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しばらく前からだが「死刑廃止論」というのがある。
これ、K的には「綺麗事の愚論」だろうと思っています。
「人は人を裁けない(裁くべきではない)」
「何人も他人を死刑する裁量権はない」
「冤罪によって死刑が執行される危険性がある。」・・・
人間は不完全な生き物であり、ミスを犯す。
他人のミスを「死刑」に値すると「判断できる」というのが傲慢という視点である。
これは、これで「一つの見方」としては成立する。
その上で「この世界には摘み取って良い生命はない」という思想がある。
では、殺人鬼とも思われる存在の人がいて「更正する可能性もない」と判断される場合
その人を「社会で養う必要はある。」だろうか?
一生、檻の中に閉じこめておけば「それで済む」とは言い切れない。
その人に与えられる食費には「その人の被害者であった遺族の払ったの税金も含まれている」のだろう。
今後「社会貢献に役立つとは思えない人材」を「社会が養う必要性」はあるだろうか?
人は生まれながらのして「自己防衛の本能」と「種族保存の本能」を持っているといわれる。
「種族の保存」という意味合いにおいても「種の生産性」という意味においても「役に立たない」という人材は「人類にとってマイナスの存在(=害虫)」と言えるだろう。
人が生きるためには「植物・動物は別にして、他の生物を殺して、有機物を摂取する」のが必要不可欠であろう。
綺麗事を主張する人も「食事においては他の生物を食らう」のだろう。
ベジタリアンであっても、植物は「生物」である。
唯一の「許される食材」とも言える物は「母親の母乳」くらいである。
しかし、それすらも「母が食事を取った結果として生み出される」
母親の母乳を飲みながら「母親の食物摂取」に非難を浴びせる事などできない。
死刑の乱用は慎むべきであり、更正できる者は「更正させる」のが正解だろうと思う。
その一方で「どうにもならない者」は「見捨てる決断力も必要」なのだろう。
害虫を野放しにして「善良な市民に被害が出る」という危険性があるなら「それは駆除する」という必要性があるだろう。
誰も「悪性ウイルスの撲滅に反対などしないだろう。」
死刑廃止論は「害虫を駆除するな」と言っているのと同じという側面を持っている。