日本をアメリカの植民地にして貰った天皇一族 東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。 東京に敵は攻めて来るか? なら、東京周辺は、何のために? 天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。 天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね。 ▲△▽▼ 山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』 「昭和天皇とダレスと吉田茂」 戦後の「日米安保条約」は、どのような政治政策過程を経て決定したのか?昭和天皇と吉田茂は必ずしも同じではなかった。米軍基地の無条件延長を主張していたのは、米国側のダレスであり、日本側でそれを主張していたのは、吉田茂ではなく、昭和天皇であった。 吉田茂が、サンフランシスコ行きを逡巡していたのは、「安保条約調印式」に出たくなかったからだ。しかし、吉田茂の態度が一変する。昭和天皇との「謁見」である。昭和天皇は、吉田茂を呼びつけ、厳しく説教したと思われる。 「米軍基地無条件延長」と「沖縄切り捨て」を主張する昭和天皇の「リアリズム」を、今の時点でどう評価するか、なかなか、単純な問題ではない。大問題であろう。 http://yamazakikoutarou.hateblo.jp/ ▲△▽▼ (通称)沖縄メッセージ (昭和天皇がマッカーサー元帥に宛てた「米軍による長期沖縄占領継続を依頼するメッセージ」) http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/law_war/okinawa_message.html ■ (参考) (通称)沖縄メッセージ(昭和天皇のマッカーサー元帥に宛てた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」)
1947年9月に、昭和天皇は米軍が沖縄や琉球列島のその他の島に米軍が占領状態を50年間より更にもっと長期間継続させることを希望する天皇の考えを示し、当時、天皇の御用掛であった寺崎英成が占領軍の政治顧問のシーボルトの事務所を訪れて考えを伝え、ワシントンのマッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼したものである。 その文章の記録が残されている。
しかし、1946年11月には日本国憲法が公布され、既に象徴天皇が確定し、天皇は政治的な権力を行使できない立場になっていたのであるが、それにも拘わらず、政府を通さずに、個人の利益のために直接アメリカ側に政策要望を出していたことになる。
ワシントンで公文章の公開となったものが沖縄県の公文書館にコピーとして保存されている。(注) その内容は次のようなものである。
筆者の意訳で概要説明する。 1947年9月20付けのシーボルトからマッカーサー元帥宛の文章を、シーボルトがワシントンの国務長官宛に「将来の琉球列島に関する天皇の考え」と題して、1947年9月22日付けで至急の封書に同封して送っている。 尚、この後に寺崎が10月3日にシーボルトに会った際に、シーボルトは、陸軍省の意見として、沖縄をアメリカが自由にするとし、国務省の意見は定まっていないことを伝えている内容が書かれている。 (「寺崎御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著)文藝春秋 )
(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙の内容) 1947年9月22日 標題:将来の琉球列島に関する天皇の考え 国務長官宛
拝啓 私は、1947年9月20日付けのマッカーサー元帥に宛てた私の説明のコピーを同封致しております。そのコピーの内容は、 天皇のアドバイザーである寺崎が、彼の要望で私のオフィスを訪れてきて、彼と話した内容の要旨を記録したものです。 その内容は、日本の天皇は、沖縄や琉球列島のその他の島々へのアメリカ合衆国による軍事的占領を継続することを 希望しており、その要望は、疑うべくもなく、天皇自身にとって大いに利することになることに基づくものであるという ことがわかるのである。天皇は、また、これらの島々の米軍による占領の継続が、長期間の賃借契約の方式によること を思い描いている。天皇の意見によると、それによって、日本国民は、きっと、アメリカ合衆国には下心がないと納得 するようになり、アメリカ合衆国が軍事の目的のために占領することを喜んで受け容れることになるであろう。という ことである。 敬具 W.J.シーボルト
(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙に同封したメモ内容) 1947年9月20日
マッカーサー元帥宛のメモ
天皇の顧問の寺崎英成が、将来の沖縄に関しての天皇の構想を私(シーボルト)に伝えるため訪れた。 寺崎は、天皇が米国が沖縄や琉球列島の島に軍事占領を継続することを希望していると述べた。 天皇の考えは、そのような占領は、米国にとっても有益であり、日本にも防護をもたらすことになるだろうというもの。 天皇は、そのような行動は、広く日本国民に受け入れられると感じている。国民の間では、ロシアの脅威があり、また、 占領が終わった後に、左翼や右翼のグループの台頭もあり、かれらが事変を起こしかねないし、それをロシアが日本の 内政干渉のために利用する可能性もある。 天皇が更に考えるには、沖縄の占領(他の島の占領も必要かもしれない)が、日本の主権は残した状態で、25年や50年間、 いや、更に長期間の賃借の形態に基づくものになるであろうということである。 天皇は、このような占領政策によって、日本人にアメリカが琉球列島に関して恒久的な意図が無いように思わせるので あり、他の国、例えば、特にソ連や中国が同様な権利を要求することをそれによって止めさせることになるという。 手続きに関して寺崎が思うには、沖縄や琉球列島内の他の島における軍事基地の権利獲得については、日本と連合国の 講和条約の一部にする方法よりも、むしろ日米間の二国間の条約によるべきであるとする。 寺崎が思うには、連合国との講和条約の一部にする場合は、かなり強制的な平和条約の様相になることが察しられ、将来、 日本人のことを同情的に解するなど危機的になるだろうと。 W.J.シーボルト
83. 中川隆[-7550] koaQ7Jey 2017年5月21日 22:42:00: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523] ▲△▽▼ 《 昭和天皇とマッカーサーと日米安全保障条約 》 講和条約後の日米同盟という名の巧妙な占領政策の継続。日本全国基地化とアメリカの治外法権、米軍優先の軍事訓練と日本国民への人権侵害が現在も強硬に実施される日米の取極め。昭和天皇が天皇制の護持を目論んだ所産であると言えよう。アメリカの奴隷であり続ける日本の防衛・外務官僚、それを国民に押し付ける自民党政権。 原因となった日米戦争。連合国の勝利、敗戦後の日本における連合国による占領。アメリカを除く連合国は、日本の政治及び軍事の最高総覧者である昭和天皇を裁判において責任を問うべきであると主張。 その流れを、連合国占領軍の最高司令官であるダグラス・マッカーサー元帥及びワシントンは天皇制の存続を目論み、その絶対的な権力者である昭和天皇の戦争責任の訴追免除を取り計らい、日本の軍備の解体を行い、天皇制を維持するために象徴天皇を確定させる日本国憲法を早急に策定させた。 アメリカは、日本をソ連や中華の共産圏勢力の思想が太平洋の諸島への感化するのを防止するため、及び武力により太平洋の島々やアメリカへの攻撃を防御するための西太平洋の最前線の砦とし、極東からフィリピン、オーストラリアに至る軍事面の防衛ラインを構想していて、戦後の武器の機動性と破壊力を総合的に捉えて、日本全土にわたって機動的な米軍基地化が必要であるとした。 マッカーサーと連合国による占領体制から日米安全保障条約による米国単独の占領下へ移行させ、先に記述した日本全土の米軍基地化及び治外法権、自由な軍事活動と米軍の優先を確立させ、日本が米国に協力と服従することとの引き換えに、天皇の戦争責任の免責や講和条約締結後も内外からの天皇の排斥に繋がりかねない天皇が脅威と感じる勢力から昭和天皇及び天皇制を米軍が守ることを利用して、かけがえの無い日本を、日本が永続的に米国の奴隷となるように両者で協議し決定したものであることは疑いの無い事実であろう。 但し、日本国民には表面的には疑問を抱かせないように細心の注意を日米が策を講じることになる。 昭和天皇が己を守るために当時の天皇大権を行使して米国と協議するように吉田総理に命じたであろう。 昭和天皇と天皇制護持、戦争責任免除と引き換えに日本国の米軍基地化を日米安全保障条約本体とは別の取極めや覚書での調印であったのだろうと推測される。1951年9月及び1952年2月の調印など。 戦後すぐに、昭和天皇や側近とアメリカ側との間で、これらの対応や戦後の占領統治などに関して画策がなされたと推察される。 昭和天皇は、マッカーサー元帥に対し、日本の独立後に連合国が占領の駐留を解除して退去した後に、別途にアメリカとの二国間協定による米軍のほぼ無期限の日本駐留(日本占領の誤魔化し)を日本から申し出たことを米国が了承して日本全国に米軍基地を継続させて軍隊を駐留させる仕組みを構築し、外部からの共産勢力のみならず、周辺国に刺激された日本国民が目覚めて天皇制を排除する勢が勃興しないようにして昭和天皇を護持する保障を与えたのである。旧日米安保条約の内乱条項であることは想像に難くない。 旧日米安保条約や日米間の行政協定や種々の覚書、交換文章などによる取極めを初めとして、その後の新たな協定や条約への改定においても、米軍が必要な取極めは、表立って載せない事項としていつでも自由に定めて調印することができる。 この日米安保条約は、アメリカ政府が日本の内政に関与・影響を行使できる保障を与えたと言ってもよい。 戦後60年以上経過しており、東西ベルリンの壁も崩壊し、ソ連も崩壊している現在において、21世紀においてもアメリカは日本の巧妙に単独占領体制を継続させているのです。更に、一般的に政治に無関心な日本国民からアメリカを敵対視されないように狡猾に、巧妙に、アメリカの軍事体制に組み込まれた日本軍の人的兵力規模の拡大や武器装備の配備を増加することを求めてきているのです。 アメリカの言いなりに、日本の一般国民の人的・物的なアメリカ軍への協力体制について、既に法制化されている。 後は、憲法改正を行い、現日本国憲法の9条の戦争放棄を削除すること及び日本軍の保有を位置づければ、国連の集団的自衛権というものを行使することが実現可能となり、日米安保条約、周辺事態法、日米物品供与などの取極めによって、アメリカが周辺事態と判断すれば、日本は中南米や中東、アフリカなどの国々でのアメリカと共同で戦争を行うことを拒否できないことになる。日・米共同軍は、アメリカ合衆国の最高司令官の指揮統率下に入ることになる。 おめでとう日本国民の諸君。新日本国憲法がアメリカのために機能することになったから、これで、安全保障面、米軍に関わる周辺事態のときは、現在の米軍の基地以外に、日本のどこでも基地を設定できる根拠に基づき軍事活動の制限なき自由が保障されているのです。アメリカが非常事態だと宣言すれば、この場合には、民間の日本人でも、私有の物資や土地、建物、必要な機械・部品・装置などの軍による徴用や一般人の人的協力についても要求に絶対応じなければならないことが既に法的に定まっています。それに反対の人は、アラブの春の如く、実力で徹底抗戦するしかないでしょう。この場合には、日本軍が国民を弾圧する事態に発展することでしょう。独裁政治への変貌が完成した記念となる瞬間です。 日本は本当の民主主義の国家にはなっておらず、アメリカの圧力には逆らえないで逆に国民を無視し、且つ官僚利権を奪われることに対しては狡猾に術策を講じて利権を守り通し、国民はその官僚に支配される構造の社会から脱出できない。 そのうち日本は、一握りのアメリカに隷属し権力を行使できる立場の族が、軍事大国として積極的に平和目的と称して武力行使に及ぶ道に故意に日本を誘導し、天皇大権からアメリカ国大統領大権のもと、この国家の政策に逆らう国民思想はすべて取り締まれる法律を制定し、また憲法解釈とやらを悪用して、北朝鮮と同じ国民総動員をかけて強い日本を世界に訴える未来になるであろう。 国民が官僚・政府・日本軍の暴走を止めない限りは。 かつて、国連決議による承認を得ることが出来ずにアメリカがイラクを攻撃する戦争を、小泉元総理が日本国として根拠を調べずにアメリカの言いなりに応じて2003年3月20日に支持を表明した。また、その後イラクへの自衛隊派遣を断行しても誰も止めなかった事実からして、日本は第二次世界大戦の教訓を直ぐに忘れ去り、容易に過去の同じ過ちを繰り返し、集団的自衛権を行使した戦争に加担することがほぼ確実視される中で権力を有する政権・軍隊を誰が止めることができるであろうか? 日本国の天皇制や日米安全保障条約、政治制度などについて、日本国民は、それらを国民自身によって改革することが求められているのである。 http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/emperor/japan_emperor.html ▲△▽▼
April 29, 2017
天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース http://ift.tt/2oRPQmn 「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」 ―当時の背景は。 「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」 「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」 ―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。 「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」 https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/ ▲△▽▼
天皇メッセージ 「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長
「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース http://ift.tt/2pi9jiJ ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。 米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。 共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。 寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。 寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。 https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/ ▲△▽▼ 「新天皇の最初の国賓がトランプ大統領」という報道の持つ意味 http://kenpo9.com/archives/4519 2018-12-05 天木直人のブログ ※文中、「省っ長天皇」を「象徴天皇」に修正
きょうの各紙が一斉に報じた。
皇太子さまが来年5月1日に新しい天皇に即位し、最初に迎える国賓がトランプ米大統領になる方向になったと。 これはもちろん安倍政権が意図的に流した情報だ。 そしてトランプ大統領を最初の国賓として招待する事は安倍首相が自ら決めた事だ。 この事は何を意味するのか。 その答えは、紹介した「日米安保体制史」(吉次公介著 岩波新書)の中にある。 「日米安保体制史」の本の中に繰り返し出てくる驚きの史実は昭和天皇こそ日米安保体制を最も強く望んだ人だったということだ。 私は、昭和天皇が吉田茂に対し、早く日米安保条約を締結せよと急がしたことを豊下楢彦氏の著書を通して知っていた。 また、沖縄処分の事や、在日米軍の必要性をマッカーサーに訴え、逆にマッカーサーから憲法9条の重要を指摘されたという事も公開情報で知っていた。 しかし、そのような昭和天皇の日米安保重視の発言は、他にもここまで多く存在していたのだ。 その事を私は「日米安保体制史」で知って驚いた。 平和憲法が出来た直後ならいざ知らず、それから何十年たっても、日米安保重視の政治的発言を昭和天皇は繰り返していたのだ。 その天皇陛下を反面教師として今上天皇は憲法9条遵守の立場を貫かれた。 そして来年の5月1日からは、文字どおり戦後世代の皇太子が即位される。 その皇太子が真っ先に迎える国賓が米国の大統領なのである。 賢明な読者ならもうお分かりだろう。 文字通り戦後世代の新しい天皇を象徴天皇として戴く新しい時代の日本もまた、日米関係を最重要視する日本になるということだ。 その事を、米国に伝え、みずからの国民に対してはそういう事だと思わせる。 まさしくこれが安倍首相の、新天皇が迎える最初の国賓はトランプ米大統領でなくてはならないという、意思だ。 それを知ってメディアが流したとすれば、メディアもまた日米安保最優先ということだ。 それに気づかずに流したとすればメディア失格だ。 どちらにしても、「新天皇の最初の国賓がトランプ大統領」という報道の持つ意味は深刻である(了) トランプ氏、新天皇と来年5〜6月会見へ 外国首脳で初 https://digital.asahi.com/articles/ASLD37RPGLD3UTFK01Y.html 2018年12月4日03時00分 朝日新聞
日米両政府は、来年6月末に大阪での開催を予定する主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)の前に、米国のトランプ大統領を国賓待遇として日本に招く方向で調整に入った。皇太子さまが来年5月1日に新しい天皇に即位するため、トランプ氏が最初に会見する外国首脳になる見通しだ。
政権幹部が明らかにした。ブエノスアイレスでのG20サミットにあわせた先月30日の日米首脳会談で、トランプ氏は新しい天皇陛下との会見について「大変光栄に思う」と述べたという。会談冒頭でもトランプ氏は「日本に招待され天皇の素晴らしい行事を心待ちにしている」と語った。 来日の時期は、皇太子さまが即位する5月1日から大阪でのG20がある6月28、29日までの間で調整。トランプ氏は新天皇と会見し、安倍晋三首相とも会談する方向だ。G20でも改めて来日することになり、米国大統領が短期間に連続して来日するのは極めて異例という。 ▲△▽▼ 天皇メッセージ 「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長 「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース http://ift.tt/2pi9jiJ ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。 米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。 共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。 寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。 寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。 https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/ ▲△▽▼
2017年11月16日 斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説(全文) 斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」。二・二六事件日米開戦と天皇とイルミナティの戦争責任。 http://fanblogs.jp/kokochan/archive/55/0
昭和天皇に戦争責任はありますよね
2.26事件の時、天皇陛下が激怒して軍に鎮圧命令を出した事は ただのお飾りではなく統帥権があったということではないか それならば日米開戦の責任もある し、敗戦の責任もあるな 来日中のトランプ米大統領が日本に向かう途中のハワイで3日、大統領のツイッターのアカウントで「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」と投稿した。1941年に旧日本軍の奇襲で始まった太平洋戦争で、米国が唱えた合言葉だ。 北朝鮮のミサイルがハワイに向くことを踏まえて76年前の「奇襲」を北朝鮮情勢に読み替え、注意喚起する意図があったとの見方もあるという。 特別編 『昭和天皇独白録』 にみる 日米開戦の責任者たち http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/mumyouan/mumyouS05c.html
講義のポイント アメリカが抹殺した理由は?
デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。 バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。 どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。 二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか? 川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。 今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。 396年計画 1549.8.15-1945.8.15 こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。 日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。 イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。 明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。 大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。 裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。 イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。 中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。 太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。 裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。 「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」 皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」 それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。 以下は、この講義の全編の文字起こしである。
70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた 2・26事件の真相、全面開示 太田龍 (週刊日本新聞) 2008年1月25日 日本義塾公開講義 バーガミニ『天皇の陰謀』の「新版への序文」に埋もれていた衝撃の事実 バーガミニの『天皇の陰謀』、最初の上下2巻の版じゃなくて、1983年に出た新書版・全7巻の第一巻の巻頭にバーガミニが「新版への序文」というのを書いている。このバーガミニの新版への序文は、私の判断では大変重要なんですけど、私の知る限りバーガミニの新版への序文を読んでその重要性に気がついて、ちゃんとコメントする、意見を発表するというか、注意を喚起するというか、そういう事をした人を私は誰も知りません。多分誰もやってないんじゃないですか。すごく重要ですよ。 バーガミニの全二巻本も今はとても手に入りにくい。新書版は更に手に入りにくい。この新書版は、私がよく読んだらかなり無断で削除してます、全二巻本からね。あんまり良い本でもない、熱心に読まれないかもしれないけども、バーガミニの「新版への序文」は新書版しか載ってないです。ほとんどまともに読まれてないんじゃないかと思う。それでコピーして差し上げたんです。
今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか? 川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。 私が決起趣意書を読み上げてみます。これはすごく難しい字を使っていて、今の日本人にはサラサラなんて読めなくなっていると思うんです。私も一か所読めない字があります。辞典を引いて来ればよかったんですけど一か所は読めない字があります。意味はわかりますけれど。読んでみますね。 謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。 しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。 いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。 内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。 君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。 昭和十一年二月二十六日 っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。 バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。 しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。 これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。 この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。 「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。 これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。 この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。 内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか? 「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか? 本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。 そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。 これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。 いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。 それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。 何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。
裕仁は別のことを考えていた それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。 当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。 それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。 バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。 それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。 薩摩と長州の宮中掌握 二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。 しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。 ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。 しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。 それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。 これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。 私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。 という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。 明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。 :引用終了 昭和天皇裕仁は、明確に戦争責任があるのに、その責任を逃れて平然としていた愚劣な「人間のクズ」です 戦前の礼装をまとった昭和天皇裕仁(ひろひと)。 彼は一旦戦争が始まると、結構好戦的で、かつ優柔不断だったようです。それも一因となり、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)は早期終結の機会を逸しました。 結果、日本人で310万人、海外も含めれば、1000万人以上の兵士と一般市民が死に追いやられました。 彼が平和主義者であったというのは、後年の巧みな演出、作り話です。 敗戦直後、日本各地を視察する昭和天皇裕仁。決して謝罪して回ったわけではありません。 晩年の昭和天皇裕仁。 意図してか、「あっそう」としか発声しない、脳天気なボケ爺さんぶりを発揮。 八月はどうしても、戦争と昭和天皇裕仁(ひろひと)について考えさせられます。 先の大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)について、憲法上(形式的面はあったにせよ)最高責任者の地位にあったにもかかわらず、同氏は何の痛痒も感じていなかったようです(例えば: http://ameblo.jp/hirai-h/entry-11323724860.html )。 大正天皇のように知的障害があったのならともかく、彼にそうした病歴はありません。 終戦後、占領政策上 天皇を生かして利用する方が得策との米国政府の判断をいいことに、裕仁は政治的責任はおろか道義的責任すらとらず、さらに説明責任さえ果たさず、平然とのうのうと生き延びました。唾棄すべき無責任男、「人間のクズ」です。 極東国際軍事裁判(東京裁判)の結果、東條英機はじめ政治家・軍人7名が絞首刑となりましたが、最も処刑されるべきは裕仁であるはずでした。ところが実際は上述のように米国の都合で不起訴となり命拾いしたのです。 (こうした一連のことが、日本社会の無責任体質を助長する一因になったと言えます。) 実は、この男の評価をめぐっては、小学5年生の時、クラス担任の中年男性教師と大論争しました。 その教師が天皇を敬愛していたからなのか、世間の菊タブーを恐れての忠告だったのか、いずれにせよ天皇や皇室についての批評はやめろという指導でした。 しかしその指導にだけは、今も決して従うつもりはありません。 ※ なお。昭和天皇裕仁については、月刊誌「文藝春秋」に、評論家で慶應大学教授の福田和也が連載記事を書いています(これまで85回)。 私とは全く主張が異なりますが、そちらもぜひ参照されるとことをお薦めします。(10月号からは「文藝春秋」のWeb版での連載になるようです。 コピーライトマーク 2012 HIRAI HIROAKI 二・二六事件 二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。 この事件の結果岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。 陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校・旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の現役大尉・中尉・少尉達)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。 決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。 そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。 事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」[3]とも呼ばれていた。 算用数字で226事件、2・26事件[4]とも書かれる。 森友問題の原点 安倍・松井・籠池を結びつけた団体の正体 森友学園事件と二・二六事件 報道によれば、今月一〇日、学校法人「森友学園」の籠池泰典理事長が、豊中市内の塚本幼稚園で記者会見をおこない、大阪府に対して「瑞穂の国記念小学院」の認可申請を取り下げたことなどを明らかにしたという。 ほぼ、「完全撤退」と言える。これを聞いた関係の役人は、さぞかし、安堵の胸をなでおろしたことであろう。 ところで、インターネット上の「The Huffington Post」(三月一〇日二〇時四七分更新、吉野太一郎さん執筆)によれば、この会見の中で、籠池泰典理事長は、次のような歴史観を示したという。 ○先の大戦前の二・二六事件の将校のことを思いました。ああ、国家のために殉ずる気持ちで頑張ってきた人たちが、指導部に抹殺された。 ○勝者にはいい印象、敗者には悪い印象が与えられます。ただ一〇〇年たてばひっくり返ることがあろうかと思います。 ここで、籠池理事長は、みずからを「二・二六事件の将校」に擬している。すなわち、国家のためを思ってとった行動が、はからずも国家の「指導部」によってとがめられ、ついに抹殺されることになった存在として、みずからを捉えたのである。 では、籠池理事長は、みずからの抹殺を指示した「指導部」として、いったい、「誰」を想定していたのだろうか。 二・二六事件の際、叛乱軍の討伐を命じたのは昭和天皇であり、その決意を支えたのは、木戸幸一内大臣秘書官長、湯浅倉平〈クラヘイ〉宮内大臣、広幡忠隆侍従次長という三人による協議だったという(斎藤実内大臣は死亡)。端的に言えば、昭和天皇と、木戸内大臣秘書官長、湯浅宮内大臣、広幡侍従次長、このメンバーが、叛乱軍の討伐を決定した「指導部」であった。 このとき、天皇の周辺にいた、本庄繁侍従官長、伏見宮博恭〈ヒロヤス〉軍令部総長、香椎浩平戒厳司令官は、いずれも皇道派の軍人であったが、天皇の決意を変えることはできなかった。 さて、今回、籠池理事長の抹殺を決意し、実行した「指導部」は、誰だったのだろうか。常識的に考えれば、安倍晋三首相ということになるだろう。 しかし、安倍首相は、もともとは籠池理事長のシンパだったとされる。その夫人は、一時、「瑞穂の国記念小学院」の名誉校長の地位にあった。安倍首相の役回りは、二・二六事件でいえば、「黒幕」と目されながらも、最後は、青年将校らを見捨てた真崎甚三郎大将に近い。籠池理事長抹殺の司令塔は、やはり、安倍首相とは別のところに存在したと見るべきだろう。 もちろん、「真相」はわからない。だからこそ、会見の場にいた記者には、聞いてほしかったと思う。「あなたを抹殺した指導部として、あなたは、いったい、誰を想定していますか」と。 「二・二六事件」 日本を震撼させた日を写真で振り返る 1936年2月26日早朝、陸軍の青年将校に率いられた約1500人の反乱部隊が決起して首相官邸などを襲撃した。日本列島を震撼させたクーデター未遂事件の模様を写真で振り返った。 第二次世界大戦資料館 「ソ連との問題は極力重大化させないように努めたいと考えます。かかる難題は、様々に形を変えて連日引き起こされているようですが、多くは丸く収まるでしょう。我々の明日の事業達成を阻むただ一つの障害、それは今日の我々の疑心暗鬼です。」=フランクリン・ルーズヴェルト(「チャーチル宛の手紙」より、ポーランド問題について= オラドゥールの虐殺(1944年6月10日) 破壊された村 写真はwikipediaより転載。 1944年6月10日に、ドイツ占領下のフランス・リムーザン地方リモージュ市の北西約20kmにあるオラドゥール・シュル・グラヌ(Oradour-sur-grane)村で、ナチス武装親衛隊によって起こされた村民虐殺事件。 1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦の進行に連動する形で、フランス・レジスタンスのドイツ軍に対する妨害活動が盛んになっていた。その中で、参謀本部からノルマンディーへの移動を命じられた武装親衛隊第2装甲師団「ダス・ライヒ」は、この妨害活動に悩まされていた。 6月10日早朝に、ドイツ人高級将校がオラドゥール村のレジスタンス組織(マキ)にとらえられたようであり、またオラドゥール村の住民のほぼ全てがマキに関係しているというフランス人の密告を受けた。 SS少佐オットー・ディークマンに率いられた第1連隊「デア・フューラー(総統)」第1大隊120名は、同日オラドゥール村を包囲し、身分証の確認という口実で村民を村中心部の広場に集めた。例外を除いて全ての村人642人は数カ所に分けられ、無惨にも殺害された。虐殺の生存者は、村に兵が現れてすぐに逃げ出した20名ほどの集団を除き、6名のみであった。殺害の後は、徹底的に村の建物を破壊した。 戦後、シャルル・ド・ゴールフランス大統領は、ナチス占領の残虐さを後世に残すため、オラドゥール村を再建せず、廃墟のまま保存することを決めた。 ちなみに、オラドゥールの虐殺には第二次世界大戦にドイツに併合されていたフランスのアルザス地方出身の兵(アレマン人)も含まれていた。この兵士たちは1953年に軍事裁判にかけられたが、紆余曲折をへて2月19日、フランス議会において全てのアレマン人を恩赦とする決定がなされ、即座に釈放された。 第二次世界大戦とは? (2002.10.29作成) (2003.07.06手直) (2006.05.06手直) (2008.03.01追加) 〜とりあえず、思いついたことを書きます、随時必要に応じて手直していく予定です〜 第二次世界大戦とは、文字通り全世界を巻き込んだ大戦争で、期間的に言えば、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に対し、同年9月3日に英仏が対独宣戦布告をした日から、ヨーロッパでは、1945年5月8日のドイツ降伏文書発効、アジアでは1945年9月2日の降伏文書調印(即日発効)(戦闘については、1945年8月15日のポツダム宣言を受諾する旨の昭和天皇の国民向けラジオ放送(いわゆる玉音放送)でほぼ終了(ちなみに連合国への受諾回答は前日8月14日)。)までを指します。 この大戦では世界の49カ国が戦闘に参加、合わせて動員兵力 1億1000万人という未曾有の規模でありました。 いままでの戦争とはいろいろな点で大きく違い、大きく分けて、 1.戦闘員より、非戦闘員(民間人)の死者が同等または多かったこと。(ある推計では軍人戦死者2700万人、民間人死者2500万人) 2.原子爆弾という究極の大量破壊兵器を生み出したこと。 3.総力戦であり、一方の国が徹底的に破壊されない限り戦争が終結しなかったこと。 4.第一次世界大戦のような経済的利害の衝突だけではなく、第二次世界大戦は、民族、イデオロギーの衝突でもあり、これが民族迫害という悲劇をもたらしたこと。 などが上げられます。 特に、1.について詳細に言えば、死者数だけを見れば、総数は5000万人から6000万人にのぼり、主なものだけをピックアップして見ても、目を覆うばかりです。 ソ連人 1000万人〜2000万人 中国人 注) 1000万人以上 ユダヤ人 600万人 ポーランド人 500〜600万人 ドイツ人 450万人 日本人 (1937年7月からの数) 310万人 アメリカ人 30万人 イギリス連邦 60万人 フィリピン 110万人 インドシナ 200万人 インドネシア 200万人 注)この戦死者は、政治的な思惑から毎年ごとに大幅な上方修正がなされ、また中共内戦の被害者も含まれる可能性が高いので、実際の正確な数字は不明である。 また、重要なことはこの第二次世界大戦は、ヒトラーという誇大妄想にとりつかれた野心家が一人で引き起こしたまさしく「我が闘争」であったことです。 (文責 館長) (参考)日米開戦時の日米国力比較 ●新庄大佐による1941(昭和16)年の日米国力分析結果 物 品 アメリカ 日米比率 鉄鋼生産量 9,500万トン 1:24 石油精製量 1億1,000万バレル 1:80 石炭生産量 5億トン 1:12 電力 1,800万キロワット 1:4.5 アルミ生産量 85万トン 1:8 航空機生産機数 12万機 1:8 自動車生産台数 620万台 1:50 船舶保有数 1,000万トン 1:1.5 工場労働者数 3,400万人 1:5 出典:開戦通告はなぜ遅れたか:斉藤充功、新潮新書 ●石油関連数値日米比較(1941(昭和16)年) 日本 米国 日米比率 原油生産量(万バレル/日) 0.52 383.6 1:738 人造石油生産量(万バレル/日) 0.33 - - 石油精製能力(万バレル/日) 9.04 465.8 1:52 原油処理量(万バレル/日) 4.93 389 1:79 液体燃料在庫量(万バレル/年) 4,300 3億3,500 1:7.8 精油所1日1人当精製量(バレル) 4 53 1:13 出典:米国戦略爆撃調査団石油報告 さいとう‐たかお〔‐たかを〕【斎藤隆夫】 [1870〜1949]政治家。兵庫の生まれ。憲政会・民政党に所属。二・二六事件直後の粛軍演説などで軍を批判、昭和15年(1940)議会から除名された。第二次大戦後は進歩党の結成に参加、第一次吉田・片山両内閣で国務相。 斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説(全文) 斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」 http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/hangun_2.html いわゆる「斎藤隆夫の反軍演説」 ※斎藤隆夫の「反軍演説」を下記のサイトより、再録させて頂いた。これは、私のための検索の便である。 http://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s01/ ※引用元は上記である。 ※このサイトは、貴重な一次資料を丹念に収集・整理した、きわめて優れたサイトである。 ※以下、サイト本文である。
はじめに
国会図書館のウェブサイトで、1940-02-02(昭和15年)に行われた、「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)が、公開されています。 4-10 反軍演説 | 史料にみる日本の近代 インターネット上には、いわゆる「反軍演説」のテキストがいくつかアップロードされていますが、ここでは独自に上のページの画像から文字起こしをしてみました。ですので、他のウェブサイトと記述が異なる箇所があります。「云ふ」を「云う」に書き換える、段落を独自に増やしたり箇条書きを導入するなどして文を読みやすくする、などなど手を加えた箇所があります。 なお、『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』では、「支那事変処理を中心とした質問演説」とのタイトルが付けられていますが、衆議院議事速記録の表記の方を採用しました。また、同書掲載文では強調線と強調点が記されていますが、同様に採用していません。 1940年(昭和15年)2月2日
国務大臣の演説に対する斎藤君の質疑 第01段落 支那事変が勃発しましてからすでに二年有半を過ぎまして、内外の情勢は益々重大を加えて居るのであります、此の秋に当りまして一月十四日、而も議会開会後に於きまして阿部内閣が辞職して、現内閣が成立し、組閣二週間の後において初めて此の議会に臨まるることに相成ったのであります、総理大臣を首めとして、閣僚諸君の御苦心を十分に御察しすると共に、国家の為に切に御健在を祈る者であります。 第02段落 米内首相は組閣匆々天下に向って、現内閣の政策を発表せられたのでありまして、吾々は新聞紙を通じて、之を承知致して居るのであります、併し其の政策と称するものは、唯僅に題目を並べたに過ぎないのでありまして、諸般の政策は此の帝国議会に於て陳述すると附加えてあります、それ故に昨日の御演説を拝聴致したのでありまするが、相変らず抽象的の大要に過ぎないのでありまして、之に依って、国政に対する現内閣の抱負経綸を知ることは勿論出来ない、併しながら私は今日此の場合に於て、是等の問題、即ち 第一は支那事変の処理、 第二は国際問題、 第三は国内問題、 是等の三問題全部を通じて質問を致す時間の持合せもありませぬから、此の中の中心問題でありまする所の支那事変の処理、之に付て私の卑見を述べつつ、主として総理大臣の御意見を求めて見たいのであります。 支那事変の処理は申すまでもなく非常に重大なる問題であります、今日我国の政治問題として是以上重大なる所の問題はない、のみならず今日の内外政治は何れも支那事変を中心として、此の周囲に動いて居るのである、それ故に吾々は申すに及ばず、全国民の聴かんとする所も固より茲にあるのであります、 一体支那事変はどうなるものであるか、 何時済むのであるか、 何時まで続くものであるか、 政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、 国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待せない者は恐らくー人もないであろうと思う、曩に近衛内閣は事変を起しながら其の結末を見ずして退却をした、平沼内閣は御承知の通りである、阿部内閣に至って初めて事変処理の為に邁進するとは声明したものの、国民の前には事変処理の片鱗をも示さずして総辞職してしまった、現内閣に至って初めて此の問題をこの議会を通して国民の前に曝け出す所の機会に到来したのであります、 是に於て私は総理大臣に向って極めて率直に御尋をするのである、支那事変を処理すると言わるるのであるが、 其の処理せらるる範囲は如何なるものであるか、 其の内容は如何なるものであるか、 私が聴かんとする所は茲に在るのであります、 私の見る所を直言致しまするならば、元来今回の事変に付きましては、当初支那側は申すに及ばず、我が日本に於きましても確に見込違いがあったに相違ないのであります、即ち我国より見まするならば、其の初めは所謂現地解決、事変不拡大の方針を立てられたのでありまするが、其の方針は支那側の挑戦行為に依って立どころに裏切られ、其後事変は日に月に拡大し、躍進に躍進を重ねて遂に今日の現状を見るに至ったのであります、支那側の見込違い、是は言うを要しないのであります、 此処にご参考の為に引用すべき文書があります、是は昨年十二月十三日、内閣情報部より発行せられたる所の週報でありまするが、此の中に「支那事変を解決するもの」と題して支那派遣軍総司令部報道部長の名を以て一の論文が掲載せられて居るのである、此の中に如何なることが現われて居るかと見ると、 「 抑々此の戦争は、支那人、殊に蒋介石の日本に対する認識不足と、其の日本の実力誤算から出発し、又日本の支那に対する研究不足と認識不足とに依って始められ、又深められて来た」 云々と記載されてある、即ち此の度の事変は支那が日本に対する所の認識不足、又日本が支那に対する所の認識不足、此の二つの原因に依って始められ、又是が深められたものに相違ない、 併しながら翻って考えて見ますると、仮令此の認識不足なしと雖も、日支両国の間に於きましては早晩一大事変か起こらざるを得ない其の禍根が、何れの所にか隠れて居った、其の機運が熟して居った、それが彼の北支の一角蘆溝橋に於ける支那側の不法射撃、此の事実に触れて外部に爆発したに過ぎないのでありまして、是は仕方がない、所謂運命であります、両国間に蟠る所の運命でありますから、是は仕方がない、 併しながらその後事変は益々進展して、彼我の勢力並に勝敗の決も明になりました以上は、成べく速に此の事変を収拾する、そうして出来るならば再び斯の如き事変が起らないように、日支両国の間に横わる一切の禍根を斐除して、以て和平克復を促進することは独り日本の政治家の責任であるのみならず、実に支那の政治家の責任であると私は思うのであります、 唯問題はどうして是等の禍根を取除くことが出来るか、どうしたならば将来の安全を保障することが出来るか、吾々は支那の立場を考うるとともに、主として日本の立場を考えねばならぬのである、 そこで先づ第一に吾々が支那事変の処理を考うるに当りましては、寸時も忘れてならぬものがあるのであります、それは何であるか、外の事ではない、此の事変を遂行するに当りまして、過去二年有半の長きに亘って我が国家国民が払いたる所の絶大なる犠牲であるのてあります、即ち此の間に於きまして我が国民が払いたる所の犠牲、即ち遠くは海を越えて彼の地に転戦する所の百万二百万の将兵諸士を初めとして、近くは之を後援する所の国民が払いたる生命、自由、財産其の他一切の犠牲は、此の壇上におきまして如何なる人の口舌を以てするも、其の万分の一をも尽すことは出来ないのであります。 (拍手) 而も是等の犠牲は今日を以て終りを告げるのではない、将来久しきに亘る、今後幾年に亘るかということは、今日何人と雖も予言することが出来ない状態にあるのであります、実に此の度の事変は、名は事変と称するけれども、其の実は戦争である、而も建国以来未だ曾て経験せざる所の大戦争であります、随て其の犠牲の大なると共に、其の戦果に至っても亦実に驚くべきものがある、昨日も此の議場に於て陸軍大臣の御話がありました通り、今日の現状を以て見まするならば、我軍の占領地域は実に日本全土の二倍以上に跨って居るのであります、而して是等の占領は如何にして為されたものであるか、何れも忠勇義烈なる我が皇軍死闘の結果である、即ち是が為には、十万の将兵は戦場に屍を埋めて居るでありましょう、之に幾倍する数十万の将兵は、悼ましく戦傷に苦しんで居るでありましょう、百万の皇軍は今なお戦場に留まって、有ゆる苦難と闘って居るに相違ない、斯くして得られたる所の此の戦果、斯くして現われたる所の此の事実、之を眼中に置かずしては、何人と雖も事変処理を論ずる資格はない。 (「ヒヤヒヤ」拍手) 諸君も御承知の如く、我国は曾て四十余年前に支那と戦った、三十余年前に露西亜と戦った、是等の戦は何れも国運を賭したる戦いであったに相違はございませぬが、今回の戦と比べまするならば、其の規模の大なること、其の犠牲の大なること、日を同じくして語るべきものではない、然るに是等の戦は、如何なる条件を以て、和平克復を見るに至ったかと云うことは、歴史が之を明記して居りまするから、茲に述べる必要はない、 それ故に之を過去の歴史に鑑み、又之を東亜における大日本帝国の将来に鑑み、之を基礎として、以て事変処理の内容を充実するにあらざれば、出征の将士は言うに及ばず、日本全国民は断じて之を承知するものではない。 (「ヒヤヒヤ」拍手) 政府に於て其の用意があるかないか、私が問わんとする所は茲にあるのであります、米内首相は事変処理に付ては、既に確乎不動の方針が定められて居る、斯く声明せられて居るのでありまするが、其の方針とは何であるか、所謂近衛声明なるものであるに相違ない、即ち一昨年十二月二十二日に発表せられた所の近衛声明、是が事変処理に関する不動の方針であることは、申すまでもないことであります、 所が私は元来此の近衛声明なるものに向っては、聊か疑いを抱いて居るのであります、此の際誤解を防ぐが為に御断りをしておきます、きっぱりと御断りをして置きまするが、私は今俄に近衛声明に反対をする者ではない、さりとて賛成をする者でもない、賛成をするか反対をするかは、政府の説明を聴いて、然る後に於て考える積りであります。 (拍手) 今日は質問であります、質問は読んで字のごとく疑いを質すのである、それ故に此の考えをもってご聴取を願いたいのであります、近衛声明の中にはどう云うことが含まれて居るかと言いますると、大体五つの事柄が示されて居るのであります、 其の一つは支那の独立主権を尊重すると云うことである、 第二は領土を要求しない、償金を要求しないということである、 第三は経済関係に付ては、日本は経済上の独占をやらないと云うことである、 第四は支那に於ける第三国の権益に付ては、之を制限せよと云う如きことを支那政府には要求しない、 第五は防共地域である所の内蒙附近を取除く其の他の地域より、日本軍を撤兵すると云うことであります、 此の五つが近衛声明に含まれて居る所の要項である、而して此の声明はただ日本のみに対する声明でなければ、又支那のみに対する声明でもない、実に全世界に対する所の声明でありまするから、如何なることがあっても之を変更することが出来るものではない、絶対に是は変更を許さないのである、 若し苟且にも之を変更するが如きことがありますならば、我国の国際的信用は全く地に墜ちてしまうのであります、唯そればかりではない、ご承知の如く彼の汪兆銘氏、同氏は此の近衛声明に呼応して立ち上ったのである、即ち此の近衛声明を本として、和平救国の旗を押し立てて、新政権の樹立に向って進んで来て居るのである、其の後同氏は屡々声明書を発表して居りまするが、此の声明書を見ますると、徹頭徹尾近衛声明を文字通り、額面通りに解釈をして居るのである、即ち同氏が屡々発表しました所の声明書、此の声明書に現われて居る所の文句を、其の儘取って来て総合しますると、こういうことになるのであります、 近衛声明の如くであったならば支那に取っては別に不利益はない、日本は此の声明によって全く侵略主義を放棄したのである、日本は是まで侵略主義を執って居ったが、近衛声明に依って侵略主義を放棄したのであると言うて居る、日本が侵略主義を放棄したと云うことは、即ち軍事上に於ては征服を図らず、経済に於ては独占を考えないと云うことである、 斯くの如く日本が戦争中に於て反省したる以上は、中国も亦深く自ら反省する所があって、一日も速に和平を実現せねばならぬ、 而して斯くの如き和平は絶対に平等の立場に於て結ばねばならぬ、戦勝者が戦敗者に対する態度はー切放棄すべきである、随って和平条件は決して支那国家の独立自由を害するものではないから、何人と雖も和平の実現を拒むことは出来ない、 声明書に現われて居りまする所の文句を其の儘取って来て総合すると、斯くの如きものになるのである、そうして此の声明を発表して爾来一年有余の間、和平運動の為に進んで来て居るのであります、それですから御承知の通り支那民衆、蒋介石一派よりは実に言うに堪えざる所の攻撃を受け迫害せられ、身を挺して和平運動の為に進軍して来て居るのであります、 それ故に同氏の立場から見れば、徹頭徹尾此の声明をば裏切ることは出来ない、若しこれを裏切るか如きことかありましたならば、和平運動、延いては新政権の樹立は根本から崩壊せられてしまうのである、 是に於て私は政府に向って御尋ねをするのである、支那事変処理の範囲と内容は如何なるものであるか、重ねて申しまするが、 支那の独立主権は完全に尊重する、 支那の独立主権を完全に尊重する以上は、将来支那の内外政治に向っては苟且にも干渉がましきことは出来ない、若し干渉がましきことを為したならば、支那の独立主権は立ちどころに侵害せられるのである、 領土は取らない、償金はとらない、 支那事変の為にどれだけ日本の国費を費やしたかと云うことは私は能く分りませぬ、併しながら唯軍費として吾々が此の議会において協賛を致しましたものだけでも、今年度までに約百二十億円、来年度の軍費を合算致しますると約百七十億円、是から先どれだけの額に上るかは分らない、二百億になるか三百億になるか、それ以上になるか一切分らない、それ等の軍費に付ては一厘一毛と雖も支那から取ることは出来ない、悉く日本国民の負担となる、日本国民の将来を苦しめるに相違ない、 また経済開発に付ては、決して日本のみが独占をしない、 支那の経済開発と云うことが叫ばれて居りまするが、是も日本だけが独占をすべきものではない、 第三国権益を制限するが如きことは支那政府に向っては要求しない、 是まで我国の政治家は国民の前に何と叫んで居ったか、此の度の支那事変は、支那より欧米列国の勢力を駆逐する、欧米列国の植民地状態、第三国から搾取せられて居る所の支那を解放して、之を支那人の手に戻すのであると叫んで居ったのでありますが、是は近衛声明とは全然矛盾する所の一場の空言であったと云うことに相成るのであります、 其の他占領地域より日本軍全部を撤兵すると云うのである、 残る所に何があるか、それが私には分らないのであります、殊に日本軍の撤兵に付いては、汪兆銘氏が如何なることを言うて居るかと云うと、第一次声明の中に斯う云うことが現われている、 近衛声明において特別重要なる点は日本軍の支那からの撤兵である、そうして其の撤兵は全部が急速に且つ有ゆる方面に於て一斉に行われねばならぬということである。即ち撤兵は、全部が急速にあらゆる方面に於て一斉に行われねばならぬと云うことである、唯提案せられたる所の日支防共協定の存続期間に限って、日本軍の駐屯すべき所謂特定地区は唯内蒙の付近のみに制限せられなければならない、 斯様に汪兆銘氏は声明して居りまするが、之を近衛声明と対照しますると、少しも間違いはないのであります、然る以上は是より新政権を対手に和平工作を為すに当りましては、 支那の占領区域から日本軍を撤退する、 北支の一角、内蒙附近を取除きたる其の他の全占領地域より日本軍全部を撤退する、 過去二年有半の長きに亘って、内には全国民の後援の下に、外に於ては我が皇軍が悪戦苦闘して進軍しました所の此の占領地域より日本軍全部を撤退すると云うことである、是が近衛声明の趣旨でありますか、政府は此の趣旨を其の儘実行する積りでありますか、是が私は聴きたいのであります、総理大臣は言うに及ばず、軍部大臣に於ても此の点に付て御説明を煩わして置きたい。 第03段落 次に事変処理に付ては東亜の新秩序建設と云うことが繰り返されて居ります、此の言葉は昨日以来此の議場においてもどれだけ繰り返されているか分らない、 元来此の言葉は事変の初めにはなかったのでありますが、事変後約一年半の後、即ち一昨年十一月三日近衛内閣の声明によって初めて現われた所の言葉であるのであります、東亜の新秩序建設と云うことはどういうことであるか、昨日外務大臣の御言葉にもあったように思いますが、近頃新秩序建設と云うことはこの東洋に於てばかりではない、欧羅巴に於ても数年来此の言葉が現われて居るのであります、 併しながら欧羅巴に於ける新秩序の建設と云うものは、詰り持たざる国が持てる国に向って領土の分割を要求する、即ち一種の国際的共産主義の如きものでありますが、其の後の実情を見ますると全然反対である、随分持てる所の大国が持たざる所の小弱国を圧迫する、迫害する、併呑する、一種の弱肉強食である、茲に至って欧羅巴に於ける新秩序建設の意味は全く支離滅裂、実に乱暴極まるものであります、 併し欧羅巴のことはどうでも宜い、欧羅巴に於ける新秩序の建設などは、吾々に於て顧る必要はない、此の東亜に於ける新秩序建設の内容は如何なるものがあるか、是も近衛声明及び之に呼応したる所の汪兆銘氏の声明を対照してみますると、新秩序建設には確かに三つの事柄が含んで居る、それは何であるか、 第一は善隣友好と云うことである、 第二は共同防共である、 第三は経済提携であります、 是が是までの公文書に現われて居る所の新秩序建設の内容でありまするが、政府の見る所も之に相違ないのであるか、新秩序建設と云うことが朝野の間において屡々謳われて居るのでありまするが、其の新秩序建設の実体は以上述べたる三つのことに過ぎないのであるか、尚お此の外に何ものがあるのであるか、なければ宜しい、あるならばそれを聴きたい、あっても言えないと言わるるならばそれでも宜しい、兎に角是ほど広く、是ほど強く高調せられている所の戦争の目的であり犠牲の目的である所の東亜新秩序建設の実体は、政府の見る所は何であるか、これを承って置けば宜しいのであります。 第04段落 之に関連して御尋ねをしておきたいことがある、此処に昨年十二月十一日附を以て発表せられたる東亜新秩序答申案要旨というものがある、是は興亜院に於て委員会を設けて審議せられたる所の其の答申案であります、之を見ますると云うと、吾々には中々難しくて分らない文句が大分並べてある、即ち 皇道的至上命令、 「うしはく」に非ずして「しらす」ことを以て本義とすることは我が皇道の根本原則、 支那王道の理想、 八紘一宇の皇謨、 中々是は難かしくして精神講話のように聞えるのでありまして、私共実際政治に頭を突込んで居る者には中々理解し難いのであります。 (拍手) 併しそれは別と致しまして、近頃になって東亜新秩序建設の原理原則とか、精神的基礎とか称するものを、特に委員会までも設けて研究しなくてはならぬと云うことは一体どう云うことであるか、東亜新秩序建設は此の大戦争、此の大犠牲の目的であるのでございます、然るに此の犠牲、戦争の目的である所の東亜新秩序建設が、事変以来約一年半の後に於て初めて現われ、更に一年の後に於て特に委員会までも設けて、其の原理、原則、精神的基礎を研究しなくてはならぬと云うことは、私共においてはどうも受取れないのであります、 (拍手) 此の点は総理大臣に限らず、興亜院の総裁で宜しいのでありますからして、何故興亜院に於ては特に委員会までも設けて、斯う云うことの研究に着手せられたのであるか、之を聴いて置きたいのであります、 昭和十五年二月三日付官報号外衆議院議事速記録第五号第四十三頁 第二段第十九行第五字目以下削除の部分左の如し 第05段落 私は是より一歩を進めまして少し私の議論を交えつつ政府の所信を聴いてみたい、政府に於ては斯ういうことを云われるに相違ない、又歴代の政府も言うて居る、何であるか、 此の度の戦争は是までの戦争と全く性質が違うのである、此の度の戦争に当っては、政府は飽くまでも所謂小乗的見地を離れて、大乗的の見地に立って、大所高所より此の東亜の形勢を達観して居る、そうして何ごとも道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂八紘一宇の精神を以て東洋永遠の平和、延いて世界の平和を確立するがために戦って居るのである、故に眼前の利益などは少しも顧る所ではない、是が即ち聖戦である、神聖なる所の戦いであるという所以である、 斯様な考えを持つて居らるるか分らない、現に近衛声明の中には確に此の意味が現われ居るのであります、其の言は洵に壮大である、その理想は高遠であります、併しながら斯くの如き高遠なる理想が、過去現在及び将来国家競争の実際と一致するものであるか否やと云うことに付ては、延いて考えねばならぬのであります。 (拍手) 苟も国家の運命を担うて立つ所の実際政治家たる者は、唯徒に理想に囚わるることなく、国家競争の現実に即して国策を立つるにあらざれば、国家の将来を誤ることがあるのであります。 (拍手) 現実に即せざる所の国策は真の国策にあらずして一種の空想であります、先ず第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、是は望ましきことではありまするが、実際是が実現するものであるか否やと云うことに付ては、お互に考えねばならぬことである、古来何れの時代に於きましても平和論や平和運動の止むことはない、宗教家は申すに及ばず、各国の政治家等も口を開けば世界の平和を唱える、又平和論の前には何人と雖も真正面からして反対は出来ないのであります、併しながら世界の平和などが実際得られるものであるか、是は中々難しいことであります、 私共は断じて得られないと思って居る、十年や二十年の平和は得られるか知れませぬが、五十年百年の平和すら得られない、歴史家の記述する所に依りますると、過去三十五世紀、三千四百幾十年の間に於て、世界平和の時代は僅に二百幾十年、残りの三千二百幾十年は戦争の時代であると言うて居る、斯くの如く過去の歴史は戦争を以て覆われて居る、将来の歴史は平和を以て満たさるべしと何人が断言することが出来るか (拍手) のみならず御承知の通りに近世文明科学の発達に依りまして、空間的に世界の縮小したること実に驚くべきものである、之を千年前の世界に比較するまでもなく、百年前の世界に比較するまでもなく、五十年前の世界に比較しましても、実に別世界の感が起こらざるを得ないのである、此の縮小せられたる世界に於て、数多の民族、数多の国家が対立して居る、其の上人口は増加する、生存競争は愈々激しくなって来る、民族と民族との間、国家と国家との間に競争が起らざるを得ない、而して国家間の争いの最後のものが戦争でありまする以上は、此の世界に於て国家が対立して居りまする以上は、戦争の絶ゆる時はない、平和論や平和運動が何時しか雲散霧消するのは是は已むを得ない次第であります、 若し之を疑われるのでありますならば、最近五十年間に於ける東洋の歴史を見ましょう、先程申上げました通りに、我国は曾て支那と戦った、其の時於ても東洋永遠の平和が唱えられたのである、次に露西亜と戦った、其の時にも東洋永遠の平和が唱えられたのである、又平和を目的として戦後の条約も締結せられたのてありまするが、平和が得られましたか、得られないではないか、平和が得られないからして今回の日支事変も起こって来たのである、 又眼を転じて欧羅巴の近状を見ようではありませぬか、御承知の通りに二十幾年前に欧羅巴はあの通りの大戦争をやった、五箇年の間国を挙げて戦った、戦争の結果はどうなったか、敗けた国は言うに及ばず、勝った国と雖も徹頭徹尾得失相償わない、其の苦き経験に顧みて、戦争などはやるものでない、凡そ世の中に於て戦争ほど馬鹿らしいものはない、それ故に未来永久、此の地球上からして戦争を絶滅する、其の目的、其の理想をもって国際連盟を作った、我が日本も五大強国のーとして之に調印して居るのであります、平和は得られましたか、国際連盟の殿堂はどうなって居るか、民族の発展欲、国家の発展欲は、紙上の条約などで以て抑制することが出来るものでない、十年経ち、二十年経つ間に於て又もや戦争熱が勃興して来る、欧羅巴の現状は活きた教訓を吾々の前に示して居るのであります、 或者は言うて居る、此の度の戦争は「ベルサイユ」条約が因である、「ベルサイユ」条約に於て独逸に向って苛酷なる所の条件を課したから、其の反動として今回の戦争が起こったのであると斯う言うて居る、一応の理窟であるに相違ない、併しなから「ベルサイユ」条約がなかったならば戦争は起こらなかったと誰が断言することか出来るか、第一次欧羅巴戦争の前に於きましては「ベルサイユ」条約はなかったのてありますけれども、戦争は起こったのである、 即ち人間の欲望には限りがない、民族の欲望にも限りがない、国家の欲望にも限りがない、屈したるものは伸びんとする、伸びたものは更に伸びんとする、茲に国家競争が激化するのであります、尚お之を疑う者があるならば、更に遡って過去数千年の歴史を見ましょう、世界の歴史は全く戦争の歴史である、現在世界の歴史から… (発言する者多し) (議長 「静粛に」) 戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。 (「君のような自由主義者が多いからだ」と呼ぶ者あり) そうしてーたび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争いではない、是非善悪の争いではない、徹頭徹尾力の争いであります、強弱の争いである、強者が弱者を征服する、これが戦争である、正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味ではない、先程申しました第一次欧羅巴戦争に当りましても、随分正義争いが起こったのであります、独逸を中心とする所の同盟側、英吉利を中心とする所の連合側、何れも正義は我に在りと叫んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか、正義が勝って不正義が敗けたのでありますか、そうではないのでありましょう、正義や不正義は何処かへ飛んで行って、詰まり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであります、今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わして居りますが、此の正義論の価値は知るべきのみであります、詰まり力の伴わざる所の正義は弾なき大砲と同じことである。 (拍手) 羊の正義論は狼の前には三文の値打もない、欧羅巴の現状は幾多の実例を吾々の前に示して居るのであります、 斯くの如き事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない、正邪曲直の競争でもない徹頭徹尾力の競争である。 (拍手) 世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります、吾々は偽善を排斥する、飽くまでも偽善を排斥して、以て国家競争の真髄を掴まねばならぬ、国家競争の真髄は何であるか、曰く生存競争である、優勝劣敗である、適者生存である、適者即ち強者の生存であります、強者が興って弱者が亡びる、過去数千年の歴史はそれである、未来永遠の歴史も亦それでなくてはならないのであります。 (拍手) 此の歴史上の事実を基礎として、吾々が国家競争に向うに当りましては、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ、自国の力を養成し、自国の力を強化する、是より外に国家の向うべき途はないのであります。 (拍手) 第06段落 彼の欧米の基督教国、之を見ようではありませぬか、彼等は…… (「もう宜い」「要点要点」と呼び、其の他発言する者多し) (議長「静粛に願います」) 彼等は内にあっては十字架の前に頭を下げて居りますけれども、一たび国際問題に直面致しますと、基督の慈善博愛は蹴散らかされてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする、是が即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります、 此の現実を無視して、唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば (小田栄君「要点を言え、要点を」と呼び、其の他発言する者多し) (議長「静粛に願います、小田君に注意致します」) 現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。私は此の考えを以て近衛声明を静に検討して居るのであります、即ち之を過去数千年の歴史に照し、又之を国家競争の現実に照して… (発言する者多し) (議長「静粛に願います」) 彼の近衛声明なるものが、果して事変を処理するに付て最善を尽したるものであるかないか、振古未曽有の犠牲を払いたる此の事変を処理するに適当なるものであるかないか、東亜に於ける日本帝国の大基礎を確立し、日支両国の間の禍根を一掃し、以て将来の安全を保持するに付て適当なるものであるかないか、之を疑う者は決して私一人ではない。 (拍手) 苟も国家の将来を憂うる者は、必ずや私と感を同じくして居るであろうと思う、それ故に近衛声明を以て確乎不動の方針なりと声明し、之を以て事変処理に向わんとする現在の政府は、私が以上述べたる論旨に対し逐一説明を加えて、以て国民の疑惑を一掃する責任があるのであります。 (拍手) 第07段落 私は更に進んで重慶政府と、近く現われんとする所の新政府との関係に付て御尋を致したいのであります、昨年八月阿部内閣が成立致しました当時に於ては、汪兆銘氏を首班とする所の新政府は、今にも現われんとするが如き噂が立てられたのてありますが、それが段々と延引して今日に至って居るのである、併し聞く所に依れば、愈々近く其の成立を見んとするのでありますから、是は日支両国の為に洵に慶賀に堪えないことであります、我国は曩に蒋政権を撃滅するまでは断じて戈を収めない、国民政府を対手にしては一切の和平工作をやらないと宣言して居る、然る以上は新に生るる所の新政府、之を援けて以て和平調整を為さねばならぬ、之に付ては誰一人として反対する者はないのであります、 併しながら退いて考えて見ますると、一体此の新政府はどれだけの力を持って現われるのであるか、是が私共には分らないのであります、申すまでもなく苟も国際間に於て、又国際法上に於て、政府として立ちまする以上は、内に向っては国内を統治する所の実力を備え、外に向っては国際義務を履行する所の能力を有する、此の内外両方面の条件を兼備するものにあらざれば、政府として立つことも出来ねば、政府として之を承認することも出来ない筈であります、其の実力とは何であるか、即ち兵力であります、軍隊の力であります、如何に法制を整えても、如何に政治機構を打建てても、又如何に文章口舌に巧みでありましても、兵力を有せざる政府の威令が行わるる訳がない、殊に之を支那歴朝創業の跡に顧みましても、旧王朝を滅して新王朝を創業する、旧政権を倒して新政権を建設する者は、悉く武人であります、即ち兵馬の間に天下の権を握らざる者はないのである、 彼の孫逸仙が革命事案に向って精力を傾倒したに拘らず、其の業が成らず志を得ずして終に最期を遂げたのは何が故であるか、詰り彼が武人にあらず、武力を有しなかったからであります、之に反して彼の後輩でありまする所の蒋介石が、一時なりとも支那を統一したのは何が故であるか、彼は武人であって武力を有しておったからであります、殊に近頃支那の形勢を見渡しますると云うと、我軍の占領地域であり、同時に新政権の統轄地域である所に於てすら、匪賊は横行する、敗残兵は出没する、国内の治安すら完全に維持することが出来ない、加うるに新政府と絶対相容れざる所の彼の重慶政府を撃滅するにあらざれば、新政府の基礎は決して確立するものではない、それ故に新しき政府を打建てる第一の条件は、何といっても兵力でありまするが、将に現われんとする所の新政府には其の力があるのであるのであるか、ないのであるか、之に付て御説明を煩わしたいと思うのであります。 第08段落 次に新政府が現われましたならば、我国は何としても之を承認せざるを得ないのであります、之を承認すると同時に此の新政府の発展に向っては、極力之を支持せねばならぬのである、支持すべきことを既に声明せられて居る以上は、此の声明を何処までも履行しなければならない、即ち是が為には政治上に於ても、軍事上に於ても、又経済上に於ても、其の他有ゆる犠牲を払って此の新政府を援けねばならぬのである、そうして新政府を援けて将来名実共に完全なる独立政府とした其の後に於て、我国との関係が極めて円満に持続せらるるものであるかないか、是も大切なる問題であるのであります、私共は決して新政府を疑う者ではない、殊に汪兆銘氏を首めとして、身を挺して和平救国の為に奮闘して居る所のあの支那の政治家諸氏に対しては、衷心より敬意を払う者であります。 併しながら、国の異なるに従って国民性にも違いがある、是は仕方がない、現に汪兆銘氏は一昨年の暮に重慶脱出以来、屡々声明書を発表して、蒋介石に向って和平勧告をしたのであります、併しながら蒋介石は之を一蹴して顧みない、そこで昨年の七月には断然として蒋介石に向って絶縁状を送って居る、然るにも拘らずつい最近一月の十六日でありまするか、それこそ辞を卑くし、言葉を厚くして蒋介石に向って停戦講和の通電をやって居る、是は支那の政治家に於て初めて出来ることでありまして、吾々日本の政治家に於ては想像も及ばないことである、それ故に新政府を援助することは宜しいが、新政府の将来に向って決して盲目であってはならない、之に付て総理大臣はどう云う考えを持って居られるのであるか、之を一つ承って置きたいのであります。 第09段落 次に新政府が出来た後に於て重慶政府との関係はどうなるものであるか、之に付きましては前内閣の阿部首相は新聞を通じて、斯う云う意見を述べて居らるるのであります、即ち新政権が出来たならば、新政権は重慶政府に向って働き掛けるであろう、新政権樹立の趣旨が徹底したならば、重慶政府も一緒になって和平救国の途に就くであろう、斯う云う意見を述べて居られるのであります、是は決して前阿部首相一人の意見ではない、今日政府の要人の中には、確に此の意見を持って居る人があるのであります、是が私には分り兼ねるのである、新政権と重慶政府、どう考えても是が将来一致するものであるとは思えないのであります、なぜに一致しないか、御承知の通りに重慶政府は徹頭徹尾容共抗日を以て其の指導精神と為し、之を基として長期抗戦を企てて居るのである、然るに之に反して新政府は反共親日をもって指導精神と為し、之を以て新政府の樹立に向って進んでいるのである、
此の氷炭相容れざる二つのものがどうして一緒になることが出来るか、私共に於てはどうも是は想像が付かない、是は唯理窟ばかりの問題ではなくして、支那の現状を見ましても斯様なことは到底想像することが出来ないのである、殊に先程申しましたように、蒋介石を徹底的に撃滅するにあらざれば断じて戈を収めない、此の鉄の如き方針が確立して、之を以て有ゆる作戦計画が立てられて居るべき筈であるのであります、先程引用致しました所の此の文書の中に於きましても、確に其の意味は現われて居るのである、即ち 重慶政府が出来た所が蒋介石は決して兜を脱がない、重慶政府が屈服しない限りは日本軍は飽くまでも重慶討伐に向って進軍するのである、汪兆銘は日本の重慶討伐に便乗して戦うのである、 是が軍部の方針であるに相違ないのであります、然るに前内閣の首相及び政府の要人は彼の如き気楽なる考を持って居る、支那事変処理の根本方針に付て政府と軍部との間に於て何か意見の相違があるらしくも思えるのであります、是は前内閣のやったことでありまして、現内閣のやったことではないのてありまするが、併し支那事変の処理に付ては前内閣の方針を踏襲すると言われた所の現内閣の総理大臣は、之に付ても相当のお考えがあるには相違ないと思いまするから、此の点も併せて伺って置きたいのであります。 第10段落 次に重慶政府に対する方針、重ねて申しまするが、蒋政権を撃滅するにあらざれば断じて戈は収めない、蒋介石の政府を対手としては一切の和平工作はやらない、この方針は動かすべからざるものでありまするが、其の後蒋介石は敗戦に次ぐに敗戦をもってして、今日は重慶の奥地に逃込んで、一地方政権と堕して居るとはいうものの、今尚お大軍を擁して長期抗戦を豪語し、有ゆる作戦計画をして居るように見受けられるのであります、固より之に付ては我方に於きましても確乎不抜の方針が立てられて居るに相違ありませぬが、併し前途のことは是は測り知ることが出来ない、然るに一方に於ては何処までも新政権を支持せねばならぬ、有ゆる犠牲を払って之を支持せねばならぬ、即ち一方に於ては蒋介石討伐、他の一方に於ては新政権の援助、我国は是より此の二つの重荷を担うて進んで行かなければならぬのでありますが、是が我が国力と対照して如何なる関係を持って居るものであるか、私共決して悲観するものではない、悲観するものではないが、是が人的関係の上に於て、物的関係の上に於て、又財政経済の関係に於て如何なるものてあるかと云うことは、全国民が聴かんとする所であると思うのであります。 (拍手) それ故に此の点に付きましては総理大臣は申すに及ばず、関係大臣に於て出来得る限りの説明を与えられたい、吾々は固より言えないことを聴こうとするのではない、外交上、軍事上、其の他経済財政の関係に於きましても、言えないことがあることは能く承知して居るのでありますから、言えないことを聴かんとするのではない、此の議場に於て言えるだけの程度に於て、成べく詳しく御説明を願いたいと思うのであります。 最後に支那全体を対象として、今後の形勢に付て政府の意見を聴いて置きたいことがある、申すまでもなく支那は非常な大国であります、其の面積に於きましても日本全土の十五倍に上って居る、五億に近い人口を有して居る、我国の占領地域が日本全土の二倍半であると致しますならば、まだ十二倍半の領土が支那に残されて居るのであります、此の広大なる所の領土に加うるに、之に相当する所の人口を以てして、之を統轄する所の力を有する者でなければ、支那の将来を担って立つことは出来ない、近く現われんとする所の新政府は是だけの力があるのであるか、私共如何に贔屓目に見ましても、此新政府に是だけの力があるとはどうも思えないのであります、 そうするとどうなるのでありますか、若し蒋介石を撃滅することが出来ないとするならば、是は最早問題でない、縦し之を撃滅することが出来たとしても、其の後はどうなる、新政府に於て支那を統一する所の力があるのでありますか、あると言わるるならば其の理由を私は承って置きたい、若し其の確信がないとせらるるならば、支那の将来はどうなるか、各所に於て政権が分立して、互に軋轢して摩擦を起す、新秩序の建設も何もあったものではないのであります。 (拍手) そうして斯くの如き状態が支那に起るのは何が基であるかと云うと、詰まり蒋政権を対手にしては一切の和平工作をやらない、即ち一昨年の一月十六日、近衛内閣に依って声明せられました所の爾来国民政府を対手にせず、之に原因して居るものではないかと思うが、政府の所見は如何であるか。 而して若し今後此の方針を固く守って進みますならば、表面に於ても裏面に於ても、公式非公式を問わず、一切重慶政府を対手としてはならないのである、又我国が之を対手とすることが出来ないのみならず、近く現われんとする所の新政権も、断じて重慶政府を対手にすることは出来ない筈なのであります、我が日本は対手にしはしないが、新政府は之を対手にしても宜いと云うことは、是は言われない、なぜならば新政府に対しては日本は干渉はしないが指導するのである、即ち新政府に対して日本は指導的立場に立って居るのでありまするから、若し新政府が重慶政府に向って何か交渉の途を開くと仮定致しまするならば、是は誰が見た所が日本の指導に基づくものに相違ないと思う、又思われても仕方がないのであります、そうすると支那の将来はどうなるものでありますか、何時まで経っても此の現状をば精算することは出来ないと思われるのでありまするが、政府は此の点に付てどう云う御考えを持って居られるのでありますか、是も併せて伺いたいのであります。 (拍手) 第11段落 私の質問は大体以上を以て終りを告げるのでありまするが、最後に於て一言を残して、併せて政府の所信を質しておきたいことかある、改めて申すまでもござりませぬが、支那事変は実に建国以来の大事件であります、建国以来二千六百年、此の間に於て我国は幾度か外国と事を構えたことはありまするけれども、今回の事変の如く其の規模の広大なるもの、其の犠牲の大なるものはないのであります、随て此の事変が如何に処理せられ、如何に解決せらるるかと云うことは、実に我が日本帝国の興廃の岐るる所であります、事変以来今日に至るまで吾々は言わねばならぬこと、論ぜねばならぬことは沢山あるのでありまするが、是は言わない、是は論じないのであります、吾々は今日に及んで一切の過去を語らない、又過去を語る余裕もないのであります、一切の過去を葬り去って、成べく速に、成べく有利有効に事変を処理し、解決したい、是が全国民の偽りなき希望であると同時に、政府として執らねばならぬ所の重大なる責任であるのであります。 (拍手) 歴代の政府は国民に向って頻りに精神運動を始めて居る、精神運動は極めて大切でありまするが、精神運動だけで事変の解決は出来ないのである、況や此の精神運動が国民の間にどれだけ徹底して居るかと云うことに付ては、此の際政府としても考え直さねばならぬことがあるのではないか。 (拍手) 例えば国民精神総動員なるものがあります、この国費多端の際に当って、随分巨額の費用を投じて居るのでありまするが、一体是は何を為して居るのであるかは私共には分らない。 (拍手) 此の大事変を前に控えて居りながら、此の事変の目的は何処にあるかと云うことすらまだ普く国民の間には徹底して居らないようである。 ([ヒヤヒヤ』拍手) 聞く所に依れば、何時ぞや或る有名な老政治家が、演説会場に於て聴衆に向って今度の戦争の目的は分らない、何の為に戦争をして居るのであるか自分には分らない、諸君は分って居るのであるか、分って居るならば聴かして呉れと言うた所が、満場の聴衆一人として答える者がなかったと云うのである。 (笑声) 此処が即ち政府として最も注意をせねばならぬ点であるのである、殊に… (「注意しろ」「議長」と呼ぶ者あり) (議長「静粛に願います」) 国民精神に極めて重大なる関係を持って居るものであって、歴代の政府が忘れて居る所の幾多の事柄があるのであります、例えば戦争に対する所の国民の犠牲であります、何時れの時に方りましても戦時に当って国民の犠牲は、決して公平なるものではないのであります、即ち一方に於ては戦場に於て生命を犠牲に供する、或は戦傷を負う、然らざるまでも悪戦苦闘して有ゆる苦艱に耐える百万二百万の軍隊がある、又仮令戦場の外に居りましても、戦時経済の打撃を受けて、是までの職業を失って社会の裏面に蹴落される者もどれだけあるか分らない、然るに一方を見ますると云うと、此の戦時経済の波に乗って所謂殷賑産業なるものが勃興する、或は「インフレーション」の影響を受けて一攫千金は愚か、実に莫大なる暴利を獲得して、目に余る所の生活状態を曝け出す者もどれだけあるか分らない。 (拍手) 戦時に当っては已むを得ないことではありますけれども、政府の局に在る者は出来得る限り此の不公平を調節せねばならぬのであります、 然るに此の不公平なる所の事実を前に置きながら、国民に向って精神運動をやる、国民に向って緊張せよ忍耐せよと迫る、国民は緊張するに相違ない、忍耐するに相違ない、併しながら国民に向って犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。 (拍手) 是と同時に政府自身に於ても真剣になり、真面目になって、以て国事に当らねばならぬのではありませぬか。 (「ヒヤヒヤ」拍手) 然るに歴代の政府は何を為したか、事変以来歴代の政府は何をなしたか。 (「政党は何をした」[黙って聞け」と呼ぶ者あり) 二年有半の間において三たび内閣が辞職をする、政局の安定すら得られない、斯う云うことでどうして此の国難に当ることが出来るのであるか、畢竟するに政府の首脳部に責任観念が欠けて居る。 (拍手) 身を以て国に尽す所の熱力が足らないからであります、畏多くも組閣の大命を拝しながら、立憲の大義を忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的基礎を有せず、国政に対して何らの経験もない、而も其の器にあらざる者を拾い集めて弱体内閣を組織する、国民的支持を欠いて居るから、何事に付ても自己の所信を断行する所の決心もなければ勇気もない、姑息倫安一日を弥縫する所の政治をやる、失敗するのは当り前であります。 (拍手) 斯う云うことを繰返して居る間に於て事変は益々進んで来る、内外の情勢は愈々逼迫して来る、是が現時の状態であるのではありませぬか、之をどうするか、如何に始末をするか、朝野の政治家が考えねばならぬ所は茲に在るのであります、 吾々は遡って先輩政治家の跡を追想して見る必要がある、日清戦争はどうであるか、日清戦争は伊藤内閣に於て始められて伊藤内閣に於て解決した、日露戦争は桂内閣に於て始められて桂内閣が解決した、当時日比谷の焼打事件まで起りましたけれども、桂公は一身に国家の責任を背負うて、此の事変を解決して然る後に身を退かれたのであります、伊藤公と云い、桂公と云い、国に尽す所の先輩政治家は斯くの如きものである、然るに事変以来の内閣は何であるか、外に於ては十万の将兵が殖れて居るに拘わらず、内に於て此の事変の始末を付けなければならぬ所の内閣、出る内閣も出る内閣も輔弼の重責を誤って辞職をする、内閣は辞職をすれば責任は済むかは知れませぬが、事変は解決はしない、護国の英霊は蘇らないのであります。 (拍手) 私は現内閣が歴代内閣の失政を繰返すこと勿かれと要求をしたいのであります、 事変以来我が国民は実に従順であります、言論の圧迫に遭って国民的意思、国民的感情をも披瀝することが出来ない、殊に近年中央地方を通じて、全国に弥漫して居ります所の彼の官僚政治の弊害には、悲憤の涙を流しながらも黙々として政府の命令に服従する、政府の統制に服従するのは何が為であるか、一つは国を愛する為であります、又一つは政府が適当に事変を解決して呉れるであろう、之を期待して居るが為である、 然るに若し一朝此の期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国民心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある。 (拍手) 而も此の事が、国民が選挙し国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならば尚お忍ぶべしと雖も、事実全く反対の場合が起ったとしたならば、国民は実に失望のどん底に蹴落されるのであります、国を率いる所の政治家は茲に目を着けなければならぬ、 繰り返して申しまするが、事変処理は有ゆる政治問題を超越する所の極めて重大なる所の問題であるのであります、内外の政治は悉く支那事変を中心として動いて居る、現に此の議会に現われて来まする所の予算でも増税でも、其他有ゆる法律案は何れも直接間接に事変と関係を持たないものはないでありましょう、それ故に其の中心でありまする所の支那事変は如何に処理せらるるものであるか、其の処理せらるる内容は如何なるものであるか、是が相当に分らない間は、議会の審議も進めることが出来ない筈なのである、私が政府に向って質問する趣旨は茲にあるのでありまするから、総理大臣は唯私の質問に答えるばかりではなく、尚お進んで積極的に支那事変処理に関する所の一切の抱負経綸を披瀝して、此の議会を通して全国民の理解を求められることを要求するのである。 (拍手) 私の質問はこれをもって終りと致します。 (拍手) (発言する者あり) (議長「野溝君に御注意致します」) 12(国務大臣米内光政君登壇) 国務大臣(米内光政君)お答致します 支那事変処理に関する帝国の方針は確乎不動のものであります。政府はこの方針に向って邁進せんとするものてあります。戦争と平和に関するご意見は能く拝聴致しました。以下具体的問題についてお答を致します。 支那側の新中央政府に関する帝国の態度は如何、こういうご質問であります。汪精衝氏を中心とする新中央政府は、東亜新秩序建設につきまして、帝国政府と同じ考えを持っておりますから、帝国と致しましては、新政府が真に実力あり、かつ国交調整の能力あるものであるということを期待致しまして、その成立発展を極力援助せんとするものであります。 (拍手) その次に新政府樹立後、これと重慶政権との関係は如何というご質問でありまするが、新政府が出来上りまして、差当り重慶政府と対立関係となるということは、やむを得ないものと考えておりまするが、重慶政府が翻意解体致しまして新政府の傘下に入ることを期待するものであります。 次に国内問題でありまするが、政府は東亜新秩序建設の使命を全うせんがために、鞏固なる決意のもとに手段を尽して断乎時局の解決を期している次第であります。この興亜の大事案を完成しまするためには、労務、物資、資金の各方面に亘りまして、戦時体制を強化整備致しまして、国家の総力を挙げて、本問題処理のために総合集中することが肝要でありまして、これがために真に挙国一致、不抜の信念に基づきまする国民の理解と協力とを得ることが必要であると存ずるのであります (拍手) http://fanblogs.jp/kokochan/archive/55/0
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