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(回答先: 誰に対してどのような内容で負うのか 投稿者 たこ 日時 2003 年 7 月 05 日 13:05:20)
たこ氏のおっしゃられる「より大きな問題は、戦争などに至る意思決定のプロセス、これを可能にした政治システムを分析することによって、同種の誤った選択を繰り返さないこと」という点は、全くの同意見です。
また、「日本国民全員が負う」と述べた点は、言葉足らずな記述で、ケビン氏にも誤解を生じさせてしまいました。深く反省したいです。
私の認識は、理想の立憲民主主義の維持・保全は国民の意識の有り様にかかっているということです。戦前の体制下で、一般国民がなす術を持たなかったのは自明です。主権は天皇にあり、人権保障も不十分でした。しかし、デモクラシーは与えられるものではなく獲得するものであるという古典的な考えを前提とすれば、大正デモクラシーを一時の幻想に終わらせ、議会を機能不全に陥れた結果は、獲得に失敗したのです。それを「責任を負う」という形で表現することの是非はともかく、そこからスタートしなければ、この国にまともなデモクラシーは根付かないという思いです。当然その責任は今の世代、さらに後の世代に引き継がれてゆくものでしょう。
他方、私は「天皇捺印機論」も、ましてや「自衛戦争」で「やむを得なかった」とする「裕仁平和主義者論」も支持しません。
少し雑談になりますが、学生時代に政治学のなかにあった、日本人の精神構造についての講義をよく思い出すのです。「わだつみの声」を読めば、特攻隊で死んで行った人達は、「大東亜共栄圏」の有意性など信じてはおらず、神権的国体観念にも疑問を持っていた。日本は戦争に負けて新しく出直すべきだという思いさえ持っていた。「お国のため」「天皇陛下のため」に死ぬなどとは、本心から思っていなかった。死を覚悟で出撃するのは、先に逝った仲間に対しての連帯意識からであるという内容でした。
また、特攻隊より少し古い世代で、中国戦線に徴兵された人の話を聞いたことがあります。「国のためになどアホらしくて死ねない」という雰囲気だったそうです。その人の兄弟はフィリピンのジャングルの中で亡くなられたそうです。そして、誰を恨むかという問いに対しては、天皇ではなく、現場を知らず卓上で作戦立案していた「職業軍人ども」という答えでした。この人達が焼野原の日本に帰還したとき、天皇の存在は何らかの精神的支えになったことも、少なからず事実です。
だからといって天皇を免責すべしという意味ではないですし、天皇制のあり方を問い続けることは必要ですが、昭和天皇の責任ということに対しては、「統治者」から「象徴」へと封印されたことも、一つの責任を負った結果だと思います。