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自己とは何か?
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投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 29 日 12:56:26: JlAsSjJwTHXA6
 

(回答先: 俺は、自己は思考ではないと思っています。 投稿者 アロン 日時 2006 年 10 月 24 日 23:49:26)

自己とは、先ず、自己という意識であろうと思います。そこで、自己という意識がどのように形成されるのかを考えてみます。話の順序として、意識について思うところから記します。

意識は常に何かを意識しています。何も意識していない意識というものを考えることは出来ません。そこで、意識されているその何かを意識内容と呼び、意識しているということを意識作用と呼んでみます。意識はこうした二つの側面で構成されていると思われます。

さて、意識がこうしたものだ思われるに至る過程を考えてみます。というのも、意識についてのこうした事柄が最初から気付かれているわけではないからです。意識は先ず、意識内容そのものとして生じるはずです。その限りにおいて、意識は意識作用を知りません。意識内容をそのまま存在として捉えるだけでしょう。眼前に多様な存在を発見し引き付けられ翻弄されるだけです。

やがて、そうした多様な存在の中から、ある特別な存在を発見します。自身の身体です。自身の身体は常に意識と共にあり、また、意識に対して感覚を提供します。もちろん、そうした分析的な認識があるのというのではなく、感覚を通じて身体との結びつきを知るということに過ぎません。意識と常にそして深く結びついた特別な存在として身体を発見するわけです。様々な多様な存在と区別されるある特別な唯一の存在。その唯一性は、意識自身との深い結びつきです。

身体の唯一性は、身体の提供する様々の感覚を身体に結びついたものとしてそれ以外の意識内容から区別することになります。つまり、身体によって、様々の意識内容が内部と外部に二分されるのです。身体という円の内側に生じる意識内容と外側に生じる意識内容が区分されるということです。もちろん、区分されると言っても完全に分離されるわけではありません。なぜなら、感覚は身体との結びつきを通じて外部と係わりを持っていますから、身体によって区分された内部と外部は、相互に係わりを持ちつづけることに変わりないからです。

区分されていながら相互に係わり合っているというあり方は、やがて、係わり合っているものの間に区分をもたらすことにもなります。意識内容は多様であり常に変化していますが、そうした様々の事柄の中に、ある区別が生じます。現前するものと想起するものの区別です。現前するものは外部から生じ、想起するものは内部から生じるからです。そして、その境界をなすものとして意識が意識されるのではないでしょうか。

身体が内部と外部を作り出したのに対し、現前と想起が意識を意識させると考えてみます。現前とは意識に対し外部からもたらされたもの、想起とは意識の内部から生じたもの、というわけです。さらに意識が意識されることで、現前をもたらす対象が意識の外部に想定され、想起をもたらす意識自身の作用が意識の内部に想定されます。こうして最初に述べた、意識内容と意識作用の区別が、想起において見出されることになります。

さて、それでは自己という意識はどのように形成されるのでしょう。

意識が意識されるには現前と想起が必要でした。現前と想起との区別を作り出したのは内部と外部の区別でありその出発点は身体の唯一性でした。つまりは、意識と身体の結びつきこそが根底にあるということです。意識が意識されるとき、当然その結びつきも意識されます。その結びつきにおいて、意識と身体とが一体であるとの意識が生じるのは不思議ではありません。この一体であるとの意識が自己と呼ばれるものだと思われます。

しかし、本当にそれは一体なのでしょうか。一体性の根拠は、先ほどから述べる結びつきです。結びついているものが必ず一体であるのなら、確かに自己は一体なのでしょう。だが、そんな保証があるのでしょうか。保証がなければ、代わりに保障が必要でしょう。保障たり得るのは、そもそもの根拠たる結びつきとしての感覚やそこから派生する快不快、さらには情動ということになります。こうしたものが自己の存在の保障として受け止められることになります。

感覚や快不快そして情動が自己に満足をもたらす限り自己の存在は安泰かも知れません。しかし、常にそうだとは限らないでしょう。満足が得られないとき自己は自身のうちに空虚や渇望を感じるでしょう。そうなれば空虚を埋める、渇望を満たす補償が次に必要となります。自己の外に、自己の補償を求めることとなります。意識と身体の、不確かとなった一体性を補償してくれるものを求めるのです。自己の意識と一体化し得る身体を自己の外に求めるとき親子や夫婦、家族や祖先が求められ、自己の身体と一体化し得る意識を求めるとき一族や民族、共同体や国家が求められます。

こう考えてくると、自己という意識は仮構に過ぎないことが明らかになります。仮構だからこそどのようにも変化し、自己の外部にまで拡大するのだと思われます。とは言え、この仮構には確かな根拠があることも忘れてはなりません。意識と身体とを結び付けている感覚です。この感覚が失われるときを死と呼ぶのでしょう。自己とは命ある仮構なのです。

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