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(回答先: 「主体−作用−客体」の関係性における自己 投稿者 アロン 日時 2006 年 10 月 30 日 21:57:38)
レスが遅れましたことをお詫びしつつ、さっそく本題に入ります。
アロンさんのお説は理解できる気がします。と言うのも、その凡そに於いて私の考えと重なり合うように思えるからです。もちろん、重なり合ってはいても一致してはいません。そこで、その一致しない理由を明らかにするために、先の私のレス「自己とは何か?」をさらに発展させたいと思います。以下を、その続きとしてお読み下さい。
―――さて、意識と身体とが一体であるとの意識すなわち自己が仮構に過ぎないとすれば、それは意識が身体の生死とは別に存在しているということを意味します。身体と結びついている限りでの意識、すなわち主観は意識の全てではないということです。身体を持たない意識としての客観が存在する所以です。ただし、現に身体と結びつき命ある存在たる意識においては、主観こそが現実であり、客観は仮構たらざるを得ないことも明らかです。とは言え、本当に意識が身体の生死とは別に存在するのであれば、そのことは何らかの現実として顕われないはずはないでしょう。それが思考であろうと思われます。
一体、この思考とはどんなものなのでしょう?
先ずは、デカルトの有名な一文を、如往さんのご教示{「補足を少々。」(http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/629.html)から}を元に考えてみます。
“ラテン語の[cogito, ergo sum]は、厳密には『[cogito](思惟するもの)であることにおいて[ergo](我)は[sum] (在る)』という意味だったと記憶しています。”
ここで、(在る)のは(我)なのか、それとも(思惟するもの)なのか、と問うてみます。もちろん、そうした問いはおかしいとも言えましょう。(我)と(思惟するもの)とは結びつけられているからです。しかし、結び付けられているのは、それが別のものだからとも言えます。
(我)とは、(在る)という判断を下している意識を指していると思われます。しかし、この判断は無限定に行なわれたのではなく条件付で行なわれています。その条件が、(思惟するもの)であることです。(我)という意識は無限定に(在る)のではなく、(思惟するもの)であるときに(在る)と言えるのです。言い換えれば、(思惟するもの)でない(我)は(在る)とは言えないということです。
では、(思惟するもの)とは何でしょう。ここでの(もの)とは、もちろん(者)でしょう。つまりは、(思惟する)という行為の主体と言えます。(我)という意識は(思惟する)という行為の主体である限りにおいて(在る)と言える、ということになります。
ところで私は先に、意識を意識内容と意識作用とに分けて考えました。それらは一つの意識の二つの側面であって分離することはできません。これは、意識作用の主体というものを考えることができないということでもあります。もし、意識作用に主体を想定するならば、当然、客体となるべきは意識の対象でしょう。そして意識作用とは、その客体たる対象に何らかの働きかけを為すということになります。しかし、そんなことはあり得ません。意識するとは、意識の対象に働きかけることとは違います。むしろ、対象から何かを受け取ると言った方が適切でしょう。意識は作られるものであって、自ら作るものではないというべきです。
では、誰が意識を作るのでしょう。それが思惟する者ではないでしょうか。思惟する者が様々の素材から意識を作り出すのです。こう言うと、思惟の素材は意識によって提供されるのではないかとの疑問が起こるかも知れません。そもそも思惟とは意識の範囲内での働きではないかと。しかし、よく考えてみて下さい。思惟する者は主体だったはずです。主体ならば思惟するという働きの背後に存在するのであり、思惟することの範囲内に居るわけではないはずです。
意識内容と意識作用とが分離できないように、意識と思惟とは深く結びついて分離できないと言うべきでしょう。しかし思惟する者は、意識と思惟との背後からそれらを作り出しているのです。その思惟する者を指して思考そのものと呼んでおきましょう。
というわけで、(在る)のは(我)ではなく(思惟するもの)であって、思考そのものこそが実体であると言えそうです。(我)とは、思考そのものによって作られた意識に他ならないということです。
ところが、ここに錯覚が生じます。(我)とは意識そのものであるという錯覚です。先に述べたように、意識が意識を意識した段階では、自己という仮構が形成されます。意識が身体との結びつきにおいて抱く一体感が自己という意識を生み出します。この自己という意識が(我)と重なり合うことによって、自己と身体との一体性を否定し、自己とは意識そのものであるとの錯覚を生じるのです。
もちろん一体性それ自体が仮構なのですから、身体との一体性を否定することに妥当性がないわけではありません。しかし、身体の代わりに別のものとの一体性を追い求めるのであれば、仮構であることに変わりはありません。しかも意識には、仮構である意識として客観が具わっています。身体を持たない意識です。自己はいつのまにか客観と重なり合い、しかも仮構であることを認めません。自己は身体を持たない実体であると主張され始めます。
しかし、アロンさん自身が強調するように、意識主体としての自己は自身を意識できません。意識された意識主体は“残像”に過ぎないことになります。なんともあやふやな話です。あやふやな自己をあやふやでなくするために、客観と重なり合っていた自己は、今度は主観に同一化しようとします。アロンさんの言い方で“自己同一化”というのがそれであろうと推察する次第です。
如何でしょうか。