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俺は、自己は思考ではないと思っています。
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投稿者 アロン 日時 2006 年 10 月 24 日 23:49:26: 8bD0zxkq8P3mA
 

(回答先: 主観と峻別される「我」 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 24 日 14:27:37)

俺が、先の投稿で「我思う故に我あり」の前に、「思考が真実の自己かどうかは別として」ということを前置きしました。これは何を言いたかったのかと言うと、俺は、俺という自己が思考を超えたもの、つまり思考ではないものではないかと思っていたからです。

自己つまり俺の主体が、思考なのかそうでないのかを考えるには、思考から離れた俺が存在するのかどうかを考えなければなりません。

そもそも人は思考というのを無くすことはできるのかを考えますと、その強弱はできても、厳密には思考を止めることはできないように思います。ただ精神障害の一つとして思考障害というものがあるようです。その中の一つに思考制止というものがあるそうです。それが本当に思考が完全に止まった状態なのかは、俺がそれを経験することができない為、なんとも言えませんが、仮に本当に思考が止まっているとすれば、止まった状態のその人は一体なんなのかということを考えます。
もちろんその状態の人にとっては、“俺”という自己想起ができるわけではないでしょうから、“俺”ではないのかもしれませんが、その状態でも存在している何かがあると思います。それは何か。

夜中に睡眠状態からふと目を覚ました時を厳密に調べると、何かを思考する前に、まずは「観る」という視点が起こり、そして直ぐに俺という自己想起と現状認識という思考が起きるのではないでしょうか。
「観る」というのは、身体器官の眼がある時は、眼という感覚に同化して世界を観るのかもしれませんが、眼を瞑っていたとしても無くならない「観る」という視点です。それは「意識の窓」という言い方もできるかもしれません。それは盲目の人でも開いている窓で、多分この世界に生まれて来るときも、この身体が死ぬ時も開いている窓だと思っております。そして多分、思考以前にもあり、もし思考が死ぬ時があるのであれば、その時にもそこにあるものだと思っています。
睡眠中に思考は夢を創り、夢の中で自己の肉体を創り自己を定義し、事物や現象としての対象を創り上げます。夢の中での自己は、幼少の頃の肉体になるかもしれませんし、または蝶にだってなるかもしれません。それらは思考が作り出したものです。しかし「観る」は、夢の中で創り上げられた自己に同化している時にも、また夢から覚めた時にも変わらずにあり続けます。
それを自己とすることは、思考を使うことで矛盾していることではありますが、間違いなく自己そのものであり、そして思考や記憶や感情や観念や感覚や身体や言葉などを自己同一化と見なしたとしたら、それらを削ぎ落とした時に残る、自己の最後の砦のようなものだと思っています。

俺が生きているこの世界は、思考が作り出したものかもしれません。そして感覚や記憶や言葉などでそれに色付けがなされているのかもしれません。それらは世界の中に二元性を生み出し、存在と非存在という枠組みを構築し、対象を作り出していきます。
知覚は、身体感覚の機能的能力をある一定に制限することによって、対象の様相を創り上げます。その感覚機能が変われば、対象に対する新たな認識を得られることでしょう。それは人間と動物や昆虫では、世界観が全く違うようなものです。人間は、この時間と空間に囲まれた四次元時空連続体と言われるものに知覚レベルを合わせて生まれて来ているだけなのかもしれません。また新たなる感覚機能が加わったり、既存の感覚器官の能力が増したりすれば、それ以上の高次元に対する知覚を獲得することができるのかもしれません。
ただ、それらはどこまで進化したとしても、客観にはなり得ず、主観の作用のレベルアップにより、より洗練された対象を知ることにしか過ぎないものなのでしょう。
もし限り無く客観に近いということであれば、「観る」である純粋主観のみから把握されたものだと思います。ただ、思考や感覚や概念などが、対象を創り上げる機能を持っているとすれば、それらが無い時、そこに対象があり得るのかどうかは疑問です。それはよく言われるような「無の境地」ということが起こるのかもしれません。しかしそれは純粋主観という有がある限り、無でもないです。もし純粋主観というものが死ぬ事があるとすれば、つまり無に消え失せるというようなことがあるとすれば、その時始めて、すべては無であり、すべては空であると言えるのかもしれません。


さて、天蓬元帥さんが後半部で触れていた言葉及び客観についての説明を読んで、言葉がフィクションであるということには、同意致しますが、「言葉を作り出す能力」や、言葉(虚構)を作り出す為の場所というものが、主観の作用から独立したものかは、俺としては疑問です。
また、俺の読解力にも問題があり、充分に文意を把握していないかもしれませんが、とりあえず思うところを書きます。

人が言葉(単語)を作り出す過程を、考えて見たいと思います。
まずは、知覚の基本単位である感覚に何らかの変化、つまり外的な事物や現象との接触が起こることから始まるのでしょう。そしてその感覚が、一つの記憶として蓄積されます。そして他にも色々な感覚体験が起こった時、それらの多種多様な感覚の中から、似たようなものが、関連付けられたり比較されたりしてひとつの記憶のグループとして構成されていくことだと思います。それが「表象」と言われるものではないでしょうか。そしてそれらがさらに集まり「概念」を形成し、そして「言葉」の発生に繋がるものだと思います。「概念」と「言葉」は同義で捉えており、一方(概念)は内的な側面を表現し、他方(言葉)は外的な様相を表現しているものだと思っております。また「観念」とはより幅広い、「概念」だと思っております。

さて、言語障害を持つ人がおります。失語症の患者の中には、他人が語りかけたことも理解できずに、また話すことも書くこともできない例もあるそうです。
これをより詳しく知ることは、「言葉を作り出す能力」というものが、人間にとっての普遍的な共通の能力ということではないということが解ることだと思います。
また、側頭葉の一部に損傷を受けた人は記憶の保持に支障をきたし、それが顔の識別能力が失われる相貌失認症という障害を生み出すことがあるそうです。一般的に、歳月を経て特徴が大きく変わっても、顔の特徴だけで、一目で人の見分けがつきますが、相貌失認症の人はそれが例え肉親の顔だとしても、その人の名前が言えないというものです。これは先に示した表象形成能力に支障をきたしているのではないかとも思われます。

つまり、言葉を生み出す能力というのは、それは記憶に依存した主観的な作用の産物であると俺は思うのです。

少し中途半端な論理展開の感がありますが、ここでひとまず区切ります。

また、ここで俺が説明している「言葉を生み出す能力」というものが、天蓬元帥さんの考えるそれとは少し違うようにも思われます。もう少し深く考えなくてはならないこともあるとは思いますが、思考能力が落ちており、とりあえず書いてしまったので、このまま出します。


私事ですが、最近、体調を崩しており、掲示板へのアクセス頻度も落ち気味です。

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