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(回答先: 自己とは何か? 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 29 日 12:56:26)
>『意識は常に何かを意識しています。何も意識していない意識というものを考えることは出来ません。そこで、意識されているその何かを意識内容と呼び、意識しているということを意識作用と呼んでみます。意識はこうした二つの側面で構成されていると思われます。』
上記意味においての「意識」を細分化するとするのなら、意識主体・意識作用・意識内容というように三つの側面に分けて捉えたほうが良いと俺は考えます。それは自己というものを合わせて考察する上では、必要な捉え方だと思っています。ただこの意識主体は、天蓬元帥さんが『意識は意識作用を知りません』と言う様に、意識主体は、意識内容としてしか見出されることしかできない為、意識主体は、意識主体そのものを知ることはできません。
>『自己とは、先ず、自己という意識であろうと思います。』
人が自己を意識する前に最初に表れるのは客体(意識内容)だと思います。それは、その客体を自己だと意識するのではなく、ただ客体が表れるだけです。
その客体は、ある側面からの制限された情報であり、そして制限されたその視点(主体)を漠然と認識すると同時に、自己はその主体としての視点であると認識され、ようやくそこに自己(主体)と世界(客体)という分離が生じるのだと思います。ただ初期の頃は、自己は一切の客体と区別され、「これは自己ではない」という認識だと思います。それは例えば生まれたばかりの子供は、自身の手や足を自己とは別物として見るようなものです。
俺は、自己は客体と区別された主体であるとするのが最初の定義だと思っていますが、その主体を認識する為には、それが客体化されていなくてはなりません。例えば意識する者が自己ならば、決して自己は意識されることはなく、いつまで経っても自己を把握することはできません。しかし把握することはできなくても、間違いなく意識する者の存在(主体)はあります。なぜなら、それを意識する存在がいない限り、客体として何も存在することができないからだと考えており、そしてそれは世界を把握する為の成立要件だと思っているからです。
自己を意識するというのは、主体を客体の中に見出そうとする試みだと思います。それは自己として意識される以前に自己は主体としてそこに存在していただろうと推測してなされるものだと思います。例えば何かに没頭している時は自己という意識は無く、それを「無我夢中」と表現されるように自己があたかも無いような状態ですが、その後自己を意識することによって、実は無我ではなく、何かに没頭している我(自己)は存在していたのだと推測します。それは無我夢中の状態の以前にも、そしてその最中にも、その後にも、自己というものが主体として存在していたとするものです。つまり自己を意識する以前に、自己が主体としてそこにはあったと確信しているから、客体としてのそれが自己であると意識し、認識するのだと思います。ただその意識内容としての自己は自己の残像みたいなものであり、“今”の自己を正確に表現したものではありません。
この残像は、意識という作用を通して把握された自己ですが、この把握された客体としての自己と、純粋な意識主体であり意識されることがない自己とが、同じ領域で語られることに対して俺は違和感を感じます。なぜならそれは、意識作用というフィルターを通すことによって本質とは違う形で把握されたものだと思っているからです。そしてその意識された自己を、自己と区別する為に、俺は自我とか自己同一化と呼ぶこともあります。
さて、世界を体験する為の内的要素として思考、感覚、知覚、記憶、感情、観念、欲望などが上げられると思いますが、それぞれは「主体−作用−客体」の関係性を持っていると思います。例えば記憶するもの、記憶行為、記憶されるものといったように。
そして自己は主体としてそれらを使って世界を多角的に体験します。そして知識の一つとして、それぞれの内的要素というフィルターを通して把握、体験される客体の中でなんとか自己を見出そうと試みます。それは身体であったり、父親や息子や友人であったり、空腹であったり、優しい人であったりすることでしょう。そしてそれは時間と空間の中で絶え間なく変化し続けますが、それらは同時には把握されず、絶えず一つの側面が把握されるのみです。(もし同時にこれらが把握されたとすれば、より本質に迫った自己を見出すことになるのかもしれないとは思ってはいます。)
自己は身体であるというのは、感覚によってもたらされる一つの観念であり、これは感覚と記憶に依存したものです。もし障害などで感覚が無かったり、または感覚が取り除かれたならば、その観念の形成は成り立たないでしょう。もし身体を自己だとするのなら、自己はその時点で消滅することになるのかもしれませんが、もし感覚が無くても思考や意識などが生きているとすれば、その思考主体、意識主体として自己は成立していることでしょう。
俺は、自己は感覚の内にあるのではなく、感覚を超えているのが自己だという認識です。つまり自己は感覚の主体であって、客体として捉えられたものではないと思っており、そしてもし感覚によって表れた身体を自己だとするのなら、それは自己同一化された自己であり、自我であると思っています。
また、感覚も含めた上記内的要素の全てを自己の内と捉えて、その作用と、客体までもを自己として捉えるのなら、身体のみならず、把握される全ての事象、つまり世界の全てを自己として捉えることになるのだとも思っています。