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「感覚と主観について」、「外部現象と事物は、主観の作用か客観の作用かについて」
http://www.asyura2.com/0601/dispute24/msg/623.html
投稿者 アロン 日時 2006 年 10 月 21 日 14:20:09: 8bD0zxkq8P3mA
 

(回答先: 相違点 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 20 日 12:14:11)

天蓬元帥さん、こんにちは。レスは遅くなっても構いません。俺も適度に忙しい身なので、気長にやりましょう。

まずは、ここで論点の一つとなっている「知覚」を辞書から拾います。
【知覚】:「感覚器官を通じて、外界の事物を見分け、とらえる動き。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚など。」

>『そうだとしても知覚の前提として身体の作用が必要であることに変わりはありません。仮に身体の作用を欠いた知覚があるとしても、それは錯覚とか幻覚と言われるものでしょう。』

ここで言う「身体の作用」というのは、感覚を除いた身体器官そのものか、若しくは身体器官を伴う感覚かのどちらかであると推測されます。そして『感覚とは身体の作用であるとされているように理解しています』という一文から、後者のことを指すのだと認識しました。
また、錯覚や幻覚というものも、感覚を伴います。例えば幻肢あるいは四肢錯覚現象と呼ばれるような事があるように、身体器官が存在しなくても、まるで身体器官があるかのように、何かしらの感覚(触覚)を得ることができることもあります。
天蓬元帥さんは、『錯覚や幻覚を主観の作用とすることに異論はありません』としておりますが、そこで、その錯覚や幻覚と、現実(錯覚や幻覚でない)とを区別しているものは何かを考えると、それは身体器官の有る無しということだと思いました。ただ、この有る無しを区別しているのは何かということを考えると、それは身体器官を目視する視覚などの他の感覚との関係性を判断基準としているのではないでしょうか。また、それらが夢や幻覚の中の出来事なら、夢や幻覚から覚めた後の感覚を得られなければ、それらを現実のこととして認識し続けることでしょう。
つまり身体器官というものは、その感覚に支えられて、言い換えるなら感覚の作用でその存否を把握することができているとは言えないでしょうか。
そして、錯覚や幻覚というのは、ただ単に何かしらの感覚の不調和であり、それはひとつの感覚の作用だとも言えるでしょう。つまり、もし錯覚や幻覚が主観の作用であるとするのなら、身体器官(身体作用)も主観の作用とも言える一面もあるのかもしれません。

さて、ここで「主観」及び「主観の作用」を定義しておく必要があると感じました。辞書を拾うなら、
【主観】:「物事を認識する働き(をになうもの)。外界に対する自我(が持つ意識内容)。俗に自分一個の意見。」
【作用】:「力を他に及ぼして影響を与えること。またその、力の働き」
そして、その主観を意味する「物事を認識する働き(をになうもの)」における、「認識」とは、
【認識】:物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうに物事を知る、心の動き。またその知った事柄」
「認識する」とは、物事をはっきりと見分け(知覚)、判断すること(記憶・理解・思考)であるということが読み取れます。つまり、「主観」とは、大雑把には、知覚と記憶と理解と思考というものではないでしょうか。
さて感覚はどうかと言うと、それは事物に対する内的な部分の最初の変化であり、独自性を持った知覚の基本単位であると思われ、また感情や観念などと共に、物事を認識する要因であり、それらを「主観」として扱うことができるのではないかと思われます。
そして「主観の作用」とは、それら主観の力の働きであり、そして客観を意味する「主観の作用とは別に、独立して存する」とは、それらに依存していないことであり、それらに原因がないことであると思います。

ただ、感覚というのは、天蓬元帥さんが後半部で、

>『知覚を構成する意識作用を排除し身体感覚そのものを取り出すことです。とは言え、意識作用無くして認識はあり得ませんから主観とは異なる意識作用が必要です。それが客観ではないでしょうか。』

としているように、感覚における主観か否かの見解は、ここでの論点の一つになっており、慎重に吟味していく必要があるでしょう。

天蓬元帥さんが『錯覚や幻覚を主観の作用とすることに異論はありません』としているように、感覚にも主観の作用のものと、客観の作用のものとに分けられるということです。
例えば、恐怖の記憶などにより手に汗が染み出てくるような感覚は、主観の作用で、現実の外的現象や事物などによる反応は、客観の作用として認識していることであろうと思われます。ただそうなると、感覚を取りまとめる知覚そのものも、主観の作用と、客観の作用とに分けられることになるかもしれませんし、記憶や思考なども主観の作用と客観の作用とに分けられるような気もしないでもないです。むしろ客観とは何かということよりも主観とは何かという位置付けの方が曖昧な事のようになるのではないでしょうか。
それに、機能障害により感覚というものを持ち合わせていない人も存在します。そうなるとその人は、身体感覚そのものを取り出すことができない為、天蓬元帥さんの「客観」の定義からすれば、客観能力が無いという判断を下さざるを得ません。しかしそれは『人間の意識は主観と客観という二重構造を持っている』という天蓬元帥さんの論そのものを否定することになるのではないでしょうか。もし全ての人間に客観能力なるものが備わっているとしたら、それは身体感覚無くして事物を把握する能力ということにはならないでしょうか。それに事物そのものは、感覚に依存する必然性もないでしょう。
俺は、上記の主観の意味することと、そして先の投稿で書いた客観の意味することを考えるのなら、感覚は、物事を認識する働きを担うものとして、主観の内に留めることが妥当なことのように思っています。

さてここで、その感覚の原因でもある外的現象や事物(文字も含む)が、「主観の作用」から独立して存することができているのかということが論点となると思います。つまり原因の所在が「主観の作用」にあるのか、それとも外的現象や事物それ自身に原因があるのかということを把握することで、その客観能力の是非が把握できることだと思います。
ただこれは、昔からの哲学的探求における主な主題であるように、それは完璧なる答えというものは出ていないようにも思います。
外的現象や事物は、主観の作用から独立してはいないという世界観は、知覚したものだけが真に存在するというバークリーの独我論(独断的観念論)が知られるところかもしれません。(他にはウィトゲンシュタインなど)。
また、その対極に位置する、つまり外的現象や事物が主観の作用から独立して存するという世界観は、科学などの実証主義哲学の見解となるのでしょう。しかしその科学でさえも、感覚器官の直接経験においては、外的現象や事物は主観の作り出したものであるということを認めております。しかし精巧な器具を用いて行われる科学的な行為によっては、外的現象や事物の本質というもの、つまり原因の所在となるものを検知することができるだろうという立場にたっております。
ただ現在のところ、どこまで深く掘り下げても、原因の所在である事物の本質は見つからず、それは仮説の域を出るものではありません。むしろ量子の世界に足を踏み入れるのなら、観察者効果のように、外的現象や事物の本質が主観の作用から独立していると言い難い見解が得られているのは確かです。

ただ科学は、外的現象や事物の目に見える側面を把握することしかできず、それが真に事物の本質へと向かうものなのかは甚だ疑問です。例えば、人に感動を与える有名な絵画を調べる時、その画紙の材質や、絵具の種類を調べるようなものです。ただ科学は依然として本質は「目に見える」領域にあるとして、そしてそれでもって「目に見えない」領域を説明しようとして奮闘しております。ただ「目に見える」領域というのも、未知の領域であることには変わりなく、未知で未知を証明しようとする矛盾したことに終始しなくてはいけないのが現状だと思います。

このように事物の本質に原因があるのか、それとも主観の作用によって事物が創造されているのかの議論は、いまだ明確な解答を得るには至ってはおりません。また、明確な解答を得る為には、やはり主観の作用、つまり感覚から独立して事象を把握する能力が必要になると思われます。そしてそれができない俺には、事物が主観の作用から独立しているのかどうかや、俺の中に客観能力があるのかは定かでないとしか言いようがないのです。

>『思考が客観を作り出すのだと。同じように思考は主観をも作り出すのだと。主観の作用として思考があるのではなく、思考の作用として主観があるということです。』
>『アロンさんは主観=思考、あるいは、主観>思考と考えていらっしゃいます。私は思考>主観です。この点の吟味こそ肝要ではないでしょうか。』

思考が真実の自己かどうかは別として、「我思う故に我あり」と言われるように、「思考」は俺が知り得、そして俺自身の中にある、何の誤解も疑いもないものだと思っております。そして俺が哲学的に議論することにおいても、俺という主観は思考を生み出し、そしてその思考を離れては、何も議論することすらできませんし、また、主観を超えた思考というものを把握することはできません。ですから、「主観=思考」として哲学的に考察することが精一杯で、「思考>主観」として哲学的に考察することは、どこか自分から離れた御伽話のようにただ聞こえるだけです。
ただ、夢や幻覚などを参考とすれば、御伽話とは言え、発想としてその世界観を把握することは可能だとは思います。ただしその場合においても、主観は思考を作り出していると思っています。例えば夢の中においての自己である主観が、思考を作り出しているように。ただ思考の段階(表面思考、深層思考とか集合思考?)が違うという見方もでき得るかもしれません。


以上が、俺の意見ですが、論点から外れずに的を得たものであるといいのですが、うまく説明しきれていない点も多々あると思いますので、その際はご指摘下さい。

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