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日本人による極悪非道の世界侵略の歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/537.html
投稿者 中川隆 日時 2021 年 3 月 23 日 06:36:15: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

日本人は過去にやって来た悪行を隠すのが天才的に上手い

日本人による極悪非道の世界侵略の歴史

尖閣・沖縄・北海道・千島は日本の領土ではない

・chousen で長江の稲作民と縄文人に似た民族が混血して現代日本人と全く同じ遺伝子の日本語を話す無土器文化人になる

・chousen の無土器文化人(弥生人)が北九州に移民して水田農耕を始める

・ソウルに居た漢民族の天皇一族が北九州に移民、植民都市の伊都国を作って朝鮮と交易する

・神武東征・倭国大乱 → 天皇一族が日向・大和・丹後に天孫降臨、縄文勢力をジェノサイド

・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力をジェノサイド

・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力をジェノサイド

・10世紀に沖縄へ日本人大量入植 → 沖縄の縄文勢力をジェノサイド

・10世紀に西表島・石垣島へ日本人大量入植 → 西表島・石垣島に先住していた台湾先住民をジェノサイド

・文禄・慶長の役 → chousen で奴隷狩り、平戸や長崎は世界有数の奴隷市場になった。ポルトガル商人に奴隷を売って鉄砲や白糸を得た

・明治維新 → 田布施の chousen 人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令 → 神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙して売春婦として海外に売り飛ばした

・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力をジェノサイド

・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

・chousen の乗っ取り → 農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、chousen 女性を性奴隷 にする

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・満州の乗っ取り → 農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

・関東大震災 → JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

・2・26事件 → 政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、chousen の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った

・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

・極東国際軍事裁判(東京裁判) → 昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した

・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した

・自民党による一党独裁 → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった

・chouse 戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる

・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。

・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償金請求を放棄させた

・プラザ合意 → 日本からの膨大な輸入でアメリカ経済が崩壊したので、日本に政治的圧力をかけ超円高にして日本からの輸入を減らそうとした

・平成バブル崩壊 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから 売り攻勢をかけ7000円台まで暴落させるのに成功した。 外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。

・中国経済・kan国経済の躍進 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA はアメリカの製造業をすべて中国に移転させ、中国の元とkan 国のウォンを意図的に通貨安にして、日本の輸出を壊滅させた

・迂回輸出 → 日本からアメリカに直接輸出するのではなく、組み立てだけ中国・kan国の工場で行って、中国製品・kan国製品として迂回輸出して稼ぐ様になった

・中国の環境破壊 → 日本企業の中国工場では猛毒化学物質が含まれる汚染水や煙をそのまま垂れ流している。中国では飲料水や農業用水にも水銀・鉛が含まれ、人間が住めない土地になってしまった。

・中国・kan国の反日運動 → 日本企業の中国工場では中国人従業員をタダ同然で酷使、日本企業のロリコン社員は毎晩10歳以下の女児と xxx しまくったので、中国人の怒りを買って反日暴動が頻発した

・尖閣乗っ取り → 尖閣を漁場にしていた台湾人を追い出す。中華民国(台湾)は尖閣は宜蘭県に属す島嶼だ、と昔から主張している。宜蘭は台湾原住民平埔族の中の一群であるクヴァラン族が広く住んでいた地域で、1632年にはクヴァラン族が歴史資料に登場している。

が、大まかな流れです。

▲△▽▼


日本の支配者は今も昔も chousen 人なので残虐で非人間的、どんな酷い事でも平然と実行できるのですね

今の日本で生き残っている縄文人はアイヌ人、縄文系琉球人、douwa buraku 民だけです。
douwa buraku 民は日本人との結婚を禁じられていたので純血のままです。

天皇家は漢民族で百済語を話していた、
弥生人(chousenの無土器文化人)は日本語を話していた、
縄文人はアイヌ語を話していた。

ヤマトの英雄 ヤマトタケル(=関西チョx) 坂上田村麻呂(=百済出自の在コリ)
ヤマトの神 スサノオ(=韓神)
ヤマトの姫 卑弥呼(=chousen系シャーマン)
ヤマトの王 桓武天皇(=母ちゃんが百済人)
ヤマトの信仰 稲荷神(=渡来系の秦氏が広める) 仏教(=百済から伝来)
ヤマトの食 水稲・米(=chousen半島から伝来)
ヤマトの家 寺・神社(=渡来人の建築)
ヤマトの墓 支石墓(=chousen半島から伝来)
ヤマトの美人 飛鳥美人(=高句麗婦人)
ヤマトの名字 佐藤(=O1b2の藤原氏由来)
ヤマトの国史 日本書紀(=百済人の編纂)
ヤマトの言語 宮廷語(=百済人の王仁が伝える)
ヤマトの天 高天原(=chousen半島)

半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。
書紀で「天」は chousen 半島を指すのだ。

________

明治維新は田布施の chousen人 による日本の乗っ取り:

明治以降の天皇は田布施の李朝王朝の関係者だった:
鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

【重要・証拠アリ】安倍首相辞任の裏に「CSISと朝鮮・田布施システム」!
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html

菅義偉の黒い正体 ― スパイ、田布施システム、MI6、小渕恵三との繋がり
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html    

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コメント
1. 中川隆[-6383] koaQ7Jey 2021年3月25日 06:37:01 : vl7F87MneD : REttWUlNMENXZG8=[8] 報告
チャンネル桜や正論、WILL はフェイクニュースを流して、日本人が過去にやって来た悪行を隠すのが天才的に上手い
日本人による極悪非道の世界侵略の歴史
尖閣・沖縄・北海道・千島は日本の領土ではない

・chousen で長江の稲作民と縄文人に似た民族が混血して現代日本人と全く同じ遺伝子の日本語を話す無土器文化人になる

・chousen の無土器文化人(弥生人)が北九州に移民して水田農耕を始める

・ソウルに居た漢民族の天皇一族が北九州に移民、植民都市の伊都国を作って朝鮮と交易する

・神武東征・倭国大乱 → 天皇一族が日向・大和・丹後に天孫降臨、縄文勢力をジェノサイド

・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力をジェノサイド

・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力をジェノサイド

・10世紀に沖縄へ日本人大量入植 → 沖縄の縄文勢力をジェノサイド

・10世紀に西表島・石垣島へ日本人大量入植 → 西表島・石垣島に先住していた台湾先住民をジェノサイド

・文禄・慶長の役 → chousen で奴隷狩り、平戸や長崎は世界有数の奴隷市場になった。ポルトガル商人に奴隷を売って鉄砲や白糸を得た

・明治維新 → 田布施の chousen 人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令 → 神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙して売春婦として海外に売り飛ばした

・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力をジェノサイド

・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

・chousen の乗っ取り → 農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、chousen 女性を性奴隷 にする

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・満州の乗っ取り → 農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

・関東大震災 → JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

・2・26事件 → 政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、chousen の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った

・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

・極東国際軍事裁判(東京裁判) → 昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した

・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した

・自民党による一党独裁 → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった

・chouse 戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる

・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。

・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償金請求を放棄させた

・プラザ合意 → 日本からの膨大な輸入でアメリカ経済が崩壊したので、日本に政治的圧力をかけ超円高にして日本からの輸入を減らそうとした

・平成バブル崩壊 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから 売り攻勢をかけ7000円台まで暴落させるのに成功した。 外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。

・中国経済・kan国経済の躍進 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA はアメリカの製造業をすべて中国に移転させ、中国の元とkan 国のウォンを意図的に通貨安にして、日本の輸出を壊滅させた

・迂回輸出 → 日本からアメリカに直接輸出するのではなく、組み立てだけ中国・kan国の工場で行って、中国製品・kan国製品として迂回輸出して稼ぐ様になった

・中国の環境破壊 → 日本企業の中国工場では猛毒化学物質が含まれる汚染水や煙をそのまま垂れ流している。中国では飲料水や農業用水にも水銀・鉛が含まれ、人間が住めない土地になってしまった。

・中国・kan国の反日運動 → 日本企業の中国工場では中国人従業員をタダ同然で酷使、日本企業のロリコン社員は毎晩10歳以下の女児と xxx しまくったので、中国人の怒りを買って反日暴動が頻発した

・尖閣乗っ取り → 尖閣を漁場にしていた台湾人を追い出す。中華民国(台湾)は尖閣は宜蘭県に属す島嶼だ、と昔から主張している。宜蘭は台湾原住民平埔族の中の一群であるクヴァラン族が広く住んでいた地域で、1632年にはクヴァラン族が歴史資料に登場している。

が、大まかな流れです。

▲△▽▼

日本の支配者は今も昔も chousen 人なので残虐で非人間的、どんな酷い事でも平然と実行できるのですね

今の日本で生き残っている縄文人はアイヌ人、縄文系琉球人、douwa buraku 民だけです。
douwa buraku 民は日本人との結婚を禁じられていたので純血のままです。

天皇家は漢民族で百済語を話していた、
弥生人(chousenの無土器文化人)は日本語を話していた、
縄文人はアイヌ語を話していた。

ヤマトの英雄 ヤマトタケル(=関西チョx) 坂上田村麻呂(=百済出自の在コリ)
ヤマトの神 スサノオ(=韓神)
ヤマトの姫 卑弥呼(=chousen系シャーマン)
ヤマトの王 桓武天皇(=母ちゃんが百済人)
ヤマトの信仰 稲荷神(=渡来系の秦氏が広める) 仏教(=百済から伝来)
ヤマトの食 水稲・米(=chousen半島から伝来)
ヤマトの家 寺・神社(=渡来人の建築)
ヤマトの墓 支石墓(=chousen半島から伝来)
ヤマトの美人 飛鳥美人(=高句麗婦人)
ヤマトの名字 佐藤(=O1b2の藤原氏由来)
ヤマトの国史 日本書紀(=百済人の編纂)
ヤマトの天 高天原(=chousen半島)

半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。
書紀で「天」は chousen 半島を指すのだ。

________

明治維新は田布施の chousen人 による日本の乗っ取り:

明治以降の天皇は田布施の李朝王朝の関係者だった:
鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

【重要・証拠アリ】安倍首相辞任の裏に「CSISと朝鮮・田布施システム」!
https://tocana.jp/2020/08/post_168418_entry_2.html

菅義偉の黒い正体 ― スパイ、田布施システム、MI6、小渕恵三との繋がり
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html

2. 中川隆[-6197] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:45:50 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[3] 報告
日本は昔から奴隷貿易で稼いできた

秀吉禁止令も頬被り、朝鮮出兵で横行した理性なき「奴隷狩り」
『渡邊大門』 2019/05/23
https://cdn.ironna.jp/article/12622?p=1


渡邊大門(歴史学者)

 ここまで、豊臣秀吉の人身売買に関する政策、そしてポルトガル商人によって日本人奴隷が海外に輸出された状況を確認してきた。日本と海外との通交が盛んになるに連れ、人身売買の規模もよりワールドワイドに展開したことが分かる。次に、状況が変化したのは、文禄・慶長の役だった。

 天正18(1590)年に小田原征伐により北条氏が滅亡すると、国内における大戦争は終結し、平和な時代を迎えた。秀吉の支配欲は海外へと向けられ、それが現実のものとなる。秀吉は中国や朝鮮へ侵攻し、そこに天皇を移して、諸大名に領土を分け与える構想を持っていた。その戦争こそが、文禄・慶長の役なのである。

 文禄・慶長の役とは、豊臣秀吉が文禄元(1592)年から自身が亡くなる慶長3(1598)年にかけて、中国の「明」征服を目指し、朝鮮半島に出兵した一連の戦争である。当時の日本では、「唐入り」または「高麗陣」と呼ばれていた(朝鮮側では「壬辰・丁酉の倭乱」と呼んだ)。

 秀吉は関白に就任した天正13(1585)年ごろから、明の征服構想を持っていたといわれている。その構想が具体化したのは、天正15年における薩摩・島津氏征伐直後のことである。秀吉は対馬の宗義智(そう・よしとし)が朝鮮と交流があったことから、対朝鮮交渉を命じた。その内容とは、第一に朝鮮が日本に服属すること、第二に日本が明を征服するに際して、その先導役を務めさせるというものだった。


 日ごろ、朝鮮と通交のある義智にとって、秀吉の命令は実に大きな難題であった。以後、義智はこの問題をめぐって、苦悩することになった。

 朝鮮との関係を憂慮した義智は、秀吉の意向をそのまま伝えなかった。義智は家臣を日本国王使に仕立て上げ、第一に秀吉が日本国王に就任したこと、第二にその祝賀のため通信使を派遣するよう朝鮮サイドに依頼した。義智の考え抜いた対応が、のちに大きな誤解を生んだのである。

 朝鮮サイドはこの申し出を断ったが、強硬な態度で臨んだ秀吉は、決して納得しなかった。そこで義智は、改めて博多の豪商・島井宗室らと朝鮮に渡航し、再び通信使の派遣を要請したのである。

 天正18年、再び要請を受けた朝鮮側は、通信使を派遣し秀吉との謁見に臨み、事態の収拾を図ろうとした。交渉の席には、秀吉をはじめ菊亭晴季(きくてい・はれすえ)らの公家も参列した(『晴豊記』)。朝鮮側の意向にかかわらず、秀吉が通信使に改めて命じたのは、明征服のための先導役だったが、それを知らない朝鮮通信使は秀吉の祝賀のため来日したのである。
豊臣秀吉像
 秀吉の明征服の先導役を命じるという要求は、通信使から朝鮮国王にも伝えられた。同時に翌天正19年、秀吉は明征服のための拠点を作るため、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に城郭を築城した。一方、朝鮮との交渉は難航を極め、交渉役の宗義智と小西行長は対応をめぐって頭を抱えていた。

 2人は考え抜いた揚げ句、朝鮮に明攻略の先導役を務めるのではなく、明征服のために道を貸して(開けて)欲しい、と交渉内容をすり替えた。しかし、最終的に両者の交渉は決裂し、日本は朝鮮半島に侵攻する。

文禄・慶長の役においては、日本の戦国大名がこぞって参加し、朝鮮半島へ侵略行為を行い、いわゆる乱取り=奴隷狩りが行われていた。

 日本軍は朝鮮半島での戦争の際、日本での慣例に習い、多くの女や子供を連行した。その様子は、奈良・興福寺の多聞院主が書き継いだ日記『多聞院日記』に描かれており、奈良に連行したことが知られている。

 島津軍などは、朝鮮から薩摩へ帰る際、奴隷を連行するための手形を船頭に与えている。のちに、日本と朝鮮が和平を行ったとき、日本の奴隷連行が大きな障害となったほどである。以下、人身売買や拉致などの問題を中心に述べることにしよう。

 日本国内の戦場において、人や物資が略奪(乱取り)されたことはここまでに触れた通りである。乱取りは雑兵たちの戦利品となり、彼らの懐を潤した。あるいは、戦争に出陣する目的が乱取りにあったのではないかと思うほどである。


 秀吉が朝鮮出兵の際に出した方針は、次に掲げるものだった(「毛利家文書」)。天正20年4月26日付のものである(主要なものを抜粋)。

 @還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。
 A飢餓に苦しむ百姓を助けること。
 Bあちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。
 C法令順守の徹底。

 主に現地支配にかかわるものを抜粋してみた。まず@について。秀吉は同じような趣旨の命令を日本国内でも発している。たとえば、織田重臣時代の天正8(1580)年1月に三木合戦で別所氏が滅亡すると、荒廃した三木(兵庫県三木市)に百姓や町人の還住を促した(「三木町有古文書」)。戦争で荒廃した村や町を復興するための政策である。

 Aについても、同様の趣旨と捉えてよいであろう。せっかく占領しても、百姓が飢えてしまい、占領地が荒れ果てていると意味がない。そう秀吉は考えていたのだろう。

 注目すべきは、Bである。冒頭の放火の禁止は、町や村の荒廃を避けるための方策である。重要なのは補足として、男女にかかわりなく生け捕りにした場合は、それぞれのもとの居住地に返すことが規定されている点である。

 つまり、秀吉は戦場における乱取りを禁止していたことになろう。Cにおける法令順守は、その延長線上にあり、数多くの禁制が発給されていた(「鍋島家文書」など)。秀吉は、朝鮮の百姓に危害を加えないように配慮していた。

しかし、日本を遠く離れて朝鮮半島に出陣した雑兵に対して、秀吉の意図が十分伝わったのか大いに疑問である。雑兵の戦場における目的は、やはり「乱取り」にあり、それが第一義にあった。案の定、秀吉の方針は無視され、朝鮮半島の各地で「乱取り」が行われた。次に、その実態を概観することにしよう。

 戦場において、人間はなかなか理性をコントロールできないものである。いざ朝鮮半島で戦いが始まると、秀吉の命令は無視され、雑兵は「乱取り」に夢中になった。

 文禄元(1592)年、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、佐竹氏の家臣・平塚滝俊が肥前名護屋城で留守を務める小野田備前守に宛てて書状を送っている。滝俊の生没年や出身地は不明であるが、佐竹氏家臣団の中では、中級クラス以上の地位にあったと考えられている。この書状は、歴史学者の岩沢愿彦(いわさわ・よしひこ)氏が紹介したものである(「肥前名護屋城図屏風について」)。書状の概要を次に示しておきたい。

高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして、日々を送ってきた。(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。

 日本軍は朝鮮の城を攻め落とすと、戦利品とばかりに男女を生け捕りにし、船に積んで日本へ送った。また、討ち取った朝鮮人の首も運ばれていた。


 朝鮮人の首が秀吉のいる肥前・名護屋城に送られたのは、出陣した武将が軍功を認めてもらうためである。いわゆる「首実検」のためだった。おそらく船が満杯の状態で運ばれたのであろうが、実におびただしい分量になったと思われる。
「名護屋城」城跡の石垣。秀吉の朝鮮出兵の兵站基地だった=佐賀県唐津市
 これだけの分量になると、本当に正しい検分ができたのかどうか、非常に疑問である。参考までにいうと、首は非常に重量があるので、のちに首でなく耳や鼻が持ち帰られた。それを供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。

 耳や鼻を削いで持ち帰る際、日本軍により残酷な行為が行われていた。慶長3(1598)年10月に泗川(サチョン)新城で戦いが行われると、島津軍が明・朝鮮の連合軍の兵3万3700人を討ち取り、城の外に大きな穴を掘って埋めたという。そして、その遺体から鼻を削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。

 加藤清正の武将・本山豊前守の手になる『本山豊前守安政父子戦功覚書』には、男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにした、と記されている。塩漬けにしたのは、腐敗を避けるためだろう。もはや戦闘員・非戦闘員を問わず、鼻をどれだけ獲ることができたのか競った感がある。その数は、一度に2、3万に及んだこともあった。

 問題になるのが、朝鮮半島で生け捕った男女も船で肥前・名護屋城に送られたことである。これは、先に示した秀吉の方針と相反する行為である。秀吉の意向とは裏腹に、現地では日本の慣習にならって、「乱取り」が行われた。

実のところ、各大名にとって朝鮮への出兵は、多大な経済的な負担であった。第一に、多くの軍兵が動員されたうえに、半農半兵の土豪たちも出陣を余儀なくされた。出陣は長期間にわたったので、必然的に農業の担い手を失うことになる。同時に、農地が放棄される状態にあった。薩摩の島津氏は、戦費の捻出に苦労したという。

 とりわけ捕らえられた人々は、老人、女、子供が多かったといわれている。彼らは屈強な男性とは異なり、反抗することが少なかったと考えられ、奴隷としては最適であったからだろう。

 雑兵たちにとっての戦争は、極端に言えば勝ち負けが問題ではなく、いかに戦利品を得るかが重要であった。そうなると、秀吉の指示をまともに聞いていれば、何ら見返りのない「ボランティア」になってしまう。実際、略奪は多くの大名が黙認し、幅広く行われていた。

 文禄2年に推測される8月23日付の「石田三成覚書」によると、三成は薩摩・島津氏に対して種々の命令を伝えているが、その中に船を使って乱妨・狼藉を働かないように指示を行っている(「島津家文書」)。


 こうした指示が与えられるところを見ると、実際に乱取りが行われており、島津氏は黙認していたのであろう。同様の事例は、普州(チンジュ)城で戦っていた加藤清正軍にも見られる。この場合は、清正に知られないようにして、配下の武将が雑兵たちに略奪行為をさせたという。もはや秩序は、完全に崩壊していた。

 こうした状況が秀吉の耳に入ったのか、あるいは別の事情があったのか、秀吉自身も人身売買や生け捕りについて容認したと受け取られかねない命令を発する。その命令こそが、次に示すものである(「島津家文書」ほか)。

急ぎ仰せを伝えます。捕らえた朝鮮人の中で、細工のできる者、縫官、手先の器用な女性がいれば、進上すること。召し使うようにする。家中を改めて、こちらに遣すこと。

 この秀吉の朱印状は島津家だけでなく、多くの大名家に伝わっている。つまり、秀吉は自身が召し使うため、さまざまな技量を持つ女性を集めていたことになる。ただし、この史料はいずれも年次を欠いており、文禄2年あるいは慶長2年のいずれかが該当すると考えられている。前者なら出兵直後、後者なら二度目の出兵の時期となる。
「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供)
 当初と異なり、秀吉は大きく方針を転換したが、各大名たちが朝鮮から人々を連れ去った事実は当然把握していたことであろう。むしろ、そうした事実を知っていたので、優秀な人材を確保しようと考えたのかもしれない。

 文禄・慶長の役において、多くの朝鮮人が日本に連れ去られ、売買されることになった。それらの経緯を確認しよう。


東洋史家の内藤雋輔(ないとう・しゅんぽ)氏が紹介した『月峯海上録(げっぽうかいじょうろく)』には、朝鮮人奴隷の様子が詳細に記述されている(翻刻は『文禄・慶長役における被擄人の研究』)。内藤氏の研究成果を交えつつ述べておくと、文禄の役と慶長の役とでは、後者の奴隷狩りが圧倒的に多かったという。

 しかも、その被害は圧倒的に朝鮮半島南部に集中していた。文禄の役では朝鮮半島の奥地まで侵攻したが、慶長の役ではそこまで侵攻できなかったのが要因であろう。慶長の役は長期化したものの、勝利の可能性が乏しかったため、奴隷狩りに注力したと考えられる。

 強制的に奴隷として日本に連行された朝鮮人は、主に九州各地に住んでいたが、薩摩・島津氏の領内では、その数が3万7千人にも及んだという。彼らは苗代川(鹿児島県日置市)に集住し、陶工・朴平意(ぼく・へいい)らを中心にして、陶磁器の製造を行った。苗代川窯は白釉と黒釉を用いて、日常的に使用する陶器を製造した。技能集団が日本に根付いた一例である。

 この頃、平戸や長崎は朝鮮半島から連行した朝鮮人を売買するなど、世界でも有数の奴隷市場として知られていた。


 日本人の人買商人のうち、ある者は自ら朝鮮半島に渡海して奴隷を買い漁り、またある者は日本国内でポルトガル商人に転売して巨万の富を得た。彼らはポルトガル商人が持っていた鉄砲や白糸の代価としていたのである。

 ほとんどの奴隷は捨値で売られたというので、薄利多売の様子がうかがえる。日本を窓口にして、多くの奴隷が世界に渡っていったのである。それは朝鮮人だけではなく、多くの日本人が含まれていたことが指摘されている。

 日本人が朝鮮半島で行った奴隷狩りは、どのような形で行われたのであろうか。その点は、次回に触れることにしよう。


主要参考文献
渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%A3%B2%E8%B2%B7%E3%83%BB%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E3%83%BB%E6%8B%89%E8%87%B4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-%E6%B8%A1%E9%82%8A-%E5%A4%A7%E9%96%80/dp/4760143270

3. 中川隆[-6196] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:49:06 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[4] 報告

「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎
『渡邊大門』 2018/12/09
https://ironna.jp/article/11383


渡邊大門(歴史学者)

 前近代(特に中世)において、人身売買が行われていたことはご存じだろうか。それは決して公に認められたものではないが、公然の秘密だったといえる。今回はその源流を探るべく、室町時代の人身売買の例を取り上げることにしよう。

 鎌倉幕府滅亡後の1336年、足利尊氏が室町幕府を開くと、鎌倉幕府と同様に指針となる法令を制定した。これが『建武式目』であり、中原是円、真恵兄弟らが足利尊氏の諮問に答えた形式を採っている。

 『建武式目』は『御成敗式目』のような裁判規範でなく、むしろ政治的な方針を示したものといわれている。その点は性格が異なっているが、以後は鎌倉幕府と同様に多くの追加法が制定された。

 ただし、『建武式目』をはじめとする室町幕府の法令においては、人身売買を禁止した規定を見いだすことはできない。しかし、人身売買が行われていなかったわけではなく、関係した史料(人身売買の売券など)は残っている。


 当時、人身売買や人の略奪という行為は、よりワールドワイドな方向で展開した。奴隷は世界的に存在しており、常に売買の対象となり流通していた。イスラム世界では高度に洗練された奴隷の流通システムが構築されており、中央アジア、ロシア草原、バルカン半島、ヨーロッパ北部、アフリカ大陸北部などに広がっていたという。そして、それを媒介していたのが、イスラム商人だった。

 日本は島国であったが、海で広く世界につながっていた。そして、日本人の略奪や人身売買も東アジア社会で展開することになる。とりわけ中国や朝鮮との関係が重要である。その契機となったのが、14世紀半ば頃から猛威を振るった「倭寇(わこう)」の存在である。

 倭寇には、「日本の侵寇」あるいは「日本人の賊」という意味があり、盗賊団のようなものになろう。倭寇という文字そのものは、404年の「高句麗広開土王碑文」に初めて確認できる。その活動は、おおむね14世紀半ば頃から15世紀初頭にかけて見られるようになった。
倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写)
 彼らの活動範囲は、朝鮮半島、中国大陸の沿岸や内陸および南洋方面の海域と非常に広範囲に及んでいる。当時の朝鮮人・中国人たちは、こうした日本人を含む海賊的集団を「倭寇」と呼んだのである。

 倭寇の意味するところは、時代や地域によって異なっており、その定義を厳密に行うことは難しい。ちなみに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や20世紀における日中戦争も倭寇という言葉で表現された。そうなると、倭寇は賊に加えて、侵略者としての意味も持つことになる。

 倭寇は食料などの物資に限らず、人間までも略奪行為の対象とした。朝鮮半島や中国大陸では、倭寇により人がさらわれ、そのまま日本に連行された。こうして日本に連行された人々を被虜人(ひりょにん)と称する。以下、倭寇による人の略奪を取り上げることにしよう。


高麗王朝史の正史『高麗史』によると、1388年6月に倭寇が朝鮮半島の全羅・慶尚・揚広の三道に進攻し、多くの人々が略奪されるという甚大な被害を受けたと記す。『高麗史』の別の個所では、倭寇の船団は50艘あまりもあり、千余人を連れ去ったというのである。まさしく国家存亡の危機だったといえよう。

 事情は中国においても同じであった。『皇明太祖実録』の1373年5月の記録によると、倭寇による人の殺戮(さつりく)などが問題となっており、翌年には対策が練られている。倭寇対策として水軍を充実させ、周辺海域をパトロールさせることになったのである。当時の「大明国」が倭寇の被害に頭を悩ませている様子がうかがえる。

 『老松堂日本行録』という史料には、倭寇が日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていたことが記されている。『老松堂日本行録』は応永27(1420)年に足利義持の派遣使節の回礼使として日本を訪れた、朝鮮の官僚、宋希m(そうきけい)の日本紀行文集で、当時の西日本の社会や風俗および海賊衆を記す貴重な史料である。次に、その中の一節を挙げることにしよう。
 

 一人の日本人がいて、小船に乗って魚を捕まえていた。私(宋希m)の船を見ると近づいてきて、魚を売ろうとした。私(宋希m)が船の中を見ると、一人の僧が跪いて食料を乞うた。私(宋希m)は食料を与えて、この僧に質問をした。僧は「私は江南台州(中国浙江省臨海市)の小旗(10名の兵を率いる下級軍人)です。一昨年、捕虜としてここに来て、剃髪して奴隷になりました。辛苦に耐えられないので、あなた(宋希m)に従ってこの地を去ることを願います」と言うと、ぽろぽろと涙を流した。(この僧の主人である)日本人は「米をいただけるなら、すぐにでもこの僧を売りますが、あなた(宋希m)は買いますか」と言った。私(宋希m)は僧に「あなたはが住んでいる島の地名は何と言いますか」と質問した。僧は「私は転売されて、この日本人に従って2年になります。このように海に浮かんで住んでいるので、地名はわかりません」と答えた。

 この男は「僧」と称されているが、「剃髪して奴隷になった」とあるので、頭を剃(そ)る行為が奴隷を意味していたと考えられる。あえて剃髪して異形にすることにより、普通の人と違うことを際立たせ、奴隷であることを視覚化させたのである。要するに剃髪した風貌が僧に似ていたので、仮に宋希mは僧と呼んだのであろう。この男は連れ去られたのちも、転売されて今の主人に従ったらしい。


 この男は故郷の中国にいたときに倭寇によって連れ去られ、売買されたのであろう。場所は、対馬と推定されている。男は慣れない漁業に従事し、食料にも事欠くありさまだったようだ。遠い異国のことでもあり、心情を察するところである。では、なぜ倭寇は中国や朝鮮から人々を連れ去ったのだろうか。

 日本において南北朝の乱が始まると、それが約半世紀という極めて長期間に及んだ。とりわけ九州においても各地で戦いが繰り広げられ、著しい内乱状態に陥った。当然、農地は荒れ果て収穫が困難となり、食料が不足したに違いない。戦争時における、食料などの略奪も問題になったと考えられる。

 そうなると田畑を耕作する人間は国内で調達することが困難になるので、必然的に国外に求めざるを得なくなった。九州では農業従事者の慢性的な不足があったため、捕らえた朝鮮人や中国人を売却し、農作業に従事させていたのである。対馬は朝鮮半島に近いこともあり、人身売買が盛んに行われていたという。こうして日本国内における労働力の不足は、中国や朝鮮の人々によって補われた。


もちろん、彼らが従事したのは農業だけでない。それらを挙げると、牧畜、漁業、材木の運搬などが主たる業種である。いずれも過酷な肉体労働であり、まさしく奴隷が家畜同様に使役された物悲しさを語ることである。

 しかし、近年では以上のような肉体労働だけでなく、さまざまな職種に就いていたことが指摘されている。

 一つは通訳である。当時の公用語が中国語とみなされていたことから、通訳はほぼ中国人に限定されていた。中国語の読み書きがある程度できる者は、奴隷として日本に連れ去られ、日本語も堪能になると通訳を任された。通訳になると、先述した厳しい肉体労働から解放された。なお、対馬、壱岐、北九州では、日本人でも朝鮮語に通じた者がいたと推測されており、朝鮮語の通訳は必要でなかったと考えられている。

 もう一つは、中国や朝鮮などの案内人として従事させることである。倭寇が中国や朝鮮に上陸する際、地理に不案内なため、どうしても土地に詳しい者が必要であった。いうなれば、倭寇の手先ということだ。皮肉にも被虜人が、倭寇の手助けをし、新たな被虜人を生み出すことになった。案内人としての職務については、中国人、朝鮮人とも行っていたようである。


 謡曲に『唐船』というものがある。九州・箱崎の某(なにがし)なる者が、唐土との船争いの際、官人の祖慶(そけい)を捕らえた。祖慶は13年もの間、牛馬の飼育に使役され、肉体労働を強要されたのである。祖慶は、唐土に2人の子供を残していた。2人は父を慕い、連れ帰ろうとして日本に渡海した。祖慶は日本で結婚し2人の子供がいたが、実子との再会に大いに喜んだ。

 2人の子供は箱崎の某の許可を得て、父を連れて帰ろうとしたが、日本の子供が別れを悲しんで引き留める。思い余った祖慶は海に身を投げようとするが、箱崎の某は日本の子供も唐土へ連れて帰ることを許した。

 ここで重要なのは、祖慶が自由の身になっても、その子供たちは主人の奴隷ということに変わりなかったことである。父子5人は、船中で喜びの楽を奏でながら、帰国の途につくのである。この話は決して架空のものでなく、悲しい実態を反映した作品なのだろう。

 このように被虜人は、国内における貴重な労働力であるとともに、倭寇の活動を支える存在であったといえるのである。当時、人身売買は各国で行われており、それは日本でも同じだったのだ。

※画像はイメージ(ゲッティイメージズ)
https://ironna.jp/article/11383?p=3

 そして中国人や朝鮮人の売買は1回で完結するのではなく、さらに転売が伴った。転売された人物としては、魏天(ぎてん)なる者が存在する(以下『老松堂日本行録』)。魏天の生没年は不明であるが、中国の明で誕生し、のちに倭寇によって捕らえられ、被虜人として日本に連行された。その後、魏天は転売を繰り返され、朝鮮→日本→明→日本と移動した。最後は明への帰国を成し遂げ、洪武帝によって日本に派遣された。立場上は日本語を理解していたので、通訳ということになろう。


再度訪れた日本では、室町幕府の三代将軍・足利義満の寵(ちょう)を受け、京都に居を構えたという。応永27(1420)年には、宋希mと四代将軍・義持との会見の実現に大いに貢献した。皮肉にも魏天は、被虜人としての生活や日本語の取得が役立ったということになる。魏天は幼少時は被虜人となり、不幸であったかもしれないが、晩年は恵まれており幸運な部類に属するであろう。

 被虜人は、遠く当時の琉球にも転売されたようである。14世紀の終わり頃、琉球の中山王察度は4回に渡り朝鮮に被虜人を送還している。1416年、朝鮮国王・太宗も使節を琉球に派遣して、被虜人を帰国させた。おおむね被虜人は、九州を中心にして、東は京都、南は琉球まで転売され、存在したようだ。15世紀後半の京都・建仁寺の禅居庵には、浙江省温州で被虜人になった人物が住んでいた。

 女性の被虜人の場合は、日本人男性の妻になった例もあるという。また、中には性的な労働に従事させられた者もあったと推測されている。

 以上のように、朝鮮や中国から連行された被虜人は、西日本を中心にして繰り返し転売されることになった。しかし、14世紀の終わり頃になると、朝鮮は日本との通交を積極的に推し進め、被虜人の送還を歓迎した。朝鮮との通交を希望する者は、被虜人の送還を進めた。この動きは15世紀初頭まで続くが、朝鮮の倭寇懐柔策により被虜人の供給が激減したため、以後はあまり見られなくなったという。


 倭寇が朝鮮・中国で猛威を振るい、人々を略奪したことを述べてきたが、逆のパターンがあったことにも注意すべきである。朝鮮では報復措置として、日本人を捕らえて奴隷とし、使役あるいは売買したことが知られている。

 そもそも李氏朝鮮には、法律上で奴隷の売買が許されており、世襲的な奴婢(ぬひ)が存在していた。14世紀の終わり頃、奴婢の売買は盛んに行われていたが、その価値は牛馬よりも劣っていたといわれている。日本よりも悲惨な現状にあった。しかし、次第に奴婢の売買は制限が加えられるようになり、15世紀の終わり頃には事実上の禁止となったという。

 『李朝世宗実録』によると、1429年に朴瑞生(ぼくずいせい)が日本通信使として来日し、帰国後に倭寇に拉致された被虜人のこと、そして日本における人身売買について報告を行っている。その中で注目すべきは、日本人が朝鮮人や中国人を奴隷として売買していたことに加え、朝鮮人も捕らえた日本人を奴隷として売買していた事実が報告されていることだ。

 朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『李朝太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王・足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。この日本人女性が、いかなる経緯で朝鮮人に捕らえられたのかは明らかでない。これにより、朝鮮人のもとで日本人奴隷が存在していたことが明白になった。
倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写)
 その後の顛末(てんまつ)はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。しかし、日本サイドの使者は、「日本に私賤はいない」と突っぱねて返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したのである。

 一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由で、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、仮に朝鮮で普通の人の売買を禁止しているならば、日本の「私賤はいない」という主張に従って、措置をしたのかもしれない。日本人女性が奴隷でないならば、返還するのが筋だからである。

 このように、15世紀の日本において人身売買が国の枠を超えて行われたことは、非常に興味深いところである。次回以降は、さらに人身売買や奴隷の詳細を明らかにしていこう。

《主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)》

4. 中川隆[-6195] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:54:13 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[5] 報告
川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実
『渡邊大門』 2019/01/05
渡邊大門(歴史学者)
https://ironna.jp/article/11595

 前回の倭寇による人の略奪を踏まえて、日本国内に目を向けてみよう。戦国時代は、人身売買も含めて、人の略奪が盛んに行われた時代だった。それは、まさしく「生きるため」だったといっても過言ではない。それは、天候不順による食糧不足とも連動していたと言える。

 現代は便利な時代であり、暑いと言えば冷房をつければよいし、寒いと言えば暖房をつければよい。食料もビニールハウスどころか、今や工場で作るありさまである。最近の自然災害はひどい状況だが、鉄筋コンクリートの建物は、昔の木造建築に比べると非常に頑強である。むろん戦国時代の家は、粗末な木造だった。

 また、今は道を歩いていれば、スーパーやコンビニがあるので、お金さえあれば食料を手に入れることができる。病気になっても、病院に駆け込めば何とかなることも多い。すべてが便利であるし、さまざまな点で不便な戦国時代とは比較にならない。

 戦国時代に目を転じると、主力となる農業や漁業は自然が相手の仕事であり、ひとたび自然災害に見舞われると、農業用の機械があるわけでもないので、農地の復旧には多大な時間を要した。おまけに天候不順に陥ると、たちまち作物の収穫量はガタ落ちし、人々は飢えに苦しむありさまである。


 保存食があるとはいえ、今のように冷凍食品があったわけではない。ひどい状況が続けば、やがて人々の体力を奪い、病気になることもあった。病気になると特効薬があったわけでもないので、疫病の蔓延(まんえん)は深刻な事態を招いた。

 寛喜2(1230)年から翌年まで人々を苦しめた寛喜の大飢饉(ききん)では、食糧難が深刻になったので、子供を売ってでも生活の費用を捻出する必要が生じた。とにかく、戦国時代の人々は生きるために必死だったのである。

 村で生活する人々はときに戦争に参加し、戦場で相手から略奪した金目のものや食料などを自分のものにした。戦場で人を捕らえた場合も、自分のものになり、捕らえた人を売ることもあった。つまり、戦争に行くこと自体が、自らの生死をかけた戦いであり、略奪が生きるために必要だったのである。

 こうした戦場における人の略奪は、必然的に人身売買の温床となった。以下、戦場における人の略奪を中心にして、さまざまな事例を取り上げることにしたい。最初は、武田氏の事例である。
JR甲府駅前の武田信玄像
 甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。

 天文5(1536)年、相模国青根郷(相模原区緑区青根)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり獲っていったという。この前年、武田信虎は今川氏輝、北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていたといえる。

 史料中の「足弱」とは、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に「弱者」であった。

そして、天文15(1546)年には甲斐国で飢饉があり、餓死する者が続出したという。そうした状況下、武田氏の軍勢は男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去った。生け捕られた人々は、親類が買い取りに応じることがあれば、2貫、3貫、5貫、10貫で買い戻されていった。

 現在の貨幣価値に換算すると、一貫=約10万円になる。生け捕られた人々は約20万〜100万円で買い戻された。身分あるいは性別や年齢で値段が決まったのであろうか。

 『妙法寺記』を一覧すると、武田氏の軍勢が行くところでは、多くの敵方の首が取られたことが記述されており、同時に多くの「足弱」が生け捕りにされたことも記されている。「足弱」は売買されるとともに、農業などの貴重な労働力になったのであろう。

 このように、戦場で人あるいは物資を強奪することを「乱取り」という。戦場で分捕ったものは当然、自分のものなった。ある意味で戦争に参加するのは、乱取りが目的とも思えるほどである。その姿は、『甲陽軍鑑』にも生き生きと描かれている。


 『甲陽軍鑑』とは、江戸時代初期に集成された軍書であり、武田氏を研究する上で重要な史料の一つである。武田信玄・勝頼父子の治績、合戦、戦術、刑法などが記述され、20巻59品から構成されている。その成立過程は、武田氏の家臣、高坂昌信の遺記をベースにして、春日惣二郎、小幡下野らが書き継ぎ、最終的に小幡景憲が集大成したとされている。

 『甲陽軍鑑』は、まさしく乱取りの事例の宝庫であるといえる。以下、いくつかの例を挙げることにしよう。

 武田信玄の戦いで最もよく知られているのは、越後の上杉謙信と死闘を演じた川中島(長野市)の戦いであろう。天文22(1553)年、初めて2人が刃を交えて以来、計5回にわたって雌雄を決している(4回説もあり)。ここでは2人の名勝負ではなく「乱取り」だけを見ることにする。

 川中島の戦いに際して、甲斐国から信濃国へ侵攻した武田軍は、そのままの勢いで越後国関山(新潟県妙高市)に火を放つと、人々は散り散りに逃げ出した。そして、謙信の居城である春日山城(新潟県上越市)へ迫ったのである。武田軍は越後に入ると、次々と人々を乱取りし、自分の奴隷として召抱えたという。その大半は、女や子供であった。
川中島の合戦の両雄、武田信玄と上杉謙信の銅像=長野市
 『甲陽軍鑑』には、兵卒が男女や子供のほか、馬や刀・脇差(わきざし)を戦場で得ることによって、経済的に豊かになったと記されている。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたりしたのであろう。場合によっては、売却して金銭に替えることも可能であったと推測される。戦争に行くことはまさしく生活がかかっており、さらに運がよければ「うまみ」があったといえよう。

 こうなると、戦争に行った者たちの関心は、極端に言えば戦いの勝敗よりも、乱取りでどれだけ略奪できたかに移っていたようである。『甲陽軍鑑』の一節には次のように記されている個所がある(現代語訳)。

乱取りばかりに気持ちが動いて、敵の勝利にも気付かなかった。

乱取りばかりにふけっており、人を討つという気持ちがまったくない。

 乱取りに熱中する人々は、「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評価されるところとなった。要するに「何も考えていない意地汚い連中」ということになろう。こうなると、彼らが戦争に来たのか、乱取りに来たのか目的すら判然としなくなる。

たとえば、武田軍が信濃国に侵攻した際、大門峠(長野県茅野市)を越えた付近で、兵たちに7日間の休暇が与えられた。しかし、兵たちは休むことなく、鬨(とき)の声を上げて付近の民家を襲撃した。目的は略奪行為であり、田畠の作物すら奪い取った。わずか3日間で村々から略奪を終えると、まだ余力が残っていたのか、翌日からはさらに遠方の村々まで出張って行って、略奪を繰り返すありさまだったのである。

 それだけではなく、戦争が終結し、敵の城を落しても乱取りだけは続けられた。それが、兵たちの「褒美」になった。永禄9(1566)年、小幡業盛の籠る上野国箕輪城(群馬県高崎市)が信玄により落されると、雑兵は箕輪城を本拠として、敵兵を次々と捕らえ、乱取りを行ったのである。彼らにとっては、戦いよりも乱取りが本番であったと言えるかもしれない。

 現代では、国家からの強制的な動員、あるいはほとばしるような愛国心に突き動かされ、人々は戦争に行くのであろう。しかし、戦国時代の戦争は収入を得る手段の一つであり、言うなれば「出稼ぎ」のようなものだったのかもしれない。動員する戦国大名にとっても、彼らを従軍させる理由やモチベーションが必要である。それが乱取りであり、彼らの貴重な収入源となった。まさしく生きるための戦争だったのである。

 こうして人や物資を略奪すると、雑兵たちの生活は豊かになった。『甲陽軍鑑』には、その姿が次のように描かれている(現代語訳)。


分捕った刀・脇差・目貫・こうがい・はばきを外して(売って)、豊かになった。馬・女を奪い取り、これで豊かになったので、国々の民百姓までみんな富貴になり安泰になったので、国で騒ぎが起こることがなかった。

 われわれの常識では、戦国大名が産業や農業振興に腐心し、それにより国が豊かになると考えていた節がある。むろん、それも事実として正しいのであるが、実際には他国へ侵攻して戦争を仕掛け、それにより国が富むという現実を認識すべきだろう。戦争に行く人々には、愛国心や忠誠心はほとんどなかったのかもしれない。

 こうした乱取りという現象は、何も武田氏の専売特許ではない。次に、肥後国の大名・相良氏の事例を取り上げてみよう。相良氏は遠江国佐野郡相良荘の出身であるが、鎌倉時代に肥後国人吉荘に本拠を移し、以後大名化を遂げた。
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 乱取りの様子は『八代日記』に描かれている(天文〜永禄年間)。その記述によると、戦場においては、牛馬とともに人々も略奪の対象となった。ときに夜襲を仕掛けて、人を奪い去った様子がうかがえる。また、数千人が生け捕りにされており、その規模の大きさには、目を見張るものがある。

 同じことは、伊達政宗が南奥羽で展開した戦いにおいても確認することができる。その状況を伝えているのが、『天正日記』である(天正16・17年)。

 『天正日記』によると、戦場において数多くの人々が生け捕りにされ、敵兵の首や鼻を切り取ったという。敵兵を倒した場合、その証として首を切り取った。首の数によって、与えられる恩賞が決まったからである。

 鼻が切り取られた理由は、首を腰まわりにぶら下げていると、重いうえに身動きが取りにくい。そこで、代わりに鼻を削(そ)ぎ落として、敵を討ち果たした証拠にしたのである。鼻から上唇まで切り取ると、髭(ひげ)によって男であると分かる。

人が略奪された例は、薩摩・島津氏の関係者の日記でも確認できる(『北郷忠相日記』など)。『北郷時久日記』によると、人が3人誘拐されたと記されている。強引に連れ去るだけでなく、騙して連れ去ることもあったようである。

 永禄9(1566)年2月、長尾景虎(上杉謙信)の攻撃によって、小田氏治の籠(こも)る常陸・小田城(茨城県つくば市)が落城した。落城の直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。その様子は、『別本和光院和漢合運』に次のように記されている。

小田城が開城すると、景虎の意向によって、春の間、人が二十銭・三十銭で売買されることになった。

 この一文を読む限り、人身売買は景虎の公認だったのかもしれない。20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、約2千円ということになる。おそらく、雑兵たちはかなりの数の女や子供を生け捕りにし、これを売ることにより、生活の糧にしていたと考えられる。まさしく戦争に出陣する「うまみ」であった。

 数が多いので、薄利多売になったのであろうか。売られた者は、家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたことがあったかもしれない。


 連れ去られた人々は、買い戻されることもあった。その際、金銭が必要なのは言うまでもないが、仲介役として商人や海賊が関与していたと指摘されている。むろん無料で引き受けるのではなく、仲介料を取っていた。つまり、戦場における人の連れ去りは、大げさに言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。

 人身売買の厳しい実態は、後になっても確認できる。

 『信長公記』によると、天正3(1575)年に織田信長が越前国の一向一揆を討伐した際、殺された人間と生け捕りにされた人間の数が、3〜4万人に及んだと伝えている。これには、兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた。殺された数も多かったようであるが、生け捕り分(民と百姓)は、戦利品として扱われたと推測される。

 同様の事例は、大坂の陣でも確認できる。『義演准后日記』によると、大坂の陣で勝利を得た徳川軍の兵は、女や子供を次々と捕らえて、凱旋(がいせん)したことを伝えている。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたと言われているが、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女や子供が占めている。弱者である女や子供が生け捕りにされるのは、共通した普遍性であった。
大阪城(ゲッティイメージズ)
 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げ惑う戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵に捕まった女性たちの姿が目を引く。兵たちは戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。そして、女性たちは売り飛ばされたと考えられる。

 人身売買や人の略奪という地獄絵図は、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。

主要参考文献
渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)

5. 中川隆[-6194] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:55:35 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[6] 報告
2020.10.01
戦国時代から欧米諸国は日本人を東南アジア侵略のための傭兵として使っている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010010000/

 太平洋からインド洋にかけての海域で軍事的な緊張が高まっている。中国は一帯一路(BRI/帯路構想)のうち「海のシルクロード」をそこに築こうとしているのに対し、アメリカはその構想を潰そうとしているからだが、その緊張の中へ日本が引きずり込まれつつあり、自衛隊は与那国、石垣、宮古、奄美へ活動範囲を広げている。

 安倍晋三は首相だった2015年6月、赤坂にある赤坂飯店で開かれた懇親会で「​安保法制は、南シナ海の中国が相手なの​」と口にしたというが、彼は日本の立場を理解していたのだろう。その安倍が直前に会談したという中国の習近平国家主席は軍部に対し、南シナ海と台湾の監視を強め、戦争の準備をするように命じたと伝えられている。

 アメリカは2018年5月、太平洋軍という名称をインド・太平洋軍へ変更、太平洋からインド洋にかけての海域を一体のものとして扱うことを明確にした。日本を太平洋側の拠点、インドを太平洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐ構図になるという。2018年5月にインドのナレンドラ・モディ首相はインドネシアを訪問、ジョコ・ウィドド大統領と会談している。

 一帯一路はイギリスやアメリカ、つまりアングロ・サクソン系国の長期戦略とも衝突している。これらの国は制海権を利用してユーラシア大陸の周辺部を支配、その三日月帯から内陸部を締め上げてきたのだ。

 この長期戦略を1904年にまとめた学者が地政学の父とも呼ばれているイギリスの地理学者、ハルフォード・マッキンダーだということも本ブログでは繰り返し書いてきたこと。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその理論に基づいている。

 イギリスはこの三日月帯の上にイスラエルとサウジアラビアを作り、インドや東南アジアを植民地化している。その三日月帯の東端にあるのが日本列島にほかならない。その日本をアメリカは現在、太平洋側における拠点と位置づけている。

 1991年12月にソ連が消滅するとネオコン(シオニストの一派)をはじめとするアメリカの好戦派はアメリカが唯一の超大国になったと認識し、他国に配慮することなく単独で行動できる時代になったと考えた。そして1992年2月に国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランが作成された。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンだ。

 アメリカの支配者は自分たちの属国である日本にも国連を無視することを望んだのだが、細川護煕政権は国連中心主義を捨てない。そこでこの政権は潰されたのだが、それと同時に新たな日本の軍事戦略を押しつけてくる。国防次官補だったジョセイフ・ナイが1995年2月に発表した「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」だ。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が謳われていた。それ以降、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていくが、それは日本人がアメリカ支配層の傭兵になることを意味している。

 アメリカ人やイギリス人は19世紀に中国(清)へ麻薬を売りつけることで大儲けした。そうした中、イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)を中国に対して仕掛け、略奪を本格化させている。

 これらの戦争でイギリス側が勝ったことは事実だが、中国の全域を支配するだけの軍事力がない。そこで目をつけたのが日本。明治維新にイギリスが深く関与したのはそのためだろう。アングロ・サクソンにとって獲物は大陸の中国であり、日本人はその獲物を手にするための傭兵ということになる。

 明治維新で誕生した体制は琉球を併合し、台湾へ派兵、李氏朝鮮の首都を守る江華島へ軍艦を派遣して挑発、日清戦争へとつながる。そして1904年2月に日本軍はロシア海軍の拠点だった旅順を奇襲攻撃して日露戦争がはじまった。

 日露戦争の後、セオドア・ルーズベルト大統領は日本が自分たちのために戦ったと書き、団琢磨の友人である金子堅太郎はアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったとシカゴやニューヨークで説明していた。金子はルーズベルトとも親しい。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)

 日本人がヨーロッパ人の傭兵として東アジアで戦うという構図は戦国時代にもあった。当時、日本では勝者側の雑兵や忍びが敗者を殺したり放火するだけでなく、財産を奪い、女性や子どもを中心に拉致して奴隷として売りさばくことが普通だった。その一部はポルトガルの商人らの手を経て国外へ連れ出され、売られている。正確な人数は不明だが、売られた日本人は10万人を超えていたという推計もある。

 その中には若い男性もいて、イエズス会のカブラルは1584年、日本人を雇い入れて中国を武力で征服しようとスペイン・ポルトガル国王に提案していたという。また平戸に置かれたオランダの商館は同国の東インド会社が行う軍事作戦を支える東南アジア随一の兵站基地だったともされている。(藤木久志著『雑兵たちの戦場』朝日新聞出版、2005年)

 徳川体制に入り、第2代目の将軍、徳川秀忠は人身売買、武器輸出、海賊行為を禁止、オランダやイギリスは傭兵を日本で調達することが困難になった。そうした禁輸令を受け、オランダのインド総督は日本人傭兵に代わる兵士を急いで本国から派遣するように要請している。(前掲書)そして徳川体制が倒れて明治体制へ移行した際、イギリスは日本人を再び傭兵として使い始めたと言えるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010010000/

6. 中川隆[-6193] koaQ7Jey 2021年3月31日 03:57:13 : pnlV5df2uo : RktFZ3ZCUmhKY2c=[7] 報告
戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/361.html

麻薬王 岸信介
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1170.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html

からゆきさん
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/315.html

こんな女に誰がした (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

従軍慰安婦は売春婦なのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/410.html

7. 中川隆[-6067] koaQ7Jey 2021年4月03日 16:44:30 : jgSxyjNUpc : anNESFVpRHplbUU=[29] 報告
中国人は日本人の恐ろしさを知らない _ 日本人の性奴隷にされた女性の運命

桜散る、もののあはれ とか 禅・能・和歌・おもてなし・茶道・武士道・剣道・柔道とかすべてカモフラージュ用のツールなんだよ:

南京戦では昭和天皇が朝香宮に電報で直々に虐殺命令を出したのがわかっています。それで東京裁判では松井石根を昭和天皇の身代わりに死刑にて虐殺責任の追及を終了させたのです:

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、
「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


▲△▽▼


日本人の性奴隷にされた女性の運命

アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、
最大で30万人もの14-20歳の女性たちを強制的に徴集して性行為を強要したとしている。
さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。
慰安婦たちは k ankoku と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が k ankoku 出身であった。

逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている。

この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている。


▲△▽▼

チョン・オクスン(ChongOkSun)の証言
「私は1920年12月28日、半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。

13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。

10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。

その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。

一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、

彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。

最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、

「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」

と語りました。彼はまた

「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」

とも言いました。


ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。

あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。

○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。

○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた

○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた

○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた

○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った

○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ

○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました

守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。

彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。

__________

日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。

 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。

 ある日、田中は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。

私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日本兵は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日本兵は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。

8. 中川隆[-6028] koaQ7Jey 2021年4月04日 07:40:20 : gDb5AlH4lg : VVV5Zk1LelZYVXc=[17] 報告
日本人が世界から浄化される理由 _ 日本人と天皇一族の正体

日本人と天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
尖閣・沖縄・北海道・千島は日本の領土ではない

・chousen で長江の稲作民と縄文人に似た民族が混血して現代日本人と全く同じ遺伝子の日本語を話す無土器文化人になる

・chousen の無土器文化人(弥生人)が北九州に移民して水田農耕を始める

・ソウルに居た漢民族の天皇一族が北九州に移民、植民都市の伊都国を作り、日本人奴隷(生口)を青銅器・鉄と交換する奴隷貿易で稼いでいた。後漢の光武帝が贈った金印(漢委奴国王印)の「委奴」は「いと」と読む。

・神武東征・倭国大乱 → 天皇一族が日向・大和・丹後に天孫降臨、縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・10世紀に沖縄へ日本人大量入植 → 沖縄の縄文勢力をジェノサイド、若い縄文女性は殺さないで性奴隷にした。

・10世紀に西表島・石垣島へ日本人大量入植 → 西表島・石垣島に先住していた台湾先住民をジェノサイド

・豊臣秀吉の chousen 出兵 → chousen で奴隷狩り、平戸や長崎は世界有数の奴隷市場になった。ポルトガル商人に奴隷を売って鉄砲や白糸を得た

・明治維新 → 田布施の chousen 人が徳川幕府を倒し英米の傀儡政権を作る。

・神仏分離令・廃仏毀釈・神社合祀令 → 神仏習合の禁止・日本の仏教と神道を弾圧、六部・虚無僧・山伏・梓巫女・憑祈祷・狐下しを禁止、神社を統廃合した。日本人は無信仰・無神論の民族に変わった

・欧米との貿易開始 → 日本人女性50万人を騙して売春婦として海外に売り飛ばした

・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力をジェノサイド

・千島列島の乗っ取り → 千島アイヌを色丹島の強制労働所に集めて絶滅させる

・chousen の乗っ取り → 農民から農地を取り上げ、作物を日本へ飢餓輸出、chousen 女性を性奴隷 にする

・台湾のアヘン漸禁政策 → アヘンを専売化し、濫用防止の名の下に、大規模なアヘンの密売を主宰することで日本軍資金を調達した。

・満州の乗っ取り → 農民から農地を取り上げケシを栽培、麻薬商売で ぼろ儲け

・関東大震災 → JPモルガンから復興費用を借り、それ以降天皇一族は JPモルガンのエージェントになる

・2・26事件 → 政府の新自由主義政策に憤った共産主義者の将校が革命を起こすが、味方だと思っていた昭和天皇に裏切られる

・大東亜共栄圏 → 満州でケシ栽培、chousen の工場で麻薬製造、中国・東南アジアで麻薬を売って ぼろ儲けする体制

・南京大虐殺・慰安婦強制連行・731部隊の人体実験 → 昭和天皇直々の命令でやったので陸軍や外務省では止められなかった

・中国・東南アジア侵略 → 食料を強制調達して日本に送り現地で1000万人以上餓死させる。 現地女性を性奴隷 にする

・近衛上奏文 → 日本陸軍の軍人の殆どが共産主義者で、ソ連の対日開戦に合わせて共産革命を起こそうとしている、と警告

・太平洋戦争 → 日本陸軍による共産革命を防ぐ為にアメリカと八百長戦争をやって、アメリカ軍に日本を占領して貰った

・大空襲・原爆投下 → 共産主義者を武器・食料無しで最前線へ送り、本土の共産主義者も大空襲・原爆投下で革命を起こす気力を無くさせた

・特殊慰安施設協会(RAA)設置 → 35万人の日本駐留米軍の為に、仕事の無い日本女性に女性事務員募集と偽り 7万人の慰安婦を集めた。当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。
朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人慰安婦を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

・極東国際軍事裁判(東京裁判) → 昭和天皇の戦争犯罪を日本陸軍の軍人に肩代わりさせる目的で開廷される。

・日本国憲法第九条 → 日本陸軍は共産主義者ばかりだったので、共産革命を起こせない様に軍隊を廃止した

・一億総中流社会 → GHQ は日本共産党と労働組合を合法化、農地解放、意図的なインフレ政策・預金封鎖で富裕層の資産を奪い貧困層に分配した

・自民党による一党独裁 → 農地解放で農地をタダ同然で手に入れた小作人・貧農全員が自民党を支持したので自民党以外の政党は政権を取れなくなった

・chouse 戦争・ベトナム戦争 → 日本はアメリカの侵略戦争に加担、戦争特需でぼろ儲けして GDP 世界第二位の超大国になる

・1971年 本多勝一のルポ 「中国の旅」が朝日新聞に連載される → 南京大虐殺や戦時中の中国での日本支配の実態をルポ、文春や新潮は昭和天皇の戦争犯罪を隠蔽する為に渡部昇一や鈴木明に本多勝一批判をさせ、それ以降右翼は現在に至る迄、南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定する悪質なデマを流し続けている。

・日中国交正常化 → 中国に技術援助すると持ち掛け、中国の日本への戦争賠償請求権を放棄させた

・プラザ合意 → 日本からの膨大な輸入でアメリカ経済が崩壊したので、日本に政治的圧力をかけ超円高にして日本からの輸入を減らそうとした。アメリカは10年間で総額430兆円の公共投資の実施を日本政府に約束させ、意図的に平成バブルを起こさせた。

・平成バブル崩壊 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA は先物取引・オプション取引、金融工学の研究をした。 ソロモン・ブラザーズ証券は裁定取引を使って日経平均株価を38,915円まで上げてから売り攻勢をかけ 7607円まで暴落させるのに成功した。 更に日銀に金融引き締めをさせ、外資はインサイダー情報を使って日本株を底値で爆買い、日本株の3割、株取引の7割は外資になった。

・中国経済・kan国経済の躍進 → 日本の凄まじい経済侵略を恐れた CIA はアメリカの製造業をすべて中国に移転させ、中国の元とkan 国のウォンを意図的に通貨安にして、日本の輸出を壊滅させた

・迂回輸出 → 日本からアメリカに直接輸出するのではなく、組み立てだけ中国・kan国の工場で行って、中国製品・kan国製品として迂回輸出して稼ぐ様になった

・中国の環境破壊 → 日本企業の中国工場では猛毒化学物質が含まれる汚染水や煙をそのまま垂れ流している。中国では飲料水や農業用水にも水銀・鉛が含まれ、人間が住めない土地になってしまった。

・中国・kan国の反日運動 → 日本企業の中国工場では中国人従業員をタダ同然で酷使、日本企業のロリコン社員は毎晩10歳以下の女児と xxx しまくったので、中国人の怒りを買って反日暴動が頻発した

・尖閣乗っ取り → 尖閣を漁場にしていた台湾人を追い出す。中華民国(台湾)は尖閣は宜蘭県に属す島嶼だ、と昔から主張している。宜蘭は台湾原住民平埔族の中の一群であるクヴァラン族が広く住んでいた地域で、1632年にはクヴァラン族が歴史資料に登場している。

が、大まかな流れです。

▲△▽▼

日本の支配者は今も昔も chousen 人なので残虐で非人間的、どんな酷い事でも平然と実行できるのです
今の日本で生き残っている縄文人はアイヌ人、縄文系琉球人、douwa buraku 民だけです。

天皇家は漢民族で百済語を話していた、
弥生人(chousenの無土器文化人)は日本語を話していた、
縄文人はアイヌ語を話していた。

ヤマトの英雄 ヤマトタケル(=関西チョx) 坂上田村麻呂(=百済出自の在コリ)
ヤマトの王 桓武天皇(=母ちゃんが百済人)
ヤマトの信仰 稲荷神(=渡来系の秦氏が広める) 
ヤマトの国史 日本書紀(=百済人の編纂)
ヤマトの天 高天原(=chousen半島)

半島出身のスメラ尊の和風諡号にはかならず「天」がつく。書紀で「天」は chousen 半島を指すのだ。
________

明治維新は田布施の chousen人 による日本の乗っ取り:

明治以降の天皇は田布施の李朝王朝の関係者だった:
鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

【田布施システム】chousen系に乗っ取られた日本の裏歴史! 歴代首相を生み出す謎の村「田布施」を専門家が徹底解説!
https://tocana.jp/2019/12/post_130392_entry.html
https://tocana.jp/2020/09/post_171763_entry.html

9. 2021年4月04日 10:46:01 : gDb5AlH4lg : VVV5Zk1LelZYVXc=[29] 報告
日本はレアアースを中国に作らせ、中国を人間が住めない国にした


日本はレアアースの6割を中国から輸入し、残りも間接的に中国から迂回輸入している場合がある。

2010年頃のレアアース騒動で中国は日本に輸出規制を行ったが、日本は東南アジアなどを通じて迂回輸入した。

レアアースそのものは中国以外でも産出されているが、コストや環境破壊が問題で他の国は熱心ではない。


レアアースを採掘すると水質汚染や環境破壊が起き、得られる利益は少ないので割に合わないのです。

中国は環境無視、労働者や住民の健康も無視なのでレアアースを産出でき、それを世界は輸入している。
http://www.thutmosev.com/archives/84568918.html

10. 中川隆[-5694] koaQ7Jey 2021年4月15日 12:52:08 : 2WCnPZKA5U : aFYyNHFXQVpEVEk=[15] 報告


2021.04.15
隠された経済苦境の先に見える「新たな関東大震災」による惨状
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104150000/


 COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)のパンデミック騒動によって欧米を中心に社会が収容所化され、「デジタル・ワクチン・パスポート」の導入によって人びとの行動を監視する体制が整いつつある。

 その一方、生産活動や商業活動は麻痺、個人経営の店や中小企業を中心にして経営状態が悪化している。こうした事態になることは昨年1月13日に菅義偉首相が特別措置法に基づく緊急事態宣言を出した時点で見通されていただろう。

 そこで、​金融庁と日本銀行は4月16日に手形・小切手の不渡り処分を当面の間、猶予する特別措置を全国銀行協会に要請​、これを受けて同協会は翌日、新型コロナの影響を受けて資金不足で不渡りとなった手形・小切手について、不渡報告への掲載や取引停止処分を猶予するよう全国の手形交換所に通知した。

 手形や小切手の不渡りを同一手形交換所管内で6カ月以内に2回起こすと「取引停止処分」となり、その手形交換所の加盟金融機関から2年間にわたり当座取引や貸出取引ができなくなる。このルールが適用されなくなったわけだ。「不渡報告」への掲載も猶予される。

 しかし、手形や小切手の所持人に対する支払が猶予されるわけではなく、その所持人の手元に受け取れるはずの資金が入らない事実は変わらない。ルールや定義を変えても誤魔化しにすぎず、問題の解決にはならない。それでもそうした手法はとられてきた。福島第一原発の時ににも、COVID-19でも行われている。

 少なくとも一部の裁判所では申し立てを受理しても、緊急性のあるもの以外は事務処理の停止しているという。法的な手続きも含め、実態を隠すための方策であり、状況は改善されない。不渡りに関するルールは傷が全体に広がることを防ぐ方策でもあるわけで、今回の措置は副反応を伴う。アパレル大手のレナウンは先送りにすると傷口を広げると判断したのだろう。

 1923年9月1日に関東地方を襲った巨大地震によって10万5000人以上が死亡、あるいは行方不明になり、その損害総額は55億円から100億円に及んだと言われている。

 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引した。これを利用して銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引し、手形の総額は4億3000万円を上回る額に上る。その結果、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残り、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 復興にも資金が必要な日本政府は外債の発行を決断し、責任者に選ばれた森賢吾財務官はJPモルガンと交渉を始める。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。

 JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。

 日本に対する大きな影響力を手にしたラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行した。

 金解禁だが、その結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。

 そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だという考え方をする人物だった。現在の表現を使うならば、新自由主義の信奉者だった。失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだったが、その妻のいとこ、ジョセフ・グルーが駐日アメリカ大使として来日する。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。しかもグルーの妻、アリス・グルーは貞明皇后と親しかったと言われている。

 グルーが来日した1932年にはアメリカで大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーを選挙で破って当選している。ウォール街にとって受け入れられない結果だった。

 大統領就任式の17日前、つまり1933年2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミの演説会場で銃撃事件に巻き込まれている。銃撃犯はジュゼッペ・ザンガラ。彼が銃を構えたことに気づいた女性が腕にしがみつきながらハンドバッグで銃をはたいている。弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。

 1934年夏、海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将の下へ「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。その訪問者はJPモルガンと関係が深い人物で、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうと持ちかけた。

 彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、在郷軍人会を利用して50万名規模の組織を作って恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。

 指揮官になって欲しいと持ちかけられたバトラーは受諾する風を装って計画内容を聞き出し、それを信頼しているジャーナリストへ知らせ、そのジャーナリストは部下のポール・フレンチに調べさせる。フレンチはクーデター派から「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。

 こうした事実をバトラーとフレンチはアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。

 ウォール街のクーデター派がバトラーに声をかけたのは、彼が名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があったからだが、この人選に反対する人もいた。憲法を遵守するべきだという考え方をする人物だったからだ。反対派が推していたのはダグラス・マッカーサーである。

 アメリカにファシズム体制を樹立しようとした巨大金融資本が関東大震災以降の日本を支配していたということにもなる。明治時代に日本へ戦費を用立てたクーン・ローブと同様、JPモルガンの背後にはロスチャイルドが存在している。

 COVID-19騒動を利用してWEF(世界経済フォーラム)のクラウス・シュワブは資本主義を大々的に「リセット」すると宣言した。西側の強大な私的権力が支配する新しい支配体制を築くということだろうが、その中核になると見られている団体が「包括的資本主義会議」。ローマ教皇庁と連携している。その中心的な存在であるリン・フォレスター・ド・ロスチャイルドはエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻だ。エベリンはロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきた人物である。

 COVID-19対策で日本経済は疲弊、今後、財政負担は国民の上にのしかかり、ウォール街やシティの金融資本に呑み込まれることになる可能性がある。日本にとってCOVID-19騒動は「新たな関東大震災」なのかもしれない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104150000/

11. 中川隆[-5559] koaQ7Jey 2021年4月18日 09:38:50 : cVvh3vnihc : SkQ4eVFEeU43Y0U=[30] 報告

2021年04月18日
日米首脳会談、親密さや仲良しは外交と無関係
http://www.thutmosev.com/archives/85603107.html


外国首脳と友達になると、パシリやスパイとして利用される
個人的に敵対的であっても外交の不利益はない


友だちになったら外交では損をする

菅首相は2021年4月15日訪米し、バイデン米大統領と外国首脳としては初めての会談をする。

思い出すのは2016年11月、大統領就任前のトランプにはせ参じて初会談した安倍首相でした。

安倍首相はタカ派で知られるトランプが大統領に就任したので、いち早く対談して利を得ようとしたと思われる。

安倍トランプは4年間親密だったが外交上の成果はというと、あまりなかったような気がします。

むしろ前任のオバマ大統領のほうが、親密ではなかったが外交上の成果は大きかった。

オバマは鳩山や菅以来どちらかというと日本嫌いで、国連などで熱心に日本外しを指示していたとされる。


だが2014年の訪日では米大統領として初めて『尖閣諸島は日米安保に含まれる』と明言し、慰安婦問題でも日本を支持した。

退任間近の2016年にはやはり米大統領として初めて広島を訪問し、事実上米国の責任を認めた。

2011年の東日本大震災では頼まれもしないのにトモダチ作戦を実行し、民主政権で破綻していた日米関係を修復しようとした。


このオバマが安倍首相や日本人と仲が良かったかというと、鳩山の詭弁に呆れた類の話しかない。

ケネディ大統領は1961年から1963年までで、日本を好きではなかったと思うが日本の為に有利に働いた。

就任半年後の1961年に沖縄返還に調印、ベトナム戦争を引き起こして日本にとっては経済特需になった。

日米首相は敵対的なほうが良い?

1962年に米ソが核戦争の瀬戸際までいったキューバ危機で、ケネディは日本の運命を決定する演説をしていた。

10月22日にケネディはテレビ演説で「米国の同盟国への攻撃は米国への攻撃とみなし報復する」と述べている。

この演説の前は世界に展開する米軍はただの侵略軍だったが、守ってくれることになり日本もアメリカの核の傘に入った。


この頃日本政府は独自の核武装や再軍備も検討していたようだが、「アメリカが守ってくれるんなら非武装でいいや」と思った。

トルーマン大統領は1945年4月から1953年1月の人で、原爆投下や都市への絨毯爆撃を命令した人物です。


ただしルーズベルト大統領死去で急遽大統領になったので、大統領になった時にはあらゆることが既に決定されてた。

こんなトルーマンが日本の為に働いたのが1950年の朝鮮戦争で、それまで制裁されていた日本に無限大の生産注文が舞い込んで復興できた。

アメリカは終戦後、意図的に日本人を苦しめる為食糧不足を引き起こしたり、生産活動を禁止しました。

大統領とトモダチになったらパシリにされる

輸入も輸出も生産も農業すら禁止、商売も禁止し原爆被災者には治療するふりをして偽薬を与え、その様子をビデオ撮影させた。

トルーマンは心底日本人を憎み切っていた筈だが、朝鮮戦争が起きるや「日本さん、協力お願いします」と頭を下げてきた。

これで日米関係は逆転し1990年のバブル崩壊まで日本の押せ押せ時代が到来しました。


反対に親日家と言われていたのがレーガンやブッシュjrだが、ほぼろくな事をしていない。

ブッシュは2007年に安倍首相を呼びつけて、「おい、今すぐ慰安婦に謝罪しないならここから出ていけ」と怒鳴りつけ安倍首相は謝罪して帰ってきた。

ブッシュの真の目的は日米貿易交渉で、無関係な事で謝罪してしまった安倍首相はもちろん不戦敗で帰国しました。


レーガンはバブル崩壊の原因になったプラザ合意をしかけ、今も日本は後遺症に苦しんでいます。

日本の首相と米大統領がトモダチになると、「おい安倍、トモダチなら証拠を見せろ」などと言われて譲歩を迫られるケースが多い。

むしろ敵対的な関係のほうがマシなほどで、外交は友達作りとは関係ないのです

http://www.thutmosev.com/archives/85603107.html

12. 中川隆[-17339] koaQ7Jey 2021年8月09日 06:54:48 : Dzasa0Gixw : MExBYVlRR2FTb00=[3] 報告

2021.08.08
自分たちから離れていくかつての属国を引き戻そうと必死のバイデン政権
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108080000/


 アメリカのジョー・バイデン政権はユーラシア大陸の東側で盛んに動いている。同政権は「対アジア政策」、事実上の対中国政策の責任者としてカート・キャンベルを選んだが、この人物の働きで「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が1995年2月に作成されている。このレポートによって日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。

 7月25日にウェンディ・シャーマン国務副長官が天津を訪問し、翌日には謝鋒外務次官や王毅国務委員兼外相と会談したが、中国の外交分野におけるトップである中央外事活動委員会弁公室の楊潔篪主任には会えなかった。

 その直後にロイド・オースチン国防長官がフィリピンとベトナムを、またジョン・ブリンケン国務長官はインドをそれぞれ訪れたが、いずれも中国へ軍事的な圧力を加えるための拠点作りだと言えるだろう。

 アメリカは1898年にスペインと戦争を行って勝利、中央アメリカから南アメリカにかけての地域を植民地化、さらにフィリピンも侵略して住民を虐殺している。フィリピンは大陸を侵略する重要な拠点と認識されていた。

 その前にアメリカやイギリスは日本でクーデターを成功させ、新体制を侵略戦争へと誘導する。イギリスはアーネスト・サトーらが暗躍していたが、アメリカでは厦門の領事だったチャールズ・ルジャンドルや駐日公使だったチャールズ・デロング。ふたりは明治政権に対し、台湾へ派兵するよう煽っていた。台湾へ派兵するために琉球を併合することになる。

 そこから江華島事件、日清戦争、日露戦争、シベリア派兵、「満州国」の建国、ノモンハン事件、そして1941年の関東軍特種演習。ここまでは中国からロシア/ソ連を支配するというアメリカやイギリスの戦略に合致している。

 現在、アメリカは日本を「巨大空母」化させ、自衛隊の傭兵化を進めている。沖縄での軍事力を増強、台湾の現政権はアメリカの言いなり。次にフィリピンを制圧しようとするのは必然だろう。韓国の現政権を屈服させて橋頭堡にしようとしている。明治時代と同じようなことを行っているのだ。長期戦略に変化はないとも言える。

 19世紀にイギリスが立てた長期戦略はユーラシア大陸の周辺部を制圧し、内陸部を締め上げるというもの。その戦略をまとめたのが地政学の父とも言われるハルフォード・マッキンダーで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその戦略に基づいている。

 アメリカは2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ作り替えたが、これもマッキンダーの理論に合致している。日本を太平洋側の拠点、インドを太平洋側の拠点にし、インドネシアが領海域をつなぐとされた。そこでアメリカやその手下である日本がインドへ働きかけているのだが、働きかけなければならない状況だとも言える。インドはアメリカとの距離を置き始めたのだ。インドネシアもアメリカの思惑通りには動いていない。

 アメリカはインドと中国の対立を煽ってきた。昨年5月にもインド北部のラダックと中国のチベット自治区にはさまれた場所にあるパンゴン湖でインドと中国が衝突、緊張が高まっていたが、今年8月6日に両国軍の撤退が発表された。緊張緩和の流れを阻止することがブリンケン国務長官の与えられた使命だろう。国防長官や国務長官が走り回らなければならないほど、ユーラシア大陸東部の国々はアメリカから距離を置こうとしている。

 そうしたこともあり、NATOがユーラシア大陸の反対側までやってこようとしている。例えば事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグは「NATO2030」なるプロジェクトを始めると2020年6月8日に宣言したが、イギリス軍やフランス軍が東アジアへ現れるようになった理由はその辺にあるのだろう。

 アメリカのインド・太平洋軍司令部は8月3日から16日の日程で、40年ぶりの大艦隊演習だという「LSGE21(2021年大規模演習)」を実施している。アメリカの海軍と海兵隊が演習の主体だが、アメリカの陸軍、空軍、海軍、海兵隊、そしてイギリス軍、オーストラリア軍、自衛隊も合流しているという。

 周辺国を威嚇しているつもりかもしれないが、すでに空母を中心とする艦隊の時代は過ぎ去った。1982年4月にアルゼンチン軍とイギリス軍がフォークランド(マルビナス)諸島の沖で軍事衝突、5月にアルゼンチン軍の対艦ミサイル、エグゾセがイギリスの軍艦、HMSシェフィールドなどを撃沈、他の感染にもダメージを与えている。

 あわてたイギリスのマーガレット・サッチャーはパリでフランスのフランソワ・ミッテランと会談し、ミサイルを無効化するコードを教えるように要求、それでイギリスは勝利することができたと言われている。この戦争で艦隊の時代は終わったと言えるだろう。

 現在、ロシアや中国が保有している対艦ミサイルはエグゾセとは比較にならないほど性能が向上している。海上を航行する艦船はすぐに撃沈される可能性が高く、アメリカの空母艦隊はかつての「戦艦大和」と似た状況に置かれている。

 アメリカは脅しながら交渉する。例えば大統領に就任した直後、ドワイト・アイゼンハワーは泥沼化した朝鮮戦争から抜け出すため、中国に対して休戦に応じなければ核兵器を使うと脅したとされている。それを副大統領として見ていたリチャード・ニクソンはベトナム戦争の際に同じ手法を使ったともいう。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 現在、アメリカは台湾を利用し、中国に対して軍事的な圧力を強めているが、1958年8月から9月にかけての時期にも台湾海峡で軍事的な緊張が高まっていた。エルズバーグによると、1958年の危機当時、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は金門島と馬祖に核兵器を投下する準備をしていた。そして現在、​バイデン政権は同じことが国防総省で議論されている​という。脅しても相手が屈するとは限らないと言うことをアメリカが学べないなら、世界は非常に危険な状態になる。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108080000/

13. 中川隆[-16491] koaQ7Jey 2021年9月09日 07:33:09 : RIeGMRjDA2 : WWJhdXU0aU1Kdms=[20] 報告
731部隊と医療被曝 _ 無事に内地に帰還した731部隊員は何をやったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/471.html

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