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(回答先: 取りあえずひとつ質問を 投稿者 ぷち熟女 日時 2004 年 6 月 29 日 21:20:02)
ぷち熟女さん、こんばんは。
再浮上していただいて大喜びしています。
>幼児虐待なんですが、虐待されている幼児はどうやって
>『テメエらで落とし前を』つけたらいいんです?
>他の点は共感ですが、そこだけはムリじゃないかと思いました。
>ご回答いただけるなら『テメエで落とし前を』に幼児も含まれるのか、
>含まれるならその理由をごく簡単に、で結構です。
まず、幼児は『テメエら』に含まれていません。
(幼児に限らず、自分の頭と足で“駆け込み寺”に行ける子どもも含まれていません)
その子どもが二人の子どもでないとしても、ともに家族を形成しているのなら、『テメエら』である大人の責任として落とし前を付けるべきだと考えています。
またまた罵倒を浴びそうなのでビビッていますが、極端なことを言えば、子どもが心底邪魔なら殺して罰を受けるという落とし前の付け方もあるということです。
むろん、その幼児と家族をまともに形成していくことができないと判断したら、公的機関に泣きを入れてなんとか引き取ってもらう方法もあるでしょう。
しかし、そんな落とし前の付け方が“健全”なのでしょうか?
ひとさまが生んだ子どもの面倒を国家機構が見るために、増税などの公的負担が増加することを多数派が受け入れるでしょうか?
あまり予想したくないことですが、経済状況がズルズル悪化していけば、国家機構が面倒を見てくれるのなら、「つい叩いてしまう」状況から逃れることも含めて、我が子であっても手離して“楽になりたい”という親がズルズル増加していく可能性もあります。
(幼児虐待という醜悪なものはなくなって欲しいと願っていますが、私は虐待されているひとさまの子どもを引き取る気はありません。罵倒されついでに言えば、残念ですが“運命”によって、金持ちで上品な家族のもとに生まれ出る子もいる一方で、貧乏で下品な家族のもとに生まれ出る子もいるのが現実です。すべての幼児に健やかに育ってほしいと思っていますが、自制の利かない荒っぽいバカな親のもとに生まれるのも“運命”と受け止める部分も必要ではないかと思っています)
だからこそ、なんらかの精神的“歪み”でまともに子育てができない人たちを別にして、日常生活のなかで生じる鬱屈やイラツキを我が子や家族の一員である子どもにぶつけるほどの過酷な状況に人を置き続けたらイカンと思っています。
(国家機構が面倒を見るべき子どももいるとは考えています)
我が身の過酷な状況を改善するために物事を判断したり動くことも含めて、『テメエらで落とし前を』付けるべきだと思っています。
他人や国家機構が、ひとさまの家族のなかに土足で踏み込むような所業はできるだけなくすべきです。
(ひとさまの家族のなかに土足で踏み込むことが何らの理屈で善とされたときの歯止めがないまま行き着く先を考えるとおぞましくなります)
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>感性の違いは良いのですが、その差の大きさのあまり
>こちらの感性を汲んでいただけるという期待が持てずに疲労しているせいもあり、で
>まだレスをさせていただけずにおりますが・・・。
冗談じゃない!とお叱りを受けるかもしれませんが、ぷち熟女さんの感性は汲んでいるつもりです。
>あっしら様に対して、コミュニケーションのサイクルが
>やはりどこか自己完結していないかなあ、という印象を持つところが多いんですよね。
>そこに一番参ってしまっているかも知れません。
>でも、指摘するとまず論理的に丸め込まれちゃうのも目に見えてるもんね。
言い訳になってしまいますが、“攪拌棒”になることをめざしていますので、あれこれ理屈をこねているように見られるだろうと思いつつ書き込みを続けています。
論理的に丸め込まれても、得心がいかなければ、感性が変わることはないので大丈夫です。(なにが大丈夫なのかしら(笑))
奇妙なことをもっともらしく書いているだけじゃん、と処理していただけば幸いです。
>あっしら様は他人とのコミュニケーションにおいては
>あくまでも論理的に表明された部分にしか反応なさらないのがご信条のようですが、
>とかくこのように『なまもの』についてのトピックでは
>論理的どころか適切に言葉を選択して説明するのも難儀ですからねえ・・・。
阿修羅のような掲示板では、論理的に表明された部分にしか反応しないように務めています。
『なまもの』も抽象物のように扱うのが、この場にはふさわしいという考え方をしています。
顔も雰囲気も知らない、感性は論理で伺うことができるだけという関係性ですから、それでいくしかないと思っています。
でき得るならば、論理の投げ掛け合いと見切っていただき、『なまもの』として我が身にあまり引き付けないようにしていただければと願っています。
私にとっては、男と女の関係も経済論理も“彼ら”も、考察ということではまったく同じ「一つのもの」です。
(男と女の関係だけが、とくに『なまもの』という感覚はありません。念のため、私の生の男と女の関係は別です(笑)それは感性の世界です)