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思考の段階
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投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 23 日 14:59:11: JlAsSjJwTHXA6
 

(回答先: 「感覚と主観について」、「外部現象と事物は、主観の作用か客観の作用かについて」 投稿者 アロン 日時 2006 年 10 月 21 日 14:20:09)

“レスは遅くなっても構いません”“気長にやりましょう。”とのお言葉に安心しました。しかし議論の緊張感も必要ですので、遅過ぎないように気をつけます。では、アロンさんの文章から引用して始めます。


“思考が真実の自己かどうかは別として、「我思う故に我あり」と言われるように、「思考」は俺が知り得、そして俺自身の中にある、何の誤解も疑いもないものだと思っております。”

アロンさんの、“「思考」は俺が知り得、そして俺自身の中にある”との謂いには、「思考」と“俺”とが別個に考えられているように見受けられます。しかし、私はそうは考えません。「思考」すなわち「我」であると思っています。「我(思考が)思う(働いている)故に(だから)我(思考は)あり(在る)」です。思考という働きの背後に思考する主体が隠れているのではなく、思考の中に、思考の一部として、思考の産物たる主体が存在していると考えます。言い方を変えれば、「我」とは思考の自己意識ということでしょうか。


“そして俺が哲学的に議論することにおいても、俺という主観は思考を生み出し、そしてその思考を離れては、何も議論することすらできませんし、また、主観を超えた思考というものを把握することはできません。”

アロンさんの“俺という主観”が“思考を離れては、何も議論することすらでき”ないとすれば、“俺という主観”は思考の内に在るのであって、“思考を生み出し”たというより思考によって生み出されたという方が適切なのではないでしょうか。


“ですから、「主観=思考」として哲学的に考察することが精一杯で、「思考>主観」として哲学的に考察することは、どこか自分から離れた御伽話のようにただ聞こえるだけです。”

ここでの“自分”というのが誰のことなのか、いま一つよく分かりません。それが現実的身体的自己のことだとすれば、確かに「思考」は離れた御伽話となるかも知れません。しかし、“思考を生み出し”た“俺という主観”であれば、「思考」がどれほど拡大し“自分”から遠くなったとしても、“自分”は常に「思考」の中心に居るのではないでしょうか。要は、自らを思考の外に存在すると考えるか内に存在すると考えるかの違いではないでしょうか。


“ただ、夢や幻覚などを参考とすれば、御伽話とは言え、発想としてその世界観を把握することは可能だとは思います。ただしその場合においても、主観は思考を作り出していると思っています。例えば夢の中においての自己である主観が、思考を作り出しているように。ただ思考の段階(表面思考、深層思考とか集合思考?)が違うという見方もでき得るかもしれません。”

そのとき“自己”が夢の中にいるとすれば、その夢こそが思考そのものではないのでしょうか。夢という思考の中に登場する“自己”とは夢によって作り出されたものでしょう。そして、その“自己”がさらに思考しているとすれば、それをこそ主観と呼ぶべきではないでしょうか。仰るとおり“思考の段階”と考えて良いのでは。


さて、ここで私の上位のレスである「中間報告」の続きに移る必要があるようです。続きを述べることが、アロンさんの以下の見解へのレスにもなりそうです。


“もし錯覚や幻覚が主観の作用であるとするのなら、身体器官(身体作用)も主観の作用とも言える一面もあるのかもしれません。”

“感覚は、物事を認識する働きを担うものとして、主観の内に留めることが妥当なことのように思っています。”

“このように事物の本質に原因があるのか、それとも主観の作用によって事物が創造されているのかの議論は、いまだ明確な解答を得るには至ってはおりません。また、明確な解答を得る為には、やはり主観の作用、つまり感覚から独立して事象を把握する能力が必要になると思われます。そしてそれができない俺には、事物が主観の作用から独立しているのかどうかや、俺の中に客観能力があるのかは定かでないとしか言いようがないのです。”

これらの議論はもっともなものだと思われます。したがって、“感覚から独立して事象を把握する能力が必要になる”ということに同意いたします。ただし、人間にはその能力が備わっているし、現にその能力を発揮しているのだと付け加えなければなりません。

では、「中間報告」の末尾を再掲します。

では、身体を持たない意識がどうして身体感覚を捉えることができるのか。両者を結びつけるものがなければならないでしょう。それが思考ではないでしょうか。但し、この点は別な言い方も可能です。思考が両者を結びつけるのではなく、思考が客観を作り出すのだと。同じように思考は主観をも作り出すのだと。主観の作用として思考があるのではなく、思考の作用として主観があるということです。


ここで、身体を持たない意識(客観)が思考の外部に存在しているとする議論を取るとすれば、いわゆる形而上的な議論になるのかも知れません。それはそれでいいいいのですが、今は別の議論にしたいと思います。思考が客観や主観を作り出すと考えることです。

思考が客観を作り出し、その客観と身体感覚とを結び付けることで主観の作用を排除した認識、すなわち外部への認識が可能になると考えるのです。しかし、すでにアロンさんが指摘なさったように、身体感覚は主観の作用と切り離し得ず、それどころか身体そのものの存在さえ主観の作用の内にあるとすれば、依然として、外部への認識は不可能ではないかとの議論があり得ます。

いや、そもそも、身体を持たない意識を思考が作り出すということ自体、意味不明のでまかせではないかとの疑念がありそうです。それに対する答えは、でまかせではなくフィクションだというものです。アロンさんに倣って辞書でフィクションという言葉を引いてみましょう。
【フィクション】:「@作り事。虚構。仮構。A事実の記録ではなく、想像力により架空の人物や事件を描いた物語。創作。小説。」

ところで、言葉はフィクションではないでしょうか。先にアロンさんは、言葉は“事物の代数”と仰いました。この表現を借りるなら、言葉は事物の方程式ではないかと思います。構造を持つ代数という意味で方程式です。もちろん方程式をフィクションとはふつう言いません。なぜなら、方程式は厳密な数学的規則に則っており、また、物質現象に基づいた検証が不可欠だからです。しかし言葉においても、数学的規則の代わりに論理が、物質現象の代わりに実用が求められます。ただ、大いに融通の利く論理であり実用ではありますが。

言葉は事物の方程式という喩えをお許しいただくとして、方程式に具体的な数値を当てはめて解を導く作業とは別に、方程式そのものを考案する作業があるという点に注目していただきたいのです。もちろん考案された方程式は実数解を得ることによって初めて実用的なものとなりますが、実用的でない方程式が不要ということにはならないでしょう。方程式を考案することは仮構を作り出す作業と似通っているのではないでしょうか。外部の事物を読み解く為の仮構です。

以上のような意味において、言葉はフィクションであると言えないでしょうか。そして、言葉を使う能力が言葉を作り出す能力に帰着するとすれば、事実ではない虚構を作り出すための場所を現実の外にしつらえる必要があると思われます。そうした場所として客観が作り出されたと考えてはどうでしょう。もちろん虚構と言えども無から生じることはないでしょう。虚構を構成する素材が必要です。その素材は直観や主観から提供されるのかも知れません。そうだとしても、提供された素材に加工を施し脈絡をつけ意味をなす方程式に仕上げることは客観の独壇場だと思います。

こうして客観によって作り出された完成品が概念ということだとすれば、日常的に主観が使用する観念は、こうした概念の要素として客観によって用意されたものを借用しているのだと考えられます。感覚や身体という言葉、観念もそうですし、主観・客観もそうです。そうした地点から、議論は主観や感覚、身体に及ぶべきところですが、ここで一旦区切りと致します。悪しからず。

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