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(回答先: 被差別同和部落問題・在日朝鮮人問題 投稿者 中川隆 日時 2021 年 4 月 22 日 19:01:39)
金嬉老事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AC%89%E8%80%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6
金嬉老事件(きんきろうじけん、キムヒロじけん)は、1968年2月20日に在日韓国人二世の金嬉老(きんきろう(キム・ヒロ)、改名後の本名:権禧老(クォン・ヒロ)、1928年11月20日 - 2010年3月26日、事件当時39歳)が犯した殺人を発端とする監禁籠城事件である。寸又峡事件とも呼ばれる。
籠城中に警察に差別発言への謝罪を求め、記者会見を何度も開くなどし、事件は殺人事件から差別の告発に急変する。親族は「当時、在日はみんな差別された。金嬉老は殺人を民族問題にすり替え、社会がそれを利用した」と語った[1][2]。
事件概要
殺人
1968年2月20日、手形のトラブルが高じて暴力団から借金返済を求められた金は、返済を約束して静岡県清水市(現・静岡市清水区)の歓楽街にあるクラブ「みんくす」で暴力団・柳川組組員と面会。
その場で暴力団員2人(未成年の少年1人を含む)に対しライフルを乱射して殺害し逃亡した。
監禁
逃亡中の翌日には、同県榛原郡本川根町(現・川根本町)寸又峡温泉の「ふじみや旅館」で経営者と宿泊客ら13人[要出典]を銃で脅し、人質にとって籠城した。
金は、M1カービン用の30発弾倉を取り付けた豊和工業製の猟銃「M300」とダイナマイトで武装していた。籠城すると、自ら警察に居場所を通報し、警察が民族差別について謝罪することを人質解放の条件とした。88時間にわたった籠城の結果、2月24日に金は報道関係者に変装した静岡県警察の捜査員と記者らによって[要出典]取り押さえられ逮捕された。
差別問題
旅館には、警察とともに、報道陣も詰め掛けた。金は何度も記者会見を開き、これまで受けた差別を訴え、警察官による在日韓国・朝鮮人への蔑視発言について謝罪することを人質解放条件として要求、それ以外の要求をほとんどしなかった。これにより、事件は民族差別の告発として報道されるようになっていく。
金のいう警察官の発言とは「朝鮮人は日本へ来てろくな事をしない」というもの。日本人と在日朝鮮人のケンカの仲裁に呼ばれたにもかかわらず、日本人の行為は不問にし、朝鮮人だけを逮捕し、このように言った、と金は主張している。
一方、静岡地方裁判所で行われた検察側の論告では「冷酷で計画的な殺人であり、民族差別論は問題のすり替えである」とされている[3]。
過熱する報道
金が籠城する様子はテレビやラジオで実況中継され、関連していたとされる警察官がテレビに出演するなどもした。連日各テレビ局のワイドショーは、人質被害者の安否や被害者家族の意向などお構いなしにスタジオから「ふじみや旅館」に独自に生電話を入れて視聴率を稼いだ。
一部のメディアは、銃を持って戸外を警戒している金に対し「金さん、ライフルを空に向けて射ってくれませんか」と要望を出し、金が空に向かって数発、ライフルを乱射しているところをカメラで映して演出までした(のちに金本人が法廷陳述で一連のマスコミ報道の裏を暴露して不満を表明している)。また金の本国である韓国でも大々的に報道され、金は殺人及び監禁犯であるにも拘らず「差別と戦った民族の英雄」として祭り上げられた。
裁判
金は静岡刑務所未決監独房に身柄を移され殺人罪、逮捕監禁罪、爆発物取締罰則違反で起訴された。裁判では金の在日韓国人としての生い立ちがどれほどの影響を与えたかが主な争点となった。
裁判中、刑務所内での金に対する特別待遇の実態が判明する。金の独房は施錠されておらず、散歩や面会なども自由で、脱獄手段に用いられる出刃包丁、ヤスリ、ライターなどを持ち込んでいた。これは金が自殺をほのめかしたりして、規則違反がエスカレートしたものだった。また、暴力団員を殺害しているところから、トラブルを避けるため、女囚用の房に隔離された。刑務官は常に1対1になるよう配置された。
これらの特別待遇は刑務所上級職員の間で申し送り事項になっていた事実も判明し、刑務所の管理体制が問題となり、衆議院法務委員会でも責任追及が行われた。その結果、法務省矯正局長以下13人の法務関係者上級職員、専従職員13人が停職・減給・戒告・訓告などの処分を受けた。包丁を差し入れたとされる看守は、後に服毒自殺をしている[4]。
裁判では、事実上、当事者側となっていた報道関係者らにも証言が求められたが、彼らの口は重かった。1971年7月22日、4度の出頭命令を拒否し、静岡地方検察庁から拘引状を出されていたTBSテレビの記者が出廷。裁判長は被害者としての体験のみに限って証言するように求めたが、報道記者として行った取材で知り得た事実は証言できないとして拒否した[5]。
1972年6月、死刑求刑に対し静岡地裁は無期懲役の判決を下す。1974年6月、東京高裁が控訴棄却。1975年11月4日、最高裁が上告棄却し無期懲役が確定。熊本刑務所、府中刑務所、千葉刑務所などで服役。1999年9月に、韓国に強制送還し二度と日本に入国しないことなどを条件[6] に70歳で仮釈放[7]。東京保護観察所を経て、韓国釜山に帰国させられた。これにより日本における特別永住者の立場を喪失した。
獄中でのハーレム生活
前述の通り、金は、静岡刑務所では「暴力団とのトラブルを避ける為」という名目の下、女囚の雑居房があてがわれた。しかし、トラブル回避の為とは名ばかりで、その待遇は異常なものだった。 房内にはラジオにカメラ、キッチンセットまで備えられ、隣室の女囚と行き来が自由。金の手料理や店屋物を出前させて会食し、男女の営みまで可能な状態だった。 いい女が入所すると睡眠薬を混入した店屋物を食べさせ、レイプまでしており、やりたい放題であった[8]。
帰国後
1999年9月7日、韓国政府から助力を得て、釜山にて新生活を始めた。本名を金嬉老から権禧老に再変更し、1979年に獄中結婚した女性としばらくして同居するようになる。
2000年4月13日、韓国国民として国政選挙に投票して主権を行使した。4月25日、金の妻が生活定着金など4750万ウォンもの現金をタンスや権の銀行口座から引き出して逃走、窃盗と私文書偽造の容疑で指名手配され、1年5ヶ月逃走後の2001年9月25日に逮捕された[9]。金自身も、2000年9月3日、講演会がきっかけで内縁関係になった愛人の夫の殺害を計画、凶器を持って押し入り乱暴を働いた上に家の中に火を付けて、夫への殺人未遂と放火および監禁事件を引き起こし、シャツとズボンに被害者の血飛沫が付いたままの姿で現行犯逮捕され服役した。一連の事件により、韓国での金嬉老の人気は地に落ちたという。
晩年の金は「日本にある母親の墓参り」を理由に、2010年3月に韓国政府を経由して、日本の法務省に入国許可を陳情する予定だった[10]。しかし前立腺がんのため、2010年3月26日に釜山市の病院で死去した[11]。享年82。本人は静岡県掛川市の母親の墓所への納骨を希望したが、一族との不和から実現せず、釜山沖と事件現場に散骨された[12]。
金の人物像
金嬉老は窃盗などを重ねて1943年に逮捕され、終戦まで相愛少年保護院で過ごした。また、1946年にも窃盗・横領罪で服役し、同年離婚、その後の約20年間も、窃盗、詐欺、強盗などの犯罪を繰り返し、刑務所を出たり入ったりするような生活だった[13]。
金嬉老事件の人質監禁88時間は警察が包囲する人質監禁時間として当時の日本の最高記録になったが、1972年に発生したあさま山荘事件の人質監禁216時間で更新された。
この事件を機に警察に狙撃隊が創設され、2年間で警視庁・北海道・宮城・愛知・大阪・福岡の各警察本部(機動隊)に100丁の豊和工業製ゴールデンベアライフル(狙撃用ライフル)が配備された(銃器対策部隊の創設)。狙撃隊が初めて出動したのは2年後の1970年に発生した瀬戸内シージャック事件であり、大阪と福岡から部隊が派遣された。
自殺に追い込まれた看守に対して金嬉老は何の感情も反省も持っておらず、他人事のような態度をとったことに対して、特別弁護人を務めていた佐藤勝巳は非常に驚き愕然と[4] 述懐している。
獄中時代から田代まさしのファンで、田代が金を訪ねた際には喜んだという(田代のシャネルズでのデビューは事件から12年後の1980年)。なおこの時期は田代が自らの不祥事で謹慎中であり、田代の不祥事を伝え聞いた金は「あの田代君がそんなことをするわけないじゃないかと言ってやったんだ」と田代に話し、田代は正直に経緯を話すことができなかったと『創』の連載に書いている。
事件の舞台となったふじみや旅館では、2010年2月20日で事件から42年になるのを機に、旅館内に資料館を設け、事件の資料を一般公開していた[14]。しかし女将の高齢化と観光客の減少を理由に、2012年1月をもって廃業している[15]。
在日朝鮮人の中には、金嬉老を差別と戦う民族の英雄と見ているものがおり、新大久保の高麗博物館などでは、そのような考え方に基づく展示が行われている[16]。
金の特別弁護人を務めていた佐藤は「民族差別があるから、この度の事件が起きたのだ」と主張する金に対し、「民族差別は在日朝鮮人全体に及んでいるが、殺人などほかの人たちはしていない。君個人にも責任があるのではないか」と反論した。これに対し「お前のような日本人にそんなことを言われる筋合いはない」「(他の在日朝鮮人は)勇気がないから(人を殺害しない)」と殺意を露わにして絶叫したエピソードを紹介している[4]。
事件以前からの金嬉老を知る親族は「人生の大半を刑務所で過ごし、人から金をせびっては豪遊する、見えっ張りでずるくて極端な男だった」として、在日本の同胞親族に遺骨を拒否されている[1][2]。
備考
1968年2月22日、鈴木道彦、中嶋嶺雄などが銀座東急ホテルに集まり、以下の文書をまとめた[17]。
あなたの声は、私たちのところに届きました。(略)あなたの行動は民族の責任を衝きました。私たちは、まさに日本民族のため、あなたの声をまっこうから受け止めたいと思います。
日高六郎、中野好夫、宇野重吉も電話連絡で呼びかけられ、署名する。1968年2月23日、文化人・弁護士5人が文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見、そのときの様子は以下である[17]。
金が例によって自分の生い立ちから、悪に走ったいきさつを話しはじめました。話は安保のときの樺美智子さんのことからはては倉石発言にいたるまで広がりましたよ。金達寿さんは泣いて聞いていました。伊藤さんも涙を流して、ハンカチで目をふいていましたね。前には七輪の上でスキヤキなべがゴトゴト煮えている。一方、金は手を火にかざして泰然自若としている。奇妙な風景でしたねえ。
— 「金嬉老『特別弁護団』の文化人」『週刊文春』1968年3月18日号
逮捕後、文書に署名した文化人の多くは、事件とのかかわりから逃避・遁走して、「金嬉老の訴えをもとに金を弁護し、闘うという初期の呼びかけはどこへやら」となり、「すでにわれわれの役割は終わったのだ」として縁を切る人物から、「金嬉老を守る会」ではなく「差別と偏見を考える会」へと逃走する人物まででる「失速ぶり」となり[18]、彼等を風刺したのが福田恆存作『解ってたまるか!』である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AC%89%E8%80%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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