★阿修羅♪ > 雑談専用27 > 598.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 貴方は適当な所でお茶を濁しているだけで私は徹底的に社会改革を行おうとしているのです。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 12 月 09 日 12:19:50)
>ワヤクチャさん どうもです。
どうでも良いですが、人の意見を「キチン」と理解しようとしていますか?
>【裁判の中で充分に分析ができていると主張する根拠を示して下さい。】
誰も、十分に検証できているなんて主張していませんがな
「決して十分とは言えないが、結審をするだけの証拠分析は終了したと判断して判決は出ている。」と言う事は「基本的には、これ以上は分析しても、ほとんど情報分析状は変化無し」と判断されていて、それ以降は「どんなに分析しても、人間という不完全な生物の能力では、結論はほとんど変わらないだろうし、完璧な結論など出せない」と主張しているのでんがな。
上記の差は理解できませんか?
>【犯罪分析よりも犯罪者を罰して「片を付けて忘れる」という事を主張する貴方のような立場が世の中を良くするとは思えません。】
これは、一つの考え方です。
では、被害者の遺族にとって「どうしてやる事が良い事で、世の中を良くするのか?」についてワヤクチャさんの意見を論証して下さい。
何時までも「加害者への恨みを引きづるのが良い世の中」への道なのでしょうか?
それにKも「犯罪分析」を軽視はしていませんよ。どこかに「犯罪分析などどうでも良い」というような事を書いていますか?
人間の能力として「これ以上の分析は出来ない」という壁があるのは「仕方ない」と主張するのと「犯罪分析はどうでも良い」というのは「全く違う」と言う事も理解できないのでしょうか?
>【ならばせめて犯罪者は一生掛けて自らの犯罪の原因を自分で分析する責任を課すのが妥当ではないのですか?】
事件の分析という意味では「時間的に近い、裁判という審議の場所で為し得なかった、自分の犯罪の原因究明が、記憶が曖昧になっていく、老化の過程においては完成に近づいていく」というのは確率的に低いと考えられます。
仮に「そのような人が数%はいる。」としても「死刑囚が真理に近づいて、何かが得られる」のでしょうか?
裁判というのは性質上、一度出された判決は「変わりません」
誤審があり、真犯人が逮捕されるというような事もしくは「全く新しい証拠の発見」がない限りは、犯人が「自分の犯した犯罪の分析をして、何かを得る事が出来た」としても「それが、世の中で役立つ」とは考えられないだろうと思います。
>【それが最も重い刑罰であり社会の為にもなるでしょう。】
多分ですが、10人の死刑囚がいて、「死刑」になるのと「終身刑」のどちらを重い刑罰と思うか?を判断させたら「終身刑の方が重い刑罰」と思う人は0人〜2人程度だろうと思いますよ。
街で100人の人に聞いても「死刑と終身刑をどちらが重い刑罰と思うか?」を聞いた場合、終身刑の方と答える人は滅多にはいないだろうと思います。いても5人以下くらいでしょう。
で、実際の受刑者の場合、終身刑の方が厳しいと思うなら、自殺するでしょう。
つまり、上記の意見提示によって「ワヤクチャさんの意見は主観の強弁」と論証されていると言う事になるでしょう。
ここも、理解できないでしょうか?
>【時間の経過と共に犯罪に至る経過が詳細に渡って明らかになり社会が犯罪を予防するヒントが発見されるでしょう。】
可能性としては「超低い」でしょうが、あり得ない事ではありません。
で、どこかの「死刑廃止国」では「日本より詳細な事件の分析」が出来たのでしょうか?
また、一度結審した犯罪者が【時間の経過と共に犯罪に至る経過が詳細に渡って】の真理に思い当たったとして、それが「社会に還元される」のでしょうか?
以上の点について論証してからの「主観の強弁」をなさって下さい。
>【私は貴方の考察の不充分さを指摘しているのです。貴方は自分の考察が充分であるという事を立証しなければなりません。】
はあ?Kの主張については、できるだけ「判断材料を提示」するという論証責任を果たしながら意見提示しています。
議論においては「立証責任」などは果たせる場合の方が少ないと思われますから、果たすべきは論証責任です。この論証責任というのは「多数の人が納得できるであろう判断材料の提示」と言う事でしょう。
ここで、議論(会話)について、触れましょう。
「君が代」の問題についてもそうでしたが、議論においては「結論は先には決まっていない」と言う事が「議論する者の共通のルール」でなければなりません。
意見を提示する者は「そう思う」という「根拠」となる「判断材料」を提示すべきだとKは思っています。
どこかの誰かが「主張していた」とか「私はこう思う」というような主張はナンセンスです。思考の経過としての判断材料も示さずに「議論」にはなりません。
そのようなのは「議論」ではなく「主観の強弁合戦」です。アジ演説と言う事です。
「判断材料」を論破することなく「いきなり、逆の結論のみを主張する」というのは、議論をする人のすることではなく、会話の出来ない人のすることです。
「相手の提示した判断材料を細かく論破」せずに、いきなり「アンケート調査でもしたら多くの人から呆れ返られるような結論部のみ出てくる」から「主張の強弁」と言っているのですが、それも理解できないのでしょうか?
>【現時点の犯罪分析が完全であるという事が立証できなければ。そして、それは不可能です。未来は誰にも分からないからです。】
誰にも「未来は分かりません」ですから、現在ある判断材料から「確率的に間違いの少ない道」を選び出すのでしょう。
そんな事も分かりませんか?
まさか、未来の事は誰にも分からないから、最も危険と思われる道を突き進むと言う結論にはなりませんよね。
ワヤクチャさんの主張は詭弁の一種です。
不可能という結論から「現在の進むべき道を特定している」からです。
完璧な未来予測は出来ないとしても、確率的に高い未来予測は可能です。
それは「判断材料の分析」から描き出す事です。
「私は、この道が正しいと思うから」という直感で決める事ではありません。
この道が「正しい」という直感があるのなら、そう思う根拠を述べて「論証責任」を果たすべきと「何度も書いているのに無視をしているから」主観の強弁と書いています。
>【所詮、立脚点が違うのだから話も噛み合わないかも知れませんね。】
これ、言っていいのは「相手に十分な判断材料を与えた人」だけです。
そんな当たり前の事も理解できないのでしょうか?