(回答先: イスラム革命と第二次石油危機 投稿者 あぼーん3世 日時 2002 年 3 月 06 日 15:51:21)
レーガン政権の為替政策は、「強いアメリカ、強いドル」でした。高金利に魅力を感じた、日本の生保などは、アメリカの国債を喜んで購入します。
実力以上のドル高は、いわゆる「双子の赤字」を発生させます。アメリカの財政赤字は、2078億ドル(83年度)、貿易赤字は1125億ドル(84年度)に達します。
アメリカの産業は、空洞化します。
アメリカのドル高政策の行き詰まりは、明らかでした。
しかし、金利は、下げられません。アメリカ国債の人気がなくなり、外国が購入しなくなると、予算に支障が生じてしまうのです。ドルが、暴落するかもしれません。
ベーカー大統領主席補佐官は、思案を重ねます。
「金利を下げずに、ドルを安くする方法はないだろうか?」
一方日本は、260円(85年2月)を越えた円安により、対米黒字を増加させます。自動車、電気製品など多くの分野で、日米貿易摩擦は激化します。
市場を開放しろ。アメリカ製品を買え。輸出の自主規制をしろ・・・・
大蔵大臣・竹下登と財務官・大場智満は、個別分野でアメリカの難題にこたえるより、
為替による自然な黒字の削減を望むようになります。
こうした、状況下で、1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルで先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)が開かれます。アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランスの蔵相と中央銀行総裁、合計10人が為替問題について話し合ったのです。
当時のG5は、秘密会議でした。
竹下は、盟友の金丸にもG5のことは、隠していました。
竹下以外の政治家で知っていたのは、中曽根首相だけです。
大蔵省でも、大場財務官のほか4〜5人しか知らなかったのです。日銀総裁・澄田智は、出発の少し前に会議の予定を知らされたようです。
◆◆そして、為替関係者に、まったく漏れることなく、◆◆
◆◆プラザ合意は発表されます。◆◆
◆◆このとき、初めてG5の存在は、公になったのです。◆◆
◆◆ 為替相場に衝撃が走ります・・・◆◆
プラザ会議で話し合われた内容は、次のとおりです。
5カ国が為替相場に協調介入して、ドル、円、マルクの水準訂正を行う。
介入期間は6週間、介入規模は180億ドル。日本、アメリカ、ヨーロッパが3:3:4の割合で受け持つ。
各国は、自国だけでなく、24時間どの国の相場にも介入してもよい。
ドルの下落目標は、少なくとも10%。(竹下蔵相は、「日本は10〜20%までの円高なら受け入れられる」と発言している。)
無論、9月23日の発表には、このような具体的な内容はなく、
「先進5カ国は、協調して為替レートを円高、マルク高、ドル安に進めることに合意した。」
という意味の抽象的なものでした。
発表前の円相場は、242円でした。
最初に開いた23日のニュージーランドでは、なんと8円高の234円となります。
しかし、こんな水準では、足りません。
日銀や大蔵省は、必死の努力でドルを売って、目標の200円を実現しようとします。口先介入も盛んに行います。
しかし、金利を変更せず、介入だけで為替を動かすのは、難しいものです。 215円の壁が日銀に立ちはだかります。いくら介入しても、円高が進まなくなります。
日銀が、切り札を出します。
1985年10月25日、日銀は第二の公定歩合といわれた、短期金利の高め誘導を行います。
手形レート(2ヶ月もの)は、0.5625%上昇して7.125%に、コールレートもその分上昇します。
「金利を上げない約束違反だ」とアメリカから抗議がきますが、これを、契機に円高は一気に進みます。そして、12月18日、短期金利の高め誘導を解除した時には、200円台の目標を達成します。
アメリカ国債を保有していた生保などは、大損害を受けます。もちろん、輸出産業も打撃を受けます。
しかし、為替の調整という公正な競争で、残るべき企業が残ったという点は、評価できます。
不自然な規制によって輸出を減らすより、好ましいのです。
◆◆竹下登さんと大蔵省の優れた業績の一つだと、私は思います。◆◆
◆◆ 昔の日本は、世界最強の経済大国だったのですね。◆◆
◆◆ さて、この歴史は再現するでしょうか?◆◆
◆◆せいぜい、フランスの席かな?◆◆