何に対する信仰か?「本質の主体」です。信仰に至る過程をアロンさんの文章から跡付けてみます。
“言い換えるなら「思惟する」というのは、“今”を表した作用ではなく、残像でしかありえなく、また「思惟する」というフィルターによる本質とは違う形で把握されたものだとも言えます。また同じ様に「思惟する」以外の記憶や感覚や知覚や感情などの作用も、残像でしかないのでしょう。しかし我々は「思惟する」という対象化作用に関係なく、それらの作用がそこにあったことを確信しています。”
この辺りのことに関して、如往さんは差延という言葉を提示されたのだと思います。残像でしかないと切り捨てるのではなく、その残像を手がかりに思索を進めるのが哲学的思考であるとのご教示であろうと理解した次第です。
しかしアロンさんは残像の前で立ち止まるのではなく、そこを飛び越えて“確信”を選択なさっています。その確信が語られているのが以下の部分です。違和感というのがそれです。
“しかし疑わしいからと言って、その主体、つまり自己が無いとするのには違和感を感じます。なぜなら、主体(自己)が無ければ、疑わしいことも、自己が無いと言う事すらも、何も起こりえないと思うからです。”
こうした確信や違和感は、アロンさんを一つの帰結に導きます。
“ですから、対象化された主体とは別に、「本質の主体」というものがあるのではないかとも推測されます。寧ろ、そもそも主体とは、そうしたものであって、全ての対象化からの離脱があってこそ、純粋な主体と呼べ得るのではないでしょうか。”
“もちろんその「本質の主体」というのは想像の範囲内ですし、それは何かと定義することも、知り得ることでもないと思います。”
“そしてそれをより正確に言い表す事ができるとすれば、否定でしかできないものなのでしょう。”
“つまり表現しようとすると、表現することからは遠ざかるものであり、無言でこそ表現することには近くなるのかもしれません。”
語りようのないものを提示されたのでは議論になりません。従って、信仰告白と受け止めた次第です。
しかし、アロンさんの信仰には根拠があります。アロンさんが“視点とか、観るとか、意識の窓とかいう言葉で言い表したもの”、つまり「意識する者」です。私がその存在を否定した意識主体を“自己の最後の砦”としていらっしゃいます。
しかし、信仰は強固なものであればあるほど隠された根拠を持っているものです。アロンさんの場合は、意識主体の根拠となっている“視点”であり、“観る”であり、“窓”であり、つまりは感覚することであろうと思われます。感覚は身体が命あることの証です。生きてあることとその証としての感覚がアロンさんの信仰の根拠ではないかと推測しました。
ところで、私は先に、自己とは命ある仮構だと書きました。命ある仮構とはおかしな言い方だと思われたかも知れません。命があるのなら仮構ではなかろうと。しかし、命とは固定したものではありません。常に変化し成長し躍動しています。そこに形成され生み出されるものは内に真実を秘めた仮構と言えないでしょうか。
「意識する者」として意識されたもの、つまり、アロンさんの言い方で“対象化された主体”というのが私の言い方では自己となるのだと思われます。そして、アロンさんの残像が私の仮構です。
そこでアロンさんはさらに真実を求めます。残像や仮構ではない命の真実です。「本質の主体」とは、その真実を知る者、その真実と一体の者、つまり、真実を求めるアロンさんの到達すべき極点を言い表したものだと理解します。そうした極点が確かに存在するという確信として述べられたのであろうと。
私が自己とは仮構だと言うとき、人それぞれが自分なりの仮構を生きるのだという意味を含んでいます。人間とはそのように自分自身を作る者だと思います。「本質の主体」を信じて生きることも人生であろうと。
誤解があるといけませんが、私は信仰を否定するつもりはありません。また、デカルトがそうしたように、いかに日々を生きるかということと理論的探求は一応区別しています。言い換えれば、仮構である自己を作ることと思考そのものを追求することとは別だと考えています。もちろん両者が無関係であるはずはないのですが。