現在地 HOME > 掲示板 > 昼休み3 > 223.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: ディアスポーラじゃぱねすく (第一回) 投稿者 まっくす 日時 2004 年 4 月 21 日 06:14:02)
まっくすさん。 こんばんは。
今後、普通の書店にある本に書いてありそうなことは無視し、
徹底して主観にこだわります。
今回は、まず全体の背景をなす、
「日本列島文明(?)」という条件と立場について。
このためかなりの部分(各論的なところ)について、レスを省略します(後ほど)。
(日本列島)
まっくすさん
「次の心地よい社会を築ける文明はどこにあるのか。
客観条件を考えてみてくださいよ。
私のかんがえる基本条件は4つ。
●地政学的な優位性がある。
●歴史の連続性を保っている。
●民主的な素地を持っている。
●現状において経済強国である。
消去法で考えると、もっと簡単かも。
●奪うことをまず考えるイギリス型社会?違うでしょ。
●騙すことをまず考えるフランス型社会?違うでしょ。
●何でも新しければいい(先に行けばいい)アメリカ型社会?違うでしょ。
●上の悪事をすべて使いこなすユダヤ社会?どこに土地あるの?
●破壊と再構築を繰り返す中国型?違うでしょ。
●動かないインド型?ちょっとひかれるけど、やっぱ違うでしょ。
●宗教のくさびのきいたイスラム社会?違うでしょ。
●その他の搾取されたり、破壊されたり、我関せずの諸国?違うでしょ。」
私は他の文明のことははっきりいって無知です。
旅行はかなりしたし、留学もしてるんだけど、
理系だったせいなのか、文明的なことはさっぱり分からないですね。
客観条件があろうとなかろうと、
自分たちが「贈与できるのか」を考えるしかない。
ところで、まっくすさんと似たようなことを平田篤胤がいっています(『霊能真柱』)。
ただし、はるかに徹底的な激しい論述です。
普通の現代人はこれを馬鹿にすると思うんだけど、
私は
「こうあってほしい日本」
だったと考えれば良いのではないかと思うのです。
それに、この時代の人の徳性は今よりも本当に高かったのではないかと思わずにいられません。
現代語訳が残念ながらネットで見つかりませんので、他の掲示板(日ユ同祖論を考える掲示板で最近発見)から引用させて頂くことにしました。
こんなものを読んだことのある人はたぶんおられないんじゃないかな?
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4669/2eskamijp1.html
引用
「私、篤胤はいう。はるか西の国の人(エンゲルベルト・ケンプル、ドイツ人の医師・博物学者。
一六九○年来日、オランダ商館長にしたがい江戸参府し、当時の外国人の日本見聞記の代表作『日本誌』を著す。
その付録第6章を抄訳したものが『鎖国論として流布された。
以下篤胤がひきあいにする引用はそれによる)が、万国の地理風土を詳しく書いた書物の中に、皇国(日本)のことも書かれてある。
それによると『さまざまな国の中でも、土地が肥えて楽しく暮らせる場所は、北緯三○〜四○度の間にほかならない。日本は、まさにそこに位置しており、その上、万国の極東にある。天神(大神)のいかなるご配慮によるのであろうか、この国は特に神の恵みを受けている。
国土の周囲には、潮流が激しく、波さかまく荒海がめぐらせてあり、外国の侵略を防ぐようになっている。また、国土を列島の形に分断し、大きな島がいくつか合わさった形になっているのは、その地方ごとに作物や特産物ができるようにし、互いにそれを流通せしめ、外国に頼ることなく、国内だけでいろんな産物を自給自足・満足できるよう、はからわれたものである。
さらに、国土の規模が、大きすぎず、小さすぎず造られたのは、国力を充実させて、より凝縮した強さを発揮せしめるためである。
それゆえに、この国は人口がおびただしく、家もにぎやかにたちならび、各地の産物は豊饒をきわめ、ことに稲や穀物(豆・粟・稗・ソバなど)は、万国に卓越してすばらしい。国民の気性も、勇敢で激烈、強健にして盛んであり、これもまた万国にならぶものがない。
これらの特徴はすべて、天地創造の神が、日本に特別の恵みをたれたもうた、たしかな証拠である』
と、以上のようなことを、ケンプルは長々と詳しく書いている。
(中略)
「『三大考』(同じ本居宣長門下の兄弟子・服部中庸の著書。古事記神話にもとづく、天・地・黄泉という三つの世界の成り立ちを説明する。
篤胤は、これを、訂正・発展させる目的で、文化九年(一八一二)に『霊能真柱』を書いた)には、こう書いてある。
『皇国の世界における位置は、すべての大地の頂上部にある。その理由は、世界が最初にできるとき、葦の芽(あしかび)のようにとがったもの(うましあしかびひこじの神)の、ちょうど根のところにあるからである。
この葦の芽のようなものによって、まだ天と地がすっかり分離されていなかったころには、大地は、天という枝からぶらさがる果物のようなものだった。
皇国は、この葦芽のようなもので天につながる、大地という果物の『へた』の部分に位置するのだ』
こういうと、ある人は、こんなことをいいだす。皇国は万国に先立つ大本の国で、天の枝、地の果物の『へた』にあたるというのは、なるほどと思えるけれど、ここである疑いが持ち上がる。
というのは、大本の根源の国にしては、国土が小さく、地の果ての西洋の国々に比べて、物質文明の進歩が遅いのは、どうしてであろうか。大本の国というなら、そういうことはないはずだと。
私、篤胤が答えよう。
まず、神様が、皇国をさして大きくない国として、お造りになられたのは、かのケンプルなどの西洋人が考えたように、神はかりがあるというべきである。
ことにいえるのは、国のことに限らず、ものの尊卑善悪は、見かけの大小にはよらないのである。
それは、師匠の本居宣長翁がおっしゃるように、『数丈(一丈=三・三メートル)の大岩も、一寸(三・三センチ)四方の翡翠(ひすい)には及ばず、牛馬も体は大きいが、人間には及ばない。
国もおなじであって、どんなに広く大きくとも、悪い国は悪く、逆にどんなに狭く小さくとも、良い国は良い』のである。
たとえば、世界地図を見ると、南の下方に非常に大きな(南極)大陸がある。
ほかの大陸全部をあわせて、三で割ったほどの広大さだが、そこには人も住まなければ、草木も生えない。
もし国土の面積の大きさをもって、国の善し悪しをいうのなら、さしずめ南極大陸は、よい国ということになろう」
「また、西洋諸国よりも物質文明の開けが遅いというのも、皇国の国民は性質がおおらかで、こざかしく物を考えたり、理屈をあげつらったりしないからなのであって、単に遅れていると思うのは、思慮が足りないいいぐさである。
つまり、皇国は万国の元祖・大本の国で、果物の実でたとえれば、『へた』の部分に当たる。『へた』の部分には、とくに『ものをゆっくり確実に成長させる大地の気』が厚く集まっているために、成長の仕方はゆっくりでおおらかである。
それで皇国の民も小知恵を働かせたり、さかしい性質をもったりしないのである。
たとえば、メロンや桃の実も、その実がだんだんと大きくなるのは、『へた』から実の先端に向かって成長してゆく。
ところが、実が育ちきって、熟するときには、先端の方から、まず熟しはじめ、『へた』の部分は、後になって熟するものである。
これは、『へた』の部分が、実の成長の原点であり、成長させようとする力の勢いが強く、最後まで残存するからである。
こういうことは、すべてに言えることで、たとえば天地の間のことでも、朝日が最初に東に見えるときは、さして日光の暖かさを感じたりはしないが、だんだん太陽がのぼって西へ西へと移動するごとに、日差しの熱さを感じるようになる。
これは、東に起こった朝日が、西に移動するうちに変化するからである。
こういうことは、天地の間の理というものを、よく観察研究し、きわめたのちに、はっきりとわかることである」
さて、江戸時代の「伝承」というか「ネタ」を一つ放り投げたということで。
(やまとことば)
まっくすさん。
「日本語ってのは不思議な言葉で、漢字のオブラート(意味)をまとうことで
外来(概念輸入・消化)へ対応しつつ、
その裏に古代そのまま(和語)を保存してたりする。
俗に言う音読み訓読みですね。
さらにその上、カタカナとアルファベットがあるんで、遊べるし、こなせるしで何でもござれです。
言語自体が「ディアスポーラ」っぽい。そこに大きな可能性を見ます。
ところが、それと裏腹に、ちょっと議論とかになると、明治以降に翻訳された漢語を使わざるをえず、
理解や共感の足かせになったりするから相当工夫しなきゃいけない。」
過去、何度も何度もある種のディアスポーラがあったと。
しかし、そのなかで骨格をなす和語(やまとことば)は、
変化せずに残っているということですね。
やまとことばの起源は私には分かりません。
「アイヌ語」だという説もありますが、
金田一は否定しているそうです。
梅原他は、生活上重要な基幹語が一致していると主張しています。
それは別として、例えば万葉集の言葉はかなり現代でもわかります。
それに57(75)のリズムも現代に伝わっています。
5・7のリズムが当時の朝廷による押しつけという説もあるようですが、
このリズムが自然でやまとことばにぴったり合っているのは動かしがたいと思いますね。
実はここに一つ問題あり。
昔、「古事記」を読んだときには、
意外に難しいなあと思いました。
まして「日本書紀」になると、読みくだし文でも読む自信がありません。
(学校で習ったことないからねえ)
漢文はとても読む気がしません。
古事記等の文章は、しかし当時の中国や半島の漢文の移植なんですよね。
だから難しい。 庶民には読めない。
これは明らかな押しつけ。
帰化人が漢字を民に押しつけたようだ。
このとき音読みと訓読みができました。
しかし、不思議なことは、
ただちに万葉集が出現していること。
字を導入したばかりなのに、なぜ突然に歴史上最高の歌集が出現するのか?
考えてもよく分からない。
世界史的にこういう例は皆無だと思う。
ましてそのあとの千数百年、歌集のレベルは落ちる一方なのではないか?
(すいません。よく知りませんが、疑いです)
「やまとことば」による完成された高度文明が、
漢字導入前にあったということに違いない。
その高度文明のレベルは、漢字導入以降徐々に低下していく。
まさに「文明は退化する」という決定的な証拠が万葉集(じゃないのかな)。
そのような高度文明から見て、やまとことばを「採譜」する文字はあったと考えるのが自然だと思います。
そうすると、やまとうたを漢字で「採譜」することが、
まさに朝廷の押しつけだったという結論に達します。
それでも、「やまとことば」という「基幹技術」は、
漢字文明の圧倒的導入後も保存された。
これが平安女流文学につながっていく。
(焚書と文明の断絶)
まっくすさん。
「どうも、秦の始皇帝の焚書がトラウマかもしれません。
日本人の私から見ると、駄目なもの、弱いものを「天」の命ずるまま滅ぼすという
無茶苦茶な発想は、おいおいという感じ。
「リセット」することが人心の一新につながるのか、
いちいち正史を書き換えることにそんなに意味があるのか?いろいろ疑問です。 」
日本でも焚書したわけですよ。これは確実。
帝記も「旧辞」も「一書」も何も見つからない(?)わけですからね。
まさに始皇帝的行為があったのに違いない。
正史の(たぶん)偽造と漢字の押しつけによって、
その前に残滓のあった高度文明を断絶させたと見ます。
これが万葉集の基盤となった文明で、
地下に潜り、平和な時代(平安時代)まで地下水脈となった。
こう推理していくと、
その高度文明とは何だったのか?
という疑問が湧いてきます。
(私の記述はありふれてるかな? ちょっと心配)
(基本的古代文明伝承=神話)
まっくすさん。
「「経済」に「愛」を貫くには、庶民の「ダルマ」を実装する「技術」を
生み出すしかありません。
そのような技術を胚胎し、実装する力の源は、私の考えでは
「神話」(近代的な夾雑物の少ない純粋な感性=思考のエキス)のなかに
存在しています。そして、そのような神話的感性の担い手は「庶民」しかいない、
と思っています。」
上の「高度文明」は、たぶん現代でも我々の周りに、
「ありふれた古くさいもの」
「しかしなぜか捨てられないもの」
「理由はよくわからないが、みんなやっていること」
の中に残滓として残っているに違いない。
そのような伝承があるのか?
「古事記」はかなり苦しいという印象があります。
言葉がやまとことばとなんか違うし。
私たちの現代の伝承とあまり関係ないみたい。
これこそ焚書の産物じゃないのか?
例えば「遠野物語」もぴんとこない。
以下のスレッドで検討は終わっています。
「『共同幻想論』に興味はありますか。
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/1234.html
投稿者 如往」
何かご存じないでしょうか?
蛇足:
宮沢賢治は日蓮宗国柱会会員です。
熱烈な信者です。
ナム・・・・は南無妙法蓮華教ですね。