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(回答先: 現在の宗教の問題とされることが浮き彫りになっているのかもしれないとも感じました。 投稿者 アロン 日時 2006 年 10 月 17 日 01:18:01)
共同主観が成り立つから、その対象(言葉)が客観であるかどうかということについて、それは客観を把握する能力では無いと言う趣旨で書き込んでおりましたが、正確には、これは客観能力であるともないとも言えないと俺は思っております。つまりそれは、主観の作用を使っては、計り知り得ないことだという意味です。
思考は現実化するということがよく言われるように、また量子物理学の観察者効果というものも多少なりとも参考にするのなら、その言葉が言い表す事物もまた主観(無意識的思考や潜在的思考も含んだ思考)が作り出したものかもしれないという可能性を消去することは妥当かどうかと考えます。
さらにその事物が主観(思考)の作り出したものであるなら、それを認識しようとしている他の存在も、主観(思考)が作り出したものかもしれないし、そして、そうなるとその他の存在が共同主観という形式で認識しているという行為すらも主観(思考)が作り出したものではないかということです。
つまり言うなれば、客観という対象物は何も無い(無いということも無い)という世界観も可能性として棄て切れないではないかということです。
ただそうなると、それを把握する主体があるのに、把握対象である客観である対象が無いというどこかおかしな世界観となるのかもしれませんが、世界全てが幻想のような夢だとしたら、そういうこともあり得るのかなと、一つの可能性ある世界観としてただ想像するだけです。(それは天蓬元帥さんが舞台という例で持ち出した主観と客観の関係にも似ていないことはありません。)
もちろん、主観の作用から独立して事物を把握できた場合に、客観というものが存在している可能性もあり、その場合は共同主観というものも、客観能力の一つだとも言えるとは思いますが、ただその場合は、天蓬元帥さんが前に触れていた『「主観」と「客観」とを統合する主体の再発見』ということには、矛盾することになるのではないかと俺は思ってもいます。
なぜなら、主観と客観が統合するには、主観と客観を隔てるものが何も無い状態にならなければならないと思っています。
むしろ、上記で書いた、全ては主観(思考)が作り出したという世界観の方が、より主観と客観が統合している感があるように思われます。
ただ、主観の作用に依存して物事を把握し考えざるを得ない俺としては、これらの世界観の是非を判断することは矛盾したことのように思っております。
ですからただ言えることは、主観の作用から独立して事物を“把握”し得ない限り、共同主観が成り立つことが客観能力とも言えないと思いますし、人には主観と客観の二重構造が存在しているとも言えないということです。