日本古来の料理の原点は、縄文時代の食文化といえそうです。 歴史の教科書では、採取生産の縄文時代は食うや食わずの貧しい時代で、稲作が伝播した弥生時代は貯蔵と計画生産が可能となった豊かで安定した時代、と紹介されます。 しかし、実際の縄文時代は、現代よりも温暖で海産物も豊富だったこともあり、さらに保存食も活用し、その食生活は味付けや調理も行われた豊かで多彩なものだったようです。 そんな縄文人にしてみれば、渡来人による稲作の伝播は、専門技術が必要で時に採集以上の重労働を伴い、また私有や格差、納税といった現象ももたらす、ありがた迷惑な存在だったのかもしれません。 以下、引用です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 縄文人の主食は、種実類(しゅじつるい)と根菜類を中心とした植物であることが、今日では定説になっている。 その多くにはエネルギー源となるデンプンが豊かに詰まっている。しかも身近にあって量も多く、老若男女を問わず効率よく採集でき、また貯蔵がきく木の実を地中の竪穴に貯える事は全国的に普及しているが、低温多湿で粒のままの保存であるから、長期に大量に保存しうるものではなかった。 冬期でも寒冷地以外は、短期間がせいぜいである。 長期には住居の屋根裏にトチ・クルミ・ドングリなどが乾燥保存された。 長野県富士見町藤内遺跡(とうない)の九号住居址から、竪穴住居の炉上の吊り棚に貯えられたとみられる多量の栗が出土した。火棚で各種食料の乾燥と燻状貯蔵が日常的に行われていた証である。デンプンを粉にしたり、それをクッキーに加工して保存もしていた。 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=290341 諏訪地方縄文時代 民俗学的研究
縄文時代の中期を中心に 和田峠(旧中山道) 急峻な山道でした。 何万年という長期にわたって黒曜石を採取し続けたのです。 縄文時代の漁法 八ヶ岳西麓には数え切れないほどの湧水・沢と川が入り組み、諏訪の中筋を流れる上川と宮川の2大流域の源流となって諏訪湖に流れる。現在その源流が、観光開発と道路修繕により、復旧不能な状態で放置されたまま自然資源を喪失している。かつて岩魚などの魚影の濃い場所であった。山の猟に劣らず川の漁も重要な生業で、八ヶ岳西南麓の釜無川水系と宮川水系には、ヤマメ・イワナ・ハヤ・カジカ・サケ・マス・コイ・フナ・ウナギ・ドウジョウなどが棲んでいた。昭和初頭頃まで釜無川にはサケが遡上していた。ウナギは戦前までは周辺の中小河川で獲れた。1万年を超える年月があっても魚類の習性には変わりがないはずで、漁法の殆どが縄文時代に多種多様に工夫され今日に伝わったと思える。
下流に石を並べて、魚の逃げ場を塞ぎ、上流から追って、その力強い躍動感に驚嘆しながら、岩魚のエラに指を衝き入れ手づかみで岸辺に掬い上げることもしていた。白樺湖ができる前の池の平では、中央を音無川の清流が蛇行して、岩魚・山女(やまめ)・鰍(かじか)などがたくさん棲息していて、地元の川干漁の絶好の場所であった。 ムラなどで一挙に多量の川魚を獲るため、毒を流すこともした。クルミの葉を沢の岩場で、石でよく叩き潰すと赤茶色の汁が出る。これを流すとカジカが弱って岸辺に流れ寄る。ヤマイモ科のオニドコロの根茎を足で揉み出し、そのトコロ汁を流すと弱ってマス・アユ・ハヤ・ヤマメ・カジカなどが岸に寄ってくる。山椒の木の皮を焼くか乾かして砕き粉を作る。木灰を混ぜて川に流せばよくきいた。山椒の粉と木灰を等量に入れた木綿袋を水に入れて揉むと、濃い茶色の汁が沢に流れ、イワナが弱って白い腹をみせて浮き上がる。自然から採取した材料だけに毒性が弱く、一時的に神経麻痺を起こすが、ある程度時間がたつと魚は蘇生した。できるだけ水量の少ない渇水期を狙い、しかも小さな沢で行わないと効き目がなかった。 初め川で暴れ、川魚が石や岩場の下に逃げ込む様にし、川の表面に顔を出している石に大きな石を力一杯ぶつける。衝撃で失神して浮いたところで捕まえる。また追い込んだ魚をヤスやモリで刺突もした。現代同様多様な漁法を駆使していた。というよりも1万年を優に超える縄文時代に、日本の文化の骨格となる諸技術とそれを可能にする諸道具が既に整えられていた。主に朝鮮半島を主流とす水田稲作が、西北九州から圧倒的勢いで伝播し得たのも、縄文時代に、生産性を念頭に置き栽培種を意図的に育成し活用する緻密な、農耕に近い文化が涵養されていたからである。長野県茅野市富士見町の井戸尻遺跡群出土の農具の種類は豊富で、打ち鍬・片刃の引き鍬・小鋤・草掻(くさかき)・手鍬(てぐわ)・草取鎌・刈取り用の磨製石包丁・石鎌・中型の手斧などの出土例から既に農耕が始まっていたと考えた方が正解のようだ。 日本列島の発掘実績から見ると、漁労は川から始まり海に進出した。旧石器時代の遺跡からは、釣針は未だ出土しておらず釣漁や網漁も確認されていない。石槍を転用したヤスやモリによる刺突漁が主であったようだ。海の漁は縄文時代になってからで、釣針・ヤス・モリなどの漁労具の改良も進んでいた。特にシカの骨がそれを可能にした。シカの中手骨や中足骨が真っ直ぐで長いので縦に裂いて作った。 長野県南佐久郡北相木村の栃原岩陰遺跡(とちばらいわかげ)は、12体の縄文時代早期の人骨が出土した事で有名であるが、八ヶ岳から流れ出た相木川泥流が堆積した崖を、相木川が長年月に亘る流力で削りとった岩陰に縄文早期の小規模な遺跡を3つ残した。そこでシカなどの足の長管骨を裂いて作った釣針が出土した。しかもサケ・マス類の脊椎骨までも伴出した。日本海の信濃川から千曲川を遡り、さらに遡上を続け、群馬県の県境、長野県の相木村にまで達していた。 石槍を漁労用に展開したのがヤスで、早期には登場し、前期には鹿角製で逆鉤(あぐ)を付けたものも作られた。ヤスは東海・関東・東北地方の後・晩期に盛んに製作される。ヤスは槍先を木や竹の柄に装着して、浅水の魚をターゲットとするが、モリは槍先に穴・溝・くびれ・突起・肩などを備えて紐をつけ、投げて突き手が繰り寄せる。回遊するマグロなど大型の魚や海生哺乳類を獲物にする。北日本沿岸部では縄文中期まで石槍が多かったが、後期以降骨角製のヤスやモリが主流となる。宮城県石巻市の沼津貝塚では、多種の骨角製のモリや釣針が出土している。それら漁具と共伴した魚骨には、マグロ・スズキ・ニシン・クロダイ・マダイ・サバ・ヒラメなどがあった。 縄文時代の漁労は、旧石器時代既に神津島・恩馳島から黒曜石材を船で運ぶぐらいであるから、外洋にまで進出していたと見るべきだ。しかも今より岸近くまで魚が回遊していたのは確かで、魚影も濃かったであろう。外洋魚としては、マグロ・カツオ・ブリ・サバ・・アジ・イワシ・サメなどがあり、岩礁地帯ではマダイ・イシダイ・ブダイ・カンダイ・カワハギなど、砂浜の延長にある浅瀬にはハモ・ヒラメ・アナゴ・ホウボウ、内湾に入るとクロダイ・スズキ・コチ・ボラ・フグ類となる。以外にフグ類の骨の遺存が多い。毒を除去し美味しい身を食する文化と技術が広く伝播していた。外洋性回遊魚のイワシ類や内湾を回遊するクロダイ・スズキなどは鹹水と淡水が混じる汽水域でも棲息する。湖水ではフナ・コイ・ギギ・ナマズ・ウナギなど、汽水域では、ウナギ・マハゼ・サヨリなど懸命にとらえていた。東北地方の寒流域でサケ・マス・ニシンなどが主体となる。サケは秋、産卵のために産まれた川を遡上(母川回帰;ぼせんかいき)し、産卵場には冬でも結氷しないような河床から湧水が出ている砂利地帯が選ばれる。産卵・受精後、力尽きたサケは母川で生涯を閉じる。サケの稚魚は、春3月から5月にかけて海に下る。 縄文時代には、種々の気候変化があり1万年を超える文化を、端的には論評できないが、概ね暖流が現在より北上していた。東北地方晩期の亀ヶ岡文化はサケの遡上に生業の多くを依存していた。サケの捕獲は母川回帰が始まる夏からじょじょに行われ、秋にピークを迎える。堅果類の採集が秋である。冬期は通常、狩猟しかないので活発に行われるが、不確実な成果で安定した食料源にはなりえなかった。 サケや堅果類は、食料が枯渇する冬期にも、貯蔵が可能で、旧石器時代のように動物類の移動を追うことなく、特定の場所で継続的に食料を確保できる。また保存処理後の貯蔵は必然的に定住化を前提とする。さらに生産性の高い栽培種を長期間選別し、集落の内外で育てるとなれば、長期間に亘る働き掛けと、最低限度のマンパワーが必要となり、それが縄文前期以降の大集落の形成に繋がった。かつてアイヌは、サケは当座の食用以外すべて保存食に加工した。腹を割いて内臓を取り除き、戸外の物干し棚にかけて乾燥させる。屋内の囲炉裏の上に吊り下げ、燻製にする。あるいは雪の中に埋めて凍らせる。乾燥サケを食べる際は水に浸して戻し、魚油を加えて旨味を足しながら煮込んだ。凍ったサケは小刀で切り分け、ヤナギの串に刺して火にあぶり、少量の塩で味をつけて食べた。サケの骨は軟骨なので、十分焼くか煮れば、余すところなく食べられる。 北日本の縄文中期以降、サケと木の実の保存食に定住生活が保障され極盛期を迎え、高い文化を育てた。長野県千曲市の屋代遺跡群でも、採取された縄文時代の土から、千曲川を遡上したサケの骨の破片が、約570個見つかった。 最高に恵まれた湧水地と沢、その下流域の音無川が、上川に流れ込む辺りでは、アカウオ・ヤマメ・ハヤ・アカヅなどが漁獲の対象であった。その漁労用具の骨角製のモリ・ヤス・釣針は、強度の酸性土壌下であるから、検出は不能であるが、諏訪湖底の曽根遺跡ではモリ・ヤス用の石刃・細石器が発見されている。 釣針には、かえしの無い無逆鉤釣針、内側と外側にそれぞれ逆鉤が付いた内逆鉤釣針と外逆鉤釣針、針を左右錨形に合わせる錨形釣針、特殊なものでは仙台湾を中心に考案された軸逆鉤釣針と両逆鉤釣針など機能的に工夫が凝らされている。かえしの無い釣針は縄文早期から、内逆鉤釣針と外逆鉤釣針は前期から、軸逆鉤釣針と錨形釣針は中期から、両逆鉤釣針は後期からの出土例となる。釣針の出土が増加するのが仙台湾周辺では中期後半以降、関東地方では後期初頭から、西日本では後期中頃からとなる。 両端が尖った針状の直鉤釣針(ちょつこう)が縄文早期から登場している。せいぜい5cmで中央に溝が掘られ、他の釣針の多くと同様、鹿角製である。幕末に鉄製になりまで近世では竹製であったが、主にウナギ用釣針であった。 「ヤナ」・「ヤブ」・「ウケ」などは、現代でも、行われている漁法で、「ヤナ」は、河川の半分を堰き止めて、流れる流域に竹・木で簀(ス)の子を作り、そこに跳ね上がる魚を掴み獲りした。「ヤブ」は、ソダ・ヨシ等を束ねて湖や川に沈め、魚が棲家にしたところで、引き上げる。「ウケ」は、細い枝・裂いた竹・笹を蔓や縄で筒状に編み流に向け沈め、魚が入ると出られぬようにした。 諏訪地方の「ウケ」の対象は、ドジョウ・ウナギ・フナ・コイ・ハヤなどである。こうした漁法は、極めて有効で、縄文人の編み物技術からみても可能である。植物用材のためなかなか出土しないが、「ウケ」は、弥生時代期のものが出土している。「エリ」は河川や湖に、よしずや竹垣を魚道に張り立てて、魚を誘導して捕らえる定置網漁である。岩手県嵙内遺跡(しなだいいせき)では、杭が発見された。魚網錘(ぎょもうすい)とか釣り針の錘(おもり)の石錘・土錘は、諏訪湖周辺を中心に諏訪各地で出土している。釣り針は骨・角・牙製がほとんどであるが諏訪の平では未発見である。 縄文時代早期前半、沿岸部では既に網漁が行われていて、鰯(いわし)等の小魚の骨が数多く検出されている。当時シナ布(しなふ)は織られていた。フジの皮やコウゾ、麻などで織った藤布(ふじふ)、楮布(こうぞふ)、麻布(まふ)などと共に、シナ布はわが国における古代織物(原糸織物)の一つである。布物で既に身にまとっていた。編み物の技術で魚網を作り小魚を獲る漁法、即ち追い込み漁や掬(すく)い上げ漁法・刺し網漁法などが時代経過と共に行われていた。北海道石狩市花川の紅葉山49号遺跡の縄文時代中期(約4,000年前)の河川跡から、魚をすくう際に使ったタモ網が出土している。 当時の木製の漁労施設と器などの生活用具も共伴している。漁労施設は10ヵ所も検出され、その内の8ヵ所は杭などの伐採時期や民俗例からみて、サケ漁に使用されるエリとみられている。幅5〜10mの花川の発寒川に設置してあった。川の中に4.50cm間隔で、直径5cm前後、長さ150cm前後の杭を川底に打ち込み、サケの遡上をさえぎり、定置網で一網打尽にする。杭はヤチダモやヤナギで作られ、杭だけでは魚が逃げてしまうので杭と杭の間には、柴によって埋められていたものと考えられている。 刺し網漁は、魚が遊泳する所に網を渡し、網目に絡まった魚を獲る方法で、網の中でも構造上、最も作りやすいといわれている。現在の諏訪湖でよく見掛けるのは、四つ手漁と投網漁である。 諏訪湖の特殊漁法に“やつか”がある。湖底に20cm前後の石を1,000個程度沈めて、石の塚を築きあげる。魚はそこで冬ごもりをする。その周囲を筌(ウケ)のある立板と簀(ス)で囲む。これを“屋塚”という。氷が張ると“3つだめ法”といって、“屋塚”の場所から3方向にそれぞれ陸に目標を設定して記帳しておく。頃合いを見て、塚石を順次、次の“屋塚”予定地に積み上げながら、魚が筌に逃げると筌ごと掬い上げる。筌に入らなければ網で掬いあげた。エビは簀に付いたものをとりあげた。 諏訪湖の特殊漁法のもう1つが“たけたか”漁で、いわゆる刺し網で、諏訪湖では網をジクザクに張り、2m位の深さで沈子を錘として、網目の大きいのが“たけたか”で細かいのが“きよめ”という。“たけたか”漁はコイ・フナ・ナマズで、“きよめ”は、ワカサギ・フナ・ハヤ・ムロが対象であった。 諏訪湖では、昭和10年頃まで、コイ・フナ・ドジョウ・ナマズのほか、きれいな水に生息するカワヤツメ・イワナ・ヤマメ・カワムシが漁獲され、エビ類や特にマシジミなどの2枚貝が目立っていた。 縄文時代は約1万年間もあるので年代が進むにつれ漁法・漁具は大きく進化して、 漁具の発展は刺突漁具・釣漁具・網漁具の順で発展していったとされている。次第に大掛かりになり 捕獲した魚の一部は、冬の食糧源として燻製にして保存したと考えられる。「ヤナ」などの施設を設け、漁獲も多ければ特定の場所の確保が利権となり定住を促進した。尖石では、未発見であるが、燻製炉としての連穴遺構が各地で出土している。 縄文時代の漁猟具
魚影濃い沼・川を育む山林は、クマ・シカ・イノシシ・キツネ・タヌキなどで、昼間でも常に獣の気配がするほどになっている。平坦な岩場に獣の糞があふれかえり、山葡萄の実のなる頃には、山に分け入るシカの糞が至る所で盛り上がり散乱している。地元に住んでいても怖気て深く入れない。ウサギは、昭和の末頃に皮膚病のような伝染病により、一時的に絶滅状態になり、最近は復活しつつあるようだ。車山高原に30年近く住んでいるが、未だ野兎を見る機会が少ない。 肉食は現代でも最高のご馳走で、栄養価も食べ応えもある。八ヶ岳西南麓で発見される石器の中心は、黒曜石製石鏃である。石鏃とは「矢の根石」とも呼ばれ、矢の先につけて用いる狩猟用小型石器のことである。世界中の新石器時代以後の遺跡にみられ、日本でも弓自体の出土例は縄文後晩期に集中するが、石鏃は縄文時代草創期、隆起線紋土器段階で既に普及しているから初頭から使われていたようだ。発掘された石鏃は、既に定形化していた。しかも瞬く間に日本列島に伝播し、縄文時代を特徴づける代表的石器になっている。時代や地域により多様な形態のものがあるが、その殆どは押圧剥離による両面加工で作られている。極めて根気のいる困難な作業で、消耗品であるのに、余りに精巧なものが多いので、特定の集団が専門的に製作していたか、この時代の男の必要不可欠の製作技術として伝承されていたとも考えられる。 長さ約5cm重さは約5gまでのものが通常石鏃と呼ばれている。長さは2〜3cmのものも多いが、1cm未満のものや6cmを超える大型のものもある。これらは獲物の種類により大きさを区分したのだろうか。石鏃は、基部の形状によってその装着方法が異なっていた。凹基式、平基式、凸基式は矢柄の先端を割って石鏃をはさみ、有茎式は茎部を矢柄に挿し込んだとみられている。石鏃と矢柄の固定には、アスファルトや、膠・漆・木のヤニなどの樹脂が膠着材として使われた。 自然に湧き出ていた石油のアスファルトが、石鏃を弓矢に装着する際の接着剤として使われているが、信州には石油の産出地がない。隣県の新潟では、柏崎・長岡がその産出地で、黒曜石製石鏃との交換ルートがあったかもしれない。ただ通常、降雨多湿列島の日本では、手近に漆の木がたくさん茂っている。それで我慢したかもしれない。 縄文時代の狩猟の画期となったのが弓矢猟である。危険な野生動物に接近しなくとも補殺できるようになった。さらに鳥類も獲物の対象となった。弓の多くは丸木弓で、桜の樹皮を巻いた桜樺巻弓(さくらかばまきゆみ)、細い糸を巻いた糸巻弓、黒や赤の漆を塗った漆塗弓などがある。素材は西日本では、カシ・ユズリハ・カマツカなど、東日本ではイヌガヤ・カヤ・マユミなごが主流である。八ヶ岳西南麓では弾力性に富むカヤやイチイが適する。弓弦(ゆみづる)はアサやカラムシの繊維を撚り合わせ、強度を増すため松脂や漆が塗られたと想像される。大きさは150〜160p前後の長弓が多かった。射程距離は、民族例や実験例から30〜40mくらいと想定される。矢柄はできるだけ回収した。ワシ・タカ・ヤマドリの羽は簡単には入手できないし、気に入った矢柄は簡単にはできない。栓状鏃という木や骨で先端が丸い鏃が使われるのも、鳥を気絶させて捕らえ、きれいな羽を得るためであった。 ウサギ・タヌキ・キツネ・テンなどの中小獣類は、大勢が勢子となり追い立て囲んだところで弓で射った。シカはイヌに追わせると、急斜面や崖を飛び下り、臭いを消すため川筋に逃れる。「タツマ」と呼ばれる射手が隠れて待つ場所で、待ち構え頸部を射る。巨大な縄文イノシシを殺傷するには、より至近距離に追い込まないとむりで、狩猟犬の追捕が不可欠だ。また皮と皮下脂肪が厚く、そこだけ皮が薄い頸動脈に的中しない限り、矢で射っても直ち致命傷とはならず、弱まるまで犬による追尾が必要であった。 現在、車山に居住する漁師は、シカの補殺には猟銃は邪魔と言う。猟犬4匹がいれば、追捕し四方を囲むためナイフで仕留められる。猟犬は教えなくとも、獲物の四方を固め、正面の猟犬は威嚇するだけで、背後に廻った猟犬が尻や後足に食らい付き動きを止め、飼い主の登場を待つ。猟犬特有の本能的リスク回避である。猟師も猟犬が獲物に食らい付いた際には、猟銃を発射しないという。その衝撃で猟犬の牙を欠く恐れがあるからで、他の猟師の猟犬でも、目前で死闘が行われていれば猟銃の使用は控えるという。 イノシシはシカの肉より脂がのって美味い。骨髄も同様なのであろう。全身の骨角が遺存する例は、ごく稀で、補殺されれば四肢・頭・顎・背骨は、髄液を飲むため解体され尽くされている。ラムラックやTボーンステーキのように肉片が付いたままよく焼き、付着する肉を食べながら、骨を割り骨髄を啜る光景が想像できる。 イヌの骨の出土は、日本各地の縄文貝塚から学術報告されている。いずれも丁寧に埋葬されている。縄文早期前半の愛媛県上浮穴(かみうけな)郡美川村の上黒岩岩陰遺跡では、人と同様に手厚く埋葬されていた。岩陰の奥部を墓域とし、10体以上の人骨が埋葬されていた。その人骨より居住地区近くに2体の犬の埋葬骨も発見され、今から約8,000年前、我々の先祖が既に日本犬を飼っていたことがわかった。山形県東置賜郡高畠町屋代の日向洞窟(ひなたどうくつ)では、イヌの骨が縄文草創期の隆起線文土器片・爪形文土器片や石槍・石斧などと伴出し、イヌの活用を前提にした弓矢猟の出現が想定されている。他にはクマ・シカ・キツネ・カモ・ヤマドリなど多数の骨も出土した。 縄文時代の遺跡から出土する陸上動物骨の骨の95%がシカ・イノシシでクマなどは少ない。その中型獣に対して、長さが2pにも満たない石鏃では、直ちに致命傷を与えられない。猟犬の追尾する能力に毒矢の使用が加わらなければ難しい。アイヌ民族が使っていたトリカブトの矢毒は、縄文人に遠距離からの攻撃を可能にした。イノシシ・クマなどの獲物からの反撃を回避するためにも有効であった。矢毒で狩猟した獲物は、矢毒が刺さった部分を少し大きめに取り除き、他部は加熱すれば食べられた。矢毒を付けた仕掛け弓を獣道に多数仕掛けることで猟獲を格段に向上させた。矢毒の使用は狩猟民の狩猟技術に一大革命をもたらした。その命中精度の高さと狩猟技術の向上と、それを一層、効果的にしたのが縄文早期初頭からの猟犬と矢毒の使用であった。石槍の出土例は平野部では少なくなる。あっても殆どが漁労用であった。石槍が山間部に残るのはクマ猟には有効であったからだ。弓矢とイヌを活用する集団猟により、集落内の結び付きは一層強固なものになったであろう。 石鏃が刺さった骨に増殖がみられる検出例から、致命傷を負っていないとして矢毒の使用を否定する説もあるが、それだけでは根拠が薄い。 北海道の陸上狩猟動物はエゾジカが主でキタキツネは少ない。イノシシの骨は僅かな出土例しかなく、本州からの交易品として運ばれようだ。大島の下高洞遺跡(しもたかぼら)では、段ボール箱で70個、点数では数千点にもなるイノシシの骨が出土した。利島・新島・三宅島にも運ばれていた。伊豆七島には食料となる中・大型の動物はいないはずであったが、200kmも離れた八丈島でも大量に出土している。それが骨付き肉で運ばれたか、生きたまま持ち込まれ、長期に飼育され太らせてから食料にしたかは定かではない。縄文人はイヌを飼育しているから、その可能性はあるが、牛馬類は縄文時代の出土例がない。 ただ、儀式用としてイノシシの飼育が行われた可能性は高い。縄文前期後葉になると土器の縁にイノシシの獣面が現れる。中期には甲府盆地東辺や関東の遺跡から取っ手などにイノシシを造形した土器が現れる。長野県大町市八坂の中原遺跡で出土した縄文中期・約4,800年前の深鉢土器片は、鼻を突き出したイノシシの顔を象った取っ手であった。関東地方でも、中期の貝塚から、頭骨を欠くイノシシの幼獣を特別に埋葬する例がいくつかみられる。山梨県北杜市大泉町の金生遺跡では、縄文晩期、八ケ岳を背景にし巨大な配石を「祭壇」として構え、その前で祈りをささげた。この遺跡から大量のイノシシの下顎が出土した。それは径140p、深さ70pほどの竪穴に焼土と共に、焼かれた状態で118頭分が集積されていた。そのうち114頭が生後1歳未満の幼獣だったという。祭礼に供される贄としてささげられたようだ。 食用としてはもとより、贄として、幼獣が一時的に飼養されたことは確かのようだ。後晩期には、東北地方でイノシシばかりかブタを象った土偶が登場する。ヨーロッパ、西アジア、中国などでは、それぞれが独自に土着するイノシシを順化させ家畜化した。家畜化の年代は、おおよそ中国南部で10,000年前、西アジアで8,000年前頃とかなり遡る。ヨーロッパの養豚も古く、イギリス諸島で約6,000年前の骨が出土している。日本列島の縄文後晩期に登場するブタは、日本列島のイノシシを飼育し順化させたブタらしきものであったのか。弥生時代に養豚が水田稲作文化と同時期、大陸から伝来したというが、それは縄文時代から飼養されてきたイノシシだったのか。 イノシシの巣は窪地に青萱や落ち葉などを牙で食い切り径1.5m前後、高さ50〜60p程に敷き、枯枝などで屋根のある産床(うぶどこ)を作り、通常4月〜6月頃に年1回、平均7〜8頭ほど出産する。育つのは半数位のようだ。妊娠期間は約4ヵ月、雄は単独で行動するが雌はひと腹の子と共に暮らし、定住性が高い。一週間くらい経てば幼獣は親のあとをついて歩く。縄文人はその習性を当然知り、その場所を探して捕獲したようだ。 伊豆七島へイノシシを運んだ舟は太い大木を長く輪切にし、中を抉り抜いた丸木舟である。西日本ではクスノキやスギ、関東ではムクノキ・カヤ・クリ・ケヤキなどが材料で、北海道ではカツラが多い。丸木舟は焼石で焦がしながら石斧で抉り、多くは全長5〜7p、幅は60p位である。縄文前期の出土例が一番古いが、神津島・恩馳島の黒曜石が本州で広く分布していることから旧石器時代からあったとみられる。 千葉県千葉市花見川区朝日ケ丘町の落合遺跡から、泥炭層から2,000年以上前のハスの実1粒が発掘され、大賀一郎博士によりその実が発芽・開花させられた。その花見川下流の湿地帯に豊富な草炭層が形成され、そこから昭和22(1947)年、長さ6.2m、幅42pある1隻の丸木舟と6本の櫂が出土した。翌年にも長さ5.9m×幅44pと長さ3.5m×幅52pの2艘、昭和26年にも別の断片が、計4艘分掘り出された。縄文時代の落合集落は川辺に突き出した緑と水辺に恵まれた台地に立地し、川漁や内海漁には絶好の基地となり常時10軒ていどの集落があったとみられる。 京都府舞鶴市千歳の浦入遺跡(うらにゅう)は、約5,300年前の縄文前期の丸木舟の船体半ばから船尾にかけの部分、約4.6mが約50cmの深さで砂層に埋まっていた。丸木舟の全長は約8m、幅1m、舟の縁の厚さ5cmと推定される。材料は直径2m前後のスギ材を半割りしたもので、造られた時の焦げ目が遺存している事から、焼いた石を表面に置いて木材を焦がしながら、磨製石斧で抉ったものだという。その周辺からは、桟橋の杭の跡、錨とみられる大石なども発見され、当時の船着場と考えられいる。遺跡は日本海に面した舞鶴湾の外海との湾口にあたり、外洋漁業の基地だったようだ。一方、日本海側では、縄文時代、「海の道」を通じて広く交易していたことがわかっている。滋賀県近江八幡市の元水茎遺跡(もとすいけい)出土の丸木舟は琵琶湖での漁労を対象にしていた。その上、琵琶湖の内湖(ないこ)間の交易舟としても活躍していた。 縄文時代の丸木舟は、50数例見つかっているが、素材の性質上、当然、縄文後晩期に属する丸木舟がもっとも多いが、前期に属する丸木舟も長崎県多良見町の伊木力遺跡(いきりき)や福井県若狭町の鳥浜貝塚などで数艘の出土例ある。丸木舟の舟底は丸底のため、横流れや転覆しやすい。それでも穏やかな水面の湖・内海・磯廻りなどに限定されず、浦入遺跡の幅1mの丸木舟や、南太平洋ポリネシアの原住民が、古来より用いていたカタマランのように、2艘を並べ、木を何本か渡し綱で縛る双胴舟方式(そうどうしゅう)などで外海に漕ぎ出たようだ。両手で支える木の櫂で直接漕いでいたようだ。舷側に支点を置く装備の舟が出土していないので、オール形式ではなかったようだ。 本州・四国・九州の山間部ではニホンカモシカとツキノワグマも多い。ニホンザルも食べていた。平野部ではイノシシ・ニホンジカが殆どで、タヌキ・キツネ・アナグマ・ノウサギなどの小型動物は少ない。肉が不味いせいもある。ただ毛皮を得る目的もあったであろう。青森県の三内丸山遺跡では、シカ・イノシシが少なく、7割がウサギ・ムササビなどの小型動物であった。ガンやカモが主であるが、アビ・アホウドリ・ウ・カイツブリ・ハクチョウなど野鳥をとらえ食料としていた。その出土比率は他の縄文時代の遺跡と比較すると高い。恐らくシカ・イノシが激減し、ウサギ・ムササビでは主要な動物性タンパク源となりえず、野鳥やマダイ・コチ・ブリ・ヒラメなどの海産資源に多くを依存していたようだ。縄文時代、イヌは飢饉など余程の場合以外は食べない。埋葬されるのが通常であった。 縄文早期前半にはイワシが漁されているので、漁網があったと断定できる。タモ網程度かもしれないが、石錘・土錘が多量に出土すれば漁網を伴うのが明らかである。北海道渡島半島の縄文早期の遺跡から多量の礫石錘が出土している。函館市の函館空港遺跡でも礫石錘が出土しているので漁網を使っているのは明らかだ。関東地方の縄文中期の貝塚からは大量の土器片錘が発掘されている。 縄文時代の植物性食料 春、八島湿原に行く。一面、ヤマドリゼンマイとヤマウドの群生である。車山高原はワラビが豊富だ。林に分け入れば、タラの芽、マユミ・カエデ・サクラ・シラカバなどの若葉など見るもの総てが食料である。草原では、行者ニンニク・ヤマフキ・コゴミ・ツリガネニンジン・ギボウシ・アマドコロなど、灰汁(あく)抜きをしなくても、煮れば柔らかく食べられる。 下流河川から獲れるサワガニ・カタツムリ・イシガイ・オグラシジミ・オオタニシ・カワタニシなどは副食かおやつであったろうか。奇跡的にも富山県小矢部市の桜町遺跡では縄文中期の層からコゴミとヒョウタンが発見された。この遺跡は、谷の中にあったこともあり、地下水位が高く、その水にまもられていたために、通常の遺跡では残らないような建築加工材など多種な木製品や編み物類、動物や植物などの有機質遺物が、非常に良好な状態で出土した。山形県東置賜郡高畠町深沼の縄文前期の押出遺跡(おんだし)は泥炭地で湿地であったため、ここでも木製品や漆製品、編物、食料類などの遺物が多く発見された。クッキー状に焼きあげた炭化食物も52個ときのこが出土した。 夏は、スグリ・ヤマグワの実が豊富に採れる。味はよくても腹持ちが悪い。しかし調理用添加材と考えると用途が広がる。山採は雪国でなければ、一年中採れる。芽・葉・花弁・地下茎・地上茎・根など、植物の利用部分は様々にある。ヤマイモ・ユリ根・シイの実など、アク抜きは不要だ。カヤの実もギンナンのように殻付きのまま炒って食べられる。ただ野生植物には、通常、自衛のためもありアクは付きものである。カタクリ・コシアブラ・ギボウシ・アマドコロ・コゴミ・シオデ・ツリガネニンジン・マユミの実などは茹でるだけで食べられる。タラの芽・ウド・セリ・ツクシ・タンポポ・フキ・ヨモギ・ニリンソウ・フキノトウなどは茹でて水に晒せばよい。アクが極めて強いアザミ・ゼンマイ・ワラビなどは、木炭の灰汁を使ってアク抜きをする。 諏訪の地域は、夏になると夕顔の実が店頭に出回る。優に40cmを超えるものも多く、且つ太いので食べ応えはある。一般的には茹でて食べる。癖がなく、秋口まで収穫できる。夕顔は平安時代初期に中国から輸入され、殆どが干瓢として食されている。縄文人も当然、ヒョウタンなどのウリ科の植物を、住居周辺で栽培していたと考えるのが自然である。 秋にはドングリ類だけでなく、山ブドウ・アケビ・ヤマモモ・ヤマボウシ・カジの木・マタタビ・ザクロなどがある。植物の実は、野鳥たちに種を運んでもらい種の保存を計るから、大部分の植物の実はうまいのが通常だ。ただマムシソウの実は食べると、嘔吐・腹痛、触れただけで皮膚炎を起こす人もいる。マユミの薄い桃色の実をコゲラなどが食べに通うが種自体は猛毒である。ウバユリの根も美味しい。福井県三方町の鳥浜貝塚は、三方湖に注ぐはす川とその支流の高瀬川の合流点付近にある。その縄文前期の層から丸木舟・櫂・石斧の柄や簡単に1本の木で作る丸木弓・鉢・椀など、各種の多量の木製品が出土し、その仕掛中の加工材も豊富で、この時代の木工技術を知ることができる貴重な史料となった。木製の櫛には朱や黒の漆が塗られ、すでに漆技術の普及していたことがわかる。伴出したのが栽培種のクリ・ドングリ・クルミ・ヒョウタン・リョクトウ・エゴマ・ウリ・シソ・ヒエ・ゴボウ・アサ・アブラナ類・カジノキ・ヤマグワなどで、縄文時代人が営む農耕の原初的な重要資料となっている。 ドングリなどの堅果類の多くは、アク抜きが必要で、粒のまま煮て水にさらしてアクを抜く。そして通常、石皿や石棒で製粉し、粥状にするか、団子状にして食べたと推測される。青森・岩手・山形・福島・茨城・新潟・長野・岐阜などの遺跡では、ドングリを加工し、クッキーやハンバーグを製作していた。 冬期の山採は、冬鳥が雪国や豪雪の山岳地帯にまで群集する光景が、鮮やかに語り掛けてくれる。ヤマボウシや山ブドウの実が瞬く間に啄ばまれ、その後大量のツルウメモドキやズミの実が補い、ナナカマドの実は、余り好みでないようで、あたかも已む無く最後に野鳥が啄ばむ様子だ。青森・岩手・山形・福島・茨城・新潟・長野・岐阜県の遺跡からクッキー状、もしくはパン状の炭化物が頻繁に出土している。山形県の押出遺跡の縄文前期、約5,500年前のクッキー状炭化物には、クリ・クルミなどの木の実に、ニホンジカ・イノシシなど獣肉と野鳥の肉などと、イノシシの骨髄と血液と野鳥の卵などが加えられ、塩で味が整えられていた。また野生酵母を加えて発酵させてもいた。タンパク質が主材料のハンバーグもあった。クッキーの栄養価は高く、タンパク質・ミネラル・ビタミンが豊富で、栄養学的には完全食に近く保存食としても優れ、狩や交易の旅には携帯食として重宝にされていただろう。押出遺跡のクッキーには、スタンプによる文様が押されていた。旅先の夫に対する思いが込められているのだろうか。 諏訪市湖南の諏訪大社の神山・守屋山山麓に荒神山遺跡がある。縄文時代前期から平安時代までの遺物が出土している。この遺跡が全国的に有名になったのは、住居址内の石囲炉の炭化食品を灰像法による走査電子顕微鏡で鑑定した結果、「エゴマの種実」と判明したからである。その後原村の2つの遺跡、大石遺跡、前尾根遺跡の炭化物からも同一結果が出た。福井県三方町の5,500年前の鳥浜遺跡からも出土している。このことから縄文早期には、既に存在していたと推定されている。 「エゴマ」は、インド高地から中国雲南省の高地が原産地で、当時の日本には野生化しているレモンエゴマがあったが、栽培種はシソ科の油脂性植物の「エゴマ」である。中でも常に種実の大きい方が選別され続けられ食用として栽培されていった。またエゴマは薬用のほか、油脂用・漆器用の工芸作物でもあった。しかも病虫害に強く、湿気を好むため乾燥しない土地が適地で栽培は容易、今でも全国の高冷地で作られている。 収穫は9月下旬から10月下旬で、その後5〜10日間乾燥させてから、敷物の上で、敲いて脱穀する。土器の水槽に少しずつ入れて、泥と砂を落とす。「エゴマ」は、水に浮かぶので笊ですくう。 米をとぐように4、5回洗い、表皮の汚れを落として、3、4日乾燥させて保存する。 「エゴマ」油の採取が一般的に普及するのは平安時代の初期、山城国で始まった。調理はゴマとよく似ていて炒るなど簡単だ。葉は「エゴマ」特有の臭みがあるとして日本では、野菜として利用されてこなかった。朝鮮ではむしろそれが好まれ、香りのよい種類をよく使う。近年、日本でも韓国料理の普及で、その香りが食欲をそそるとして調理されるようになった。 ヒエ・アワ・各種ムギを管理栽培する縄文人像が見えてきた。その後、各地の縄文遺跡から「エゴマ」のみならず、ヒョウタン・リョクトウなどの栽培種が発見されて、今後、より主食となりうる栽培植物の発見の可能性が高くなった。 岡山県岡山市津島の津島江道遺跡(つしまえどういせき)では、縄文晩期中葉の水田が発見された。近隣の岡山市北区の津島遺跡は、弥生時代初頭から大規模に稲作を行っていた大集落である。北九州では縄文晩期後半には、本格的な水田稲作が始まっている。本州でも岡山県南部の総社市の南溝手遺跡で、縄文後期後葉、約3,500年前の籾の圧痕が残る土器が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。同県美甘村の姫笹原遺跡では、縄文中期中葉、約4,500年前の土器の胎土中からイネのプラント・オパールが多数検出された。 ススキをはじめ、イネ、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は土壌から吸い上げた水分の中の珪酸という物質を、機動細胞という細胞に蓄積する性質がある。機動細胞に溜まった珪酸は細胞内で一つに固まり、植物珪酸体ととして蓄積される。その植物が枯れてもガラス質の植物珪酸体は土壌に残る。それがプラント・オパールである。縄文時代の稲作が縄文中期に遡る事になる。これが本格的な水田稲作が、弥生時代初期に西日本に急速に広がる素地となった。縄文時代のアワ・ヒエ・シコクビエ・イネなどの焼畑栽培や原始的な農耕がなされていて、長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡群のように多種の農耕具が既に揃い、農耕的生活が営まれていたからであると言われている。 ヒョウタンはアフリカ・熱帯アジア原産のウリ科の植物で、その乾燥した種子の保存能力もあって、かなり早くから全世界に広まっていた。海水にさらされると高い発芽率が利点となり、海流に乗って広く伝播したとみられる。縄文早期には、既に日本にも生育していて、8,000年前頃の福井県の鳥浜貝塚や滋賀県の粟津湖底遺跡からは、縄文前期・中期の果皮、種子が出土している。 灰汁がないので、ただ煮れば食べられる。後世、実を乾かし水筒や、酒の貯蔵用に利用している。海外でも土器文化前に保存・携帯用容器として使用した例が多いようだ。 リョクトウ(緑豆)の原産地はインド辺りで、古来よりインドでは、重要な食糧源で、煮たり、炒ったりして食べていた。現代でも、アジアのリョクトウ栽培の70%を占めている。若莢(わかさや)は軟らかいので、まるごと調理する。種子は3〜4gと小粒で、早生種を選べば、高緯度、高冷地でも栽培は可能で、インドでは、標高2,000mの高地でも作付けされている。沖縄では、旧暦の5月5日に作る甘菓子に入れて食べる。大きくて味もよい小豆が出回ると、豆の需要としては衰退する。現代では、むしろ中国・アメリカ同様、「豆もやし」として大いに食べられている。また中国春雨の原料でもある。 縄文時代の実りの秋 は、茸の季節でもある。古来より、林間における柴・下草刈りは、燃料・住居用材を得るための重要な作業である。後世には食料栽培の肥料を得るため、絶対不可欠な刈り採り作業となる。従って、手入れは行き届き、茸は大量に採集できたであろう。縄文人はあらゆる野生植物を口に含み、毒性の有無を確認した。ドクゼリなどの有毒山採、ドクウツギなどの有毒果実、カキシメジなどの有毒茸も経験で学んできた。林間によく見かけるマムシソウは、地下茎や種子に有毒成分があり、口にすると喉が焼けつくような刺激痛があり、しばしば痙攣・目眩を生じさせる。秋に実るカラフルなトウモロコシ状の種子は、舐めただけで舌が2〜3日変色するほどの強い作用がある。生で根茎を食すると、唇に浮腫が出来、涎が大量に流出する。それらの知識が共有されるまで、多くの犠牲者がでたであろう。 落葉樹林内の樹陰でよく見かけるオオウバユリの鱗茎(りんけい)からは、良質のでんぷんが含まれている。花をつけるものが「雄花」、花がないものが「雌花」で、花をつけると鱗茎は萎むので、採取するのは「雌花」だけだ。北海道では、アイヌにより「トゥレプ」の名で呼ばれ、アイヌ民族が用いる植物性食料の中では穀類以上に重要視している。掘り集めるのは6月下旬から7月上旬ぐらいまでの間が良く、早すぎるとデンプンが少なく、遅すぎると色が黄ばんで硬くなる。掘り出したまま、熊笹に包んで、石皿に載せ蒸し煮にすると甘味が増し、熊笹の香りが調味料代わりとなる。アイヌ民族が主食としたのは、冬でも食いつなげる保存性にあった。オオウバユリの鱗茎を、まず細かく刻んで乾燥させ、これを臼でついて、でんぷんの粘りが出てきたものを、ドーナツ状に成形した。穴にヒモを通して、住居内で乾燥して保存食糧とした。突き固めた鱗茎を水にさらして、底に沈殿する白い上質のでんぷんを団子にして保存した。炉で焼いて食べた。 ムラの周辺では、石斧を使って栗とオニグルミを、何代にも亘って盛んに移植する。今では、林のようになっている。やがて実が大きく、美味しい木のみを育て、その種が実生で生え広がるように管理栽培をした。間引かれたクリは、ムラの建造物などの用材とされた。その外周はコナラ・ミズナラの林がほとんどである。長く厳しい冬に備えて、ドングリを拾い集める。トチの大きな実も有効である。山ブドウ・ヤマボウシ・アケビの実は甘く、そのまま生食でる。ツノハシバミの実は、テトラッポットの形をした毛の密集した苞の中に1個入っているだけだ。栗のような実をしているが、生食するとナッツの味がし、脂肪分が豊富であった。 グミの実も渋みと酸味の中にかすかな甘味がある。日本原産の野生の山芋・ジネンジョの実・ムカゴは炒るだけで美味しい、茸と炒めたら最高だ。採ったら目印を残す。秋の山菜を採り尽くして、季節は終わるが、自分だけの秘密の場所で、目印頼りにジネンジョ掘る。成分はデンプンが主で、たんぱく質・ミネラル・カリウムも含まれている。漢方では、乾燥したヤマイモを「山薬」と呼び、古来より滋養強壮、健胃、整腸、消炎などの薬として重用している。縄文人も1万年の歴史の中で、口伝として共有していたかもしれない。 一般的にドングリは渋みが非常に強く、そのまま食用とするには適しない。灰汁抜きの方法としては、流水に数日さらす方法と、煮沸による方法がある。特に煮沸の場合、木灰汁を用いることもある。流水による方法は、主に西日本から広がる照葉樹林帯の地域でなされいる。煮沸方法は、東北地方や信州に広がる落葉広葉樹林帯で行われる灰汁抜き方である。渋みの少ない種では、殻煎りで、灰汁抜きができる。 北上山地の山村では、ミズナラのドングリの皮を剥き果実を粉砕して、湯、木灰汁などを用いて灰汁抜きした「シタミ粉」と呼ばれるものを作った。シタミ粉は通常湯で戻し、粥状にして食べた。熊本では、カシ類のイチイガシのドングリから採取したデンプンで、「イチゴンニャク」や「カシノキドーフ」、あるいはシイの実を用いた「シイゴンニャク」といった葛餅状の保存食が作られた。 トチの木の種子は大きく栗のようで食べ応えがある。その灰汁抜きは大変で、木灰でアルカリ中和をして除去する。トチの実は、赤褐色でつやがあり、でんぷんが主成分でカリウム・タンパク質も多く含まれている。9月になると、実は3つに割れて、赤褐色の光沢のある種子が山野にたくさん落ちる。その実は、古代から広い地域で、普通「トチ餅」にして食べられていた。縄文時代には、餅米はないので、アワ・ヒエ・ムギ・ソバの利用が普通で、現代にも残る粟が入っている「粟餅」が、主であったと推測されている。 クリ・クルミ・トチなどの堅果類とヤマイモ・ウバユリなどの塊根(かいこん)が、主原料となり縄文集落を支えてきた。三内丸山遺跡では、巨大な建造物などが、クリの大木を利用していることから、近くに選抜された優良なクリ林が育成されながらも、その食料資源を他に転用出来るほど繁茂していたようだ。三内丸山の集落ではシカ・イノシシなどが過剰な補殺で激減し、ムササビ・ノウサギのほか、カモなどや鳥類を捕食し続けた。いずれにしろ動物性タンパク質としては不足気味で、寧ろ、マダイ・コチ・ブリ・ヒラメなどで補っていたようだ。 三内丸山遺跡では、長い年月にわたる集落の営みで、周囲の森林が、広く木材や燃料として伐採され、その集落周辺の半径10km以内のシカ・イノシシは獲り尽くされていたようだ。三内丸山は、今から約5,500年前〜4,000年前の縄文中期を中心とした集落である。当然、当時の縄文集落は狩猟資源の枯渇を恐れ、「獲り控え」を念頭に、シカ・イノシシの補殺はオスの老獣を主なターゲトとしていた。それは出土例の比較分析からも明らかである。一方、自然環境を破壊しながらも、三内丸山人は自然環境に働き掛けていた。それがクリやクルミ主体の二次林の育成であった。近年、遺跡の泥炭性堆積物を分析したところ、イヌビエのプラント・オパールが多量に含まれていた。 イヌビエはヒエに似ているが、食用にならないことから名付けられた。しかも畑や水田、都会の道端や空き地などいたるところに生える1年草である。そのイヌビエが食料にされていた。 ヒエはイヌビエを日本列島で栽培型改良したものだと言われている。アワやキビと違って、外来の穀物ではない。イヌビエの種子は縄文早期の遺跡から出土し始め、時代の経過に伴い次第に粒が大きくなり円みを帯びる傾向がある。野生種のイヌビエを縄文人が、食料として馴化する過程で、栽培ヒエが誕生したという考え方が有力になってる。 イヌビエは縄文人の身近に広く豊富に広がっていた。当然、それを食料とする必然があった。そこに穀物の改良栽培の手法が育ち、それを応用活用すると、急速にヒエという穀物が日本列島固有の栽培作物として成長していった。三内丸山遺跡で麦類の種子が出土したと新聞などで報じられたことがあるが、それは野生のササ類の実であったらしい。これまで注目されなかったが、イヌビエなどと共ににササの実も結構採取されていた。クマザサは、やせた稲穂のような「ササの実」をつける。これを飛騨では「野麦」と呼び、往時の人々には、この実を粉にしてダンゴを作り飢えをしのいだという。 三内丸山遺跡ではキイチゴ・ヤマゴボウ・ヤマグワ・サルナシ・ヤマノイモなどとニワトコの種子が大量に出土した。遺跡からは、土器に大量に詰められたニワトコの果実が発見されており、酒を醸造したのではないかと推測されている。この泥炭層には、発酵する果実に集まるミツバチのサナギも大量に包含されていた。発酵酒が作られていたようだ。 ヤマゴボウの若葉は、灰汁を抜けば食用になるという。根は多量の硝酸カリを含み有毒とされている。誤食すると脈拍が弱くなったり、血圧が異常に降下し、心臓麻痺を起こすという。若葉にしても、多食するとジンマシンや吐き気・下痢などを起こすそうだ。山牛蒡の味噌漬けなどが、観光地の土産として販売されている。その本体は、ヤマゴボウではなく、モリアザミなどの根だから安全という。 縄文時代の特異な食料
日本列島は北東から南西に細長く、最北端の北海道稚内から、居住する最南端の島が琉球諸島の石垣島や西表島で、その距離3千kmに達する。その列島南端の東シナ海を起点とする暖流黒潮が北上する。一方、千島列島に沿い南流する冷たい親潮が、北海道から本州三陸海岸に南下する。そのため暖流対馬海流の末端域となる宗谷岬から知床岬のオホーツク海より、根室半島から襟裳岬までの道東海岸の海水温が、日本列島の海域では最寒冷の値を示す。 その道東海岸地域の縄文前期当時の貝塚や最上部の海成沖積層から、現在の北海道には生息していないが、本州各地の内湾で通常みられるハマグリ・シオフキ・ウネナシトマヤガイなどの貝殻が出土した。北海道西岸と道南海岸までと北限があるアカガイ・アカニシ・カガミガイなども同様で、これら貝類は現在、道東海岸では生息できず、より海水温の高い陸奥湾以南の内湾が北限となっている。 縄文早期末から前期には、暖流系貝類が北海道の全域に分布していた。それにより縄文早期末葉から前期中葉にかけて、縄文海進が最盛期となり北海道の沿岸の海水温が、最高で23℃、最低が8℃以上であったと推定されている。それ以降の黒潮暖流の後退により、縄文中期後葉から後期以降までに、その殆どが消滅する。 縄文早期後半の約7,500年前、北海道西岸沿いに北上する対馬海流が、石狩低地まで暖流系貝類を運び込み、約7,200から7,000年前頃、対馬海流は更に北上し宗谷海峡を抜けてオホーツク海に入る宗谷暖流となり知床岬辺りまで暖流系貝類の生息域を広げた。更に宗谷暖流は一気に南東下して知床岬から根室湾を通過し根室半島に至る。やがて太平洋側に出ると当時沖合を流れていた親潮寒流により道東海岸沿いに押しやられ厚岸・釧路・白糠パシクル沼そして襟裳岬へと南下した。約7,000〜5,000年前頃、北海道東海岸に宗谷暖流が流れると、温暖な海岸環境を形成し暖流系貝類を生息させた。一方、対馬海流の支流は津軽海峡を抜け津軽暖流となり道南海岸から襟裳岬にまで達し、さらにその分流は下北半島の東岸から三陸海岸北部に達した。日本列島でも地球規模の温暖化により、縄文草創期から前期にかけて急激な海面上昇と温暖化が進行し、北海道海岸部全域に暖流系貝類を分布させた。 縄文中期以降、対馬海流は津軽海峡を抜けて、津軽暖流となり太平洋側に出て、道南海岸に達し、一方は本州東岸沿いに南下して三陸海岸の北部にまで及んでいる。対馬海流の本流は日本海を北上し北海道西岸沿いからカラフト西岸に達している。その一部が宗谷海峡からオホーツク海に出て宗谷暖流となって知床岬へ東南下し、そこから廻り込み国後島(くなしりとう)と羅臼付近にまで至っている。対する親潮寒流は千島列島沿いに南下し、根室半島から襟裳岬にかけての道東海岸に流れ、、現在に至っては、本州三陸海岸をさらに南下し東関東の鹿島灘にまで達している。 縄文時代の発掘貝塚は、今では全国で3千ヵ所を超えているだろう。日本列島のどこの海辺にも当り前のように貝塚が遺存するような事はなく、多出するエリア・限定的なエリア・無出土のエリアがモザイク状に展開している。最も多いのが関東地方で、日本列島全域の6割を超える出土実績がある。その中でも東京湾から奥東京湾沿岸が第一で、それに匹敵するぐらい濃密なのが、現在の霞ヶ浦の西浦・北浦から牛久沼、手賀沼、印旛沼などを包含する広大な内海を形成していた古鬼怒湾(こきぬわん)の沿岸部である。続いて多いのが福島県および茨城県を流れる久慈川と栃木県那須高原を源流にして鹿島灘に流出する那珂川の両流域である。東北地方では、6県合わせても全体の2割弱であるが、特に仙台湾から北上川下流域が突出している。次いで南部三陸海岸・八戸から小川原湖周辺・いわき周辺と太平洋側に片寄る。北海道では内浦湾と奥尻海峡沿岸部に多い。東海方面では遠州灘沿岸と伊勢湾の知多半島から渥美半島にかけて集中している。中国地方では安芸灘から播磨灘の沿岸部に片寄っている。九州では国東半島と関門海峡に突き出た企救半島(きくはんとう)や有明海沿岸部が突出している。 太平洋側に貝塚遺跡が多出するのは、日本海側よりも貝の生息条件に優れ、それを採取するにも容易な地形的条件を備えていたためである。日本海側にもハマグリは生息している。ただ潮干狩りスポットと呼ばれる場所が極めて少ない。海岸から急に深くなる地形と満潮・干潮の差が太平洋側程大きくなく、遠浅の浜であっても干潮時に干潟が広く露出することが無いからである。 埼玉県秩父市の橋立岩陰遺跡や高知県佐川町の不動ヵ岩屋洞窟などの縄文草創期や早期の山間部の洞窟遺跡から、海産の貝がしばしば出土する。長野県北相木村栃原岩陰遺跡でも、ハマグリ・ハイガイ・アワビ・タラガイなど発見されている。食料にしては、その量が少ない上に海辺と余りに遠く離れていることもあり、貝殻が装飾品として愛用され、土器に文様を描く用具としても重宝されていたようだ。 海洋には魚類以外の海生哺乳類が生息している。捕獲には多くの危険が伴うが、一度獲得すれば収量があり、ムラの人々に長期間、広く行きわたる大食料源となった。イルカとクジラは全国で出土しているが、全体として日本の北辺ほど海生哺乳類の種類が増える。日本列島の南端の南西諸島には、大隅諸島・トカラ列島・奄美群島・沖縄諸島・宮古列島・八重山列島・尖閣諸島と少し離れて大東諸島などがあるが、ジュゴンが目立つ。本州と九州ではイルカ、北海道全域ではアシカ・オットセイがいる。北海道の寒流域ではトドとアザラシも加わる。これらは弓矢・石槍・大型銛などで補殺される。獰猛なシャチや巨大なクジラは海岸に漂着したものを捕えたと思われる。 貝塚や海生哺乳類に縁遠い山国・長野県下の洞窟遺跡から多くの動物遺存体が検出される。南佐久郡北相木村の栃原岩陰遺跡では、縄文早期の押型文土器の時期、イノシシ・ニホンジカ・ネズミ類が最も多く、サル・ウサギ・オオカミ・アナグマ・タヌキと鳥類、ヘビ・カエル・魚・貝類などがあり、人類の獰猛さが認識される。この洞窟から約8千年前、天井から落ちた岩に押し潰された子供二人の骨が発見されている。火山活動や地殻変動も今日と同様多かったようだ。地震により家が倒壊し圧死することは、それほど多くはなかっただろうが、溶岩流・火砕流・土石流や山の大崩落により埋没することは、少なくなかったはずだ。 上田市真田町長菅平十ノ原の唐沢岩陰遺跡では、クマが一番多いのが特異で、次いでイノシシとニホンジカとなるが、他にカモシカ・カワウソ・アナグマ・タヌキ・ノウサギ・サル類が検出された。茅野市北山の栃窪岩陰遺跡でウサギ・オオカミ・イヌ・タヌキ・クマ・シカ・カモシカ・サルなど、多数の骨が検出されている。鳥類の中趾骨(ちゅうしこつ)もあったが、種類は特定できなかった。イシガイ・オグラシジミ・オオタニシ・カワタニシ等の陸水産の貝と、海水のハイガイ(灰貝)・サルボウガイ(猿頬貝)の二枚貝も混じっていた。ハイガイ・サルボウガイは、おそらく貝殻状痕文の施文具として中部高原の当地まで流通して来たようだ。ヒキガエルの骨片も検出されいる。 日本人が生業の主な対象としていたのは、イノシシとシカであった。それら動物たちが通う獣道や、その習性を熟知し、それを補殺する手法に優れ、そのための好適地を押さええた集落が縄文時代に先ず繁栄した。深い山に入り込んだ沢と谷、その出口に突き出した扇状地の扇頂、獣たちが下方の沼沢や河川に集まる光景を、日常的に見張られる場所こそ縄文人にとって絶好の集落適地であった。 縄文人の主食は、種実類(しゅじつるい)と根菜類を中心とした植物であることが、今日では定説になっている。その多くにはエネルギー源となるデンプンが豊かに詰まっている。しかも身近にあって量も多く、老若男女を問わず効率よく採集でき、また貯蔵がきく木の実を地中の竪穴に貯える事は全国的に普及しているが、低温多湿で粒のままの保存であるから、長期に大量に保存しうるものではなかった。冬期でも寒冷地以外は、短期間がせいぜいである。長期には住居の屋根裏にトチ・クルミ・ドングリなどが乾燥保存された。長野県富士見町藤内遺跡(とうない)の九号住居址から、竪穴住居の炉上の吊り棚に貯えられたとみられる多量の栗が出土した。火棚で各種食料の乾燥と燻状貯蔵が日常的に行われていた証である。デンプンを粉にしたり、それをクッキーに加工して保存もしていた。 日本の製塩は縄文人が発明した。製塩土器は関東地方の古鬼怒沿岸に縄文後期末に登場する。土器で海水を煮詰めるため、より煮沸効果が高い、底が薄く小さな深鉢形の製塩専用の土器が作られている。器面に文様などは施さず内側は水もれを防ぐために丁寧に磨かれている。土器に塩の入った状態で流通した。塩を取り出すときは、土器をわって取り出すため、発掘調査で出土する土器は壊れた状態で見つかる。やがて製塩土器は、宮城県東松島市の鳴瀬町里浜貝塚などから岩手・青森と北上する。備讃瀬戸沿岸部から大阪南部・和歌山に広がるのは、弥生時代の前期後半から中期に掛けてである。 古来、人々は動物の髄や血などから塩分を自然に摂取していた。縄文時代の塩は食料の保存に使用された。カキやマキガイのむき身を海水で煮込み、水分を蒸発させてから天日干しをして大量の干し貝を作ってきた。身に塩分が濃縮され、そのままでは食用に適さないが、スープや煮込み料理などの固形出汁として極めて優れている。千葉県沿岸部の集落全体で塩分を濃縮した干し貝を生産し、内陸部との交易品としていた。ワラビ・ヤマウドなどの塩漬け保存も長野県の諏訪地方では古くから行われ今日至っている。塩味に乏しい獣肉やドングリ・クッキーと一緒に食すれば縄文時代の豊かな食文化が広がる。 縄文時代には、既に現在まで継承されている食材の保存方法が確立されていたようだ。魚を頭まで腹開き、あるいは背開きにし、内臓を取り除いて海水で洗浄し、そのまま一晩漬けるか、半日ほど風に当てながら日干しにする。火で炙り火干にする方法などもある。イワシ・アジ・イカナゴ・エビ・アワビ・ナマコなど小形魚であれば煮てから干す煮干しと、それらを蒸してから干す蒸し干し、海水で魚を煮る塩煮、魚から抽出した魚油に漬け込むなどして保存した。煮たり焼いたり蒸したりするが、縄文時代を通して基本的には乾燥保存であった。当然、干し肉や燻製肉があり、製塩が普及すれば塩漬けも登場する。縄文時代の民族は、現在に至るまで、あらゆる生活場面で原初的存在であり続けた。 以上が縄文人の定番となる食材で、他にも現代人同様、種々雑多なものが食べられていた。タコには骨が無く遺存しないが、イカ同様美味しい食料である。千葉県市川市堀之内の堀之内貝塚は、縄文後期前半から貝塚文化衰退期の縄文時代晩期にかけて営まれた遺跡で、今から約4,000〜2,000年前にあたる。アサリ・ハマグリ・イボキサゴ・クロダイ・スズキ・エビ類・イノシシ・ニホンジカなどを捕食していた。ここからイカの甲羅がたくさん出土した。甲羅が遺存しないコウイカ・コブイカなども食べていただろう。千葉県館山市浜田の鉈切洞窟(なたぎりどうけつ)では、アワビやサザエなどの貝類68種が出土するが、ガザミ(ワタリガニ)は、一般的な食用蟹で、晩春から初冬まで、冬以外はほぼ季節を問わず漁獲されていた。ズワイガニなどに比べるても味に遜色なく、殻もわりと薄くて食べやすい。鉈切洞窟人は体重200kg、甲長1.2mを超えるアカウミガメを、その卵を含めて食料としていた。アオウミガメは卵も含め食用になり、ウミガメの中でも、もっとも美味とされ、特に腹甲の裏に付いた腹肉(カリピー)が珍重された。味は鶏肉と遜色なく、どちらかといえば珍味の類という。 サワガニは長野県の栃原岩陰遺跡で多い。スッポンも滋賀県大津市石山寺の石山貝塚から、縄文早期の7,000〜8,000年前のサル・イノシシ・シカなどの獣骨やコイ・フナなどの魚骨と共伴した。 他にもバフンウニ・ムラサキウニなども食されている。現在の日本ではヘビを食べる習慣は廃れたが、近年までは、日本でもマムシやシマヘビなどをよく食べていた。江戸時代まで、偏向した仏教教義により、表向き獣肉を忌避していた世情、庶民はガマカエルの筋肉が発達した脚を食べ応えがあり、しかも極めて味覚でもあり頻繁に食べていた。ヘビやガマカエルなどは、庶民の間では貴重なタンパク源のひとつとして重宝されていた。 日本列島のサルの主要な食料源は、意外にも昆虫を捕食することにあった。同様、人類学史研究において、イモムシ・ウジ・トンボ・セミなどの虫類が、人類の好物であったと考えられている。長野県の伊那市などの天竜川の清流域に住むクロカワムシ・カワゲラなどの水生昆虫の幼虫を餌にする昆虫を総称してザザミシと呼ぶ。伊那地方では、ザザミシ・イナゴ・ハチノコ・カイコなどを食べていた。現代でも主に佃煮や揚げ物などにして稀に食している。恐らく近世以前、下手物食いなどの表現が、庶民レベルではありえなかった風俗の名残であった。 縄文時代のトチの実料理 トチの実は、渋味が強く、灰汁を抜くのが大変だ。それでも縄文時代から今日まで採集され続けられてきた。 木の実の殆どが隔年毎の豊凶に左右されるが、トチの実は安定的に採集できた。その灰汁抜きに、木の灰を使うが、ワラビのように単純な作業では食しえない。そんな面倒な事までしても、日本では古代から主要な食料としていた。なぜ餅にトチの実を入れたのであろうか。それは味もさる事ながら、餅が冷めても硬くならないからである。これは、冷蔵庫・電子レンジ・保存剤がない時代、かけがえのない当座の食べ物であった。それで、これほど迄にも灰汁の強いトチの実を、苦労して加工保存する事が全国的に広まった。 トチの木は、東北地方や北海道南部に多いが、四国・九州にも自生する。縄文時代の生業は、旧石器時代の狩猟・漁労をより進化させ、加えて土器の創造により灰汁抜き技術を向上させ、植物採集を生業の主要基盤にまで高め、長期間の定住生活を可能にした。トチやドングリなどの堅果類が安定的な食料資源として急浮上した。その成果により長期の定住生活が保障され、縄文時代の1万年を超える長年月、それを支える文字通りの原動力となった。最近、開発された古人骨の炭素・窒素同位体分析によれば、千葉県船橋市古作の古作貝塚人(こさく)は、蛋白質の約30%、カロリーの約80%を堅果類に依存していた。これは他の貝塚人にも、ほぼ当てはまる結果であった。 三内丸山遺跡で先述したように、千年を超え、永続的にしろ、断続的にしろ、定住すれば、住居の建材・薪材・その他の道具材などの用材として、周囲の落葉広葉樹林帯や照葉樹林帯の濃密にして深い森林は伐採され消尽された。東日本に限れば、多くのブナ・ミズナラなどの極相林は伐採され、その後地にクリ・クルミ・トチなどを植生する人為的な二次林が形成された。それにより直射日光を好む陽性植物の最たるヤマウド・ワラビ・ゼンマイ・フキ・クズ・ヤマイモ・ギボウシ・アマドコロ・ツリガネニンジンなどを繁茂させた。その自然界の現象が、縄文人の知識として伝承された。自然に積極的に働き掛ける事こそ、多くの付加価値を伴う生産性の向上に繋がり、同時に管理栽培の有用性を知らされ、縄文前期からリョクトウ・ヒョウタン・エゴマが積極的に栽培され、縄文晩期にはソバ・コメなどが栽培植物として浮上してきた。 トチ餅の作り方 1 集めたトチの実は、天日で乾かす。トチの実は、拾ってから1年間かけて十分に乾燥させて保存し、トチ餅にして食べたい時に、その必要量だけ取り出して調理するのが原則である。 2 トチの実を水にさらし、灰汁を抜く作業は、信州では2月から行う。どういうわけか、水が冷たい時期でないとうまくアクが抜けない。その理由は現代でも分っていない。ただ水に漬ければ、アクを抜くのと同時に、厚くて堅い皮を柔らかく剥くことができる。 3 トチの実を沸騰させない程度、90度℃位に保ちながら火にかけ、5分間ほど炊き皮を軟らかくして、皮をむく。熱い状態で、1つづつ皮を剥くのがが大変な作業となる。カシの木を2枚合わせたもので押し割る。この道具の名前を「トチオシ」とか「クジリ」と呼んぶ。当然地方各地で呼称は異なり、その方法も変わる。 4 むいたトチの実を網に入れ、川水に5日から1週間程さらす。 5 トチの実とたっぷりの水を土器に入れて2〜3時間煮る。 6 水9カップに、木灰を15カップほど入れてこね、この中に5の熱いトチの実を混ぜ込み、3日間落ち着かせる。 7 取り出したトチの実を川につけ、灰を洗い流す。 8 米と混ぜて蒸す場合の割合は、昔はトチの実1に対し、もち米1であったが、今では1対2が多いようだ。縄文時代、粟との比率は、各住居の伝承で様々である。 9 石皿に載せ餅状につく。そのための石棒であった。 10 石皿にトチの粟餅を敷き、そこに蒸した胡桃・栗の餡を入れる。炉で焼く。トチの実のほろ苦さと香りが食味をそそる。 灰汁抜き後のドングリ・トチの実はすりつぶして団子状で調理した。まず木の実を、すりつぶし、団子状に練ったものを石皿にのせて焼き、できれば練る際に、鹿の骨髄液を入れた。塩味が加わり、栄養価も高くなり、格好の保存食にもなった。その「縄文クッキー」が発見された遺跡も多い。
縄文時代の「落し穴」遺構 槍・弓矢・鉄砲と狩猟具は進化したが、狩猟の相手の習性は変わっていないようだ。従って縄文時代以降、狩の方法も変わっていない。猟に最適なのは、冬期である。雪に残された獣や山鳥の足跡で動きがつかめる。ヤマドリ・キジ・キジバトなどは、山の中腹・谷筋・沢沿いを飛び交い木の実と新芽をついばむ。そこにキビやアワを撒き、ススキ・カヤを束ねて隠れ蓑にしてじっと待機し弓矢で射る。 通常、犬を使用する。先ずは犬を伴ない、ヤマドリが好んで生息して所へ連れて行く。犬はヤマドリの臭いを嗅ぎ分け主に教えてくれる。ヤマドリは 犬に射すくめられて、飛び立てない。準備が整い次第、犬をけしかけると、ヤマドリは慌てて、ゴトゴトと言う羽音を響かせ飛び立つ。すかさず弓矢で撃ち落す。 紅葉の時期、諏訪湖に渡来するガン・カモが、宮川から釜無川へと飛来する。カモはドジョウを餌にして、川魚同様に釣り上げた。縄文早期以降の遺跡である長野県茅野市北山の柏原の北端・音無川右岸の栃窪岩陰遺跡の出土例によれば、殆どがシカで次いでイノシシになる。それ以外に、ニホンザル・タヌキ・ノウサギ・オオカミ・クマの骨が順であった。他にはキツネ・テン・イタチ・アナグマ・カワウソ・リス・ムササビ・ネズミ類・モグラ類が検出された。南佐久郡の北相木川のほとりにある栃原岩陰遺跡では、5m以上になる縄文早期の堆積層から大量の200km超の獣骨が出土した。圧倒的に多いのがシカで、イノシシ・ニホンザル・ノウサギ・カモシカ・ツキノワグマなどが検出された。鳥類はキジ・ヤマドリが主で、ハシボソガラス・オオコノハズク・オシドリ・カルガモ・キジバトがあり、イヌの犬歯も出土した。夏の季節、霧ケ峰・八ヶ岳を駆け巡るのは、涼しく最適で、アナグマ・シカ・イノシシ・キツネ・タヌキ・ウサギ・イタチなど、あらゆる技術と知恵を使って捕獲に努めたのであろう。 シカの捕獲には、勢子と犬の協力が必要だ。イヌに追われ急斜面や崖を下るシカは、臭いを消すため川筋に逃れる。そこで待ち構えて頸部を射る。一方、イノシシは外皮が厚く、皮下脂肪にも覆われている。皮が一番薄い頸動脈を射なければ補殺できない。そこで罠猟が工夫された。 宮坂氏が始めて「落し穴」遺構を発掘した経緯は、昭和40年前後から日本全土で観光開発が一段と促進され、東洋観光事業(株)が、茅野市城の平に(そこはピラタス・ロープウエイと蓼科湖の間の雑木林)スポーツグランドを設営するため、表土を約1.5m削ると、火山灰地の赤土層のところどころに黒土の面が現れた。宮坂氏はその連絡を受けて、同年10月17・18の両日、黒土を排除し、結果小竪穴23ヵ所を発見した。そこには、棒の先端で掘った痕跡が見られた。 竪穴は長径のもので最大1.8m、短径では最小0.7m、深さは地表から1.6mの長楕円形で、その穴の側壁・底面に5から2個の小孔があった。宮坂氏は、陥穽の中の小孔は、棒の先を尖らしてそこに差込み、鹿・猪が落ちた勢いで刺し貫く工夫とみた。 宮坂氏は、この猪・鹿の陥穽(かんせい)遺構を23基発掘した。この三方を山に囲まれた小盆地から、集団による追い込み狩猟が行われたと考えた。考古学上、初めて「落とし穴遺構」として認識したうえでの検証であった。この発見が、「池のくるみ」から流れ、上川に注ぐ源流、桧沢川沿いのジャコパラ遺跡の陥穽遺構発掘の参考となり、その後、八ヶ岳西南麓では12ケ所の遺跡で、43基の陥穽遺構発掘の成果に繋がった。 落とし穴遺構は、山間部でも特に人里離れた場所に設けられた。関東地方では縄文早期と前期、東北地方では中期から晩期、北海道では中期から後期に多い。それを遡り長野県諏訪市の霧ヶ峰ジャコッパラや茅野市城ノ平、静岡県の箱根と愛鷹山麓などの落し穴遺構の発見により、旧石器時代の重要な罠猟の一環と知られている。環状石器ブロック内に集落を築き居住する数家族が一集団となって、ナイフ形石器を槍の穂先に装着し動物を落とし穴に追い込む「集団による追い込み狩猟」が行われていた。赤城山麓の群馬県伊勢崎市下触町の下触牛伏遺跡の発掘などにより、大きな環状石器ブロック群内で同時に100人を超える多くの人々が集落をなし、生活を共にするムラ社会が形成されいた事が分かった。その目的がナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型動物の「集団による追い込み狩猟」であったようだ。 通常、落とし穴に逆茂木を立てて傷を負わせ、更に穴幅を狭くし、一度落ちれば嵌り抜け出せないようにしている。獣道を調査し、それぞれに落とし穴を設けたり、それを多数並べて、そこに犬を使い追い込む猟がなされていた。柵などを備え動物を落とし穴に誘導するなどもした。また、落とし穴が分布する周辺から、拳大の石が多数出土している。落とし穴にとらわれた獣に投擲をあびせて殺したようだ。 縄文時代の鳥の捕獲方法 諏訪湖周辺には、原始・古代からの遺跡が多数、しかも重層的に分布している。ところが貝塚とまでいえるものが殆どない。下諏訪町の高木殿村遺跡では縄文中期の中頃の竪穴住居の脇に貝塚があった。藤森栄一は『縄文の世界』(講談社)で「大きさは2m×3m、1個のイケシンジュガイの貝殻をのぞくと、他はすべてオオタニシであった」と記す。 長野県岡谷市川岸三沢の熊野神社境内遺跡は、諏訪湖から約1km下った扇状地の扇央付近にあり、標高は約770m、天竜川との距離200m余り、その比高20m足らずにある。その貝塚から加曾利B式土器が共伴しており、縄文後期中葉という時期が推定される。その発掘当時の一葉の写真に、土に埋もれ累々と重なるオオタニシの貝殻とその上に横たわる鹿と思われる大きな獣骨が写されてあった。 遠浅の海岸近くの入江や浜に貝塚が最も多いが、それ以外の地域でも福井県若狭町の三方湖の鳥浜貝塚、淡水湖の琵琶湖最南端にある粟津湖底遺跡の貝塚などが特徴的であり、むしろ各種、重要な遺物の出土で有名になっている。藤森栄一は、諏訪地方に貝塚がまれなのは、シジミの好む砂地やタニシが棲む泥土が発達していなかったからという。 素直に解すれば、八ヶ岳西南麓・諏訪湖盆地方を潤してきた狩猟・漁労・植物採集などで、十分に生業を全うする事ができたからである。特にドングリ・クルミ類の炭水化物は、極めて栄養分に富む優れたエネルギー源となった。その熱量の割に消化器への負担が軽く、生命を長く保てる効能もあった。穀物一般の炭水化物は、妊婦が過剰に摂取しても胎児に悪影響を及ぼすタンパク質が少なく、むしろ妊娠中の栄養源として極めて優良で、結果的にその出生率を向上させた。灰汁抜きしたドングリなどを粉状にし離乳食とすれば、乳幼児の健康維持に貢献し、また疾病率と死亡率を抑え、ために妊婦の負担が軽くなり、女性の受胎能力を高め、結果、出生数を増やした。より健康的な栄養源として縄文人の余命をも延ばした。 冬期が長く、しかも厳しい八ヶ岳山麓では、鹿・猪・狸・兎・狐もそれに耐えている。この時期狩るほうも、狩られるほうも耐え忍ぶ事が多く動きは鈍いくせに、両者共、食料が不足しているため活動範囲が広く痕跡が濃密となり、獲物の足跡は雪上にくっきり残り、その種別も明らになる。 通年の重要なたんぱく質源として野鳥がいる。鳥には渡り鳥と留鳥がいる。また地形により山岳から内陸部の原野に雉が、湖沼周辺には雁・鶴・白鳥などの鴨類などが、海岸部ではウミガモ類が、岩礁地帯ではヒメウ・ウミガラス・ミズナギドリなどがいる。身近な狩猟対象でありながら、縄文時代の遺跡からは出土例が少ない。当然、各種捕獲方法を工夫し補殺していたが、骨が細く柔らかいため食べ尽くされていたようだ。 仙台平野北部は、縄文時代でもガン・カモ類の飛来ルートであった。この地方の貝塚遺跡から鳥類の骨が多量に出土している。その種類が多く豊富であるため生業の中核であったといえる。ウミガモ類は漁網にかかる場合が多く、他の鳥類は、林間に霞網を掛け捕獲していたようだ。鳥の卵は、たんぱく質・カルシウム・鉄分など、ビタミンCを除くほぼ全部の栄養素が含まれている。その殻が残らないため考古学的に論評されていないが、当然、積極的に採集していたと考えられる。 鳥を捕獲する方法として、鳥餅(とりもち)を使う方法・網を使う方法・弓矢を使う方法などがある。網を使うと言えば、魚網と併用したか、それ用に独特の工夫をしたか定かではない。ただ網が無ければ獲りにくい小型の魚が貝塚からしばしば発見されている。多量に出土する縄文期の土錘・石錘は通常、網の錘と考えられる。その魚網の技術を、鳥の捕獲用に改良し転用していたようだ。 網の素材はシナの木の樹皮を原料にしたのであろうか?聖高原で有名な東筑摩郡麻績村(おみむら)は、茅野市の尖石集落から見れば和田峠を越えた北側になる。その地名が「麻を紡ぐ」に因むとなれば、麻糸かもしれない。布の製作には、糸を拠る工程後に布にする加工が伴う。 動物の腱や植物の繊維は、撚りをかけて糸にしなければ丈夫にならない。土器片や粘土製円板の中心に穴をあけた有孔円板が、繊維に撚りをかける紡錘車ではないかとみられている。諏訪郡富士見町では、井戸尻遺跡と大花北遺跡から、縄文後期に属する算盤玉の形をした紡錘車が出土している。秋田県南秋田郡五城目町上樋口の中山遺跡から出土した縄文晩期に属する布の糸は、0.5mm〜1mmと極めて細い。 細い糸から編まれる縄類は、繊維を撚り合わせて太くし実用化するもので、細い方から紐・縄・綱と呼ばれる。縄文早期の土器の底から網代圧痕があられることから、網代は杉・檜・ヒバ・椎などの樹皮、笹類、ネマガりダケの竹類、スゲ・ガマなどの植物の茎、ブドウ・アケビ・マタタビ・フジなどの蔓を使って編まれていようだ。網代の名の由来は、川の瀬に魚を捕るため竹や木を編んで網の代りに立てられた漁法から名付けられたという。 縦糸と横糸をからめたのが編布(あみぬの)であり、縦糸と横糸を交差させたのが織布(おりぬの)である。山形県東置賜郡高畠町の縄文前期後半の押出遺跡から出土した手網・北海道小樽市の忍路土場遺跡(おしょろどば)のたも網の枠や、青森県の三内丸山遺跡からは、縦横の糸を1本ずつ交差させて織っていく典型的な平織の布片が発見された。 犬を使う「キジ突き網猟」がある。猟場は木立が閑散としている草原や、河川敷が好都合のようだ。長い柄の広幅が大きい手網を担ぎ猟犬と猟場に出掛ける。優れた猟犬は認定が速く、しかも素早い。ターゲットにされた雉は、逃げる間を失い、雑木のそばの草藪に射すけまれて動けなくなる。猟犬は目視せず、3m先の臭いをポイントしているので、互いにこの状態でどちらも動かない。猟犬の習性として、飼い主の指示が無ければ直接襲わない。その訓練は猟師がするのでなく、猟犬たる母親と仲間の猟犬が実地で教えるという。この状態で網手は、ターゲットに静かにゆっくり近づきながら、雉を目視する位置まで近付き、雉の頭の向きを確認すると、じわりじわり近寄り何時飛び立たれても良い構えをしながら雉の頭方向から一気に被せようとすると、犬も興奮し跳び込み、雉は頭方向から網の中に入り暴れまわる。 今でもよく使われる「無双網(むそうあみ)」の方法を使えば、比較的簡単に鳥を捕獲できるようだ。地面に伏せておくか、地面より1m位高さに網を張り、鳥がおとりや撒き餌に誘われて地面に降りたったとき、離れたところから綱を操作することにより、鳥にかぶせて捕獲する。 朝になると巣から餌場に飛び立ち、夕方になると餌場から巣へ帰ってくる鳥には、決まった飛行ルートがある。その一定の場所に網を張る方法の他に、両サイドに木の棒を取り付けて、上空を鳥が横切ろうとする時にタイミングを合わせて放り上げ、網で絡め獲る。古代から、竹竿に少し細工をして飛ぶ鳥をたたき落とすという捕獲法もあったようだ。 鳥餅は、野鳥等を捕獲するには、熟達すれば極めて有用で、現在では禁止されている。野鳥がとまる枝につけ、足などにくっつき飛べなくする粘着性の物を使う。鳥餅の材料は、ヤマグルマ(山車)・モチの木から採取する。 これらの木の樹皮を使い、樹皮を剥いで外皮を取り水につけて腐らせ、ついて砕いて水で洗うと赤褐色をしたゴム状のモチが残る。これを野鳥の止り木や、木の先につけて、鳥が来そうな所へ置いておく。 キジ笛を使用する方法も現在では、狩猟鳥獣を必要以上におびき寄せることになり、鳥獣の多獲につながることから禁止されている。キジ笛の利用は意外に効果的だそうだ。キジや山鳩は通常、人影を見ても直ぐ飛び立たず、ヒョコヒョコと跳ねて逃げていく場合が多い。一度、キジ笛で引寄せれば、弓矢や投げ網などの餌食になりやすいという。 上川の川面には、マガモ・コサギ・カワウ・カイツブリなどの水鳥が多く、見るからに弓矢で狙いやすそうにみえる。霧ケ峰には、カッコウ・ウグイス・キツツツキ・キジ・アトリ・カシラなど種類は豊富である。その周辺の山々を歩いて気付くことは、霧ケ峰山中の野鳥達は、間近に近づくまで逃げない。なぜか何度も近くに飛び寄ってくる。野鳥達も知っている。今では、人類は自分たちにとって無害であることを! ”エゴマの灯”
旧石器時代から火は使用している。しかし肝心な火起こしを立証できる道具が出土していなかった。北海道小樽市の忍路土場遺跡(おしょろどば)と滋賀県大津市の滋賀里遺跡で、それぞれ縄文後期と晩期の火鑚杵(ひきりぎね)とおもえる木の棒と火鑚臼として使われていた板が発見された。板に穴を開けてその上に棒の先がはまるほどのくぼみを作る。くぼみに棒の先を差し入れ、高速で回転させる回転摩擦式発火法である。1万年を超える文化であれば、両手で回す錐揉み式(きりもみ) ・紐を使う紐錐式(ひもぎり) ・小型弓を使う弓錐式(ゆみぎり) など多様な技術が活用されていただろう。 その火口(ほぐち)には、日本古来からガマの穂が使われていた。車山・霧ヶ峰・八島ヶ原高原などでは、葉場山火口(はばやまぼくち)の葉裏にはえている白い綿毛を乾かしたものを、火打ち石から火を起こし移し取っていた。その火種は、それぞれの住居家内で食事の度ごとに、火を起こす余裕がないから、家内の炉に埋められ、炭状に焼け木杭(やけぼっくい)を保存していた。 福井県の鳥浜貝塚からは、縄文前期の地層から「エゴマ」と大麻(おおあさ)の種実が出土した。同時に、生活財としての縄や綱も検出された。 韓国では大麻の幹に潰した「エゴマ」の種子を塗布し、これを乾かしたものの先端に点火し、「灯」として使っていた。鳥浜貝塚から出土した「エゴマ」は種子を食用とし、また搾った油を「灯」に利用していた。 エゴマはゴマのように食べられていた。またその実から油がとれるので、江戸時代まで瓦灯用の明かりとして使われいた。縄文時代、既に釣手土器がランプとして使われていた。一方、魚油の臭う明かりも、漁村では当り前であったが、次第に江戸期末期以降に徐々に衰退した。 古代、日常生活のための明かりは、炉の明かりで済ましていた。ただ緊急時の明かり、神事を行うための明かり、神にささげる明かりの火種は、魚油・獣脂・松脂などの樹脂と「エゴマ」であった。 エゴマには、もう一つ大切な使われ方があった。それは漆器を作る時に、なくてはならないウルシを溶く油であった。縄文前期には、既に漆塗の技法があり、エゴマの油もウルシ塗りのときに使われていたと考えられる。 縄文人は、その生活環境に合わせ創意工夫を加え、自らの暮らしを豊かにしょうと、あらゆる局面で努力している。それは、青森の三内丸山遺跡、そして鳥浜貝塚の遺跡などを通して知ることができる。 そこに麻が遺存することは、身にまとうものとして、「アカソ」の繊維とともに使われていたことと、更に「エゴマ」と同時に出土していることから、この「エゴマ」が麻とともに明かりを灯すのに使われていたと推測できる。 中世末期に非乾性油の菜種油が普及するまでは日本で植物油と言えばエゴマ油であり、瓦灯の灯火にもこれが主に用いられていた。しかし、菜種油が普及する江戸末期には、ほとんどが菜種油を使うようになった。行燈(あんどん)は、油皿に灯芯を入れて灯した。油壺に継ぎ足し用の油を入れていた。次第にエゴマ油の利用が減少し、乾性油としての特種性を生かして油紙・合羽・番傘などの塗料用など用途が限られていった。現代でも、依然として、自然に優しい塗料の代表として、無毒無害な木部用の仕上塗料・オイルフィニッシュとして根強い支持がある。韓国では、エゴマの葉は、ナムルなどの家庭料理には欠かせない食材で、日本よりも幅広く使用されいる。 藤森栄一は、井戸尻遺跡群の釣手土器を「神の火を灯すランプである」と評した。残念ながら灯火の燃料まで分析していなかった。 http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou6/suwa.htm#
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