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(回答先: Re: Re:現憲法の「象徴」について 投稿者 たこ 日時 2003 年 7 月 02 日 13:09:34)
たこさん。 こんにちわ。 たこさんのご返事が面白いので、甘えてしまっています。 すいません。
私自身は、(日本の「伝統」と天皇家の関係)について、どちらかと言うと「消極」です。
ただ、それは生物学的な事実だから文化とは関係がないという理由ではありません(生物学的事実が文化と無関係なのは自明です)。
本音をより正確に述べると、(「日本教」的エートスと天皇家とが必然的関係結合がある)かのような議論には疑いを持っているということです。
両者の明治期における接合が、当時の政治家官僚からみて合理的な施策に見えたことは疑えませんが、両者の接合は必然的ではなく、恣意的なものではないかと疑っています。
日本教的行動様式の存在は確かにあるように思えます。
山本七平氏の本によると、江戸幕藩体制下で日本教的エートスが育まれてきたようです。
みんなよい子で、藩主様の言うこと、庄屋様の言うことを良く聞いて、親孝行し、家業に励み、税金を払いましょうというところですかね。
私はもわりとこういう感じで生きていますし、こういう人が好きです(げっ)。
やはり山本氏の著書「ニッポンの商人」によると、江戸時代の初期の人ハビヤンが、キリスト教の論難書を表したそうです。
その理屈は、キリスト教が、個人と神とを直接に結合するものだから封建体制を危うくするということです。
幕藩体制では、個人は、庄屋その他の「直近の上司」の言うことに従うべきであり、それが秩序を保つ要件です。 だから領主様とかへの直訴は犯罪ですよね。
領民が一神教に帰依すると、二つの主君ができるので秩序が乱れるということらしいです。 なるほど。
そうすると日本教は一神教とは、本来、相性がよくないはずですね。
ところが、明治期に現れた天皇制は、一神教的神格を持っているように見えます。 個人を天皇陛下に観念の上で直接結合するからです。
こういうことは幕藩体制下では御法度でしょう。
だから各藩の領民には天皇のことはほとんど知らされていなかったはずです。
このプロセスは、幕藩体制をスクラップにして廃藩置県し、武士階級を秩禄処分にし、(疑似)近代国家を創造した政治プロセスに対応しているように見えます。 ようするに統治の都合ですね。
一神教的性格ですが、男神であり、父権制的であり、またきわめて観念的であったと思います。 だから京都近辺の人々には違和感があったはずです。
私も違和感があります。 日本教徒じゃないのかなあ?
確かに、廃藩置県などは欧州では考えられないことらしいです。
それを実現したのだから神といってよいのかもしれません。 そういう議論(例えば小室直樹)にもある種の説得力を感じました。このあたりが私が優柔不断なところです。
ただ、このような接合は無理があるようにも見えます。 無理やりくっつけてないか?
簡単なイメージにします。
おにぎりに海苔が巻かれているとき、米粒はそれぞれ隣の米粒に対する粘着力によってくっついているのです。 海苔によってくっついているのではありません。
明治期には、300個のおにぎりをくっつけて一個のおにぎりにし、海苔で巻いたわけです。
このとき海苔が必須だったのかどうかが良くわかりません。
また、戦後は海苔がほとんど剥落したわけですが、米粒同士はくっついているように見えます。 確かにかなり多くの米粒がぽろぽろと脱落しています。 これは海苔がなくなったからなのか? 米粒のねばりがなくなったからではないのか? と疑っています。
海苔がなくともくっつくかなあと期待しているんですが、完全な確信までは至りません。
新しい海苔を巻くのではなく、一つ一つの米粒にねばりが出るような世界を望んでいます。
そのためには、上にある父権制的な男神ではなく、下にいる母神が望ましい神格であると思っています(あまりに抽象的ですが)。
これは私の個人的妄想かもしれません。