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(回答先: Re: 三島の自殺は単にゲイの異常性愛による自殺であり、それ以上のものではない。 投稿者 進歩的文化人 日時 2003 年 11 月 22 日 20:00:00)
サムライさん、進歩的文化人さん、こんにちは。
当時、三島由紀夫に何かを感じその行動に注目していた世代の一人として二言三言申し上げたく、横レスにて失礼します。
先ず、三島由紀夫の自刃についての私見は、大枠では才能を含む三島自身の呈上先を求めていったことの顛末であったのではないかといったところに落着いています。全三島作品を網羅(読破)している訳ではありませんが、彼が誰宛に創作していたのか、誰(何)に献上しようとしていたかに着目して、文脈を追っていくとそれが明らかになってくるでしょう。
しかし、一部の評論や随想(随筆)を除けば、一般大衆でも、友人でも、同志達にたいするものでもありません。そうした観点を踏まえると、極私的な出来事であったと裁断することも可能だと思います。
そこで、
<サムライさん>
>三島由紀夫氏は日本の政治と政党の腐敗、欺瞞、無節操にこらえきれず、1970年11月25日に占領憲法に体をぶっつけ、後世に賭けて自決した。
私もその日のことをよく憶えています。他者(ひと)より少しおくれた3年生の年末の出来事でした。しかし、私はそれを政治的な死、すなわち諌死と受けとめることはできませんでした。それほど彼の思想や行動が政治的に成熟したものとは、当時の新左翼も民族系の諸君も認識してはいなかったと想われます。そのために、前年(69年5月)駒場での全共闘との公開討論を知る者達には、翌年の三島の自刃は余計に不可思議なものとして映じたのではないでしょうか。そして、間もなく多くの人達は、その死を政治的な死というよりも、所謂文学的死と受けとめることに帰着させたと、そんな推測をしています。
次に、
<進歩的文化人さん>
>三島の精神の内奥をよく知る人々は皆「ゲイの異常性愛が昂じた結果の自殺」で意見が一致している。政治的なお題目は単に格好付けの言訳でしかない。国粋主義者・軍国主義者がいいように利用することを許さないためにも、あのグロテスクな腹切りを美化することだけはご免被りたい。ろくすっぽスポーツを経験することもなかった虚弱児が、ボディビルだけで必死に蓄えた筋肉の何と醜かったことよ!
岸田秀が幼児期の体験に遡行して心理学的にその要因を探りあてようと試みています。庶民レベルで考えるような余り血の通った家庭環境及び人間関係の中で育たなかった人間が、自身の突出した才能の表出先(受け皿)を何処に求めていったのか想像するには難しいものがあります。ただし、三島自身もゲイ的要素も自己の精神エネルギーの諸相であると捉えていたのではないかと想われます。それが人生の末期に来て特に奔出したのではないでしょうか。尚且つそれに決着をつけねばならず、そこに自刃という当為がのこされていたと、一つにはそんな見方もできるのではと思っています。
ウルトラ・ナショナリストやミリタリストが皮相的な理解のもとに三島の自刃を自分達の信条の同質性に絡めとろうする蒙昧さは固より論評に値するとは考えませんが、ボディビルで鍛えた体で何かぎこちなく滑稽で、しかし嬉々として剣舞に興じていた三島由紀夫の姿に言いようの無い無惨さを感じていたのは、おそらく私だけではありますまい。
末筆ですが、ご両人には記事からではなく、可能なかぎり三島作品に触れていただければと思っています。さらに、今も尚多くの三島論が出ていますので、論者それぞれの三島にたいする想い入れを感得することができるでしょう。殊更畏敬する必要も、無碍に排撃する必要もないと思うのです。そこから、何かを自分の糧として掬い上げることができたとしたら、多分本当の意味で先達を弔うことになるのではないでしょうか。
また、お会いしましょう。