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(回答先: 三島由紀夫に関する雑感 投稿者 如往 日時 2003 年 11 月 23 日 03:47:59)
如往さん、おはようございます。
雑談板でも三島由紀夫に関わるご投稿を読ませて頂いていました。
こちらで改めて「何事か新たに創る人間(作家)」としての三島由紀夫の、核心と想われる事に触れ、彼の姿勢と、如往さんの仰る
三島理解としての「呈上」と言う事について、豁然と了解したような気が致しました。
虚空に動脈する生命/意識のトポロジカルな形相と、それを超えて一個の“それ”が結ぼれようとした上位次元について、あたかも
自らの頭脳内にホログラフィックな像が立ち上がるかのような衝撃的な経験でした。
まず如往さんの仰る呈上と言う言葉がなかなか理解できなかった事を告白します。物性を越えて自らより上位の位階に属するもの
への(自己の活動、あるいは自己そのものの)贈与であり、上位への贈与であるために「献上」「奉献」というニュアンスを含むもの
ですね。
これは現代の、単なる機能組織での位階しか経験していない人間には実感的に理解し難い事と感じます。失礼かとは存じまが、
この事実を読まれる方が自らの身において「欠失」(必ずしも欠損ではないかもしれませんが、このテーマは別途大きな展開を孕む
でしょう※)として了解しない限り如往さんの仰る形の三島論は理解出来ないのではないかと推察します。
ここで「何事か新たに創る」という行為を、自らの創造力、活動力の過剰の中で結実結果しようとする人間の、実存の地平を想い
みてみましょう。別に高尚な事ではなく、日常の中でも行われている事ですから。
自分が愛するものに贈り物をしたり、そのために活動する事はいつも行っている事です。それは、その対象との結ぼれを護り育んで
ゆく行為です。これらが組織され、小宇宙的秩序性をもち、具体的な地域に活動の秩序を与えて来たのが近代化以前の人間の
営為であったと私は理解しています。この場合、個人の活動には既にして(無意識に)文化から与えられている秩序生成性があり、
この共有の行為の形に従って日常の活動力、創造力を結実していたと考えられます。文学的に表現するなら「生活の詩法」の中に
既に結ぼれようとする上位次元を中心とした小宇宙的秩序があったということです。
ここで想い出すのは、法隆寺の棟梁であった故西岡常一氏の言葉です。
「天上の佛国土を地に降ろす」…これは五重塔の頂部の水煙という飾りにに込められている天人の意匠について語っていた時の言
葉であったと記憶しています。この言葉が彼ら斑鳩の工人の営為の核心を表現しているように想われます。
塔を建立し、天から降りてくるもののための中心の道を創り、そのために彼らは地域を代表して自らの活動力、創造力を奉献するのです。そのようにして彼らは自らの活動力、創造力を結ぼれさせるのではないでしょうか。
ここで再び三島由紀夫に戻った時、彼の創作等の行為の外から、その核心を伺う糸口が見えてくるのではないでしょうか。
あふれんばかりの創造力を、文化的にも混沌と迷走する日本の中で結実結果すべき価値ある対象と秩序世界を求め、その個人的
成長環境と個人史から来る特性を通り、現実において実現させようとした最終的な結ぼれの投企、即ち「呈上」が彼の自刃とそれをめぐる一連の行為であったと。
彼がその脳の内に構築していた観念的次元の核心に向かって「呈上」を続け、(予想しての事であろうかと想いますが)現実と触れ
て拒まれた時に彼が取った内的必然が彼の自刃ではなかったかと推します。余人には伺いえぬ彼の内なるものに向かった贈与として自刃を了解したいと想います。(内で閉じているのか、何事かに通じているのか実証できません)
これを外の人間が狂人と言おうと、嫌悪感をもって批判しようと彼には関係ない事だったでしょう。
そのとき子供であった私は事件を知った時、変わったおじさんが軍隊の格好をしてお芝居のような事をして亡くなったと受け止めていました。それを右翼と言うんだと聞いて、ますます右翼というものからも、左翼というものからも遠ざかってゆきました。理解の埒外
でした。
※これは身体性の「個」に内在しつつ「個」を離れた「群」的性質にからむもので、地域的身体性の共同性や共同体的身体性と
(その改築的再創造)といった問題に延長してゆくでしょう。
参考・如往さんのご投稿: 「お金」=「幻想の賜物」 http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/283.html