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この種の話題に興味を持たれない方も多いであろう。私にとっても、歴史記述を歪めたコメントを目にするするのは、それなりに苦痛である。ご反論やご質問がなければ、近代史の話題は、これを最後にしたい。
ここでは、天皇の政治決断として宣伝される裕仁の「聖断」を分析し、これを特別視することによって、「降伏の決断が可能なら、開戦回避の決断も可能であったはず」とする裕仁責任論への防波堤とする論者に反論しておく。
●「聖断」の特別視はあたらない
かつて、Ddog氏は、1945年8月のいわゆる「終戦の聖断」について、「これが決定的となって。ポツダム宣言の受諾となった」とされていた(引用は省略)。この時期に、裕仁が降伏を決意していたらしいことは、確実である。そして、これが現実の政治過程に大きな影響を与えたことも間違いない。しかし、「二二六事件」と「聖断」のみを特別視し、裕仁が主体的に政治決定を行った例外的な事例とするなら、これは事実に反する。
この種の議論は、何が「特別」で、何が「例外」か、明確にしておかなければ無用の混乱を招く。私は、「天皇は輔弼者の正式上奏を拒絶しない(原則1)」が、「正式上奏の前に内奏が行われ、天皇の意思に反しない政治システム(原則2)」とした(「ちょっと反論(上奏と天皇の責任)」http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/326.html)。「聖断」がこれに反する例外か否かを検証したい。
結論から申し上げると、「聖断」も、少なくとも天皇の関与という点では、昭和期の政治過程として異例のものではない。天皇の意思にそって実質的決定が行われた後(原則2)、輔弼者の上奏を形式的に裁可している(原則1)。
事実の推移を時系列で示そう。いずれも1945年8月の事件である。
8月9日 「御前会議(1)」で紛糾したが、裕仁の発言を受けて、「国体護持」を条件とするポツダム宣言受諾を決める。
8月10日 外務省がポツダム宣言受諾文を在外公館を通じて連合国に交付。
8月12日 ポツダム宣言受諾文に対する連合国の回答(いわゆるバーンズ回答)が得られる。
8月14日 上記の回答に接して賛否両論があったが、「御前会議(2)」で裕仁がポツダム宣言受諾の意思を発言する。
最初に確認しなければならないのは、「御前会議」の性格である。天皇が出席する会議がすべて御前会議ではない。たとえば、天皇が皇族会議や元帥府会議などに出席する例もあるが、これは会議出席者に勅語を語っただけとされ(帝国議会の開院式や国会の開会式と同様)、その会議が御前会議と呼ばれることはない。その理由は、これらの会議は官制によってその構成が定められているので、それに属しない天皇は、会議参加者ではなく、「お客さん」とされたのであろう。
現代史の説明では、御前会議の大半は、天皇が出席した「最高戦争指導会議」であるとされる。これらの御前会議もそのように説明されることが多い。「最高戦争指導会議」は、内閣と大本営(統帥部)の意見交換を目的とし、これらの対外責任者(首相、外相、参謀総長、軍令部総長)が出席し、その結論は内閣と大本営の双方に決定的な影響を与えた。しかし、官制に基づいて職掌を定められた機関ではなく、形式的には何の権限もない。ここでの結論は、内閣と大本営が持ち帰り、それぞれ閣議決定や統帥部による上奏などとして実現される。御前会議は、輔弼者が天皇に対して正式に上奏すべき場所ではない(正式上奏は閣議決定などを経る)。
御前会議では、天皇はほとんど発言しないことが多いが、これは天皇まで根回しが行われていることを示す。たとえば、対米英開戦の御前会議(1941年12月1日)では、裕仁の発言は伝えられないが、その直前までに裕仁が出席する内閣・重臣の懇談会(11月29日)が行われ、内閣の開戦決意を了承している。一方、根回しが不十分な例では、1941年9月6日の御前会議のように、裕仁が「明治天皇の歌」を朗読して開戦に躊躇を示し、開戦派に困惑を与えた。別稿を参照されたい(「再びリアルな歴史認識と裕仁の戦争責任」http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/615.html)。
最高戦争指導会議は、意見交換を目的とする機関に過ぎず、多数決で議決すべきものでもないので、たとえば、1945年8月9日の御前会議(1)について(上記4名のほか陸軍大臣と海軍大臣が出席)、「賛否が三対三となり天皇が決した」は不当な説明である。正確には、「天皇の内意をうけて会議の結論が定まった」であろう。実際にも、裕仁は命令口調で特定の結論を命じたわけではなく、彼の意見を述べ、それを出席者が了承しただけである。
1945年8月14日の御前会議(2)は、実は最高戦争指導会議の体裁もない。内大臣の内奏に基づいて、天皇の側から招集し、出席を求められたのは、内閣のほぼ全員と大本営(参謀総長、軍令部総長)である。形式は「集団内奏」に近い(天皇の側から内奏を命じ、その際に「御下問」と「御内意」を行うことはまれではない)。これを最高戦争指導会議とするのは、おそらく戦後の説明である。
いずれにしても、これらの「御前会議」は、正式上奏に先立って、天皇の意思を確認するものに過ぎず、原則2を忠実に守っている。
最後に原則1を確認しておこう。これらの過程で作られた公文書は、多岐にわたる。たとえば、有名な「終戦の詔書」である。ほかに、ポツダム宣言の名義人であるアメリカ以下の4カ国向けの正式受諾文(英文)や軍への停戦と降伏の命令もある。
ポツダム宣言受諾文は、閣議決定に基づく外務大臣文書なので天皇の関与はないが、「終戦の詔書」は、裕仁の署名と捺印のほか、国務各大臣の副署(捺印なし)という形式による詔勅である。公式令(公文書の形式を定める勅令)を参照すれば、内閣の閣議決定(全員一致が原則)に基づく正式上奏による(公式令では、ほかに、宮内大臣の上奏に基づく詔勅もあるが、この場合は宮内大臣が副署する)。実際には、起草された草案に対し閣議で討議と文言の修正が行われ、最終的には全会一致で議決された後、内閣総理大臣が上奏している。
軍への命令は、大陸命または大海令として、それぞれ参謀総長と軍令部総長の上奏に基づいて発令されている。「奉勅命令」=「天皇の口頭の命令を受けて参謀総長または軍令部総長が発する命令」の形式なので、天皇の署名はないが天皇の裁可を経る。参謀総長ないし軍令部総長は、個人的な意に反したかもしれないが、命令を起案して裕仁の裁可を求めている。
いずれも、法令に定める正式の「輔弼者」の上奏と天皇による裁可の形式は守られている。もちろん、天皇は正式の上奏を拒絶していない。原則1に忠実にしたがったものである。
以上で検証したように、「聖断」は、当時の政治過程として、必ずしも特異ではなく、昭和期の政治システムを忠実に運用したものである。「聖断」(と「二二六事件」)のみを特別視して、裕仁の政治的関与をこの場合に限るとするのは、戦後に形成された裕仁神話のトリックである。
● 本当の「異例」
実は、ポツダム宣言受諾の本当の「異例」は、裕仁擁護論者が主張するような裕仁の政治関与ではなく(これは異例でなく常例である)、その決断の実質的内容である。
ポツダム宣言は、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ..」との表現で天皇主権を否定する可能性のある文言も含む。旧憲法の「立憲主義」に忠実なら、このような文言を含むポツダム宣言を「受諾」する権限は、天皇にもない。形式的に考えるだけでも、このような「受諾」によって憲法を実質的に改定できるのであれば、憲法改正に関する(旧)憲法の条項が無意味となろう。
このような発想を示す当時の言葉は、「国体護持」である。これが裕仁を含む当時の政治家を呪縛した。最後までこのドグマを捨てず、「終戦の詔勅」も「国体ヲ護持シ得テ」との文言を含む。勝算もない無益な戦争による破壊的な損失をいとわず「決戦」を呼号させたのは、旧憲法に対する誠実さである。(念のために付言するが、私はこの誠実さを賞賛しているのではなく、国体護持というドグマを人命に優先させた責任を追及している。)
そして、現実には国体(国家の基本構造)は変革され、天皇主権は除去された。
● すみちゃん氏「Re:日本教と天皇について」へのレスを兼ねて
戦後保守の主流は、新憲法による国体の変革を受容しつつ、これを過小評価し、戦前との連続性を強調する道を選んだ(新憲法を占領下の押し付けで無効とする論などは、主流とならなかった)。
現実には、「天皇」は、(旧憲法下と同名であるが)まったく異質の機関となったにもかかわらず、「昭和」の元号を使い続け、旧憲法下からの在位年数を通算した「御在位何周年」などの国家行事も行われた。皇室祭祀である神嘗祭と新嘗祭の日は、それぞれ、「体育の日」と「勤労感謝の日」に名前だけ変えられた。言うまでもないが、仮に変革を強調するなら、裕仁の「新天皇」への就任式典でも挙行すべきであっただろう。
近年流行している天皇の「象徴性」を主張する論は、新憲法の規範あるいは運用の研究から出発したものではない。「古来から象徴であった」という歴史のフィクションに依拠し、その連続性の強調に一役を買う論である。もちろん、歴史的には、天皇が政治の実権を有しなかった期間は長い。しかし、これを「象徴」という新憲法の条文と同じ用語で説明するのは、明らかに政治的な意図を含む。そして、天皇家と「日本の伝統」をオーバーラップさせるすみちゃん氏の論(引用省略)などの思想的背景となっている。