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(回答先: Re: 死者達への「呈上」(1) 投稿者 愚民党 日時 2003 年 11 月 29 日 23:00:23)
愚民党さん、おはようございます。
私が詳らかにせぬまま使った言葉で、意味内容に関して2,3の点でご諒解を頂きたく試みたいと考えますのでお付き合いいただければと思います。
先ず、三島由紀夫の語る「間合い」とは人間と人間とが切り結ぶための緊張感をもたらす「間合い」、若しくは緊張関係それ自体を示していると私は解釈しています。そして、70年代以降の日本には切り結ぶほどの緊張関係が存在しないと見切ってしまったことが、後にジャーナリスティックに持て囃されることになる惨劇に繋がっていったと想われます。
次に、「帰太虚」を平易に語れば自裁、つまり侍の表現形では自刃を意味します。したがって、三島にとって「帰太虚」の眼差しにおける「骸(むくろ)の林立」は、もはや生死は問題ではない無論ゾンビでもない、聖なるものとして現前する亡骸を表象していると捉えています。
三島由紀夫の自刃を想起し、その意味を再考する切っ掛けになったのは、リュック・ベッソン監督の映画『グレイト・ブルー』のラスト・シーンでした。(愚民党さんはご覧になっているでしょうか。)深度100m以上の海底で取り巻きながら泳ぐ海豚の群に誘われるかのように、主人公が死と再生の海に自身を放つところで終わるのですが、私は海豚の群を生物というよりも聖なる亡骸のように感じました。と同時に、三島が末期の眼に見据えようとしたのは、おそらくこれだったのかも知れないといった空想が脳裡を過ぎったのです。
ところで、暗黒舞踏に関する造詣の欠片もない私が言うのも僭越なのですが、暗黒舞踏のプロットとして鎮魂、すなわち死者達への献上といったものが根幹にはあるのではないでしょうか。たといそれが死者達とのミングルで舞い踊り奏でられるような光景だとしても、究極的には死者達への献上へと収斂していくものだと想像しています。これについては、形態を問わず是非とも愚民党さんのご教示に浴したいと思っております。
>死者達への「呈上」と存在の永久運動、死者と生者の応答関係
重要な命題であると自分は思っております。
別途、返信させてください。
首記のことを心に置きながら愚民党さんの返信を待ちたいと考えます。
現在私はMatrix論に傾斜し考察の中心に据えてもいるのですが、ここでは意識的に捨象していることをお断わりしておきます。とかく民族派や三島の信奉者の方々はMatrix論を避けたがる傾向にあります。しかしながら、三島由紀夫や日本を読み解くにあたっては、避けて通ることができない、寧ろ深く踏み入らなければらない道程であると確信してもいます。
また、会いましょう。