(回答先: プラザ合意 投稿者 あぼーん3世 日時 2002 年 3 月 06 日 15:52:47)
1987年10月19日(月)、ニューヨーク・ダウ平均株価は、2247ドルから1739ドルへと、たった一日で508ドルも暴落します。一日の暴落率(22.6%)としては、史上最悪の記録でした。(ブラックマンデー)
暴落の連鎖は、世界を一周します。20日の東京市場は、10億株の売り物が殺到、日経平均は、25747円から21910円へ史上最悪の3836円(14.9%)も暴落します。バブル景気の揺籃期の日本株の値下がり率は、香港、シンガポール、ヨーロッパと比較すると、小さかったようです。
さて、アメリカにおける暴落の背景を振り返ってみましょう。
1987年のニューヨーク株は過熱気味でした。1月初め1927ドルから、8月25日には2722ドルと値上がりしています。
9月5日FRBのグリーンスパーン議長が、ドル不安対策として公定歩合を5.5%から6%に引き上げます。
アメリカの8月の貿易収支が10月14日発表され、156億8300万ドルの赤字になります。予想外の大きさでした。
しかし、暴落の新犯人は、別に存在したのです。
この頃、機関投資家は、コンピュータを使用して株取引していました。そのプログラムは、下げ相場になると先物を自動的に売ってヘッジするようになっていました。下げが始まると、このプログラムがいっせいに発動して、先物が暴落します。
すると現物と先物に価格差が生まれ、裁定取引により、自動的に先物が買われ、大量の現物が売られます。
この結果、現物の下げが加速されるのです。
コンピュータを駆使した新システムの影響で、
螺旋の滑り台に乗って、株価は落下したのです。
◆◆アメリカが、この日の下げ幅を回復するのは、二年近くかかりました。◆◆
◆◆ 一方、優等生日本は、世界の先陣をきって、◆◆
◆◆わずか半年後(1988年4月7日)、この下げ幅を回復するのです。◆◆
◆◆そして、悪名高い、バブル相場に突入するのです。◆◆