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(回答先: 主観、客観、そして信仰――アロン氏の投稿「信仰的要素」に応えて。 投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 16 日 12:53:51)
主観と客観について。
天蓬元帥さんの論理における例え話として持ち出した舞台における芝居の例において、天蓬元帥さんは「主と客のやり取りを客席から見ている観客の目をこそ客観というべきであろう」としております。もちろんそれは一つの客観という目になり得るのでしょう。しかしその舞台で演じている主人公の側に視点を移した時、主人公の視点からすれば、その相手役の目と、その2人を見る通行人の目と、いるのかいないのかも把握できないようなその舞台を観る観客の目と、一体何が違うのでしょうか。もしその舞台を観る目を客観と名付けるのなら、その相手役の目も、通行人の目も客観になり得ると思います。
しかし、その舞台を観る目だけを客観として捉える事は、どこか遠くの人智を越えた世界に神のような視点が存在し、客観の目として観察しているようなもので、そして役者に感情移入するように主観を楽しんでいるというような事になるのだと思います。(これは、現在の宗教の問題とされることへと通ずるものではないでしょうか。)
さて、次に舞台を観ているという観客の側に視点を移した時、主人公に感情移入することが主観であって、その劇を観ることが客観であるということは成り立つのでしょうか。それはただ観るという視点が変わっただけであって、どちらも主観であるという認識にはならないでしょうか。正確に言い表すならそれは視点が変わったというよりも、主観が映し出す対象が変わっただけとは言えないでしょうか。
天蓬元帥さんは「人間の意識は主観と客観という二重構造を持っていると考えられる」としておりますが、その根拠として持ち出した例からは、主観から独立したものは得られなかったです。
辞書にはこう書いてあります。
【客観】:「主観の認識、または主体の行動の対象となるもの。また、主観または主体の作用とは別に、独立して存するもの。」
【客観的】:「主観または主体を離れて、独立の存在であるさま。誰が見てももっともだと思われるような立場で物事を考えるさま」
ここに書かれた「主観の作用とは独立して存するもの」の意味することを考えた時、はたして認識される対象が、主観の作用から独立して存しているのだろうかということが問題になると思います。
対象を“知る”とか“認識する”とか“感じる”といった時、それらは主観の作用の内でしかなく、そうして把握された対象は、主観の作用から独立しているとは言い難いです。
しかしそれ以外の“把握”の仕方を我々は持ち合わせているのでしょうか。
主観の作用の内でしかない思考(認識)を使っては、客観を把握しているとは言えず、ただできることは「これは客観ではない」と否定していくことで、客観に近づいていくしかないものと思われます。
ただ、それでは全てを否定していくだけであり、いつまで経っても客観に辿り着くことはできません。
そこで一般的に、妥協的・打算的に採用されたのが、自分の主観の外部にいる存在の主観を、言葉などの意志伝達手段を利用して認識するということではないでしょうか。ただそれは、その意志伝達されたものを認識すること自体が、主観の作用から独立することはできず、完璧ではないものの、最も客観に近いということで、そちらを俗語においては客観という意味として用いられているのだと思います。
ただ、真実(真理)に近づくという事における絶対基準という意味で客観を知ろうとするならば、少なくとも自分の主観の作用とは独立した外部の存在の主観から把握されるものを、“全て”知り得なくてはならないと思っております。
また人間の主観から把握されたものだけが、真理とも言えないとは思っております。人間以上の知覚能力のある生命体が存在すれば、その主観を知ることで、より真理に近づき、客観に近づくのだと思います。これは、上位宇宙人とかいうことではなくて、動物や植物においても人間以上、若しくは人間とは違った知覚能力を持った存在が数多くいることだと思います。ただこれらの主観を何かしらの伝達手段において知り得る術を、我々平均的な人間は持ち合わせてはおりません。だから言葉により知り得る主観の情報のみを打算的に採用し、真実の近似値としているのが現状なのでしょう。
また言葉は、主観の作用の産物だと思っております。言葉は事物の代数のようなもので、知覚と同じ様に、主観の外部を把握する為の主観の作用だと思っております。
言葉を通して主観の外部との意思疎通ができるというのは、ただ哲学用語で言うところの共同主観が成り立っているに過ぎず、その共同主観を成り立たせることができる主観の作用の部分的な共通性だと思っております。
例えば、言葉を聞いたり書いたり見たり理解したりすることができない肉体的機能障害の人は、言葉を介しては意思の疎通はでき得ません。
例えばりんごがあった時に、肉体感覚もなく、触れることも観ることも臭うこともできないとしたら、どうしてそれがりんごであるという概念を共有できるでしょうか。
また、怒ったり笑ったりして感情において外部との何かしらの意思疎通ができ得るかもしれませんが、それも主観の作用の内でしょう。それは、正確に外部に意思疎通ができることでも、確実に全ての存在に対して意思疎通できることではありません。
俺は、言葉や記憶や思考や感覚や感情等々の主観の作用無くして対象を“把握する”時のみ、客観能力があると思っており、言葉を使う能力とか、共同主観ができる能力というものは、客観に近づくことはできても、客観ではないと思っています。
それは、例えば睡眠のようなもので、それは死ではないですが、生の中にある死に似たものといった感じです。
さて、客観というものは、人間存在に宿る自己というものには備わっていないのでしょうか。つまり自己が主観の作用から独立して、物事を“把握する”ことは、できないのでしょうか。
ただ、これについては知り得ないとしか書きようが無いです。“知り得る”としていること自体が主観の作用であり矛盾するものだと思っており、それは形而上的な世界観だと思っております。
だから、それをあたかも人間存在には主観と客観の二重構造が存在するとする論には、俺は信仰的なものを感じざるを得ません。(ただ俺は信仰を否定しているわけではありません)。
ただ、これは自己には主観と客観の二重構造が存在してはいないと言っているわけではありません。俺、個人的には、自己は主観の作用から独立して在るのではないかなと思っています。
そして、もしも主観の作用から独立して、物事を“認識する”ことが仮にできたのであれば、そこには客観しか存在し得ないことになり、主観は一つの小さな小さな点のようなものになると思います。つまりその点からするならば、自分の人間存在を形成する主観の作用そのものも、客観と呼べることになるのかもしれません。そうなると人間存在においては主観と客観が同所に備わっているとも言えないこともないでしょう。
「信仰」についてですが、信仰とは、思考放棄の道だと思っています。ただ、大方の場合は、それは部分的に依存した思考怠慢(放棄)する為の都合の良い逃げ場として用いられるだけだと思います。
ただ、もし主観の作用から独立した自己が在るとしたのなら、非常に稀なケースだとは思いますが、完全なる思考放棄が成された時、客観への道が開かれることもあるかもしれないとは予測はします。つまり、自我(主観)を形成する思考を全面的に放棄することで、自己が主観の作用から離れることが起きることがあるのかもしれないとは・・・。
ただ、よく考えるなら、完全なる思考放棄をしようとする思考をも放棄されなくてはならず、それが起こり得るかどうかは矛盾も残ります。