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(回答先: 知ると脱力 日本の伝統の正体(笑) 投稿者 中川隆 日時 2021 年 4 月 11 日 09:46:15)
家康の利根川を銚子に向けて湿地を大穀倉地帯にした利根川東遷事業
2021年9月11日
【竹村公太郎】江戸湾、東京湾の謎―利根川の地下水の奇跡―
https://38news.jp/column/19122
広重の鳥観図
21世紀、首都圏は4,000万人の世界最大級の大都市になった。この首都圏がこれほどの大都市になったのには二つの地形条件があった。一つは徳川家康の利根川東遷事業による関東平野。もう一つは江戸湾つまり東京湾の存在であった。この二つの条件がなければ東京首都圏は存在していない。
家康の利根川を銚子に向けて湿地を大穀倉地帯にした利根川東遷事業は日本人の誇りで日の当たる陽の場であった。もう一つの江戸湾・東京湾は人々の目に触れにくい陰の場であった。
目に触れにくい江戸湾を、驚く方法で人々に知らしめた人がいた。江戸幕末の広重であった。(図―1)は広重の「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」である。
鷲が頭を下にして、天空から地上を鋭い目つきで睨んでいる。鋭い目の先は海面で飛び跳ねる魚や雪野原を跳ね回るウサギだろう。大地は全て雪に覆われているため、鷲の羽の凄さが鮮やかに浮きでている。この絵の視点は、火の見櫓や高い山からではない。江戸湾上空からの視点である。ヘリコプターもドローンもなかった当時、広重は「鳥の眼」で見た江戸を描いた。
それ以前にも空中の視点から描いた日本画や浮世絵はあった。しかし、「鳥の目」と高らかに宣言したのはこの広重が初めてだろう。鳥観図(ちょうかんず)の誕生であった。
江戸のゴミ捨て場
この絵の大胆な構図には江戸っ子たちは驚いたと伝わっている。いや浮世絵を見た全国の人々も驚いたに違いない。国土建設の立場から見ると、この絵から重要な情報が見えてくる。
海岸沿いに浅草海苔の養殖の海苔網が並んでいる。その奥の雪で覆われている土地は、現在の台東区から江東区である。そこは埋め立て地であった。
この膨大な土地を埋め立てたのはゴミであった。ゴミと言っても現代社会のような過剰消費で捨てるゴミではない。
基本的に江戸はリサイクル都市であった。人々は使えるものは徹底的に再利用していた。それでも、火災や地震の後の家屋の瓦や、土蔵の壁などは再利用できず捨てるしかなかった。そうしたゴミの埋め立て地となったのが、市中から近い江戸湾であった。
1603年、江戸に幕府が開府された。家康が率いる3万人の部下たちの居住地を設営するため、神田にあった山を削って、日比谷や海岸沿いを埋め立てた。
部下以外にも江戸住まいする人々が登場した。前田利家は家康への忠誠の証として、正室マツを人質として江戸に住まわせた。他の大名たちもこれにならい正室や子息たちを江戸に住まわせた。家光の時代には、武家諸法度によって大名たちが守るべき制度にもなった。
江戸の大名たちにとって様々な役割の家臣たちが必要であった。国元から送られてくる物資の保管所も必要であった。上屋敷、中屋敷そして下屋敷と大名屋敷が増えていくと、武士以外にも各種の職人や商人が必要となった。
人々が増えると茶屋、料理屋、芝居小屋そして遊郭なども登場した。全国各地から人々が集まり、江戸の人口は一気に増えて、世界に冠たる百万都市にむかっていった。それに伴いゴミの量も増え、火事や地震の後始末の瓦礫も大量に発生した。そのたびに江戸湾はどんどん埋め立てられ、江戸の下町が拡大していった。江戸湾はゴミ捨て場として、ひっそりと江戸社会を支えていた。
広重の「深川洲崎10万坪」は、江戸湾が埋立てられていく歴史を鷲が目撃していた絵とも思えてくる。
この鷲に尋ねるまでもなく、当時の江戸湾で獲れた魚は江戸前と呼ばれ新鮮で美味しかった。それから400年も経った21世紀の今でも、東京湾で獲れた魚は新鮮で美味しいと定評がある。
しかし、この21世紀の東京湾の魚介類の新鮮さと美味しさは謎である。普通では考えられない現象である。
東京湾の謎
東京湾の地図を見ればわかるが、湾の入口の浦賀水道は房総半島と三浦半島に挟まれていて、極端に狭くなっている。このような地形の湾は閉鎖性水域と呼ばれて、外海と湾内の海水の交換が行われにくいのが特徴である。そのため、いったん海底にヘドロが堆積されると貧酸素になり、嫌気性反応によって底質は悪化の負の連鎖循環に落ち込んでいく。(写真―1)で東京湾が閉鎖性水域であることを示している。
この東京湾は、明治以降、日本の近代化の先頭を走り続けた。京浜工業地帯、京葉工業地帯に重化学工場をはじめ様々な工場が立ち並んだ。明治、大正そして昭和まで、汚水処理は後回しになり多量の有毒汚水が東京湾に流れ込み続けた。
臨海工業地帯の発達に伴い、人々の住居も急速に開発された。下水道は全く追い付かず、人々の排泄汚物は垂れ流しにされた。隅田川や都内の水路も汚物で臭く、人々は鼻を覆って通り過ぎていた。これらの工場排水も生活汚水も、全て東京湾に流れ込んでいった。
さらに、港湾と工業用地造成のため干潟の砂が採取された。干潟は水質を浄化するが、その干潟が姿を消した。干潟の砂の大規模浚渫で、東京湾の底にはいくつものクレータのような窪地が残された。その窪地内は貧酸素になり、プランクトンは腐敗し、硫化水素が発生し、風の方向によって青潮が湧き出ていった。(図ー2)は50年前の干潟と2,000年の海底の窪地を示している。
(写真―2)が、産経新聞が東京湾の青潮を撮影した。
(写真―1)のランドサットでは、東京湾の海岸線は直線の人工海岸となっている。
(図―3)このコンクリートの人工海岸では自浄能力はない。昭和30年代から60年代にかけて、東京湾は劣悪な環境に追いやられた。
このような状況だった東京湾が、なぜ、江戸前の魚介類が獲れるようになったのか?
閉鎖性水域はひとたび汚染されると、水の入れ替えには長時間かかり、何十年も回復しないのが一般である。
下水道が整備されたとはいえ、今でも1都6県の排水は東京湾に流れ込んでいる。大雨の時は合流式下水道の東京では糞尿そのものがオバーフローして東京湾に流れ込んでいる。
この東京湾の復活の謎には、隠された答えがある。この隠された答えは、本当に隠れていた。
それは関東平野の地下に隠れていた。
利根川流域の地下水網
日本の水循環の解析技術は世界最先端を行く。
地球は水の惑星と言われているが、ほとんどが海水で、人類が使うことのできる淡水は1%のみである。その1%の淡水の97%は地下水で、河川や湖沼の淡水は3%しかない。つまり、地下水の持続可能な利用と管理が、地球全体の持続可能な水循環の死命を制していく。
(図―4)は、私の仲間のチームが解析した関東地方の地下水網である。
地形、地質データを使用してコンピュータで地域の三次元立体モデルを作成する。そのモデルに気温と雨などのデータをインプットして、地下水の流れを解析した結果である。
人類が見たことのなかった地下水脈を、世界で初めて見える化した。この地下水の可視化が地下水の持続可能な管理を可能とする。
この図を見ていると、群馬県の上流から流れる地下水は東京湾に向かっている。群馬からの地下水は、もちろん利根川の地下水である。
家康は利根川を銚子に向ける「利根川東遷事業」に着手し、60年かかって利根川は銚子沖に向かった。南関東の水浸しの湿地帯は乾田化し、関東平野と呼ばれる肥沃な大農耕地が誕生した。
しかし、利根川の表流水は銚子に向かったが、地下水は依然として江戸湾に向かって流れ続けていた。人間は地表の流れは変えられたが、地下の水脈網まで変えることはできなかった。
奇跡の東京湾の地下水
21世紀の今も利根川は「自分の故郷は東京湾だ」と主張している。
利根川流域の大量の地下水が、365日、24時間休むことなく東京湾に流れ込んでいる。この地下水が東京湾の入れ替えをしている、
入れ替えだけではない。湾内で海水と地下水の真水が混じり合い、多様なプランクトンが発生する。そのプランクトンは多様な微生物を育て、それを狙って小魚が集まる。そして、その小魚を狙って大型の魚も集まってくる。こうして生態系の豊かな東京湾が再生されていく。
閉鎖性水域の東京湾。超近代的な工業地帯で囲まれた東京湾。干潟を失った東京湾。首都圏4,000万人の排水を受ける東京湾。その東京湾が豊かな魚介類を生息させている。
これは奇跡である。この奇跡を演出したのは地下水であった。
利根川の地下水は故郷の東京湾を覚えていた。その地下水が東京湾を生死の淵から救ってくれた。
https://38news.jp/column/19122
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