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(回答先: 街をきれいに保つ、という感覚は日本人が突出している 投稿者 中川隆 日時 2021 年 10 月 09 日 11:40:56)
2021年10月9日
【竹村公太郎】人類の奇跡の正倉院−なぜ、奪われなかったかー
https://38news.jp/column/19484
奈良の正倉院展
毎年秋、奈良国立博物館で正倉院展が開催される。今年は10月30日から11月15日まで開催される。展示会が終わると山々は紅葉の盛りから冬の色に変化して行く。この展示会は関西の良い歳時記となっている。
20年前の1997年、大阪で単身赴任をしていた私は時間つぶしに「正倉院展」へ向かった。いつもは静かな奈良を大勢の人々が博物館に向かって歩いていた。
1時間以上の長い列のあと館内に入った。抑制された照明のガラスケースの中に、絵画、金工、漆器、刀剣、ガラス器などが何十点も展示されていた。
美術に素養がなくてもどれも古代の美術工芸品であり、歴史的文化財であり、高価な宝物であることは肌で感じとれた。
この展示会の解説文に驚かされた。
正倉院には9,000点もの宝物があり、何十点かは毎年変更されるという。すべての宝物を見るためには100年以上もかかることになる。
この莫大な宝物が1千年以上も無事だったことに圧倒された。
この正倉院の存在は、奇跡であった。人類の奇跡と言ってよい。
奇跡の正倉院
東大寺にある正倉院は、奈良時代の8世紀中ごろ倉庫として建設された。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめ、天平時代を中心とした宝物を保管する倉庫である。収蔵されている宝物は、中国、朝鮮だけでなく遠くペルシャからの宝物も含まれている。
この正倉院はシルクロードの終着駅であった。
正倉院は高床式で、壁面は校木を積み重ねた校倉(あぜくら)造りである。巧みな木造の校倉造りと、宝物は多重の箱に収められていたので、高温多湿の日本で宝物は守られた。貴重な膨大な宝物が1千年以上保存されたことは奇跡的なことであり「世界の宝庫」と呼ばれる所以である。
しかし、この正倉院には、それ以上の「奇跡」があった。
「盗まれなかった」ことである。ありえない謎である。奇跡としか言えない謎である。
正倉院展を観ている中で、この謎に包まれてしまった。
交流軸から外れた奈良
現在、正倉院は宮内庁が管理している。明治以前は東大寺によって管理されていた。
正倉院が建てられた時代、奈良盆地は日本文明の中心であった。奈良には富も権力も人も集中していた。正倉院も朝廷によって厳重に警戒され、安全は万全であっただろう。
しかし、784年、都が奈良から長岡京へ遷都されて以降、奈良は日本の歴史に登場しない。奈良は大いなる眠りに入っていた。
平安後期から武士の時代となり、源平の戦いを経て源氏が勝利し、政治の中心は関東の鎌倉に移った。その後、南北朝の混乱を経て、再び京都で武士の室町時代となった。
1467年に応仁の乱が勃発した。秩序を失った日本列島は、100年以上の戦国の世に突入した。織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康と覇権が移り、1603年、徳川家康が江戸幕府を開府し、やっと平和な時代を迎えた。
1千年の間、日本史の舞台は大阪、京都、江戸であった。
大阪と京都を結ぶ動脈は淀川であった。京都と江戸を結ぶ動脈は、東海道と中山道であった。そして、日本列島の周囲には海運ネットワークが形成されていった。
平安時代以降、江戸そして近代明治まで、奈良は歴史の大動脈から外れていた。淀川の水運から外れていた。東海道、中山道の陸の街道からも外れていた。奈良は海に面しておらず、日本列島の海運ネットワークからも外れていた。
奈良は激動し躍動する日本史の交流軸から外れていた。(図―1)で奈良盆地が街道から外れていることを示した。
奈良の大いなる眠り
明治になり、国鉄と近鉄が奈良盆地に敷設されるまで、奈良は山々に囲まれた田圃で眠りについていた。
奈良の1千年の眠りには根拠がある。それは、奈良の人口の変遷である。
(図―2)は奈良市の人口の変遷を示す図である。
国土交通省の奈良国道事務所の労作である。
平城京が栄えた奈良時代、奈良には20〜30万人が住んでいた。しかし、奈良から京都へ遷都されると、人口は3万人に激減してしまう。その後、明治までの約1千年の間、奈良の人口は増えることはなかった。江戸時代、日本の総人口が1000万人から3000万人に激増した。その人口急増の江戸時代でさえ、奈良の人口は増えなかった。
この図を見ているかぎり、奈良は躍動する日本の歴史から忘れられ、大いなる眠りについていた。眠りについていた証拠がある。(図―3)は、全国の都道府県別の旅館、ホテルの数の統計である。
全国最下位は奈良県である。
旅館、ホテルの数は、その土地の交流を表す。奈良は交流軸から外れ、人々の交流はなく、眠っていた証左である。
この1千年の間、何度も大騒乱が起こった。殺気立った軍隊が奈良にも入ってきた。血に飢えた夜盗や敗残兵も入ってきた。
その間、奈良には強力な政治権力はなく、正倉院は宝物を抱いて裸同然に立ち尽くしていた。
しかし、その正倉院は、誰にも襲われなかった。
世界の人類史でありえないことであった。
盗掘され、襲われる遺跡
世界の歴史遺産は、どれも盗掘され、破壊されている。偶然、海底に沈んだり、地中深く埋まった遺産は別にして、盗掘から逃れた遺産など世界にはない。
時代を制覇した王たちが腐心したのは、いかに自分の墓が荒らされないかであった。王たちは深く隠し、複雑に守った。しかし、王たちの遺産は必ず人々によって盗掘され、夜盗集団に襲われた。
それが人間社会の相場であった。ところが、正倉院は襲われず盗まれなかった。
正倉院に多数の宝物が存在していることは、誰もが知っていた。その正倉院は寂しい奈良で、これ見よがしに高床式の木造で立ち尽くしていた。その姿は、いかにも襲ってくれと云わんばかりであった。武装した20人もの盗賊なら、いつでも宝物を強奪できたはずだ。
何故、正倉院は襲われなかったのか?
日本はそれほど治安が良いのか?日本の夜盗は特別に倫理観がすぐれていたのか?そのようなことは到底考えられない。
腑に落ちなかった。その謎は胸の中に沈んでいった。
宝物の神秘の力?
正倉院展に行ってから10年が過ぎた。
奈良県が主催する会議に呼ばれた。その会議で、奈良の歴史に造詣の深い3人の教授陣と同席した。正倉院が襲われなかった理由を聞く良い機会であった。
会議の間、それを聞くタイミングを探していた。話題は奈良の歴史に移っていった。チャンスとばかりに、心を弾ませながら発言した。
「何故、正倉院は盗掘に遭わなかったのですか?正倉院を屈強な武装団が守っていたとは思えません。世界史の中で、宝庫は必ず襲われています。ましてや正倉院は木造です。何故なのでしょうか?」
3人の教授の方々は答えに窮していた。少し間をおいて、ある教授が「源平の乱の大火事の際、正倉院の手前で火は止まりました。正倉院の『宝物の力』が守ったのでしょう」とユーモアで答えられた。会議の出席者たちも笑って、その場が過ぎ去ってしまった。
正倉院の宝物の神秘の力が、盗掘から正倉院を守った、というのは話としては面白い。しかし、納得できるものではなかった。
近鉄奈良駅ビルの模型
会議が終わって近鉄奈良駅に向かった。京都行きの特急まで30分あった。興福寺や東大寺へ行くには時間が足りない。切符を買った後、どうしたものかと構内を見回した。その時、ふっと案内が目に飛び込んできた。
奈良駅ビルの4、5階の「なら奈良館」の看板だった。奈良の観光案内なのだろう。時間つぶしにはちょうどいい。その館に向かった。
やはり、そこは観光館であった。内容はビデオ映像と写真の展示であった。ぶらぶら見て歩いていると、あっという間に出口になってしまった。出口の広間に、5m四方の模型ジオラマが置いてあった。その模型は、江戸時代の奈良の町であった。
それを見たときには「なんだ、これは!」と声を出してしまった。
大きな箱全体に、ただただ民家がごちゃごちゃと詰まっていた。これといった建物はない。しかし、意識を集中して見ると、これら町家に埋もれるように寺社が見える。
このジオラマから目が離せなくなった。
正倉院の謎が解けた!
電車の時刻が迫っていた。コンビニに走って簡易カメラを買って映した。(写真)は、ジオラマ模型の奈良の町屋である。
特急に飛び乗ってビールの缶を開け、夕方の奈良の山々を眺めながら「そうかー」とつぶやいた。
あの奈良の町家の模型が、正倉院の謎の解答だった。
濃密な奈良の町
「京が京都へ遷都されて以降、奈良の人口は激減し、そのまま明治の近代化を迎えた。奈良は大いなる眠りについていた」と私は表現した。
自分自身がこの表現に囚われていた。奈良は閑散で寂しい田舎だった、という思い込みだ。
その思い込みは間違っていた。
興福寺や東大寺の背後には、うっそうとした春日山がある。模型は興福寺や東大寺の前面の町屋を再現していた。びっしりと町家が埋まっていた。
平城京や平安京や江戸の街には、広い街路が配置されていた。木造の都市の大敵は火事だ。その火事から町を守るため広い街路が必要であった。
ところが、この奈良の町には、広い路がない。町の中を狭い路地が迷路のように曲がりくねっている。
現在の奈良には、広い大宮通りが県庁に向かっている。県庁付近では鹿たちが悠々と歩き回っている。しかし、当時の奈良の町並みは、想像もできないほど狭く、凝縮した町だった。たしかに、奈良盆地全体の人口は多くはなかった。しかし、奈良の中心は、人口密集の濃密な町屋であった。
都が奈良から京都へ遷都してからは、奈良は交流軸からはずれた。奈良の人々は町屋に集まり、肩を寄せ合うように濃密な共同体を形成していた。
この密集する町家の人々が、正倉院を守った。
町衆が守った
奈良の町屋で生活する人は、みな顔馴染みだった。隣の家族も、向こうの家族も、小さい頃からみな知っている。
この濃密な町に、不審な者や犯罪者など一歩も立ち入れない。男衆だけではなく女衆や子供の視線も怪しい者の侵入を防いだ。
怪しい者たちが正倉院にたどり着くには、この町屋の狭い路地を抜けなければならない。密集する家々の内側から、町屋の男衆や東大寺の僧兵が待ち構えていた。彼らは槍を構え、怪しい者が路地に浸入してきたときに、何本もの槍をただ突き出せばよかった。
夜盗や狼藉者にとって、この迷路は危険過ぎた。盗賊たちは、正倉院の宝物を奪うことを諦めた。
正倉院が守られた理由は、日本の夜盗の道徳心や倫理観ではない。
正倉院が守られたのは、密集した町家と狭い路地とそこに住む人々の存在だった。
奈良の町屋が、人類の奇跡の正倉院を生んだ。
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