(回答先: 田沼時代と寛政の改革 投稿者 あぼーん3世 日時 2002 年 3 月 06 日 15:32:15)
江戸時代、将軍の直参の旗本は5200人、御家人は1万7000人もいました。
旗本八万旗と言うのは、陪臣も含めてそのぐらいいたのでしょう。
江戸時代になると、貨幣経済が発達します。彼らは、俸禄として受け取った米を米問屋に売却しなければなりません。
この面倒な仕事を100俵につき金3歩という低価格で請け負ったのが、札差の始まりです。
幕府の米蔵は、水運に便利な隅田川沿いの蔵前に、ありました。
札差は、蔵前や浅草に住んでいました。
江戸は、誘惑の多い文化の中心地。旗本ともなると、冠婚葬祭など突然の出費が重なることもあります。いくら金がなくても、家格に応じたやり方に従わなければ、笑いものになります。
札差は、旗本、御家人に対する高利貸しを兼ねるようになります。
札差は、2年先までの俸禄を喜んで貸します。
俸禄から利息を引いて、残りを旗本に渡せばよいのです。
利息は、表向きは年18%に抑えられていましたが、実際は年40%を超えていました。
そして、返却限度額を超えると、札差は、手のひらを返したように旗本に冷たくなります。必要以上の追い貸しは、絶対にしません。
なにしろ、給料を抑えているようなもので、安全で高収益な商売です。
やがて、高利貸しが札差の本業となります。しかも、八代将軍吉宗の頃、札差は、たった109人に制限され、株仲間をつくることに成功します。
優良顧客2万2200人に対する高利貸しを、わずか109人の札差で独占できたのです。
こうして、札差は、競争なしに、莫大な利権を手に入れ、大金持ちになります。
◆◆元禄時代になると、札差の株の価格は、千両まで値上がりします。◆◆
◆◆ 彼らは、次第に金を浪費し、高慢になっていきます。◆◆
◆◆ 驕れる者、久しからず・・・◆◆
当時の江戸には、十八大通と呼ばれる、義侠心に富み、しゃれ気があり、吉原遊びに途方もない金を使う18人の有名人がいました。
浅草蔵前の札差たちは、その財力を背景に、
粋人として十八大通の過半数を占めていました。
一方、旗本、御家人の中には、札差への元利の支払いから、生活に困窮するものが現われます。
田沼時代末期になると、飢饉の影響で米価が高騰し、江戸で打ちこわしが頻発します。蔵前の札差も、軒並み困窮民から施米の要求を受け、拒むと打ちこわしに遭います。
高まる社会不安の中で、田沼意次は失脚して、松平定信が老中になります。
清廉潔白な性格の定信は、散財ぶりが目に余る札差を憎み、排除することを決断します。
1789年(寛政元年)9月16日、松平定信は、
寛政の改革の一環として、棄捐令を発布します。
棄捐令の概略は、次のとおりです。
6年以前の札差の貸付金は、すべて帳消し(棄捐)にする。
5年以内の貸付金は、利子を年6%に減額して、永年賦で支払えばよい。
永年賦とは、知行高100俵につき年間3両の元金を支払えばよいことを言います。
さて、借金で首が回らなかった旗本は、大喜び。
反対に栄華を極めた札差は、壊滅的な打撃を受けます。
88人の札差が、棄捐令で被った損害は、108万両に達すると言われています。
「蔵前の旦那衆が、たった一日で没落した」という噂は江戸中を駆け巡ります。
あれほど貴重だった札差株は、大暴落、買い手がつかなくなります。
吉原は、この影響で客足が遠のき、火が消えたようになったそうです。
◆◆現在におけるゼネコンの借金棒引き、◆◆
◆◆規制緩和の重要性などを考えるうえで、◆◆
◆◆興味深い事例と思いますが、如何でしょうか?◆◆
(参考)「江戸の札差」 北原 進 著 吉川弘文館