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(回答先: 決して対象化されない主体(本質の主体)である自己(訂正) 投稿者 アロン 日時 2006 年 11 月 06 日 15:07:49)
アロンさん、こんにちは。
横レスにて失礼します。
天蓬元帥さんとの間で交わされる会話が、ノエシス[Noesis]・ノエマ[Noema]と云った媒介辞によって意識の本質的構造を分析記述したフッサール[E.Husserl]の現象学的考察(還元)にかなり近接していると感じていました。フッサールの『現象学』(Phenomenology. 1927)』は大学4年時に翻訳本を通読はしたものの文献研究用にしたこともありませんので、それを基にして論じることは憚られますが、是非とも対話の参考にしていただければと思っています。けれども、おそらく今回の認識論の要諦としては差延[différance](デリダ)という処に収斂していくような気がしているのですが、果たしてどうでしょうか。
自身の学生時代において、スコラ哲学的なものを等閑視した場合の哲学的探究の方向性としては、認識論的にはデカルトやカントをベースにして、社会学的な考察や世界観の構築を目指せばヘーゲルさらにマルクス、個別的な問題の探求に拘ればニーチェやハイデガーではなかったかと記憶しています。私もそうした典型的な道筋を辿った学部生だったのですが、それ以後はやはり己の身体性を介して検証していくことでしか己の認識の糧にすることはでき得ぬのではないかと想われたものです。
しかしながら、検証していくためのメルクマ−ルとしても、現状ではデカルトやヘーゲルやフッサール、あるいはハイデガーまでもが最早旧くなってしまっているのかも知れません。それでも、私自身の個人的な探究は今も尚細々と続いているのですが、こうした分野ではサルトル、メルロ・ポンティ、ベルクソン、ヴィトゲンシュタイン、デリダ、ジル・ドゥルーズと徘徊を繰り返しては相変わらず迷走しているような有り様です。
また、会いましょう。
<参考URL>
ノエシスとノエマ
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/mikitonishida/noesis.htm
フッサールの方法とその諸問題
http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html