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(回答先: Re: 誰に対してどのような内容で負うのか 投稿者 通りすがりの一言 日時 2003 年 7 月 06 日 02:43:02)
戦争責任を「デモクラシー(の不全の問題)」に解消し、「後の世代に引き継がれてゆく」とする通りすがりの一言氏の論は、「天皇の責任に触れたくない」という願望に基づくと申し上げると誤解でしょうか。戦争責任は、民族あるいは国家が負い、これを世代間で相続するなどという主張とも関連しますから、この部分のコメントは別の機会とし、「少し雑談」以下だけコメントします。
「特攻隊で死んで行った人達」の話題ですが、「死を覚悟で出撃するのは、先に逝った仲間に対しての連帯意識」とされています。私は、このような「連帯意識」を増幅し、これを利用しようとする論には、厳しく対処すべきと考えております。たとえば、日本の現状をアノミー(連帯意識の欠如も含む)と規定して(これにはあえて反論しません)、その処方箋として教育勅語の復活を主張する論などです。
また、「天皇の存在は何らかの精神的支え」とありますが、その前段で「神権的国体観念にも疑問を持っていた」などとしながら、これを「精神的支え」とするのは恣意的説明です。「特攻隊」や「徴兵された人」には、「疑問を持っていた」人も、疑問を持っていなかった人もいて、「精神的支え」とした人も、しなかった人もいたでしょう。当然ながら例外もあるでしょうが、疑問を持っていた人は、精神的支えとしなかったことが多いと考えるべきです。念のために付言しますが、天皇は、職業軍人か否かは別論として、現場を知らず卓上で作戦立案していた大元帥です。天皇が作戦について知らされていなかったとするのは虚偽です。「精神的支え」と考えるのは、「徴兵された人」ではなく、論者の感性を反映しているだけではないですか。
「昭和天皇の責任ということに対しては、統治者から象徴へと封印されたことも、一つの責任を負った結果だと思います」とありますが、これが「天皇の責任に触れたくない」という個人の願望なら、あえて申し上げることはありません。私は天皇崇拝の感情を問題にしているのではありません。しかし、これを論拠にして戦争責任を追求すべきでないとするのは政治論です。象徴への敬意を強調してきた論、そして、アノミーへの処方箋(「精神的支え」の創出)として「天皇」を持ち出す論に対して、私は「裕仁の戦争責任」を取り上げております。